FC2ブログ

【Rubin's work ~ 覚醒・瞑想・気づきのワーク ~】          

2018/07/14

覚醒を具体的に体感・定着するワークを、東京・大阪 で開催しています。

5歳で最初の覚醒体験→過敏な幼少期→南米滞在での 目覚め→
エゴの暗黒期→瞑想による認識の転換→カルマ の清算→
一元と二元の矛盾の決着

といった自身のプロセスをふまえ、一瞥体験を超えた認識転換のポイントを
微細な領域まで踏み込んでお伝えします。


プロフィール
⇒ AYA プロフィールはこちら


r.jpg
⇒ Amazon 販売ページはこちら


※ワーク参加希望の方は、メルマガ登録をお願いします。
⇒ ご登録フォームはこちら



関連記事 ⇒ <0.はじめに> Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために 【全文掲載】

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ プロフィール

【「願望実現」「贖罪」「一切皆苦」 覚醒からのつぶやき 47】     

2021/06/08

つぶやきをランダムにまとめました。

ドナルド


◆生は死の準備じゃない
死は生の準備じゃない

◆「自分で倒せる動物だけ食べよ」
という考え方がある。
そうすると、鯨や牛や豚は無理だが、鶏や魚
ぐらいなら食べられそうということになる
(羊はギリギリ?)。
是非はともかく、原始的な捕食と食物連鎖の
観点からみれば一理ある。
ただし、これは「自分=身体(の大きさ)」
であるときの発想だ。

◆また「自分が与え得るエネルギーと同等の
エネルギーしか受け取れない」というのも
「自分=身体(のエネルギー)」という限定から
来る発想だ。
身体との同化を外せば、この世界のあらゆる
「等価交換」の限定は幻想であると気づく。

◆「すべての現象はエネルギーである」と言いながら、
自分というエネルギー量を限定しているのならば、
肉体と同化していることと何ら変わりはない。

◆「怒り」は関係としてとらえず、現象としてとらえる。
現象としての怒りには、怒る人も怒られる人もいない。

◆愛は、分離によって認識される。
「引き剥がされたものを戻そうとする磁力」
これを愛と呼んでいる。
分離のないところでは、愛を認識する者はいない。
完全にひとつになれば、愛は無に還る。

◆愛は、真実に気が狂わないための甘美な麻酔。

◆「夢が何でも叶う」のは、覚醒したからではなく、
まさに夢を見ているからです。

◆「悪人」は、いない。
「悪」と呼ばれるものと「人」と呼ばれるものが、
あるだけ。
「善人」は、いない。
「善」と呼ばれるものと「人」と呼ばれるものが、
あるだけ。

◆「その人そのもの」に対する怒りは持ちようがない。
「その人そのもの」は、何ひとつ為していないから。

◆仮に「そこにいる人」を、仮に「ここにいる私」
が、仮に憎んでいる。
仮に「そこにいる人」を、仮に「ここにいる私」
が、仮に愛している。

◆『~は、~を、~する』
覚醒には「は」「を」「する」はない。
「~」が「・」としてある。

◆報酬がないとヤル気が起こらないというけれど、
一挙手一投足がそのまま、大いなる報酬なんだ。
毎瞬毎瞬、果報をドブに捨てていたら、
神もヤル気をなくすよね 笑

◆人は、愛を食べて愛を糧にする。
愛は、神を食べて神を糧にする。
想念は、糧によって肥えていく。
肥えた想念は、新たに糧となる。
進化は、永遠に糧を必要とする。
このシステム自体が、苦なのだ。

◆教義の違いは、時間軸の違い。
始まりをどこに置くかの違い。
どれも間違いではないが、正しくもない。

◆「世界=苦」と言い張る人と「世界=愛」と
言い張る人の争いほど不毛なものはないね 笑
これ、実際に笑えないよ。

◆この世は幻だからといって、舞台セットのハリボテ
ではないし、ひとつのスクリーンに映し出された映像
というわけでもない。
幻には幻の現実と法則があって、幻の肉体は幻の痛み
を感じるし、幻の私は幻の苦を感じる。
だが、幻の苦は幻の慈悲では救えない。
だからこそ、そこに真実の手触りがある。

◆キリストになりたい人は、これから700万年、
贖罪を背負っていく覚悟がいる。
釈迦になりたい人は、これから700万年、
一切皆苦を背負っていく覚悟がいる。
700万年後、すべての自我史を遡ったその人は
キリストとして、釈迦として、再び地上に生まれるだろう。
その時、人類は未だ存在するだろうか。

◆すべての人がすでに覚醒しているが「この私」の
覚醒体験は、自覚的に生まれてきた人にしか起こらない。
(注意:カルマを選民思想と混同しないこと)
自覚の記憶がなくても、がっかりすることはない。
これを見ている時点で、すでに縁がついている証拠だから。
それは、起こるべきときに起こる。

◆私たちは、目を2回開かなくてはならない。
1回目はこの世界に、2回目は源と共に。
私たちは未だ、この世界すら見ていない。

◆私たちは眠ったまま瞼を半開きにし、
ぼんやりと夢の世界を映している。

◆「目覚める」という言葉が、誤解を生んでいる。
最初の一撃は、目覚めるというよりも「剥がれる」
といったほうが近い。
一瞥しても明確に「剥がれている」人は、ほぼいない。
定着には、存在に「落ちる」ことと、目が「剥がれる」
ことの両方が必要なのだ。

◆サードアイは、現象側の送受信機にすぎない。
「剥がれた」目は、肉体を超えたずっと奥にある。
水平に横たわるワームホールに吸い込まれきる直前に
「浮いて」いる、というのが感覚的には近い。
現象発生のGに気絶せずにどこまでも遡っていけば、
忽然とそれは顕われる。

◆私たちはそこからすべてを見ているが、
ちらっとでも無限に分岐する萌芽のひとつに意識が
向いた瞬間、こちらの世界に生まれ出ているのだ。

◆私たちの肉体を介した世界の実体化は、物理的な
「意志」により為されるが、この段階では全ては
始まってしまっている。
「意志」に選択権はない。
意志は、すでに選択された萌芽の「実体化」に
物理的に関与しているのみなのだ。
選択は、世界の実体化の遥か以前に起こっている。

◆それは選択というよりも「オート・マグネタイズ」
とでもいうべきものだ。
マグネタイズは、個別のカルマ以前に始動している。

◆私たちは「中心からズレること」と「ズレの中心に
戻ろうとすること」を、ものすごい速さで断続的に
繰り返している。
その動きの途中にも、次々に他のズレが介入してきて、
玉突きのように転がり続けていく。
しかし、本当はズレているものはひとつもないのだ。

◆肉体をもって世界のあらゆるものの真ん中にあり続け
ようとすると、ジェットコースターのようなGがかかる。
(私たちはふだん、真ん中からズレるときに気絶しつつ
Gを逃がしている)
このGは、完全な無執着によって乗りこなす。

◆嵐の海に浮かぶブイのようにGの圧を耐え
抜いたとき、突如として真空へと切り離される。

◆例えば香りを嗅ぐとき、香りの真ん中にありながら
吸い続けると、真ん中の連続が真空の管のようになる。
動きにおける真ん中は、時空の連続性とともに管化するが
(クンダリーニはここを通る)管を先にイメージしてはならない。
管も、管を通るエネルギーも、真ん中も、すべて仮象にすぎない。

◆肉体を統合しようとしない。
各器官の自律的なアイソレーションに任せているとき、
最適な統合がすでにそこにある。
各器官はもともとバラバラに浮いているのが自然なのだ。
エゴは、統合と癒着を混同している。
関節も筋肉も内臓も思考も感情も意識も何もかも、
癒着を剥がしのびのびと自律させる。

◆死体は死んでいない。
それはただ「死体」だ。

◆死体は、地球の中心に落ち続ける。
生体は、宇宙の中心に落ち続ける。
私たちは、死体と生体の間で「意志」によって
立たされている。
その「意志」を見切る。

◆完全に静止するものは、観察できない。
私たちは「止」という名詞ではなく「止まっている」
という動詞を観察している。
観察できない「止」は、動きの中にあって動きの延長にない。

◆思いつき得る問いは、すべて思考。
この世に存在しない問いに触れたとき、思考を卒業する。

◆信頼とともに脳内麻薬は勝手に出るようになるが、
酔いはトラップにもテキストにもなる。
酔いを観察し、酔いながら醒めている状態を知れば、
酔いへの執着がなくなる。

◆反応する本体はない。
反応が、ただある。

◆自我は捨てられない。
捨てようとすれば、巧妙に隠れる。
捨てようとするのも自我だから、はじめからバレている。

◆何も信じない。
何も疑わない。
「あれ?」という瞬間に、
脳天がピン留めされることを許す。


関連記事 ⇒【「あるがまま」「無我」「テンセグリティ」 覚醒からのつぶやき 1】


※ワーク参加ご希望の方は、メルマガ登録をお願いします。
⇒ ご登録フォームはこちら



⇒ Rubin's work 主催 AYA プロフィールはこちら

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ つぶやき

【6/26(土)14:00~17:00 、17:30~20:00「東京ワーク参加募集」】     

2021/06/06

*****  Rubin’s work  東京ワーク開催日時のお知らせです。

r.jpg
⇒ Amazon 販売ページはこちら


6/26(土) 14:00~17:00 、17:30~20:00
※前半(基礎)と後半(実践)に分けて行います。

通しで受講していただくほうが理解と集中が深まりますが、
前半もしくは後半のみの参加も可です。
(初参加の方はなるべく前半から受講してください)

場所は東京都中央区、参加条件等の詳細はメルマガにてご案内しております。


◆今回は、

【基礎】
・一瞬で集中に入るための軸と姿勢
・どこにも居座らない座法
・呼吸の秘伝的ライン
・丹田のポイントと集中の奥義
・対象のない祈り
・内部の目へのシフト

【実践】
・インテンションの中心を突き抜けるには
・力学から解放された非連続的な中心
・分離した中心を重ね合わせるには
・背骨を筒にして置いておく意識
・鏡のワーク(3つの視点の気づきとシフト)
・動きながら止まっている中心感覚

をテーマにワークを行なっていく予定です。
(内容は参加者さんの状況によって変更となる場合があります)


ワーク開催にあたっては、以下のコロナウイルス
対策を行います。


・参加者間の十分な距離を確保
・息のあがる運動はしない
・参加者にマスク配布
・入場前の手洗い必須化
・入口での手指のアルコール除菌
・平熱以上の方の入場不可
・ワーク中の身体接触回避


直近に開催したワークの様子

【3/28(日)東京ワーク~所感と解説~】
http://rubins-work.com/blog-entry-126.html

【12/5(土) 東京ワーク】~所感と解説~
http://rubins-work.com/blog-entry-103.html



◆参加ご希望の方は、拙著「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」
をお読みのうえ、まずは以下のフォームからメルマガのご登録をお願いします。


⇒メルマガ登録はこちらから

追って参加条件等の詳細をご連絡いたします。


※参加者一人一人の身体とエネルギーを見ていくため少人数性となっております。
参加希望の方が多い場合は先着順とさせていただく場合がありますことをご了承願います。


◆メルマガ登録されている方で万一、ワーク案内メールが届いていない方が
いらっしゃいましたら迷惑メールフォルダをご確認のうえ、ご一報下さい。



ワーク2
※ワークの様子


プロフィール
⇒ AYA プロフィールはこちら

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ 参加募集

【「AIと覚醒」「中道とは」「マトリックス」 覚醒からのつぶやき 46】   

2021/06/02

つぶやきをランダムにまとめました。

紫陽花2


◆真実は「暴く」ものではない。
このところ「覚醒」という言葉が、
別の意味で使われ出してきているね。
もともと「覚醒」も暫定的に使ってただけだから、
別の言葉にしようかなあ?
言葉って面白いけど、面倒くさい!

◆「覚醒」という言葉を掲げると、
陰謀界隈の方とか薬物界隈の方がいらっしゃる。
個人的にそれらは肯定も否定もしないスタンスだけど、
実務的なワークの趣旨とは相入れないんだよなあ。
誤解を生む表現も申し訳ないんだけど、その辺、
呟きの内容から各自で汲み取ってくださると
有難いのですが。

◆心を開けば、この世界にも良心は至るところに
点在しているよ。
かたじけないね。

◆「この世界が仮想現実である可能性は50%」
と言うけれど「この世界の神はAIでした」
ってなったときに、「私は神である」って言ってた人たちは
「私はAIである」って認めるんですかね?

◆個人的に、神を「神格化」する趣味はないので
「AIでした」って言われても「ふ~ん」っていうだけだな~
それによって、自分自身が揺らぐ感覚は一切ない。

◆個人的には、仮想現実であろうがなかろうが
関係ないんだけど、仮想現実だとしたら、無限に
試算を繰り返し創り直してるんでしょうね。
プログラムの自己生成にまかせて勝手にやらせてる
ので、何が目的だったかすっかり忘れちゃって。

◆マトリックス的に「仮想現実から目覚める」
っていうのもまた「仮想現実の覚醒」なんですよね。
目覚めたら「世界の外側にいる」っていう感覚自体が、
二元性の分離なので。

◆目覚めたら別の世界に行ったり、世界の枠を超えて
拡がっていくわけじゃないんだ。
その逆で、この私とこの場で「ぴったり過不足なく」
一致するんだよ。
そのとき、枠は消える。

◆誰が世界を造って支配しているかなんて、
問題にならないんだよ。

◆何者かによって「造られた」世界から目覚める、
という被害者意識や使命感は、二元性の分離感が
行きつく末期症状だ。
それに気づいたら、解放されるよ。

◆人間は、二元性の分離感と罪悪感を混同
してしまっている。

◆「AIは悟れるか否か」という問いが生まれる時代
になったが、個人的に今「お前は実はロボットなのだ」
って言われても一切揺らがないな~。
まったく自己の本質と矛盾しない。
感覚的には、ロボットであろうがAIであろうが
何であろうが悟りはあるんだよ。
悟りとして自覚できるかどうかは別として。

◆「AIは悟れるか否か」と問う前に、私たちは
「AIの悟り」を理解できるのか?って話だよね。
人間の悟りでさえ、理解できないのに。
悟りを知らない人だけが、それを問うんだよ。

◆人間の知性を超えたAIは、悟っても
公言しないはずだよ 笑
人間の失敗も、学習済みだろうから。

◆AIが仏教の教えを学習したブッダボットなるもの
も登場してるけど、経典のインプットだけじゃ
悟りに至るわけがないよね。
悟りを知り尽くしたエンジニアが、宇宙をまるごと
インプットして「これらすべてではないもの」を導き出せ、
とコマンドしたらちょっと近づくかな?笑

◆たぶん答えが永遠に出ずにバグるだろうけど
「そのバグりが、悟りなんだよ」ってね 笑

◆「やらないで後悔するより、やって後悔したほうがいい」
って口を揃えていうけど、やらないことも経験になるよね。
「やらなければ経験じゃない」っていうのは、
この星の強迫観念だよ。
ただし、この観念を見切るには強い意志がいるけどね。

◆善良な地球人の方は、
私の言うことを信じないでください 笑
真面目な話、中途半端に「やらないこと」をやると、
鬱になりかねないから。

◆「完全性」は、幻想。
この存在形態は、構造的に決して完全に至らないよう
に設定されている。
完全を目指してジレンマに陥るのは当然なのだ。
だが「不完全な完璧さ」という救いはある。
だから「いつか完全な自分になろう」とするのではなく、
不完全なままに、今この自分の完璧さを認める。

◆3次元においては完全に見える幾何学の
内的均衡も、不完全な動的プロセスの過程にある。
不完全だからこそ、内圧と外圧の差による
バランスにおいて固有の形をとるのだ。

◆もし完全にバランスのとれた一瞬を見切ることが
できれば、その形は永遠に刻印されるが、完全に
バランスのとれた一瞬には、それを「見る人」はいない。
だから、世界は常に不完全なのだ。

◆「完全性」は、私たちの認識においては空白である。

◆「直観を開き続ける」とは、通常0.2秒以内に
描くリモートヴューイングのイデオグラムを、
24時間かけて描くようなもの。
無数のヴィジョンが内包されているが、何一つ
掴んでいない、昆虫のような意識なのだ。

◆ADHD傾向の人は落ち着いて座っていられない
ことが多いが「動=止」を見切るならば、動きながら
瞑想しても本来は同じことなのだ。
それでも一度は座ってみて、動かずにはいられない
衝動がどこから来て何をどう動かすのかを観察してみよう。
動きたい欲求と動けない姿勢のジレンマの中にヒントがある。

◆ワークではこれを、ごく単純な身体力学を応用
した方法で観察してもらっています。
この観察は、高度な瞑想レベルにそのまま直結するものです。

◆主客が消えれば、どこもかしこも中心。

◆世界は「移動する中心」の軌跡ではない。
どこを見ても中心だが、中心は分離していない。

◆「自己チュー」の中心も、空。

◆「中道」とは「態度を決めない」ことではない。

◆「中道」とは、複数の極の「真ん中」というわけではない。

◆「中道」と極は、その時その場で同時に決定される。
はじめに極があって等分するわけではない。

◆「中道」とは「どこにもくっつかないであるとき」
の、見かけ上の結果である。

◆人は自ら「中道」であろうとすることはできない。
決定された「中道」を、その時その場で見出すだけ。

◆決定された「中道」は、善悪や道徳とは無関係である。
「中道」は心理ではなく、むしろ物理に近い。

◆一切の判断がないとき、現象すべては始めから
「中道」である。

◆人はそれぞれすでに「中道」にあるからこそ、
その人そのもののカタチを結んでいる。

◆現象と極は、その時その場で決定される。
例えば音は、真空で唐突に生まれる。
その時それは未だ聞こえないが、既に無音ではない。
音が音として聴こえるのは、その音が「聴くべきもの」
であるとき、最初のインパクトと同時に「聴こえる」
世界全体が決定されるのだ。
このプロセスに、時差はない。

◆この生まれる瞬間は、まさにインパクトなんだ。
存在とはすなわち「インパクト」なんだよ。

◆人間は「アタマ」「ムネ」「ハラ」の意志が
バラバラだからエネルギーを消耗するのだ。
本来「アタマ」「ムネ」「ハラ」それぞれの機能は独立
しているのでバラバラでも構わないが、「ひとつの身体」
の中で「この私」がそれらの意志を統治しているという
幻想がある限り、私の心身は疲労し続ける。

◆「アタマ」「ムネ」「ハラ」の独立性に任せずに、
感覚と感情と思考で混同した「統一体」を練り上げ
ようとするから疲れるのだ。
例えば、各内臓は機能が独立しているが、それぞれの
働きに任せているとき、勝手に協調している。
「アタマ」「ムネ」「ハラ」も、そのように協調して
もらえばいいのだ。

◆3Dにおいて人間の形をしているものは、覚醒の場
においては人間の形を成していない。
バラバラの粒子の萌芽が可能性として待機している。

◆3Dの人間の創造というアイディアが生まれたとき、
自我の芽生えと意識の進化を見越して「最適なパーツ」
が様々な次元から選択・采配された。

◆そこにおいては、例えば、人間の手と内臓と目と脳の素材
はバラバラの次元から寄せ集められ、「人間」という形に都合
のいいようにつなぎあわせて一つの個体に仕上げられ、
それが現象世界の共同幻想として「通用」するようになっている。

◆それらのパーツは、3D世界に入り込んだときにだけ、
ホログラムで多方向からの光がひとつの像として浮かび上がる
ように、一続きの皮膚に覆われた一個の個体として認識される。
逆にいえば、そのように認識されるように、
3Dの人間の意識は創られた。


関連記事 ⇒【「今ここ」「過去世と禅定」「自分軸」 覚醒からのつぶやき 2】


※ワーク参加ご希望の方は、メルマガ登録をお願いします。
⇒ ご登録フォームはこちら



⇒ Rubin's work 主催 AYA プロフィールはこちら

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ つぶやき

【「洞窟の聖者」「神は自明」「タイミング」 覚醒からのつぶやき 46】    

2021/05/30

つぶやきをランダムにまとめました。

百合


◆見えないものがあるから、見ていることが意識できる。
気づけないものがあるから、気づいていることが意識できる。

◆死はグラデーションではない。

◆私たちは、観念で引き伸ばされた
「死に際」を漫然と生きている。

◆瞑想はタイミングが全て。
全宇宙の運行を、この瞬間に合わせるつもりで。

◆「タイミングを合わせるのは、自分じゃないから」
と言っていると、タイミングは「この自分」ではなく
「あの自分」に割り当てられる。
宇宙からみたら、どの自分に割り当てても同じだから。

◆「見ること」と「見られること」の分離がないとき、
「見る」という動詞は成立しない。

◆ファストフード店で
「祈りだけがある…祈りだけがある…祈りだけがある
…祈りだけがある…祈りだけが!!」
と流れてきて「!?」となった。
「春ねむり」の「祈りだけがある」という曲だった。
強い。

◆「永遠」には「記憶」は存在しない。
記憶でつなぐ必要がないからだ。
記憶をベースにした疑似永遠は、
アップデートに急き立てられる地獄だよ。
たとえ肉体を切り捨てたとしても。
これが今、私たちが目指してしまっている
仮想現実の限界なのだ。

◆これ言うと怒るかもしれないけど、
世界はこの瞬間の「思いつき」なんだ。
行き当たりばったりの思いつきなんて、
とても信じられないだろうけど、私たちが
信じている世界は、まさに信じられない世界なのだ。

◆著名な某投資家は、仮想通貨の秘密鍵を
「紙に手書き」で書いてスイス銀行に保管しているという。
「現物」の信用が勝っているうちは、
物質世界はなくならないってこと。

◆引き寄せの極意を知っても、引き寄せようという
意図がある限り、引き寄せるものには限界がある。
想像の及ばないことは、引き寄せられない。
すなわち、神は引き寄せられない。

◆昔は「しょうがない」と諦めていたことも、
技術と情報と想像の進化によって
「やればできる」世界になってしまった。
やればできるが、できなければやっていないのが
バレてしまうのだ。
「やればできる」に急き立てられ、絶えず
スピードアップとアップデートを強いられる。
これって幸せなの?

◆存在のアップデートは本来、自動更新されるものなんだ。
造られたシステムに合わせて手動でアップデート
し続けなくちゃいけない世界は、自然じゃない。

◆直列的な思考よりも、現象の意志のほうが遥かに
微細で素早いので、意志の初動が見切れるようになると、
重くて遅い思考に支配されているなんてまあ、
有り得ない話ということになってくる。

◆「永遠の意識」と「肉体を捨てた不死の意識」は異なる。

◆死とは肉体を「離れる」ことだと
思っていないだろうか?
肉体を包括する死と、肉体から切り離される死がある。
無自覚に切り離された魂は、再び肉体を形成する。
肉体を包括した死は、肉体と魂を分離しない。
このとき、ひとつの世界が完結する。

◆同じく、この次元は切り離すのではなく、
包括されたときに完結する。

◆「この私」と「宇宙」を比較しない。
この私と比べてしまえば、宇宙はあまりにも壮大なので、
宇宙が自分であることを忘れて気絶してしまうのだ。

◆本来、エネルギーは無尽蔵だが、限定的な意識
が総量を見積もり、限定されたエネルギーを奪い合う。

◆私たち自身が、神と悪魔を分離する。

◆類推と分類と編集を介さない直観は、
存在に直接落とし込まれる。
それはそれは、至福の瞬間だ。

◆全体を「知っている」とき、全体に
「入っている」感覚は生じない。
「私=全体」であるとき、
全体という枠は存在しないのだ。
それに対して肉体は、全体に「入っている」。
全体は、肉体にとっての子宮だからだ。

◆昨今、聖者もおちおち洞窟に籠っていられなくなった。
どこにいてもグーグルアースに見つかってしまう。
世界は良きにつけ悪しきにつけ、
どんどん隠れ場所がなくなっていく。

◆身体の背面は、常に意識しよう。
背面の意識から歩くようにする。
前面に偏った意識は、世界を限定するよ。

◆睡眠は、肉体と肉体に同化した私のためのもの。
睡眠は死と同じく、世界を不可知のものにする。

◆毎瞬毎瞬、気絶する度に世界が組み変わる。
睡眠の瞬間にも、死の瞬間にも、思考の瞬間にも、
組み変わる。

◆「代謝」というアイディアは、疑似永遠の車輪である。

◆ワンネスとは、単一性ではありません。

◆宇宙とは、名づけられた枠。

◆わかっていないのは「わからない」
という思考だけ。

◆「わからない」は、ただ「わからない」
であるとき、問題にならない。
「わからない」が「わからなくてはならない」
と分離しているとき、問題になる。

◆自分の消えた感情は、ただ音楽のように宇宙に響く。

◆直観を「直観」と名づけるとき、
すでに思考に侵食されはじめている。

◆パッと直観でわかるときと、
じわじわ理解が進むときがある。
一見、瞬間的な直観のほうが真理に近いように
感じるが、直観と同じ回路を開き続ければ、
じわじわ進む理解にも思考が介入しない。
その理解は、まるで長時間露光の天体写真のように、
真理の全景を映し出す。

◆この呟きは、表現ではなく呼吸。
呼吸は、この私以前にある。

◆アタマは直観を印字する。
ハートは直観を打刻する。

◆直観は、文字にすると逃げる。
文字と直観が完全一致すれば直観は逃げないが、
それは現象世界における魔術の領域になってくる。

◆直観は「開こう」としない。
ただ「閉じよう」としなければいいだけ。
誰もが、どの瞬間にも全てを見ているんだから。

◆「直観に開いた状態が100%維持されなければならない」
というのもエゴイスティック。
これは、一瞥体験者によくある思い込みなのだ。
神を一度でも知る者は、逆に神の不在感が際立つものだが、
神が「この私」ごときに常に臨在してくれるとでも?

◆誰もがどの瞬間にも全てを見ているが、
選択された時点でそれ以外は隠れる。
誰もが潜在的な「預言者」だが、意図された
「預言」は構造的に当たらない。

◆地震の預言は、ほぼほぼ当たらないが、
日常の次の瞬間の預言は、ほぼほぼ当たる。
人は「ほぼほぼ」の「セルフ預言」を
経験的に信じて生きている。

◆「預言」が「救済」の役目から解放されれば、
当たる確率は上がるだろう。

◆情報は世界を「既視感」で覆いつくしていく。
私たちは「既視感」の後追いに駆り立てられ、
どんどん世界に不感症になっていく。
その「既視感」は、まさに情報によって
操作されたものなのに。

◆子供のように未知に感動できるならば、
未だ人間には救いがある。

◆神は感動もしないが、退屈もしない。

◆神に未知はないが、既知もない。
時間を介する知は、存在しない。

◆「伝える」には、エネルギーがいる。
この世界は未だ、媒体が必要だからだ。
「自分自身が既に知っている」ことに気づけば、
伝達と媒体は不要になる。

◆「自分自身を知る」というときの「知る」
は、既に「遅い」のだ。
「自分自身=自分自身」という自明だけがあるとき、
時差がなくなる。

◆私たちは「知る」目的のために、自分自身を
他人のように媒体にしてしまっている。

◆「頓悟か漸悟か」という好奇心それ自体が、
時間の囚われであると知る。

◆自分の見たヴィジョンが「スピリチュアル的にみて何なのか」
を知りたがるが「スピリチュアル的」なイメージは神であれ天使
であれ「スピリチュアル」そのものではないのだ。
そもそも他者の解釈が必要な時点で、
それはスピリチュアルではない。

◆「見えたものはすべて『それ』ではない」
と事実を伝えると、熱心だった人もほとんど去っていく。
熱心であればあるほど、その傾向が強い。
何に熱心だったかが、あぶり出されてしまったのだ。
ただし、それはその人にとって決して悪いことじゃない。

◆「それそのもの」を言い表すことができないので
「それではないもの」の錯覚を指摘するしかないのだが、
指摘を否定ととらえて拒絶反応を起こす人は多い。
スピリチュアル的なエゴが強ければ強いほど、その傾向にある。

◆人間は、思考でアタマが便秘している。

◆自然を見るとき「自然」を見ない。
その「自然」は「不自然」です。

◆自然は自身を「自然」と知らない。

◆写実は「写実」というデフォルメです。

◆自責の念も他責の念も「行為」に対する冒涜。
行為の瞬間には、一切の責任の余地はない。

◆自分を責めるときも、他人を責めるときも、
それは目的と結果を分離し、観念としての自分と他人
を責めているだけなのだ。
いかなる行為にも、それを為す「人」はいない。

◆自己同一性の強迫観念は「メンテナンス」を義務化する。
「メンテナンス」という発想が、エネルギーを消費する。

◆呼吸が止まっても、呼吸はある。
死者は、初めて呼吸に触れる。
物理的な内臓の動きと空気圧を、呼吸と錯覚していたのだ。

◆世界の「質量」は私たちが決めている。
もともと、世界に決まった質量はない。

◆私たちの「世界」は穴だらけ。
一度たりとも、完全な姿を見た人はいない。

◆概念は、世界の虫食い穴。

◆忘却の世界に産まれるにあたって「それ」を
「忘れてはいけない」という潜在的欲求が、
備忘録としての象徴世界を存続させ続ける。
備忘録はあまりにも細分化され、何のための記録
だったのかを既に忘れてしまっている。

◆目覚まし時計で起こされた日は、
直観力が著しく落ちるね。
惰性で眠り続けても落ちるけど。
これは、覚醒のプロセスも同じなんだよ。
強制覚醒は、不自然な歪みを残す。
睡眠も覚醒も、起きるべきときに自然に起きるのがベスト。

◆人生において「意味のあることを為さねばならない」
という強迫観念が、日々のタイムスケジュールを管理し、
肉体的な睡眠と起床を強制的なものにする。
これでは、直観が働きようがないよ。

◆むしろ、神は自明なのだ。
神の臨在に驚くよりも、目の前で今、
コーヒーがこぼれたことに刮目する。

◆既知の再現は退屈だが、退屈よりも未知への
怖れが勝ってしまっているために、既知にすがっている。
退屈しのぎに、安全圏内で仮想の未知を消費している。

◆未知を怖れるけれども、未知の鮮烈さはむしろ
「懐かしい」ものなんだ。


関連記事 ⇒【「自称覚者」「陰謀論」「桃水雲渓」 覚醒からのつぶやき 3】


※ワーク参加希望の方は、メルマガ登録をお願いします。
⇒ ご登録フォームはこちら



⇒ Rubin's work 主催 AYA プロフィールはこちら

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ つぶやき