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【Rubin's work 主催 AYA プロフィール (固定ページ)】   

2018/07/14
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【覚醒からのつぶやき 9】       

2020/10/22

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。

レモン


◆個人的な感性のゆらぎの真ん中に浮いてあることで、
非個人的な感性の切っ先に立つ。

◆個人的な感性と自己表現は、いちどは誰でも出し切ってみたほうがよい。
そこで思う存分、泣いたり笑ったりする。
出し切ってもう何もでなくなったところで、非個人的な感性の手触りが、
背後から立ち顕われる。

◆だから、いちどはちゃんとドロドロした人間をやってみる。

◆取り残されたエネルギーは不発弾として持ち越される。
不発弾は爆発してしまえば消えるが、どこに埋まっていたか忘れたまま残り続けると、
存在に常に不安の影を漂わせることになる。

◆夢の3D映画は最後までぜんぶ観ないといけないと思い込んでるけど、
いつでも席を立っていい。
お尻は座席にくっついてない。
映画の続きが気になっても、この映画は永遠に上映し続ける。
席を立つタイミングを逃さないように。

◆夢は全部気づいたら終わる。
でもわたしたちの気づきは死角があるように設計されたから、
一人で全部見ることはできない。
だから、みんなで分担して夢の隅々まで照らそう。
額にサーチライトをつけて。

◆夢の3D映画には結末がない。
一コマ一コマが次の場合を生成し、ストーリーは無限に分岐していく。
だから、結末を知るのは放棄する。

◆映画を見ないためには、目をつぶるのではなく、勇気を持って席を立つ。
そのための気力は蓄えておく。

◆映画を見るのをやめるのに、肉体を殺してはいけない。
殺された肉体は、座席に残されたまま、映画の続きを見てくれる亡霊を待ち続ける。

◆本当は、映画も夢だし、映画を見ているのも夢だし、
映画を見るのをやめるのも夢だし、そもそも夢なんてない。

◆肉体の死というタイムリミットがあるから、人は常に未来に向かって
「間に合わない」と焦っているけど、間に合っていないのは未来ではなく現在なのだ。
いつも現在から0.2秒、遅れている。

◆盲点なのは、0.2秒遅れているその感覚自体を共通認識として「今」と呼んでいること。
だから「今ここ」という教えは常に混乱をもたらす。

◆「間に合わせたい」人がいなければ、今は今のままある。

◆「あなた」が「今ここ」にいることはできない。
「今ここ」が「今ここ」にあるだけ。

◆ある意味、この私はわたしの作品だけど「素晴らしい作品を創ってやろう」
という意図はさもしい。

◆透明な作品は、美しい。

◆自分自身に慈悲を向けられるようになると、世界が喜ぶ。

◆慈悲と憐憫は似て非なるもの。

◆究極の慈悲は、手を差し伸べない。 そこに存在の信頼がある。
神とはそういうもの。

◆慈悲は一本の柱となって次元を貫く。

◆だから神は柱に見立てられてきたのだ。

◆この柱は相似形として、わたしたちの中にもある。
わたしたちは、それによって立っているのだ。

◆祈りはこの柱で起こる。

◆だから、ただ自分そのものであれば、何かに向かって祈らなくていいのだ。

◆わたしたちは、理論の正しさを証明するために生きているのではない。
だってわたしは事実、これなんだから。
これ以上にまぎれもない事実があるだろうか?

◆神を持ち出すのは半ば禁じ手にしてきたが、その言葉を使わざるを得ないこともある。
それによって頑なな視界が開けることもあるからだ。
ひとつのことがわかれば、自由に横断していい。

◆いったん脱落したらヨコとタテのあいだに浮く。
そのとき、脱落は地上のものだったことを知る。

◆本当にすごい人は秘仏のように隠されているので表に出てこない。
縁があれば出会えるけど、多分、見ても気づかない。

◆散漫な状態には散漫な気づきがあるだけで、それがいけないわけじゃない。
メタ的に気づかれる気づきは、その時々の主観の密度と時間の
経過をありのままに正確に顕しているだけなのだ。
「ひとつの瞬間に集中する」という幻想にとらわれて、
気づき自体をサマタの訓練の道具に使わないこと。

◆現象世界での個人の責任は、能動的に行為している感覚によって発生するが、
能動と受動のあいだにあるとき、個人の責任は無化される。
ただし、無化=放棄ではない。
すべての次元の責任の真ん中にあるのだ。

◆四次元以外の次元は「爆発できなかった」のではなく、
わたしたちの認識がそれを「爆発させることができない」のだ。

◆徳と善行について。
エネルギーとして貯まるというよりも、瞬間瞬間の反応パターンが組み変わるんですよね。
その結果、エネルギーが変化して軽くなる。
徳という考え方は一長一短で、自分が徳の貯蔵庫であると考えるとエゴが肥大しますね。

◆一切を限定したくなければ、言葉を発しなければよい。
言葉で表せばその瞬間、限定が発生することは自覚しておく。
その自覚をこの世界では「責任」と呼ぶ。

◆気づきに気づいている人が2人以上いる空間はピーンと冴える。
1人以下だと場の影響下にボーッと流され続ける。

◆面白いのは、気づいている人が1人だけだと、ありのままに見ているだけで
場自体は変わらないということ。
だから、よくあるスピリチュアリズムで覚者を何人か配置して世界を変える
みたいな話は分からなくもない。
でも、覚者自身は自分が世界を変えようという意思なんてない。

◆気づきに気づいている人は場を超えた全体に気づいているので
場のエネルギーのうねりに飲み込まれない。
だから空気がパキっと澄む。
それは法悦ではなく、静謐なエネルギーだ。

◆人は常に幻想の場に飲み込まれ、その場その場の空気感に気絶して
流され続ける。
気づけばそれをいつでも切ることができるのにも関わらず。

◆場に飲み込まれる心身が癖付いている人は、気づきに気づく静謐な空気
のハリを肉体で捉えるため緊張と勘違いし、隙あらば居心地のよい緩んだ元
の場に戻ろうとする。
心して心身の癖付けに気づき、組み換えていく必要がある。

◆頭の後ろの化石みたいな塊を引き剥がして360度の意識を取り戻そう。

◆頭蓋骨から背骨がゆらゆらぶら下がっているだけ。
肉は忘れる。

◆気づき続けることは、心を殺してサイボーグになることではない。

◆空気を読むのではなく、場全体のハリを直接読む。

◆抽象化と観念化を混同しないこと。

◆覚醒は世界を抽象化することではない。
また、概念化しないことは覚醒の一部であっても、全部ではない。

◆感性は抽象化してもよい 感性に自我の痛みを混入させないこと。

◆思想・哲学は世界と言葉ありきの戯れ。
感性が回収されぬよう、注意して遊ぶ。

◆一息の呼吸で肉を突破し、どこまでも深淵に入っていく。
深淵は入れば入るほど、明るく軽く開けたところ。

◆呼吸は止まるのではなく、一息が肉体を超えてどこまでも細く長く深く
引き伸ばされ、認識できなくなるのだ。
この究極が死だ。 死は停止ではない。

◆自分が悟るという考えはまず最初に捨てられるべきもの。
かといって、みんなで悟るわけじゃない。
強いて言えば、ひとりであった何かが独りごつ、という感覚。

◆瞑想の一息には瞬きがない。 だから、肉体を超えた息が続くかぎり
どこまでも見ていける。
ただし、途中で何も掴まなければの話。
死後という観念のヴィジョンもこの延長で起こる。
呼吸を止め、瞬きする肉体がなければ時空を遮るものがないのだ。
ただし死者は、ヴィジョン自体に遮られる。

◆気づきの目の瞬きの瞬間、一瞬の気絶と共に場面が切り替わる。
その瞬間は常に「なかったこと」にされている。

◆清潔感があるかどうかは重要な判断材料。
うねうねギラギラした禍々しさは避けよう。

◆体の感覚が鈍ってると清潔感を判断できなくなるので注意。
そういうとき、インスタントなものに飛びつく。
インスタント自体は悪くはないが、飛びつく時の目が眩む気絶は沼にハマらせる。

◆エネルギー系であれ覚醒系であれ、特定のパワーを「扱おう」とするものは注意する。
自身のエネルギーバランスが崩れていると、そういうものに飛びつく。

◆何かを表現すれば、その逆の力が発生する。
しかもそれは必ずしも一対一対応でないのがややこしい。

◆そうは言っても、怖いからといってまったく動かなければ、
傷つきはしないが赤ちゃんのまま何も学べない。

◆結局、すべてのバランスのあいだに在ることしか救いはない。

◆私はわたしに任せておけば安心だ。 頼もしいなあ!

◆ありがたいね。 考えなくてもいいんだから。
こんな楽してバチがあたりそうだ笑
ああ、ヒマだから罰の意識を創っちゃったんだろうね。

◆人っていうのは自分の存在を誰かに受け取ってもらいたいんだね。
自分で自分を受け取ればいいだけなんだけど、自分を信じてないから
別の信じられる人を探して彷徨う。
それじゃ、信用されてない自分が可哀想。
でも本当は今だってちゃんと受け取られてるんだけどね。

◆パラレルワールドは並んでない。 並べてるのは自分。

◆気づくというのは、全体が気づいていることなのです。
だから、自分が自分に気づけば、全体が自分に気づいていてくれるのです。
この気づきを、神の目ともいう。

◆全体には、あらゆる次元のわたしがいます。
だから、気づきに気づくだけで、すべてのわたしが私と重なって
協力してくれるのです。
こんなに心強いことがあるでしょうか?

◆観光バスツアーみたいに気楽に乗ってればいいんですよ。
たまに渋滞とかトイレ休憩とかガイドの変な民謡とか聴かされるけど。
勝手に連れてってくれるから。

◆不思議でしょうがないんだけど、なんで肉体年齢を伸ばそうとするのかね?
意識を変えたほうが時間は伸びるのに。
時間なんていくらでも伸び縮みする。
でも、伸びたところで梵天界なんて退屈だよ?

◆X X業界の人、と定義されそうになったら走って逃げる。

◆人間ドラマは1話完結でいいです。 キャストもセットも最小限で。

◆死んでもどこにもいかない。 (自縛霊じゃないよ)

◆孤独で寂しいとか言ってるけど、覚醒の現場はあり得ないぐらい
ぎゅうぎゅうづめで賑やかどころじゃないからね。
今のうちにゆったり孤独を楽しんだほうがいいよ。

◆祈るなら、殺されるつもりで祈る。
自分を全部、差し出す。
このエッセンスがつかめたら、生きても死んでもいないところで、
祈りそのものになる。

◆痛みを見るより痒みを見るほうが難易度が高い。

◆笑いに皮肉と逃避と自虐が入ってないか注意する。
この笑いは苦しみと表裏一体。

◆この笑いが集団化すると、陰湿な村を形成する。

◆仲間意識を「確認する」ための笑いには注意する。
この確認がしばしば強要に発展する。

◆野生動物は笑わない。
家畜化すると笑いを覚える。

◆いい気分の中に潜む「ほくそ笑む」影に気づきのメスを入れる。
この影は聖なるものにもいつの間にか忍び寄る。
あらゆる色合いに潜む影の尻尾をつかまえる。

◆「悪魔との対話」の悪魔は、比喩ではないのだ。
擬人化するかしないかは別として。

◆影はうっとりとした心地良さを纏って、あらゆる瞬間にスルっと入ってくる。
この影を根絶しようと血まなこになれば、思うツボだ。
気づきの光を当てることで影は退散する。
影もまた、自らの創った実態のない幻想だからだ。

◆影の尻尾を捕まえるには、名付け得ないエネルギーの微かな移ろい
を見るのが一番早い。
自分の感覚に淫する前に気づけるからだ。

◆人間としてのあらゆる経験は、影に気づくための予行練習となる。
この練習は、痛みを伴う。

◆光があれば影がある。
影は影で必然としてあるだけだが、それに「あるがまま」と居座れば、
いつのまに影が入り込み、その視点でしか世界を見られなくなる。
しかも、光と影は想像を絶するほど複雑に入り組んでいる。
光=善、影=悪という3次元の単純な二項対立ではないのだ。

◆だが、その複雑さに正義感をもって首を突っ込む必要はない。
ただ、一人一人が自身に起こるエネルギーの移ろいを粛々と見切っていけばよい。

◆善は次の瞬間には悪となり、悪は次の瞬間には善となる世界だ。
ひとつの信念をつかめば、変化に気づけなくなる。

◆生まれては死ぬというアイディアは局所的な異端思想。
この宇宙はカルト。

◆バクティの道は一見優しそうだけど、様々な「お試し」がやって来る。
その究極が、磔刑。
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【11/7(土)14:00~17:30 、18:00~21:00 「東京ワーク参加募集」】     

2020/10/22

※ Rubin’s work  東京ワーク開催日時のお知らせです。


◆11/7(土) 14:00~17:30 、18:00~21:00

※前半(基礎)と後半(実践)に分けて行います。
通しで受講していただくほうが理解と集中が深まりますが、
前半もしくは後半のみの参加も可です。
(初参加の方はなるべく前半から受講してください)

場所は東京都中央区、参加条件等の詳細はメルマガにてご案内しております。


◆今回は、

【基礎】
・一瞬で集中に入るための軸と姿勢
・どこにも居座らない座法
・呼吸の秘伝的ライン
・丹田のポイントと集中の奥義
・対象のない祈り
・内部の目へのシフト

【実践】
・全体の気づきと場のエネルギーの読み方
・各ポータルを立体と動きでとらえる
・内部の目の確立と発火する気づき
・境界を越えた空間としての動きと意図
・純粋な意図だけが自動的に起こること

をテーマにワークを行なっていく予定です。
(内容は参加者さんの状況によって変更となる場合があります)


◆ワーク開催にあたっては、以下のコロナウイルス
対策を行います。

・参加者間の十分な距離を確保
・息のあがる運動はしない
・参加者に新品マスク配布
・入場前の手洗い必須化
・入口での手指のアルコール除菌
・平熱以上の方の入場不可
・ワーク中の身体接触回避


◆直近に開催したワークの様子

【10/18(日) 東京ワーク】~所感と解説~ ←new
http://rubins-work.com/blog-entry-95.html

【9/5 (土) 東京ワーク】~所感と解説~
http://rubins-work.com/blog-entry-86.html


◆参加ご希望の方は、拙著「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」
をお読みのうえ、まずは以下のフォームからメルマガのご登録をお願いします。

⇒メルマガ登録はこちらから

追って参加条件等の詳細をご連絡いたします。


※参加者一人一人の身体とエネルギーを見ていくため少人数性となっております。
参加希望の方が多い場合は先着順とさせていただく場合がありますことをご了承願います。


※メルマガ登録されている方で万一、ワーク案内メールが届いていない方が
いらっしゃいましたら迷惑メールフォルダをご確認ください。



※ツイッターはじめました※
@Rubins_work
https://twitter.com/Rubins_work
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【10/18(日) 東京ワーク】 ~所感と解説~      

2020/10/22

10/18(日)東京にてワークを開催しました。

ワーク6

ワークブログ1


【今回のメニュー】

・存在の奥からベロを出す
・肉体の目の動体視力(意識の動体視力への準備)
・眼球運動の非連続性と盲点を見る
・前後左右の区別をなくす歩行
・丹田で風船を膨らます
・右脳と左脳の境界をなくすエクササイズ
・盆の窪の空間をつくって背骨をぶら下げる
・プリセットされた球の意識を瞬間で切る
・頭頂と尾てい骨の感覚を物質的につかむ
・頭頂から尾てい骨の引張り合いと軸
・軸だけの意識で尾てい骨から飛ぶ
・物体と重力に規定された軸の感覚をつかむ
・居座らない座法(姿勢の調整)
・居付かない立禅(姿勢の調整)
・丹田~胸~喉~目~頭頂、各部のあいだの具体的な感覚
・対象のある祈りから対象のない祈りへ
・肉体の目と内部の目の感覚の違いを見る
・内部の目の立体感覚と視界の変化
・内部の目を留意し気絶せずに寝落ちする
・内部の目の活性化と頭部の意識の調整(コーリング)
・呼吸の先をたどって存在の奥のもうひとつ下に潜る
・物質と肉体の境界を観察してひとつ先を見る
・スキャン&ダイブで肉体の限界点を突破する
・肉と骨を動かさずに境界のない空間から動く


【所感と解説】

今回は、身体の意識を組み替えるための基礎的なワークが中心
となりました。

ここが曖昧なまま瞑想しても、様々なレベルの「自分」という感覚
がごちゃごちゃなまま混在し、肉体の先へ入る集中を妨げます。

物質を超える前に、まず物質と肉体を具体的に意識したうえで
「そうではないもの」の領域に入っていくほうが明確なのです。

そのため、ワークではしばしば実際に周囲の物質や小道具などを
用います。



・存在の奥からベロを出す

丹田の奥の肉体の境目から慟哭するように息を吐き出しながら舌を出します。

背骨を整えて腸腰筋を上下にストレッチしないと舌は奥底から連動して出せません。

ここから出る声は重低音で響くオームと同じです。

基本的な体のラインと全体の拮抗関係のチェックになります。


・丹田で風船を膨らます

丹田から舌を出したときの感覚で息を奥から吐き出し、風船を膨らませます。

胸から息を吐かずに丹田の圧が直接風船に連動するようにします。

風船を膨らませるたびに丹田に気が貯まり骨盤が押し広げられている状態
になるとエネルギーが充足されます。


・肉体の目の動体視力(意識の動体視力への準備)

肉体に同化している意識では、気づきが眼球の動きと連動しています。

意識単体の気づきの動体視力へ移行する前の準備として、肉体の目の
動体視力を体感するためのエクササイズです。


・眼球運動の非連続性と盲点を見る

両手を広げて眼球を左右の手の間でゆっくり動かしていきます。

すると、日常で意識していないカクカクした非連続的な眼球の動きと
気づきの関係や、普段は脳内で編集され意識にあがってこない左右の
盲点に気づきます。

普段意識されないこれらの空白の瞬間に、一瞬の揺らぎとともに思考
の種が発生することを見ます。


・前後左右の区別をなくす歩行

私たちは普段、死角になっている背面を意識せずほとんど前面の意識
だけで生きています。

まずその自覚を持ったうえで背面を意識し、さらに前面と背面の区別を
身体的に無化するエクササイズです。

前に向かうときの感覚を細かくチェックし、次に後ろに向かうときの感覚
との差を観察します。

次に、前に歩くときとまったく同じ感覚で後ろへ歩いてみます。

体の各パーツの位置を意識して具体的に行うのがコツです。

同じく、左右も無化していき、前後左右が無化されたら回転します。

すると、自分が回転しているのではなく軸だけが回転している感覚になります。

ここにプラスして上下の区別もなくしたいのですが、逆立ちは若干難しいという
ことで、できれば水の中で前後左右上下がなくなるまで回転してみていただき
たいと思います。

(逆立ちをする場合は、壁を使ってもよいので手の平を足の裏、足の裏を手の平、
頭頂を尾てい骨、尾てい骨を頭頂と置き換えて宇宙空間に向かってグラウンディング
し、手の平で地球を持ち上げるようにします)


・右脳と左脳の境界をなくすエクササイズ

左右の手に別々の動きをさせることで脳の偏りをニュートラルにします。
ここが偏っていると軸がズレたまま、その傾きを自分だと思い込み続け
るのです。

最初は左右ともに簡単な動きから入って、徐々に複雑にしていき、最終的
に立体を描くところまでもっていくのが理想です。

また、左は平面、右は立体というように、左右で次元を異なるようにする
と効果的です。

はじめは脳が混乱してつっかえつっかえだったのが、ある瞬間ふとできる
ようになると、自転車に乗れた瞬間のように軽くなり脳の中心にシフトします。

個人の心身の癖を突破し、この中心から見ていたいのです。


・プリセットされた球の意識を瞬間で切る

膨らませた風船を持って表面をなぞって球体のイメージをつくります。

目をつぶっても球体のイメージと感触がはっきり出るようになったら、
次に、いったんイメージを捨てて瞬間瞬間を見ていきます。

このとき球体のイメージが出かかったらそこで気づいて像を結ぶ前に
切ります。

先に触覚、視覚、体感で創った球体のイメージを瞬間瞬間で崩していきます。

植え付けられた概念がどのように立ち上がってくるのかをつぶさに観察することで、
概念化のプロセスを見切ります。


・盆の窪の空間をつくって背骨をぶら下げる

頭蓋骨と頚椎の境目の窪みの周囲の強張りに気づき、空間を開けるように
すると、頚椎がしなやかに動き始め、頭蓋骨からぶら下がっているように
なります。

盆の窪周辺の感覚は、背面の意識や、意識のホワイトアウトに関係しています。

ここを開けると、内部の目の感覚がとらえやすくなります。

瞑想のポイントとなる「バカになる」ためには、ここと口腔内の空間をぽかんと
開けます。

合気上げもここを使うと一瞬のホワイトアウトのあいだに相手がふっとびます。


・頭頂と尾てい骨の感覚を物質的につかむ

まず頭頂のポイントを明確にします。

ここでいう頭頂とは、頭蓋骨の中央ではなく、背骨の延長上にある点です。

そのため、自分で思う頭頂よりもかなり後ろにある感覚がするはずです。

このポイントと背骨がピタっとそろうと容易に意識はホワイトアウトします。
(ホワイトアウト自体は目的ではなく、過程なのでここに気絶し続けないこと)

今回は頭頂にビー玉の袋をのせてゆっくり上に持ち上げ、押すでも引くでもない
あいだにふっと浮く瞬間を見てもらいました。

さらに頭頂のポイントを壁にグリグリ押し当てて、常に留意する感覚を物質
レベルで記憶させます。

尾てい骨の感覚も同じく物質から記憶させます。

床に座って膝を立てて足を開き、尾てい骨を床に押し付けて感覚をたしかめます。

感覚を保ったまま尾てい骨から連動させて足を動かしていきます。

尾てい骨の物理的な感覚とともに、そこから始まってエネルギーが派生していく
様子を観察します。


・頭頂から尾てい骨の引張り合いと軸

尾てい骨の感覚が記憶されたら、頭頂のポイントと連動させ、蛇腹のように動く
一本の軸の意識をつくります。

このとき、尾てい骨は地面に垂直に刺さっており、頭頂のポイントと軸を通して
引張りあう感覚にします。


・軸だけの意識で尾てい骨から飛ぶ

尾てい骨と頭頂が引張りあっている軸ができたら、軸だけが空間にぶら下がっている
イメージで、上下に軽くジャンプしてみます。

このとき実際には足の裏と地面の押し合いで飛び上がりますが、足の裏からではなく、
尾てい骨からジャンプが起こる感覚で飛びます。

(感覚がわかる人は、尾てい骨から起こるエネルギーを軸を通して頭頂に突き抜け
させることでジャンプします。尾てい骨から発火するイメージです。)

肉と骨を忘れて軸だけが上下にスライドしている感覚をつかみます。


・居付かない立禅(姿勢の調整)

軸だけが浮いている感覚がつかめたら、ジャンプする直前の感覚で足の裏を床に
置いておき、頭頂に留意しつつ直立します。

内臓と肉は骨盤内にどさっと落とさず、骨格の間の空間に浮いているようにします。

ここで、一人では気づきにくい各自の癖やバランスを調整しました。

この状態で立ったまま瞑想します。


・居座らない座法(姿勢の調整)

基本的に、居付かない立禅と同じ状態で座ります。

理想としては、立禅の状態からすとんと軸が尾てい骨から床に落ちて足が折り
たたまれ、その瞬間から座禅がいきなり始まる感覚になりたいのです。

座ったときは股関節の柔軟性や骨盤の傾きによって軸がズレるので、再度
調整していきます。

このときも、内臓と肉が骨盤内に落ち切らないようにし、いつでもパっと立ち上がれる
感覚を保ちます。

この感覚が瞑想の軽さのために必要なのです。


・丹田~胸~喉~目~頭頂、各部のあいだの具体的な感覚

輪ゴムを3~4本束ねて持ち、指で引っ張ったり緩めたりします。

次に引っ張ることと緩めることのどちらでもないあいだの感覚を
見つけます。

実際に身体のポータルとなるそれぞれのポイントの前で輪ゴムを
持ち、あいだの感覚と各ポイント内部の感覚を連動させていきます。

ゴムとの連動で物理的に空間を開け、ニュートラルかつ動的なあいだ
に浮いている感覚をつかみます。

頭頂のポイントではゴムの輪を開いてそこから軸が上空に飛び出していく
感覚をつかみます。


・対象のある祈りから対象のない祈りへ

軸をつくったうえで、ハートの奥のポイントから腕を平泳ぎのように繰り出します。

前・左右・上下に向かって吐く息と同時に胸から投げ出すようにします。

投げ出す感覚をつかむために、座布団などの上に五体投地のように胸から身体を
飛び込ませるのも効果的です。

この手の動きの延長で、すとんと自然に胸の前に落ちるところで合掌します。

合掌した手を頭の前に差し出して開いていきながら、首の後ろの急所を前方へ
差し出します。

このとき「殺されてもかまいません」といった感覚で自分を差し出すのです。

そこからニュートラルな直立姿勢に戻り、手を上に上げながらサードアイを天に
向かって開きます。

全天に意識を差し上げホワイトアウトする感覚で行います。

ここからさらに頭を後ろへ落として首の前面を天に差し出します。

「首を切られてもかまいません」という感覚です。

そこから再びニュートラルな直立姿勢と合掌に戻ります。

ここで合掌の手をほどき、直立のまま祈りの真ん中にいます。

これが対象のない祈りの基本の型です。

祈りは全体の運動と軸の中心で起こっているのです。

この祈りに、自分を捨ててぽかんと放下します。


・肉体の目と内部の目の感覚の違いを見る
・内部の目の立体感覚と視界の変化


気づきが肉体の目と連動していると、意識が肉体と癒着したまま
先に進めません。

次の段階に進むための具体的なエクササイズです。

内部の目は偶発的に引き剥がされることもありますが稀です。

このポイントだけは意識的に訓練する必要があります。

<過去のワーク参照>
http://rubins-work.com/blog-entry-43.html
http://rubins-work.com/blog-entry-61.html
http://rubins-work.com/blog-entry-68.html
http://rubins-work.com/blog-entry-73.html


・内部の目を留意し気絶せずに寝落ちする

上記の内部の目の感覚がつかめたら、その感覚を軽く留意したまま
意識は丹田の奥へ落とします。

落とすときに留意も一緒に落ちないように、意識だけをするっと引きはがします。

意識を落としたときの感覚は熟睡しているときの感覚に近いですが、見ている
目は起きているように注意します。

内部の目の留意が強すぎても弱すぎてもうまくいきません。

この目を完全に置いておけるようになると、気づきが場所を離れて自動化します。

(「置いておく」感覚は、瞑想すべてにおいて重要ですが、目を置いておくのは
気づきと連動していて難しいため、手や足などの身体のわかりやすい部分から
感覚をつかむワークも別途行ったほうがよい)


・内部の目の活性化と頭部の意識の調整(コーリング)

内部の目の留意と丹田の意識を保ったまま床に寝てもらい、頭部の中の
位置と感覚を見ていきました。

具体的には、私が参加者さんの頭の下に手を置いて読み取り調整します。

明確な位置と機能はまだ曖昧なものの、気絶せずに寝落ちする感覚を
つかんでいただくために、呼吸によって頭蓋骨の中が収縮するタイミング
で気絶しないように都度、信号を出して意識化してもらいました。

(信号を出さない場合は経験上、ほとんどの人がそのまま寝てしまいます)

この感覚は、実際に認識がバリっと剥がれるときまで明確になりませんが、
本人の自覚とは関係なく、こちらの感覚と同調させることで未来に直接
「呼びかけておく(コーリング)」ことは可能なのです。

(こういう表現は誤解を生みやすいのであまり使いたくないのですが…
これは神秘的な何かではなく、具体的なものなのです)


・呼吸の先をたどって存在の奥のもうひとつ下に潜る
・物質と肉体の境界を観察してひとつ先を見る


丹田の奥に意識を落とすとき、肉体と意識が同化していると肉体の
境界より先に進めません。

この先に進むために、まず肉体の呼吸の境界を知っておきます。

まず、呼吸とともに意識がたどれる一番深いポイントをみつけてもらいます。

ポイントがみつかったら、呼吸が続く最後の苦しくなるところで一瞬、意識を
ふっと浮かせて細かく分散し、ポイントの裏側からもう一段奥へ滑りこみます。

(苦しくなるところで呼吸を肉体に戻さずに一瞬だけ置いて忘れた隙に意識で
潜り込む感覚です。苦しくなった瞬間に身体のテンションをすべて抜くのがコツ
です)

ここは、肉体とイメージの境目で、肉体の呼吸だけでは入っていけません。

意識の呼吸のような微細な波動で入っていき、そこで気絶しないように内部の
目で見続けます。

たいていの場合、このポイントから先に入れてもそこで意識が曖昧になり気絶して
しまうのですが、そこを突破してどこまでも見続けます。

この先は集中しようとしなくても、ただ見続けることで勝手に集中が起こります。

この感覚を具体的につかむために、水を飲んで感覚が消えるまでを観察してもらい
ました。

水が食道を通って冷たい感覚が霧のように消える瞬間までを正確に見ます。

消える瞬間までは肉体の感覚ですが、消えた瞬間の余韻のようなところまでを
観察し、肉体からイメージへと続くグラデーションを見ます。

この感覚がつかめたら、これを丹田の奥の呼吸に応用すればよいのです。


・スキャン&ダイブで肉体の限界点を突破する

丹田の奥に入っていくとき、なかなか肉体のレベルの呼吸から先の感覚が
つかめないことがあるため、参加者さんの呼吸の深さと意識をスキャンして
その奥へと進む感覚をナビゲーションしました。
(手に触れて一緒に「連れていく」感覚で行います)

みなさんかなり深く入れてはいましたが、やはりまだ肉体の限界で呼吸を
折り返しているため、まずは参加者さんの潜在意識に「この先、まだ進めるよ」
という呼びかけを刷り込みました。

顕在意識に呼びかけても意識化自体が呼吸を浅くするからです。

ただ、先の説明のように、ほんの少しだけポイントでの「抜き方」を知るだけで
突破は思いのほか容易なので、あくまでもナビゲーションは補助であり、
自身で感覚を見つけていただきたいと思います。


・肉と骨を動かさずに境界のない空間から動く

「足を上げてください」というと、足という肉と骨の物体を持ち上げる
イメージが浮かびますが、肉体ではないところから動きが起こる感覚を
具体的につかみます。

まず、股関節周辺の何もぶつからない空間のような感覚を見つけます。

そして、その空間だけを折りたたむようにすると、肉と骨が勝手に
ついてきて結果的に足を上げた形になります。

同じように、これを肘でも行ってみます。

肘の内側の空間をみつけ、その空間を肉体にぶつからないように折り
たたみます。

すると、肉を動かしている実感のないまま、肘は結果的に曲がった形
になります。

これは頭でも目でも耳でも内臓でも身体のどのパーツでも行えます。
(さらには思考や意識でも行えます)

このどこにも触れていない空間は、身体の枠を超えた周囲の空間と
まったく同じものです。

枠はあってないようなものなのです。

この感覚がつかめると、空間そのものがただ動いていて、そこにたまたま
身体の形のものが連動しているといった感覚になります。

身体の枠を超えようとしなくても、枠を置いておいたまま、私たちは
すでに内部も外部もない空間そのものなのです。

注意するのは、動かしているのは気功の気のようなものではなく、あくま
でもただ空間が境界なくそこにあるだけで、その空間に唐突に意図が起こって
身体の枠がついてくる感覚ということです。


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【覚醒からのつぶやき 8】        

2020/10/14

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。


セレナイト
セレナイト(繊維状透明石膏)

**************

◆心身の硬さを能動的に柔らかくしようとすると、
表面だけ緩んでも硬い芯が残り続ける。
見ている自分の意図自体が硬いからだ。
柔らかくしようと意図せず、そこにある硬さを置いたまま、
ただ受動的に見続けていると、見ている自分とともに芯から解けていく。
この柔らかさは別次元のもの。  

◆今日はワーク開催予定だったが、おととい台風の影響を考えて
次週に変更した。
変更したと思ったら進路が変則的な動きを見せている。
今回の台風は、いろいろな意図が連動しているようで面白い。  

◆神はこうやってすべてを完璧に配置する。
それが一見、自分にとって好ましくないことであろうとも。 

◆台風が逸れて喜んでるけど、逸れた先で被害に合う人もいる。

金子みすゞの詩を思い出す。

朝焼け小焼けだ大漁だ
オオバいわしの大漁だ
浜は祭りのようだけど
海の中では何万の
いわしの弔いするだろう

この視点はいつも持っていたい。

◆現在の私が過去の私を癒せるとしたら、現在の私の苦しみもまた、
未来の私が癒してくれるだろう。
癒し、癒される、私自身の過去・現在・未来の信頼関係において。
そして、過去・現在・未来の距離がなくなったとき、癒し、癒される私は
ひとつとなり、瞬間瞬間に苦は浄化されるようになる。  

◆過去の私、現在の私、未来の私、すべての私と仲良くなろう。
すると、私自身が私を助けてくれるようになる。
この安心感は唯一無二のもの。  

◆ウィリアム・ブレイク『天国と地獄の結婚』より
「知覚の扉が取り払われたら、何もかもがありのままの無限の姿で
人間の前に顕れるだろう。人間は自らを閉ざしてきた。
今や、人間は、洞穴の狭い隙間からものを見ているに過ぎないのだ」  

◆経典は頑張って理解しようとしない。
わからない部分を頭で理解しようとすると、その時点の認識による解釈で
自分自身を固定してしまう。
自分の体験から直観的に腑に落ちるまで、先を急がず寝かせておく。  

◆苦しみが自分のアイデンティティになっている人は苦しさが生きる糧なので、
他人の苦しみまで探してあれこれお節介を焼こうとする。
だから望みどおり、ますます苦しくなる。  

◆姿勢による各部位の力の方向性と意識は連動している。
身体と意識のすべての方向性を一点でバランスをとるのが座禅。
その一点は、止まっているわけではなく、すべての運動の可能性を
含む消失点なのだ。
それを知るために、いったん動きを分解して身体動作の方向性を知る
アプローチは有効。  

◆いわゆる「引き寄せ」では、力を「くっつける」方向ばかりを強調するが、
「くっつくこと」と「はなれること」と「ひっぱりあうこと」、
この3つの力が現象の本質です。
特に意識においては「ひっぱりあう」拮抗する力のあいだにいることが重要。  

◆ぶっちゃけた話、すべては動きでしかないんですよね。
高尚な言葉や難解な概念をとっぱらうと。  

◆動いているものは誰でも認識できます。
あとは、動いていないものの動きを見るだけ。  

◆ただし、すべての動きは相対的な錯覚です。
  
◆つまづくとしたら、ここですね。
だから観察して錯覚を見抜くのです。
ヒントは身の回りのすべてにあります。
あれこれ習いに行く必要もないのです。  

◆そのことを、仮の定点である私を通して見抜くということです。  

◆仮の定点がなければ何も認識できません。
自分自身が動きそのものになるからです。
だから、仮の定点を担う私という存在は貴重なのです。 

◆そんなの知ってるよと思うかもしれませんが、それだけなのです。
それさえわかれば、あとは動きの組み合わせがあるだけです。

◆あらゆる解釈がものごとを複雑にする。
複雑さにプライドをもたず、単純でいる勇気を持とう。  

◆単純であれば、力をひとつに凝縮できる。

◆複雑化してもいいが、複雑化の過程の中の単純さにあること。  

◆「わかりたい」という想いが世界を創る。
動きそのものは「わかる」以前にある。

◆「わかりたい」者がいないとき、動きそのものだけになり、
世界があるかないかを観察する者はいなくなる。  

◆動きそのものは無明ではない。
動きをコントロールしようと足掻く意図が無明だ。  

◆頭ですっきり割り切れるものよりも、心がすっきり割り切れる方向
へ導かれよう。 
 
◆過剰な自信も、過剰な謙遜も、神への冒涜となる。  

◆止まっている電車に乗っていて隣の電車が動き始めると、
乗っている電車が動き出した感覚がする。
隣の電車と並走していて乗っている電車が減速すると、
後ろに進んでいく感覚がする。
乗っている電車と同じ速度の電車が並走していると、
止まって見える。 

◆物体の相対速度による錯覚は理屈を知れば容易に見抜けるが、
心の錯覚は見抜きづらい。
物体も心も錯覚の仕組みは同じだが、心は常にいろんな速度で変則的
にあちこちに飛び回っていて、相対的な基準がズレ続けていくからだ。
逆にいえば、心の方向と速度がシンプルになれば、錯覚は見抜きやすくなる。  

◆単純であることは、騙されやすくなることではない。
単純であればあるほど迷いがなくなり、本質が見抜けるようになる。 

◆女性でも男性でも、どちらでもない性でも、
女性の心身の働きの微細な綾を知る人は、
現象世界の創造の原理を理解する。
ここはマッチョな修行だけではわからない。
私自身、女性でありながら無視し続けてきたところだったが、
それを知ることは計り知れない恩恵がある。  

◆勘違いしてはいけないのは、女性として生まれても、
女性性の原理を自ら理解する必要があるということ。  

◆念が呪いに近くなって別の存在を呼び寄せてしまう人がいます。
妄想とはいえ、ある種のパワー感を持ち始めるのが厄介です。
そうなるとなかなか自分では気づけなくなります。
気づきに爽やかな軽さがあるかどうかは常にチェックしてください。  

◆何らかの対象物に対して祈りを捧げる時も注意が必要です。
いつのまにか別の存在に祈っていることがあるからです。
強いパワー感があっても、知らないうちに妙な契約を結ばないようにしてください。  

◆危ないパワーを身につけるぐらいなら、無知な方がずっとマシです。
エネルギー系は自分で判別できなければ、うかつに扱わないことです。
 
◆こういう類のパワーを纏っている人は薄暗い空虚な内面を隠しています。
この空虚さは、千と千尋のカオナシのように何でも飲み込んで自分のパワーを
拡大しようとします。
底なしの虚空は周囲を引き込むパワーがあるため、無知な人々を引き寄せます。  

◆この虚空を無我や空と勘違いしないこと。
パワーをいくら身につけても不足している感じがしたり、寄ってきた人の
エネルギーを吸い込んで浄化が必要と感じる場合はカオナシになっています。
空虚さをパワーで埋めるのではなく、自身のエネルギー量に応じて人に与え、
何も持とうとしないことです。  

◆存在には、真剣さはいるけど、深刻さはいらない。
瞑想では、深刻な馬鹿にならず、真剣な馬鹿になる。  

◆真剣になればなるほど、どんどん軽くなっていく。
重くなっていくのは、深刻になっている証拠。
  
◆もっと軽いノリでいこう。
くすくす笑ってる途中でふっと瞑想に入るぐらいでいいのだ。
瞑想の境目をなくしていく。  

◆頭と顔の筋肉を緩めて、美しい馬鹿になろう。  

◆真剣な馬鹿の馬鹿力は、この世で一番強い。
全部が緩んだとき、瞑想が爆発する。  

◆緩みきってハラから笑いが沸き起こってきたら、目覚めはすぐそこ。 

◆緊張を知らないと緩みもわからないから、人生の緊張も悪くない。
緊張したら、あとは緩むだけ。
  
◆今からオリンピックメダリストやノーベル賞受賞者にはなれなくても、
自分至上最高の馬鹿には誰でもなれる。
すごい希望じゃないですか?  

◆人に与える心地よさに味をしめて、欲張って与えすぎないようにする。
自分自身を過不足なく知り、すべてにおいて丁度いいエネルギーの
真ん中に浮いていよう。
  
◆全体の力のバランスを知ってはじめて、煩悩とよばれるエネルギーを理解する。
煩悩自体はただのエネルギーで、特定のバランスに引き込む作用があるだけ。
これが個別の人間という限定された枠の中で、偏りの幻想を生む。  

◆弱い力の「あいだ」と、強い力の「あいだ」は同じもの。
弱い人間も強い人間もいるが、どこを切りとっても「あいだ」は同じもの。
だから、覚醒を知るのに自分自身以上に強くなろうとする必要はない。
弱くても強くても、そのままの自分で「あいだ」を知ることはできる。

◆世界と分離して孤独だと感じたら、いったん赤ちゃんの知覚から
復習してみるのがおすすめ。
赤ちゃんは視界がぼんやりしている時期から周囲のものを舐め回したり
触ったりして世界の知覚を学習する。
視野がはっきりしてくると、自分の体で遊んだり、周りのものを指差したりする。  

◆この過程を、馬鹿馬鹿しいと思わずに実際にやってみる。
目をぼんやり開けて周囲のものを舐めたり触ったりしてみる。
そうすると忘れていた世界との親密感が蘇ってくる。
特に、舐め回し感覚は意識の触覚を創る。
個人的にここはワンネス感覚にも少なからず影響していると感じる。 

◆ここからもう少し大きくなって、床を転がり回って体の重さとバランスを知る。
ハイハイは四肢の視覚的・体感的なコネクションを知りバラバラな世界を連結する。
これらの鏡像段階前の世界のつながりをいったん取り戻すと安心感が生まれる。
身体を取り戻す前に身体を超えようとすれば揺り戻しがくる。

◆赤ちゃんは腸の快不快の意識はあるが、ハラの意識はない。
ハラは自我と連動しているからだ。
自我がハラに脱落するためには、いったん自我を育てる必要がある。
そうでなければ、赤ちゃんの自他未分のままなのだ。
その状態は苦を苦と認識しなくて幸せともいえるが、世界を再認識できない。  

◆体系化された言葉は頭を気絶させる。
体験はいつも、その人の言葉にならない言葉でしか語り得ない。
うまく語れたと思ったらもう、体系に気絶している。  

◆しいて言い表すと「シャッ」とか「ピキッ」とか「ウニョにょにょ」とか
「きききっっっっききっっっっっっk」とかだけど、それじゃあ経典は信者の手前、
格好がつかなかったんだろうな笑  

◆認識が剥がれるときは、頭の中心でF1カーが死ぬか生きるかの
舵切ってるような感覚というのが、思いつくかぎりでは近い。  

◆瞬間は前後ではなく、同心球状に断たれる。
ここにつまづくと、気づきは並行線をたどる。  

◆二次元的な前後の裁断は卒業する。
同心球状(ただし人間の構造上、体感としてはトーラスになる)以上は、
この次元の自己同一性では同時には捉えられないので直観にとどめておく。  

◆もちろん、気づきの瞬間に同心球を設定しているわけではないので、念のため。  

◆前後に裁断するというのは、直列的時間の中の話ということに加えて、
世界を認識の問題だけで片付けようしてしまうのが片手落ちなのだ。
両側を立体的に見るには、世界の創造の源にも立ち会う必要がある。  

◆気づきの瞬間にはひとつしかないというのは、人間の認識形態による体感だ。
もちろん、この体感は人間としていったんハラで経験する必要がある。
しかし、これが終着点だと決めると、またもやここに幽閉される。  

◆人間としてハラで一如を経験しても、前後ではないということは明確にわかるはず。
おそらくその直後に、頭が概念化したのだろう。  

◆前後という前提こそが、見切られるべきものである。
同心円もまたしかり。  

◆同心球状の裁断とは、全方向への回転の真ん中に「回転を止めずに消えている」
ということです。
この消える一点においては、一如の覚醒体験としては違いはありません。
ただし人間は、この軌跡の一瞬を、直線から切り取って認識します。
だから前後の裁断と錯覚するのです。  

◆すべての瞬間は、あらゆる速さと大きさの相対的な回転の中心ですが、
地球上での認識はまた、重力と自転と公転の方向に限定されます。
全体の回転はこれらの方向に限定されません。
瞬間は無限の回転方向が同時に運行している中の一点です。  

◆前に進むという直線的な前後感覚は、人間の心身と認識の構造自体に
組み込まれています。目が前面に配置されたのはこの理由です。
認識には、後ろが見えないという視野の死角が大きな影響を与えています。
これが、トーラス状の見かけ上の運動の一部を、直線的に切り取らせる要因です。  

◆しかし、これらもまたひとつの中心があって回転が起こっているという限定された認識です。
中心はひとつであってひとつでないのです。
これ以上は、同時複数的な全方向に回転するカメラのような存在形態でしか認識できません。
現象は、ひとつの平面的なスクリーンに映っているだけではないのです。 

◆すべてのものが、それ自体が回転しながら全体の回転の中の一部です。
全体の回転は無限に拡大されますが、どの回転の一点でもそれを悟ることは可能です。
これら全体の回転から人間の進化の軌跡を切り取ったのが螺旋構造です。  

◆これらの認識もまた、途上にすぎません。
とはいえ、ここまでを体験することはそう難しくありません。  

◆運動と一体化している意図もまた、回転の中の一点から
「飛び出して(はみ出して)」くるのです。  

◆私たちの局所的な運動は、無限の回転の遠心力から飛び出してきては、
新たな回転を生み出し、それ自体がまた、中心をつくって周囲と引き合います。  

◆個人が悟るのではないのです。そうであるとき、悟りもまた、永遠に進化します。  

◆これらを知るときには、いったんすべて忘れる必要があります。
座禅にしても、輪廻にしても、同一性の忘却可能な認識システムは
有り難い恩寵なのです。  

◆螺旋の軌跡は3次元上で仮に視覚化されたものです。  

◆私たちの身体性をもって体感できるのは、平面球までです。  

◆上の次元から俯瞰するとき、瞬間に裁断されて飛び出すものは回転する球です。  

◆当たり前の話ですが、球を裁断するのは「球のナイフ」です。
だから自身の認識が球になる必要があるのです。  

◆回転もまた、切り取られた仮の姿です。
しかしそれを「平面的に」却下するのは幼く乱暴すぎます。
それを私は「気絶」と呼びます。  

◆私たちは古代からこの気絶の境界を、様々な象徴にすり替えてきました。
神の概念もそのひとつです。  

◆ここで言っていることも途上にすぎません。
ただし、幼い私たちでも、過程を見る目を開くことは可能です。
いったん目を開き認識が転換すれば、勝手に進んでいきます。  

◆いったん「ぶった切る」という荒療治が必要なのです。  

◆ごちゃごちゃいわずに悟ればいいんだよ!という態度は
子供っぽいと言わざるを得ません。  

◆何も信じないこと。
既存の言葉に当てはめないこと。  

◆「過程のままでいい」と悟ること。
誤解を恐れず言うならば、解脱もまたひとつの「アイディア」なのだ。  


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