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【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <8.現象・魔術・ツボ・物質>    

2019/09/26

8. 現象・魔術・ツボ・物質


●現象

現象世界とはなにか?

現象世界という空間的に切り離された世界があるわけではない。

現象世界のなかで起こっているすべてのことは、覚醒において同時並列的に始まって終わっているものの3次元的残像である。

現象世界で起こっているすべてのことは、覚醒側のエネルギーバランスと瞬時に結びついており、ひとつの構成要素が抜けても全世界が瞬時に崩壊する。

たとえば今、手を1ミリ上げることが、全世界を覚醒側から同時に動かす。

手を1ミリ上げることが今起こったとしたらそれは覚醒が覚醒しているために絶対的に必要な采配のバランスであったためであり、見かけ上の手の持ち主であるわたしはそれによってその瞬間すべての創造に関与したことになる。

この世界を創造するために、それは1.1ミリでも0.9ミリでもなくその瞬間、1ミリだったのである。


わたしを空にして覚醒に差し出したとき、わたしの認識機能と多次元の断続的連なりであるわたしの身体は、覚醒そのものとして瞬間瞬間に全世界を動かすものとしてある。

この意味において「起こることが起こる」ということが強烈な触覚をともなって、存在の根本を直接えぐられるように認識されなければ覚醒といえない。


それは現象の個別のストーリーや風景としての3D残像の表面を見て「起こることが起こる」と一喜一憂するような癒しや感情や概念のレベルではない。

たとえば足を一歩前に出すことは、身体の下部に生えている自分の「足とよばれるもの」を、「前と認識される」方向へ自分で出しているように見えるが、それは覚醒側からの采配によりその瞬間、「足とよばれるもの」がその質量ぶんの空気を押しやり、目の前の「空間」に突然出現してきたのである。

その「足」が自分の身体に一続きにつながっているものであり、連続する時間と空間のなかで自分が動かしたという感覚は、後付けの脳内編集によって起こる。


覚醒を知った意識でこの現象を3D側からみたとき、覚醒側からのエネルギーの采配というブラックボックスを経て、突如として現象が瞬間瞬間に顕れ出てくるように見えるようになる。

采配はあまりにも複雑精妙であって、そのしくみは人間から見ればまったくのブラックボックスである。


●魔術

ただ、こちら側からみれば、すべてのものがあたかも魔術のように、采配の妙によって唐突に出現して見かけ上の整合性をもって配置される。

この整合性をもった配置を「あたりまえのもの」として見ていた視点から覚醒の意識へシフトすると、現象世界に顕現するあらゆる瞬間が驚異的な魔術のように感じられる。

こうやって「足」が「前」に出たとき、その動きは即座に全体のエネルギーバランスと配置に作用し、それによって覚醒側の次の采配にフィードバックされる。


この一連のプロセスは、覚醒側からみればひとつのところで同時並列的に起こっているのだが、3Dの残像を見ているわたしに同化している担当者は、あたかも覚醒側からこちらの空間に現象を投げかけられ、その現象を認識し再編集して再び覚醒側に返しているかのように感じられる。

こちら側とあちら側の双方間のフィードバックの応酬が無限に続くように思われるのだ。
応酬は原因が結果となり、同時に結果が原因となり、全体のエネルギーバランスの采配と連動して果てしなく続く。


全体のバランスをとるために、なぜこのようなしくみでわざわざ3Dの世界の幻を創り、そこで自己の感覚を持たされて見かけ上の行動をさせられるのか、もう少し効率のよいフィードバックのあり方でもよかったのではないかと思いもするが、この3Dと覚醒の関係はなんらかの必然があってこうなっているのだ。

このフィードバックのしくみを知ったとき、見かけ上のわたしの瞬間瞬間の動きは、顕現すると同時に覚醒の采配に即座に連動していると感じられ、まるで覚醒とわたしが二人羽織で3Dというフィールドを利用して、いったん現象として可視化された事象をフィールド内の物理法則を使って動かし、その動きのエネルギーだけを取り出して再びフィールド外の采配にフィードバックしているように感じられる。

覚醒とわたしが二人羽織になったとき、次元をまたいだ「しくみ」の理解が次々におりてくる。

わたしは羽織の中で覚醒の采配が現象世界に顕れてくるのを見ている。

肉体からくる自己感覚の想起と覚醒とのあいだに漂っていると腕の形をしたものがニョキっと視界に唐突にでてきて勝手にうごく。

羽織の袖から出た覚醒の腕が見かけ上、私の肉体の腕としてモノをつかむ。

わたしは自分の意志では腕をうごかしていない。

わたしの腕は私の目の前の机や椅子と地続きの「映像」である。

羽織の中で私のハートと覚醒は重なりあっている。

覚醒はわたしの目をとおして顕現されたものを見ている。

重なりあったわたしと覚醒の主体の比重はゆらゆらいきつもどりつしている。

この状態で足を踏み出して歩きだすことが起こるとき、明晰夢の中のように身体が動き、魚眼レンズのような空間の中に身体が顕れ、足が前に出ているようでも進んでおらず、認識の座は不動で、レンズにうつる景色が認識の目に巻き込まれるかのように移り変わっていくさまが見られる。

それはまるで、移動しないルームランナーの上で歩きながら、周囲の景色が移り変わっていくようなものである。

景色は外側にはなく、すべて内側にある。

見かけ上、外に向かいながら内でトーラスのように3Dの面を「巻き込んでいる」。

身体の表面を覆う皮膚や痛みの個別感覚が「人間の身体感覚という夢を存続させるための戦略として」付帯装備されているために、自分の皮膚の境界の外にあるものにぶつかれば痛いし、自分と外界がわかれて認識されるようにできている。

身体の外だと思っているものはすべて3Dの脳が読み取った映像の投影であり、外を見ているようだが実際は内を覗きこんでいる。


この見えかたは、人間の目が前に向いていて後ろが見えず、意志が未来へ向かい、時間が直列で進んでいくと感じていることから生じる。

これは対象物を外側にあるかのように設定する認識の仕組みのほうが個別の自我が形成されやすかったという経緯による。

原初、アメーバのような形態から進化して徐々に直立し、目の位置が頭部の前方に移動してきたのは、自他の区別をつけ前方の空間の座標に位置する獲物や敵を判別し、個体としての自己が生き残るための戦略であったのだ。

その意味では、認識機能自体がエゴの進化の過程の産物であり、染みついた認識とエゴの関係を崩さないかぎり覚醒を知ることは難しいともいえる。

その付帯装備の幻想をバラバラにはずしたときに、認識の別の様相が立ちあらわれる。


幻想をはずすときには、まず身体感覚と概念をよく観察することである。

自分の手が視界に入ったときに、それは本当に自分とひとつながりの自分の手であるのか?つながっているとしたら自分の何とつながっているのか?痛みや内臓の位置、人間という身体の形、重さの感覚が、個別の自己の整合性をとるために断続的なものをつなぎあわせた「ひとつづき」というイメージとなっていないかどうかを観察する。


現象世界という夢の場にスポンと「飛び入る」瞬間、頭部の意識の座標が生まれ、その奥から見ている感覚になるが、身体意識の希薄の度合によって観ることの視座と空間認識は変わる。

レンズの位置と種類が変わるのだ。

明晰夢的に世界に入って参加するか、監視カメラ的に世界に参加するか、俯瞰的に世界に参加するか、それによって空間認識も変化する。


また、主体の比重によって「わたしが動かしている」という能動的な認識が強くなると、まるでわたしが動くことによって毎瞬毎瞬、世界を動かすためのツボを押しているように感じられる。

この感覚が発動したとき、これまで無意識に行っていた手足を動かしたり呼吸をしたり立ったり歩いたり食べたりといったあらゆるすべての瞬間が意味のあるものとなり、強烈に意識化されることになる。

それと同時に、あらゆる事象や物体の配置、たとえば道端の石がなぜその瞬間その位置にそのようにあったのかということが強烈な存在意義を持ってうったえかけてくるようになる。

なぜなら、その石の位置が1ミリでもずれていたら、この世界はなかったのだから。


フィードバックのしくみには現象すべてのものが同時に参加していて、なにひとつ無駄なことがない。

人間にとって一見、無駄と感じられることもすべて必然で起こっている。


わたしは3Dの現象世界の個別の事象を動かす魔術に長けているとはいえないし、現象とエネルギー采配のフィードバックの「対応表」のようなものを持ち合わせていない。
(現象のこのツボを押すと、この結果が帰ってくる、というような対応表)

もちろん、原因と結果の対応が単純なもの(たとえば、3歩あるけば3歩分の距離を進むとか、キーボードを打てば文字がでるなど)は経験上、だいたい原因と結果の采配の予測がつくが、複雑なパターンやインプットとアウトプットの関係が予測のつかない複雑なパターンについては、ブラックボックスのままである。


ほとんどの人間は、3Dの残像に顕れた事象の組み換えを、その場その場で予測のつく範囲で表面的に行っているだけである。

魔術は、統計的な経験から割り出されたエネルギーの象徴を用いて3D側からフィードバックを能動的に扱おうとするものである。

それは「現象のこのツボを押せば経験上、フィードバックのブラックボックスを通ってこの現象が帰ってくる可能性が高い」という3D側からのアプローチである。


●ツボ

ブラックボックスの仕組みの大部分が謎のまま過去の経験のストックあるいは、直観によるパターンの対応表をもとに意識的にツボを押すことが魔術である。

魔術においては未だ覚醒はブラックボックスの向こうに隠れているが、現象と覚醒のフィードバックの関係のしくみの一部を利用している。

「北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐が起こる」という例え話があるが、原因のインプットと結果のアウトプットのあいだのプロセスがあまりにも複雑なため、それぞれの事象だけを個別に見ていても蝶の羽ばたきと嵐との関係性に気付かない。


現象として顕れた問題を3Dの時間と空間のなかで解決しようとするとき、時間の流れに沿って、この複雑なプロセスを逆にたどって原因をつきとめなくてはならないが、非常に時間と労力を要する。

ここにはまってしまうと、前述したようにカルマのブラックボックスを解くために延々と時間をかけることになってしまう。

カルマにおいては原因と結果が無限に絡みあっているので、どこまで遡っても終わりがない。


しかし、覚醒と現象との二人羽織の状態を知り、結果を求めずにツボを押す担当者として徹するとき、原因と結果が直列的時間を経ずに同時にすべて顕れていることを理解する。

そのとき即座にすべての原因と結果のあいだのプロセスが無効となり、先の例でいえば「蝶が羽ばたく」ことと「嵐が起こる」ことのあいだの時間と空間が幻想であり、原因と結果という直列的発想自体が無効であることを知る。


わたしたちは、覚醒側において「蝶が羽ばたく」瞬間と「嵐が起こる」瞬間のエネルギーが交差する一点を、3D側の時間と空間のなかで展開して直列に並び替えて見ているのだ。

それはあたかも、無限に折りたたまれた質量のない折り紙の展開図を3Dにおいて広げるようなものである。

覚醒において「蝶が羽ばたく」点と「嵐が起こる」点はひとつに重なっていたが、3Dにおいて展開してみたら端と端に離れて位置していたようなものとしてある。


このしくみを知ったとき、解くべき原因と結果が幻想として見せられているものであることを理解する。

現象世界は仮想の魔術的空間である。

現象世界側の動きは全体へフィードバックするツボを押す。

意識的にツボを押すときそれは魔術であり、無意識的なとき人はツボ押し要員として使われる。(使われることに一切の被害者意識がなければそれはそれで問題ない)


たとえば一歩足を出すとき、それは即座に全体のバランスに「加担する」。
(あるいは、加担させた結果として足が出る現象が起こった、ともいえる)

「足を出している」見かけ上の主体者が「加担させられた被害者」と思うかどうかは、認識のレベルと立ち位置による。

「歩き」が起こったとき、肉体と同化した「わたし」にとっては「動かされた」という受動になり、覚醒側にシフトしていれば「動かした」という能動になる。


通常、3Dのわたしたちは「わたし」というエゴが能動的に足を動かしていると思っている。

しかし、「わたし」というエゴ感覚は、足が動かされた後に後付けで起こったものなのである。(足が動かされる→身体感覚が生じる→それに付随してわたしの感覚と記憶が立ち上がる→わたしという自己同一性の感覚が生じる)


エゴの機能自体は何も自ら動かしていない。

それはつねに後付で立ち上がってくる概念である。

後付けでエゴが立ち上がるとき、それは必ずしも物質としての肉体感覚からではなく、あらゆるものとの接触から即座に立ち上がる。


エゴ感覚にどっぷり浸っていればそもそも動かされているという「被害者」意識すら出ないが、エゴ感覚が崩れはじめ、覚醒とのあいだで行きつ戻りつしている段階では時として被害者意識が出やすくなる。

(この被害者意識を解脱の原動力として利用したのが仏教である。この世は苦であるというとき、動かされる側の主体にフォーカスしているのである)


●物質

わたしたちは3Dにおいて多層的なエネルギーの交差点を展開図として読み取る、次元転換のアクロバティックリーダーのようなものとして機能している。

現象世界においては仮想の展開図が質量と引力の感覚をもつ。

(質量をもつように感じられるようにわたしたちの感覚は創られ進化してきた。わたしたちのような感覚をもたない存在にとっては、この現象世界をこのような質量や形として見ることはできないし、存在するための意識形態を保つことができない。よって多次元の存在は見かけ上、別次元に住み分けている。)


人間の読み取り機能としての「感覚」は非常に強固にプリセットされており、これによって3D内の物質は今ある形態・質量のように共通認識として決定されている。

たとえば、物質としての肉体の質量と引力への強固な同化によって、目の前の壁の堅さや質感が肉体感覚との密度の対比によって読み取られる。


人間は生まれてから、自分の身体と周囲の物質との接触によって世界の質量と自分との距離の感覚を身につけていったのである。

だから、実際に触れていなくても経験によりある程度、周囲の物体との距離と質量が予測できる。

空間は肉体感覚から距離を測った自己の延長である。

このように、世界は経験的・相対的な予測によって切り取られている。
(だから、「こう見えたらこうであるはず」という予測を誤って錯覚や事故が起こることもよくある)


物質対物質、という感覚があるとき、物質どうしが触れたとき抵抗が生じる。

物質としての肉体が壁に触れるとき、肉体は壁を通り抜けることができずに壁の表面との抵抗を感じてとどまる。

しかし、完全に肉体という物質の幻想が解かれたとき、究極的には壁を通りぬけられる可能性もある。(わたしは今のところできないが)


肉体への同化と物質の質量の共通認識においては、3Dの宇宙空間内に散らばったすべての惑星の引力がつねに多大な影響を及ぼしている。

この物質界の引力(覚醒のエネルギーの引力とはまた別である)は非常に強固で、すべての存在の配置と行動と思考様式を決定してしまう。

ほんとうに、骨の髄まで引力に支配されている。

だから、肉体の同化が強固なレベルにいる人間にとっては、現象世界で物質的に起こったことは物質の移動で対処したほうが時間はかかるが確実であるともいえる。


この引力に逆らって人間の肉体が空中に浮いたりすることはまず起こらないだろうが、少なくとも強固な幻想によって無意識的に組み込まれてしまうことを見切ったとき、引力の法則のなかの肉体は肉体のままにまかせ、本体の意識は覚醒へと帰還することが可能となる。

こういってしまうと、肉体への同化が非常に重くて煩わしいと感じるだろうが、逆にいえば肉体があるからこそ、疑問をいだいて超越することができるのである。

肉体を持ったうえでそれの幻想を解体し、幻想に潜んでいたポータルを見つけて覚醒に帰還するのだ。



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【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <7.死・誕生・運命・カルマ>

2019/09/26

7. 死・誕生・運命・カルマ


●死

覚醒側からみたとき、現象世界と同化する以前の観察者の意識は、3Dの身体の生成以前に存在している。

すべてを内包する覚醒において、意識はどこへも移動しない。

3Dの現象世界において身体との同化から離れたとき、すなわち肉体の死によっても、意識の見かけ上の連続性がなくなることはない。
 

ただし、覚醒を知らずに死んだ場合、死後に連続しているのは未だ現象世界側にフォーカスされたままの意識の延長である。

死の直後は肉体がなくなったことにより突如として3Dの次元から開放されたように感じはするだろうが、それは覚醒そのものではなく、フォーカスが別の次元に移っただけなのだ。


覚醒側から見ればそれは、死ぬ前と同じところにあった意識のフォーカスのチャンネルが変わっただけなのであるが、覚醒を知らずに死んだ場合は、肉体を離れた瞬間、気づかないまま即座にチャンネルが変わって別次元の法則の現象世界に入っている。

そのしくみを体験的に知らない場合、死ぬ直前まで意識がフォーカスしていた3Dの物理法則の延長の感覚を引きずったまま、「肉体という物質から意識が出て、死んでも続いている自分の意識が別次元の世界にやってきた」と思う。


しかし、連続している本体はあくまでも覚醒側の不動の意識なのであって、見かけ上連続した自己の意識が、これもまた見かけ上同化していた肉体から「出て」、別次元の世界に「自分が」移動したからといって、それは未だ現象世界の構造のなかの一部にすぎない。

わたしは明確な臨死体験や前世記憶や胎内記憶があるわけではないが、瞑想やいくつかの一瞥体験によって覚醒の意識の不動性と、身体への同化からの離脱と、現象世界へと意識が入る瞬間のしくみを明確に見たので、肉体の死をむかえても現象世界における見かけ上の意識の連続性と新たな世界へのフォーカスチェンジが即座に起こるであろうことには疑いを持っていない。


その瞬間を自覚的に見切って覚醒の意識のポジションに戻れるか、無自覚的に次の世界へ入って見かけ上の生の続きに同化するかどうかは、生前の認識の座のレベルによる。

そもそも肉体から「出た」という感覚自体が、肉体との同化の幻想ありきの感覚なのだ。

それまであまりにも強力に肉体と意識が同化していたので、その同化意識から離脱したときの肉体の重いエネルギーからの開放感に衝撃を受けるだろうが、もともと肉体はリアルな3D世界を成り立たせるために便宜上このような見かけと質量をとっているのであり、その担当者として個別の自我意識が瞬間瞬間に発生していただけなのだ。


肉体から開放されると、飛ぶような軽さとともに、認識のシャッタースピードとフォーカスする現実のチャンネルが変わる。
(個々の生前のエネルギーの質量にしたがってフォーカスされるチャンネルが即座に采配される)

チャンネルが変わっても、どこか別の場所へ移動したわけではなく、意識の本体は同じところにあって、フォーカスされるチャンネルによってそれぞれの時空の幻想に入る。

身体の重さを感じていた物理法則から開放されるので、思考様式もその感覚にあわせて変わり、認識機能が肉体の目から開放されることにより、認識のシャッタースピードが変化する。

肉体に同化していた3Dの現象世界における認識は、0.1~2秒に一回程度のスピードでシャッターが切られ、実はそれぞれの静止画が連続して動いているように脳内でつなぎ合わせてみているのだが、肉体の目から離れたとき、シャッタースピードはより素早くなり、それぞれの静止画へのフォーカスする集中度が飛躍的に高まる。


なぜ、同化がなくなるとシャッタースピードとフォーカスの集中度が高まるかというと、ひとつは肉体の脳と目の物理的認識機能に限定されなくなること、もうひとつは肉体への同化に払っていた多大なエネルギーを純粋な意識の目として見ることだけに使って集中できるようになることがある。(肉体への同化のために使っていたエネルギーのロスがなくなる)


シャッタースピードとフォーカスの集中度が高まると、時間の感覚が変わる。

たとえば、3Dの現象世界における1秒が、無限にひきのばされる。

3Dにおける1秒は人間のシャッタースピードの0.1~0.2秒で感じていたときの相対的な「1秒」なのであり、0.01秒のシャッタースピードになってその1コマ1コマを見切ることができれば10秒の感覚として感じられ、0.001秒のシャッタースピードになれば100秒の感覚として感じられるようになる。


これは、3Dの現象世界における「ゾーン」状態に似ている。

たとえば、野球でピッチャーが投げた球が、ゾーン状態に入ったバッターにとってはスローモーションで見え、あたかも時間がひきのばされたかのように見えるという。

この状態のとき、3Dにおいて高速に見えていた現象がゆっくりに見え、3Dでは見えていなかったさらに高速なものが見切れるようになる。

(ちなみに、あるがままとは、認識のシャッタースピードによって見え方が変わる。
3Dの通常モードのシャッタースピードは遅く、遅いがゆえに、面や空間の「出現」と認識を可能とする。
シャッタースピードが速くてその前に見切ってしまえば、3Dの時空は出現する前にバラバラになってしまう。
逆にいえば、3Dを成り立たせるのにちょうどいいように、担当者であるわたしたちの認識のシャッタースピードは今のように設定された。
そのスピードにあわせて、人間の社会のすべては構築された。
シャッタースピードの異なる別次元の存在がいるとすれば、まったく別の社会と構築物を築いている。
気づきの瞑想でゆっくり動いたりするのは、対象の動きのほうを通常の3Dよりさらに遅くし、この3Dの遅いシャッタースピードでも面と空間の連続性を疑似的に分解して感じられるようにするためである。
しかし、認識の訓練によってシャッタースピードがあがれば、ゆっくりうごく必要はもはやない。)


こうして、時間が無限にひきのばされた結果、夢をみるときと同じように、一瞬のうちに別次元に入り込み、あたかもそこに長時間いて別の世界を体験しているように思う。


このとき、肉体に同化していた生前、なにかを強く信じていればその信じているものに会ったりその世界に行ったりするだろう。

また、生前の意識のレベルによってフォーカスする周波数が違っているので、その周波数に合うところへ即座に采配されるだろう。


どこへ采配され、なにを見るかは、生前からのエネルギーと認識レベルによる。

周波数が合わないところへ行っても自己の存在をその次元のシャッタースピードでは認識できないので、当たり前のようだが、存在可能なレベルのところでしか個別の自己としては存在できない。


より目覚めた意識においては見切りのスピードが速いので死の一瞬が無限になる。

そのとき見える世界は3Dの物理法則とはまったく違う次元だろう。

3Dで肉体に同化して生きているうちに別の次元を体感的に直観できていれば、その世界に行くことも不可能ではない。

(ただし、フォーカスしたところに空間と時間と自己の感覚を伴って入っていくうちは、いくらすばらしい無限の梵天のようなところに入ったとしても、それも現象側の世界のことである。)


また、より見切るレベルが低い場合は、生前の3Dの物理法則の延長に近い世界か、それ以下の(それまでの肉体感覚からすれば)重くて単調な世界に入るだろう。

見かけ上の慣れ親しんだ法則をよりどころに存在を発現したければ残存している身体意識の感覚をもとに、意識で身体や物質をつくるだろう。(これは発現の構造としては3Dにおいても同じである)

無の志向が強ければ無のフォーカスの暗闇に長い時間動かずにいることになる。

そこで意識が気絶していれば存在していることにも気づかずずっとそこに在るだろう。

気絶していなければ無のイメージのなかで目だけ覚めている状態にとじこめられるだろう。(これを無や解脱と勘違いしないこと。)


死に際して、時間が引き伸ばされ次の世界へのフォーカスが決まる瞬間が、脳の死の前か後か、死の直前の脳内現象かそうでないか、という議論は意味がない。

どちらにしても意識の見かけ上の連続性においては同じことだからだ。

そもそも3Dの身体自体が幻想の産物なのだから。

(だがおそらく、次の世界へ入る瞬間は脳にプリセットされた機能を利用している。あるいは、たとえ脳死をむかえた後だとしても、同化していた身体の残像機能のようなものが残っているうちにそれを利用しているだろう)


3D世界においてこの一瞬の夢の引き伸ばしで体験する世界を「死後の世界」と呼ぶならばそれはそれで間違ってはいない。

一瞬の夢で見た世界が「死後の世界」という現実であると認識されるのならば、それはその人にとって現実なのである。

そもそも夢の世界も3Dの現実世界も、同じ幻なのだから。


●誕生

誕生もまた、意識の見かけ上の連続性のうちに起こる。

死後、それぞれのタイミングで覚醒側のエネルギーの采配によって無数の現象世界のうちのひとつのコマに入る。

人間の場合、通常は子宮が特定の現象世界のコマに入るときのポータルとなる。

意識が新たな身体を形作るときに、現象世界の子宮というポータルを必要とする。

意識の特定のエネルギーと現象側の子宮のエネルギーが引き合って、マッチングした瞬間、子宮に入っている。

このとき、真空管に吸い込まれるように一瞬で入るものと思われるが、もしかしたらこの瞬間にその前までの記憶が飛んで気絶するのかもしれない。


前世や胎内記憶のある子供は「むこうの世界」から現象世界をのぞいていてポータルである子宮の母体を選択して生まれてくるというが、認識レベルが鋭利で生まれる瞬間に意識が気絶しなければ、こちら側の世界に入る瞬間を見切ることもできるだろう。

真空管に吸い込まれるように現象世界に飛び込み、身体があたえられ、むこうの世界から連続した明晰夢をみるかのようにこの世界で生きることになるだろう。

通常の人間は、夢に入る瞬間を見切ることができないように、現象世界に入る瞬間も見切ることができず、いつの間にか子宮に入り眠ってしまい、出生後、自意識が芽生えてやっと世界に生まれたことを認識する。
 

生前に認識の座をある程度確定しており死後のフォーカスの場で気絶しないでいられれば、少なくとも現象世界のコマに入る瞬間までははっきり自覚があるだろう。

ある程度、前の生で認識の訓練をしていた者は、肉体の機能のみに意識が制約されていない(通常の人間のように肉体ありきで意識が発生していない)ので、子宮に入ってからも連続した胎内記憶がある場合もあるだろう。


●運命・カルマ

次に、運命は決まっているのかいないのか?

先にも述べたとおり、覚醒側からみれば1ミリの動きさえ自分でやっていないので、エネルギーの引力の采配によって運命はすべて決まっているといえる。

だが、「わたし」というひとつながりの自己感覚が瞬間瞬間に采配されるものであるとき、無数の自己が瞬間瞬間において無数の可能性を「乗り換えて分岐している」とも言える。

見かけ上の連続体である「わたし」は、瞬間瞬間に無数に乗り換えている「わたし」のなかから3Dの直列的時間の流れとして整合性がとれるように選択・編集されたものである。

そもそも過去・現在・未来・運命・カルマというのは、直列的時間に順番に並ぶ個別の「わたし」という感覚がなければ成り立たないし意味を為さない。

その意味では、運命やカルマというのは幻想である。


しかし、直列的に見かけ上配列される「わたし」というエネルギー群があるとき、配列の幻を創る采配は厳然としてあり、その采配を「運命を司るもの」、エネルギーの引き合いのバランスを「カルマ」ということはできるだろう。

覚醒においては直列的時間は存在しないため、過去現在未来は瞬間瞬間に同時に采配されており、3D側からみたときそれらは順番に並んだものとして(過去の現象は前にあり、現在の現象は今あり、未来の現象は先にある)いまこの瞬間に認識される。

これは3Dの感覚からすれば非常に理解しづらいが、つまり、いまこの瞬間に同時に過去現在未来があり、現在の一点が切り取られた瞬間に過去と未来が直列的・空間的に展開され認識されるのである。


この構造において、すべての現象の采配自体、覚醒の一点において同時に起こって同時に終わっている。(というより、直列した時間がないので始まりの起点と終わりの終点がない)

よって、カルマや運命というのは、直列的時間の感覚に生きる3Dの人間にとってのみ問題なのだということができる。


3Dにおいて直線的時間の整合性ある現在の生を今世とよぶのならば、その過去としての前世があるともいえるが、カルマや輪廻ありきで苦を脱するというアイディアは、覚醒を見切っていない人間に誤解を生じさせやすいかもしれない。

なぜなら、カルマがあることを前提にすること自体が、脱するべき個の意識と時空の概念を強化してしまうからだ。


もちろん、見かけ上の現在に起こってくる不可解な現象の意味を過去からのエネルギーも含めて読み解くというのは心理的な面においては有効だろう。

しかしそれが、覚醒を見切る目的にとっては諸刃の剣となる例を多数見てきた。

覚醒を阻む過去を読み解くうちに、その終わりのない作業自体に際限なくはまっていってしまうのである。


その意味では、まずは認識を鋭利にし、覚醒を見切ることから入ったほうがよいと思われる。

見切った結果として、カルマはある次元からみればあるし、別の次元からみればないということがわかり、そもそも個別のカルマに同化する「わたし」はいないということがわかる。


覚醒側からみたとき、すべての可能性は同時にあるため、個別のわたしから離れれば、すべての3Dの担当者の「わたし」の運命・カルマ・エネルギーの可能性が、いまこの「わたし」の背景にあるといえる。

「わたし」という担当者は無数の可能性のなかから選択され、この瞬間に生まれたのだ。

このエネルギー配列の采配は、3D側からは100%動かせない。


だが、無数に乗り換えている「わたし」の仕組みを見切ったとき、分岐Aの「わたし」から分岐Bの「わたし」へ見かけ上、能動的に乗り換えることは可能である。

そのとき、覚醒側からみればまったく新しい「わたし」としてフォーカスする現象のコマがチェンジしているのだが、3D側からみたときは「わたし」の見かけ上の連続性のうちに切り替えが起こっている。


この時間と空間の幻想自体が3Dにおいては「リアル」「現実」として通用しているため、ある意味それはひとつの共通認識として正しいものともいえる。

しかし、覚醒を知ったとき、この共通認識の仕組みを見抜き、新しい意識で3Dに参加することになる。


新しい意識においては、現象に「入ってしまう」ことの前に踏みとどまってエネルギーのアイドリング状態で「見ている」こともできるし、意識的に「入ってしまって」没入したり出たりすることもできるし、覚醒の意識につながったまま明晰夢のように現象世界を散策することもできるようになるだろう。

今まで見かけ上、カルマとして自動的に3Dの現象世界に采配されていたエネルギーが、新しい意識になってはじめて「半自動で代替(乗り換え)可能」なエネルギーとしてあることができるようになる。

この状態が、目下のところのわたしたちの目標といえる。

そのために、まずは無意識的に「入ってしまって」眠りこみ夢に没入し続ける状態を脱しようというのである。



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【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <6.3つのセンターにおけるワンネス体験>   

2019/09/26

6. 3つのセンターにおけるワンネス体験


●3つのセンター

ひとくちにワンネスの体験といっても、実はその顕れかたにはバリエーションがある。

さまざまな覚者のいうことに微妙な相違があるのはそのせいである。

わたしはこの相違の理由が、実際に体験するまでわからなかった。


覚醒に帰還するとき、3Dに生まれ出てしまったわたしたちは、見かけ上の身体のエネルギーと空間的位相を利用する。

このことはすべての3Dの存在が避けては通れないものである。

たとえ身体がなくなり意識だけが拡散したと感じたとしても、それは先に身体に同化していた感覚ありきなのである。


覚醒側から身体を純粋な機能として見たとき、3つのセンターというものがある。

①頭(認識の座)
②ハート(振動の座)
③丹田(存在の座)

(これに加えて①~③を統合する④頭頂(消失の座)がある。ちなみに④におけるホワイトアウトと認識の座の気絶とは消失の次元が異なる。)


これらは、現象側からひとつながりの身体としてみたときは、見かけ上、ひとつの身体の枠の中に縦に順番に並んでいるように感じられるが、覚醒側からみたとき、それぞれの機能は独立した位相にある。

3つの位相が現象側に顕れるときは、ホログラムのように別方向からの3つの機能が並んだところに身体という枠の意識が創られるようなものといえる。


現象側の感覚からみたとき、

①頭(認識の座)の座標は、頭部の中心の松果体のあたりに位置する。(名づけられた器官である松果体そのものではない)通常の人間が「頭の中心」と感じる場所の、ほんの少し後ろにある。

②ハート(振動の座)の座標は、心臓の後ろの右端が触れるところと背骨との間あたりにある。これも、人間が通常「ハート」と呼んでいる場所の位置からほんの少し後ろにある。

③丹田(存在の座)の座標は、恥骨と尾てい骨のあいだにあり、女性の子宮の位置に近い。
これは人間が通常「丹田」と呼んでいる位置よりも少し下であり、たいての場合、恥骨と尾てい骨の間の水平バランスがズレているので正確に感じることが難しい。


ここで注意が必要なのは、これら3つのセンターは、物理的な内臓などの位置ではないということである。

センターそのものは、何も対象として触れていない空間のようなものとしてある。
そこは、物質と意識の境目の消失点のようなものとしてある。


しかし、人間は対象物がないとその存在を認識することができないため、便宜上、身体の内臓や骨の位置の感覚をたよりにそれとの距離を探るしかない。

だがそれらは、身体の物質的な実感のある場所よりも、ほんの少しズレたところ、「あいだ」にあるのだ。
 
逆にいえば通常、実感の感じられる場所というのは、すでに対象物に触れてしまった後の現象世界の中の座標なのであり、その感覚をいくら強化していっても覚醒本体には遡れない。


これら3つのセンターのそれぞれの消失点は覚醒に直接つながっている。

だが、「各センターはそれぞれ単体ではそれそのものを認識できない」。

覚醒の見え方のバリエーションは、これら3つのセンターの複合的なコンビネーションによる。
 

先に述べた、わたしの認識の座における体験は、認識の座が優位に立った覚醒の見え方だったが、存在の座が背後のベースとしてあったうえで成り立っていた。

なぜなら、最後の瞬間にいたるときまで、現象世界における存在の座があったうえで、そこから無限に後退していくという見切りのプロセスを利用していたからだ。

このとき、存在の座は消失の目的には利用されず、現象側の対象物として利用された。


●それぞれの機能とワンネスの見えかた

①認識の座は、純粋な観察者として機能しており、それ単体では対象物がないと認識できない。すべてのワンネス体験のコンビネーションは、度合の差はあれ、認識の座を必要とする。なぜなら、これがないとなにも見ることができないから。認識の座は、それがそれそのものとしてあるとき、個人的な観察者としての意識は消えている。だからワンネスの体験においては観察者としてのわたしはなくなっているかのように見え、他のセンターの体験が全面にでてくるのだが、観察者の機能は、それらを体験するうえで背後にまわっているだけで必ずベースとしてある。

②振動の座は、先に述べたように、覚醒との距離(の幻想)によって振動を変える、現象との中間地点のようなものである。純粋に振動だけが抽出されたときは消失点に吸い込まれるような空間的座標のないもののように感じられるが、現象側に顕れでているときは現象すべてに直接ふれてそれぞれの振動とともにあるかのように感じられる。それは裏と表のすべてに触れて無限の空間に水平に飛び出していくような触覚のようなものとしてある。個別の魂の感覚や愛の感情といったものは、この機能にエゴ感覚が結びついた、二次的な副産物である。この感覚も、それ単体では認識できず、認識の座の観察者を必要とする。「すべてが愛であった」という体験は、振動が、覚醒側ではなく現象側に触れている感覚の度合のより強いときに起こる。「神の愛」を感じるというとき、それは「神」という対象物がまだある、こちら側の話なのである。もし、覚醒側のハートに対応する振動に直接ふれたとしたら、愛を感じる間もなく、その莫大なエネルギーによって一瞬にして身体など吹き飛んでしまうだろう。

③存在の座は、文字通り存在の感覚と結びついている。「在る」という純粋な実態感、あるいは「わたし」という純粋な実態感はここから生じる。(ここでいう「わたし」とはエゴ感覚とは異なる)この座において心身脱落するときは、ダルマ落しのようにすとんと落ちて、丹田の器にパカっとハマると同時に個別のエゴの枠が抜け落ちる。存在の座は、もともと内在的にすべての現象を包括していたのだが、存在の座に心身が脱落したとき、「わたし」の感覚が占めていた場所が本来包括していたすべての現象と置き換わる。そのとき、わたしの中にすべてがあった、という体験が生じる。こうして、このセンターで消失点に触れたとき、「わたしの中にすべてはあった」「わたしは在る」という感覚とともにワンネスを見るが、このときもやはり、①の認識の座の純粋な観察者を必要とする。このとき重要なのは、①の観察者が③の代替としての「わたし」という個別感覚を持たずに、背後の観察者として消えていられるかどうかである。また、現象の対象物やストーリーに結びついた自我の実態感も、より物質に近い次元でこの座を借りて起こるが、それと純粋な「わたし」の実態感を混同してしまうと「自分が悟った」という的外れな感覚が生じることになる。また、③に脱落したときに①の認識の鋭利さが弱いと、気づきの目が開いていないまま暗闇の空間にはまりこんで何も動かない(触れてこない)無として在るように勘違いすることがある。


以上をふまえ、①~③の配合の割合でワンネスの体験の見え方のヴァリエーションが決まってくる。

また、各種の覚醒のための修行体系というものも、①~③のどこにフォーカスしているかの度合で異なってくる。


最近のさまざまな覚醒の報告をみると、深さの差はあれ、②と③の配合率の高いコンビネーションが多くみられるように感じる。

①と③は比較的、突発的に起こる可能性が高いように思われる。(ただし、③は深さの差が出やすい)
このとき①は、「透明な気づき」という名のもと、うっすらとしたイメージとして背景にひっこんでしまっている。

しかし水を差すようだが、①の認識の座が確立されていないと、それらの体験は偶発的な一瞥に終わり、体験の意味や構造の全体を理解することが難しい。


認識の座が確立されていないと、すぐに現象世界へ引っ張られて戻ってしまい、体験の神秘を現象世界の論理で語るにとどまってしまうのだ。

優位なセンターの体験のひとつですべてが終わったと思ってしまう。

そして、いつのまに現象世界のうねりに飲み込まれて「すべてはわたし」「あるがまま」や「愛」の名のもと、再び流転を続けることになる。


だから、最初に述べたように、①の認識が確立し、自動化される必要があるのである。

3つのセンターの体験は、認識されていないだけで、実はすで備わっている。

それらは、別の対象物に占有されている認識の瞬間において、ただ隠れているだけなのである。

つねにすべてのものがそれらに触れてあるのであって、すべての人間は覚醒を読み取ることが可能なセンターをはじめから割り当てられている。


これら3つのセンターは必ずしも現象側においてひとつに統合される必要はない。

むしろ統合しようという試み自体が、身体への同化の強化と、現象側において「いつか未来に統合されうるもの」という、意図のベクトルを発生させてしまう。

そもそも3つ同時に身体というひとつの入れ物に並んでいるというのが幻想なのだ。


逆にいえば、各センターという覚醒のポータルが現象側へそれぞれが司る機能を顕すために、見かけ上身体という枠がつくられ、そのなかに配置されるというアイディアが採用されたのだった。

現象側のわたしたちは、その配置にしたがって担当者意識として采配される。


それらは個々の機能であって見かけ上わかれているが、それぞれの消失点においてはひとつの覚醒の場にある。

現象側においては、統合はされていなくても、上記のようにコンビネーションの形はとる。

そのときも、3つ同時に機能させようとこちら側から意図する必要はないのである。


3つの機能によるそれぞれのワンネス体験を経験することは、現象と覚醒の多元的な理解に役立つ。

覚醒とは、3Dの現象側のひとつの側面だけですべて説明できるものではないのだ。

覚醒へ遡ろうとするとき、3つの機能が本来の純粋な機能としてそれぞれ自動的に働いている状態を知っておくことは、帰還の確率を高めるといえる。

純粋な機能とは、それぞれのセンターの役割に人間側の意味やストーリーといった不純物が混じっていない状態である。

すなわち、先の③であれば、存在のセンターの純粋な「わたし」とエゴを混同していないことであり、②であれば、純粋な振動とエゴの愛や感情を混同しないことであり、①であれば、純粋な気づきとエゴの思考や判断を混同しないことである。


また、①②③相互のあいだの機能の取り違えと混同を避けることも重要である。

これらの混同を注意深く見切って、各センターの純粋な機能を自動的に働かせることができたとき、エゴに依っていたそれらの存在のコントロールを忘れて、手放しで任せてしまうことに専念できるのだ。

混同を避けるためには、各センターに無自覚に混入していた不純物を注意深く無限に見切っていく必要がある。

この作業はエゴにとっては面白くないし、自動化されるまでは強い意志と根気がいるだろう。


ちなみに、わたしの場合、②の体験は、幼少時に一瞥はしてはいたが、明確に理解できたのは①の体験の衝撃の数年後、③→②の順番でそれぞれ意図せず突発的に起こったことによる。③は通勤電車で座ってうとうとしていたときに突然、すとんと心身が丹田へ抜けおちるように脱落し、すべての事象を枠のないわたしの「なか」で見ていたのである。わたしはフォーカス機能そのものとしてあり、わたしのなかで物事が起こっているのをただ見ていた。②は、なにげなく参加した、とある聖者のセミナーで激しい呼吸法を実践したあとの瞑想中に起こった。それは、ジェットコースターが頂上まで登っていって、ぐわんと一瞬浮いて落ちる瞬間のように、身体を置き去りにして、現象と表裏一体になった無限のハートの面が空間に飛び出し続けていくような感触なのだった。(このとき一瞬、本気でこの聖者に帰依しようかと迷ったほどの体験だった。)


これらの体験は意図せず唐突に起こったとはいえ、20代から30代にかけてバレエを基本とするボディワークで、縦の軸を意識しつつ、3つのセンターの機能を細かく観察して機能そのものを抽出する作業をひたすら毎日、地道に行っていたころの経験が下地になっていたといえる。



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【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <5. 愛・信頼・祈り・無私・善悪・覚醒の鍵>    

2019/09/26

5. 愛・信頼・祈り・無私・善悪・覚醒の鍵


●愛・信頼・祈り

①水平方向へと現象が生まれ出ようとするのを見送りつづける気づきの閃光の座(身体でいうと松果体のあたり、ただし松果体そのものではない)と、②背骨の内側あたりに沿って垂直方向へと引き上げられる生体エネルギーとが交差するとき、Gのかかるような衝撃を伴うスパークが起こる。
(このとき、生体エネルギーが頭頂から抜けてしまうとホワイトアウトしてしまって気づきが保てない)

その瞬間、覚醒側のベクトルの引力が、現象発生側のベクトルの引力に勝って、ベリッと音をたてるかのように観察者の座が覚醒と発生の「あいだ」の座に引き戻され③両者の拮抗する引力のあいだで浮遊しながら現象発生を待機している状態に「帰還」する。

その後は、上に述べたように、④無数の発生の可能性の萌芽が顕れては消えて行くのを絶叫マシーンに乗っているかのように怒涛のごとく「見せられる」。

「あいだ」は、真空の産道を遡って突然開けるような、圧倒的なエネルギーと絶対的な無音の狭間である。


この一連のプロセスにおいて、②垂直方向の生体エネルギーが昇った瞬間から④までは、あっという間に起こる。


しかし、①水平方向へ発生する現象を見送りつづける段階では、未だ現象側の身体との同化に「片足をつっこんでいる」状態のため、帰還できるかできないかの正念場となり、初めて体験するときは、鋭利な気づきであらゆる現象を見送り続けるエネルギーとともに能動的な意図のベクトルを「完全に手放す覚悟」がいる。


この、「完全に手放す覚悟」というのが、エゴにとっては崖から飛び降りて自殺するような恐怖となるのだが、恐怖に打ち勝てるかどうかが分かれ目となる。

ここで必要になるのが信頼・愛・祈りの「純粋な」エネルギーである。

これらのヴァイブレーションは、覚醒へと遡るための意識の針穴の入り口を探りあて、引力に逆らって抜けるための鍵となる。

この鍵がないと、エゴはエゴ自身を自力では捨てきれない。

最後の最後、引力に逆らって針穴に吸い込まれるためには、引力の拮抗のバランスのなかで、恐怖のヴァイブレーションに勝る高く精妙なヴァイブレーションの手助けが絶対に必要となるのだ。


そのヴァイブレーションは、現象側からみれば信頼・愛・祈りであり、覚醒側からみれば慈悲である。

(純粋な慈悲は覚醒側からしか起こらない。慈悲は現象側の個対個で起こるものではない。見かけ上エゴ感覚が少なくなったときに慈悲に近い意識にアクセスはできるが、本当の慈悲そのものではない。覚醒側の慈悲は、人間から見て必ずしも「慈悲的」ではない場合もある。人間が、すべて思い通りにいかないのもその理由である。たとえば瞑想において最後の通過点を目の前にして慈悲が手助けするかしないか、しない場合もそれは慈悲ゆえなのである。覚醒側からの慈悲はいまこの瞬間も常にすべてにおいて働いている。)


ここで問題なのは、人間の信頼・愛・祈りの感覚には、「意味」と「意図」が分かちがたく結びついてしまっていることだ。  

そもそも、言葉で名づけられている段階で意味が付随してしまっている。

人間は意味の付随しないそれらの純粋なエネルギーを理解しづらい。

そのため、現象側から発信する、意味が付随している信頼・愛・祈りは、すでに純粋なヴァイブレーションではなく微細な色がついてしまっている。

この色が、現象発生の方向へのゆらぎとベクトルを生じさせてしまい、ピンポイントで針の穴を通れなくしてしまうのだ。


ゆらぎが生じるとどうなるか?

現象側のエゴの恐怖のほうが打ち勝って引力の綱引きに負けて引き戻されてしまうのである。

この色自体が、エゴの萌芽なのだ。


すべてのプロセスはエネルギーバランスのシステムとして厳密にあって、ぴったりと、そうでしかないバランスで鍵があわなければ通りぬけることができないのだ。

しかし、意味を排除して、純粋なヴァイブレーションだけを抽出するのは、一度でもそのヴァイブレーションを正確に経験したことがないとできない。

ではどうするか?


最後の瞬間がやってきたとき、意図せず任せるしかない。

それがうまくいくかうまくいかないかを意図せず、来るか来ないかも期待しないで在る。
それしかないのだ。

そして、いっさいのベクトルの発生していないその意識こそが、純粋な信頼・愛・祈りのヴァイブレーションなのである。


純粋な祈りは、対象へ向うものではなく、それ自体の中心にぴったりと重なっているところで湧き起こる。

この状態だけが鍵になる。


ある意味、いっさいを任せてしまったときには、過去のカルマのすべてがその瞬間に集約されるといえる。

つまり、通れるか通れないかはすでに決まっており、その段階で画策しても無駄なのである。

その事実を全面的に受け止めきれるかどうか、それに尽きる。


だから、人間の愛や信頼の感覚を意図的に覚醒に利用しようと思っても、意味と意図のベクトルが瞬時に働いて、ヴァイブレーションだけを抽出することは絶対にできない。

利用しようと思う事自体が、純粋な信頼のヴァイブレーションではないのだ。

この一連のしくみを知らずに、邪魔なエゴだけを消して覚醒にたどりつこうとする試みは失敗に終わる。

もし本当に任せきることができるのであれば、エゴという機能は消す必要はない。

エゴは勝手に退くからだ。


●無私・善悪・覚醒の鍵

意味付けされない純粋な信頼・愛・祈りのヴァイブレーションとはなにか?

たとえば、「あ」という文字をみたときに、[a]という発音や、文字に付随する意味や連想を一切排除して純粋に「あ」を見ることができるか?というのに似ている。

そもそも純粋な「あ」とはなにか?

覚醒側から、すべてがエネルギーバランスにおけるシステムであるとみるとき、人間にとって意味のある愛や信頼や祈りもまた、相対的な位相に位置する単なるヴァイブレーションなのである。


これを聞いて、分離の幻想に苦しみ愛を求める個別のエゴや魂の感覚は否定されたと感じるかもしれないが、本体の覚醒の場における純粋なヴァイブレーションに触れたとき、今までエゴが愛だと意味づけていたものがいかに小さく粗く限定されたものであったかを知る。

人間の器で感受できうる愛の振動はとても小さく粗い。


だが見かけ上、本体から分離しているという感覚があるからこそ、(本当は離れているのではなく、別の対象に意識がフォーカスしているのでひとつであることが「隠れている」だけなのだが)ひとつに戻ろうと引き合うときに愛の振動を感じることができる。

意識を占有している対象物がなくなり、ひとつであったことを思い出しそうになる、そのとき振動するその感覚に、現象側から「愛」という名前がつけられた。
(そもそも日本語には愛という言葉はなかった。キリスト教の用語から輸入されたのだった。)


覚醒側からは、愛を愛と認識してはいない。

認識してはいないが、莫大なエネルギーとして内在している。

それは必ず、分離の幻想があるからこそ、愛の感覚として感じ取られるのであり、愛の尺度は覚醒との距離が近いか遠いかのバリエーションにすぎないのである。

皮肉なことに、分離があるからこそ、愛を感じることができるのだ。


分離の幻想が少なく、覚醒との距離が近ければ近いほど愛は純粋なヴァイブレーションとして現象側で高速に振動して至福感をもたらす。

完全なる無私の状態のとき、その振動は最高潮となる。

なぜなら、エゴのない無私の状態こそが覚醒に一番近いから。


覚醒側からみたとき愛は単なる(しかし莫大な)ヴァイブレーションであるが、現象側の愛の感覚が人間にとって直接的に響き至福をもたらすものであるということこそ、ひとつであること(分離の幻想がないこと)が、人間のもっとも望んでいるものである証明なのだ。

この感覚を忌み嫌う構造と機能をもつ別次元の存在もいる。

それは分離と拡散を促す方向の役目をもたされたエネルギーの存在である。

この存在にとっては、ひとつであることが苦であり、分離拡散していくことが快なのである。


ビリビリとした振動とともに針穴をみつけた最後の最後で、この存在が帰還を阻もうと甘い言葉、あるいは恐怖をあおる言葉をささやいてくる。

ほんとうに、直接ささやいてくる。

この誘いにほんの少しでも意識を向けたとたん、一瞬の気絶の後、再び産道から唐突に現象世界に生まれ出ている。

最後の最後まで一瞬たりとも無自覚であることを避けなくてはならない理由はここにある。

ワンネスを愛と感じ、分離を苦と感じるようにつくられた人間は、この存在を邪悪なものと感じるだろうが、エネルギーバランスの采配のシステムにおいてはこれもまた、全体の拡散と収縮を司るバランスに必要なものとして「わたしたちのなか」にある。

善悪や好悪の感覚もまた、人間が意味づけしているものであって、すべてはエネルギーバランスにおける相対的なものである。

人間にとって意味づけられているような絶対的な善悪というものはない。

システムに基づく相対的な「差異」と「エネルギーの高低」と「引力のバランス」だけがある。



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【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <4.時間と空間と形>    

2019/09/26

4. 時間と空間と形


人間が3D認識において直線的に進むと感じている時間は、覚醒の場においてはあらゆる可能性の全体の中にバラバラに浮いている事象の粒子のようなもので、一見連続して見える出来事や空間的つながりも、可能性の段階においては、例えば、人間の概念からすれば何光年も離れていたり、3次元と10次元に離れたもののうちの一側面を見かけ上、繋ぎ合わせて認識していたりする。

そこにおいては、例えば、人間の手と内臓と目と脳の素材はバラバラの次元から寄せ集められ、「人間」という形に都合のいいようにつなぎあわせて一つの個体に仕上げられ、それが現象世界の共同幻想として「通用」するようになっている。


3Dにおいて人間の形をしているものは、覚醒の場においては人間の形を成していない。
バラバラの粒子の萌芽が可能性として待機している。

3Dの人間の創造というアイディアが生まれたとき、自我の芽生えと意識の進化を見越して「最適なパーツ」が様々な次元から選択・采配された。

それらのパーツは、3D世界に入り込んだときにだけ、ホログラムで多方向からの光がひとつの像として浮かび上がるように、一続きの皮膚に覆われた一個の個体として認識される。

逆にいえば、そのように認識されるように、3Dの人間の意識はつくられた。


形やイメージを創るのは、計り知れないエネルギーの引力である。

エネルギーの引力は全宇宙、全存在において自動的に采配され、見かけ上、毎瞬毎瞬同時に、空間と時間と個々の事象を形作る。


自動采配は莫大なエネルギーによって無限に起こり続け、巨大な有機物のように宇宙全体の極大から極小まで、あらゆるものが同時多発的にうごめき続ける。

そこにおいて、たとえば今、わたしが小指を1ミリ動かす瞬間、宇宙全体が同時に動く。
この法則はすべてにおいて例外なく働いていて、すべての動きが同時に連動している。


全体のエネルギーバランスの采配は、1ミリたりとも無駄なものはなく、(3Dの個人にとってそれが意味があるかないかは別として。だから人間にとってはしばしば脈絡のない不可解な、一見無駄に思える出来事が日々多発する)すべてがきっちりと、瞬間瞬間、寸分の狂いなくパズルのように組み合わさっている。

もし、ひとつのピースでも外れたなら、エネルギーバランスが崩れた次の瞬間、世界は一瞬にして崩壊消失してしまうのだ。


今、目の前のコップを1センチ移動させたとしたとき、わずかな時間と空間の移動のあいだに無数の宇宙全体との連動が、瞬間瞬間に発生しては消失している。

その無限の現場に立ち会うことは、まったくもって驚嘆すべき神秘でしかない。


覚醒を知ったとき、日常に顕れているすべてのものの背後に無限の発生の爆発を見ることになる。

日常のすべてが、神秘の顕れであると知る。



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