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【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <13.おわりに>     

2019/09/26

13. おわりに


この本を書くにあたって「神」という言葉は避けた。

「神」は不可知の圧倒的なものを指すのに便利な言葉ではあるが、同時に概念にまみれた言葉でもある。

この本は概念から離れて認識を転換することが目的なため、「神」あるいは精神世界界隈で流通している用語をなるべく避け、自身の体験を愚直に記述しようと試みた。

とはいえ、この本を読むことによって新たに概念が生まれて混乱することもあるだろうと思う。

このとき、すべてを思考で割り切ろうとするのではなく、混乱が自分のなかの何に由来するものなのかを注意深く観察し紐解きながら、自分自身で体験・検証していってほしい。


ここで、わたしのいちばん願っていることと、いちばんの秘伝をお伝えしたいと思う。

本文では、覚醒の根拠を明らかにするために、なるべく具体的に記したいとの思いから認識や体験の細部まで記したため、「結局、訓練と才能が必要なのか」とがっかりしたり、匙を投げたくなった人もいるかもしれない。

しかし、華々しい神秘体験を期待するのではなく、一見なんの変哲もない日常のすべてのことにすでに神秘が顕れていることを知り、熱心に注意深く観察することによって、覚醒が向こうから触れてきている瞬間をつかんでほしいのだ。

ほんとうは覚醒はつねに触れているのだが、その瞬間、思考や感情やストーリーによって認識が占有されているため、それに気づいていないだけなのだ。

もし、この本を読んで覚醒というものにほんの少しでも心が動かされたら、覚醒の手触りが日常に紛れ込んでいないかどうか、根気強く意識を見張っていてみてほしい。

そのときに、なにか特別なことを見つけようと意図するベクトルを働かせないで、ただ、起こってくることを観察してほしい。

どのような瞬間もあなたにとって好ましいか好ましくないかは関係なく、すべて、覚醒の采配そのものが顕現したものであるのだ。

あなたに起こってくることすべてが、覚醒と直接つながっていることなのだ。

あなたの存在が、その証拠なのだ。

それは、あなたが気づいていないだけであなたが生まれてからずっと顕れていた。

というよりも、その顕れとしてあなたが生まれた。

もしかしたら、あなたの人生はずっと悲惨なものだったかもしれない。

ただ、悲惨さの中にも、ほんの一瞬だけでもふっと心が軽く透明になったことは過去に一度でもなかっただろうか?

それは、人間関係の悲痛に泣き暮れているときにほんの一瞬、風の心地よさが通りぬけたときや、日々の仕事でくたくたに疲れて帰ってお風呂に入った瞬間に身体の力が抜けたときや、耐えがたい頭痛に悩んでいるときにほんの一瞬、赤ちゃんの笑い声が耳に入ったときや、家庭内の問題で頭がいっぱいのときにお茶を飲んだほんの一瞬、香りが鼻をぬけたときかもしれない。

…そういった瞬間は、すぐに次の瞬間、悩みや思考にかき消されて忘れられてしまうだろうが、ほんとうに注意深く意識の流れを見守り続けたときに、無数の忘れ去られた瞬間があったことに気づく。

それらが意識にのぼってきたとき、その瞬間をのがさずに、少しだけそこに意識のフォーカスをあわせてとどまって観察してみる。

それらがどこから来てどこへ去っていったかを注意深く観察する。

それを繰り返すうちに徐々にこういった瞬間が増え、とどまる時間が長くなってくる。

すると、徐々にそこに覚醒側からの采配の手触りを読み取るようになってくる。

そこではじめて神秘体験を受け取るためのスペースができる。

正確にいえば、スペースはすでにあったのだが、その瞬間を占有していた思考や感情やストーリーとの同化が解除されることによって、もともとあった覚醒が顔を顕すのだ。

注意すべきなのは、決して自分にとって好ましくない体験を排除しようとしないでただ観察すること。

スペースを自分で空けようとしないこと。

排除するベクトルが働くとその意図が新たにスペースを占有する。

そうではなく、ただ、采配にまかせて起こってくること、見せられていることをただその順番どおりに受け取って観察することで、覚醒が認識されうる瞬間、チャンスが確実に増える。

考えてみれば、悲惨な体験が時間的に連続しているかのように見えているなかで、ふと、まったく別の出来事が目の前に起こってくること自体、不思議ではないだろうか?

悩み事で絶望していても、道を歩いていると人が歩いているのを見たり、むこうから挨拶してきたり、店や木や車や信号や散歩している犬が意図せず目にとびこんでくる。

電車に乗れば、いつのまに知らない人が隣に座って肩が触れていたり、窓の外に景色が流れていくのがぼんやりと目に映っている。

悩み事で頭がいっぱいのうちに電車は駅に到着し、足が勝手に動いていつのまに職場のデスクに向かっている。

そのあいだにもあなたの認識にはのぼってこない無数の出来事や景色や音や香りが映っては消えていっている。

それらはみんな、あなたのなかに起きたことなのだ。

たとえあなたがずっと悩むことに専念したいと思っても、あなたの意図とは関係なく様々なことがあなたのなかに勝手に入ってきて触れていく。

それらの勝手に入ってきたものはどこから来てどこへ消えていくのか?

あなたを占有している思考から、ふと離れたとき、今まで忘れていたそれらが生き生きと存在感を増してうったえてくる。

そういった瞬間に気づいていくことで、あるとき突然(のように思える)、采配の神秘の電撃に撃たれる。

このことを、ほんとうに小さな瞬間から自分で実証していってほしい。

すべてのことを自分への顕れとして見、目の前にあることを自分のなかをのぞいているかのようにつぶさに観察しつくしてほしい。

すると、小さな発見の積み重ねによって自らの内から信頼と感謝が生まれ、神秘が必ず顔を顕すことになる。

気の遠くなるような地道な作業だと思うかもしれないが、熱心に観察すればそれはすぐにでも突然パっと開ける。

この提案をいま目にしているこの瞬間、信じるか疑うかにかかわらず、すでに覚醒側からの働きかけははじまっている。

もし観察のしかたに迷ったら、わたしなりの地点からお伝えする用意はある。

あなたを撃ち抜くような神秘体験とは、それを受け取るためのスペースと、自ら沸き起こった純粋な信頼と感謝があるところにしか顕れることができない。

覚醒側はその瞬間をずっと待っていたのだ。


 <さいごに>

この本は、覚醒のフォースと酩酊とうねりの拮抗のバランスのなかで自動的に運ばれるように書かれた。

1ヶ月前、食べるために漫然と勤めてきた仕事を辞める決意をし、なにかに憑かれたように書き上げた。

書き終わったいま見直してみると「これは自分が書いたのだろうか?」と不思議な感覚が起こる。

書き始めたときふと、昔聞いたことのある歌が突然、何度も頭をよぎってくるのに気づいた。
 
ポルトガルのグループ「マドレデウス(神の母の意)」の「海と旋律」である。

特にファンというわけでもなく、この歌の存在もすっかり忘れていたのだが、ファドをベースにした哀愁に満ちた旋律が、執拗に繰り返し遠くのほうから訴えかけてくるのだった。

不思議に思い、歌詞を調べてみると「ああ、そういうことか…」と納得した。

興味があれば検索してみていただきたいのだが、それは輪廻の車輪のなかで夢が続いて目が覚めないことを願う切ないパトスの詩なのだった。

本文を書いているときはいつも、覚醒からの促しと同時に、強烈な酩酊とうねりに意識がホワイトアウトしそうになる状態が交互に起こっていた。

「母」ゆえの慈悲は、現象への郷愁の甘美さを使って、安全な夢に連れ戻そうとするのだ。

この引力にひっぱられそうになりながら本を書き進めていると、歌は断末魔の叫びをあげながら遠くのほうに消えていった。

現象への郷愁と覚醒への郷愁は、つねにせめぎ合っている。

究極的にどちらに転ぶかはわたしたちの知るところではない。

しかし、これを見ているわたしたちは今、覚醒からの打診をうけとっている。




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【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <12.提供可能なワークについて>    

2019/09/26

12. 提供可能なワークについて


これまでさまざまなタイプの探求者や一瞥者を見てきたが、共通して見られるのは認識の座と覚醒のポイントがズレたまま知識や訓練を身につけようとしていたり、一瞥体験をしても心身の理解と観察が訓練されていないため自身に起こったことを明確な構造として把握できていなかったり、ということがある。

覚醒のポイントがぴったり合っているかどうか、どの位相の目で世界を見ているかどうか、どのくらいズレていてどの深さにいるか、どの程度の靄(もや)がどういった質感でどのていど覚醒を隠しているのか等は、現象側における身体にはっきりと顕れている。

「わたしはこの肉体ではない」「あなたはすでにそれなのだから」といって心身を一足飛びに超えようとすると、必ず心身の引力にひっぱられて連れ戻されることになる。

覚醒とは心身の幻想を解くことであるとはいえ、心身をないものとして無視しようとするものではない。

この現象世界や心身がこのように「ある」と知覚される状態がシステムとして存在することを受け入れたうえで、この次元をポータルとして超えていくことが必要となる。


一瞥を経験したあなたは、以下のワークのリストを見て「この次元は超えたはずなのに、またここからやり直しなのか…」とため息をつくかもしれない。

しかし、一瞬垣間見た覚醒の体験があるからこそ、現象世界に立ち戻って改めて3Dのプロセスをたどるとき、必ず新たな発見と納得がある。

そのとき、現象世界は捨て去るものとしてないがしろにされるのではなく、新しい次元の目をもったあなたによって新たに発見されるものとなる。


ワークにあたって、探求者に求められる心構えと資質を以下にあげてみる。

謙虚さ/ 想像力/ 意志の強さ/ 素直さ/ 直観力/ 依存しないこと/ 観察力/ 過去の被害者意識の清算がほぼ終わっていること/ 承認欲求の代替として求めていないこと/ 自立して最低限の生活ベースができていること/ 自分の感情の喜怒哀楽の最大値を知っていること/ 極端な性の抑圧がないこと/ 人間としての楽しみをひととおり経験していること/ 思考と概念を意識的に使えること/ 盲目的ではなく一時的にでも自分を捨てることが「戦略的」にできること/ あらゆる体験や思い込みを疑い検証する集中力と持続力があること/ 恩寵によって突き動かされるエネルギーが発露していること


ワークを避けたほうがよいタイプは以下のとおりである。

アルコール等の各種中毒症状のある人/ 薬物を常用するレベルの精神疾患/ 精神的社会的に自立していない人/ 各種依存体質の人/ 金銭の不安を抱える人/ すべてが救われるだろうという一発逆転を狙う人/ 特定の信念体系にはまっている人/ 知的好奇心で覚醒を知りたい人/ 覚醒にロマンや感動を求める人/ 覚醒を自己実現の手段と考えている人

これらの傾向がある人は体験のプロセスで症状が悪化したり危険が伴う可能性が高いので、それぞれの症状に見合ったケアを優先してほしい。


また、ワークによって狐につままれたような気がしたり、子供だましにあったような怒りをおぼえたり、転換の不可解さにめまいを感じたり、認識のゆらぎが起こって動きや思考のつながりがバラバラになってぎこちなくなったり、エゴが恐怖を感じたりすることがあるかもしれないが、プロセスとして必然で起こってくることである。


ワークを効果的なものにするために最低限、以下のことが推奨される。

食事量を控える/ アルコールを控える/ 薬物を控える/ 気にかかることをできるだけ片付ける/ 腸を軽くする/ 思考で食べることをやめる/ 身体を柔軟に保つ

特に、食事量や素材については思考で「~ねばならない」と規制するのではなく、クリアな意識を保つために量や素材が適切であるかどうかを各自の心身の直観で知ることが必要となる。

この感覚はワークを実践するに従って磨かれていく。


<ワークリスト>

●意識の筋肉を開く
●意識の目の動体視力を鍛える
●寝落ちと夢のはじまりを見切る
●覚醒を曇らせているものを見る
●覚醒と認識のポイントのズレを見る
●自己イメージを創る心身のズレを組み替える
●生体エネルギーを縦方向に使う
●生体エネルギーの通り道を整える
●認識の座の位置を知る
●現象発生の横方向の感覚を知る
●ハートの位置をピンポイントで知る
●丹田の位置をピンポイントで知る
●3つのセンターの正しい位置と使い方
●ポータルとなるセンターと肉体との関係
●呼吸の道筋と身体の構造の関係を知る
●呼吸がイメージに変化する境界を見る
●呼吸のイメージの消失点と認識の座をつなぐ
●呼吸の消失点を見切りその先を観察する
●腹式呼吸と意識の具体的なポイント
●吸う息の入りきるポイントと意識を連動させて空白をつくる
●意識的な呼吸で気がのぼるときに注意するポイント
●水平呼吸と垂直呼吸
●プラーナと呼吸の道筋を連動させる
●引力の「あいだ」にいるとは
●引力の「あいだ」の体感
●意識の浮力とは
●頭頂の正しいポイントを知る
●頭頂とホワイトアウト
●頭頂を起点とした世界の見方
●認識の座と松果体の関係とは
●頭がい骨と頸椎のあいだを空ける
●思考と妄想と頭部のバランスの関係
●妄想の出やすい頭部の傾きと出にくいバランス
●頭部と頸椎の傾きと認識の座のズレ
●認識の座と生体エネルギーが交差する位置(クロスポイント)
●水平意識と垂直意識の意味と正しい位置
●丹田を具体的に意識する瞑想
●丹田に脱落するとは
●丹田の心身脱落とハラの脱力の違い
●丹田の意識のブラックアウトとは
●現象世界にハートが具体的に触れる感覚
●中心とはなにか
●体軸のズレを整える
●グラウンディングのズレを整える
●現象と覚醒のあいだのポータルとは
●サードアイの使い方と妄想の関係
●サードアイの内方向への抜き方
●肉体の目から認識の目にシフトする
●肉体の目がレンズとなるときの見え方
●エネルギーを貯める仙骨と仙腸関節の使い方
●意識と直結する恥骨と尾てい骨の位置と傾き
●腸腰筋と股関節と意識
●肋骨の傾きと意識
●腸の状態と意識
●瞑想座法の効果的な形
●ニミッタの見え方と位相
●内的意識とプラーナの自動化
●認識の座に直接作用する「コーリング(呼びかけ)」とは
●イメージと概念を切り離す
●内的衝動(インテンション)を見切る
●インテンションと体内感覚
●インテンションとベクトル
●インテンションのベクトルを転換してエネルギーロスを防ぐ
●本能と感情と思考とインテンションの混線を切り離す
●身体概念の解体
●身体の解体と意識の位相レベル
●受動的に触れながら世界を学習する赤ちゃんの身体
●自己の身体イメージの曖昧さを見る
●身体イメージと鏡像段階
●身体の枠とイメージの境界を見る
●身体との同一化が一瞬で解体する足踏みワーク
●わたしとあなたの境界を超える2人組ワーク
●ハートのだるま落し
●ハートのジェットコースター
●ハートのヴァイブレーションと消失点
●ハートの消失点とポータル
●物質と身体の接触と消失点
●意識の階段の踏み外しと空白
●非常時に発動する自律神経系運動と意識の空白
●無数の思考の流れを見切る
●思考の明晰さと認識の明晰さの違い
●脳内を覗くように外のものを見る
●地球に張り付いて自転する身体の実感
●宇宙に投げ出されて逆立ちで公転する頭頂
●瞑想だけで心身の深層から起こる柔軟性とは
●概念世界のゲシュタルト崩壊
●言語を右脳で追うとは
●文字と記号と意味と概念
●多次元の直観認識
●多次元的折り紙
●3Dと錯覚
●認識のプリセットの解除
●0.2秒前の世界とは
●自律神経系の動きで0.2秒前を仮体験する
●脳を「触る」ワーク
●意識の共感覚的触覚
●空間座標をたたみ込む
●時空を1点に串刺しにする
●時空を超えて覚醒を促す「呼び戻し」ワーク
●引力と覚醒への針穴
●エゴの抵抗を見切る
●エゴを手懐け引力の隙をつく
●直列的時間が崩壊しはじめたとき起こること
●気づきの自動化の確立
●エゴの存続と生命維持のストッパー
●時空と思考の連鎖から外れる瞬間
●エゴの連続性の発生前に飛び込むには
●3Dの負荷の圧縮と開放、エネルギーの反発力
●瞬間的なエネルギーチャージの場
●思考発生前の瞬間的な凝縮を見切る
●3つのセンターにピンポイントで話しかける
●どこにもつかまらないでいられるか?
●中庸に浮いてあること



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【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <11.よくある間違い・注意点・ヒント>    

2019/09/26

11. よくある間違い・注意点・ヒント


・「いまここ」という言葉は時空の連続性の概念にとらわれている。

・見かけ上の連続性を解除された本当の「いま」は人間には永遠に認識できない。

・「ここ」とは見かけ上の連続性、身体の幻想ありきの空間的共通認識である。

・「あるがまま」の様相は認識レベルによって変化する相対的なものである。

・3Dにおける「あるがまま」に安住すると3Dの世界内在的な存在として在り続ける。

・「すべてがただ起こっている」ということを別の位相で見たとき、人間の周波数にとってゆったりとした心地よいものではない。

・「あるがまま」の本当の凄みを知ったとき畏怖の念が起こる。

・覚醒の生成の場においては身体という遅くて粗い波動のものは存在できない。身体の枠が形成される前にバラバラになってしまう。

・3Dを超えた「あるがまま」は丹田やハートではなく認識の座で空白の切れ目に飛び込むことでしか見切ることができない。

・突発的な一瞥は丹田やハートでも起こりうるが、認識の覚醒は訓練と強烈に突き動かされるエネルギーが必要であり、生まれ出てきた産道を意識だけで逆戻りするような圧を伴う。

・「透明な気づき」の感覚に、すでに「はじまってしまった」空間認識が付帯されていないか注意深く観察する。

・事象や物質が存在するための入れ物としての空間が先に固定されてあるわけではない。

・3Dにおける質量・奥行・遠近・色彩・形状・質感・明暗・速度のすべては、たまたまわれわれにプリセットされた認識によってそのように読み取られた共通認識にすぎないことを知る。

・「気づきが遍在している」という感覚も、3Dの空間認識が付帯している。

・それは現象世界にすでに生じた身体によって測られた空間感覚とわたしという定点があることで生じる感覚にすぎない。

・プリセットされた空間認識を完全に解除する必要はないが、感覚が生じたときにそれらはすべて空間認識が付帯された仮象であることを忘れないでおく。

・空間の広がりを感じてはいけないわけではない。自他の枠が解除されて空間が広がって見えるのは、3Dにおいて限定が解けたときに顕れるシステムである。

・一瞥の興奮状態を維持しようとせず、あらゆる点からその体験を検証する。検証するプロセスで至福感がなくなったとしたら、それはそれまでの体験であったのである。

・どのような素晴らしい体験であっても、それを維持したいという欲求が少しでもあるところには別の存在が介入してきて次の瞬間、不純なものとなる。

・日々、認識の鋭利さを磨いて無自覚のうちに執着の生じる瞬間を見切るようにする。

・無自覚に気絶してしまったと気づいたとき、甘美な欲求や眩惑的な引力が働いていないかどうかを注意深く観察する。

・しかしながら、このような状態に陥ったことに罪悪感を持つ必要はない。その状態は受動的に起こったのであって、気づいた次の瞬間、いつでもリセットすることができる。

・罪悪感を持つ必要はないが、無自覚に陥る時間が長ければ、現象世界においてはそのような担当者として采配され、それに見合ったエネルギーを引き寄せることになり、覚醒から遠ざかる。

・自覚的にこのような状態に淫し維持しようとするときのみ、魂を売った者となる。

・気絶しないでいることを、エゴを強化すること(根性・執着・プライドの強化)で保とうとしない。エゴの強さではなく、認識の鋭さによって気絶しないでいることを訓練する。

・認識の鋭さによって気絶しないでいられるときのみ、気づきの自動化が起こる。

・好ましい状態を維持しようとするのではなく、様々な状態が波のように変化していくエネルギーのうねりに立ち会っていること自体が覚醒の顕れであり証明なのだということを知る。

・うねりが連続した波として感じられたとしても、それは脳が酩酊しているため瞬間瞬間の断続したエネルギーの点と点のあいだをつなぎ合わせて編集した映像を見ている。

・覚醒を覆い隠しているのは、その瞬間を占めているエゴ感覚や思考だが、それらを消そうとしないで、ただ見切っていく。

・見切っていくときには、あらゆる事象に対して一切の判断をしない。少しでも判断が入ればそのエネルギーのベクトルに引っ張られて新たな幻想のコマに入る。

・物質的に可視な粒子に分解して認識の高速のプロセスを語ること(原子の崩壊、素粒子の動き等)は3Dの直列的時空の概念によって要素を分解しているだけである。

・直列的時空の概念によって要素を分解しても人間の認識がたどり着けるところまでしか見切ることができない。

・人間の認識によって見切られる範囲は非常に限定されているため、直列的時空の概念の延長上で神秘の本質と全貌を知ることはできない。

・現象の生成と消滅は直列的時空の概念のなかで時系列に起こっていることではない。

・その意味で、生成消滅を時系列の様相で説明する教えは本質の直観を妨げるといえる。

・「気づきと対象に触れる瞬間が時系列に交互にある」という説明は現象側においては見かけ上そのように感じられるだろうが、直列的時空が前提となっており、対象物が外にある設定として語られているため、時系列に起こる気づきの精度をいくらあげても、探求者は3Dの物理法則のなかで要素分解の限界に行き詰る。

・このことにより、覚醒体験は選ばれた者のみに突発的に起こる特別なものとして「たどりつくことが困難なもの」(未来にたどりつくもの)になってしまう。

・事象の時系列の発生の幻想から抜け出ないかぎり、3Dの概念は解除されない。

・だからといって、直線的時空の感覚が実際に転換する前に、瞬間瞬間の自分の前後のつながりを意図的に分断して同時並列的に存在する多層的な「わたし」をとらえようとしても意味をなさないし、直接的な体験と理解には結びつかない。

・しかしながら、見切られるところまで見切ることによって直列的時空の概念に疑いをもつところまでは可能である。

・あたりまえであった概念に疑いが生じたとき、本質の気配と手触りの一端が見えはじめる。そこから探求がはじまる。

・「連続した自己」が覚醒するという幻想があるかぎり、覚醒の瞬間が見切られることはない。

・しかしながら覚醒を知ると、3Dの日常においては見かけ上連続した自己と覚醒した意識が並行して同時進行しているように感じられる。(自己意識の脱落した変性意識状態のときを除く)

・直線的時空とは、例えば今この本を読んでいるとき文字を左から右へ順番に読む、そのときの3Dの主体の認識において見かけ上、時系列の時空が発生している。(順番に追わないと意味が読み取れない)

・並列的時空においては、文字の並びはバラバラなまま、この本の内容として読み取られる可能性がひとつのものとして同時に折り重なってあり、読もうという意図が起こった瞬間にすべての並びが完了し同時に読み取りが完了する。

・時空の感覚の転換は人間の概念の進化によって直観的に理解しやすくなってきているといえるが、概念ではなく直接体験しうるものである。

・見切りを凝縮しきったところで弾けることを知る前に、緩むことばかりをやると無自覚的に拡散のベクトルのエネルギーに加担することになって、うねりに流され(もしくはホワイトアウトして)現象側で流転することになる。

・生体エネルギーと認識の座のバランスの拮抗がないまま、心身だけを重力にまかせて脱力させてしまうと存在の基底に沼のように沈みこんではまってしまう。

・丹田で起こる心身脱落と、重力で落下するハラ(腹)での脱力は意識の位相がまったく異なる。

・人間から見ると時系列の事象に「原因」と「結果」という意味と概念を読み取るが、それは切れ目なく表裏一体で無限にあたかも一つのうごめく生物のようにある。

・「目覚めてください」というとき、それは「見切るための極限まで圧縮された鋭利な認識」を具体的に発動させてくださいという意味である。

・その鋭利な認識が伴わない体験はいかに圧倒的な至高体験であれ、現象世界の時空の概念のなかのイメージへの酩酊である。

・鋭利な認識が目覚めるとき、閉じていた意識の筋肉のようなものが具体的に開かれる衝撃を伴う。

・このときから、表面の肉体の目ではなく奥の覚醒の目で事象を見るようになる。視座のシフトは明らかなものである。

・覚醒以前は肉体の目のフォーカスはエゴの興味のフォーカスと同化している。覚醒後は肉体の目はエゴのフォーカスと分離し、事象をそのままただ映すレンズの機能となる。

・肉体の目が事象をそのままただ映すレンズの機能となったとき「あるがまま」の意味がわかる。

・「あるがまま」に事象が映っているとき、空間的遠近や自他の区別はない。

・空間的遠近や自他の区別はエゴのフォーカスの移動によって起こっている。

・空間的遠近や自他の区別は、人間の進化の過程で強固にプリセットされた感覚のため、それがはずれたとき非常に奇妙な感覚が生じる。

・奇妙な感覚と同時に「知っていた」という自明の感覚も生じる。

・強固にプリセットされた感覚はエゴにとっては生命維持と同義のため、それをはずすことに恐怖を感じる。そのため突発的な一瞥をのぞいて、エゴのしくみを知りその裏をかく戦略が必要となる。

・覚醒とはある意味、すべてのプリセットが解除されたところにある。

・解除は自分自身で能動的に行うことはできない。信頼と恩寵が解除する。

・見かけ上の能動的な自己放棄は、信頼と恩寵による純粋な自己放棄とエネルギーとベクトルが異なる。

・覚醒と分離されているのは幻想である。現象が多様化し拡散していくことはプログラムされた法則である。

・空間的遠近のないところにおいては実体として離れたものはなく、見かけ上遠いところにあるものもすべて同時にある。

・距離が離れていくことは単に見かけ上の法則であって、覚醒から離れていくことではない。

・分離は個別の認識によってのみ起こる幻想である。どの位相から見るかによって分離はあるともないともいえる。

・覚醒の結果としてわかることを先に知ることは弊害と利点がある。

・弊害については、概念的に先に知ったことにより、結果の状態にあわせようとしてしまうことがある。

・結果にあわせようとする瞬間に意図のベクトルが発生してしまって別のものになる。

・しかしながら、具体的な結果を耳にしなければ永遠に発心が起こらない可能性がある。

・発心が起こった時点で、それがはじめはピントのズレたものであっても、紆余曲折しながら結果として自動的に覚醒へ運ばれていくことになる。

・なぜなら、このような話を受動的に耳にすること自体が覚醒側からの恩寵だからである。

・解脱とは空間的に別の位相に存在する高次の世界に意識が没入して一体化することではない。

・現象世界は一瞬にして消えうる可能性があるが、それは世界内存在のストーリーの中の出来事としては起こらない。

・ストーリーの中での世界の崩壊は時間の経過とともに徐々に起こるが、存在そのものの消滅は一瞬にして起こる。

・消滅は常に起こっているが、起こっていない現象世界に瞬間瞬間、移動して新たに生まれ変わってフォーカスしているだけである。

・次の瞬間、消滅していない世界にフォーカスしている見かけ上連続したわたしを見出したなら、それは現象世界の担当者としてその瞬間が必要だったからである。

・見かけ上の一瞬先のわたしは、このわたしではない。

・映画などで、違う並行宇宙に入る、あるいはタイムマシーンのパラドクスの禁を犯して目の前の人物が消え去るということがあるが、実際には目の前から砂のようにその瞬間消失するということはない。実際は現実として整合性がとれた形で気づかないうちに分岐し、消える。

・現実にはこのような無数の分岐がひとつのところで同時並行して起こっている。

・その人物がいない世界といる世界は次の瞬間分岐し、この瞬間のわたしは見かけ上の整合性をもってどちらかの世界に采配される。

・無数の現実の可能性が、認識の追いつかないレベルで瞬時に起こっているので「その人物が消えるべき現実」がある一点で起こっていたとしても、その瞬間、こちらの「わたし」は「その人物がいない現実」の一点に「先に移動してしまっている」。

・その、「先に移動してしまっている」現実に連なりうるエネルギーの一点一点が即座に引力でひきよせられ、整合性のとれた過去の記憶として見かけ上の時系列に並び替えられる。

・分岐した一点に宿った私はすべて書き換えられた記憶の一連の流れの担当者として整合性がとれているかのごとく存在する。

・しかし、ごくたまにプログラミングエラーが起きて過去の整合性や直列的時空に疑念が生じたり、パラドックスを垣間見てしまったりする隙間が顕れることがある。それはわたしたちの認識の次元転換へのヒントとなるともいえる。

・身体という物質に同化している意識のわたしは壁という物質を通り抜けられないが、ある意味、壁を抜けられる可能性は無数にある。

・しかし、壁を抜けた「わたし」は身体と同化していない瞬間のわたしであり、身体のわたしの瞬間とは異なる位相の瞬間に位置する。

・また、身体に同化したわたしは、身体のわたしが壁を抜ける瞬間を、身体に同化しているがゆえに、身体の目で見ることができない。(100%見ることができないとは断言はできないが)

・多次元のわたしたちは各次元の担当者として瞬間瞬間にパラレルに分岐している。多層のわたしが同一のわたしとして同一の瞬間に認識されることはない。(少なくとも3Dの世界においては)

・この瞬間3Dに存在しているわたしは過去の瞬間に存在した多層のわたしの記憶を自己同一性としてもたない。(もてない)

・個別の魂は幻想である。見かけ上の分離から後付けで生じる。ただし、ハートの座が身体の幻想から生じながらポータルとして機能するように、魂のイメージも多層次元のわたしとひとつであることへのポータルとして機能しうる。3Dにおけるポータルは常に、3Dにプリセットされた概念を利用する。

・光のかたまりのような世界がワンネスとしてあるのではなく、現象が生じるときに起こる爆発が光を発生させる。結果として発生した光の表象だけを見ていては根源にたどりつかない。

・肉体と認識が同化しなくなっても、肉体のエネルギーはそのまま残る。個別のカルマに同化しなくなったということだけで、肉体のエネルギーは他のバランスの引力に采配され続く。

・個別の肉体に同化しなければその肉体のエネルギーは他人の肉体があるようにそこにあるようになる。その肉体を構成するエネルギーに同化していたわたしたちの意識は個別の肉体のカルマから離れるが、肉体そのものを采配からはずすことは極めて稀であり特殊な訓練を必要とする。

・肉体のカルマから離れても現象として顕れている肉体が存続するうちは過去のカルマの采配のうちにある。

・ある種のボディワークは身体と意識の関係を探るために有効だが、身体の実存にフォーカスしすぎると逆に意識の超越にとっては弊害となる。

・身体の質量や実存感は、それを客観視できるときのみ覚醒へのポータルとなる。

・心身一如の状態になると逆に意識が身体から離れて見ている状態になる。身体=わたしという感覚があるのは心身一如の状態ではない。

・心身一如の状態は覚醒へのポータルになりうるが、身体の実存を信じているかぎり現象に引き戻される。

・身体の精妙さは驚愕すべきものだが、仮象であることを知り、物質としての実存感の引力にひっぱられないこと。

・ベクトルを発生させる瞑想はイメージにはまりこむ。

・ただし、気づきが自動化されていない段階においてはベクトルを意図的に利用することは必要になる。

・意図的にイメージにはまりこませ、イメージに刷り込まれた秘儀的なポータルを通って覚醒に至ろうとする伝統もあり一概に否定はできないが、最終段階ではイメージは手放されるべきである。

・空、無は止まって固定されているものではない。動き出すこと生まれること、動き出されなかったもの生まれなかったものとの「あいだ」でバランスを保って見かけ上、動かないでいる。それはどこか空間的な座標に位置するものではない。

・覚醒に近いものは波動が細かく、遠いものは波動が荒いが、波動が荒くても引力が強いものと弱いものがあり、波動が細かくても引力が強いものと弱いものがある。

・派手な体験を求めると引力の強いほうへひっぱられるが、誤った方向へ行くことも多々ある。

・また、波動が細かくても誘惑的引力が強く働いているものがあり、それは必ずしも善といえるわけではないので波動の質と意識のベクトルの微細な動きに細心の注意を払う。

・感覚は、進化の過程で個別のわたしが生き延びるためにプリセットされた。

・感覚(特に自他の境界をつくる皮膚感覚や痛覚等)がないと自己保存の本能が働かず簡単に死んでしまう。

・瞑想は、自己保存のために利用してきた感覚機能を、別のポータルとして組み換え、再利用する。

・感覚は相対的なものなので、瞑想で再利用されたときには知覚が組み変わる。

・物質は固定された質量のものではなく、相対的な顕れである。

・物質とイメージの境界はない。

・物質とイメージは意識のなかのグラデーションである。

・物質に枠があるように見えているのは、枠のあるものとしての人間の認識機能による。

・見かけ上、枠がなければ人間は自他を区別することができない。

・個別の自己が生き残るために枠が設定された世界にフォーカスしている。

・人間は枠がある共通認識の世界の担当者である。

・枠があるという共通認識の強固さがこの世界を保っている。

・枠の認識が崩れるとまったく違う構造の世界を創りなおすことになる。

・意識のなかの物質とイメージのグラデーションを覚醒へのポータルとして利用することは可能である。(特に呼吸において)

・イメージのグラデーションをたどることは瞑想の初期のプロセスにおいてポータルとなりうるが、イメージ自体を目的として没入すると抜けられなくなる。

・言葉は共通認識において実質の最大公約数的イメージを切り取ったものである。

・よって、言葉によって概念化されたものにプリセットされた現象世界の法則を注意深く見抜く必要がある。

・言語発生の前提となっている物理法則のプリセットを見抜き、イメージと言語を切り離し、概念化される以前の生の実存に触れることが瞑想の目的である。

・すべての次元、あらゆる宇宙、霊界と呼ばれるものなどもひとつの可能性の場にすべてある。アストラル・エーテル・オーラなどもひとつのところにあるが、担当する周波数によってフォーカスされる場が異なり、同じところにありながら別次元に住み分けている。

・上の次元からは下の次元の構造が見渡せるが(とはいえ3Dの肉体の目で見る世界のようには見えない)、下の次元からは上の次元の部分が切れ切れにランダムに顕れる(上の次元ではランダムではなく上の次元の原理で整合性をもってつながっている)

・上の次元のものは全容が見えるわけではないが、3次元の現象に映りこんでくる断片断片の影の手触りがヒントとして与えられる。

・現象において担当者を気絶させて見かけ上の自己同一性を与えなければ、未熟な段階の利己的なエゴは全体へのフィードバック要員としての役目を果たさなくなる。

・ある意味、気絶させておくのは、疑問をもたずに進化の目的へ向って働き続ける原動力を保つための仕組みであり、また、ある意味ではエゴが洗練されるまで気絶させて育てようという「慈悲」でもある。

・利己的なエゴを脱し、本来の機能を果たせるまで進化したときに、自己同一性の感覚を解除され、創造へのフィードバックに自覚的に関わることができるようになる。

・そのとき、喜びの目的と質が変化する。



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【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <10.覚醒によってわかること>    

2019/09/26

10. 覚醒によってわかること


・すべての事象がまったく新しい存在感で生々しく迫ってくる。

・顕れているものすべてが覚醒の現前であることを知る。

・目の前に顕れている存在の神秘と感謝を知る。

・曖昧なものや不要なものはひとつもないことを知る。

・この肉体の顕れを慈しむようになる。

・覚醒の根源への信頼が常にあって安心感が消えない。

・世界が固定化された3Dの様相ではなく多層的になる。

・例えていうならば、3Dにおいて三角形の平面の影を見ても同時に三角錐の立体の奥行を直観しているような感覚がある。

・すべての動きが多次元の動きのなかの一面を切り取ったものであることを知る。

・覚醒のポータルとなりうる3つのセンターは身体の幻想ありきの座標であって、覚醒の目で見たとき、ほんとうは現象世界において顕れているものすべてが、360度どこをみてもすべての点が内側と外側の境界のないポータルであることを知る。

・すべての事象が壮大なひとりごとであることを知る。

・それは例えていうならば、誰もいない惑星に設置された定点カメラのようなものである。

・あたりまえだと思っていたことがすべて必然でこのような見かけになっていたことを知る。

・次の瞬間起こることはすべて決定していてそれをただ受け取るしかないことを知る。

・現象世界において受動的な担当者であることに被害者意識を持たなくなる。

・受動的でありながら能動的でもあるという意識に至ったとき、はじめて全体のなかでの意志を問われることを知る。

・信頼が起こるとき、自動的に覚醒へ運ばれることを疑いなく知る。

・信頼が、必要なことを必要なタイミングで与えてくれる鍵となることを知る。

・信頼のベクトルが外側でも内側でもなくそれ自体としてあるときに恩寵が発動することを知る。

・自他の距離と遠近感が3D特有の相対的な法則にすぎないことを知る。

・すべての愛の感覚は帰還への「郷愁」のヴァリエーションであることを知る。

・エゴと思考はなくす必要はなく、機能として使うためのツールであることを知る。

・思考の明晰さと認識の明晰さは位相が異なることを知る。

・現象世界における見かけ上の苦しみや楽しみは続くことを知る。

・見かけ上の苦しみや楽しみに日々、一喜一憂してもなんの問題もないことを知る。

・時には一定期間、意識的あるいは無意識的に気絶して現象世界に没入し、戻ったときに思い出として味わう楽しみを知る。

・気絶している期間は短くても長くても問題がないことを知る。どちらにしても一瞬にすぎないのだから。

・究極的には一生気絶していても問題はない。問題だと思うのは個別の人間の都合にすぎないことを知る。

・しかしながら、覚醒を知ると気絶している時間は短くなる。また、いまどのぐらい自分が気絶していたかどうかを明確に自覚できる。

・必要なタイミングで必要な知識が直観でもたらされることを知る。

・人間の3Dの脳で見切れることは覚醒のごく一部分でしかないことを知る。

・わからないことが、なぜわからないのかというしくみを知る。

・しくみの直観は、それぞれのエネルギーレベルとキャパシティ、概念化能力のレベルに応じて降りてくることを知る。

・覚醒の一部として、現象世界の創造の一担当者の自覚が生まれる。

・些細な動きも起こるべくして起こっているということに日々驚愕する。

・自分の心身で起こる一挙手一投足のすべての瞬間に驚愕する。

・すべての動きが覚醒の顕れであることを見るとき周囲のすべてに生き物のような意志が宿っているかのように感じられゾクゾクする。

・ぼんやりしているうちにも毎瞬起こっている出来事すべてが必然であることを知る。

・「エゴ」がすべてを見張っていなくても問題ないことを知る。

・無意識的な行動の選択の瞬間瞬間がこちら側で見切られなくても全体にフィードバックされていることを知る。

・無意識から起こる行動や一見なんの意味もないような無駄に見える行動であっても「無意識に無駄なことをする」担当者が全体のなかで必要であったことを知る。

・無意識に呼吸をしている瞬間も、全体のバランスのなかで必要だったのであり、その瞬間がなければ今この現象世界は一瞬で崩壊していたということを知る。

・人間としての心身への同化率と存在の位相を自覚的に移動する感覚が生じる。

・身体への同化率が高ければ、すべてのものが生々しく直接触れていて自分の内で響いているところで生じていることを知る。

・身体への同化率が低ければ、現象が生じる前の分岐のスパークと膨大なエネルギーの場にただただ目を見開いて立ち会っていることを知る。

・覚醒からエネルギーを直接供給されて瞬時にリフレッシュする感覚を知る。

・現象発生以前の「あいだ」だけが永遠であることを知る。

・現象世界は、発生してしまったわたし自身との出会いの場であることを知る。

・二元と一元が両立してあることのパラドックスのしくみを知る。

・二元と一元は直列的時間においては並行して両立しているかのように感じられるが、瞬間的にどちらかにフォーカスしていただけであったことを知る。

・そもそも二元と一元の区別が問題になるのは人間の認識においてだけであったことを知る。

・人間の認識においても、常にひとつでなくてもよいし、その必要もない。

・二元の担当者として対象物を認識できなければ一元の気配を感じとれない。

・完全に一元の世界のとき、認識する者はいない。

・認識する者がいないとき世界は言及されないが、一元の状態は認識されないときにある。

・その状態は常にあらゆる瞬間、日常で起こっていることを知る。

・わたしたちはその両方をまたぐ者としてあることを知る。

・一元の状態は3Dの二元の知覚ありきで「そうでないもの」として在ることができるが、一元の状態と呼んでいるものは認識の最終形態ではない。3Dのわたしたちにはまったく理解不能な知覚形態が無限にある。

・目覚めたわたしたちが現象にとどまって魔術を試行錯誤するか、エネルギーバランスの拮抗を維持して世界を存続させるか、完全にリセットするかは、覚醒側からの促しによって協議されることになることを知らされる。

・目覚めた多層にまたがるわたしたちは、半能動的な自発性を手にするかわりに、すべての責任をそれぞれのエネルギー量に合わせてとることを知らされる。

・この責任を放棄したとき、現象世界において無為と一体化し、この世界の存在を存続させ流転にまかせるという選択をしたことになる。

・半能動的に責任を為すときは義務として強制されるのではなく、自覚的にただ存在しようという肯定の姿勢によって為される。

・責任は、自己の認識レベルのカバーできる範囲しかとれない。人間の認識において、とれる責任の範囲はごく限られるが、多層的な意識のどの層に同化しているかによってカバーできる責任が変わってくることを知る。

・責任は世界の存続が選択されるときにのみ発生する。

・世界は、ある瞬間ある一点においてすべての層で責任がとられたことによって発動したものであることを知る。

・もし現象全体の覚醒と世界の存続の共存が選択されたならば、見かけ上の時空を保ちつつ、蜂の世界に近くなるかもしれない。中央主権的(女王蜂=創造の母)でありながら各自が複眼で世界を映しつつそれぞれの役割に徹し、全体として調和がとれている世界…このような世界に個を手放して忘我することに怖れを感じるか喜びを感じるかは主体の座の位相によるだろう。



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【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <9.瞑想・認識・酩酊・うねり>    

2019/09/26

9.  瞑想・認識・酩酊・うねり


●瞑想とは

・本来、受動的に起こるものである。

・受動的に起こるようになるまでは見かけ上、能動的に起こす必要がある。

・認識の鋭利さが確立してからはじめて瞑想がはじまる。

・見かけ上とまっていても恐ろしい勢いで動き続けているものである。

・莫大なエネルギーを必要とする。

・身体の生体エネルギーとポータルの交差点で起こる。

・「意識の動体視力」のようなものを発現させる。

・認識の鋭利さが自動化するまでは訓練する。

・自動化されたらそれが発動する場として心身の機能をただ開放して待つ。

・一瞬でも隙があれば崩れる。

・非常に微細なバランスの引力の浮力のうえに薄紙一枚の世界で成り立っている。

・思考を意図的に止めてはならない。

・思考が出て流れていくままにする。

・微細なレベルに至るまで瞑想者のカルマがつきまとう。

・カルマが最後までつきまとうことを知ったとき、探求者は浄化が必要な本当の意味を知る。

・瞬間瞬間に瞑想者の過去の捉われのすべてが影響を及ぼす。

・覚醒を隠している不純物を瞬間瞬間にとりのぞいていくものである。

・しかし、意図的にとりのぞこうとしてはならない。

・信頼にゆだね、瞬間を見切っていくことによって不純物が自動的にとりのぞかれる。

・イメージや心地よさに陶酔するものではない。

・うっとりと酩酊するものではない。

・ホワイトアウトしてしまうと認識レベルがすすまない。

・あらゆるイメージにはまろうとする瞬間を手放す必要がある。

・ただし、物質とイメージと意識の境目を見切るためにイメージが必要な段階はある。

・ある状態にはまりこんで止まっているのはイメージに同化しているためである。

・無のイメージと光のイメージには特にはまりやすい。

・好ましいと思われる状態や体験を捨てていく覚悟がいる。

・次の瞬間まで引き伸ばしたいというあらゆる欲求を見切って手放す。

・あらゆる瞬間の動きを見逃さないための意識の動体視力のようなものが必要である。

・手放すためにはただ気づいて掴まなければよい。

・起こった体験を再現しようと意図しない。

・さまざまな存在が働きかけてくることがあっても耳をかさない。

・信頼があれば必要な助けは起こる。

・必要な助けかそうでないかはエゴには判断できない。

・必要な助けが起こらないのは信頼が熟していないからである。

・信頼が熟すためには一切の期待をせずに瞬間瞬間を見切ることである。

・瞬間瞬間を見切ることへの情熱が勝手に沸き起こってくれば、その恩寵を信頼してよい。


●瞑想のポイントと注意

・認識の鋭利さが自動化される前に意図的に心身を緩めて開放してしまうと、心身に同化する引力にひっぱられて先にすすめない。物質次元の緩みは引力にひっぱられる。

・物質次元を超えた緩みは、認識の鋭利さをもって意識の不純物を手放していったときに「結果として」起こる。

・物質次元を超えたところからくる緩みが起こると、微細なヴァイブレーションとともに身体の境界線がなくなる。

・身体の境界線がなくなったときに認識の鋭利さを維持しないと微細なヴァイブレーションに朦朧と一体化してしまって先にすすめない。

・武士が刀を持っているときの意識のように全方向にピーンと張った意識と微細なヴァイブレーションが同時にある状態になること。

・ピーンとはった糸のように響くところだけに意識が重なり、心身が丹田に脱落した状態にとどまると、私の中ですべてが起こっていることが明確にわかる。

・そのとき、私の中に人がいる/ あらゆるものが響きとして私のなかにある/ 私が響かせていることによってそれらの存在が成り立っているという感覚が生じるが、この状態でわかることはまだ現象世界側のことである。

・張り詰めた意識をつくるとき、ある段階までは一点に集中していき、認識の鋭利さが高速化してきた段階で、一点集中を解いて全方向へ開放する。そうすると、集中と拡散が同時に成立している状態になる。

・微細なヴァイブレーションと集中と拡散のなかで認識の鋭利さを極限まで発動させつづけることで覚醒の入り口へと自動的に運ばれる。

・認識の鋭利さを極限まで手放さないためには、瞬間瞬間の状態がいかに好ましいものであってもそこにとどまらないという覚悟がいる。

・この状態で瞬間瞬間を見切っていくと、意識がひっぱられる微細な引力と質量のようなものを感じはじめるが、その引力を見切って意識がどこかにひっぱられようとするのを極限まで回避しつづける。

・極限まで回避していくとあらゆる事象から無限に退いていく意識の空白の場のようなものの「気配」が顕れてくる。

・この、空白の場を意図的に見ようとして対象化してはならない。対象化したとたん、それは消えて単なるイメージとなってしまう。気づかないうちにこのイメージにはまらないように注意する。(このイメージを「空」と勘違いしないこと)

・空白の場は意識が対象物に触れて認識される手前の場であり、覚醒の入り口にあるが、空白の場へ自ら飛び込むことはできない。

・意識が無限に後退していってホワイトアウトしかける寸前に、生体エネルギーが縦に上ってきて交差した瞬間に衝撃をともなって覚醒の入り口のむこうへ「後ろ向きに」帰還する。

・生体エネルギーは意図的に昇らせてはならない。自動的に昇る瞬間を信頼して待つ。無限後退とホワイトアウトの横軸と生体エネルギーの昇る縦軸のタイミングが意図せず奇跡的にぴったり重なったときにだけ帰還できる。

・突発的に生体エネルギーが昇って覚醒に触れることもあり得るが、その場合「しくみ」を見切ることができずに一瞥にとどまることが多いだろう。

・事故等で突発的に起こる覚醒状態は、生命維持のストッパーが唐突にはずされ、階段を踏み外して一瞬空白になるときのような感覚を伴い、そこで気絶せずにスローモーションあるいはストップモーションの気づきが保たれていれば一瞥される。

・「階段の踏み外し」状態というのは大なり小なり日常で起こっているのだが認識の鋭利さが伴っていないので見過ごされている。

・「階段の踏み外し」が突発的に起こったときに認識の鋭利さと気づきの自動化の訓練をしていると、一瞬の空白に気絶せずに気づきが継続して見切ることができる。

・この一瞬の空白は瞑想によって顕れる「空白の場」と同じであるが、突発的に起こった場合は空白そのものにはまってしまうので見切ることが難しい。

・生体エネルギーの昇るタイミングは意図してはならないが、日常においてエネルギーの通り道を意識化し、詰まりを取り除いておくことは有効だと思われる。

・この通り道は、肉体と意識の境目のようなところにあり、肉体側からみれば背骨の内側に沿っているが、実際に背骨の内側に管のような空間があるわけではない。そこが意識化されたときだけ空間のような感覚を伴ってポータルとなる。

・覚醒における知覚は次のようなものとしてある。①丹田に心身が脱落する→②肉体の目のフォーカスが均一になる→③肉体の目から覚醒の目に移行する→④起こっていることすべてを、自動化された意識の動体視力で見切るにまかせる→⑤その状態を階段から踏みはずした瞬間のように「…!!」と空白のままハートで感知している。この認識のプロセスは①~⑤までほぼ同時に起こる。


●酩酊・うねり

・3D側に在りながら覚醒の采配のエネルギーの断続的な流れに意識がフォーカスしたとき、酩酊するようなエネルギーとエネルギーのうねりを感じる。

・このエネルギーは3D側に変換されたものなので覚醒そのものを知らなくても感じとることができる。

・酩酊は垂直のエネルギーのエクスタシーと水平の創造のエネルギーとの引力の駆け引きのようなところで起こる

・うねりと認識の中心がズレているときに酩酊が起こる。うねりの中心で目覚めているとき、台風の目の中にいるように静寂にある。

・うねりの強いエネルギーによって認識の中心がホワイトアウトするときエクスタシー状態にはまりこむが、この状態自体が覚醒というわけではない。

・酩酊は創造の引力の満ち引きのような波に船酔いしているような感覚である。

・酩酊の感覚は、肉体のエネルギーの周波数と覚醒のエネルギーの周波数の違いから起こる。要するに肉体のエネルギーが覚醒のエネルギーの高さについていけずに認識の座が気絶の手前でぐらぐらと動いてしまっている状態である。

・覚醒そのものを知らなくても、覚醒に近い状態に意識がフォーカスしているので、普段隠れているエネルギーが顕れてくる。

・あらゆる次元のエネルギーはすべてひとつのところにあるが、意識のレベルによって別の次元のエネルギーは隠れている。

・より無私に近い状態のとき意識のレベルでフォーカスできる次元が変わり、高いエネルギーを感受できる。

・ただし、強いエネルギーが高いエネルギーとは限らない。邪悪なものをふくむ強いエネルギーも多々あるので混同しないこと。

・酩酊は至福感を伴う。

・これは覚醒側からの働きかけである。

・酩酊は覚醒側からの打診、恩寵、慈悲である。

・覚醒の場から現象が生じるときの引力が3Dの直列的時空に転換されたとき、うねりを伴ったエネルギーの流れとして感じられる。

・よって、酩酊のエネルギーとうねりは現象発生の源にもっとも近いものといえる。

・酩酊のエネルギーは現象発生の源そのものではなく、すでに発生し展開しているものである。

・現象すべてはこのエネルギーを伴って発生している。

・一般的にはこのエネルギーの源を擬人化されることも多い。

・酩酊のエネルギーは覚醒の時期尚早の場合は認識の鋭利さを隠し、現象側の至福に留まらせておくこともある。

・酩酊は必ずしも覚醒を知るために必要なわけではない。

・酩酊だけでは覚醒そのものを知ることはできない。

・認識の鋭利さを伴わない酩酊に気絶していると覚醒そのものに目覚めることができない。

・このエネルギーのなかで認識の鋭利さを保てるとき、意識の表面だけで酩酊することなく、覚醒の場にいながらうねりをただ観ていることができる。

・もし覚醒を保つことによって酩酊が消えてしまうというのならば、その酩酊は表面的なエネルギーだったのである。

・気絶しないで覚醒を保ちながらエネルギーのうねりの中心に台風の目のようにあること。

・酩酊の回路ができると覚醒への信頼が増すが、酩酊の恩寵に麻薬のように淫すると先にすすまなくなる。

・酩酊のエネルギーを再現しようとしたり意図的に得ようとしてはならない。

・酩酊は覚醒へつながるか、淫することにとどまるか、どちらに転ぶか危ういところにある。

・酩酊に淫するときには必ず、その甘美な感覚を持続させたいというエゴがある。

・酩酊に淫するときは別の存在が介在してきている。

・期待せずに起こることにまかせるとき、酩酊は純粋で覚醒に近いものとなる。

・覚醒を知ってはじめて、気絶して巻き込まれずに現象側でうねりを愛でることができる。

・酩酊とうねりは、現象側から見れば神秘ととらえられるが、覚醒を知ったとき真にリアルなものとして再認識される。

・その状態を知らずに、現象側に結果として顕れたエネルギーに酔ったとしても、それは気絶して自己が守られた安全なところで漂っているだけである。

・しかしながら、安全なところで眠って漂っていることは覚醒の慈悲ゆえである。

・うねりに漂うだけでは祝福されはしても、現象側の担当者として引きとどめられて何度も生まれ変わる。

・覚醒の衝撃に耐えられないうちは、覚醒の気配に気づいていても、うねりが認識を麻痺(酩酊)させて3Dの現象へ引き戻す。

・覚醒の希求とうねりのせめぎ合いの中で、鋭利な認識を極限まで保つ意志が本意であるとき、うねりのエネルギーのベクトルが転じて覚醒へ向うエネルギーになる。

・このときの本意の度合がうねりの母体に試されているといえる。

・覚醒への帰還の本意は恩寵によって生じる。



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