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「神の通訳者」 ショーン・ボルツと神の愛の証明       

2018/08/07
先日、パートナーのリアル氏「神の通訳者」(ショーン・ボルツ著)という本を読んでいて「やっぱり信じることの基本が大事だよなあ」としきりに繰り返していました。


ボルツさんはロサンゼルスにある教会Expression 58の主任牧師で、子供のころから神の声を聞き、神の愛を預言として人々に伝えるミニストリー活動で有名な方。

著者のことは知らなかったのですが、最近なぜかキリスト教関係の情報がいろいろ入ってくるので気になっていくつか預言の動画を見てみました。

⇒ 動画 「預言・イエスと共にいる今は亡き少年」


この動画にもありますが、基本は神の声として降りてきた名前や数字や地名などをミニストリーの会で参加者に伝え、該当する人がいればその人に神の言葉を伝えるというスタイル。

多くの場合、降りてきた数字が住所の番地だったり誕生日や銀行口座番号だったりして、その正確さに驚くのですが、あくまでもこれらの的中は「神があなたをいつも見ておられますよ」という証明の一端にすぎず、重要なのは「いかに神があなたを愛しているか」「神の御心としてあなたが何をすることを望んでいるか」というメッセージのほう。


とはいえ、やはり通常では知りえない個人情報をこの精度でいきなり当てられたら「本当に神が見て下さってる」と信じる気持ちが強まるのも確かだと思います。

実際、預言を授かった人たちが愛の証明に打ち震える様子は感動的です。


これらの動画を見て思ったことがふたつあります。

ひとつは、最近の非二元やマインドフルネスブームのなか二元的な対象物を持つ祈りや愛といったものが軽視されがちですが、キリスト教信者の神への愛の純真さや情熱と比べて、はたしてわたしたちは対象化できない「それ」へ毎日そこまで意識を向け続けているだろうか?という疑問。

もうひとつは、はたして「信じる」ために特別な「証明」が必要なのか?という疑問。


これらの問いに関してわたしは、拙著「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」のあとがきにこのように書いています。


*********** 引 用 *******************

ここで、わたしのいちばん願っていることと、いちばんの秘伝をお伝えしたいと思う。

本文では、覚醒の根拠を明らかにするために、なるべく具体的に記したいとの思いから認識や体験の細部まで記したため、「結局、訓練と才能が必要なのか」とがっかりしたり、匙を投げたくなった人もいるかもしれない。

しかし、華々しい神秘体験を期待するのではなく、一見なんの変哲もない日常のすべてのことにすでに神秘が顕れていることを知り、熱心に注意深く観察することによって、覚醒が向こうから触れてきている瞬間をつかんでほしいのだ。

ほんとうは覚醒はつねに触れているのだが、その瞬間、思考や感情やストーリーによって認識が占有されているため、それに気づいていないだけなのだ。

もし、この本を読んで覚醒というものにほんの少しでも心が動かされたら、覚醒の手触りが日常に紛れ込んでいないかどうか、根気強く意識を見張っていてみてほしい。

そのときに、なにか特別なことを見つけようと意図するベクトルを働かせないで、ただ、起こってくることを観察してほしい。

どのような瞬間もあなたにとって好ましいか好ましくないかは関係なく、すべて、覚醒の采配そのものが顕現したものであるのだ。

あなたに起こってくることすべてが、覚醒と直接つながっていることなのだ。

あなたの存在が、その証拠なのだ。

それは、あなたが気づいていないだけであなたが生まれてからずっと顕れていた。

というよりも、その顕れとしてあなたが生まれた。

もしかしたら、あなたの人生はずっと悲惨なものだったかもしれない。

ただ、悲惨さの中にも、ほんの一瞬だけでもふっと心が軽く透明になったことは過去に一度でもなかっただろうか?

それは、人間関係の悲痛に泣き暮れているときにほんの一瞬、風の心地よさが通りぬけたときや、日々の仕事でくたくたに疲れて帰ってお風呂に入った瞬間に身体の力が抜けたときや、耐えがたい頭痛に悩んでいるときにほんの一瞬、赤ちゃんの笑い声が耳に入ったときや、家庭内の問題で頭がいっぱいのときにお茶を飲んだほんの一瞬、香りが鼻をぬけたときかもしれない。

…そういった瞬間は、すぐに次の瞬間、悩みや思考にかき消されて忘れられてしまうだろうが、ほんとうに注意深く意識の流れを見守り続けたときに、無数の忘れ去られた瞬間があったことに気づく。

それらが意識にのぼってきたとき、その瞬間をのがさずに、少しだけそこに意識のフォーカスをあわせてとどまって観察してみる。

それらがどこから来てどこへ去っていったかを注意深く観察する。

それを繰り返すうちに徐々にこういった瞬間が増え、とどまる時間が長くなってくる。

すると、徐々にそこに覚醒側からの采配の手触りを読み取るようになってくる。

そこではじめて神秘体験を受け取るためのスペースができる。

正確にいえば、スペースはすでにあったのだが、その瞬間を占有していた思考や感情やストーリーとの同化が解除されることによって、もともとあった覚醒が顔を顕すのだ。

注意すべきなのは、決して自分にとって好ましくない体験を排除しようとしないでただ観察すること。

スペースを自分で空けようとしないこと。

排除するベクトルが働くとその意図が新たにスペースを占有する。

そうではなく、ただ、采配にまかせて起こってくること、見せられていることをただその順番どおりに受け取って観察することで、覚醒が認識されうる瞬間、チャンスが確実に増える。

考えてみれば、悲惨な体験が時間的に連続しているかのように見えているなかで、ふと、まったく別の出来事が目の前に起こってくること自体、不思議ではないだろうか?

悩み事で絶望していても、道を歩いていると人が歩いているのを見たり、むこうから挨拶してきたり、店や木や車や信号や散歩している犬が意図せず目にとびこんでくる。

電車に乗れば、いつのまに知らない人が隣に座って肩が触れていたり、窓の外に景色が流れていくのがぼんやりと目に映っている。

悩み事で頭がいっぱいのうちに電車は駅に到着し、足が勝手に動いていつのまに職場のデスクに向かっている。

そのあいだにもあなたの認識にはのぼってこない無数の出来事や景色や音や香りが映っては消えていっている。

それらはみんな、あなたのなかに起きたことなのだ。

たとえあなたがずっと悩むことに専念したいと思っても、あなたの意図とは関係なく様々なことがあなたのなかに勝手に入ってきて触れていく。

それらの勝手に入ってきたものはどこから来てどこへ消えていくのか?

あなたを占有している思考から、ふと離れたとき、今まで忘れていたそれらが生き生きと存在感を増してうったえてくる。

そういった瞬間に気づいていくことで、あるとき突然(のように思える)、采配の神秘の電撃に撃たれる。

このことを、ほんとうに小さな瞬間から自分で実証していってほしい。

すべてのことを自分への顕れとして見、目の前にあることを自分のなかをのぞいているかのようにつぶさに観察しつくしてほしい。

すると、小さな発見の積み重ねによって自らの内から信頼と感謝が生まれ、神秘が必ず顔を顕すことになる。

気の遠くなるような地道な作業だと思うかもしれないが、熱心に観察すればそれはすぐにでも突然パっと開ける。

この提案をいま目にしているこの瞬間、信じるか疑うかにかかわらず、すでに覚醒側からの働きかけははじまっている。

もし観察のしかたに迷ったら、わたしなりの地点からお伝えする用意はある。

あなたを撃ち抜くような神秘体験とは、それを受け取るためのスペースと、自ら沸き起こった純粋な信頼と感謝があるところにしか顕れることができない。

覚醒側はその瞬間をずっと待っていたのだ。

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ここであらためて言いたいのは、愛は現象のなかに常にあらわれていて、一瞬たりともわたしと離れたことはないし、離れることもできない、ということです。

そしてそれは特別な証明など必要なく、あらわれていることすべてが証明なのだということ。

そこにおいて「信じる」ことは自明に沸き起こるということ。

自分の名前や姿形がこのようであること以前に、空気のようにすでにあるということ。

それとわたしがぴったり重なって一体化してあるとき、まるでソファに深々と座ってくつろぐかのように「信じてあること」の安堵だけがあるのです。

そのとき、どこまでも深く無限に「あること」の自明さをひたすら受け取り続けることになります。

この、無心の瞬間をせめて一日一回でも思い出してあげること。

それはもう信じる信じないを超えて存在そのものの受容です。

それさえあれば、他人に何かを期待したり愛を強要したりすることもなくなるでしょう。

それだけは、生まれる前からずっと一緒にあるものでどこにも行かないものなのですから。



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