【用語解説】 「見切る」「気絶」「ホワイトアウト」「ブラックアウト」
Rubin’s work で頻出する用語についての質問をいただきましたので、回答をシェアします。
「見切る」「気絶」など独特な表現に聞こえると思いますが、体験に基づくリアリティにおいては、
個人的にそうとしか言いようがないのです。
【見切る】
通常の認識レベルで見逃している瞬間を、高いレベルの集中力と意識の動体視力のようなもので
極限まで気づき続けるということです。
通常の認識レベルの場合、見逃した瞬間と瞬間の空白を脳内補正・編集しているのですが、空白
の瞬間にこの世界が発生してしまうのです。
空白の瞬間を100%見ることは人間の認識では不可能ですが、極限まで見る(気づく)ことにより、
無意識に見逃していた思考に気づき、気づいた瞬間に無執着心で手放していくのです(気づき続け
つつ瞬間瞬間の引力をスパスパと自動的に「切る」ためには無執着心が最大のポイントです)
その意味では「見切る」には「最後の瞬間までやりきる」ということも含まれます。
なぜなら、通常の認識レベル・執着レベルでは最後に辿り着くまえに空白になってしまうためです。
ここで言う「最後」とは、人間が気づき得る認識レベルの極限という意味です。
~Rubin’s work ツイッターより~
◆瞑想では「いかなる状態にも居座らない」ということが非常に重要です。
瞑想は瞬間瞬間に生まれては消えていくものであり、世界を展開させる引力を瞬間瞬間
に見切っていくものだからです。
それは何処にも摑まる物のない所で、どちらに転ぶかわからないバランスのあいだに
気づいていることです。
◆ひとつの瞬間にひとつの気づき、というのは3次元の限定された認識にすぎない。
この現象界において生滅智は明確な体験によって見切られるべきだが、それと同時に
「生まれては滅する」という直列的時間の幻想も見切る必要がある。
◆生滅智とは、存在していたものが滅していくのではなく、もともと実態のない幻の像が、
時系列で切り取られ消えていくのを直列的認識の極限で見切ること。
これにより諦念は確立するが、ここがゴールではない。
直列的認識の幻想自体が完全に見切れて初めて「普遍のそれ」が立ち顕れる。
瞑想の極限では、生滅の現象側の体験に圧倒されないことが肝要。
【気絶】
通常の認識レベルでは、先の「空白の瞬間」の一瞬前に気づきが落ちてしまうということです。
気づきが落ちる原因は、集中力の欠如、思考の偏り、カルマの磁力などです。
この世界は、必ずこの気づきが落ちた空白の瞬間に、自動的に采配されます。
「無自覚に拒否する」ことも気づきが落ちる原因のひとつです。
より心理的な意味で「自分が見たくないもの」を見まいという無意識の気づきのシャットダウンが起こるのです。
「意識がなくなる」ことも含まれますが、正確にいうと意識そのものはなくなりません。
なくなるのは意識を自覚する「気づき」です。
~Rubin’s work ツイッターより~
◆サードアイは、現象側の送受信機にすぎない。
「剥がれた」目は、肉体を超えたずっと奥にある。
水平に横たわるワームホールに吸い込まれきる直前に「浮いて」いる、というのが感覚的には近い。
現象発生のGに気絶せずにどこまでも遡っていけば、忽然とそれは顕われる。
◆この空白の瞬間に気づかないうちに、うっすらとした禅定という名のイメージに気絶してその間の
プロセスがブラックボックスとなっているのです。
「むこう側」へ潜り抜けるための禅定=集中力は、どこまでも途切れずに微細な領域を見続ける動的
かつ受動的な集中力です。
【ホワイトアウト】
文字通り、気絶する瞬間に真っ白になることです。
真っ白な状態は一瞬で消えることもあれば、意識的にそこにとどまることもできます。
「溶ける」というよりも「吸い込まれる」といったほうが感覚的には近いです。
脳がクラッとした瞬間のエクスタシーの次の瞬間のような感覚です。
気づきが鋭敏であれば、エクスタシーに気絶せず、吸い込まれ続ける瞬間をどこまでも追って
いくことができるでしょう。
ホワイトアウトは頭頂で起こり、丹田では起こりません。
~Rubin’s work ツイッターより~
◆盆の窪の周辺に空間をあける感覚と、意識の微細なベクトルの仕組みのコンビネーションの
感覚がつかめるようになると、強いエネルギーに意識をもっていかれてホワイトアウトすることなく、
エネルギーの発火の瞬間自体をピンポイントの目的に使えるようになります。
◆ホワイトアウトして気絶しないためには、これに加えて気づきのセンターが確立している必要があります。
気づきのセンターが自動的に働いているレベルまで確立していないと、高いエネルギー感覚を保ったまま
同時に中心で覚醒していることができません。
【ブラックアウト】
ブラックとは文字通り、自我が落ちた直後に現れる存在の暗闇(始原)です。
目の意識が落ち、自我と結びついた意志(上方向へのベクトル)がすとんと落ちた時に立ち顕われるものです。
目の意識が癒着したまま気づきを鋭敏にするだけではブラックアウトは起こりません。
なぜなら、癒着した気づきは光を伴うからです。
よく「気づき」=「光」といわれますが、これは目と癒着した気づきで見ているからです。
ある意味、この自分自身の気づきの光(フラッシュ)が世界を「見えるもの」にしているとも言えますが、
ブラックアウトした存在の始原は「見える」世界以前の状態です。
この状態を目が癒着した意識は相対的に「暗い」と感じますが、本当はそこは暗くも明るくもありません。
熟睡した状態ではこの始原に落ちてはいるのですが、そこに自覚はありません。
~Rubin’s work ツイッターより~
◆この起点の「始まりの始まりの始まりの始まり…」を無限にたどっていくと、人間としての認識の
限界のレベルに達した地点で、真空に吸い込まれるように意識はブラックアウトします。
このブラックアウトした地点から先を対象化することは不可能です。
◆女性はエクスタシーの落下感覚を潜在的に知っているが、落下しきってしまうとブラックアウトしてしまう。
それはそれで存在の安らぎだが、落下時に相反する背骨側のエネルギーを拮抗させれば、ひとつの
マトリックスが自己完結する。
ただし、それを見切るには内部の目が確立している必要がある。
◆瞑想に睡眠の仕組みを疑似的に利用することはあるが、人間の睡眠では完全にはブラックアウトできない。
肉体の目が邪魔して、存在に落ち切れないのだ。
死ですら、目に邪魔されて死に切れない!
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