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【質疑応答】 「気づきのポイント」 「身体と意識の境界線」     

2019/09/26
先日、ワークに参加された方から質問をいただきましたのでシェアします。

(一部、編集・加筆しています)



【五感の気づきの瞑想について】

瞑想時、日常時にワークでやったように音、刺激、思考などへの自分の反応
を見ているのですが音を聞くときは体の中が音の振動が体内に伝わってきたのに
反応しているのを見ている感じ、その他の刺激でも同様にその刺激、思考などに体の内部の
何かが反応しようとしているのを見る感じになってます。
瞑想としてはこれで良いのでしょうか。
ワーク時にも聞きましたが結構せわしない感じで忙しい感じです。




見るのは「反応」ではないです。

「反応」は何かの事象の結果ですが、見るべきは「原因」と「結果」の区別のない
瞬間です。

「反応」が出てきてから見ようと意図すると、音や刺激や思考や感覚に触れた瞬間を
見逃し、それらによって引き起こされる自分の反応を一瞬待って見ようとして時間差が
生まれてしまいます。

また、このように見ていると「自分(の反応)」という感覚もなくなりません。

そうではなく、感覚に触れた(意識にのぼった)まさにその一点を
「意図のベクトルを動かさずに」見るのです。

もちろん、最初の瞬間を見切れずに次の反応が起こった後に気づくこともありますが、
反応自体を意図的に待ち構えていたのでなければ、それはそれでかまいません。
(とはいえ、集中力が弱い段階では反応が起こった後に気づくことが大半ですが)


とにかく、常に気づいた瞬間自体に気づくことがポイントです。

ここが難しいところなのですが、気づく瞬間を待ち構えてもいけないのです。

また、気づきという概念を探そうとするのも違います。

あまり考えすぎると瞬間とはなにか、気づきとは何か、と混乱してきますが、
シンプルに今この瞬間に顕れた事象をひとつひとつ見ていきます。


次に、本来は「正しい音の聞きかた」というものはないのです。

今回は訓練の段階として聞くことだけに特化して瞑想しましたが、そもそも瞑想における音は
「耳という特定の場所」でとらえようとしたり意図的に「聞きにいく」ものではなくむこうから
勝手に「触れ」、勝手に「響く」ものです。

音の「聞きかた」「触れかた」「響き方」「感触」等は瞬間瞬間の状況と集中の度合いによって、
どの瞬間と振動に気づくかが異なってきます。

気づくレベルは毎瞬毎瞬異なっています。


例えば、集中が浅ければ身体感覚と自己の定点感覚に付随して音の発生源の位置や距離、
音の続く時間、リズムやメロディやフレーズ、何が発した音かへの興味、その音に対する好嫌、
といった音が聞こえた瞬間に誘発される様々な思考が同時に付随して起こってきますし、
集中が少し高まって身体の境界線が薄れてくれば、音の振動が皮膚に触れる感じや刺激の
強弱、ある周波数が身体内部の特定の部位に響く感覚などに気づくようになってきます。

さらに集中が高まって完全に身体と自己が消えていれば、音と自身の区別がなくなりあらゆる
音の振動が瞬間瞬間、場所のないところでパラパラと非連続的に顕れては消えていくのを
自分自身として見ている(響いている)ようになったりします。


ここでポイントは、音を聞く、あるいは感覚を見るときには「こういう意識と心構えで聞こう」という
態度をいっさい決めずに、ただその場その場で受動的に受け取った瞬間の事実だけを判断なし
に見るということです。

身体感覚が優位の人の場合は音の振動が身体の様々な部位に触れ反応する瞬間に気づくことが
多いですが、「音の聞き方として身体感覚だけをみていればよい」ということではないのです。

だからといって「自分の得意な身体感覚以外での音の聞き方を意図的に探そう」とするのでも
ありません。


このあたりは非常に微妙な感覚かつ勘違いしやすいポイントで間違ったまま続けても先に進まない
ため、瞑想⇒レポート⇒修正を繰り返し、個人のパターンに気づくことが必要になってきます。

○○さんの現在の気づきのセンスは繊細でよい感じなので今後はさらに集中力を深めて受動的に
見ることが自動化するレベルへもっていけたらよいと思います。

せわしないと感じるのは気づきの自動化が確立していないのと、見たり聞いたりする対象と瞬間の
状況を「自分」とくっついた気づきの意図が一回一回探しにいってあちこち動いてしまうからです。

集中力が高まれば自己が切り離され気づきの主体が移動せずに軽く高速であらゆる事象に「触れて」
いるような感覚になってきます。



【黒点に集中するワークと丹田の集中について】

意識が下に降りてゆく時に丹田であればまだ丹田を黒丸としてそれ
以外にずれるものを観察しやすくなるのですが(それでも観察するたびに上に引き戻されますが)、
丹田より下に降りたとき体から出て地面に潜っていく時によって立つべき黒点というかズレを
見るための基準は地下に置くで良いのでしょうか?



丹田の奥へより深く入っていく、というのは丹田を突き抜けて身体の外へでて地面へ潜っていくと
いうことではありません。

身体感覚をもったまま意識できる丹田の一番深いところを見つけたら、その後は呼吸とともにもう
一歩奥の身体と意識の境界線に「出会い」ます。

この境界線の場は身体の輪郭や物理的な対象物を離れているところであって、物理空間の「奥」
(地底)ではないのです。


境界線に出会ったら(睡眠に落ちる瞬間に意識がひっぱられつつ「潜る」感覚に近い)身体と物理的な
輪郭のイメージを手放します。

この、輪郭のない場には黒点のような物理的な対象物があるわけではないのですが、それでも意識が
収束されているポイントがはっきりとあります。


集中力が弱い場合はポイントからズレて認識が境界線上(肉体と意識の境界)をいったりきたりして、
丹田という場の内部あるいは周囲で様々な事象が様々なレベルで起こっていることに気づきます。
(黒点を見ていて意識が逸れる瞬間に起こる思考や感覚の顕れのように)

最初の段階では境界線自体に出会ってそこに意識を収束させ続けること自体が難しいため、
まずは丹田という大まかな場所(骨盤内部5センチ四方ぐらいのイメージ)の内部を肉体的な感覚で
意識し、そこで起こっている感覚を見ていくだけでもかまいません。

集中を一点に収束させる感覚がわかってきたら徐々に境界線の奥へ潜ってとどまっていられるように
なるので、その位相からズレを見切っていくことになります。


ちなみに、肉体として地下にひっぱられているように意識を向けておくのは丹田ではなく「尾てい骨」
です。

ただし尾てい骨のポイントを意識するのは瞑想前の準備として行い、丹田に意識をむけたら肉体の
ことは忘れます。



身体と意識の境界線というのはピンとこないのですがとりあえず初期の段階としては音、
感覚、思考などを見ている「自分」というものが丹田付近にあるという認識で良いのでしょうか?



丹田に意識を集中したときの感覚には「自分」という言葉やその他いかなる
言葉や概念も付随させないようにします。

丹田に集中すると様々な感覚が起こってくると思いますが、その感覚に「見ている主体」
という「実体感」を持たせないでください。

とはいえ、なにか実体感のある定点がなければどのように見ればよいのかわからないのは
人間として当然のことです。

ワークはいわば、定点を取り払って事象だけを見ようという、人間としては矛盾することを
やろうとしているのです。


丹田に意識を置くというのは、自我が対象を認識するときにあちこち動くことをいったん静め、
一時的な定点として仮に意識を一点に集中させておく目的があります。

境界線というのは、例えば丹田に集中したとき、身体にくっついた意識では腸の動く感覚や
ちくちくする感覚や痛みや圧迫感や暖かさなど、肉体に由来する感覚が次々に起こってきますが、
肉体を超えた意識においては、肉体という器の境界の限界のない真空のようなところで
起こってくる感覚を瞬間瞬間、連続性をもたない点として見ています。

境界線を完全に超えると、睡眠に入った後に「落ちる」感覚と同じで「自覚」が保てませんが、
これを避けるために、落ちるか落ちないかという境い目で見ているようにします。


ゴムを使ったワークを思い出してみてください。

ゴムを丹田の前で縦にひっぱってその「張力」と丹田の感覚を同化してみたときに
ふっと軽く入り込めるポイントのような場所が見つからなかったでしょうか?

そのポイントに顕在意識を「落とし込む」ような感覚です。
(とはいえ、意図的に落とし込もうとはせず、丹田に集中する意識を「置いておく」こと
によって勝手に落ちる瞬間をただ「待つことなく」待ちます)


また、丹田ではありませんが、水を飲むワークで水の感覚が消える境目を見たときに
消える瞬間の前は肉体で感知しているのに対し、消えた瞬間のすぐ後からしばらくは
微細な余韻とそこに意識が細く吸い込まれるように入り込んでいくのが感じられたと思います。

この余韻との境目が肉体感覚と意識そのものの境界線となります。


ただし、丹田に集中のポイントを設定したときの境界線は、水が消える位置でおこる余韻とは
違った感覚を伴います。

これは、自我感覚が丹田と密接に結びついているという構造からくる感覚の違いです。

このとき、ある種の丹田特有の実体感が伴うのですが、この実体感を「自己」と結びつけないように
します。


この感覚をすぐにわかろうと焦らないでください。

意図的にやろうとすると意図と自我がくっついて頭部の方向へ意識が上がってしまいます。
何度も繰り返すうちに「すとん」と入る場所があることに気づく瞬間がきます。

本当は、丹田付近になにかの実体があるわけではないのです。
丹田に集中するのは身体構造の便宜上のテクニックです。

丹田に集中することを利用して、身体の枠をまず忘れ、真空の場で起こってくる様々な事象を
ニュートラルに眺めているようになることが最初のステップになります。


言葉だけで説明する限界があるのですが、ここは本当に難しい微妙なところなので
逆にすぐに実感できるほうが稀です。

また、目的がズレるとなぜこのワークをやっているのかがわからなくなります。
このワークの目的は自我を落として身体の枠を超えたところで見るということです。

このあたりはポイントがつかめるまで何度も繰り返しワークでも行っていきます。



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ワークのご感想と質疑応答

2019/05/06
先日のワークのご感想をいただきましたので、質疑応答をシェアいたします。
(一部修正・加筆しています)



今回のワークでの一番の驚き分野は、丹田、ハート、意図、重心、それらの無意識な(瞬間的な?)意図による統合?でした。


正確にいうと丹田(≒重心、存在、自我)、ハート(接触・共鳴・振動の相対性の場・感情)、認識(空間座標・形・概念・思考)
の相互関係のバリエーションが、気づきという座標のない空白の瞬間に顕れ出ているのです。

それらを統合しているのは「顕在化された」意図ではありません。

ワーク中にもいいましたが、私たちは意図的に顕れ出ることは一切できません。

能動的な意図は見かけ上のものです。

人間にとっては意図は発動された後に後付けで気づかれています。

人間は顕在化された意図の部分のみを見て自我の「目的」と混同しています。

私たちはこの「混同」によって行為に先立つ丹田・ハート・重心の移動のプロセスを無意識化しています。

「統合」されているように感じているのは実はその逆で、すべてを一緒くたにして顕在意識から切り捨てているのです。


それでは、顕在化された意図に先立つものとは何でしょうか?

それは私たちの顕在意識がコントロールできない、微細かつ圧倒的なエネルギーを包含する磁力・引力のようなものです。

その力の引き合いが発動することによってすべての事象が磁石に砂が吸い付くように瞬時に組み合わされ、
特定の動きのベクトルを決定します。

このベクトルの発生によってさらにその力の方向性に見合う丹田・ハート・重心の移動が自動的に起こります。


統合しているのはこの「力」です。

この、自動的に起こる様々な動きにはパターンがあり、このパターンの見かけ上の断続が瞬間瞬間に個別の同一の個人という
認識を生み出しています。

この磁力のようなものを見切るための準備段階として、まずは顕在化された身体のレベルで行為に先立つプロセスを意識化
したいのです。

今回のワークで感じ取っていただいたのは、身体のレベルの3次元的な力学の感覚に基づいていますが、ここを無視して先に
進もうとすると必ずその先で壁にぶつかってしまいます。

(ベクトルを見切る感覚が甘いため微細なベクトルに付随する引力のパターンに気づけず現象に引き戻されてしまい、一定レベル以上先に進めないのです。ここは集中力だけでは乗り越えられない壁です。先へ進むためにはいわゆるサマタ瞑想とよばれる集中力にプラスして刃物のような気づきの鋭敏さが必要になります。)

難しい話になりましたが、今回のワークで今まで無意識だった部分が意識化されたことは大きな一歩です。



例えば、ワークの部屋に存在(していると見えている?)空間にあるモノと無意識に自分が重心を図っているため、当たり前に移動したり重さを事前に考えたりしていることに同化(気絶)しているため、丹田やハートなど分解して考えてみることで実際にワークでやったように、重さを丹田で実感したり、が相当な驚きでした。


私たちはこの世界の構造との同化から抜け出そうとする前に、何が私たちの存在感覚を成立させているのかという構造を
はっきりと見抜かなければならないのです。

そのためにまずは、ここに顕れでている身体と意識の構造を知り、この現象世界が私たちの感覚を通してどのように顕れ出て
きているのか、3次元に私たちが存在しているという感覚のベースはどこにあるのかを知らなければなりません。

それはいってみれば、何が私たちを人間たらしめているのかを知ることでもあります。

人間が人間として自己を認識するときの無意識のプロセスをいったん意識化してバラバラにし、逆に辿って行くことによって
本来の実存に気づくのです。
(これは人間ならざるものになるということではありません)

今この話を問題にしているのは、この次元の私たちという意識であり、一時的に別の次元の意識にフォーカスしたとしても、
すぐにこの次元の意識に引き戻されます。
(別の次元の私は「すでにそこにいる」のです。)

ただ、「知りたい」と思うのがこの次元の私であるかぎり、この次元の構造を見抜き完全に納得するしかないのです。



また、座っての瞑想の姿勢矯正?は助かりました。個人的に腰や腰回りの関節・筋肉が硬いため、少しずつ慣らしていきたいとおもいますが、前回頂いた、ちょっとしたアドバイス(足の付け根部分の空間やそこに乗っかる感覚)を実行しただけでもその瞬間に瞑想的な意識に入れました。


姿勢の矯正に重点を置きすぎると、ヨガ行者のように柔軟で完璧な身体でなければならないのかと勘違いしやすいのですが、
ある姿勢の形態に対応する意識がどのような感覚のものかというエッセンスをつかんでその意識を単体で呼び起こすことが
出来そこに一瞬にして入ることができれば、実は姿勢はどんな形でもかまわないのです。

たとえば、ある一定の姿勢の正しさだけを絶対的なものと考えてしまうと身体の不自由な方は絶対にエッセンスがつかめない
のかという話になってしまいますが、そうではなく、身体が不自由であったとしてもその人が認識できる対象物
(極端にいえば対象物は身体ではなく「思考」でもよいのです)を拠り所にその人固有の力学に基づいて直観的にエッセンス
を見抜くことは十分可能です。
(この場合は身体の柔軟さではなく意識の柔軟さと繊細な感性が必要となります)


ただ通常、身体と意識の関係を無意識に混同したレベルだと意識単体のエッセンスをつかむのは難しいため、姿勢が崩れて
いれば身体のメカニズムに意識がひっぱられそのレベルに固定化されてしまいます。

そのためまずは形を整え、形に伴う意識とはどのようなものかを知ることから入ったほうが早いのです。

瞑想という目的に関しては、形が意識と直結するポイントがいくつかあるため、それを知れば集中を高めるために費やす時間は
大幅に短縮できます。

〇〇様の場合は微妙な修正で効果があらわれやすいので姿勢を整えることはメリットとなると思いますが、逆に矯正によって
今まで自由に生き生きと感じていた感覚が形にとじこめられるような感覚が出てくるかもしれません。

この辺りは個人の資質を見つつバランスをとっていくしかないのですが、感覚的にとらえやすいハートやオーラ視などと違い、
気づきの鋭さの開発はいったん個の自由を離れ厳密に進めていくしかないのです。

この道を進もうとするときには、ある段階で必ずエゴの抵抗や反発が起こってきます。

それでも進むかどうかは、最終的にはその人の資質と志向性によるとしかいえません。



上に書いた、ばっくりとした無意識な身体との同一により、本来は気づくべき点に対して気絶してしまっていることに対して少しづつ発見をしていける希望が見えました。書籍にありました、3つのポイント(丹田、ハート、後頭部?)のそれぞれの役割?もワークを通じて感覚的にクリアになってきた感じがします。


注意すべき点として、丹田やハートの役割を知り世界とどう関わっているのかを知ることは興味深くはありますが、チャクラ
その他もふくめ、それぞれの機能の面白さを追求することは本末転倒となるということです。

ワークは現象世界でうまくやっていくためにそれらの感覚をうまく扱ったり神秘体験を楽しもうということではなく、あくまでも
無意識のプロセスを意識化し、世界に気絶してあることから目覚めることが目的なので、それぞれの役割の概要を理解しつつ
これまでいかに様々な感覚のレベルを混同し「私という存在」を大雑把にとらえていたかに気づくことが大切です。

このときに、例えば「丹田とはこのような役割のものである」といった概念を外から聴いて鵜呑みにするのではなく、気づきの
プロセスのなかで各自が自分自身で生々しい驚きを持って発見し、それが本質的にどのような意味を持っているのかを理解
していかなくてはなりません。

ただ、発見のヒントがまったくなければ、突発的な一瞥をのぞいて、この肉体との同化が存続しているうちに気づく可能性が
低くなります。

ワークはそのためのヒントをお伝えする目的で行っています。

今回、丹田のワークの後で〇〇様が「存在」の手触りを感じた瞬間が起こったことは嬉しい驚きでした。



個人的には、ワーク中にどんどん大きくなっていった、全てのモノにある白い輪郭ですが、それを見ている時は後頭部?や頭の中がボワんとしており、常に3Dの方の視点というか肉体の目で見ることへ引っ張られます。でもまたすぐに輪郭を見る感覚に戻る、これが1日のなかで頻繁に繰り返しているのですが、その頻度がワークをしてからどんどん多くなってきている感じがします。日常生活を送る上でたまにぼーっとしているが、感覚が研ぎ澄まされている感じがあります。また、このボワんとした、でも鋭い感覚の状態を継続していると丹田の方にも圧?というかエネルギー的な感覚が出てきました。頭と丹田ですが、ハートの部分はほとんど感じません。たまに温かくなる感覚があるくらいです。よって、頭と丹田がボワんとしている感覚が強くなってきています。


瞑想的な意識に入ると様々なことが起こってきます。

本来の目的からすれば、いかなる現象が起きてもそれを見送っていくことが気づきの鋭利さの開発になるのですが、
ワーク中にもお話しましたように、自我感覚が弱まりフォーカスがシフトすると物質の輪郭を超えたものが見えることはよくある
ことです。

以前にもお話しましたが、視覚として見えているものはフォーカスがシフトしていたとしてもあくまでも3次元の延長であり自己
という定点があったうえでの対象物です。

ボワんとするのは眠りにおちるときに微睡む心地よさにひっぱられるときの意識に近いのですが、気づきの鋭利さが開発されて
いないと目覚めている本体の核が曖昧でゆらいでいるので霞の中で意識がいったりきたりしている状態です。

(感覚の鋭敏さは集中力の高まりとともに起こりますが、この段階では身体感覚の一部であり、気づきの本体の核とは位相が異なります。)


丹田のエネルギー的な高まりが起こったら、上方向へ上げずに足の裏と地面を意識し、必ず重心に収めるようにしてください。

この状態を心地よく感じとどまりたい欲求と好奇心があるかもしれませんが、次の段階へ進むためにはグラウンディングは
必須です。

グラウンディングせずに勝手に上へ昇っていこうとするエネルギーはふわふわと方向が定まらず下方からの反発力から生み
出される力強さがなく、必要な段階で正しく使えないのです。


物質の輪郭を超えたものが見えて3次元的な自我感覚が弱まっているときは(自我と相反する)慈悲喜捨や利他の感覚が
起こり自動的にハートが開いていることも多いので、この状態でひとまず「祈り」を発動させ気づきを忘れ意識的に没入しても
よいのですが、「祈り」は非常に精妙なもので今の段階でエッセンスをお伝えすることが難しいため、
とりいそぎこのような状態になったときには目をつぶってご自分の知っているハートの感覚(自分で思う位置よりも背骨寄りを
意識したほうがよいです)にフォーカスし、祈りの対象を設定せずしばらく頭を真っ白にしてハートの感覚の中心にとどまり、
あらゆる現象が今自分に起こって運ばれていっていることに対して感謝が起こるかどうか見てください。
(感謝は無理やり起こさなくてかまいません。ちなみに感謝が発動すると頭部が下がり身体は自然と丸まった形になります。
これを形骸化したものがお辞儀の形です。)

今は身体や意識の様々なレベルが交錯していてハートと結びついていないかもしれませんが、輪郭を超えたものに繰り返し
フォーカスしてしまう事実があるのは確かなので、その状態を意識的にとらえ、ハートを活性化することでその先への推進力に
することは一人で実践していても比較的安全でお勧めできます。
(その際にエネルギーをイメージ化したり人格化等なにかの概念にとらわれないようにします)

祈りは本来、勝手に起こるものですが、ある段階までは認識の開発とは別に意図的に行ったほうがよいのです。

これについては折をみてワークにも取り入れていきます。


ワークによって今まで感じとっていたハートの感覚が一時的になくなる感じがすることがありますが、これは今まで自我感覚と
ハートの感覚を混同していたためです。

自我感覚と結びついたハートは「自分のハート」「自分の魂」「自分の至福」「自分の愛」というように「自分」を定点にし、
「自分」が特別な存在であるという感覚にうっとりすることによって肉体に近い層で感知されます。
(現在、スピリチュアルと呼ばれるもののほとんどがこの層へのアプローチだと思います。「癒し」という意味ではそれはそれで
間違ってはいないのですが、盲目的に信じれば自我を強化します。)

この感覚から自我を切り離し、ハートそのものの微細な振動や触覚のようなものを単体で感知できるようになりたいのですが、
その過程で最初は「自分」が生き生きとしていない感覚がしたりハートが閉じた感覚がしたりすることがあります。

なぜなら、人間にとって自我と結びついた「自分」を無視されることは最も嫌なことだからです。

それでも自我の「裏」にあるハートそのものの振動を少しずつ感じとっていくことによって世界とハートがどのような関係にあるの
かということがわかってきます。

(ハート単体では個別の形や色や自他を認識できません。ハートはすべての現象に裏表なく触れていて、人間の身体においては
相対的なヴァイブレーションの無限の連なりとして感知されます)

このときに「祈り」は助けになります。

「祈り」という言葉には意味や概念が付随していますが、それそのものがわかるまでは意味と連動したエネルギーを使います。

(ちなみにこの「意味」や、先の「形」といった、現象世界の表層に顕れているものを意識的に使うことは本の中でいっていた
「魔術」的な領域なのです)

また、祈りを感謝の方向性ではなく至高の中にホワイトアウトさせる方向性もありますが、まずは身体レベルに近い前者を先に
体得するほうがよいと思います。

中途半端に頭頂からホワイトアウトさせても、その時点の認識のレベルで気絶するだけだからです。




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質疑応答 「エゴは消すべき?」「エゴの正体と対処法」

2018/10/06
本をお読みいただいた方よりコメントをいただきましたのでシェアします。
(コメントと応答の一部を編集・追記しています)


<質 疑>

スピリチュアル探求を始めて7年経ちますが、成長の実感がありません。

ただ全てを受け入れ起こる事に委ねるしかないと頭では理解していても、
エゴに取り込まれることの繰り返しで嫌気がさしています。

また、他者に対する嫌悪感が払拭できず苦しく、優しくすることができません。

根本的に自分が変わらなければ同じことの繰り返しになることも想像できます。

どんな手を使ってもエゴの幻想を見抜きストーリーに巻き込まれることなくなりたいです。


<応 答>

結論から言うと、エゴはあっていいのです。

エゴは、それが幻想であると気づいていてもいなくても、ただエネルギーの癖のようなものとしてあるだけです。


極端にいえば、たとえば強迫神経症などの場合、わかっていながらひとつの行動パターン(過剰な確認行動など)
を繰り返してしまったりすることがありますが、エゴとは強迫神経症のエネルギーパターンが人間の世間の
「常識」「平均値」程度まで薄まった状態のようなものです。

頭ではやめたいと思っても癖づいたエネルギーパターンに無意識に巻き込まれ、言動が起こった後で
自己嫌悪に陥ったりします。


本の中でも述べましたが、私たちはそのエネルギーパターンの引力にひっぱられ、エネルギーと同化し、それを
自分だと思っていますが、究極的には瞬間瞬間のエネルギーに割り当てられた担当者(という意識)なのです。

この、瞬間瞬間の担当者の意識を直線的に繋ぎ合わせた感覚を現象世界において「自分」と呼んでいるのです。


エゴに染みついたエネルギーのパターンに巻き込まれて一時的に自己嫌悪に陥ることがあっても、
少なくとも〇〇様は巻き込まれてしまったことに気づく瞬間はあるわけですよね。

そのとき、短い時間かもしれませんが純粋な意識としての本来の〇〇様が姿を顕しています。


時空を超えたところでは、意識が意識そのものに気づいたときが新しく生まれ出た瞬間なのです。

私たちは一瞬一瞬生まれ変わりリセットしています。

今の瞬間と次の瞬間は、別の世界なのです。

言い換えれば私たちは、毎瞬リセットされた世界を認識し存在を確認するための担当者として、
様々なエネルギーに付随して生まれ出ているのです。

もしこの考えを少しでも受け入れることができましたら、今はたまたま一定のエネルギーの引力にひっぱられて
そのエネルギーの担当者として存在している(と思っている)としても、いつどんなときでも次の瞬間生まれ
変わってリセットすることができることを忘れないでいただきたいと思います。


現象世界において、見かけ上の他者と対面することがエネルギー的な軋轢を生むのは当たり前のことです。

この世界の創造拡大のためには不協和音やエネルギーの差異が必要なのです。

調和だけでは単調になり衰退していきます。
(このあたりは、いわゆるスピリチュアル的な観点からは過激に聞こえるかもしれません)


誤解を恐れずにいうと、見かけ上の個別の存在の担当者として嫌いな人がいてもまったく構わないですし、
そのことに自己嫌悪を覚える必要も一切ないのです。

究極的には私たちは何も自ら行為していないのですから、ある意味なんの責任もないのです。


とはいえ、人間は自我の発達過程で自分で自分を意識するというメタ構造を持ってしまったため、
不協和音の担当者が「この自分」であることを苦しく感じてしまいます。

特に、高度に発達した自我の形態において「覚醒」のような概念を理解できるようになったことにより、
より自己嫌悪や被害者意識が強まってしまうということがあります。

それは、「完璧な自分でなければ意識が進化せず覚醒できない」あるいは「行為する者がいないのに
何故よりにもよって自分はこの未熟な個体幻想の担当者なのか?」といった複雑な自意識からくるものです。

それはある意味、素朴な「自我」と自我自身を意識している「メタ自我」に加えて「覚醒」「ワンネス」
といった第三の概念を意識するようになったことによる「メタ-メタ構造」の弊害ともいえます。


以上をふまえて、私なりに〇〇様に具体的にアドバイスできることがあるとすれば、まず、

・エゴはあってもいい
・エゴに巻き込まれてもいい
・嫌悪感が出てもあたりまえである
・嫌悪感が出ることは自分の責任ではない
・優しくなろうとする必要はない
・自己嫌悪は単なる一過性エネルギーである
・瞬間瞬間いついかなるときでもリセットできる
・能動的にすべてを受け入れて委ねることはできない

ということをいったん認めたうえで、(難しければ最初はそのように仮定するだけでかまいません)

・「この自分が」優しくなければならないと思うのはなぜか
・エゴの存在を否定しなければいけないのはなぜか
・「ストーリーに巻き込まれていない自分」を求めているのは誰か
・成長しなくてはならないという思いはどこからくるのか

というように、「~ねばならない」という思いが出てきたときに、一瞬立ち止まって自問してみて
いただきたいのです。


エゴは消そうとすればするほど反発し増長していきます。

消そうとしたり否定したりするのではなく、駄々をこねる小さな子供を見守るように、いったんエネルギーが
出るのに任せることです。

そうするとその瞬間認められたエゴは満足して勝手に引っ込みます。

エゴを敵視するのではなく、エゴはエゴでこれまで自ら傷つきながら嫌な役割をはたしてきてくれたんだな、
と感謝し和解することです。


エネルギーの癖が強いときはなかなか引っ込まないかもしれませんが、エゴ自身の母親であるかのように
辛抱強く見守ります。

ただし、子供であるエゴを甘やかしたり頭ごなしに否定したりすることなく見守ってください。


そして、エゴに巻き込まれたことに気づいた瞬間があったときに、それは恩寵の顕れであることを知り、
気づけた自分自身に感謝してあげてください。


見守る時間はいくらでもかけていいのです。

すぐに変わらないからといって自己嫌悪に陥る必要はまったくありません。

一時間でも一週間でも一年でも極端にいえば一生かかっても、ある瞬間にリセットされればすべての時間は
超越されるからです。


注意するのは、気づいた瞬間を能動的に「引き伸ばそう」としないことです。

好ましい状態を「引き伸ばそう」とするのはエゴの欲求です。

気づきは常に一瞬でいいのです。

このことを認めることによって逆に気づきの瞬間は自らのコントロールを離れて勝手に連続
していくようになります。


「優しくなろうとする必要はない」というのは人間の観念から見れば道徳的でないと感じ抵抗
があるかもしれません。

でも、「(人として)優しくしなければならない」という観念を手放し、エゴのエネルギーの衝動を
見守っていこうと腹をくくったとき、結果としてまったく別次元の優しさが発露するのです。


その優しさにおいて、聖なるものも悪しきものもすべてを存在するままに受け入れられることになるのです。





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質疑応答 「覚醒と恩寵の関係」「誰が覚醒するのか?」

2018/10/01
ワークに参加された方から質問をいただきましたのでシェアします。
(質問と応答の一部を編集しています)


<質 問>

覚醒の体験は自分ではコントロールできず完全に恩寵任せでしか起きないのでしょうか?

最後の最後は恩寵によるものだとしても、自ら起こせるアクションはあるのでしょうか?

今まで自分だと思っていた枠が広がっていくと結局のところ全てが自分であるという感覚が残る事になるのだと
思うのですが、そうすると全て自分だから自分が覚醒したという感覚は起こらないのではないでしょうか?

認識する主体がないとき、夢を見ている自分を認識できないのと同じく、覚醒や悟りそのものを捉えることは
できないのではないでしょうか?


<応 答>

究極的な視点からみれば、こちらがわの自分が能動的に行っていることは何もないので、すべての体験が
恩寵と言えます。

「恩寵」という言葉や神秘体験だけにとらわれすぎると、日常のすべてに顕れている恩寵を見逃すことになります。


神秘体験は、人間の思考や感情その他に隠されていた「それ」が一瞬だけ「わかりやすい形で」気づくように姿を
顕してくれるという意味においては「むこうがわ」からの積極的な働きかけと解釈することができ、それを特別な
「恩寵」ととらえることもできるのですが、本当はふだん認識されていないだけで常に周囲のすべてのものが
恩寵の顕れなのです。


能動的に行為している自分がないとき、能動と受動の区別はなくなります。

そのため一見、自分で能動的にコントロールして覚醒のために訓練することも、実は受動的に起こっている
恩寵なのです。

そこにおいては、突発的に起こった神秘体験も、見かけ上「能動的」に行う訓練も、まったく同等に「むこうがわ」の
采配によって現象化されたものということになります。


ただ、どちらの現象においても「〇〇さん」という見かけ上の個人の体験として認識されたとき、その体験の最中
における「〇〇さん」の気づきの主体がどの位相にあったかによって、それが「能動的」に自分で行ったかのように
感じたり、まったく突発的に受動的に起こったかのように感じられたりするのです。


究極的には覚醒のための「能動的」な訓練はできません。

なぜなら、「能動的」に行う感覚が伴う位相の主体はエゴであり、エゴ感覚があること自体が覚醒を
見えなくするからです。


覚醒のための訓練というのは、このようなエゴ感覚や能動と受動の感覚を明確に知るための訓練であり、
能動的な感覚をもって手放せるとこまで手放したうえで、最終的にはすべての訓練そのものも手放し
「明け渡す」ことになります。

この、最終的な明け渡しのために「やれるところまではやった」という地点までは見かけ上の能動的な感覚をもって
行うということです。


訓練なしでも突発的な「明け渡し」が起こることはあります。

しかし、たいていの場合、その後に再びエゴが顔を出し、困惑することが起きてきます。


訓練というのは、エゴの性質を見極め、エゴを否定することなくうまく手懐けながら進んでいくためのマニュアルです。

この道はすべての人に絶対フィットするというわけではありませんが、比較的安全で確実であるといえると思います。


また、究極的な覚醒そのものにおいては、人間であるかぎり何も認識することができません。

それは「無」と認識できるものですらないのです。

少しでも認識できる体験があったとしたらそれは主体と客体が分離している状態です。


人間にとって、覚醒の体験というのは常に後付けの記憶やイメージにすぎません。
(本当は、一瞬一瞬、この覚醒を体験しているのですが、認識されていないため「なかったこと」として、認識された
点と点だけをつなぎ合わせてこの世界を見ているのです)


「全てが自分だった」という体験は、主客の区別がなくなった状態といっても、あくまでも現象世界の中での話です。

この段階においては、対象として認識されている現象世界が存在したうえで、主体のエゴ感覚が外れてその空白に、
これまで客体としてとらえていたすべてのものが置き換わっているのです。

この状態のとき、気づきに映っているすべてのものが空間的な距離を超えてあたかも「自分」であるかのように
触覚を伴って存在感を訴えてきます。


ちなみに本でも触れましたが、自分という存在感覚は丹田に関係していて、丹田の感覚が残っていると「全てが自分だった」
「全てが自分の中にあった」という認識に至りやすいと私は体験的に感じています。
(人間の場合、世界を創造するということは、女性の子宮と同じく、ハラの感覚に根ざしているからです)


ただ、おっしゃるとおり「全てが自分だった」という体験の最中においては「覚醒している」という認識は伴わないはずです。

なぜなら「この自分が」覚醒しているという認識を伴ったとたん、自他の区別が発生するからです。


この体験を「覚醒」と呼ぶのは、体験から出た後にエゴ感覚が戻ってきてから後付けで名づけられたものです。


さらに「自分」という感覚を伴わない体験の場合は、唐突に自分が空白になったところに世界そのものが置き換わり、
ただ世界だけが映っている状態(ただし、強烈なリアリティを伴って。なぜなら、エゴにリアリティを持つために使っていた
エネルギーがすべて世界そのものへの認識に置き換わるため)になりますが、これも、その体験の最中は認識している
自分を自覚することはできず、体験から出た後に後付けで気づくことができるだけです。


体験され語られたものはすべて例外なく、この現象世界の中の出来事です。


ここで、ひとつ重要なことがあります。

〇〇さん自身もなんとなくお気づきのように「誰が覚醒や悟りを認識しているのか」という問題です。


これは先にすでに答えをいっていますが、「覚醒や悟りそのものを認識する者(人間)はいない」のです。

「覚醒は覚醒自体としてある」のであって、認識されたとたんにそれは覚醒そのものではなくなるのです。

覚醒は対象物ではないので捕まえることはできません。


そもそも覚醒や悟りを問題にしているのは現象世界における人間の思考です。

覚醒は常にそのままあるのに、それを人間の思考が隠しているだけなのです。

それでも覚醒や悟りを「人間としての個別の自分を残したまま」体験したい、ということ自体がエゴなのだということです。


だから、ワークをしていてこんなことを言うのも何ですが、本来は覚醒など求めなくてもいいのであり、求めるエネルギー
のベクトルが発生しておらず、かつ、人間として認識されている自分という担当者を受け入れこの生を無心にまっとう
できていればいいわけです。


それでも「悟り」というのは古来から、人間世界における概念であり目標であるため、人間において共通する状態、
というのが設定されており、一応は到達点があるとされています。

その到達点において、体験された状態というものがいろいろと報告されてはいますが、結局のところ「人間として
わかり得ないもの」という一点は必ず残ります。

それは人間の認識の構造上の問題です。
(神も宇宙も、すべてがわかった、という覚者がいたら疑ったほうがいいと思います)


ただ、その段階においては、「わかり得ないもの」をわからなくてはならない、というエゴはなくなっており、
わからないものはわからないままにあることに疑問も不満もなくなった平安の状態になっているということです。

「すべてがわからなくては不安だ」と思うエゴがなくなったとき、すべてのものがあるがままに存在している
だけになるのです。


このとき、エゴを完全に消さなくてはならない、という観念自体もなくなります。

なぜなら、エゴはエゴとしてあってもそこに同化していなければ何の問題もないからです。


この「夢」の世界に同化している私は、これが夢であることを知らないとき夢を夢と認識することができませんが、
夢であることを明確に知ったとき、夢の中にありながらも明晰夢のように夢であることを認識しながら「私」という
担当者として「私と世界」を自覚的に体験することになります。


何故わたしがこのようなことを確信をもって言うことができるのかというと、それは私なりに「わかり得るところまでは
わかる」ことによって「わかり得ない」一点の入り口を垣間見、エゴが降伏する地点を知ったからです。

エゴがもう何もできることがないと降伏する地点を知り「明け渡し」が自動的に起こったとき、不思議なことに
「わかり得ない」ところから仕組みの理解がもたらされるようになったのです。


もちろん今これを語っている人間としての私、この個別の脳のキャパシティの私にすべての仕組みがわかるなどと
驕る気持ちはまったくありません。

私にわかることは本当に一部分にすぎません。

それでも、この私のキャパにおいて私なりに理解させていただいたことに対する有難さには常に感謝しかありません。


〇〇さんが私とまったく同じ体験や状態を経験する必要はありません。

〇〇さんには〇〇さんのプログラムがあり、そうでしかないタイミングに起こるべきことが起こることは間違いありません。

今回ワークに参加されたのも(それが最終的にどういう結果につながるにせよ)起こるべくして起こったことです。


私に言えることは、「わかり得ないこと」に対する不安や欲求がなくなり、それに対する畏敬と感謝と安心の状態は
確実にあるということで、必ず一人一人が納得できる地点があるということです。

私という顕れを通じて、そのことだけでも伝われば本望です。


一瞥体験が何だったのか、覚醒や悟りとは何か、という疑問が生じ、考えれば考えるほど堂々巡りしてしまうときは、
いったん疑問を保留し、なぜそれを知らなくてはならないのか?知りたいというエネルギーはどこから生じてくるのか?
という、思考の発生と内的衝動のエネルギーに気づいていく方向にシフトしてみることをお勧めします。

そのときも「なぜ?」ということにこだわりすぎず、ただ起こってくる思考や衝動に淡々と気づいて瞬間瞬間に受け流していく
ようにしてみてください。




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質疑応答 「日常に顕れている神秘と観察方法について」

2018/08/27
「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」をお読みいただいた方より、日常における「観察」方法についてご質問をいただきましたのでシェアいたします。


<質 問>

「今まで精神世界サイトや本などで、あるがままとか今ここのとらえ方が間違いということが、わかりました。

読んでいると、なんかとても普通の日常では、覚醒は無理かな?と感想をもちましたが、

最後の方に日常全てのことにすでに神秘が顕れていることを知り、注意深く観察することで、

覚醒が向こうから触れてきている瞬間をつかんでほしいとありましたので、注意深く観察することから、

始めようと思いますが、今の瞬間している動作に注意深くすることと、思考を観察するということに意識していれば、

よいという意味でしょうか?」


<応 答>

よくいわれている「いまここ」「あるがまま」のとらえ方は間違っているわけではなく、時空の感覚の位相が異なっているために生じる違いになります。

観察についてですが、日常で起こっていることを観察するとき、基本的には一瞬一瞬、五感に触れてきたことすべてを見ていきます。
(視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚・思考・感情・動作すべて)

観察するといっても、能動的に観察対象を探すのではなく、受動的にその瞬間に触れてきた感覚に気づいていきます。

また、すべてを見るといってもすべての感覚をまんべんなく見なくてはならないということでもありません。

あくまでも、その瞬間に自分が気づいた感覚だけを淡々と見ていきます。
(結果として、人によって気づく対象や感覚に偏りがあるはずです)

通常の場合、一瞬一瞬明確に気づいていることは稀で、気づかないまま何十秒も思考に巻き込まれていたり、様々な事象が起こっているのに気づかずにひとつの感覚に巻き込まれてとらわれている状態にあります。

まずは見過ごしていた感覚に意識的になって気づきの鋭敏さを養うことが重要になってきます。

最初のうちは思考や感情や好悪の感覚が意識を占有していることが多いので、それらが浮かんできたらひとつひとつ観察します。

ただし、観察するときに「これは良い」「これは良くない」という判断をなるべくしないでただ「今こういう思考が浮かんだ」「今こういう感情が起こった」という事実だけを見ます。

慣れてくると、思考と思考の間に様々な感覚が触れてきていることに気づいてきます。

気づいたらそれらをまた、判断をしないでただ観ます。

「観察する」ということは、内容を分析したり判断したりすることではなく、瞬間瞬間に触れてくる感覚やそれに対する反応を見切っていくということです。

そして自分の反応のパターンを知り、いかにこれまで思考に巻き込まれて様々なことを見過ごしてきたかという事実に気づくことです。

注意点としては、思考を観察しているつもりが「思考について考えてしまっている状態」にいつの間に巻き込まれていたりするので、思考に巻き込まれた状態に気づいたらいったんその思考内容から離れて「いま思考が起こった」という事実だけを確認します。

また、いままで無意識に行っていた動作も注意深く観察してみます。

たとえば食事のときに皿から口まで食べ物を運ぶ間に起こっている様々な事象は、無意識に食欲にまかせて食べているときには気づかずにいつのまに口に入っていたりしますが、細かく観察すると1秒の間にも「箸で食べ物に触れた感触」「箸で食べ物をつまんだ圧力」「食べ物を持ち上げた重さ」「箸を上にあげる速度」「箸を上げるときに曲がった肘の感覚」「手を上にあげていくときの筋肉の感覚」「食べ物が口に近づいてくるときの口内の唾液の感触」「口を開く感覚」「家族の会話が聞こえる」「食べ物が唇に触れた感触」・・・等々、細かく分割していけば無限の事象が発生しているわけです。

それらのすべてを細かく見て行かなくてはならないわけではありませんが、気づきの鋭敏さのそれぞれのレベルに応じて、その瞬間、五感や意識に触れてきたことをただ見ていきます。

本来は、ネガティブな思考であれポジティブな思考であれニュートラルな事象であれ、すべて生じていることは覚醒の顕れであり、すべての事象が認識された瞬間に現象世界が顕れては消えていっているのであって、そのこと自体がすでに覚醒の証明なのですが、現象世界が顕れていることを当たり前だと思ってしまっているために目の前に顕れている神秘に気づかずに思考に巻き込まれ続けている状態になっています。

まずはその無意識の状態に気づいてすべてのことに意識的になることによって、思考と思考のあいだの隙間に気づき、そのときに起こっている様々な現象に気づいていきます。

事象が気づかれる瞬間というのはまさに現象が生み出され、世界が生み出される瞬間なのです。

そのことに気づいたとき、今まさにこの自分が世界と覚醒のポータルとしてあり現象の生成に立ち会っているという驚きと感動が生じるはずです。

結論をいってしまうと、無限に切れ目のない気づきの連続が、いま目の前に顕れている世界そのものなのです。

気づいていることに気づいていないだけで、気づいた結果としての総体が、目の前にあたかも脳から飛び出して外にあるかのように「世界」として見られているのです。

エゴは思考に巻き込まれている状態が自分だと勘違いしているので、思考を客観的に観察して思考以外の事象に気づいていくことを最初は嫌がりますが、徐々に観察する意識が定着してくると、思考と思考の隙間であらゆる事象がハートに直接響いてくるようになってきます。

長くなりましたが、最初はあまり気負わずにやってみていただけたらと思います。

もし思考に巻き込まれてしまったとしても自分の不注意を責めず、巻き込まれたことに気づいた段階で毎回リセットして新たに気づいていけば問題ありません。

最初は根気がいるかもしれませんが、観察する意識を定着させることは必ず一生の宝物になると思います。




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