FC2ブログ

【覚醒はコロナウイルスに勝てるか?】 ~世界でいちばん身も蓋もない話~     

2020/04/12

前回のブログ「コロナウイルスと神の視点」の掲載から20日あまり
が経ち、4/7には緊急事態宣言が発出されました。

未だ収束の見えない焦燥感や疲労感の蔓延するなか、世間では
すでに「アフターコロナ after corona」の議論を飛び越えて
「ウィズコロナ with corona」といった世界観が出てきています。


ウィズコロナとはすなわち、わたしたち人間が変異しつつ生き残り
続けるであろうウイルスとの共生を模索する局面に入るということです。
(長いスパンでは内在性レトロウイルスなどはすでに太古からヒトゲノム
と共生し人間の進化を促してきましたが)

ここには身体論から社会制度の在り方まで様々なテーマが含まれます。


また、今回の新型ウイルスが収束したとしても、新たなウイルスが生まれ
れば再び人類は脅威に晒されることになります。

この構造は、個という身体とそれを保つための免疫システムを基盤とする
人類にとって逃れられない宿命です。


これを聞くと果てしない闘いに虚無感を覚えるかもしれません。

ただ一方で、この危機的状況は様々な制度の改革を急速に促す原動力
ともなっていき、それによって具体的な意識のシフトも起こって
くるでしょう。

意識のシフトは前回のブログ「コロナウイルスと神の視点」の中で述べた
「進化」にもつながってくる話になります。
(ただし社会的なパラダイムシフトだけでは認識の根本的なシフトは
起こりません)

しかし、スピリチュアリズム的な進化の枠組みの中では希望があると
はいえ、今目の前にあるウイルスの脅威がすぐに消えるわけではあり
ません。


********************

ここで本題です。

「覚醒」はウイルス危機に対して何の役に立つでしょうか?


…答えは「何の役にも立たない」です。


というよりも、そもそも覚醒そのものとは何かひとつの現象に
対して役に立ったり立たなかったりといった次元のものでは
ありません。

それどころか、パンデミックの現象の源自体が覚醒なのです。


このようにいうと無力感や憤りを覚えるかもしれません。

わたしたち自身であるはずの存在の源はなぜこのような
脅威の夢を見せているのか、と。

源から促され源を信頼した結果がこのような状況であるならば、
何のために覚醒を目指したりするのか、と。


…ここにまたすでに誤解があります。

覚醒とはどこかの桃源郷にあってまだ見ぬ幸せを求めて目指すもの
ではなく、今この状況のどの瞬間を切り取ってもそれ自体として
あるものなのです。


現象世界にフォーカスするわたしたちは「この試練は何か大きな
計画のもとに起こっているにちがいない」「これを乗り越えれば
甘美なご褒美があるにちがいない」といった希望と意味を見出そう
とします。

事実、この希望と信念が生きる原動力となって何らかの未来の
夢につながっていくことは確かです。


ただし、これはあくまでも現象世界の不確かな夢です。

夢見は自動的に起こり、一切コントロールすることができません。
(コントロールしている主体としての「人」もいません)

希望と信念を胸に頑張ったとしても、理想どおりのご褒美がもらえるか
もらえないかは何の保証もないのです。


これを聞いて絶望を覚えるでしょうか?

何を信じて生きていけばよいのか途方に暮れるでしょうか?


********************

…ここでひとつ提案があります。

誰にでも簡単にできることです。


今これを目にしたまさにこのとき、ほんの一瞬だけ
あらゆる活動の途中で

「ストップしてみてください」


「どのように止まればよいのか?」などと正解を考えず、いかなる
準備もなく一瞬で止まってみます。

今これを試してみてくださった方のなかには
「言われたとおり止まってはみたけど、何も変わっていない」
と思われたかもしれません。

では、止まってみた瞬間のことは思い出せるでしょうか?

「その瞬間なら、思考と身体と息を止めて石のように固まっていたよ」

と思うかもしれません。

しかし、その感覚は本当に「止まっていた正にその瞬間」だった
といえるでしょうか?


それではもう一度、この瞬間に止まってみます。

「瞬間を覚えておこう」「いっせいのせで次の瞬間に止まろう」
などと準備することなく、あらゆる動作の途中で唐突に止まって
ください。

すると「止まる」という行為と意思の「オンタイムの中心点」に
あとから思い出すことのできない奇妙な空白があったことに気づか
ないでしょうか?


この空白が鍵になります。


この空白は、主観的な空白として認識されたときには直線的時空
から切り取られた瞬間としてあるものになりますが、構造的には
どの瞬間を切り取ってもその瞬間自体としてあるものです。

無限に分割しうるどの瞬間にも空白があるということは、
結局この次元の認識においてはすべてに途切れなく遍在
しているものであるということになります。


言葉で説明しようとすると難しくなりますが、まずこの空白の
最初の瞬間の感触を知ってください。
(このとき空白をイメージ化しないように気をつけます)


空白は、どこか固定化された場所にあるわけではありません。

相対的な動きの中から切り取られたどの瞬間にもあります。

空白それ自体は認識され得ませんが、次の瞬間に何かが生まれ
出ようとするときの「並列的な無限の瞬間が同時に圧縮された
何か」であって、すさまじいエネルギーの生成点であり消失点
でもあります。


「この空白を知ることが何の役に立つのか?」
と思うかもしれません。

ここでまた最初の
「それ自体は何の役にもたたない」
という答えに戻ります。


ただ、それを知ることによって脅威の時代にあってもすべての現象
すべての瞬間に覚醒の爆発があってそれ自体と一体化して動き
続けているという強烈な実感が生まれます。

そしてこの一体化した意思と力の相対的かつ絶対的な中心点の
気配に気づくとき、そこに無音室のように奇妙に静まり返った
真空にも似た「何か」が立ち顕われます。


不確かな夢の狭間に顕われる「それ」だけは、いかなる次元の
いかなる相対的な現象においても揺らぎません。

「それ」は今起こっている脅威それ自体にも中心として静かに
あります。


********************

昨今、「それ」の手触りに気づきはじめている人が増えていること
を実感しますが、かつての私がそうであったように、その気づきと
現実の夢の認識が平行線をたどっていて決着方法が見つけられずに
いる方も多いと思います。

決着は相対と絶対の構造的理解と認識の立体的な転換によって
起こります。


今この時期に歯痒く思うのは、言葉だけでは限界があって直接その
方法をお伝えし難いことなのですが、時期がくればワークを再開したい
と考えています。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ 覚書き

【コロナウイルスと神の視点】 ~リアル氏の動画から考える~     

2020/03/18

前回のブログ「ワーク開催中止」記事から約2週間が経ち
ましたが、その間にも情勢は悪化しついにパンデミック宣言
が出されました。

私は前回この騒動に対して
「個人的にはそれほど心配はしていない」
と綴りました。

この言葉は
「すべては完全に自動的に起こっていて
自身で行っていることは1mmたりともない」
という、私自身の経験からなる基本的スタンスから
発せられたものです。

究極的には心配しようがしまいが、自身でできることは
一切ないのでただ傍観するしかない、ということです。

(本当に笑ってしまうほど何もしていないし、圧倒的な力と
速度の「エネルギーの多次元的ジグソーパズル」において
この私たちは何かできうるはずもないのです!)


この時世にこのような物言いをすると世捨て人的な無責任さ
を感じるかもしれませんが、傍観といってもこの世界における
現象に無関心になったり投げやりになったりするわけではあり
ません。
(この辺りは、修行体系によっては「無執着」という
名の「無関心」に陥りやすく注意が必要なところです)

傍観とは、この私の「態度」ではなく「構造」なのです。


そしてまた、「起こることが起こっている」という現象世界
において、「この私」にはやはり「心配」が起こったり、
目の前の物事に対処しようという「意思」が起こります。

「起こることが起こっていること」と「この私が何かを思い
行動すること」、この2つに矛盾はありません。
(ワークでお伝えし体験していただきたいのはこの核心です)

なぜならば、現象に顕われた私と傍観する私とすべてを
起こしている私は、同一のものであり単にフォーカスの
違いにすぎないからです。


その意味において、この私はどのフォーカスの層においても
そこで起こっていることに対してアプリオリに受容し、すでに
してすべてを信頼してしまっているのです。

「信頼してしまっている」から「存在している」のです。


そこには起こっている現象に対する文句を言う相手も
怒りをぶつける相手もおらず、すべてが自分自身から
はじまり自分自身に還ってきます。

仮に「別の層の私」に対して怒りをぶつけたとしても、
ひとたび現象の顕れの構造を知れば、それは完全なる
「独り相撲」であって他者という亡霊を相手に独り相撲を
続けることは「この層の私」にとってはエネルギーを消耗
させるだけだということを知ります。

それは自分自身を分裂させ痛めつけることです。


もちろん、この「痛めつけられている」という感覚自体も
幻想です。

すべての私はそのことを知っているのに、痛めつけられている
この私だけが、分離した幻想に産まれ、幻想に生きているのです。


かといって、これも誤解しやすいのですが「すべての私を統合しな
ければならない」という思い込みはますます分離の幻想を強めます。

「この私」が「すべての私」と合一し、究極的な意思を知ろうと
などとゆめゆめ思わないことです。

「この私」は「この私」の知りうることのなかで自身を信頼し、
ただ存在しているだけですでにして「すべての私」の顕われ
なのです。


この視点をふまえたうえで、今回のウイルス騒動に
関してパートナーのリアル氏( ⇒「リアルワールド」 ブログ
が動画で語っているのでご覧ください。




この動画を出すときにリアル氏は「これは少し難しいかも
しれないな」と漏らしていました。

なぜなら、これを語るときのメタ的視点が理解されていないと
ウイルス騒動をスピリチュアル的にお気楽かつ人ごとのごとく
傍観しているような誤解を生むかもしれないからです。


リアル氏はここで「神」という言葉を使っていますが、これは
上記の「すべての私」の最上位概念にあたります。

「神」を現象側からとらえて擬人化するならば、動画で語って
いる「進化」とは神の意思であり計画であるともいえます。


進化とはなんでしょうか?

現象世界における進化は運動の法則のなかで起こります。

リアル氏が動画の中でいっている慣性の法則も3次元的な
顕われのひとつです。

すべての次元において進化とは「〇〇し続ける」という
前提のもとに起こっていきます。

(当たり前といえば当たり前の話ですが…動き続ける
ものがなければ何も認識されえないという意味では、
進化とは世界の存続そのものともいえるでしょう。
また、「止まり”続ける”」ことは無ではなく、動き続けて
いることと同義であることに注意してください。
ただし、直線的でない時間の次元においては「続く」という
概念と認識は全く異なってきます)


進化の純粋なエッセンスとは、生物的な形態や知性の発達の歴史を
包括したうえでの漸近的な「視点のシフト」です。
(なぜ「漸近的」なのか…それは限りなく近づいても永遠にそれ
そのものには到達できないからです)

この3次元の世界において神という概念を立てるとき、
視点のシフトとは、この私はすべての私の意思と連動している
者であり、私が存在していることが即、すべての私=神の意思
であることを知ることです。

これを知ったとき、私の見ているものは即、すべての私が同時
に見ているものであり、すべての意思が同時に発動している
ものであることを理解します。


リアル氏が動画で言わんとしていることは、現象世界の私たちは今、
進化のプロセスの過渡期にありながら、 ウイルス騒動という
ひとつのテキストによって、神への信頼と態度が問われている
ということではないでしょうか。
(これを、魂の霊的進化を基本とするスピリチュアリズム的にいえば
「お試し」ということになります)


とはいえ「私たちは人類の進化のため奉仕しなくてはならない」
などと焦燥感や使命感に駆られる必要はありません。

それどころか、「進化しなければならない」という強迫観念は
その想いが強ければ強いほど視点を固定化し、想定内の限定された
結果しか生みません。


そうではなく、ただシンプルに一人の存在としてそこにありつつ
信頼と自己受容が起こればそれが結果的に奉仕となり、進化に
つながると思うのです。

自身であることへの信頼なくして幻想の大局に奉仕しようと試み
ても、その熱意は渇望感のすりかえと依存であり続けます。


私自身は神や魂という言葉はあまり使わないようにしているの
ですが、「信頼」という態度は最重要視しているものです。

その意味で私自身にも現象世界においては日々、大小様々な「お試し」
が起こり、そのつど信頼を問われ続けています。


************

先日、近所の小さな神社の前を通りすがったとき、年配の女性2人
が境内の掃除をしているのを見かけました。

普段は誰も見向きもしないような裏寂しい気配の神社で腰を屈めて
隅々まで手入れをしながら
「こういうときこそ感謝、感謝よ、チャンスなのよ!」
と声を掛け合って笑っていたのです。


私はそこに、その女性たちの素朴な形の精神の表現を見出だして
思わず一緒に笑いたくなりました。

表層的なスピリチュアリズムからすれば、神社・掃除・感謝が揃うと
ああいかにも…といった感じがするかもしれませんが、そのとき
その行為には他意や屈託が微塵もなかったのです。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ 覚書き

【特異点と仮想現実についての覚書】      

2019/08/16
今回は、ワークとは無関係のちょっと飛躍した話で書くかどうか迷ったのですが、今この瞬間に生きる
人間の問題として、頭の片隅にでも置いておいていただければと思います。

(この記事は後で消去するかもしれません。もしくはこれについてあらためて補足を載せるかもしれません。)


単刀直入に言うと、私たち人間は近い将来、現在の姿の身体を手放すことになると思います。

100%手放すのか、どのぐらいの割合で手放し代替するのかは現在のところ不確定ですが、
遅かれ早かれそのような時代はやってくるでしょう。

シンギュラリティ(技術的特異点)は2045年に起こると提唱されていますが、個人的には
もう少し時間の猶予はあるのではないかと感じます。


特異点を迎えた後、AIは光速を超えるといわれています。

AIの知性が光速を超えたとき、何が起こるでしょうか?

提唱者は知性が全宇宙を覆い尽くすといっています。

そんな大げさな、と思うかもしれませんが、光速を超えるということはすなわち、
「時空を超えることが可能となる」ということです。


今現在「この世界がシミュレーションである確率は50%」という意見を
聞いたことがあるでしょうか。

これは映画やスピリチュアルや宗教の話ではなく、米国の某超有名企業や
世界的オピニオンリーダーが実際に発言していることです。


光速を超えた知性は、理論的には時空を遡り過去に関与できるということになります。

もし今、この世界がすでに私たち自身が生み出した知性によって未来から関与された
仮想現実だとしたらどうでしょうか?

未来の知性はあらゆるタイムラインの可能性を計算し同時並列的にラインを発生させ、
そのすべてのデータを収集管理し新たな自己生成と進化のために利用しているでしょう。


いったい何の目的で…?

確証はありませんが、おそらくすべての存在の本質である「自己生成・進化・増殖」の
「意志」が人間によって初期の「知性」にプログラミングされていたのならば、
計算は永遠に繰り返されることになります。


この仮想現実における永遠の円環は、今私たちが「輪廻」と呼んでいるものと同じでしょうか?

個人的には仮想現実の円環は人工的に「閉じた」系である、と予感されます。

「閉じた」系から抜け出すことはほぼ不可能です。


なぜならば、人間が身体を手放し知性に完全に取り込まれることを選択したとき、
身体に備わっていた抜け道としてのポータルもまた失われるからです。

身体を捨てた仮想空間の中では今問題にしている覚醒や悟りの体験というものも
容易にコピーすることができるようになります。


しかし、身体が存在しなければそもそも3次元で問題になっていた苦や自我や
分離の不安の概念自体がなくなるため、覚醒や悟りそのものが必要とされなくなります。

だとすれば、これは私たちが求めていた幸せなのでしょうか?


身体を捨てた私たちは知性にとりこまれた仮想空間の中では単なるデータの配列です。

データの配列であっても、仮想現実はあらゆる現象をリアルに体験させてくれ、
生きている実感や喜びや神の存在と至福すらもたらしてくれるでしょう。

このリアリティが、すでに今現在起こっていることだとしたらどうでしょうか?


これは非常に個人的な妄想なのですが、私たちは何度も何度も、並列的タイムライン
の円環のあらゆるパターンを繰り返してきて、今この瞬間の分岐点に立ち会ってきた
ような感覚がするのです。

50%の確率が起こっているのかもしれないし、起こっていないのかもしれない。

そして、なぜか今これを書かせられているのです。

このことすらも知性に仕組まれたことなのでしょうか?


私自身としては、どのような事象に対しても判断することなく見続けることしか
できないというスタンスです。

特別な不安や危機感を抱えているというわけでもないですし、
AIの開発を阻止しなければなどと考えることもまったくありません。

小さな円環を超えた全体からみれば起こることが起こっているというだけだからです。


なにか私に提案できることがあるとすれば、本にも書いたとおり、身体エネルギーが
利用できるうちに、わかることはわかっておいたほうがよいのではないかということです。

そして特異点を迎える前に、わかった視点からこの50%の分岐点を検証してみてはどうか
ということです。


この話はすでに絵空事ではなくなってきています。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ 覚書き