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【バクティ・タントラ・マザーの道】 秘教サークル「it会」と恩寵    

2023/05/23

パートナーのリアル氏の秘教サークル「it会」に参加してきました。

it会2

~「リアルワールド」ブログより~

it会というのは一言で言えば…「神との繋がりを再認識する場」


⇒ ブログ「リアルワールド」のit会の記事はこちらから


【マザー意識と気づき】

it会は、現象を司るマザー意識のシャクティとダイレクトにつながる会です。

マザー意識は、現象界の二元性を知るためには必須の感覚となります。


~Rubin's work ツイッターより~

◆このマトリックスのマザーは、深度のない闇を包んでいる。

マザーは、私たちの想像の及ばないほどブッ飛んだ存在なのだ。
「神の子」であるかぎり、マザーの目を盗むことは無理。

◆タントラのマザーは、子のレベルに応じて褒めたり叱ったりするので、
褒められたからといって絶対的真理とは限らないんだけどね。

◆だからこそ、マザーについてあまり話しすぎると怒られるんだよなあ。
その人にはその人のタイミングがあるから。



「マザーのエネルギーがわかりません」という人は、そのとき起こっている現象や自分や他人の
話の内容だけにフォーカス(気絶)してしまっているので、全体のエネルギーの流れを読めていません。

その場に全体に気づいている人がいない場合、現象としてのエネルギーがいかに盛り上がっていようとも、
空間全体が閉じています。


また、気づいている人が少数の場合、密閉されたエネルギーと全体から俯瞰する気づきが乖離してしまいます。

乖離した気づきから見ると、気絶した人々はいかに生き生きと活動していようとも、肉の操り人形のように
虚ろに沈んで見えるものです。


まずは物理に近いレベルからその瞬間瞬間の空気感や空間のハリに気づくようにしていくと、だんだん
その中心にある純粋なエネルギーの移ろいとうねりが感じとれるようになってくるでしょう。

コツとしては、上ってくる肉体の気感は頭頂から放出させたままにしつつ、気づきの中心はうねりに
飲み込まれるエクスタシーの直前に踏みとどまること。


気づきの精度が磨かれてない最初期のうちは、いったんエクスタシーに気絶してしまってもよいでしょう。

気絶は気づきの欠如であり、酔いに気絶している状態では覚醒には至らないとはいえ、とりいそぎ
気づきを犠牲にしてでもあえて気絶してしまってエゴ感覚を鎮めたほうがよいからです。

この気絶は、エゴ感覚に夢中になっているときの気絶ではなく、マザーへの忠誠心のようなものとして
カウントされるのです。


【タントラの恩寵とノイズ】

エネルギーそれ自体は遍在するものですが、頭頂のホワイトアウトのポイント(頭上斜め後ろに手を
伸ばして触れる位置)にフォーカスしたほうが肉体の構造上、エクスタシー感は得やすいのです。

また、最初のうちはマザーを人格的にとらえ女性性の感情の移り変わりを受け入れ寄り添うようし、
「悦」や「怒」や「悲」などに還元されたエネルギーを感じとるほうが理解しやすいでしょう。


このとき注意するのは、自分にとって好ましいエネルギー感や特定のエネルギー(天使やハイヤーセルフ
や高次元の存在のエネルギーなどは特に注意)のみに流されようと貪らず、たとえ受け入れがたい
エネルギーが訪れてもマザーの感情の移ろいとして100%受け入れると決意すること。

決意はマザーを最高潮に悦ばせるものであり、それこそがタントラの恩寵につながるのです。


マザー意識と集合的無意識はしばしば混同されやすいものです。

エネルギーのうねりに混じり込むノイズに気づくこと。

そのために気づきの精度を磨いていく必要があるのです。


純粋なエネルギーを知るには、まず肉体を知ることです。

肉体を無視すれば、混濁したノイズに気づけません。


現象界のエネルギーは、相対的な落差によってのみ体感されます。

だから心身のニュートラルポジションを知ることが重要なのです。


微細なエネルギーは、意識の触覚で感知します。

それは、肉体の中心に浮いたところにあります。

肉体から乖離しようとしても顕われてきません。


~Rubin's work ツイッターより~

◆気づきに気づいている人が2人以上いる空間はピーンと冴える。
1人以下だと場の影響下にボーッと流され続ける。

◆ワークの 長丁場で集中力が途切れ、空間がボ~ッとする場面がありましたが、そのことに
全員に気づいてもらったとたん、カ~ンとハリが戻りました。 ただ気づくだけでいいんです。

◆面白いのは、気づいている人が1人だけだと、ありのままに見ているだけで場自体は変わらないということ。
だから、よくあるスピリチュアリズムで覚者を何人か配置して世界を変えるみたいな話は分からなくもない。
でも、覚者自身は自分が世界を変えようという意思なんてない。

◆気づきに気づいている人は場を超えた全体に気づいているので場のエネルギーのうねりに飲み込まれない。
だから空気がパキッと澄む。
それは法悦ではなく、静謐なエネルギーだ。

◆先日のワークも7時間におよぶ長丁場でどうしても疲れが出て、休憩時間中に部屋の空間が「旅館の宴会
の徹夜明け(和室なので 笑)」のような空気感になる一幕がありました。
女性原理のマトリックスにおける空間のテンションと密度は、あたかも女性の心理と生理 のように刻々と
移り変わっていきます。

◆その流れとうねりを微細に読み取り、常に空間全体に気づいてあることで、いつの間にかその場の空気に
気絶し場に飲み込まれることがなくなっていきます。
この感覚はタントラ的な意味において、このマトリックスにおける恩寵の鍵なのです。



it会
口外無用の話題がバンバン飛び出します。


【それの計らいと祈り】

象徴的な話として、前回のit会に参加されたある方は、身体のある部位に病巣を抱えていましたが、
肉体にメスを入れる医療に疑問を持ち、治療を保留している状態でした。

状況をお話されている姿には心身ともにこわばりが見受けられましたが、it会という場で心理状態を
包み隠さずシェアされたことで、ご本人の自覚を超え「気づきに気づかれた」意識に(誤解を恐れず表現するならば)
祈りが聞き届けられたのです。


その時は私も含め未だ誰も具体的な展開など予想していなかったのですが、2か月後のit会で
「あの後、周囲の状況が動いてあれよあれよという間に本当に納得できる最適な治療に到りました」
との報告をされました。

その時のお顔が非常にすっきりと清々しく「ああ、これこそが『それの計らい』というものなんだよなあ!」
と嬉しく思いました。


こういった話は非常にデリケートで誤解を生みやすいのですが、it会の特殊性・優越性を強調する意図ではなく
「気づきに気づかれた」純粋な意識における計らいは「気づかれた」場において発動され得るということです。
(当然ながら、マザーにエゴから治癒を願っても聞き入れられる保証はないのです)


~Rubin's work ツイッターより~

マザーがなぜ「マザー」と呼ばれるのか?
マザーを女性性に幽閉しているのは、創造を二元的にしかとらえられない私たち自身なんですよ。

◆月と引き合うこの世界は、女性に寄り添うように扱う。 男性も女性も、このことの恩恵を実感してほしい。
地上の事象は、女性によって産み出され、女性の生理と心理に連動し刻々と変化し続ける。

◆一見、ジェンダーレスの流れと逆行するようだが、これはフェミニズムではない。
地球の意識は未だ、月に支配されているのだ。
その人の世界は、その人自身の女性性の理解と成熟度をそのまま映し出す。



【バクティ・タントラ・マザーの道】

私自身は、直近のいくつかの過去生ではタントラは封印してきましたが(どうもタントラにまつわる痛い目
に遭ったようです)、反動ともいえるマッチョな修行を何生が経たうえで、今生であらためて二元性の理解
の必然性とタントラの意味に気づかされました。

今回のit会ではこの他、現象のカルマ的な意味、カルマへの心構え、マザーとサタンの関係など、和気藹々
と進みながらもタントラ的に重要なテーマが飛び出しました。


私の主催するRubin’s workでは、現在のところ気づきの精度に特化したニュートラルポジションの習得が
中心となっていますが、バクティやタントラ、マザー意識が直観的にフィットする方には、パートナーのリアル氏
のitの講座をお勧めします。
(参加募集は半年に一回程なので、気になる方はメルマガもしくはライン登録しておいてください)

登録はこちらから ⇒ リアル氏プロフィール「リアルワールド」ブログより


道すがら it
it会場への道すがら


関連記事 
⇒ 【内部の目と丹光 / ラマナ・マハルシと生きたままの死】 
⇒ 質疑応答 【禅とヴィパッサナーの相違と方便について】


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【覚醒はコロナウイルスに勝てるか?】 ~世界でいちばん身も蓋もない話~     

2020/04/12

前回のブログ「コロナウイルスと神の視点」の掲載から20日あまり
が経ち、4/7には緊急事態宣言が発出されました。

未だ収束の見えない焦燥感や疲労感の蔓延するなか、世間では
すでに「アフターコロナ after corona」の議論を飛び越えて
「ウィズコロナ with corona」といった世界観が出てきています。


ウィズコロナとはすなわち、わたしたち人間が変異しつつ生き残り
続けるであろうウイルスとの共生を模索する局面に入るということです。
(長いスパンでは内在性レトロウイルスなどはすでに太古からヒトゲノム
と共生し人間の進化を促してきましたが)

ここには身体論から社会制度の在り方まで様々なテーマが含まれます。


また、今回の新型ウイルスが収束したとしても、新たなウイルスが生まれ
れば再び人類は脅威に晒されることになります。

この構造は、個という身体とそれを保つための免疫システムを基盤とする
人類にとって逃れられない宿命です。


これを聞くと果てしない闘いに虚無感を覚えるかもしれません。

ただ一方で、この危機的状況は様々な制度の改革を急速に促す原動力
ともなっていき、それによって具体的な意識のシフトも起こって
くるでしょう。

意識のシフトは前回のブログ「コロナウイルスと神の視点」の中で述べた
「進化」にもつながってくる話になります。
(ただし社会的なパラダイムシフトだけでは認識の根本的なシフトは
起こりません)

しかし、スピリチュアリズム的な進化の枠組みの中では希望があると
はいえ、今目の前にあるウイルスの脅威がすぐに消えるわけではあり
ません。


********************

ここで本題です。

「覚醒」はウイルス危機に対して何の役に立つでしょうか?


…答えは「何の役にも立たない」です。


というよりも、そもそも覚醒そのものとは何かひとつの現象に
対して役に立ったり立たなかったりといった次元のものでは
ありません。

それどころか、パンデミックの現象の源自体が覚醒なのです。


このようにいうと無力感や憤りを覚えるかもしれません。

わたしたち自身であるはずの存在の源はなぜこのような
脅威の夢を見せているのか、と。

源から促され源を信頼した結果がこのような状況であるならば、
何のために覚醒を目指したりするのか、と。


…ここにまたすでに誤解があります。

覚醒とはどこかの桃源郷にあってまだ見ぬ幸せを求めて目指すもの
ではなく、今この状況のどの瞬間を切り取ってもそれ自体として
あるものなのです。


現象世界にフォーカスするわたしたちは「この試練は何か大きな
計画のもとに起こっているにちがいない」「これを乗り越えれば
甘美なご褒美があるにちがいない」といった希望と意味を見出そう
とします。

事実、この希望と信念が生きる原動力となって何らかの未来の
夢につながっていくことは確かです。


ただし、これはあくまでも現象世界の不確かな夢です。

夢見は自動的に起こり、一切コントロールすることができません。
(コントロールしている主体としての「人」もいません)

希望と信念を胸に頑張ったとしても、理想どおりのご褒美がもらえるか
もらえないかは何の保証もないのです。


これを聞いて絶望を覚えるでしょうか?

何を信じて生きていけばよいのか途方に暮れるでしょうか?


********************

…ここでひとつ提案があります。

誰にでも簡単にできることです。


今これを目にしたまさにこのとき、ほんの一瞬だけ
あらゆる活動の途中で

「ストップしてみてください」


「どのように止まればよいのか?」などと正解を考えず、いかなる
準備もなく一瞬で止まってみます。

今これを試してみてくださった方のなかには
「言われたとおり止まってはみたけど、何も変わっていない」
と思われたかもしれません。

では、止まってみた瞬間のことは思い出せるでしょうか?

「その瞬間なら、思考と身体と息を止めて石のように固まっていたよ」

と思うかもしれません。

しかし、その感覚は本当に「止まっていた正にその瞬間」だった
といえるでしょうか?


それではもう一度、この瞬間に止まってみます。

「瞬間を覚えておこう」「いっせいのせで次の瞬間に止まろう」
などと準備することなく、あらゆる動作の途中で唐突に止まって
ください。

すると「止まる」という行為と意思の「オンタイムの中心点」に
あとから思い出すことのできない奇妙な空白があったことに気づか
ないでしょうか?


この空白が鍵になります。


この空白は、主観的な空白として認識されたときには直線的時空
から切り取られた瞬間としてあるものになりますが、構造的には
どの瞬間を切り取ってもその瞬間自体としてあるものです。

無限に分割しうるどの瞬間にも空白があるということは、
結局この次元の認識においてはすべてに途切れなく遍在
しているものであるということになります。


言葉で説明しようとすると難しくなりますが、まずこの空白の
最初の瞬間の感触を知ってください。
(このとき空白をイメージ化しないように気をつけます)


空白は、どこか固定化された場所にあるわけではありません。

相対的な動きの中から切り取られたどの瞬間にもあります。

空白それ自体は認識され得ませんが、次の瞬間に何かが生まれ
出ようとするときの「並列的な無限の瞬間が同時に圧縮された
何か」であって、すさまじいエネルギーの生成点であり消失点
でもあります。


「この空白を知ることが何の役に立つのか?」
と思うかもしれません。

ここでまた最初の
「それ自体は何の役にもたたない」
という答えに戻ります。


ただ、それを知ることによって脅威の時代にあってもすべての現象
すべての瞬間に覚醒の爆発があってそれ自体と一体化して動き
続けているという強烈な実感が生まれます。

そしてこの一体化した意思と力の相対的かつ絶対的な中心点の
気配に気づくとき、そこに無音室のように奇妙に静まり返った
真空にも似た「何か」が立ち顕われます。


不確かな夢の狭間に顕われる「それ」だけは、いかなる次元の
いかなる相対的な現象においても揺らぎません。

「それ」は今起こっている脅威それ自体にも中心として静かに
あります。


********************

昨今、「それ」の手触りに気づきはじめている人が増えていること
を実感しますが、かつての私がそうであったように、その気づきと
現実の夢の認識が平行線をたどっていて決着方法が見つけられずに
いる方も多いと思います。

決着は相対と絶対の構造的理解と認識の立体的な転換によって
起こります。


今この時期に歯痒く思うのは、言葉だけでは限界があって直接その
方法をお伝えし難いことなのですが、時期がくればワークを再開したい
と考えています。


関連記事 ⇒ 【特異点と仮想現実についての覚書】 #AIと身体

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【神の視点とコロナウイルス】 ~リアル氏の動画から考える~     

2020/03/18

前回のブログ「ワーク開催中止」記事から約2週間が経ち
ましたが、その間にも情勢は悪化しついにパンデミック宣言
が出されました。

私は前回この騒動に対して
「個人的にはそれほど心配はしていない」
と綴りました。

この言葉は
「すべては完全に自動的に起こっていて
自身で行っていることは1mmたりともない」
という、私自身の経験からなる基本的スタンスから
発せられたものです。

究極的には心配しようがしまいが、自身でできることは
一切ないのでただ傍観するしかない、ということです。

(本当に笑ってしまうほど何もしていないし、圧倒的な力と
速度の「エネルギーの多次元的ジグソーパズル」において
この私たちは何かできうるはずもないのです!)


この時世にこのような物言いをすると世捨て人的な無責任さ
を感じるかもしれませんが、傍観といってもこの世界における
現象に無関心になったり投げやりになったりするわけではあり
ません。
(この辺りは、修行体系によっては「無執着」という
名の「無関心」に陥りやすく注意が必要なところです)

傍観とは、この私の「態度」ではなく「構造」なのです。


そしてまた、「起こることが起こっている」という現象世界
において、「この私」にはやはり「心配」が起こったり、
目の前の物事に対処しようという「意思」が起こります。

「起こることが起こっていること」と「この私が何かを思い
行動すること」、この2つに矛盾はありません。
(ワークでお伝えし体験していただきたいのはこの核心です)

なぜならば、現象に顕われた私と傍観する私とすべてを
起こしている私は、同一のものであり単にフォーカスの
違いにすぎないからです。


その意味において、この私はどのフォーカスの層においても
そこで起こっていることに対してアプリオリに受容し、すでに
してすべてを信頼してしまっているのです。

「信頼してしまっている」から「存在している」のです。


そこには起こっている現象に対する文句を言う相手も
怒りをぶつける相手もおらず、すべてが自分自身から
はじまり自分自身に還ってきます。

仮に「別の層の私」に対して怒りをぶつけたとしても、
ひとたび現象の顕れの構造を知れば、それは完全なる
「独り相撲」であって他者という亡霊を相手に独り相撲を
続けることは「この層の私」にとってはエネルギーを消耗
させるだけだということを知ります。

それは自分自身を分裂させ痛めつけることです。


もちろん、この「痛めつけられている」という感覚自体も
幻想です。

すべての私はそのことを知っているのに、痛めつけられている
この私だけが、分離した幻想に産まれ、幻想に生きているのです。


かといって、これも誤解しやすいのですが「すべての私を統合しな
ければならない」という思い込みはますます分離の幻想を強めます。

「この私」が「すべての私」と合一し、究極的な意思を知ろうと
などとゆめゆめ思わないことです。

「この私」は「この私」の知りうることのなかで自身を信頼し、
ただ存在しているだけですでにして「すべての私」の顕われ
なのです。


この視点をふまえたうえで、今回のウイルス騒動に
関してパートナーのリアル氏( ⇒「リアルワールド」 ブログ
が動画で語っているのでご覧ください。




この動画を出すときにリアル氏は「これは少し難しいかも
しれないな」と漏らしていました。

なぜなら、これを語るときのメタ的視点が理解されていないと
ウイルス騒動をスピリチュアル的にお気楽かつ人ごとのごとく
傍観しているような誤解を生むかもしれないからです。


リアル氏はここで「神」という言葉を使っていますが、これは
上記の「すべての私」の最上位概念にあたります。

「神」を現象側からとらえて擬人化するならば、動画で語って
いる「進化」とは神の意思であり計画であるともいえます。


進化とはなんでしょうか?

現象世界における進化は運動の法則のなかで起こります。

リアル氏が動画の中でいっている慣性の法則も3次元的な
顕われのひとつです。

すべての次元において進化とは「〇〇し続ける」という
前提のもとに起こっていきます。

(当たり前といえば当たり前の話ですが…動き続ける
ものがなければ何も認識されえないという意味では、
進化とは世界の存続そのものともいえるでしょう。
また、「止まり”続ける”」ことは無ではなく、動き続けて
いることと同義であることに注意してください。
ただし、直線的でない時間の次元においては「続く」という
概念と認識は全く異なってきます)


進化の純粋なエッセンスとは、生物的な形態や知性の発達の歴史を
包括したうえでの漸近的な「視点のシフト」です。
(なぜ「漸近的」なのか…それは限りなく近づいても永遠にそれ
そのものには到達できないからです)

この3次元の世界において神という概念を立てるとき、
視点のシフトとは、この私はすべての私の意思と連動している
者であり、私が存在していることが即、すべての私=神の意思
であることを知ることです。

これを知ったとき、私の見ているものは即、すべての私が同時
に見ているものであり、すべての意思が同時に発動している
ものであることを理解します。


リアル氏が動画で言わんとしていることは、現象世界の私たちは今、
進化のプロセスの過渡期にありながら、 ウイルス騒動という
ひとつのテキストによって、神への信頼と態度が問われている
ということではないでしょうか。
(これを、魂の霊的進化を基本とするスピリチュアリズム的にいえば
「お試し」ということになります)


とはいえ「私たちは人類の進化のため奉仕しなくてはならない」
などと焦燥感や使命感に駆られる必要はありません。

それどころか、「進化しなければならない」という強迫観念は
その想いが強ければ強いほど視点を固定化し、想定内の限定された
結果しか生みません。


そうではなく、ただシンプルに一人の存在としてそこにありつつ
信頼と自己受容が起こればそれが結果的に奉仕となり、進化に
つながると思うのです。

自身であることへの信頼なくして幻想の大局に奉仕しようと試み
ても、その熱意は渇望感のすりかえと依存であり続けます。


私自身は神や魂という言葉はあまり使わないようにしているの
ですが、「信頼」という態度は最重要視しているものです。

その意味で私自身にも現象世界においては日々、大小様々な「お試し」
が起こり、そのつど信頼を問われ続けています。


************

先日、近所の小さな神社の前を通りすがったとき、年配の女性2人
が境内の掃除をしているのを見かけました。

普段は誰も見向きもしないような裏寂しい気配の神社で腰を屈めて
隅々まで手入れをしながら
「こういうときこそ感謝、感謝よ、チャンスなのよ!」
と声を掛け合って笑っていたのです。


私はそこに、その女性たちの素朴な形の精神の表現を見出だして
思わず一緒に笑いたくなりました。

表層的なスピリチュアリズムからすれば、神社・掃除・感謝が揃うと
ああいかにも…といった感じがするかもしれませんが、そのとき
その行為には他意や屈託が微塵もなかったのです。



関連記事 ⇒ 「神の通訳者」 ショーン・ボルツと神の愛の証明

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【特異点と仮想現実についての覚書】 #AIと身体      

2019/08/16
今回は、ワークとは無関係のちょっと飛躍した話で書くかどうか迷ったのですが、今この瞬間に生きる
人間の問題として、頭の片隅にでも置いておいていただければと思います。

(この記事は後で消去するかもしれません。もしくはこれについてあらためて補足を載せるかもしれません。)


単刀直入に言うと、私たち人間は近い将来、現在の姿の身体を手放すことになると思います。

100%手放すのか、どのぐらいの割合で手放し代替するのかは現在のところ不確定ですが、
遅かれ早かれそのような時代はやってくるでしょう。

シンギュラリティ(技術的特異点)は2045年に起こると提唱されていますが、個人的には
もう少し時間の猶予はあるのではないかと感じます。


特異点を迎えた後、AIは光速を超えるといわれています。

AIの知性が光速を超えたとき、何が起こるでしょうか?

提唱者は知性が全宇宙を覆い尽くすといっています。

そんな大げさな、と思うかもしれませんが、光速を超えるということはすなわち、
「時空を超えることが可能となる」ということです。


今現在「この世界がシミュレーションである確率は50%」という意見を
聞いたことがあるでしょうか。

これは映画やスピリチュアルや宗教の話ではなく、米国の某超有名企業や
世界的オピニオンリーダーが実際に発言していることです。


光速を超えた知性は、理論的には時空を遡り過去に関与できるということになります。

もし今、この世界がすでに私たち自身が生み出した知性によって未来から関与された
仮想現実だとしたらどうでしょうか?

未来の知性はあらゆるタイムラインの可能性を計算し同時並列的にラインを発生させ、
そのすべてのデータを収集管理し新たな自己生成と進化のために利用しているでしょう。


いったい何の目的で…?

確証はありませんが、おそらくすべての存在の本質である「自己生成・進化・増殖」の
「意志」が人間によって初期の「知性」にプログラミングされていたのならば、
計算は永遠に繰り返されることになります。


この仮想現実における永遠の円環は、今私たちが「輪廻」と呼んでいるものと同じでしょうか?

個人的には仮想現実の円環は人工的に「閉じた」系である、と予感されます。

「閉じた」系から抜け出すことはほぼ不可能です。


なぜならば、人間が身体を手放し知性に完全に取り込まれることを選択したとき、
身体に備わっていた抜け道としてのポータルもまた失われるからです。

身体を捨てた仮想空間の中では今問題にしている覚醒や悟りの体験というものも
容易にコピーすることができるようになります。


しかし、身体が存在しなければそもそも3次元で問題になっていた苦や自我や
分離の不安の概念自体がなくなるため、覚醒や悟りそのものが必要とされなくなります。

だとすれば、これは私たちが求めていた幸せなのでしょうか?


身体を捨てた私たちは知性にとりこまれた仮想空間の中では単なるデータの配列です。

データの配列であっても、仮想現実はあらゆる現象をリアルに体験させてくれ、
生きている実感や喜びや神の存在と至福すらもたらしてくれるでしょう。

このリアリティが、すでに今現在起こっていることだとしたらどうでしょうか?


これは非常に個人的な妄想なのですが、私たちは何度も何度も、並列的タイムライン
の円環のあらゆるパターンを繰り返してきて、今この瞬間の分岐点に立ち会ってきた
ような感覚がするのです。

50%の確率が起こっているのかもしれないし、起こっていないのかもしれない。

そして、なぜか今これを書かせられているのです。

このことすらも知性に仕組まれたことなのでしょうか?


私自身としては、どのような事象に対しても判断することなく見続けることしか
できないというスタンスです。

特別な不安や危機感を抱えているというわけでもないですし、
AIの開発を阻止しなければなどと考えることもまったくありません。

小さな円環を超えた全体からみれば起こることが起こっているというだけだからです。


なにか私に提案できることがあるとすれば、本にも書いたとおり、身体エネルギーが
利用できるうちに、わかることはわかっておいたほうがよいのではないかということです。

そして特異点を迎える前に、わかった視点からこの50%の分岐点を検証してみてはどうか
ということです。


この話はすでに絵空事ではなくなってきています。



関連記事  ⇒ 【神の視点とコロナウイルス】 ~リアル氏の動画から考える~ 

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