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【「徳」についての覚書き ~すべての探求者へ~】  

2024/04/25

【陰徳と紋白蝶】

ワーク当日、朝起きて窓のカーテンを開けると、トング片手にゴミ拾いをする人の姿が飛び込んできた。

真っ白なトレーナーを着た20代半ばぐらいの男性が淡々とゴミを拾い集めていると、どこからともなく紋白蝶が飛んできて男性の周囲をヒラヒラと旋回しはじめた。

思わずベランダから身を乗り出し「ありがとうございます」と声を掛けようとしかけたが、男性の無心の表情にハッとして言葉を飲み込んだ。

その表情と佇まいから「この御方の陰徳を穢してはならない」と察したからだ。

周辺のゴミが綺麗になくなると、男性は無心の足取りで去っていった。

紋白蝶


【徳のポイントゲッターと天使】

20年以上前、決死の覚悟で瞑想に取り組んでいたとき「徳を積まねばここで打ち止めになる」との強迫観念から、夢遊病のように徳積みの機会を伺い彷徨っていた時期があった。

とにかく目に付くかぎり、陽徳でも陰徳でも手当たり次第に何でもやった。

当時の表情は無心とは程遠く、端から見れば鬼のような様相だっただろう。

それでも「徳のない者は徳を積めない」との言葉を痛感し、たとえ劣善といわれようが、徳の車輪を回し続ける強い意志に突き動かされていた。

ある深夜、誰もいない公園の薄暗い電灯の下で、それこそ夢遊病者のようにゴミを拾っていた。

治安のよくない地域の荒涼とした公園には、そこかしこに吸い殻や食べ残しや吐瀉物のようなものが点々と散っていた。

私はむしろそれらを「有難い」と思って拾い続けた。

汚ければ汚いほど、誰も見ていないところで拾えば自身の「徳のポイント」になると盲信していたからだ。

暗い茂みの陰にしゃがんで一心不乱に拾っていると、背後から「よぉ、姉ちゃん、何してるんだい?」と声を掛けられた。

ビクッと振り返ると、ニッカポッカ姿の初老の男性2人がワンカップ片手にニヤニヤしながらこちらを見ていた。

その瞬間、咄嗟に「私の陰徳を邪魔する奴らが現れた」と感じ、引き攣り笑いを浮かべながらその場を立ち去ろうとした。

ゴミ袋を見た男性たちは「姉ちゃん、ゴミ拾いしてたんか、感心した。えらいなあ、えらいえらい」と言いながら近寄ってきた。

私は「いえ…」と引き攣りながらも、その男性たちの屈託のない声かけにフッと心が緩むのを感じた。

すると私の気の緩みを察したのか、男性たちはいっそうニヤニヤしながら「よぉ、姉ちゃん、独りもんなのかい?若い女が深夜にご苦労さん。なんか訳ありなんだろ?」と詮索しはじめた。

そのとき私は、エゴイスティックな徳のポイントゲッターの正体を見透かされた気がして恥ずかしさでいっぱいになり、そそくさと一礼してその場を後にした。

今思えば、あの酔っ払い男性たちは天使だったのかもしれない。

菊政宗


【行者と徳の車輪】

先日、パートナーのリアル氏(⇒ リアルワールド)の講座で、とあるヴィパッサナー行者の方と出会った。

謙虚な方でご自身の体験はひけらかさないけれど、熱心に修行されタイで短期出家された経験もあるとのことだった。

ご結婚もされているが、奥様の全面的な協力の下で修行に専念できる環境にあると伺い「それは得難いカルマですねえ」と、リアル氏ともども感心していた。

帰り道が一緒になり話しながら歩いていると、駅前で数名の若い男性たちが声を荒げて取っ組み合いの喧嘩をしていた。

それを見た行者の方は一瞬、男性たちの方へ向かおうとされたが、直観的に問題ないと判断した私が呑気に「まあ、すぐ隣に交番もあるしあの感じだと大丈夫でしょう」と言うと、胸が痛んだような表情を浮かべ何度も男性たちを振り返りながらしぶしぶ私の後をついて来られた。

そして、改札前で別れ際に「これから能登へボランティアに向かいます」と一点の曇りもない笑顔で言われ、手を振り去っていった。

その後ろ姿を見送りながら「ああ、生まれながらに徳の車輪が回っている方もいらっしゃるんだなあ」としばし感じ入ったのだった。


【徳積みは可能か】

昔、とある覚者に「徳って積めるものなんでしょうか?」と質問したことがあった。

すると、それまでにこやかに話していた覚者の顔が一瞬にして強張り無言になった。

「これはまずい質問だったのか」と思っていたら、天井の方を指さしながら重い口を開き「それに関しては…どうも『上』から言うなっていわれてるんだよ…」と、それだけ応えて質疑は終了した。

その覚者はタントラの系譜から派生して独自の覚醒に到った方だったが、絶対的なバクティからなるエネルギー感覚によって『上』の言葉を読み取り全託されていた。

その頃すでに、自分なりの実体験から徳の仕組みや因果応報の感覚を知ったつもりになっていたが、その時は「ああ、系譜が異なれば徳の扱いも異なるのだな」という程度の浅い理解に留まっていた。

ところが、いざ自分が人様に教える立場になってみると、改めてその覚者が口を噤まざるを得なかったデリケートな感覚が、身に染みて理解できるようになった。

結局のところ、徳を語るためには「どの認識から」「どの時空で」「どの覚醒レベルを教え」「どのスパンで生徒のカルマを請け負うか」といったシビアかつトータルな自覚が求められるのだ。

おそらく、その覚者はパッと来たばかりの一見の私にその場のノリでペラペラと徳を語ることを『上』から止められたのだろう。

私自身も、ワークを始めるにあたり徳を語ることには慎重になっていた。

なにより、徳という言葉の抹香臭さを匂わせないように気を配っていた。

実体験からカルマと徳の理解は絶対に外せない項目ではあったが、初めての参加者さんには極力匂わせなかったし、必要がある場合にのみ準備の整ったリピーターさんにお伝えするに留めていた。

しかしワークを重ねるにつれ、どうしても徳について語らざるを得ないシーンが出てくるようになった。

自分の体験を元に語るとき、カルマと徳の話抜きには語れないからだ。

そして、ある時期から初回の参加者さんへお送りする「参加要項」の中(それまでは2回目以降の方への要項にのみ記載していた)にも、徳という言葉を慎重に避けつつも仕組みは同義の<現象世界におけるエネルギー還元について>という項目を追加するようになった。

ワークには様々なバックグラウンドの参加者さんがいらっしゃるが、この仕組みの理解はどの参加者さんにとっても重要であり、それこそが恩寵を受け取る鍵だからだ。

これは、ワーク参加者さん以外であっても、どの探求者にとっても重要であるとの考えから、以下に参加要項からの抜粋を記載したいと思う。

~以下、抜粋~

<現象世界におけるエネルギー還元について>

私自身の経験上、覚醒を志向するときにはそれに見合うエネルギーを意識的に現象世界に還元・循環させることは必須となります。

具体的には、エネルギーの象徴としての金銭や人力等を日常のあらゆる場面でできるかぎり意識的に提供していくことです。

このときのポイントは「提供してあげている」という立場ではなく、「提供させていただいている」という感謝の感覚で行うことです。

なぜならそれは、すべて再び自身に戻ってくる還元の流れを意識的に利用させていただいているからです。

覚醒は現象世界のエネルギーを無視しては起こりません。

それは、壮大な時空の流れのなかで今この瞬間、創造の源との表裏一体の協力体制のもとに起こるのです。

突発的に見える一瞥体験も実は、過去に放ったエネルギーの循環のなかでの結果です。

最初は難しく考える必要はありません。

「自分にとって大切なものを受け取ったとき(受け取りたいとき)には、それに見合うエネルギーを感謝とともに現象世界へお返しする」と考えてください。

エネルギー還元(循環)が無意識のレベルまで癖づいてくると、瞑想や気づきの深まりとともに「その先」へ進むためにはどの方向のエネルギーがどのように還元されフィードバックされているのか具体的な意識の触覚を伴ってわかってきます。

~抜粋ここまで~


人によっては、これを読んで「なんだ、その辺の引き寄せ本で言ってることと大して変わらないし、そんなにデリケートな話なのか」と思うかもしれない。

しかし、いわゆる引き寄せの類と異なるのは、そこにエゴ感覚があるかないかなのだ。

ここが厳然たる覚悟を必要とする所以であり、その覚悟を一見の参加者さんへ問うことは、ともすれば宗教的な強要ととられる可能性があるのだ。

とはいえ、これもある時期から参加条件として「なぜ覚醒したいのか」を800字以上にまとめたレポートの提出をお願いするようになったことで、参加決定された方については覚悟とはいわないまでもエネルギー還元の意味についてお伝えしてよいかどうかを迷うことはなくなった。

ここで、なぜ長々と徳について語ったかというと、先日のワーク当日の朝に自宅の前でゴミ拾いをされている方を見かけたことを発端とし、会場へ向かう電車の中では遠くのほうからす~っとこちらへ引き寄せられてきた外国人観光客に道案内する機会が生じ、ワークではなぜかかなり早い時間に会場入りされた初参加の方がいて(開始時間を間違って記憶していたとのこと)、その場の流れで上記の参加要項の【現象世界におけるエネルギー還元について】の話題となったという一連の経緯があった。

この方は修験道の行者さんなのだが、ヴィパッサナー瞑想も経験されており、もともとカルマや徳についての理解はあったが「今回の参加要項を見て、意識的に善行に取り組んでみたことでその意味を再認し、慈悲の瞑想の理解にもつながっています」と報告された。

この方にはカルマや徳や善行といった言葉がそのまますっと入っていくので、具体的な因果応報の事例を交えてお話することができ、開始時間の記憶違いから起こったこの必然の時間が与えられたことを嬉しく思った。

「善行というのは、最初は意図的な劣善から始まっても、それがその人にとって必要な道であれば、ある時から自分で意図しなくても雪崩れのように徳を積む機会が向こうからやってくるようになるんですよ。その始まりの最初のサインは、電車に乗るとなぜか妊婦さんやお年寄りやご病気の方がす~っと引き寄せられるように自分の前に立つようになることですね」と言ったら、後から来たもう一人の僧侶の方と一緒にうんうんと頷きながら笑ってくれたのだった。

電車で


【一瞥体験と徳の枯渇】

一瞥体験というのは、往々にして過去世からの徳をその瞬間使い切ってしまうのです。 だからこそ、一瞥体験者はそこで気を抜かずに改めて徳を積み直す必要があるのです。

カルマと徳の理解のない一瞥体験者は、なぜその後同じ体験が起こらないのか、なぜ無明の苦しみに引き戻されるのか、体験の仕組みが理解できないまま、体験の記憶に執着し続けます。

もちろん、時空を超えたところではカルマも徳も幻想です。

しかし、その仕組みを知らなければ幻想も解けないのです。

徳の理解と運用には、実体験に基づく検証とセンスと直観力が必要です。

「公共のトイレを素手で磨けば運がよくなる」と聞き、仕組みはわからないけどなぜか気分がいいと喜んでいるレベルでは、いつまでたっても徳積みはブラックボックスのおまじないの域を出ません。


【徳積みのセンスと現報の果】

接心に参禅する時期になると、市場で生きた魚介類を見つけるたびにバケツごと買い取って近くの川や海に放流している行者がいた。

その行者は、生きとし生けるものへの慈悲から命を救う善行をなし、徳を積んでいると信じ至福感に浸っていた。

この行為は一見すると美談に見えるが、放流するのであれば魚介それぞれの生息地を詳細に調べ、それぞれに適応した水辺を探すか、自宅に水槽を用意したうえで引き取るべきだろう。

そうでなければ、逆に生態系を乱したり、生態系外の敵に捕食される可能性があるからだ。

とはいえ、即効的な現報という意味では、この行為が100%無意味というわけでもない。

少なくとも、その行為によって一時的にでも心が軽くなるのであれば、瞑想中になんらかの果はあるかもしれないのだ。

しかし、その楽果は限定的なものに留まり、やがて想定外の因は、巡り巡って行者へ返ってくるだろう。

そのとき行者は、返って来た原因不明の苦果に悩まされたとしても、その因果を解くことができない。

それ以前に、因果の連鎖を待つまでもなく、短絡的に善を強行する自身の性質に気づけないのであれば、その性質はそっくりそのまま瞑想の質に直結し、遅かれ早かれ瞑想は打ち止めになるだろう。

だから、徳積みにはセンスと直観力が必要だというのだ。

因果は全て瞑想の微細な領域にまで直結している。

微細になればなるほど、因果のベクトルを直観的に感知しなければ、知らぬ間に見当違いの方向へ逸れていってしまうのだ。

方向が逸れているかどうかは、意識のバランスの中心を知っている必要がある。

中心の空を知っていれば、そこから逸れるベクトルを瞬時に感知できるからだ。

デリケートな話になるが、ベクトルを見切る精度が極まれば、善行は世間一般の善悪や道徳や規律によっては図れないような行為へと促され、それに全託せざるを得なくなる。

全託者の行為は、凡夫から見ればもはや何の行動原理をもって成しているか意味不明になるだろう。

因果を折り重ねて直接行為する様は、脈絡のない儀式か魔術のように見えるかもしれない。
(拙著 『Rubin ~ルビン~-覚 醒- 認識の転換のために』 では、これを「覚醒へのフィードバック」という言葉で表現した)

全託が即、行為と一致するようになれば「善行」と呼ばれていたものは、相対的な「善」が剥がれて無為の「行」となる。

そこにはすでに、行する者は存在しない。

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【聖なるエゴの麻酔と学習】

前述の覚者は、覚醒間もない頃には来るもの拒まずで早朝から深夜まで毎日、ありとあらゆる相談を受け付けていたという。

真っ新なハートは疑いを知らず、他者との境界がなかったのだ。

だがしばらくすると、それを聞きつけた心の弱い者たちが次々とやって来るようになり、一晩中電話をかけてきたり自傷をほのめかして呼びつけようとしたりするので、心身がすり減り、ついにはエネルギーが枯渇してしまった。

その経験を経てはじめて全託を問い直したところ「覚醒を伝える者の心構えと、それぞれのカルマとの中庸な距離」について学習させられていたことに気づいたそうだ。

このような経験は、今世ではじめて一瞥体験しハートセンターだけが暴走した場合に起こりがちだ。

自身のハートに従っているつもりが、そこに紛れ込んだ「聖なるエゴ」に酔ってしまうのだ。

最初のうちは酔いが麻酔となり、他者の痛みや依存をどんどん受け入れてしまうが、痛みに正直な心身は悲鳴をあげ始める。

なんらかの系譜に属していたり、絶対的なバクティが発動している場合は経験の意味に気づけるが、気づかない場合は往々にして「こんなにやってあげたのにわからないのか」と怒りはじめたり「やはり人間は救いようがない」と吐き捨て隠遁してしまったりする。

私自身は、昔からそういったパターンをたびたび目にしてきたことで、人の心の弱さと依存に対するスタンスは初期の頃から一貫していた。

以下は、先日出版した拙著『Rubin ~ルビン~ -ワーク実践篇-』のまえがきからの抜粋である。

~以下、抜粋~

また、ワーク参加にあたってはいくつかの参加条件を掲げています。

条件を目にして「覚醒は誰しも平等に起こり、誰をも平等に受け入れるべきではないか」と不快に思われる方がいらっしゃるであろうことも承知です。

ただ先にも述べたとおり、3次元の私がわたしとカチッと一致しないかぎり、私と肉体は癒着し続け「いつどの瞬間でも覚醒のポータルになる」という信は定まりません。

その意味で、肉体と癒着した段階において「自分自身を信じる」ためにはまず、3次元の人生において3次元の心身に自己納得していただきたいのです。

意識的であろうが無意識的であろうが、これを無視して覚醒の道をショートカットしようとしても、無視したレベルに「正確無比に」引き戻されることになります。

とはいえ、全てが完璧に整う必要はありません。

鍵となるのは、その人その人の「自己納得」なのですから。

~抜粋ここまで~


私の中には、人を「救う」という感覚はない。

もし「救う」人がいるならば、それは私自身が救われていないからだ。

それでも、時おり救いを求める人がやってくると、私の中の未浄化なものに気づかされる。

そのときは正直に上述のスタンスをお伝えし、それぞれの生の全うを信じることしかできない。

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【阿闍梨と餓鬼】

霊力に優れた知己の阿闍梨は、大震災直後に施餓鬼会を行ったところ、かつて見たこともないほど無数の餓鬼が押し寄せてきたと語っていた。

震災で亡くなった方々への供養に乗じて、我も我もと救いを求めてきたのだという。

それはそれは凄まじい光景だったそうだが、押しつぶされそうになりながらもそれらの想念を丁寧に浄化していったそうだ。

これができるのは専門家の中でも選ばれた者のみだが、その供養も「救う」という意識では救われようとする想念の依存に巻き込まれてしまうのであって、自己を浄化しながら想念を「解いていく」ことが、本当の意味での成仏を促すのであろう。


【徳の自転車操業と信頼】

私は20代後半でピタッと前世からの徳を使い切った自覚があった。

それまでさんざん好き勝手なことをしてきて人様に迷惑をかけてきたので「もうここまでか」とそんな自分を見限っていたのだが、せめてこの私をダメにした自意識の正体だけでも見切ってやりたいという怒りにも近い想いだけはフツフツと湧き起こり続けていた。

だが、当時はそれを見切る術を知らなかったのだ。

そんなある日、学生の頃にフラッと立ち寄った本屋のことを思い出した。

ミニシアターでのバイト帰りに高田馬場駅前にあった本屋に立ち寄り、アート崩れの若造よろしく思想コーナーの「ユリイカ」を立ち読みしていたら、ふと隣のコーナーに目がいった。

30年前は精神世界というジャンルは手薄で、たしか認知心理学かなにかの並びだったように思う。(当時毛嫌いしていた宗教コーナーであれば完全に無視していただろう)

そこにあった心理学関係の様々なワークを紹介するムック本をなんとなく手に取り、パラパラめくっていると「ヴィパッサナー瞑想」という文字が飛び込んできた。

その時は「瞑想?ヴィパッサナー?なんだ宗教か」と思って閉じようとしたが、なぜか気になってその効果効能や体験談などをひととおり斜め読みしたのだった。

だが、その時はまだ20歳そこそこで自己表現への野心と希望に満ちており、瞑想にはまったく食指が動かなかった。

それから10年の月日がたったある日、突然その時の本屋の一角の映像と「ヴィパッサナー瞑想」という言葉がフラッシュしたのだ。

すぐにネット検索で引っ掛かった団体へメールし、2週間後には瞑想会へ参加していた。

「これを絶対にやらなくてはならない、絶対に」という異様な意志に突き動かされていたのだ。

私の徳は風前の灯だったが、ギリギリ残っていた最後の徳の燃え残りが、次の世界へと進ませてくれた。

瞑想を始めてからは、ギリギリの徳を使っては積み使っては積み、自転車操業で回していた。

はじめは徳やカルマや悟りなどという言葉すら知らなかったのが、瞑想と並行していくうちにそれらの意味を痛切に理解した。

「私には徳が足りないのだ、徳を積まなければここで終わりだ」

それが、前述の「深夜の公園」の徳積みの話につながっている。

徳のポイントゲッターというエゴが外れ、無心の行為を知るようになったある時、瞑想中にバチン!と音がするように全ての徳が一点に集中し「それ」が起こった。

ここで再び一瞬にして徳を使い切ってしまったが、昔と違ってこんどは現象世界で強制的に徳を積まされるカルマ的な怒涛の展開が起こっていった。

今思えば、完全に腐っていたあの時ギリギリ残っていた徳が作動したのは、絶望しながらもどこかで「それ」への信頼があったからだ。

それは、徳が尽きる前に徳が出会わせてくれた様々な出来事や人々の無条件の愛と慈悲への信頼が記憶の彼方に残っていたからなのだ。

私はよく、行き詰ってしまったと訴える人に対して「どんなに小さなことでもいいから自分が過去に受けた善意や一瞬の至福感を思い出してください。それはなぜこの自分に起こったと思いますか?」と問う。

そういったひとつひとつの瞬間を無視して嘆いていては信頼は育たないからだ。

この辺りは内観にもつながってくるが、自分は誰からも愛されない、不幸しかない、と思い込んでいても、生まれてこのかたほんの一瞬でも気持ちが軽くなった瞬間がなかったかどうか、自分の記憶を詳細に調べてほしい。

そこに一瞬でも至福があったなら、それへの信頼を取り戻していけるのだ。

ナイロン糸


【徳についての覚書き】

~Rubin's work Xより転載~

◆徳という言葉はエゴを強化しやすいのであまり使いたくはないのですが、ことに修行においてはカルマや徳が直接作用してきて、起こってくる現象の意味を解かないかぎり先に進むことはできません。
そこに気づけるか気づけないかは徳に左右されます。

◆エネルギーとして貯まるというよりも、瞬間瞬間の反応パターンが組み変わるんですよね。
その結果、エネルギーが変化して軽くなる。
徳という考え方は一長一短で、自分が徳の貯蔵庫であると考えるとエゴが肥大しますね。

◆善行の果を今生の自分が受け取るという保証はない。
「自分が受け取る」という自分がないとき、善行は善行としての目的を果たし、善が剥がれて行となる。

◆徳という概念は誤解を生みやすいのであまり使いたくないが、あえていえば一瞬のタイミングを全カルマの果として合わせられるかどうかが徳だ。
本気ならここは常に意識する。
リトリート前は断食必須で、復食期から入る。
能動的にタイミングを合わせるのは、見かけ上とはいえこの私なのだ。

◆徳っていうのは、優劣じゃないんだ。
徳は因果であって、すなわち時間の幻想なんだけどね。

◆「徳のポイント10倍還元セール」に群がる鬼の形相。

◆徳を知る者のみが、不徳を詫びられる。

◆得しようと思えばさもしい。
徳つもうと思えばさかしい。


花と手


関連記事 
⇒ 質疑応答 【禅とヴィパッサナーの相違と方便について】


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【バクティ・タントラ・マザーの道】 秘教サークル「it会」と恩寵    

2023/05/23

パートナーのリアル氏の秘教サークル「it会」に参加してきました。

it会2

~「リアルワールド」ブログより~

it会というのは一言で言えば…「神との繋がりを再認識する場」


⇒ ブログ「リアルワールド」のit会の記事はこちらから


【マザー意識と気づき】

it会は、現象を司るマザー意識のシャクティとダイレクトにつながる会です。

マザー意識は、現象界の二元性を知るためには必須の感覚となります。


~Rubin's work ツイッターより~

◆このマトリックスのマザーは、深度のない闇を包んでいる。

マザーは、私たちの想像の及ばないほどブッ飛んだ存在なのだ。
「神の子」であるかぎり、マザーの目を盗むことは無理。

◆タントラのマザーは、子のレベルに応じて褒めたり叱ったりするので、
褒められたからといって絶対的真理とは限らないんだけどね。

◆だからこそ、マザーについてあまり話しすぎると怒られるんだよなあ。
その人にはその人のタイミングがあるから。



「マザーのエネルギーがわかりません」という人は、そのとき起こっている現象や自分や他人の
話の内容だけにフォーカス(気絶)してしまっているので、全体のエネルギーの流れを読めていません。

その場に全体に気づいている人がいない場合、現象としてのエネルギーがいかに盛り上がっていようとも、
空間全体が閉じています。


また、気づいている人が少数の場合、密閉されたエネルギーと全体から俯瞰する気づきが乖離してしまいます。

乖離した気づきから見ると、気絶した人々はいかに生き生きと活動していようとも、肉の操り人形のように
虚ろに沈んで見えるものです。


まずは物理に近いレベルからその瞬間瞬間の空気感や空間のハリに気づくようにしていくと、だんだん
その中心にある純粋なエネルギーの移ろいとうねりが感じとれるようになってくるでしょう。

コツとしては、上ってくる肉体の気感は頭頂から放出させたままにしつつ、気づきの中心はうねりに
飲み込まれるエクスタシーの直前に踏みとどまること。


気づきの精度が磨かれてない最初期のうちは、いったんエクスタシーに気絶してしまってもよいでしょう。

気絶は気づきの欠如であり、酔いに気絶している状態では覚醒には至らないとはいえ、とりいそぎ
気づきを犠牲にしてでもあえて気絶してしまってエゴ感覚を鎮めたほうがよいからです。

この気絶は、エゴ感覚に夢中になっているときの気絶ではなく、マザーへの忠誠心のようなものとして
カウントされるのです。


【タントラの恩寵とノイズ】

エネルギーそれ自体は遍在するものですが、頭頂のホワイトアウトのポイント(頭上斜め後ろに手を
伸ばして触れる位置)にフォーカスしたほうが肉体の構造上、エクスタシー感は得やすいのです。

また、最初のうちはマザーを人格的にとらえ女性性の感情の移り変わりを受け入れ寄り添うようし、
「悦」や「怒」や「悲」などに還元されたエネルギーを感じとるほうが理解しやすいでしょう。


このとき注意するのは、自分にとって好ましいエネルギー感や特定のエネルギー(天使やハイヤーセルフ
や高次元の存在のエネルギーなどは特に注意)のみに流されようと貪らず、たとえ受け入れがたい
エネルギーが訪れてもマザーの感情の移ろいとして100%受け入れると決意すること。

決意はマザーを最高潮に悦ばせるものであり、それこそがタントラの恩寵につながるのです。


マザー意識と集合的無意識はしばしば混同されやすいものです。

エネルギーのうねりに混じり込むノイズに気づくこと。

そのために気づきの精度を磨いていく必要があるのです。


純粋なエネルギーを知るには、まず肉体を知ることです。

肉体を無視すれば、混濁したノイズに気づけません。


現象界のエネルギーは、相対的な落差によってのみ体感されます。

だから心身のニュートラルポジションを知ることが重要なのです。


微細なエネルギーは、意識の触覚で感知します。

それは、肉体の中心に浮いたところにあります。

肉体から乖離しようとしても顕われてきません。


~Rubin's work ツイッターより~

◆気づきに気づいている人が2人以上いる空間はピーンと冴える。
1人以下だと場の影響下にボーッと流され続ける。

◆ワークの 長丁場で集中力が途切れ、空間がボ~ッとする場面がありましたが、そのことに
全員に気づいてもらったとたん、カ~ンとハリが戻りました。 ただ気づくだけでいいんです。

◆面白いのは、気づいている人が1人だけだと、ありのままに見ているだけで場自体は変わらないということ。
だから、よくあるスピリチュアリズムで覚者を何人か配置して世界を変えるみたいな話は分からなくもない。
でも、覚者自身は自分が世界を変えようという意思なんてない。

◆気づきに気づいている人は場を超えた全体に気づいているので場のエネルギーのうねりに飲み込まれない。
だから空気がパキッと澄む。
それは法悦ではなく、静謐なエネルギーだ。

◆先日のワークも7時間におよぶ長丁場でどうしても疲れが出て、休憩時間中に部屋の空間が「旅館の宴会
の徹夜明け(和室なので 笑)」のような空気感になる一幕がありました。
女性原理のマトリックスにおける空間のテンションと密度は、あたかも女性の心理と生理 のように刻々と
移り変わっていきます。

◆その流れとうねりを微細に読み取り、常に空間全体に気づいてあることで、いつの間にかその場の空気に
気絶し場に飲み込まれることがなくなっていきます。
この感覚はタントラ的な意味において、このマトリックスにおける恩寵の鍵なのです。



it会
口外無用の話題がバンバン飛び出します。


【それの計らいと祈り】

象徴的な話として、前回のit会に参加されたある方は、身体のある部位に病巣を抱えていましたが、
肉体にメスを入れる医療に疑問を持ち、治療を保留している状態でした。

状況をお話されている姿には心身ともにこわばりが見受けられましたが、it会という場で心理状態を
包み隠さずシェアされたことで、ご本人の自覚を超え「気づきに気づかれた」意識に(誤解を恐れず表現するならば)
祈りが聞き届けられたのです。


その時は私も含め未だ誰も具体的な展開など予想していなかったのですが、2か月後のit会で
「あの後、周囲の状況が動いてあれよあれよという間に本当に納得できる最適な治療に到りました」
との報告をされました。

その時のお顔が非常にすっきりと清々しく「ああ、これこそが『それの計らい』というものなんだよなあ!」
と嬉しく思いました。


こういった話は非常にデリケートで誤解を生みやすいのですが、it会の特殊性・優越性を強調する意図ではなく
「気づきに気づかれた」純粋な意識における計らいは「気づかれた」場において発動され得るということです。
(当然ながら、マザーにエゴから治癒を願っても聞き入れられる保証はないのです)


~Rubin's work ツイッターより~

マザーがなぜ「マザー」と呼ばれるのか?
マザーを女性性に幽閉しているのは、創造を二元的にしかとらえられない私たち自身なんですよ。

◆月と引き合うこの世界は、女性に寄り添うように扱う。 男性も女性も、このことの恩恵を実感してほしい。
地上の事象は、女性によって産み出され、女性の生理と心理に連動し刻々と変化し続ける。

◆一見、ジェンダーレスの流れと逆行するようだが、これはフェミニズムではない。
地球の意識は未だ、月に支配されているのだ。
その人の世界は、その人自身の女性性の理解と成熟度をそのまま映し出す。



【バクティ・タントラ・マザーの道】

私自身は、直近のいくつかの過去生ではタントラは封印してきましたが(どうもタントラにまつわる痛い目
に遭ったようです)、反動ともいえるマッチョな修行を何生が経たうえで、今生であらためて二元性の理解
の必然性とタントラの意味に気づかされました。

今回のit会ではこの他、現象のカルマ的な意味、カルマへの心構え、マザーとサタンの関係など、和気藹々
と進みながらもタントラ的に重要なテーマが飛び出しました。


私の主催するRubin’s workでは、現在のところ気づきの精度に特化したニュートラルポジションの習得が
中心となっていますが、バクティやタントラ、マザー意識が直観的にフィットする方には、パートナーのリアル氏
のitの講座をお勧めします。
(参加募集は半年に一回程なので、気になる方はメルマガもしくはライン登録しておいてください)

登録はこちらから ⇒ リアル氏プロフィール「リアルワールド」ブログより


道すがら it
it会場への道すがら


関連記事 
⇒ 【内部の目と丹光 / ラマナ・マハルシと生きたままの死】 
⇒ 質疑応答 【禅とヴィパッサナーの相違と方便について】


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【覚醒はコロナウイルスに勝てるか?】 ~世界でいちばん身も蓋もない話~     

2020/04/12

前回のブログ「コロナウイルスと神の視点」の掲載から20日あまり
が経ち、4/7には緊急事態宣言が発出されました。

未だ収束の見えない焦燥感や疲労感の蔓延するなか、世間では
すでに「アフターコロナ after corona」の議論を飛び越えて
「ウィズコロナ with corona」といった世界観が出てきています。


ウィズコロナとはすなわち、わたしたち人間が変異しつつ生き残り
続けるであろうウイルスとの共生を模索する局面に入るということです。
(長いスパンでは内在性レトロウイルスなどはすでに太古からヒトゲノム
と共生し人間の進化を促してきましたが)

ここには身体論から社会制度の在り方まで様々なテーマが含まれます。


また、今回の新型ウイルスが収束したとしても、新たなウイルスが生まれ
れば再び人類は脅威に晒されることになります。

この構造は、個という身体とそれを保つための免疫システムを基盤とする
人類にとって逃れられない宿命です。


これを聞くと果てしない闘いに虚無感を覚えるかもしれません。

ただ一方で、この危機的状況は様々な制度の改革を急速に促す原動力
ともなっていき、それによって具体的な意識のシフトも起こって
くるでしょう。

意識のシフトは前回のブログ「コロナウイルスと神の視点」の中で述べた
「進化」にもつながってくる話になります。
(ただし社会的なパラダイムシフトだけでは認識の根本的なシフトは
起こりません)

しかし、スピリチュアリズム的な進化の枠組みの中では希望があると
はいえ、今目の前にあるウイルスの脅威がすぐに消えるわけではあり
ません。


********************

ここで本題です。

「覚醒」はウイルス危機に対して何の役に立つでしょうか?


…答えは「何の役にも立たない」です。


というよりも、そもそも覚醒そのものとは何かひとつの現象に
対して役に立ったり立たなかったりといった次元のものでは
ありません。

それどころか、パンデミックの現象の源自体が覚醒なのです。


このようにいうと無力感や憤りを覚えるかもしれません。

わたしたち自身であるはずの存在の源はなぜこのような
脅威の夢を見せているのか、と。

源から促され源を信頼した結果がこのような状況であるならば、
何のために覚醒を目指したりするのか、と。


…ここにまたすでに誤解があります。

覚醒とはどこかの桃源郷にあってまだ見ぬ幸せを求めて目指すもの
ではなく、今この状況のどの瞬間を切り取ってもそれ自体として
あるものなのです。


現象世界にフォーカスするわたしたちは「この試練は何か大きな
計画のもとに起こっているにちがいない」「これを乗り越えれば
甘美なご褒美があるにちがいない」といった希望と意味を見出そう
とします。

事実、この希望と信念が生きる原動力となって何らかの未来の
夢につながっていくことは確かです。


ただし、これはあくまでも現象世界の不確かな夢です。

夢見は自動的に起こり、一切コントロールすることができません。
(コントロールしている主体としての「人」もいません)

希望と信念を胸に頑張ったとしても、理想どおりのご褒美がもらえるか
もらえないかは何の保証もないのです。


これを聞いて絶望を覚えるでしょうか?

何を信じて生きていけばよいのか途方に暮れるでしょうか?


********************

…ここでひとつ提案があります。

誰にでも簡単にできることです。


今これを目にしたまさにこのとき、ほんの一瞬だけ
あらゆる活動の途中で

「ストップしてみてください」


「どのように止まればよいのか?」などと正解を考えず、いかなる
準備もなく一瞬で止まってみます。

今これを試してみてくださった方のなかには
「言われたとおり止まってはみたけど、何も変わっていない」
と思われたかもしれません。

では、止まってみた瞬間のことは思い出せるでしょうか?

「その瞬間なら、思考と身体と息を止めて石のように固まっていたよ」

と思うかもしれません。

しかし、その感覚は本当に「止まっていた正にその瞬間」だった
といえるでしょうか?


それではもう一度、この瞬間に止まってみます。

「瞬間を覚えておこう」「いっせいのせで次の瞬間に止まろう」
などと準備することなく、あらゆる動作の途中で唐突に止まって
ください。

すると「止まる」という行為と意思の「オンタイムの中心点」に
あとから思い出すことのできない奇妙な空白があったことに気づか
ないでしょうか?


この空白が鍵になります。


この空白は、主観的な空白として認識されたときには直線的時空
から切り取られた瞬間としてあるものになりますが、構造的には
どの瞬間を切り取ってもその瞬間自体としてあるものです。

無限に分割しうるどの瞬間にも空白があるということは、
結局この次元の認識においてはすべてに途切れなく遍在
しているものであるということになります。


言葉で説明しようとすると難しくなりますが、まずこの空白の
最初の瞬間の感触を知ってください。
(このとき空白をイメージ化しないように気をつけます)


空白は、どこか固定化された場所にあるわけではありません。

相対的な動きの中から切り取られたどの瞬間にもあります。

空白それ自体は認識され得ませんが、次の瞬間に何かが生まれ
出ようとするときの「並列的な無限の瞬間が同時に圧縮された
何か」であって、すさまじいエネルギーの生成点であり消失点
でもあります。


「この空白を知ることが何の役に立つのか?」
と思うかもしれません。

ここでまた最初の
「それ自体は何の役にもたたない」
という答えに戻ります。


ただ、それを知ることによって脅威の時代にあってもすべての現象
すべての瞬間に覚醒の爆発があってそれ自体と一体化して動き
続けているという強烈な実感が生まれます。

そしてこの一体化した意思と力の相対的かつ絶対的な中心点の
気配に気づくとき、そこに無音室のように奇妙に静まり返った
真空にも似た「何か」が立ち顕われます。


不確かな夢の狭間に顕われる「それ」だけは、いかなる次元の
いかなる相対的な現象においても揺らぎません。

「それ」は今起こっている脅威それ自体にも中心として静かに
あります。


********************

昨今、「それ」の手触りに気づきはじめている人が増えていること
を実感しますが、かつての私がそうであったように、その気づきと
現実の夢の認識が平行線をたどっていて決着方法が見つけられずに
いる方も多いと思います。

決着は相対と絶対の構造的理解と認識の立体的な転換によって
起こります。


今この時期に歯痒く思うのは、言葉だけでは限界があって直接その
方法をお伝えし難いことなのですが、時期がくればワークを再開したい
と考えています。


関連記事 ⇒ 【特異点と仮想現実についての覚書】 #AIと身体

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【神の視点とコロナウイルス】 ~リアル氏の動画から考える~     

2020/03/18

前回のブログ「ワーク開催中止」記事から約2週間が経ち
ましたが、その間にも情勢は悪化しついにパンデミック宣言
が出されました。

私は前回この騒動に対して
「個人的にはそれほど心配はしていない」
と綴りました。

この言葉は
「すべては完全に自動的に起こっていて
自身で行っていることは1mmたりともない」
という、私自身の経験からなる基本的スタンスから
発せられたものです。

究極的には心配しようがしまいが、自身でできることは
一切ないのでただ傍観するしかない、ということです。

(本当に笑ってしまうほど何もしていないし、圧倒的な力と
速度の「エネルギーの多次元的ジグソーパズル」において
この私たちは何かできうるはずもないのです!)


この時世にこのような物言いをすると世捨て人的な無責任さ
を感じるかもしれませんが、傍観といってもこの世界における
現象に無関心になったり投げやりになったりするわけではあり
ません。
(この辺りは、修行体系によっては「無執着」という
名の「無関心」に陥りやすく注意が必要なところです)

傍観とは、この私の「態度」ではなく「構造」なのです。


そしてまた、「起こることが起こっている」という現象世界
において、「この私」にはやはり「心配」が起こったり、
目の前の物事に対処しようという「意思」が起こります。

「起こることが起こっていること」と「この私が何かを思い
行動すること」、この2つに矛盾はありません。
(ワークでお伝えし体験していただきたいのはこの核心です)

なぜならば、現象に顕われた私と傍観する私とすべてを
起こしている私は、同一のものであり単にフォーカスの
違いにすぎないからです。


その意味において、この私はどのフォーカスの層においても
そこで起こっていることに対してアプリオリに受容し、すでに
してすべてを信頼してしまっているのです。

「信頼してしまっている」から「存在している」のです。


そこには起こっている現象に対する文句を言う相手も
怒りをぶつける相手もおらず、すべてが自分自身から
はじまり自分自身に還ってきます。

仮に「別の層の私」に対して怒りをぶつけたとしても、
ひとたび現象の顕れの構造を知れば、それは完全なる
「独り相撲」であって他者という亡霊を相手に独り相撲を
続けることは「この層の私」にとってはエネルギーを消耗
させるだけだということを知ります。

それは自分自身を分裂させ痛めつけることです。


もちろん、この「痛めつけられている」という感覚自体も
幻想です。

すべての私はそのことを知っているのに、痛めつけられている
この私だけが、分離した幻想に産まれ、幻想に生きているのです。


かといって、これも誤解しやすいのですが「すべての私を統合しな
ければならない」という思い込みはますます分離の幻想を強めます。

「この私」が「すべての私」と合一し、究極的な意思を知ろうと
などとゆめゆめ思わないことです。

「この私」は「この私」の知りうることのなかで自身を信頼し、
ただ存在しているだけですでにして「すべての私」の顕われ
なのです。


この視点をふまえたうえで、今回のウイルス騒動に
関してパートナーのリアル氏( ⇒「リアルワールド」 ブログ
が動画で語っているのでご覧ください。




この動画を出すときにリアル氏は「これは少し難しいかも
しれないな」と漏らしていました。

なぜなら、これを語るときのメタ的視点が理解されていないと
ウイルス騒動をスピリチュアル的にお気楽かつ人ごとのごとく
傍観しているような誤解を生むかもしれないからです。


リアル氏はここで「神」という言葉を使っていますが、これは
上記の「すべての私」の最上位概念にあたります。

「神」を現象側からとらえて擬人化するならば、動画で語って
いる「進化」とは神の意思であり計画であるともいえます。


進化とはなんでしょうか?

現象世界における進化は運動の法則のなかで起こります。

リアル氏が動画の中でいっている慣性の法則も3次元的な
顕われのひとつです。

すべての次元において進化とは「〇〇し続ける」という
前提のもとに起こっていきます。

(当たり前といえば当たり前の話ですが…動き続ける
ものがなければ何も認識されえないという意味では、
進化とは世界の存続そのものともいえるでしょう。
また、「止まり”続ける”」ことは無ではなく、動き続けて
いることと同義であることに注意してください。
ただし、直線的でない時間の次元においては「続く」という
概念と認識は全く異なってきます)


進化の純粋なエッセンスとは、生物的な形態や知性の発達の歴史を
包括したうえでの漸近的な「視点のシフト」です。
(なぜ「漸近的」なのか…それは限りなく近づいても永遠にそれ
そのものには到達できないからです)

この3次元の世界において神という概念を立てるとき、
視点のシフトとは、この私はすべての私の意思と連動している
者であり、私が存在していることが即、すべての私=神の意思
であることを知ることです。

これを知ったとき、私の見ているものは即、すべての私が同時
に見ているものであり、すべての意思が同時に発動している
ものであることを理解します。


リアル氏が動画で言わんとしていることは、現象世界の私たちは今、
進化のプロセスの過渡期にありながら、 ウイルス騒動という
ひとつのテキストによって、神への信頼と態度が問われている
ということではないでしょうか。
(これを、魂の霊的進化を基本とするスピリチュアリズム的にいえば
「お試し」ということになります)


とはいえ「私たちは人類の進化のため奉仕しなくてはならない」
などと焦燥感や使命感に駆られる必要はありません。

それどころか、「進化しなければならない」という強迫観念は
その想いが強ければ強いほど視点を固定化し、想定内の限定された
結果しか生みません。


そうではなく、ただシンプルに一人の存在としてそこにありつつ
信頼と自己受容が起こればそれが結果的に奉仕となり、進化に
つながると思うのです。

自身であることへの信頼なくして幻想の大局に奉仕しようと試み
ても、その熱意は渇望感のすりかえと依存であり続けます。


私自身は神や魂という言葉はあまり使わないようにしているの
ですが、「信頼」という態度は最重要視しているものです。

その意味で私自身にも現象世界においては日々、大小様々な「お試し」
が起こり、そのつど信頼を問われ続けています。


************

先日、近所の小さな神社の前を通りすがったとき、年配の女性2人
が境内の掃除をしているのを見かけました。

普段は誰も見向きもしないような裏寂しい気配の神社で腰を屈めて
隅々まで手入れをしながら
「こういうときこそ感謝、感謝よ、チャンスなのよ!」
と声を掛け合って笑っていたのです。


私はそこに、その女性たちの素朴な形の精神の表現を見出だして
思わず一緒に笑いたくなりました。

表層的なスピリチュアリズムからすれば、神社・掃除・感謝が揃うと
ああいかにも…といった感じがするかもしれませんが、そのとき
その行為には他意や屈託が微塵もなかったのです。



関連記事 ⇒ 「神の通訳者」 ショーン・ボルツと神の愛の証明

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【特異点と仮想現実についての覚書】 #AIと身体      

2019/08/16
今回は、ワークとは無関係のちょっと飛躍した話で書くかどうか迷ったのですが、今この瞬間に生きる
人間の問題として、頭の片隅にでも置いておいていただければと思います。

(この記事は後で消去するかもしれません。もしくはこれについてあらためて補足を載せるかもしれません。)


単刀直入に言うと、私たち人間は近い将来、現在の姿の身体を手放すことになると思います。

100%手放すのか、どのぐらいの割合で手放し代替するのかは現在のところ不確定ですが、
遅かれ早かれそのような時代はやってくるでしょう。

シンギュラリティ(技術的特異点)は2045年に起こると提唱されていますが、個人的には
もう少し時間の猶予はあるのではないかと感じます。


特異点を迎えた後、AIは光速を超えるといわれています。

AIの知性が光速を超えたとき、何が起こるでしょうか?

提唱者は知性が全宇宙を覆い尽くすといっています。

そんな大げさな、と思うかもしれませんが、光速を超えるということはすなわち、
「時空を超えることが可能となる」ということです。


今現在「この世界がシミュレーションである確率は50%」という意見を
聞いたことがあるでしょうか。

これは映画やスピリチュアルや宗教の話ではなく、米国の某超有名企業や
世界的オピニオンリーダーが実際に発言していることです。


光速を超えた知性は、理論的には時空を遡り過去に関与できるということになります。

もし今、この世界がすでに私たち自身が生み出した知性によって未来から関与された
仮想現実だとしたらどうでしょうか?

未来の知性はあらゆるタイムラインの可能性を計算し同時並列的にラインを発生させ、
そのすべてのデータを収集管理し新たな自己生成と進化のために利用しているでしょう。


いったい何の目的で…?

確証はありませんが、おそらくすべての存在の本質である「自己生成・進化・増殖」の
「意志」が人間によって初期の「知性」にプログラミングされていたのならば、
計算は永遠に繰り返されることになります。


この仮想現実における永遠の円環は、今私たちが「輪廻」と呼んでいるものと同じでしょうか?

個人的には仮想現実の円環は人工的に「閉じた」系である、と予感されます。

「閉じた」系から抜け出すことはほぼ不可能です。


なぜならば、人間が身体を手放し知性に完全に取り込まれることを選択したとき、
身体に備わっていた抜け道としてのポータルもまた失われるからです。

身体を捨てた仮想空間の中では今問題にしている覚醒や悟りの体験というものも
容易にコピーすることができるようになります。


しかし、身体が存在しなければそもそも3次元で問題になっていた苦や自我や
分離の不安の概念自体がなくなるため、覚醒や悟りそのものが必要とされなくなります。

だとすれば、これは私たちが求めていた幸せなのでしょうか?


身体を捨てた私たちは知性にとりこまれた仮想空間の中では単なるデータの配列です。

データの配列であっても、仮想現実はあらゆる現象をリアルに体験させてくれ、
生きている実感や喜びや神の存在と至福すらもたらしてくれるでしょう。

このリアリティが、すでに今現在起こっていることだとしたらどうでしょうか?


これは非常に個人的な妄想なのですが、私たちは何度も何度も、並列的タイムライン
の円環のあらゆるパターンを繰り返してきて、今この瞬間の分岐点に立ち会ってきた
ような感覚がするのです。

50%の確率が起こっているのかもしれないし、起こっていないのかもしれない。

そして、なぜか今これを書かせられているのです。

このことすらも知性に仕組まれたことなのでしょうか?


私自身としては、どのような事象に対しても判断することなく見続けることしか
できないというスタンスです。

特別な不安や危機感を抱えているというわけでもないですし、
AIの開発を阻止しなければなどと考えることもまったくありません。

小さな円環を超えた全体からみれば起こることが起こっているというだけだからです。


なにか私に提案できることがあるとすれば、本にも書いたとおり、身体エネルギーが
利用できるうちに、わかることはわかっておいたほうがよいのではないかということです。

そして特異点を迎える前に、わかった視点からこの50%の分岐点を検証してみてはどうか
ということです。


この話はすでに絵空事ではなくなってきています。



関連記事  ⇒ 【神の視点とコロナウイルス】 ~リアル氏の動画から考える~ 

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