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【覚醒からのつぶやき 5】              

2020/10/02

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。


サンスベリア

**************

◆覚醒は、どの次元にも触れつつ、どの次元にも属さない。  

◆内と外の定義が、終わりのない哲学を生む。
覚醒は哲学ではない。  

◆終わらせようという意図が、始まりの種となる。
この直列的思考を脱しよう。  

◆完成の途上で、宙ぶらりんのまま悟ってしまおう。
それしか、ない。  

◆義理がたく几帳面な人ほど、後片付けしにここに戻ってきてしまう。
そのラスボスが弥勒だ。  

◆とっ散らかったことに後ろ髪引かれない人はサクっと飛んでいく。  

◆そう考えたら、ここに残ってしまうわたしたちって愛すべき存在じゃないですか?  

◆いかなる知識をもっても心のざわつきが消えないなら、チャンスだ。  

◆生きていても死んでいても罰する者も罰せられる者もいない。
罪悪感も正義感も、ただ自らの恐れが生み出す幻想だ。
それらは他者への恐れではなく、逆に、たったひとりで自立してある現実を直視
できない恐れからくる。
他者の目を設定しなければ存在できないと思い込んでいるのだ。 

◆アダムとイヴが人間になるには、もう一人の視線が必要だった。
それが蛇の狙いだった。
しかし、この物語自体も、恐れが生み出した幻想だ。
物語を存在の根拠にすれば、恐れが恐れを支配し続ける。  

◆頭蓋骨という独房に閉じ込められた無数の視線が互いの脱走を監視しあう世界は、
異常というほかない。  

◆視線の分化自体は問題なかった。
多様性においてむしろメリットのほうが多いはずだった。
自分自身の隅々まで探索できて楽しかった。
しかし、いつしか源を忘れてしまって、楽しかった分化が分離の苦しみにすり替わってしまった。  

◆分離の苦しみすら忘れた不感症の人間は、ただの肉の塊だ。
苦しみを感じられるのならば、救いがある。  

◆苦しみだけを利己的に取り除こうとすれば、幻想の快楽と引き換えに、
永遠に閉じた輪の中のエネルギー源として飼われる存在となる。
それが今、現実となりつつある。
苦しみを感じられるうちはまだ間に合う。  

◆西欧人がアジア人の見分けがつかないように、宇宙人が地球人を見たら、
姿形も言葉も思考も全員同じで見分けがつかないだろう。
見分けのつかない違いで争っていることに笑い出すか、一片の興味すら持たないにちがいない。  

◆「苦であるこの世」も幻想です。
だから、苦の外に脱出するわけではないのです。

◆瞑想ですべてがバラバラに崩壊する現場とすべてがバラバラに発生する
現場を見極めても、わずかに離れた位置に展開していれば観察者が残っている。
観察者の位置がわずかに「引いて」残っているからこそ、正気が保てるギリギリの
ところで無常を悟るわけだが、この地点はまだ半立体的な覚醒だ。  

◆ここでいったん認識の癒着を平面からバリバリと引きはがしてからもう一度現象
に戻って同じことを立体で悟る。
観察者が現象の中心と一致して消えたとき、崩壊する自己も発生する自己もなくなって
気づきの分離が完全に落ちる。
ここにおいて、起こることが起こっているということに真の意味で触れる。 

◆意識の立体感覚は自身の内部で具体的につくりたい。
奥行きは自身の中に作りたいのだ。
そのために肉体の目から内部の目へのシフトが必要なのだ。
そうすれば、目の前の空間に多次元立体モデルを創らなくても、目に映ったものが即、
多次元の回転の動的な影の断片にすぎないことがわかる。  

◆立体は、上位次元の動的な影である。
止まって見えるものも、高速に回転しているものから切り取られた立体的な影だ。  

◆地球という球体もまた、上位次元で全方向に同時に回転する、無限に重なった軌跡
の動的な影である。
(上位次元では全方向=360°ではないので3次元の単純な軸の回転と同じではない)  

◆動的な影である球体はひとつではなく「見かけ上」上位次元の回転とともに
無数に分岐する。(上位次元では実際は分岐していない)
この分岐を、3次元ではパラレルワールドと呼んでいる。
上位次元の軸は平面、さらに上位では立体なので、3次元からみれば角度
によって影は均一ではなく伸び縮みする。  

◆3次元の現象が顕われては消えていくように見えるのは、上位次元の
伸び縮みする動的な影を瞬間瞬間、断続的に切り取って直列に並べているからである。  

◆3次元の瞑想においては、古典的な洞窟のアナロジーの「回転しない影」を
見切るところからはじめる。
まずは肉体の目と癒着した1対1に限定された認識を引きはがす必要があるからだ。
平面の影の極限を見切るとはじめて、立体の影の手触りが浮き上がってくる。  

◆平面の影はスクリーンに映るが、立体の影は360°のVR空間に映る。
ここから、対象としての現象の気づきではなく、現象それ自体からの気づきがはじまる。
ただし、影が影であることは、どの次元においても変わらない。
だから、どの次元からも覚醒に触れられるし、すべての次元を知る必要もない。  

◆3次元上で組み立てられた多次元立体モデルは、上位次元の回転する軌跡から
均一な時間差と角度で頂点と交点を抽出して辺と辺でつなぎ合わせたものだ。
3次元上に組み立てられた立体は、いかに多層構造であっても可視化できる時点で
3次元の視点を固定する。  

◆動的な影の本体を直観できなければ、切り取られた影の立体だけを見て、
回転のエネルギーを未知なる力と崇めるレベルで認識が気絶する。  

◆「今」とは衝撃である。今、今、今、の吸いついてくる炸裂のインパクトが強烈
すぎて前後は勝手に切れてしまうのだ。
時間がどうとか空間がどうとか自分がどうとか考えている余地なんてない。
今以外が入り込む隙間がないとしか言いようがない。  

◆それを体験すると、時間というのは「今」の物理的衝撃から肉体を守るために
引き伸ばされ薄められたもの、という感覚が出てくる。
肉体の波動はこの次元にしか耐えられない。  

◆肉体は「今」のマグマから冷え固まって遅れて出てきたもの、というのが率直な印象だ。  

◆肉体にとっての「今」そのものは寛ぎではなくむしろ痛みに近い。
痛みがあると苦痛が意識を占有するように、今の衝撃が意識のすべてを占有する。
今の痛みはエクスタシーの中心で耐えきれず死にたいと願うようなエネルギーなのだ。  

◆これもシステムとしては途上にすぎず、おそらく、この原始的な「今」の感触と肉体を
同期させて使うエソテリックな方法もあるだろうが、あまりそこには興味がない。  

◆子供の頃に夢中になったオモチャを見ると、懐かしさと温かさに心が解けこそすれ、
今それを取り上げられても泣き叫んだりはしない。
現象世界における無執着とはそのような感覚だ。
家族も、人も、モノも、国も、世界も、自分自身も、そのように見るようになる。  

◆股関節から下が足だと思わず、腸腰筋の一番上から足だと思って使うと
動きの質があがるように、眼球を目だと思わず、松果体の裏からが目で眼球は
変換レンズだと思って世界を見よう。  

◆「歩く」ことは肉体の足から起こっているわけではない。
足は結果として動きだすのであって、歩きの最初の最初をどこまでもたどっていくと、
最初の意図の発動に出会う。
すべての動きの意図がどこから生まれてくるのか、本気で見る決意をすれば、
一瞬にして源にたどりつく。  

◆承認欲求を隠している人ほど「覚醒して人々を救う」という願いを掲げて修行に励む。
それ自体は良くも悪くもないが、限定された願いは限定された結果しか生まない。
覚醒した結果、どのように生きるかは一切限定されていない。
表に顕われる覚者はそのようにプログラムされた一部の人にすぎない。  

◆皮肉なことに「救いたい」という想いが「救ってもらいたい」人を創る。  

◆「答えを知りたい」と渇望するが、答えはその、喉から出ている手の中にもある。
 
◆「死ぬまでに悟りたい」という想いが、有限の存在と時間の限定を創る。

◆病巣の痛痒さを掻きむしり一瞬の快楽を得る人間と、完治させることのない薬を
売り続ける人間。
どちらも報酬系の回路の犠牲者だ。
痛みを快楽で麻痺させるのではなく、正常な痛みを取り戻すことからはじめなくてはならない。  

◆あと何回生まれ変わるかを気にしているうちは、生まれ変わり続ける。
なぜそのことがそんなに気になるのだろうか。  

◆わたしたちの頭の上は、上でも下でもない。
頭が足だと思って宇宙にグラウンディングしてみよう。  

◆地球にくっついているからといって、まっすぐ立っていると勘違いしないように。
わたしたちは今このときも、ものすごい勢いで全方向に吹っ飛んでいっている。
でもこのことは、地球にまっすぐ立ってみないとわからない。  

◆果てしない螺旋構造を縦に昇っていこうとするから気が遠くなるのであって、
横の隙間からちょっと飛び出して蚊取り線香みたいにぺちゃんこにして
渦の中心に消えちゃえばいいんですよ。  

◆頭蓋骨の外を見るということは、私の内に映ったものを反転させて2つの穴から
「のぞき込んでいる」。
のぞき込んだ景色の中に、私は映っていない。
もちろん、エルンスト・マッハの絵のように身体の一部は視界に入るだろうが、
のぞいている私自身は反転せずに常にその場に消えていることに気づこう。  

◆映っているものは内と外が反転するが、気づきは反転しない。
気づきとともに見ている私自身は、常にその場に消えている。
(ここでは世界が先にあるのかないのかという話は置いておく。ただ、映っている事実だけを見る。)  

◆外側に見えている世界は私の内でみたもの、すなわち私の内側そのものだ。
手を前に伸ばせば、私が私の内に触れる。
世界のすべてのものは、私自身に触れるものとしてある。
だが、肉体の目の限定をはずせば、いっさいの距離がなくなって世界は直接わたしになる。  

◆手を前に出すとき、同時に、手がむこうから私に侵入してくる。  

◆股関節が折りたたまれると、膝が私に迫ってくる。  

◆世界は手品みたいに驚きに満ちている。頭で解明してしまったら、もったいない。  

◆目が前面に2つ並んでるって、なんの冗談かと思う。
なにか悪いことしてここに入ったのかと、罪の意識を持っても仕方ない。  

◆心身の構造には不条理な仕組みが多々あるが、進化というものがあると
仮定すると、突貫工事で無理やりいろんな機能をひとつの入れ物に詰め込んだ結果だろう。
例えば、目の盲点は眼球の配置の都合で残ってしまったし、直立歩行を優先したために
腰に負担がかかる構造になったりした。  

◆目は直立の獲得とともに前面に移動してきたが、これなどは意図的に視界の死角
をつくって別の機能を発達させようという何等かの意志が見られる。
その意味では、進化は意思であるといえる。
これを神の意志と呼んでもいいが、デザインはわりと行き当たりばったりのところがあるという印象。  

◆腸って長すぎるし、あまりにも狭いところに詰め込まれすぎてて笑える。
消化と吸収のためにひとつの器官がここまで長い必要があるのが不思議だし、そもそも
固形物を食べること自体が不条理と感じる。
食べなければ、生体のデザインがこの形である必要はなくなるが、
そうなったらなったで何を残す?  

◆脳なんてパーツごとに時代の古い順に積み重なってて、このせいで複雑怪奇で
矛盾だらけの悩みが出てくる。
あとから取ってつけた感がすごい。
あまり愚痴ってるとデザイン担当に怒られそうなのでこのへんでやめておこう。  

◆3Dにおいて人間の形をしているものは、覚醒の場においては人間の形を成していない。
バラバラの粒子の萌芽が可能性として待機している。

◆3Dの人間の創造というアイディアが生まれたとき、自我の芽生えと意識の進化を
見越して「最適なパーツ」が様々な次元から選択・采配された。  

◆そこにおいては、例えば、人間の手と内臓と目と脳の素材はバラバラの次元から
寄せ集められ、「人間」という形に都合のいいようにつなぎあわせて一つの個体に
仕上げられ、それが現象世界の共同幻想として「通用」するようになっている。  

◆それらのパーツは、3D世界に入り込んだときにだけ、ホログラムで多方向からの
光がひとつの像として浮かび上がるように、一続きの皮膚に覆われた一個の個体
として認識される。
逆にいえば、そのように認識されるように、3Dの人間の意識はつくられた。

◆胃にモノを入れることは、蝙蝠傘にミシンを食べさせるぐらい、ある意味シュールな行為なのだ。
でも、消化は身体のみならず意識の顕われでもあるので単純に切り捨てればいいというものでもない。
「飲み込みが早い」「知識を吸収する」などの感覚は身体と連動している。
人生の消化不良もしかり。  

◆これまでは地球の重力は人間全員、平等だったが、覚醒の局所から反重力部分だけを
利己的に利用しようという動きが出てきた。
近い将来「重力格差」がやってくる。
二極化という概念は好まないがあるとすればここだ。
これは陰謀論などではない。
UFOすご〜い!とか呑気に喜んでる私達への覚書き。  

◆三次元の覚醒は反重力感覚を「含む」から話がややこしい。
これはトンデモ話ではなく、わたしたちの心身と思考すべてが重力に支配されてきた
ことが真に見切られれば、自然に理解されること。    

◆地球が平らだと言い張る人たちを笑うけれど、地球がひとつの球体だと思い込んでる
私たちも、上の人に笑われているのです。  

◆わたしたちが神と呼んでいる存在はわたしたちの限定された認識の投影にすぎない。
それがいかに超越的に感じられたとしても。  

◆わたしたちの意識が、3次元を3次元として縛り続けてきた。
意識の「引っかかり」が、次元の法則を限定しているのだ。  

◆もともとは、意識と気づきは同義だったが、メタ認知によって意識と気づきと思考と感情を
ごちゃ混ぜにしているうちに、自己がバラバラになってしまった。
まずはその混乱を解きほぐそう。  

◆いずれ認識の区分は一元、二元、非二元、の3つだけでは間に合わなくなる。
まったく理解不能な認知形態がごまんとある。
だから、単純なうちにわかってしまおう。  

◆空は反重力を含むが、空=反重力ではない。
「反」重力は重力ありきの二元だが、空は一元でも二元でも非二元でもない。
3次元においては、どこにもつかまらない意識は原理的に反重力感覚に近いものがあって、
自動化された瞑想ではこの波のあいだに乗っていく。
UFOもこうやって操縦するのかも。  

◆よく、クンダリーニのエネルギーはどこを通るんですかと聞かれるけど、
背骨に近いけど肉体じゃなくて、どこにもくっついていないところを重力に逆らい
ゴゴゴゴゴ!っと怒涛の衝撃で昇る。  

◆そのエネルギーは本来、すべてに満ちているが、あらゆる引力から自由になった
空の道しか通れない。
逆にいえば、空いた道を見つけたら向こうから待ってました!とばかりに通り抜けてくる。  

◆「あなた」と呼びかけるのは、認識の感覚にそぐわないので苦手だ。
そう呼んだとたん、舞台と客席が分かれて演劇が始まる。  

◆肉体の意識で開けた道には、肉体に近いエネルギーしか通れない。
じゃあ、意識だけでどうやって道を開けるんですかと言うけれど、物体と意識に境界がない
ことを知れば、手で物体のゴミを取り除くのと同じように、意識で思念のゴミを取り除くだけでいい。  

◆物質の世界は意識の世界への直接的なポータルなのだ。
だから目の前の物質をつぶさに観察しよう。  

◆にわかには信じられないと思うけど、私が立ったその時その下に、重力と地球が生まれ、
全体が回転し始めるのです。
本当に信じがたいけれども。  


**************
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【覚醒からのつぶやき 4】       

2020/10/01

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。


植物

*************

◆存在の本体は莫大なエネルギーのアイドリング状態だ。
肉体が固形物だと信じれば、エネルギーは個体分しか通り抜けられない。
無理やり通そうとすれば木端微塵に吹き飛ぶ。
だが、肉体が無限の「あいだ」の非連続体だと知るとき、
エネルギーはすべての「あいだ」を自由自在に行き来する。

◆人間を一個体と見る認識からは、個人個人のエネルギー量は異なる
ように見えるが、境界のない「あいだ」の非連続体を見る認識からは、
すべての存在のどの瞬間にも莫大なエネルギーを見出す。
たとえ衰弱した病人にあっても、どの瞬間にも「あいだ」の莫大なエネルギーがあるのだ。  

◆このことは、エネルギーを現象面でとらえていては理解できない。
エネルギーを相対的な強弱ではなく二極の「あいだ」で瞬間瞬間に決定される
創出それ自体としてとらえるのだ。
創出そのものに強弱はない。
存在と非存在の二極の発生するあらゆる場に、相対を超えたエネルギーの爆発がある。  

◆「わかりたい」というエネルギーを、時間の前後ではなく存在の上下に貫こう。
追いかけてくる自我から、純粋な意思だけを救出するのだ。  

◆単純に、「わかりたい」と「わかる」のベクトルと位相がズレているだけなのだ。
愛を知るために冷蔵庫の中を探しているぐらい、明らかなズレがある。  

◆「わからない」ことに開き直るのでもなく、「わかりたい」という意思を固める
のでもなく、不可解の真只中に永遠に放下してしまおう。
無限後退の真空において、存在と再会する。  

◆わたしという現象は、噴水で吹き上がる水ではなく、噴出それ自体のエネルギーだ。
放物線を描いて落ちる水の軌跡は3Dにおけるわたしの残像にすぎない。
身体に同化すれば、重力によって噴出は上下に固定される。
身体に同化しなければ、噴出は360°どの瞬間にも見出せる。  

◆ここは瞑想者の盲点なのだが、噴出自体に気づきはじめると、残像を
一括して切り捨てようとする。
残像が一切認識されなければ問題ない。
しかし、残像が残像であると認識された瞬間、残像が残像でなくなり、
そこに自身の噴出の発現がある。
噴出は常にあるが、その発現は決定されるものとしてある。  

◆「それ」を神と名づけた瞬間、人間は人間の枠に気絶する。  

◆意思を「意思」として気づく段階では、すでに「目的」が伴っている。

◆ 生まれ変わりの印に前世と同じところに痣があるとか、臨死体験者が
過去を見てきた記録として建造物に印をつけておく、などという話は心情的
にわからないでもない。

◆肉体の死を迎えて意識のフォーカスのチャンネルが変わるとき、
前回のチャンネルで理解したところから始められれば効率がいいので
自分自身にヒントを残しておきたいのだ。

◆ただ、そうそう思い通りにいくものではなく、前回理解したところまで
辿り着くのに紆余曲折する場合があるが、紆余曲折の中に前世で取り
こぼした新しい発見があったりもする。

◆私自身、散りばめられたヒントに子供の頃から要所要所で出会ってきた。
(ヒントなしで唐突にフラッシュバックが起こって困惑することもしばしばあったが)
直線的時間で理解しようとするとオカルトにしか聞こえないが、過去の私からの
ヒントも、未来の私からのヒントも、現在に散りばめられている。

◆時には積極的に直接呼びかけられることすらある。
また、現在の私が過去の私や未来の私に呼びかけることもできる。
例えば今、過去に直接呼びかけられたときの私の記憶を想起してみる。
すると、呼びかけた声は他ならぬ私自身だったことに気づく。
(これは声の響きと安心感の有無で判断できる。) 

◆また、現在の私が同じ声に呼びかけられるとき、未来の私がこちらに
目を向けていることが経験的に理解できる。
ただ、過去現在未来というのはあくまでも直線的時間における私の記憶の分裂だ。
私が私に呼びかける声がひとつのところにあるとき、時間は消える。 

◆こういった話は誤解を生みやすいのであまり話さないようにしているが、
時空の仕組みとしてむしろ自然なことなのだ。

◆面白いものでこの仕組みに気づくと、例えば今この瞬間、未来の私を想起したとして、
しばらくそのことを忘れていても未来のしかるべき時点で今この瞬間
(未来から見れば過去)に想起したことを思い出す。
つまり、特別な目印をつけておかなくても意識の中で気づきの時限爆弾を仕掛けておけるのだ。

◆しかし、この仕組みの利用は目的を誤ってはならない。
だから、それがわかるまで隠されている。 

◆ハートの本質を知りたければ、現象の発生する前面ではなく「裏側」の振動に触れよう。  

◆意識も反重力装置が発動すればいいんですよ。
地球上の心身はすべて重力に規定されています。
私はその感覚を前時代的にホバークラフトと呼んでいましたが。
ただし、空中浮遊する必要はありません笑
重力に逆らおうとするのではなく瞬間瞬間に「あいだ」が決定される仕組みを
使えばよいのです。  

◆物理次元ではヴィジョンを定めないと物事が形にならないという理がある。
ヴィジョンが明確であれば強い意志とともに具現化するのだ。
そこには粗く単一的なエネルギーがある。  

◆しかし、ヴィジョンを定めないことの中にも、別次元のエネルギーがある。
決定以前のエネルギーの混沌それ自体にすべてを任せてしまえば
、限定されない未知の力が私の行先を決めてくれる。
ただし、全託の信念に盲目的に気絶すれば、それもまた単一的なエネルギーとなる。  

◆ある力が決定されるのは、同じ力が二極に分離して引きあうからだ。
強い力と弱い力が引きあうのでは「あいだ」が決定されず、現象として像を結ばない。  

◆ある力が現象として発生するとき「あいだ」は発生と同時に決定されている。
創出のエネルギーは二極のバランスのあいだが決定されるときの引きあいの作用そのものなのだ。  

◆眼耳鼻舌心意の六門の入力に対して反応しないことを修行と考えていないだろうか。
人間の知覚には、同じ刺激が続けばそれに対して反応しなくなるという特性がある。

◆たとえば、視点が一点に固定されれば周囲の視界は消えしまうし、
同じ臭いを嗅ぎ続ければ臭いの存在を忘れるし、微妙なストレスが続くと
ストレス自体に気づかなくなる。

◆単純に反応さえ出なければよいのであれば、知覚の特性によって反応が
消えることはいくらでもある。
この仕組みを利用したのがサマタ瞑想だが、ここがゴールではないことは明らかだろう。  

◆頭と感情で人間を見限る前に、まずは人間として直立しよう。
飛ぶのはそれからだ。
直立する前に無理やり飛べば、自他未分の沼に引き戻される。  

◆服着るのと、歯磨くのと、食事するのと、掃除するのと、本読むのと、メールするのと、
花飾るのと、トイレ行くのと、病院行くのと、銀行行くのと、呼吸するのと、踊るのと、
歌うのと、瞬きするのと、やるべき優先順位がすとんと抜け落ちて、焦るでもなく、
諦めるでもなく、カーンとサマディに張りつく。  

◆覚醒とは、脳の機能はそのままに、生の優先順位が組み変わることともいえる。
必死に生きようとしなくてもよくなるのだ。
もちろん、目の前の危険は回避するし、お腹が空けばご飯を食べる。
ただ、命の維持はお任せしておくだけになる。  

◆ふと思ったけど「必死」に「生きる」ってアンビバレンツの極みですね。  

◆死が必然だから生きるってことか。  

◆平面の気づきは対象と観察者が並行しつづける。
ここに気づかないかぎりヴィパッサナーは頭打ちとなる。
球体の気づきは観察者が消え、あらゆるものの中心でありながら、何もつかんでいない。
ただし、この私が球体の中心に入ろうとすれば、たちまち平面の気づきに逆戻りする。  

◆球体が先にあるのではなく全方向、何もつかんでいないことの徹底が
球体の中心に浮いている瞬間瞬間を決定する。
球体の大きさは瞬間瞬間に決定され、極小から極大まで無限に変化するが、
実体があるわけではない。  

◆球体の感触も中心の浮遊感もまた、即座に手放されると、バラバラに捩じれて
引きちぎられるような高密度の領域に触れる。
そこには、同じ極の巨大な磁石どうしを無理やりくっつける間に挟まれているような
凄まじいうねりと圧がある。  

◆鮮やかだった花が色褪せ枯れていき、最期の最期に干からびた花びらの一片が
粉々になって風に運ばれ消えていく。
最期の一片はまだ、花の一部だった。
消える間際までは、花の存在の延長だった。  

◆消えた瞬間、何がなくなったのだろうか。
花を花と見る私が消え、色と形から自由になった花が、そこに存在しつづけている。  

◆簡単なのでやってみてほしい。
手を思いっきり強くグーに握ってみる。
今度はふわっと軽くパーに開いてみる。
グーの中心とパーの中心はまったく同じものだと気づくだろうか。
これがわかれば全部わかったのと同じなのだ。
難しいことなんてひとつもない。
中心ってどこ?などと考えないように。  

◆個人的には、アナパナは気が昇りやすく、意識が身体の前面に偏りやすいので、
初心者は丹田をつくって気を落とせるようになってから移行するほうが身体の構造
としては自然という考えです。  

◆アナパナで意識が前面に偏ると、光やヴィジョンなどのニミッタが出やすくなりますが、
サードアイ付近前方にみえるニミッタは集中の度合いとしては浅く、気づきが肉体の目
を伴ってしまっています。
ニミッタの光をまぶしく感じるならば、肉体の目に囚われている証拠です。  

◆それに対し、場所のない虚空のようなところに唐突にフラッシュするニミッタは集中力が
高まってきた証拠になりますが、ニミッタ自体には囚われず手放していく必要があります。  

◆呼吸の秘伝として、鼻から吸った息を縦方向ではなく横方向のラインを意識してみてください。
(ただし身体の軸は縦方向に「置いて」おきます)縦の意識だけだと鼻孔入口付近で意識が
途切れ、気づきが平面的になります。
その意識で丹田呼吸をしても意識が前面に偏り、丹田の奥深くまで落ちません。  

◆横のラインは、鼻から入った息を上咽頭付近に向かってぶつける感じで吸い込みます。
(顎を引かず、顎先と鼻先はその場所に「置いて」おくようにします)

◆このとき、硬口蓋から軟口蓋のあたりが軽く浮いて前後にストレッチされる感覚が
すれば正しく吸えています。  

◆また上咽頭に呼吸がぶつかる感覚と盆の窪を開く感覚と頭上のポイントをつなげることで、
瞬間的にサマディに入りやすくなります。
出来る方は合気あげでこの感覚を使ってみてください。
横のラインの呼吸の感覚がつかめると呼吸とともに肋骨と筋膜が内部から風船が膨らむように
押し広げられてきます。  

◆肋骨と肋骨の間が縮こまっていると感情や思考に囚われやすくなり、気が昇って
丹田に意識を落とせません。
ワークでは毎回、この辺りを基本として調整します。
集中力の欠如は9割方、身体の基本的な使い方(および食事)に起因していると
いっても過言ではありません。  

◆眼球が左右均等にまっすぐ前を向いているかどうか意識したことがあるでしょうか。
まっすぐ向いているかどうか鏡ではなく(鏡だと鏡の中の目を見てしまうため)
他人にチェックしてみてもらってください。
たいていの場合、左右不均衡で片側だけわずかに内転していたり外転していたりします。

◆このバランスが、瞑想における思考の発生や気づきの偏りに直結しています。
偏りのあったまま眼球が微動するとその人特有の思考が発生し気づかないまま連鎖します。  

◆肉体との同化から離れて完全に眼球をその場に「置いて」おけるようになれば
偏りも無関係になりますが、それ以前は基本的な身体の型として眼球をまっすぐにする感覚
を身につけたほうが気づきが等価に入りやすくなります。  

◆肋骨の「いちばん下」を触ってみてください。
自分がイメージするよりもかなり下のほうにあって驚くかもしれません。
普段意識しているのは胸骨にしっかりくっついている第1~7番目までの肋骨で、
下のほうの第8~12番目の肋骨はあまり意識できていません。  

◆体の前面からしっかり触れる第8~10番目まで(第11~12は背骨側から浮いています)
は無意識に上の肋骨と癒着し委縮していることが多いのですが、ここが委縮すれば
気が昇りやすくなったりネガティブになったりします。  

◆先の呼吸とともに肋骨の8~10番を下方向へ「置いておく」ようにすることで徐々
に肋骨の間がストレッチされて均等になっていきます。
(この調整は多少時間がかかります)
それにより、意識は丹田の奥深くにすとんと落ちることができるようになります。  

◆サードアイやら高次元の目やらを開くまえに、まず人間としての肉体の目を開こう。
なんのために人間に産まれたのかという話。  

◆100年にひとりのバレエダンサーといわれたシルヴィ・ギエムは、ある著名な
日本人ダンサーと共演したとき「私の目をちゃんと見て!」と何度も注意したという。
日本人ダンサーは「ちゃんと見ているつもりなのに何故?」と困惑したそうだ。
ほとんどの人間がまだ肉体の目すら開いていないということ。

◆股関節周りに隙間を開ける感覚と、腸腰筋を上下に引っ張る感覚と、仙骨を
立てて仙腸関節の隙間を開けて折りたたむ感覚がつかめないうちは無理に
座禅の形を組まないほうがよい。  

◆前頭筋を頭上へひっぱり、皺眉筋をの間をふわっと開き、鼻根筋と眼輪筋の力をゆるめ、
側頭筋を盆の窪へひっぱり、咬筋の力をゆるめ、オトガイ筋と頬筋をひっぱりあい、
顔と頭の皮膚を張って、頚椎が盆の窪に刺さって頭蓋骨全体が浮いているようにしてみて下さい。
そうすれば妄想なんて出ないですよ。  

◆身体のすべてが引っ張りあいだし、意識のすべても引っ張りあいなのです。  

◆前頭筋が下方向にゆるんで妄想したり居眠りしたりしている人が多すぎる。  

◆逆にいえば、客観的に気づいて修正すればいくらでもショートカットできるという話。
むやみに走りださず、まずスタート地点に立とう。 

◆意識が意識それ自体を客観視できるようになるまで、まずはこの世界の身体を
客観視のモデルとして有難く使わせていただく。  

◆まずは肉体の目を獲得しなければ、見ることと気づきの肉体的な癒着に気づけない。  

◆ある次元の体験的理解は、常にひとつ上の次元からの俯瞰のよってもたらされる。
肉体の目にしろ、3次元にしろ。  

◆悟りとは「システムを解明すること」ではない。  

◆身体の理解と調整は途上の補助にはなるが、ある地点で一気に無効になる。
ラマナ・マハルシの曲がった首が語っている。 

◆気づきは透明だからといって、対象を銃で撃ち落とすように均一のテンションで
気づこうとしないこと。
柔らかい気づきもあれば、硬い気づきもある。
すべての気づきが世界をぴったり覆うとき、ただそのままの世界が戻ってくる。  

◆すべての教えが各自にとっての方便であることは謙虚にわきまえておくべきである。
ここにおいて例外はない。  

◆硬い身体は硬い意識がつくる。
硬さと硬さがぶつかったところが物質として固定されていると思い込んでいるのだ。
軟らかい意識は、身体を塊としてとらえないので、どこにもぶつからない。
「ぶつかる」という意識の強張りが解ければ心身は内側からバラバラにほぐれる。  

◆硬い意識のまま身体の表面だけを脱力させようとしても「脱力しよう」という
硬い意図が心身の中心を強張らせる。
このときの脱力はぐにゃぐにゃした砂袋のような重さと虚脱感を伴う。  

◆軟らかい意識の脱力は、全身が花粉になってふぁ~っと霧散しているような
飛翔感を伴う。
この感覚は物質を超えているので、肉体の柔軟性や可動域に限定されず誰でも
体感し得る。
瞑想はここからはじめたいのだ。  

◆意識のありかたで身体の重さや動きの質は変化する。
たとえば床に丸まっている相手を肉体の塊として転がそうと思っても重くて動かない。
自分の肉体と相手の肉体が塊としてぶつかるからだ。
が、水平線のはるか先まで意識して地球ごと転がそうとすればあっけなく動かせる。  

◆また、開脚するときには左右の足先と耳が水平線のはるか先まで伸びているように
意識すれば限定していた可動域を超えられる。
これはイメージトレーニングではなく、具体的な意識と身体のメカニズムなのだ。
この身体の枠にかっちりはまっていると思い込めば、意識と身体も限定されたものにとどまる。  

◆二極が離れようが近づこうが、あいだにあれば関係ない。 

◆あいだにあることは、極を設定しないこと。  

◆凪にいる魚も時化にいる魚も、そこにふさわしい力で泳いでいる。
泳ぎがあいだで起こっているのだ。意識の力学でその力を体感していこう。  

◆唾をごくんと飲むときの喉の実感、それぐらい具体的に覚醒に触れよう。  

◆今すぐ実際に水を飲んでみてほしい。
水を飲んで、体の中でその感触が消えていく最期の最期まで見つづけてみよう。
最期にある、肉体とイメージの境界に気絶しなければ、あいだの入口に出会う。  

◆好き嫌いをなくそうとしないこと。
好き嫌いはまさにその瞬間、事実として起こっているからだ。
好き嫌いをする自己嫌悪がでたらでたで、それは事実としてあるだけだ。
事実を事実として受け流しきっていくこと、それは過去現在未来のすべての
自分をその瞬間救っているのだ。
奇跡はここにある。  

◆地面に立っているということは、こちらからも押しているし、あちらからも押されている。
その真ん中に、それでしかないバランスで立たされている。
そのことさえわかれば、すべてわかる。 

◆気づきの極限を見切ったら、現象世界にもどってこよう。
現象発生の同心円の真ん中で、祈りになろう。  

◆「上咽頭に呼吸がぶつかる感覚と盆の窪を開く感覚と頭上のポイントをつなげること」
この真ん中でサマディにホワイトアウトせずに、気づきが気づいていればよいのです。
ここが団子状に癒着していると瞑想は堂々巡りします。  

◆気づきのとらえかたの癖に気づかない限り、気づきが解放をもたらすことはない。
気づきのベクトルが一定の方向になっているから自他が分離し続けるのだ。
気づきの癖は、その人そのものが顕われている。  

◆「気づきに気づく」とは、気づきそれ自体の中心で気絶せず「目覚めている」
ということです。
気づき自体は対象化できません。  

◆「すでにそれである」ということは、帰納法でも演繹法でも導き出せない。
修行のトリックに惑わされないこと。  

◆瞑想はゴールを目指す長い道のりではない。
ものを見ることの基礎が現象世界で健全に養われていれば、ほんの一瞬の瞑想で
すべてが一致する。
だから、現象世界で健全に生きる。  

◆無執着は結果として起こること。
だから無執着を目指さないこと。無執着は諦めや放棄ではない。
無執着は性質ではなく構造なのだ。  

◆それの手触りが見えてくると足元が崩れ去るように感じはじめるが、逆に、
肉体の足はしっかり大地を踏みしめるようになる。  

◆肉体と仲良くなって協力してもらおう。  

◆「先に進もう」という意識が自己の分離を生む。
ここで誤解しやすいのは「先に進んではいけない」ということではないこと。
いまここに「止まろう」とするのはちがう。
「先に進んでいること」のすべての瞬間が自己と一致していれば、
結果としてただ「進むこと」の軌跡があるだけなのだ。 

◆覚醒を「動き」の中でとらえられるようになろう。
それが、現象世界での悟りだ。  

◆動いているから止まっているし、止まっているから動いているのだ。
座禅で停止に陥っていないかチェックしよう。  

◆自分自身であることとは、想像の中の小さな自分にふてぶてしく胡坐をかくことではない。
自身の顕われは自分の想像を超えている。
そのことに畏敬の念と感謝をもとう。 

◆不足感は自分自身とのズレから生まれる。
ズレの大きさが即、不足感の大きさなのだ。

◆自分自身とぴったり重なっているとき、そこに心理的にも
物理的にも過不足があろうはずもない。 
 
◆自分自身の過不足が消えて、それでもなお何かが溢れてくるのならば、
それを表現すればよい。
そこから利他行がはじまる。 

◆なんらかの体験が起こったら、他人の言葉や経典の言葉で定義づけてしまわず、
あらゆる角度から自分の言葉で検証してみよう。
他者の定義を必要とするならば、それまでの体験だったということだ。  

◆テレビを見続けると洗脳されるように、一方的に情報を受け取る側に居座ると
意識の筋力が退化する。
それがどれほど素晴らしい教えであっても例外はない。  

◆とかく瞑想というと受動ばかりが強調されるが、最終的に「能動も受動である」
ということが腑におちなければ、この世界でエネルギーを循環させることはできない。
わたしたちひとりひとりは、世界の創造のエネルギーの中継地点なのだ。
エネルギーの循環、これが創造主の意思である。  

◆三角形のあいだは固定されるが三角錐のあいだは浮く。
3次元の身体をポータルにして意識を立体化しよう。  

◆呼吸と意識の深さで他人を受け入れる器が決まってくる。
他人を拒絶する人はたいてい鳩尾で呼吸が止まっている。
心理的に「他人を受け入れなければ」とあれこれ悩むよりも、まずは身体を変えるほうが早い。
深く境界のないところには四次元ポケットのように何でも入る。  

◆女性であれば、子宮が安らぐ感覚を知っている。
子宮の安らぎの最奥に世界がまるごと入っている。
男性であっても、女性性と現象世界の創造原理の理解によって同じ感覚が養われる。
この理解は、必ず修行者の助けになることを覚えておいてほしい。  

◆死に方がどうこうというよりも、死の瞬間の意識レベルが正確に次のチャンネルに
引き継がれる。
引き継がれる際の中間層のタイムラグ(人によって時間感覚は伸び縮みする)で、
自身の創り出す死後の世界にフォーカスする。
誰が罰するわけでもなく祝福するわけでもなく、自分自身が反映される。  

◆傍観者にも批評家にも野次馬にもそれぞれの軸があるが、自分自身が
存在の実感に撃ち抜かれたければ、プレイヤーとして世界の軸と一体化しよう。  


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【覚醒からのつぶやき 3】          

2020/09/20

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。


1111.jpg
オリヅルランのランナーが伸びてきた

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◆覚醒の最短コースなどない。
もともと距離なんてなかったのだから。

◆雲が覚醒を隠しているという物語が横行している。雲を取り払って
太陽を見ましょうというのだ。
雲自体に覚醒があることに気づけば、雲も太陽もひとつの現象である
ことを知る。  

◆すべての雲を消そうとすれば56億7000万年かかるが、すべての
雲を受け入れれば1秒もかからない。  

◆「今」というとき「い・ま」というかたまりが今の今を押し出す。
「今」に実感を求めないこと。 

◆排泄の瞬間に覚醒することもあるだろうが、口外はしないかもしれない。
夢を壊さぬよう、慈悲ゆえに笑

◆ジャンクフードの後引く味覚を正確にたどっていけば覚醒にたどり着く。
オーガニックな覚醒もジャンクな覚醒もないのだ。  

◆覚者は自身の「状態」を訴えない。
「状態」は常に完結しているからだ。
つらいときにはつらさが完結している。
つらさが続けばつらさが続くことが完結している。 
 
◆つらさの連続を直列的な時間の感覚で切ろうと必死にならないこと。
「つらさの連続」もまた、引き延ばされた一瞬である。
残酷といえば残酷だが、人によってはつらさの連続で一生が終わるかもしれない。
だが、被害者意識を持たずにこの一生を受け入れると覚悟すれば、
つらさ自体の中で救われる。  

◆「自称覚者」は槍玉にあげられるが、「他称覚者」は誰が判断しているのか。  

◆教義の証明と自己の証明を取り違えていることがあるが、
そもそも自己の証明自体、いらない。 

 ◆時間を「前後に切る」という呪縛を解こう。
気づきが「上下左右前後に分離する」という呪縛を解こう。 
 
◆360°のベクトルを意識すれば私たちは回転の中で切り取られた
限定的な一形態にすぎないことを知る。
今この現象世界に肉体を持って在ることは無駄ではない。
すべての現象の顕われがヒントとなるからだ。
ヒントは今この画面を見ている方向自体にある。  

◆それがわかれば逆に、上下左右前後を消さなければと
躍起になる必要もなくなる。
人間ならざるものになろうとして、重力や内耳の平衡感覚を
消そうとするのはバカげている。
重力と回転の中で、身体も思考も感情も夢も記憶も、
自動的に天地と水平を測ろうとする。  

◆透明なカプセル(ガチャの容器でもいい)に水を入れて持ち、
直立したり逆立ちしたり仰向けに寝たりうつ伏せに寝たりでんぐり
返ししたりしてみよう。水は即座に水平を保とうとする。
この働きが、私たちの存在様式のすべてに浸透している。

◆覚醒とは、カプセルの中で水が一瞬、無重力状態になるその時に閃く。
無重力状態で、宇宙飛行士はどのような夢を見るだろうか?
惑星の記憶が薄れていけばやがて夢の認識も変わるだろう。
お腹の中で浮いている胎児はどのような夢を見るだろうか?
惑星に産まれる前の夢を見ているにちがいない。  

◆透明に見える空気も重力に従って常に落下している。
落下の運動の中の気づきは現象世界の気づきだ。
究極的な気づきは、落下も上昇もしない。  

◆自我感覚と意思の発動と重心の移動がごちゃ混ぜになったまま
気づきを入れても「私が行為している」という感覚はいつまでたってもなくならない。
無我に先走るよりも、いったん我に戻ってそれぞれの機能を意識的に分離して
正確に観察してみよう。  

◆どの機能がどの瞬間にはじまり、どの割合で混在するのかが明確になれば、
「行為する私」が生まれる以前のエネルギーのベクトルの初動を等価に
見切れるようになる。  

◆ここがごちゃ混ぜになったまま、自分の得意な感覚に特化して気づきを入れ
続けても、気づきから切り捨てられた機能の混在が気づかないうちに意識を
「この私」に引き戻す。  

◆これに気づくには、気づきを入れつづける間にふらふらっと気づきが曖昧になる
瞬間を見逃さないことだ。
(ただし見逃すまいと緊張して待ち構えるとそれ自体が気づきのベクトルを固定する)  

◆曖昧な瞬間には必ず「不得意な(見たくない)部分の気づきのごまかし」がある。
その瞬間に気絶しているのだ。現象世界の気づきはトータルで発動しないとこの
心身を同時に連れていけない。  

◆気づきの次の瞬間の「納得感」に一瞬でも気をとられるとそこに私という質量が
発生する。
気づきは薄氷の湖上をつま先立ちで走るように入れる。
一歩にとどまれば湖の底に沈む。  

◆足裏に画鋲が刺されば足裏に意識が集中するが、足裏の痛みは脳が感じている。
夜空を見上げれば遠く離れた星が見えるが、今見ているその星はとっくの昔に
消滅しているかもしれない。
3次元の世界でも、時空を超えた知覚なんていつも体験しているのだ。  

◆苦そのものは存在しない。
あるエネルギーのベクトルと私の想いのベクトルにズレがあるとき、そのズレを
私が「苦」と名付けているだけだ。  

◆「自画像を描いてください」といったときに描かれたものには、その人の意識の
次元が顕われている。
これは実際、どこに意識があるのか丸わかりだ。
小細工もすべてバレる。  

◆わたしは私のものではない。私がわたしを所有できるはずがない。  

◆星新一のショートショートで、あるサラリーマンが会社の命令であるときは
支社に行って爆竹を鳴らし、またあるときは別の支社に行って壁を塗り替え、
といった意味不明な行為を再三繰り返させられるという話がある。
実はそれは会社の繁栄のために行われていた魔術的なツボ押しだったというオチだ。  

◆現象世界の私たちの行為は、無意識である限りこのようなツボ押し要員として
今日はあっち、明日はそっち、と使われている。世界は無数の無意識によって動いている。
ミツバチは花の蜜をせっせと集めるが、自身が花の受粉のために働いていることは知らない。

◆陰謀論が横行しているが、支配ー被支配という固定化されたひとつの世界像などない。
それらほとんどの物語は爬虫類脳に組み込まれた恐れから編まれる。
とはいえ、恐れからくる世界像の幻想が共有されれば磁場が形成され、
それがリアルと認識されるようになる。  
軽々とこの世界を駆け抜けるには、いかなる世界像の磁場にも意識を向けないことだ。 

 ◆自分の口の中の味がしないように、自分の頭の中の思考の音は聞こえていない。
思考の音すべてが聞こえたらビービーガーガーうるさすぎて一日で気が狂うだろう。  

◆瞑想者は自分の体の境界線が消える感覚を必死になって求めるが、
そんなの誰だって常にやっている。
自分の体の外にあるモノ、お金、土地、家、車、家族、恋人、人間を「自分のもの」
と感じるのは境界が消えているからだ。
我が境界を侵食して外のモノに所有感を持つ。
物質次元の我執のワンネスだ。  

◆「未来の方向へ歩いてください」というとき、後ろ向きに歩いたり横へカニ歩き
する人はまずいない。
時間の方向感覚がすでに身体に組み込まれているのだ。
逆にいえば、時間を順行させるために身体はこのような構造になった。
だから時間の幻想が見抜かれると人間は上方向へ脱出しようとするのだ。  

◆「コーヒーを飲む」という意図に気絶しているとき、コーヒーカップの取っ手の形状は、
飲もうとする人の指の動きと形を無意識のうちに誘発する。
気づきの瞑想とは、客体との関係性がアフォーダンスの手前で脱落しつづけることだ。
バーナデット・ロバーツは覚醒直後、冷蔵庫にスリッパを入れた。  

◆注意が欠陥していたからではなく、注意が極まって関係性が完全に無化してしまったのだ。
自分の手を壁に置いて立体的な内部の目で見ていると、手の行為の道具としての意味が
無化され、はじめて見るもののように「そこに何かがある」という感覚になる。 

◆ はっきりとそこにあるのに手の使用目的が抜け落ちるのだ。このとき、行為の目的
とつながった神経回路が分断されれば、微動だにせずその「何か」が映ったままサマーディに入る。
神経回路がつながったままであれば、目的の脱落した行為が起こり続けるのを奇妙な
浮遊感のあいだで目撃することになる。 

◆ 人間は音の発生場所を左右の耳に届く振動の時間差で特定している。
音速340mから算出すると、10万分の1秒の左右の時差を正確に検出しているという。
 
◆ ワンネスにあっては、音の振動はあるが音源の場所は無化される。
左右の耳の時間差はあっても、意識が音源の方向へ引っぱられないのだ。
すると、遠くの音も近くの音も、右の音も左の音も、中心で生まれては消えていく。
中心でただ、炸裂している。 

◆ 「覚醒とは」とあれこれ説明するよりも「覚醒とは今たべてるバナナです。」と言ったほうが近い。
桃水雲渓は、道で行き倒れになった乞食の傍らにあった吐瀉物をむしゃむしゃと食べて
「お前にこれができるか」と、つきまとう弟子を追い払ったそうだ。

◆具体的な視点の転換は、肉体の目を切り捨ててイメージに没入するだけでは獲得できない。
これでは常に肉体とイメージが分離してしまいイメージから戻れば肉体に引き戻される。
肉体の目は目として置いておき、同時に内部の目が発動している立体的な視点を獲得して
はじめて、新しい世界が立ち上がる。 

◆自分の心身や知覚を平面的にとらえているかぎり、世界は自対他の二元にとどまる。
自身が立体となったとき、はじめて世界の立体が立ち顕われる。一元は平面から点に
戻ることではない。
平面から立体になることで内部から視座が開き、二元の固定が解かれる。 

◆「そのままでいいんだよ」そう言われたことで緩む安心は仮初の自己受容だ。
「そのままでいいんだよ」の「そのまま」は、まさにそう言われた瞬間そのままの不確定の中にある。  

◆不幸の中心と幸福の中心は同じものである。
苦痛の中心と快楽の中心も同じものである。
ただし中心は同じ場所にはない。
中心は動き続けるすべての瞬間に立ち顕われる。
あらゆる動きは自動的に起こり続ける。
すべての動きに切れ目なく中心があるから結局、動きは中心であり、中心は動きなのだ。 

◆ このことがわかるには、いったん軸を自覚してから軸を忘れ、すべての瞬間の
無限に分割された軸を見切ればよい。
ほんとうに簡単なことだ。
探求にまつわる複雑な体験は、この心身の構造に準じて起こる些末なエピソードにすぎない。 

◆直列的な時間においては、ひとつの瞬間にひとつの事象しか存在できない。
もし自分という継続する実体があるのなら、ひとつの実体が瞬間瞬間を占有しつづけて
何一つ前に進んでいかないということになる。
事象が流れ変化し続けるのは、自分のみならずあらゆるものに固定された実体がないからだ。 
 
◆自分の物語の背後にいつもうっすらとテーマソングやバックグラウンドミュージックが
流れていないだろうか。感傷や高揚を増幅する音楽は私という物語を映画のように演出
してくれるが、死の直前まで音楽に酔っていれば再び映画の中に生まれ変わる。
死は完全な無音と最後の息の一致において完成する。 

◆ もちろんこれは、音楽を否定するものではない。
音楽は自分をナルシスティックに説明してくれる小道具ではなく、音それ自体が自身として
響いてあるものだ。音それ自体は音に酔わない。

◆新緑にも紅葉にも息吹がある。
枯木にも朽木にも息吹がある。
新緑にしか息吹を感じられないのなら、生の半分しか見ていないということになる。
新緑の発現も、枯木の発現も、同じ呼吸から起こっている。

◆気づきは、見張るのではなく見守るように入れよう。 

◆人生という関数を無限回微分しても空は導き出せない。 

◆人生でも瞑想でも、とかく「一つのことに集中しなさい」といわれるが、
空は一極集中の中心だけにあるのではない。
一極集中主義は、直列的時間においてはひとつの瞬間にひとつの事象しか認識できない
という概念にしばられている。
私という定点がなければ、二極の分裂した意識のあいだにも空はある。  

◆高校生の頃、駅のホームで電車を待っているときに前に立っている人を見て
突然「誰もいない」という奇妙な感覚が襲った。
辺りを見回しても、人の姿はあるが誰もいない。
誰もいないのに人の形が保たれ動いているのでゾっとした。 

◆ 皮膚に囲まれただけのものが自立して生きているということに、未知との遭遇
のような衝撃をうけた。
自分が今までどのように動いてきたのかも、確信が持てなくなった。
学校に着いて友達と馬鹿話をしているうちにその感覚は消えていった。
 
◆その意味がわかるのはそれから15年経ってからだった。
15年の間、確信の持てなくなった身体と自分を一から取り戻す作業に費やした。
身体の獲得は、逆行するようだが無駄ではなかった。 

***************
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comment (3) @ つぶやき

【覚醒からのつぶやき 2】         

2020/09/10

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。


虹
パートナーが朝の散歩で出会った風景。
よく見るとうっすら二重になっています。


***************
◆「今ここ」という言葉の呪縛から解放されよう。
「今ここ」は「瞬間」ではない。
例えば、ある人が幻想に気絶したまま100年の一生を終えたとする。
そのとき、その人の「生まれてから死ぬまで」の100年の時間の
流れ自体が「今ここ」にある。
「今ここ」は無限に伸び縮みする。

◆一呼吸ごとに全世界が組み変わる。
全宇宙がわたしと同時に動いている。
信が確立するまでは「わたし」が定点のままでいい。

◆ほんの一瞬でもいいから毎日、それとともにある自覚を
思い出せば信頼は加速度的に増していき、わたしを必ず助けてくれる。


***************
◆瞑想は新しい境地の開拓ではなく、原初の在り方の再発見だ。

◆サマタは一人称視点、ヴィパッサナーは三人称視点で起こる。
統合に至ったとき「第三の視点」ともいうべき、未知の視点が顕われる。

◆禅定は過去世の果実。
これを聞いて諦めるか諦めないかも過去世の信の果実。
だがしかし、過去世はまさに今ここにある!
このことは大いなる救いだ。

◆純粋な気づきによる心随観の直観は、時に心身の奥底
から震えが起こるほどの解放をもたらすが、一定レベルの
定力とテクニックが必要になる。
まずは思考レベルで問題を整理し、直観が起こる環境を整えよう。

◆意識的に瞑想するのならば「私は肉体ではない」と信じこもう
とする前に、何はともあれ腸を軽くするのが一番手っ取り早い。
腸が詰まっていると意識が肉体に引っ張られる。
腸が軽いとそれだけで思考のグダグダの半分は消える。

◆瞑想は、人間の心身の構造をただそのままに「置いておく」ことと、
信頼からの安堵の軽さが同時に成り立っているところで起こる。
心身のことは心身にまかせておけばいい。
心身はこのわたしよりもずっと賢い。
そうすれば、わたしはただ、軽さそのものとしてある。

◆意識的に瞑想するならば、次はないと思ってその一回の瞑想に
全ての照準を合わせよう。
全カルマの結晶がそこにあることを自覚するのだ。

◆瞑想には始まりも終わりもない。
あらゆる動作の途中で、いかなる準備もなく唐突に 座ってみよう。
そのうち座る必要すらなくなる。
区切りや構えがなくなれば、瞑想のほうからいつでも勝手にやって
くるようになる。
むこうからやってくる瞑想は、至福に満ちている。

◆身体の輪郭は、ハンガーで服を掛けておくように、物理的にも
心理的にも押しても引いてもいない「あいだ」にひょいっと引っ掛け
ておけばよい。


***************
◆肉体の一部である脳が私であると信じれば、爬虫類にまつわる罪
や支配の呪縛と、集合無意識のアーキタイプから永遠に逃れられない。
爬虫類脳の記憶と新皮質とのせめぎ合いが原罪の物語を創る。

◆この物語がベースにあるかぎり、恐怖からの逃走が進化の動機で
在り続ける。 物語の呪縛に囚われたままAI時代に突入すれば、
恐怖からのヴァーチュアルな解放を餌に永遠に幽閉される。


***************
◆自分がないからこそ、自分の言葉で語ろう。

◆「信」はあたりまえの日常から育まれる。
華麗な体験が起こらないからといって悪態をついて諦めてしまう前に、
今このとき自動的に呼吸が起こっている奇跡の目撃者であることを自覚しよう。

◆誰にも認められないからといって卑屈になる必要はない。
わたしたちが在ることは、それ自体で「まるごと認められている」ことの証明だから。
すでに在るんだから、そのまま居ていいのだ。
そこに誰かの許可なんているはずがない。

◆自分の存在を証明しようと躍起になる必要はない。
存在とは何か?などと考えなくてもよい。
すでに存在してしまっていることを認めるだけでよい。
それは存在について考えていないときにある。

◆生物の歴史を、自分の体で一からたどってみよう。
アメーバあたりからはじめて背骨ができて人間になったら、
ハイハイから直立歩行までやりなおしてみる。
こんどは、背骨をなくして原核生物まで逆にたどってみる。
そうすれば、神の意図に少しだけ触れられる。


***************
◆この世でいちばん二元性を強化するのは無我の概念だ。

◆覚醒は音符 カルマは楽譜 人生は演奏 上手い演奏や下手な
演奏があるが、音符は記号として並んでいるだけだ。

◆この世界は決して完全燃焼しないようにできている。
不完全燃焼の渇望がまだ見ぬ未来への夢を生む。

◆アメンボが水面を滑るように、バッタが地面を蹴るように、
わたしという呼吸のダンスに成りきろう。

◆赤ちゃんはよく自分の足指と遊んでいる。
この世では、そういうふうに自分を遊ぼう。

◆「二極化」という「素晴らしい夢」が叶えば、弥勒菩薩は
「残念なほうの世界」でまた一からやり直しだ。

◆「悟りとはなんぞ」と「晩ご飯なに食べよう」を、同じ軽さで気づこう。

◆空間にぶらさがっている軸だけで動けば、イルカのように歩ける。

◆ネコをそっと撫でるようにエゴを労わってあげれば、安心しておとなしくなる。

◆モノとモノのあいだを魚のように泳いでいこう。
モノにぶつかっても、よくよく見るとモノは無限の穴だらけ。
自分の大きさを決めなければ、いろんな穴をくぐっていける。

◆笑いは思考の結び目を一瞬解くが、笑ってさえいればいいという
居座りは感性を愚鈍にする。


***************
◆この世でひとつだけ修行を選ぶとすれば、肉親との確執を自力で
解消することだ。
確執のエネルギーはパターンを変えて必ず次生に持ち越す。
この際、親がどう思うかは考えなくてよい。
自身の親に対する意識だけが組み変わればよいのだ。

◆肉親との関係は確執だけにとどまらず、一見うまくいっているよう
でもそこに潜んでいる依存や力関係や価値観の刷り込みがないか
どうか内観してみよう。
それらは例え縁を切って蓋をしたとしても、必ず手を変え品を変え
反応パターンに顕われてくる。
このパターンが瞑想のサマタの完成を妨げる。

◆年齢を重ねると一見、自然に落ちてくる反応パターンもあるが、
火種が完全に消えたわけではない。
火種に油を注ぐ生体エネルギーが減少しただけで、新たな肉体に
宿れば再燃する。
ここはエゴが一番見たくない部分だが、
今世の生体エネルギーが残っているうちに着手しよう。


***************
◆現象世界の多様性は一元性とは何ら矛盾しない。
次元を跨ぐアクロバティックな視座がハートに落ちたとき、
直接触れるようにそのことを理解する。

◆わたしは、その人その人の生き生きした実存のダンスに触れたいと思う。
それは結局、個を超えながら、個のダンスとなる。
行住坐臥のすべてがダンスだ。
座禅は、究極の即興ダンスだ。

◆熟睡して目覚めた休日の朝
震えるほど怒り泣き切った後
広々とした温泉に浸かった瞬間
悩み続けた問題が解決した瞬間
乾いた喉を湧き水で潤す瞬間
深い森のなかで深呼吸する瞬間
それらの浄化と解放すら重く感じるほど、
「信頼」から理由なく放射される安堵は、翔べそうなほど軽い。


***************
◆亡霊は過去の記憶のループの中に閉じ込められている。
今を生きていると思っている生身の人間もまた、過去の記憶の
反応パターンに囚われているかぎり、永遠に届かない今の裏で
亡霊のように彷徨い続ける。

◆月の裏側が見えないように、自分の頭の後ろが見えないのは、
存在の形態としては摩訶不思議だ。
産まれた瞬間に、この形態にびっくりして産声をあげたくもなる。
「とんでもない世界に来てしまった」と。

◆自分の顔も、内臓の中も、背中の大部分も、脳味噌も、目玉も、
3次元の世界では一生、自分の目で見ることができない。
それなのにこの身体にアイデンティティを保ち続け、2つの小さな穴から
覗いているものを信じ切っている。

◆わたしたちは常に、一人称と三人称のあいだをゆらぎ、自身から
離脱したところにイメージとしての自己を設定し、自分の顔があることを
信じて生きている。


***************
◆バケツに水を入れてぐるぐる回すと、水は落ちてこない。
バケツの回転を止めたとたん、水は落下する。
私の心身はバケツの中の水のように重力と遠心力のギリギリのバランス
により同一性を保っている。 バランスが崩れたとたん、私はバラバラに霧散する。
…バケツをぐるぐる回しているのは誰か?

◆常に0.2秒遅れた世界にいる私たちは、未来に進んでいるというより
「過去に間に合っていない(!)」のだ。
空白の0.2秒の間に、世界は始まって終わっている。
無限に引き延ばされた0.2秒の間に宇宙が入っている。
宇宙を知りたければ、未来に向かって急いでも絶対に間に合わない。

◆動作が起こるときの意図は、そのエネルギーとベクトルにエゴが付随
していなければ、花の蕾が開くことや木の葉が舞うことや鳥が鳴くことや
魚が飛び跳ねることとまったく同じ力から起こっている。
その根源の力を擬人化するならば、この世界は神の意図であるということもできる。

◆1秒間に24コマのフィルムは連続した動きに見えるが、1秒間に24回の
音は分割して聞こえる。
この違いは、視覚と聴覚の信号受信システムの速度差からくる。
音は「今」に少しだけ近づく鍵となる。
音の中心をハラに落とそう。


***************
◆ 空気を瓶に詰めて売るのが経済
空気を区切り所有するのが政治
空気の性質を分析するのが科学
空気の存在を定義するのが哲学
空気に香りをつけるのが芸術
空気の価値を教えるのが宗教
空気に気づかず息してるのが凡夫
空気に気づいて息になるのが行者
空気を忘れて空気になるのが覚者

◆ 林檎を見て「林檎」とラベリングすれば、その人は林檎
を林檎と呼ぶ世界にいる。
林檎を見て「見た」とラベリングすれば、その人は林檎を
見る自分の世界にいる。
林檎を見て「・」としか林檎の実存をラベリングできないこと
がわかればラベリングを卒業してよい。
ここから空性のビーイングが始まる。

◆ どこかの星から転生してきたので地球の今世は違和感
があって辛いという話がある。
その人は転生したのではなく、この同じ場所で何生も何生も
今と同じ違和感を感じてきたのだ。
それは転生の違和感ではなく、自分自身への違和感だ。
たとえ次生で故郷の星に帰ったとしても、その人の違和感は続く。

◆ 星は自分の意識の中の座標だ。
自分の中に星の地図が入っている。
この場所にいて故郷の星との距離があるのは、この私が私自身
と一致していないからだ。
私が一致すれば、故郷はここになるのだ。
すべては意識の地図の中の座標だ。

◆ 宇宙を一人称の定点と三人称の俯瞰で同時に見ると、
座標と座標の距離は自由自在に伸び縮みする。
同時に見るときに発生するチラチラとしたゆらぎが、
無数の宇宙と星を生み出す。

◆この私が上位次元に上昇する必要はない。
この私が目指すかぎり上昇などできない。
すべての次元の私はすでにいる。
私はすでに、すべての私たちの軌跡の一辺だ。
私たちを信頼して任せておけばよい。
そうすればこの次元でこの私を全うしてあげられる。

◆カルマは理由を聞いてくれない。
「あの人が悪いから怒ったんだ」 といっても、
「あの人が悪いから」 というネバネバした質感とピキピキした
怒りの質感だけが正確に引き継がれる。
そこにおいては一切衆生が恐ろしく平等だ。

◆遠近感は両眼視差や物体の肌理や影により脳内で編集されたものだ。
だからしばしば錯覚が起こる。
遠近法の一点透視図法は一神教の神を中心に描く宗教画から発展した。
それ以前の人間は、日本画のように多神教的なフラットな世界に住んでいた。

◆ 遠近法の啓蒙によって人間は視点と意識を固定された。
それと同時に自我が強化された。
古代の人間は自我をメタ認知することがなかった。
メタ認知が、人間の苦しみを生み出した。


***************
◆線も面も立体も多次元も、点ではなく「・」だ。

◆離れているものと自分を一体化しようとしないこと。
離れていることそのものの真ん中に、距離のない自分がある。

◆世界は無限の真ん中の連続である。

◆真ん中の波に乗っていく。

◆不均衡なものにも真ん中はある。
見かけの不均衡さにとらわれないこと。

◆一瞬の気づきを持続させようとしないこと。
あらゆる持続の意図は夢に気絶する入り口となる。
しかし、本当は夢も持続しているわけではない。
一瞬一瞬あらたに眠っているだけなのだ。
覚醒はこの逆を辿ればよい。

◆持続の夢から目覚めるために、見かけ上の動きの
連続性を止めようとしないこと。
気づきは時間と空間の分割の中にはない。

◆この私とは、世界を分割し分類する「機能」である。
便宜上の機能がなければ、限定された空間の中で私と私は
ゴツンとぶつかってしまう。
機能は単にメカニズムであってそれ自体、良くも悪くもない。


***************
◆「自分軸」は自分が消えるところにある。
自分のイメージする自分軸を自分で作れば、
自分軸自体にがんじがらめになる。

◆夢の持続の瞬間には麻薬的なうねりと気絶がある。
この瞬間を見切ろう。

◆粒と波の両方を見よう。
粒を見るには粒に、波を見るには波になればよい。

◆善行の果を今生の自分が受け取るという保証はない。
「自分が受け取る」という自分がないとき、善行は善行
としての目的を果たし、善が剥がれて行となる。

◆入念に準備してからわかろうとする必要はない。
今、わかってしまっていいのだ。
そこには自己を超えた自己受容がある。

◆存在に言い訳はいらない。
モノも植物も動物も、自身が在ることを言い訳したりしない。
言い訳してもしなくてもかまわないが、どちらが自然の状態かは明らかだ。


***************
◆この世界は、肉体にフォーカスすれば肉体の、イメージに
フォーカスすればイメージの、運動にフォーカスすれば運動の、
空にフォーカスすれば空のワンネスとなる。

◆パンが肉でありワインが血であるのは肉体の世界のワンネスだ。

◆パンとワインが肉と血を超えるとき、パンがパンにパンを
食べさせ、ワインがワインにワインを飲ませる。

そこに食物連鎖はない。

◆存在の覚醒では、沸騰した水の泡のように全てが私ととも
に弾けている。

ただし沸騰し底から昇って水面で弾けるまでのプロセスは一切ない。

唐突に弾けた瞬間だけがある。


***************

※次回の東京ワークは 10/10(土)13:30~20:30 開催予定です。
(変更となる場合があります)


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【覚醒からのつぶやき 1】        

2020/08/15

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。

植物
宙に浮いて何年もうちにいるティランジア
(エアプランツ)



************

◆現象世界は音楽でありダンスである。
フィーリングに淫することなく実存で聴き、実存で弾もう。

◆3次元の悟りとは、音をハラの奥底で見ることである。
これは比喩ではない。

◆覚醒とは、常に「それそのもの」である。
それは音に例えるならば、響きの発生そのものとしてある。
響きを聴いてしまってからでは遅い。
聴いてしまった音とのズレが「この私」なのである。
音に触れて忽然と悟るとき、私が響きとしてあるのだ。

◆「聴いてしまった音」と「私」とのズレは、直列的な時間差を
縮めることでは解消できない。
そこにはアキレスと亀のように永遠に埋められない距離がある。
気づきだけに特化した瞑想はこのパラドックスに陥ることがある。
気づきと対象が並行線をたどり続けてしまうのだ。


************

◆怒りを決して消そうとしないこと。
思考による無執着は二元性を強化し気づきの感度を鈍くする。
怒りの出ない人格者になってから悟ろうとすればその意図自体
が手の届かない未来を生む。
覚醒は怒りそれ自体としてある。

◆怒っている自分を未熟と考え責めたくなるのは未だかつて
「怒りそのもの」との合一に出会っていないからだ。
純粋な怒りの中心は「意味」が落ちている。
合一においては「怒りそのもの」も「平安そのもの」も一瞬の
スパークとともに怖ろしい静寂に消え入る。


************

◆私たちは一定の同じ刺激が続きその刺激に網膜の細胞
が慣れてしまうと、見ていた対象物自体を認識できなくなって
しまうのです。
つまり、私たちは常に「動き続け」「刺激を受け取り続ける」こと
によって世界という顕れを持続させているということになります。

◆私たちをこの「動き続け」「刺激を受け取り続ける」ことによって
「何者かの意思によって」世界を成り立たせるための「盲目的な奴隷」
であると捉えるならば「この世は苦である」といえるかもしれません。
しかしそうではないのです。
「私たち」も「何者か」も擬人化されたイメージにすぎないのです。


************

◆△「神は(有限面の)サイコロをふらない」
〇「神は(無限面の)サイコロを『ふる=ふらない』」


************

◆瞑想は心を落ち着けるために行うのではなく、落ち着かない
どの瞬間にも落ち着きがあることを発見するためにある。


************

◆美学を持った瞬間、美は消える。

◆「美学」にすり替わった探求は、意識と自己イメージを固定化する。
探求は「生き様」や「センス」の主張ではない。


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◆意識は変容しない。
意識はすべてをただ映しているだけだからだ。
認識は変容する。
制限が外されると、もともと映っていたものが新たな見え方
で掘り起こされ発見される。


************

◆「今ここ」という言葉の呪縛から解放されよう。
「今ここ」は「瞬間」ではない。
例えば、ある人が幻想に気絶したまま100年の一生を終えたとする。
そのとき、その人の「生まれてから死ぬまで」の100年の時間の
流れ自体が「今ここ」にある。
「今ここ」は無限に伸び縮みする。


************

◆テンセグリティ構造は3次元の覚醒感覚に近いものがあります。

◆3次元的な感覚としては無限の相似形のテンセグリティ構造
のどこか一辺が崩れるとパタパタパタッと全体が組み変わって
常に変化しつつ世界のテンションを保ち続けるといった感じです。
世界には支点がなく、無限の組み合わせからなるテンション
それ自体がバランスを保っています。

◆テンションには支点がないため独特の浮遊感覚があります。
多次元はこの構造だけでは説明できませんが、バックミンスター・フラー
は3次元的な覚醒に直観的に触れていたのだろうなと思います。


************

◆光速に近づいて進行方向以外の光が届かなくときの見え方
(暗闇の中に丸いのぞき窓のような光と景色)、現象世界の1コマ
に吸い込まれる一瞬前の見え方に似ています。
世界の速度に認識速度が同化したら「のぞき窓の枠」は消える。


************

◆ワークは「完璧に美しい無心のバカ」になってよい場です。


************

◆突発的に何らかの神秘体験が起こっても、衝動にまかせず
最低3年はあらゆる角度から検証し、日常レベルでのすり合わせ
を行っていくべきである。
一時の体験にアイデンティティを持てば、体験した自分を守るため
に例外なくヒステリックになっていく。


************

◆道の途中に顕われてくる共時性の奇妙さにオカルト的な興味
を持つべきではない。
それは夢において時系列がランダムに展開する仕組みと同じである。
夢に興味を持てば、夢にとりこまれる。

◆時間の幻想が見切れてくると、あり得ないような偶然や
シンクロニシティが頻発してくることがある。
(それらは脈絡のないものであって、いわゆる「引き寄せ」のように
自身の望みどおりの展開になるわけではない)
これは直列的時間を采配していた引力に緩みが出てくるために起こる。


************

◆宗教性を取り除いたマインドフルネスは、核心部分が
抜け落ちている。
宗教性を嫌うのはその背後の実理性を見抜けていないからだ。
とはいえ多くの場合、宗教は宗教性の集団幻想によって
成り立っているのもまた事実である。


************

◆いかなる経典や教義にも自身の体験を「寄せて」いってはならない。
もちろん、それらは発心の縁となる場合もある。
しかし、いったん縁がついたら忘れたほうがよい。
それらは、体験の後から「答え合わせ」に使うべきである。

◆もし伝統的な修行体系で何かを悟ろうとするなら、メソッドの
「つまみ食い」はしないほうがよい。
エゴによるつまみ食いは、エゴを太らす餌となる。


************

◆一瞥体験者であっても、鋭利な認識は自覚的に磨く必要があります。


************

◆「幸せ」を時間の流れにおいてつかんだとしても、そこでは幸せな
状態を引き延ばそうとする貪りと、消えてしまうのではないかという
不安と、手に入れてしまったという慣れと退屈が起こる。
こうして人間は次から次へと新しい幸せを強迫的に求め続ける。
この欲求が世界の夢を存続させているのだ。


************

◆「この世は苦である」という教義は特定の共通認識へ向けた
方便である。

◆苦を心理的な「私(たち)の苦」ととらえれば「私の思い通りにならない」
ことのすべてが苦になるが、例えば今ここに「石ころがあることそのもの」
と「世界が思い通りにならないことそのもの」の本質としての空はまったく
同じものであってそこに対象化された苦はないのだ。

◆「苦そのもの」が私であるとき、苦も私も存在しえない。
その本質を見抜くことが覚醒である。


************

◆「無我」が先か?
「合一」が先か?
そんなことは些末な問いにすぎない。
どちらにしても先も後もないのだから。


************

◆あるがままの世界を本当に見たら発狂する。
この認識の鈍さは発狂しないための慈悲による。

◆純粋な慈悲は覚醒側からしか起こらない。
慈悲は現象側の個対個で起こるものではない。
見かけ上エゴ感覚が少なくなったときに慈悲に近い意識に
アクセスはできるが、本当の慈悲そのものではない。 

◆ 覚醒側の慈悲は、人間から見て必ずしも「慈悲的」ではない
場合もある。
人間が、すべて思い通りにいかないのもその理由である。

◆たとえば瞑想において最後の通過点を目の前にして慈悲が
手助けするかしないか、しない場合もそれは慈悲ゆえなのである。
覚醒側からの慈悲はいまこの瞬間も常にすべてにおいて働いている。 


************

◆今、世界が生まれた。
あなたがいなければ世界は生まれなかった。
あなたがあなたという存在を引き受けてくれたから世界は生まれた。
あなたが寸分違わずあなたであったから、たった今、世界は生まれた。
その奇跡を見せてくれて、ありがとう。


************

石
ローズドサハラ(砂漠の薔薇)という名の石



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