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【覚醒からのつぶやき 17】        

2020/12/30

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。

カーネーション


◆宇宙が先にあるのではないのです。
私と宇宙は同時に立ち上がります。
私と宇宙は極小の針穴から同時に広がりますが、
すでに広がっているものとして認識されます。
なぜなら、脳の認識処理はあまりにも遅いからです。

◆重力もまた、先にあるのではないのです。
ベクトルの引き合いの発生と同時に、重力を成り立たせる
ための惑星の配置が決まります。
重力とは、物体の力学というより、実体のない「関係性」なのです。

◆関係性を保つためのアイディアとして、惑星の位置関係
も後付けで生み出されました。
それほどまでに、関係性とは、強固な磁力なのです。
どこでもないところに、意味が付随される前の関係性だけが、
唐突に浮いて在るのです。

◆どのような形であれ、自己表現は早いうちに一度は
やっておいたほうがいい。
自己表現欲求と覚醒欲求を混同している人が多すぎる。
また、覚醒は自己実現の道具ではない。
自己はすでに実現しているから存在しているのだ。
私たちが自己実現と呼んでいるものは、自我実現なのだ。

◆人をおんぶしようとするとき、2人の重心がズレていると
重くて持ち上がらない。
それと同じく、世界のあらゆるものと私の重心がズレているから、
重さと摩擦が生まれる。
私という個体感覚は、ズレの産物だ。
全ての重心がひとつに重なった時には、全部が同時に浮く。

◆この時、個体の区別はなくなり、ズレは私が創り出して
いたことに気づく。
おんぶしているときの2人の接着面を観察してみよう。
そこに明確な境界線と質量があるだろうか?

◆パッと見た瞬間、自己完結している人としていない人がいます。
自己完結している人は、その瞬間、足したり引いたりするズレが見当たりません。
(自覚があるかないかは別の話です)
自己完結は、人間として優れているかどうか、どのような
認識レベルにあるかどうかは関係ありません。

◆その瞬間、存在が完全に自己自身に受け入れられているか
どうかだけが決め手です。
ただし、自己完結の瞬間が連続するとは限りません。
「人」がいるとき、存在との関係は常に揺らいでいるからです。
自己完結している時には、その人は消えています。

◆一流アスリートはイメージングが必須だが、一般人が同じ
イメージをしても100mを9秒台で走ることはまず不可能だ。
イメージングは、それを具現化できる身体があってこそ、
この次元での結果に結びつく。
高次元のイメージからイメージへと想いを馳せ続けても、
この次元が救われない理由は明らかだ。

◆ならば、この次元の不可能性を見ずに、まとめて放棄すれば
よいと思うかもしれないが、そう思っているのがこの次元の自分なので、
常に救われていない自分に足を引っ張られるのだ。

◆何かに触れた瞬間、過去の記憶がパパパパッとフラッシュバックすることがある。
トラウマがある場合は、この現象に気づきやすいが
(過去の経験から、危険を察知すると自動的に集中力が高まるシステムなのだろう)、
実は特別な記憶でなくても瞬間瞬間、同じことが起こっている。

◆触れてくるあらゆるものが因子となって記憶が立ち上がってくるが、
その瞬間が見切られることなく、気絶したまま次の思考や行動が誘発されている。
フラッシュバックが起こって気づけた時には、その感覚を観察してみよう。

◆気づきの瞑想の当面の目標は、因子に触れた直後にパパパパッと
展開する始まりを見切ることだ。
そのためにはやはり、危険を察知した時と同じレベルの集中力は必要ということになる。

◆赤ちゃんはよく自分の足で遊んでいる。
それが自分のものだと知らないからだ。
遊んでいるうちにどこかにぶつければ痛みが生じて本能的に泣く。
泣いていると親が来て、ぼんやり視界に入る。
そのような経験を繰り返すうちに、遊んでいた足がどうやら自分のものらしいと学習する。

◆このプロセスをいったん逆に辿って、自分と足との関係性を白紙に戻してみる。
この時、視界に映っている足と呼ばれていたものに生じた感覚から、
どのように自己同一性の認識が立ち上がるのかを観察する。

◆するとだんだん、映っているものが自分の足だという信念が揺らいできて
「この感覚が生じた時は自分に属しているはず」という認識は、
記憶から推測された仮定にすぎないのではないかという疑念が出てくる。
こうなると、自分という自己同一性も揺らぎ始める。

◆ただし、ここで揺らいでいるのはまだ思考なので、いったん思考は
置いておき、瞑想によって、起こっている事実をありのまに確認する。
すると、感覚というのは非常に曖昧なものだということがわかってくる。
そこで初めて、自己同一性の幻が見切られるための準備が整う。

◆3次元における存在は、垂直と水平の交差点に「浮いて」います。
交差点でスパークしたインパクトから「私」が立ち顕われなかった場合は、
世界は形が与えられず、もとの真空に吸い込まれ消えていきます。

◆この場に立ち会うことがいわゆるハラの見性体験です。
「私」が立ち顕われた場合は、まず即座に垂直の意識がパラパラパラッ
と積みあがります。
これが原初の背骨ですが、未だ身体の形は立ち上がっていません。
このときは、垂直に落ちた視線は存在と0次元で重なっています。

◆次の瞬間、真空に消えなかった衝撃波が波紋となって広がり、
水平の意識が生まれます。
そして、垂直と水平の意識の立ち上がりの時差がとゆらぎが、
空間をメリメリと押し広げます。
垂直に重なっていた0次元の視線は、波紋の水平方向に引っ張られて
90度回転しベクトルが発生します。

◆このとき、肉体の目が前方向へ並びます。
(肉体の目が認識の前にあるわけではありません。
また、認識の自覚は水平意識が発生したずっと後です)
このように世界は毎瞬、生まれる/生まれない可能性のギリギリの
線上で生滅を繰り返しています。

◆(いわゆる生滅智の生滅は認識の座に特化して見切られるものですが、
上記のプロセスの生滅は存在の座と認識の座のコンビネーションによって
見切られるものです)
まず、この発生の現場を自身ではっきりと見てきてください。
すべて自身の内で毎瞬起こっていることです。

◆そうすれば、この不確かな世界に際し、どの位置にいればよいのかが
自ずと理解されます。
ただし、このプロセスは3次元に限定された相対的な現象です。
発生の仕組みを限定された認識において知ることは、3次元の私にとっては
興味深くても、覚醒から見れば局所的な現象のひとつにすぎません。

◆どのような教えも常に諸刃の剣となりうる。
〇〇メソッドと名前をつけた瞬間に抜け落ちてしまう認識の手前の感触があって、
そこに各自が触れるための「在り方」を伝えたいのだが、呼吸のようにすでに
在ることを改めて教えるというのも奇妙で不遜な感覚がある。

◆ただ、それを自覚したいという私たちの想いが勝るとき、
人の形を使って教えを生み出しているとしか言いようがない。
だから完全に私たちの信頼が熟せば、そう遠くないうちに教えが
不要になるだろう予感はある。

◆思考しながら話すときには脳内の記憶やイメージを読み取ろうとして、
額と目にぼんやりと膜がかかったような表情になっている。
内部の目に意識があるときには、脳内の思考を参照しようとしても、
目が動かないので物理的に不可能だ。
だから目を見開いたまま、触れてきた直観だけしか発話できない。

◆ウルトラマンになったつもりの子供がベランダから飛んだり、
神との対話に感化された俳優がマンションから飛んだりして、
しばしば惨事が起こる。
「飛べると思ったんだね、可哀そうに」と人は憐れむけど実は、
100%信じて飛んだ瞬間は、疑って飛んだ瞬間に比べ
「ほんの一瞬だけ」実際に飛んでる!

◆悲しいかな、一瞬後には落下していくけども、その瞬間だけは
時空から自由になり浮いていたのだ。
(落下する現実を見ている私以外の世界では、
そのまま実際に飛べた世界線もなくはない)
私たちのこの現実世界はまだ、100%の信念よりも肉体と引力の
法則が勝っているが、その法則も絶対ではない。

◆本当は、顕在化している信念は自我の信念であって、潜在意識下に
「物質(肉体)の信念」というものが存在し、2つの信念が一致しないと
物理法則は超えられないのだ。
それこそ信じられないかもしれないけども、物理法則も実体のない関係性
であって、物質自体が人と同じく信念を持って存在している。

◆赤ちゃんや小さな子供が高層階から落ちて奇跡的に助かることが
たまにあるのも、そのあたりに鍵があるだろう。
また、一般人がイメージングしても100mを9秒台で走れないのは
「肉体側がそれが可能だと100%信じていない(信じるキャパがない)」からだ。
その人の肉体は信念のとおりに在る。

◆世界とは信念なのだ。
だからといって、物質と私の信念を融合させて「空中浮遊してやろう」とか
「身体を消してやろう」とか目指し始めれば信念の分離はますます強化される。
そもそも、私たちの目的は信念で世界を動かすことではなく、
信念を外して世界の幻想を無化することだったことを思い出そう。

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【覚醒からのつぶやき 16】        

2020/12/23

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。

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◆キーボードで文字を打っていると、直観の核心がスルッと逃げていく。
直観はビットで確定できないから。
だから、瞬間的に手書きで書きとめる。
楷書ではなく、草書?で。
難点は、後で自分で見ても解読できないこと... 笑

◆覚醒状態とは「見ていること」は在るが、見ている私の再帰的自覚の
時差が限りなくゼロに近づいていき、私の不在性が極まること。
人間の形態では完全にゼロにはならない。

◆無我は性質ではない。 私が無我になるのではない。
私という感覚すら無我なのだ。
だから無我を目指さないこと。

◆押すことは、押されること
引くことは、引かれること
吸うことは、吸われること
吐くことは、吐かれること
両義性のあいだに在るとき、
どの瞬間を切り取っても身体は存在しない。

◆湧き起こるエネルギーの内圧に輪郭を纏わせず置いておこう。

◆身体の内と外は私が分けている。
内も外もないフラットな気づきになろう。

◆唾を吐き捨てると自分の頭に落ちてくる。
塵を投げ捨てると自分の腹に溜まってくる。

◆甥たちは兄弟そろって、頭の後ろにつむじが2つ並んで渦を巻いている。
まるで太極図。
真理は見えない背後にあり。

◆あちらの世界とこちらの世界が分かれてあるわけではありませんが、
そのことを、こちらの世界の認識で見ることはできません。

◆手触りならぬ「意触り」といった感覚があって、
わたしたちはそれに直接触れている。

◆「蚊に刺されたから足が痒い」という原因と結果は、
時系列の3次元的認識です。
身体を超えた次元では「痒み・刺され・蚊・足」が、例えていうなら
「ゆあれさみかしさ」というようにランダムに重なってあります。

◆ここには主客がないので、能動受動のベクトルありきの動詞はありません。
この私と身体の整合性の磁力が、それらを並び変えて見かけ上の時空を創ります。

◆世界の歴史は瞬間瞬間に組み変わっていきますが、
この私が組み変えに介入することは不可能です。
なぜならば、私は組み変えられた直後に発生する仮初めの担当者意識だからです。

◆ただし、私とわたしのあいだに在るときには、介入はできなくても
組み変わりの現場に立ち会い、その驚異を眺めていることはできます。
そこに私の意図が介入すれば、たちまちそれは隠れます。

◆現象発生の仕組みがある程度見切れても、現象が動く様を見るのは
神秘的な興奮を伴うので、表層側にフォーカスし利用しようとしてしまう人が多い。
それではちょっとだけ進化した魔術師のまま、世界に使われ続ける。
だから、一度は発生の源をはっきりと見て、完全にショックを受ける必要がある。

◆生滅智とは、存在していたものが滅していくのではなく、もともと実態のない
幻の像が、時系列で切り取られ消えていくのを3次元の直列的認識で見切ることです。
これによって諦念は確立しますが、ここがゴールではありません。
直列的認識の幻想自体が完全に見切れて初めて「普遍のそれ」が顕れます。

◆3Dのシンクロや奇跡は、直列的時空の整合性が一瞬緩んだときに
4Dと5Dの立体的認識を一瞥することです。
5Dでは3Dの奇跡は奇跡でもなんでもありません。
5Dでは時空を同時に見渡せるからです。

◆5Dにおいてもおそらく、6Dと7Dからの超立体的な奇跡が垣間見れるでしょう。
ただし、悟りと呼ばれるものは、次元の区別や奇跡などとはまったく関係ありません。
進化の過程に囚われて、このことを混同しないように注意してください。

◆この世界は、意味内容と構造が言語脳により分かち難く結びついているが、
言語と個体性を介さない時、構造はエネルギーの配列としてあるだけだ。
本来、個別のエネルギーは存在しないが、直列的な認識の切れ目切れ目が、
見かけ上のエネルギーの区別と差を生み、現象が動く。
この差自体が、幻なのだ。

◆世界は完璧だ。
心理的な意味ではなく、一分の隙なくすべてが配置されているという意味において。
私が世界を「動かせる」という想いもまた、一分の隙なく「動かせない」
ものとして、この瞬間に起こっている。

◆分離の不安が、崇高なものを宗教に貶めてきた。

◆宗教原理で回っている世界から自由になるには、
自らの分離の幻想を見切るしかない。

◆この世界では、あらゆるものが隙あらば宗教になろうとする。
宗教は平凡な日常にも「当たり前」という気絶のもとに、忍び込んでいる。
まずは、一人一人がそれに気づこう。

◆絶対的な悪が宗教を蔓延らせているのではなく、私たち自身の無知と
不安がそれを許してしまっている。
外側の悪に立ち向かう前に、自身の内側を見つめよう。

◆「見る」覚悟を決めると、存在は微笑む。

◆見ないでいれば、見なかったものに足を引っ張られる。
そこから逃げ切ることは不可能。

◆世界を救うという被支配者の正義心は、支配者と同じ闇から来ていることに気づこう。
分離した両者を、この一瞬に気づくことで、自らの内で救えるのだ。

◆瞑想が苦手な人は、一日のうち1分でいいのでボーッとする
空白の時間を意識してみよう。
意識するだけで、何もやらなくていいです。
なんなら、何かやりながらでもいいです。
いや、10秒でいいです。
そうすると、いつのまにか気づくと日常が瞑想になってきます。
これが本来の瞑想です。

◆朝がきて夜がくる。
月があって太陽がある。
光があって闇がある。
物を投げれば下に落ちる。
地球の座標と質量とサイクルは、太陽系思考ともいうべき認識パターンを
ガッチリと人間に埋め込んでいる。
人間はこのサイクルに人生を重ね合わせて生きている。

◆このパターンは人間の二元的認識の根源ともいえるが、
他の惑星系に逃げて新しい認識を獲得したとしても、
いずれその星の思考パターンに囚われる。
ここが、外側の星に救いを求めるスピリチュアルの不毛な点だ。

◆外側に救いを求める前に、なぜ地球という幻想に根付いているのか、
何が自分という感覚を規定しているのかをハラを決めて見極める必要がある。
そのために、ここで生きているのだ。

◆宇宙レベルの存在の呪縛に気づきはじめると、どこにもグラウンディング
できない根源的な不安が浮上してくる。
このレベルになると、守るべき私を掴んだままだと恐怖で狂ってしまう。
ここからが、瞑想の本番だ。

◆いま立っている足の裏、いまモニター画面を見ている目、
いまこれを読んで浮かんだ思考、すべてに答えがすでにある。

◆ワークの参加条件として、精神的にも物質的にも「自立していること」が大前提です。
いかなる依存もあってはなりません。
その意味で、教える人も教えられる人も対等です。
ただし、双方ともに謙虚さは必要です。
謙虚さは、存在への畏敬の念から起こります。

◆「だって先生がそう言ってたもん!」
子供がそう言うと「ハイハイ、可愛いね」と笑うのに、
「だって師匠がそう言ってたもん!」
「だって経典がそう言ってたもん!」
「だって宇宙人がそう言ってたもん!」
「だって神様がそう言ってたもん!」
がまかり通っているのは何なのか?

◆共通言語になっていないだけで、例えば、視覚障碍者の間だけで
通じる触覚言語があるはず。
そこには私の知らない豊かなもうひとつの世界が展開しているだろう。
私たちが使用している言語は、たまたま多数派の共通認識から成っているだけ。

◆私たちも子供の頃は豊かな世界に触れていたが、言語という共通認識
パターンにいつの間にか組み込まれてしまっている。
もし視覚障碍者が世界の多数派ならば、障碍者と呼ばれることもないし、
言語や色や形をはじめ、あらゆるシステムが触覚や聴覚に基づいて
今とはまったく異なる世界が創られるだろう。

◆つまり、今この世界がこのような見た目であるのは、たまたま2つの
目玉で見るという視覚から成り立っているということ。
このことを当たり前と思っていると、思考の固定観念は外れない。

◆「あるある」の安心感は、村社会の密やかな始まり。

◆善いカルマと悪いカルマがあるわけではない。
そのことに気づく縁と気づかない縁はある。

◆カルマ=私という思い込みは、実体のない苦しみの根源。
私たちは、この瞬間の一時的な「担当者意識」にすぎません。
次の瞬間の担当者が「この私」である必然性はないのです。

◆この世界の幻想性を映像の比喩だけで説明する教えはまだ、
認識の二元性に囚われています。
幻想性は、私という存在トータルで見切られるものです。

◆3次元のワンネスにおいては、その二元性ゆえに認識は見かけ上
反転するが、世界と私の存在が入れ替わるわけではない。
入れ替わる枠などなかったのだから。

◆神聖幾何学は、私を宇宙という枠にはめ込む手強い概念です。
少なくともこの3次元の脳にとっては。
「それ」には直線も枠も支点も構造も次元も象徴もなかったことを思い出そう。

◆トポロジーを面でとらえれば、トポロジカルな柔軟性と相転移性は失われます。
3次元で視覚化されたクラインの壷は、むしろ裏表の概念を強めます。

◆細胞感覚、体壁感覚からなる個体意識の強すぎる私たちは、
世界を膜のように捉えてしまいがちです。
膜は幻想です。

◆「概念」という名の概念に気づこう。 「思考」という名の思考に気づこう。

◆世界に直接触れようとして、モノに染み付いた言語性を排除しようと
意図すれば、記号論的な沼にハマる。
ただ意図なく気づくだけでいいのだ。
脳の機能を変えようとする必要もない。

◆映画でも小説でも漫画でも、創作においては夢オチは手垢のついた
禁じ手となっている。
「この世は夢」という覚醒観(表現)も、そろそろ禁じ手にしてもいいのではないか?
大多数が普段見ている夢の感覚との齟齬があるから、混乱を招いている。
そもそも区別する人がいるだけで、区別なんてないし。

◆時空のあらゆるレイヤーは、この瞬間の存在の重みを受け止めきれない人
のための仮想避難所として設定されています。
自分が受け止めようとするから、重いのです。

◆何が言葉を成り立たせているかという感覚が極度に鋭い人は、
世界の発生の源を垣間見る能性がある。
たいてい、その前に神経をやられてしまうだろうけども。

◆下を向き、足元を見ながら歩いてみよう。 この時、視界に映っている
客観的事実として、私が移動しているのか、地面が移動しているのか、
判別がつくだろうか?

◆次に、顔をあげて歩いてみる。
視界いっぱいに映った世界が移動していくのを見ていると、ルームランナー
に乗って足踏みしているような感覚が生まれてこないだろうか?
私が移動しているのか、世界が移動しているのか?
私はどこにいるのか?

◆グラウンディングは、肉体の重みをどさっと地面に落とすことではありません。
グラウンディングのバランスがとれたときは、足の裏はぴたっと地面に着いていますが、
全存在を点だけで支えているような軽さが生まれます。
このとき、地球も同時に軽くなっているのです。

◆背骨を「置いて」おけるようになると、新しい存在感覚が生まれる。
背骨は進化の立役者だが、私たちは肉体的にも精神的にも、
背骨に寄っかかりすぎてきた。

◆「真実の世界」が在るという、うっすらとしたイメージを持っていないだろうか。
だが存在の背景に、世界という容れ物やキャンバス地があるわけではない。
世界という地が私という模様を成り立たせているのではなく、
私と世界は同時に顕われているのだ。

◆無我から目をそらせたい自我は、自己を見る怖れをすり替え、
客観的真実を知りたい(在ってほしい)という想いを抱く。
この想いが、世界という背景のイメージを創り続け、自己イメージを
その中にはめ込む。
この無意識に発生しているイメージに気づこう。

◆ただし、世界の存在を否定しないこと。
否定したらしたで、自我を押し殺し「無い」という客観的真実を探し始める。

◆私たちはいつも何かに「くっついて」います。
モノにしろ、身体にしろ、思考にしろ、くっつくことによって私という実体感を得たいからです。
しかし、無我が真実だとすれば、くっつく本体もないはずです。
とすれば、何がそれらにくっついているのでしょうか?
それは、実体のない「空虚さ」です。

◆底なしの空虚さが、対象を吸い込んで幻の実体を構築しようとするのです。
なぜなら、私は空虚さの闇が怖ろしくて耐えられないからです。
そして実は、私という空虚さと客観的対象がくっついているのではなく、
対象自体も私の空虚さが生み出した幻なのです。

◆つまり、執着とは幻が幻をつかんでいるという実体のない関係性だということです。
さらに本当は、怖れを感じる空虚な私という感覚も、幻が幻をつかんだ瞬間に
後付けで生まれているのです。
すなわち、すべてが実体のない幻であって、幻の背景に本体があるわけではないのです。

◆このことが見切られたとき、私の空虚さと怖れの源は、
単にどこにも存在しない真空のそれであったことを知ります。

◆「記憶」は、3次元の直列的時空が混乱しないための機能として脳に実装されました。
(見かけ上)限定された空間内に、過去現在未来のすべての事象が同時に起これば、
個別の肉体を持った私という自己同一性は崩壊してしまいます。

◆そこで、同時に起こったそれらをいったん記憶の貯蔵庫に入れ、
表層の認識世界から見えなくし、直列的に小出しにしながら時空を並べるという
アイディアを採用しました。
前後に並べる際には類推と分類によって、見かけ上の整合性を保ちます。

◆私たちは何かに向かって進化しているわけではありません。
なぜなら、世界はすでに始まって終わっているものの記憶を切り刻んで並べた、
古ぼけたアルバムのようなものだからです。

◆「座」禅、「立」禅、「歩行」禅は、見かけ上の開始と終了があるが、
瞑想は本来、始まりも終わりもない波のようなもの。
瞑想は24時間、本番です。

◆分離意識のまま進化を急げば、気絶している間に「ひとつ」という
名目の全体主義に回収されます。
この流れを許しているのも、私たち自身なのです。

◆派手な奇跡は、大衆向けのマジックショーのようなもの。
本物の奇跡はまさに今、目の前に起こっている。

◆「他人がいること」と一元性は矛盾しません。
自他の区別がなくなる特殊な意識状態をキープする必要もないのです。
私たちはすでに一元性の体現者であって、二元性とは単に認識の仕様にすぎません。

◆特殊な意識状態では、一元性と二元性が並列進行しているように
感じられることがありますが、認識の仕様によって気づきが点滅し、
点と点を繋ぎあわせて見ているだけであって、本来そこに分離はありません。

◆私たちの想像しうる自由とは、すでに管理の内にあります。
どこにも属さない本当の自由を見たら、エゴは怖くて逃げ出すでしょう。


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【覚醒からのつぶやき 15】        

2020/12/17

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。

花


◆神聖という幻想は、陶酔と恐れを分離させる。
神は自らを神聖であるなどと考えない。

◆「中心」という「独裁的」な定点は、重力の発生と同時に規定される。
定点と重力と重心は、この世界では常にセットでその都度、瞬時に発生する。

◆これはもう、逃れようのない構造のように思うかもしれないが、
3点セットを決定しているのは他でもない、この私自身なのだ。
なぜか? 『わたしは私を生み出したい』からだ!
私自身を支配する定点を外すには、この構造と意志を、
私の中心で思い出すしかない。

◆そして、この「独裁的」な中心が、限定された神の幻想を
生んでいることに気づこう。

◆生殖に基づいた性別は、二元性のなかでも、3次元に限定
された局所的な幻想にすぎない。
しかし、肉体に同化した原始的な認識は、生殖活動に神秘と
畏れを「組み込まれ」、創造の源と生殖の源を同一視してしまった。
これは人類史(という幻想)の呪いともいえる。

◆古来より、生殖の融合エネルギーは覚醒に利用されてきたが、
呪いを解けば、誰でもそのエッセンスだけを構造的に抽出し使うことは
可能なのだ。
ただし、呪いの被害者として権利を主張しつつ、概念的な性的志向と
刹那的な快楽に気絶し続ければ、呪いを継続させる同じ穴の貉となる。

◆なぜこれまで、肉体を増殖させてきたのか?
なぜ今また、肉体を削減する方向へ向かっているのか?
そこに通底する二元性の深い闇に、各々が自らの体験から一考すべき時がきた。

◆覚醒体験というのは、本来不要なショック療法なのです。
もともと誰だって知ってるんだから。

◆まず目の前の色と形をはっきり見てショックを受けること。
そこに答えが全部ある。

◆赤ちゃんは何も知らないけれど、すべてを知っているものの顕われ。
誰もが、かつては赤ちゃんだった。

◆すべてを知らなくてはならないという私を手放せば、
すべてを知っていたものへと還る。

◆宇宙には音がなかった。
「・・・・」というところにいたら、突然「ピキッ」と亀裂が走って
「響き」がはじまった。
響きはピキピキピキピキ、瞬く間に樹形に拡がっていった。
ピキピキは、はじめは鮮烈な目覚めの音だった。

◆すぐさま速いところと遅いところと高い音と低い音が分かれていって、
それぞれの音楽が生まれた。
それぞれの音楽を聴くひとも分かれていったが、はじめのピキピキは、
それぞれの音楽の中心にいつもある。
そのことを知らないひとはいない。

◆ガチャガチャしたゲームセンターから出たときの一瞬の無音、
世界というゲームから降りる瞬間はこの感覚。
この落差を客体化する前に、中心にシュっと収めればいいのです。

◆パチンコ屋の自動ドアの前を通りすぎるとき、店内の淀んだ空気と
気違いじみた音が、一瞬の白昼夢のように全身に襲いかかる。
静寂から見た世界も、このような狂乱の夢だ。
この世界は、あまりにもうるさい。

◆「それ」の直観はあまりにも速く軽すぎて、すぐに通りすぎていってしまうが、
すでに知っていることだから本来、形にする必要もない。
あえてこの世界にピン止めするには、形・色・音・字に一瞬で結晶化するしかない。

◆そのとき、至福の内圧と肉体が響きあって、どうしても出たくて
しょうがないというものだけが、形となって表現される。

◆転換された視点からもたらされる至福は、常にこちら側に溢れでてこようとする。
それを知らせて奮い立たせようという意思があるからだ。

◆至福は希望となるが、希望を夢みているだけでは、それは常に
夢のままとしてある。
そこで苦しくても、この世界をいったん請け負う覚悟が問われる。
覚悟が決まると、怒涛の恩寵が雪崩れ込んでくる。

◆世界は包み、包まれるものだが、そこに膜はない。

◆わたしたちがこの世界で至福を至福として体験できるのは、
至福の内圧を発散しきれない肉体との抵抗と摩擦があるおかげなのです。
発散しきれてしまえば、それはそれとしてあるだけで、
至福と呼ばれるものもないのです。

◆至福にとっては、それを100%表現しきれない肉体は苦痛です。
それでも至福は、それ自体としてある安らぎを捨ててまで、
それを伝えてこようとする意志を持たされています。

◆人並以上にちゃらんぽらんで眠りこけてきた私が、
こんなこと促されて言ってるんだから、
やっぱり今回は分かれ目なんでしょうね。
みなさんは、もっとうまく乗っかっていけますよ。
というか、私が足をひっぱってたんでしょうね。
すみませんでした。

◆12月なのにベランダのゼラニウムが満開に。
今年は何かがおかしい。
夢が崩れてきている。
こういう時は、脈絡のないシンクロが起きやすくなる。
飛び超えるチャンス。

◆今の世界は悲惨なように見えるけど、視点を変えれば
決して悪い状態ではない。
物語に巻き込まれるかどうかが試されている。
本当にチャンスなのだ。
気を確かに保っていこう。

◆いまさらだけど文字にするときには「私」と「わたし」の表記を
使い分けています。
意味がわかっている人には、どっちでも関係ないけどね。
でもたまに文字数で仕方なく「私」にするときがある笑

◆先人たちが開いてくれた回路を軽いノリで享受できる今は有難
すぎて恐縮する。
悲痛な苦行で迷路のゴールを見つけてくれた。
迷路をショートカットできるのは、わたしたち全体がつながっている信頼があってこそ。
それを忘れて軽薄に回路を自己実現に利用すれば、もとの黙阿弥、それ以下に落ちる。

◆次元というのは本当は分かれてあるわけではないのです。
次元というアイディアは、数学に例えるならば、シンプルな式に辿り着くための
演算の過程みたいなものです。
ただ「ひとつであること」を知るためには、まずは3次元の固定観念は
外さなければなりません。
ここが勘違いしやすいところです。

◆まだ今は「それ」の表現がうまいかどうかで人が集まってくる時代だが、
そのうち誰もが当たり前に「それ」の視点から生きるようになる。
そうしたら「それ」を教える人なんていらなくなる。
それが健全な世界。
私もそこへ向かって信頼を100%にしていきたい。

◆【直接知覚とは 1.】
「花そのもの」とは何でしょうか?
分離された存在である私たちは、ひとつの花を見るときも、
それぞれの知識・言語・文化・身体によって規定されたフィルターを通して、
すでに意味の付随されたものを見ています。

◆客観的に花を見ようとして、写真や映像で写し撮ったとしても、
撮る人の意図や機材の性能・フィルター・ピント・解析度の違いによって、
決してひとつの絶対的な花が提示されることはありません。
それはすなわち「像を結んだものはすべて相対的なものである」ということです。

◆それでは、「花を直接知る」とはどのようなことでしょうか?
相対的な像は、時間の経過の中でそれを観測する視点の差異によって
無限に分岐されますが、時間とそれを観測する者が存在しないとき、
それはそれそのものとしてすでに在るのです。

◆【直接知覚とは 2.】
ある瞬間に切り取られた像は、次の瞬間に観測されればすでに相対的
なものとなりますが、時間の流れの中にない瞬間そのものには相対はありません。
その瞬間、それは相対から完全に自由なのです。

◆そのとき、その花の色や形がどのようなものであっても花それ自体の
本質とは無関係です。
なぜならそこには、前後で比較する相対的視点がないからです。

◆すなわち、私たちが「花」と呼んでいたものの色や形は相対的属性
にすぎなかったのであり、絶対的なそれそのものは、常に観測される以前
に存在していたということになるのです。

◆【直接知覚とは 3.】
では、そのことを「この私」が直接知るにはどうしたらよいでしょうか?
それは、この私という視点を外してその瞬間に在ることしかありません。
そのとき、花と私を区別するものもなくなります。

◆花とも私とも呼ぶことのできない直接的な存在が、在る/無いの区別の
前に「浮いて」います。
それは在るとも無いとも規定できないので私の乏しいボキャブラリーでは
「浮いている」という表現しかできません。
それを表現する言葉が地球上には存在しないからです。

◆私たちがそれを認識できるのは常に一瞬後の手触りと真空の直観に
よってしかありません。
それでも、それは、鮮烈な触覚をもって迫ってきます。
なぜなら、在るという本質は、わたしの本質そのものであり、そのことに
触れて思い出すときに、わたしの核心に直接響いて震えるからです。

◆【直接知覚とは 4.】
これは哲学的な存在論の話などではありません。
直接的なわたしたち自身の話です。
哲学は思考という自ら課した限定によって「語り得ぬものについては沈黙
しなくてはならない」という地点で常に堂々巡りする運命です。

◆「それ」の直接知覚においてはこの「語り得ぬもの」の沈黙の先に触れられるのです。
そこには限界がありません。
ただし、その「触れられたもの」は、哲学とは異なる次元でまた「語り得ぬもの」
であることを圧倒的な至福をもって発見するのです。

◆もちろん、至福もまた相対的な感覚です。
しかし、ここでそもそもなぜこのような話が問題になるのかと考えたとき、
それは常に私自身の救済という個人的な衝動に基づいていたという
原点に立ち戻ります。

◆この衝動を利己的で幼稚なものであると笑い飛ばすことができる
人間は一人もいません。
そのことに素直になってください。
そして本当は、それが相対的であろうと絶対的であろうとそんなことは問題ではなく、
私が救われれば即、全体が救われるのです。

◆中心は常に変化し、ある瞬間の中心と次の瞬間の中心は別個の
世界に属します。
瞬間瞬間で世界全体のバランスが同時に組み変わり続けるのです。
連続した自己同一性を保ちたい自我は、事象の連続性の中に自己の実在
を見出そうとします。
しかし、連続する事象も、連続する自己も、存在しないのです。

◆定点に居続けたい自我は、一瞬前の定点を連続させようとするため、
今この瞬間の事象の認識に間に合わず、間に合わなかった空白を捏造した
イメージで編集します。 3次元の重心に規定された身体は、中心のバランス
を常に測っています。
中心がズレると連続性を保つため自動的にバランスを補正します。

◆しかし本当は、身体という連続した実体も存在しないのです。
実体のない身体と同化した自我は、連続する世界という幻想を、
あやういバランスの綱渡りで生み続けていきます。

◆幻想は幻想としてあってもかまいませんが、それを存続させたい
という想いが、実体のない自我の苦しみを生んでいるのです。
苦しみの正体を見抜くには、闇雲に執着や世界を否定するのではなく、
何が問題なのかを構造的に理解する必要があります。

◆自分の中の重苦しくて見たくない部分を無視して、ワクワクする
刹那的な引き寄せばかり志向し続けると、自分自身がどんどん分離していく。
完全に無我と時間の幻想を見切れていればそれも可能だろうが、
そうでなければ、暗い影を抑圧していないかは正直に見つめよう。

◆覚悟をもって自身の見たくない闇を見、正体が暴かれたときに
起こる信じられない軽さと安堵は、エゴの望みで引き寄せられた
小さな快楽などの比ではない。

◆注意すべきは、自分の闇を他人の闇に転化しないこと。
他人の闇を暴こうとすれば、自分の闇がさらに深まる。
自分の闇を暴けば、世界の光と闇の分離もなくなる。

◆肉体との同化が完全に見切れていなければ、魔法によって
奇跡を手に入れようとしても、肉体に刻印された記憶が引き戻す。
この世界に肉体の同化から完全に離れている人はいない。

◆電車の空席に座るときは、瞬間的に隣の人の正中線を見ている。
正中線のズレている人は、必ず寝ると寄っかかってくるから笑
(ズレてない人のほうが珍しいが)
電車では瞑想状態に入りやすいので、私の隣に座った人はつられて
高確率で寝てしまうのだ。

◆隣の人の呼吸は大抵、とても浅くて胸呼吸している。
隣にいるとどこに意識があるかわかる。
私の1回の呼吸の間に3回ぐらい呼吸している人が多い。
生涯の呼吸の回数で寿命が決まるという研究もあるので、
もっと意識をハラに落とさないと早死してしまうよ〜!

◆理不尽なことが起こったら、それがいかに理不尽に見えても、
自分の中に浄化されていないものがないかどうかチェックする。
この時、自分を責めることなく、ただありのままの事実を見るようにする。
事実を受けとめきれなければ、その時はそれでかまわない。

◆この姿勢で見続けていることによって、起こってくる事象のパターンが
見つかるようになる。
人生何十年か生きていると、大小合わせて数回以上は同じパターンが
繰り返し起こっていることに気づく。
すると「またお会いしましたね」と戦友に再会したような余裕が前回よりも
少しだけ生まれる。

◆気づきがより繊細になっていくと、このサイクルが加速していき、浄化が進む。

◆ワークでは今のところ取り上げてないけど、この辺は反応パターンが変わるまで
徹底的にやったほうがいいです。
あんまり厳しく言うと鬱陶しいだろうけど、やるしかないんですよ、実際。
本気でやったら変わります。

◆進化を焦って高次元の軽さだけを目指しがちだが、高次元はすべて
の下位次元を経験し包括しているからこそ軽いのだ。
表面的な軽さだけを切り離せば、分離した次元が常に取り残され重く沈殿していく。
平面的な軽さではなく、立体的な軽さを目指そう。
立体的な包括は、無我と慈悲によって成される。

◆ぶっちゃけ、小難しい悟りの話をしてるよりも、能天気な女子高生が
キャッキャ笑ってるほうが瞬発的な波動は高いんですよね。
まあ、自覚がなければ進化もないとはいえ。
正しいか正しくないかに執着して泥のように重い人を見かけますが、
常にこの瞬間の状態自体に気づいていなければ本末転倒ですね。

◆自我は「意味」で育つ。
自己は「構造」で開く。

◆「世間」という幻想は、創造力と直観を隠す。
「世界」という幻想は、信頼と安らぎを隠す。

◆私たちは、動くお地蔵さんのようなもの。
ひとりひとりが、その時その場で小さな祈りの姿で見守っている。

◆自己肯定感の自己は無限。
自己否定感の自己は有限。

◆人を疑いだすとキリがないが、どの人も「それ」であることは疑いようがない。

◆神自身に他者はいない。
よって、神には責任も罪悪感もない。
だから、神を恨んでもしょうがない。

◆責め合いたいから生まれてくる世界と、愛で合いたいから生まれてくる世界がある。
それぞれの世界が、それぞれの願いどおり生まれてくる。

◆ひとつの瞬間はすべての過去現在未来を含む。
この瞬間が救われれば、ひとつの宇宙が完結する。

◆世界の悲劇を終わらす前に、私の悲劇を終わらせよう。

◆蜂の社会には、一定数のまったく働かない個体がいる。
女王蜂は、働かない蜂によっても生かされている。
人間の社会も、そのぐらい寛容でいい。

◆宇宙の神秘にのめりこむと、真理の半分が隠される。

◆だからといって、宇宙の神秘を妄想と鼻で笑えば、
半分どころか全ての真理が隠される。

◆神秘の語呂合わせと数合わせにハマると、宇宙の頭数合わせに使われる。

◆宇宙に潜む、公理・定理・原理・相似・幾何・数式・物理・象徴・
図形・次元・陰陽・数秘・言語・波動・身体・重力・天体・運動、
その他ありとあらゆる神秘の相関は、こちらの世界に引きとめて
おくために創られた、荘厳な知育玩具です。

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【覚醒からのつぶやき 14】        

2020/12/10

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。

ゼラニウム
12月に満開になったゼラニウム


◆存在の始原のスパークは、この世界に受肉したからにはいちどは
ハラで明確に見ておかないと話が進まない(通じない)。
ただし受肉の先の仕組みは、その役割の人が取り組む。
善し悪しはともかく、解脱志向の呪縛は受肉の手前のスパークで世界
をぶつ切りにしてしまうので、興味が続かないのだ。

◆ハラで見るときの存在の始原は、受肉の「予感」を内包するので、
この視点から直観された世界像は身体の触覚の延長からなる。
ただ、ハラは数ある始原の入口のひとつにすぎないこともまた、
明確に見ておく必要がある。

◆物語の構造的な強度は否定しないが、この強度は世界を強固に
保つかわりに、物語に内在する私たちに、物理的に引き裂かれるような
痛みを与え続ける。

◆物語の痛みを物語で救おうとして失敗してきた私たちは、
物語をメタ物語で救うアイディアを思いついた。
ところがメタ物語を構築する「目」の転換が不十分だったために、
実際には単に物語の延長の上位階層の設定にとどまり、
痛みをさらに複雑にしてしまった。

◆目の転換だけは意識的に取り組むしかない。
知識を仕入れるだけでは転換しない。

◆私は物語を否定しないし、物語から数々の恩恵を受けてきた。
いまこれを書いているのも物語だし、物語の切なさ美しさを味わってきた。
だが、物語の延長で世界を記述したいという欲求はない。
ただ私の知り得た範囲で、存在がくつろげる瞬間の可能性を提示するだけ。

◆物語において、私は虫の意識から生まれたこともあったし、
魚の意識から生まれたこともあった。
幾何学の集合体から生まれたこともあったし、非線形の連続体から
生まれたこともあった。
もちろん個人的に生まれたわけではない。
私たちは、どこからでも生まれてくる。

◆「落下して/弾けて/引っ張られる」というのは人間特有の受肉だ。
その瞬間、重力と世界が同時に生まれる。
3次元では、この受肉のプロセスを瞑想によってはっきりと追体験できる。
ここをまず知ってほしい。

◆伝統的な体系では、修行中はこの受肉の追体験に意味を見出すことは禁じられる。
受肉のプロセスは歓喜とともに苦しみの始まりだからだ。
ここが、世界の記述と世界の無化の志向の分かれ道だ。
ただし、最終的にはこのプロセスも理解される。

◆融合による回転のエネルギーは二元性の見かけ上、トーラス状になる。
3次元のトーラスの断面は、形も機能も世界の「会陰」そのものといえる。
だが、これらの二元性の創発は宇宙ではごく原始的な形態にすぎない。

◆女性は落下による創造を体感的に理解している。
エクスタシーの中心に「落ちて」子宮に世界が内包される感覚を知っているからだ。
女性原理はこの世界の鋳型なのだ。

◆落下だけでは底がないが、下から突き上げるエネルギーが融合すれば
世界が回り始める。
これは男性原理のエネルギーだ。
ただし、男性エネルギーは偶発的(神から見れば意図的)な一石で(見かけ上)
唐突に発生し、その都度世界は生まれたり生まれなかったりする。

◆見かけ上の偶発的創発は、擬人化して言うならば、女性原理がそれを
受け入れるか入れないかによって受胎が決まる。
その相似形が生殖だ。
創造の基本は拡大なので、受胎の準備が整った瞬間はすべて利用される。

◆落下の方向性は自我を落とすときにも利用される。
この時には、上方向のエネルギーに結び付けず
(意図が働くとエネルギーと結びついてしまう。この意図を落とすのが修行の目的)
に底なしの真空に「送り返す」。

◆落下は、次の子宮に入るときにも利用される。
ただし、落下の直前まで上下という区別はない。
ここを見切っていないと、進化を上方向の階層に見出そうとして円環にはまる。

◆「根拠はチャネリングです」と言われると、そういう信念体系なのねという
他ないが、この世界自体が共通認識という幻想を受信しながらチャンネルを
切り替え続けていることを見れば、決して笑うことはできない。
共同幻想もチャンネルも、信じれば磁場が形成され、現象が動く。

◆現象が動くのなら、プロセスがブラックボックスでも、はたまた神話を捏造してでも、
使えるものは使おうという「ポジティブな気絶」が広がっている。
この場合、ある種のスキゾ的回路は開かれるが、身体を基盤に人間が積み上げて
きたエソテリックな回路は閉じる。

◆それを自覚したうえで、チャネリングを使うことはある。
全ての直観にはチャネリング的要素が多かれ少なかれ混入するが、
RVのようにイメージと意図の出現前に触れると、圧縮された情報が意識に
引っかかるので、それを自分の言葉で解凍する。
その場合も必ず、自身の体験とのすり合わせを行う。

◆知己の修行者によると、某国の伝統的な体系の寺のインストラクション
でもチャネリングを使う流派があったというから驚く。
それはともかく、究極のチャネリングは、等寸の自分自身の即時のフィードバックだ。
本当は常にすべての人間がそれをやっている。 情報は常に、開示されている。

◆体験もまた、その人にとっていくらリアルであっても相対的な現象にすぎない。
だが、そもそも覚醒や悟りが問題になるのは個人においてしかないので、
個人の体験と乖離した悟りなどないのだ。
知識で無我を持ち出して、体験を否定すれば、どこにもたどり着かない。

◆極度に純化した魂の持ち主に出会ったことがある。
側にいるだけで涙が出てくるほど透明な人だった。
生まれたときから、老成したタルパを意識の奥深くに従えていて、
タルパとの絶対的信頼によって自己の高潔さを保っていた。

◆タルパの協力の元、他者の霊視をはじめるようになると、
信頼はますます深くなっていったが、あまりにも全霊で他者の原初の領域
にまで関わりすぎたために心身の境界が崩れはじめ、30代で夭折してしまった。
肉体を離れる直前に、タルパは何を語ったのだろうかと、
今でもふとその人のことを思い出す。

◆魂という言葉を使うと「無我じゃないんですか?」と言われる。
魂も実態はないが、その人を集積させる磁力の性質がハートの奥で響く
ポイントがあって、それを呼ぶ名称がないと不便ということはある。
神やチャクラといった言葉も同じく、便宜上の名称。

◆次元を貫く超個の責任を自覚しても、そこに過剰な使命感を持てば、
個の妄想に逆戻りする。
究極的には、ただ在るだけで責任は果たしている。
在ることに一切の努力は要らない。
世界は初めから救われている。

◆方便は、絶対的な目的に向かわせるものではなく、相対的なバランス
のあいだに引き戻すために使われる。
だからその時々で一見、矛盾しているように見える。
常に思考や現象の意味内容ではなく、自身のバランスが偏っていないかを見る。

◆バランスの真ん中は崩れないという単純明快な真理がある。
そのことを変化し続ける動きの中で見切る。
これだけ。

◆本来、すべてのバランスは完璧で、個々の現象の顕れの差はあれど、
偏りというものはない。
偏りの違和感は、身体との同化と自分という定点の維持願望から生じる。

◆世界を均一にしようとするから、努力が空回りし不満が続く。
差の真ん中にいれば、差は存在しない。

◆365日逆立ちしてます。
一日一回天地を逆にして、足の裏で宇宙にグラウンディングし、
手のひらで地球を支えてみると、意識が変わります。
腕に体重をかけずに腸腰筋をストレッチしながら、上方向へ体全体を引っ張りあげるのがコツ。

◆逆立ちの際、頭頂は地球のコアに向かって突き刺すイメージで。

◆逆立ちしたら、頭頂を留意したまま、腕の間から世界を見渡します。
このとき体感的に「逆になっている」という意識が出たらそれに気づきます。
繰り返していくと、空間の上下感覚の固定化がどこから生じるのかが理解され、
これまで無意識だった想念レベルの限定を見切れるようになります。

◆どれほど高度なレベルの瞑想でも、身体が瞑想するかぎり、上下の規定は
アプリオリに伴っています。
上下があるから人は瞑想できるのです。
上下感覚を完全に外せたら、この宇宙は卒業ですが、そんな「人」はいない。
つまりそれは「いない人」になるわけです。

◆身体は使ってみてはじめて神秘の玉手箱だということに驚愕する。
人間は未だ身体を捨てる段階ではない。
そのことに若干の危惧がある。

◆百歩譲って、ここが7回目の地球と仮定しましょう。
なぜまたここに生まれてきたのか?
それは身体を置き去りにしたからです。
一瞬前の6回目が嘆いてます。

◆7回目どころか無限回目の地球です。

◆正しさではなく、事実を目指そう。

◆裏話だけど「今回はこれにしよう」と決定する知性体が磁力を
コントロールしていて歴史も毎瞬書き換えてる。
これだけ聞くと狂ってるように思われるね 笑

◆ウイルス騒動なんかがあると「やっぱり身体はもう古いから捨てよう」
って方向が加速するけど、それもこの知性体のコントロールです。
未だ、今は早いと個人的には思いますが、どうすることもできません。

◆何回もガチの修行者をやったけど、今回はじめて女性の身体として
生まれたという人は多いかもしれない。
見ないふりをしてきた片側が、ここに呼んだのです。
自覚的に両性を選んだ人もいるが、重力とDNAの呪縛で性別非適合
の悲劇も起こった。
これはもう少しの辛抱。

◆知性体に名前を与えなければ、本来の機能以上の力は持ちません。
スピリチュアルと称してそれを名付けて方向性とパワーを供給しないでください。
すべてが無化されたところにしか安らぎはありません。

◆ワークの参加者さんが「変化しようとすると、家族が足をひっぱる」と漏らされました。
家族とのカルマ的なつながりが深い場合、ここぞという場面で必ず何かしらの
現象が起こってきて、変化を引き留めようとするベクトルが働きます。
このとき、カルマに無自覚な家族を責めても仕方ありません。

◆視点を転換すれば、この現象は私自身の中で起こった私の問題であって、
家族はそれを気づかせるために自ら傷ついて役割を負ってくれているのです。
現象は現象として対処しますが、それと同時に、私自身の変化への怖れや
関係性の依存を見極め、エネルギー的なねじれを浄化していく必要があります。

◆徳という言葉はエゴを強化しやすいのであまり使いたくはないのですが、
こと修行においてはカルマや徳が直接作用してきて、起こってくる現象の意味
を解かないかぎり先に進むことはできません。
そこに気づけるか気づけないかは徳に左右されます。

◆「それ」自体はここにあって、それに辿り着くためのすべての努力や熱意は
それとは無関係ということもできるが、だからといって膨大な過去の物語に
敬意を払わなければその人の目覚めはそこで終わる。

◆感動や愛情を胸の奥で感じたことがないという人が思いのほか多くて驚く。
身体の機能で無駄に備わっているものはひとつもないので、機能自体は
働いているが、胸の感覚を素通りして頭の概念として感動を認識しているのだ。
胸の奥には現象世界と直接触れて振動している場がある。

◆振動は身体や感情以前にあるが、この精妙な場を見つけるにはいったん
現象世界での経験を通して感覚を育てていく必要がある。
感動や愛情で胸が震え、内圧が高まり身体が耐えきれなくなる時、身体の反応
をそこに置いたまま内側水平の奥深くにフォーカスすると、高速に振動する
静寂の場が見つかる。

◆このとき、頭でフォーカスしようとすると振動の場は隠れる。
胸それ自体で直接フォーカス(触れる)する。
ただし、この発見に感動してしまうと再び内圧に押し戻されて
肉体の限界で認識は止まってしまう。

◆このギリギリのラインに踏みとどまるとき、瞑想の訓練で培った無執着
が具体的に発動する。
瞑想はこのためにあったのだ。
感動は肉体との同化で起こる。
感動屋の修行者や指導者は多くみられるが、感動と至福を混同しないように見極める。

◆ただし、感動を止めようとして心身を不感症にしない。
完全にオープンな状態では、胸に直接触れてくる世界は鮮烈な触覚と
爆発を誘導する。
それは決して止めることなどできない。
ここで現象側にフォーカスすれば肉体は爆発に耐え切れずに失神するか、失速するしかない。

◆だから、現象としての体験は常に一過性のものとなる。
だが、台風の目の中にある静寂の場の振動は、いかなるときも消えることはない。
それ自体、どこにも依存しない源泉だからだ。
対象のない祈りは、この場と軸が十字に重なって垂直に放下する。

◆圧倒的な静寂に吸い込まれ続ける至福は、決して消えない。

◆まず、現象世界をこの身体でくっきりと体感してみてほしい。
そこから離れた神秘など、ない。
世界を頭で切り捨てても、切り捨てているその頭は、現象の創造物なのだ。

◆愛と信頼と慈悲、胸の奥でこれらの振動の僅かな差異を見極める。
ここにはまだ、対象がある。
関係の中でそれらを探そうとしない。

◆「存在」からの指示で、グノーシス的二元論による世界統治の歴史を
眺めていたら、エネルギーが妙な渦にはまって直観が切断されてちょっと焦った。
まあ「あれ」は切断が目的だから当然なんですが。
こうやって介入してくるんですよ、あれは。

◆わかる人にはわかると思うけど、好奇心と正義感からあれに
首をつっこんではいけない。
生まれてきた目的はそこじゃない。
ミイラ取りがミイラになる。

◆問題を問題にしない。
ひとつも問題ない。

◆当たり前の話ですが、体験されたものはすべて一瞥にすぎません。
信頼の確定と智慧の発露が伴わなければ悟りとはいえません。
ここは正直に検証してください。

◆認識の転換前に理解を急いで名前を付ければ、
高貴なものも卑近なものに転落する。

◆興奮の荒いエネルギーを頭に登らせずに、ハラに落として再利用してください。
興奮の快楽の虚しさに気づいたら、エネルギーを無駄使いしないよう、回路を組み替えよう。

◆覚醒は感覚の興奮の延長にはない。 薬や外的な刺激によって故意に
感覚的なピントを合わせても、存在との一致の自覚が生じない。
それだと存在の「悲しみ」が取り残される。
悲しみがこの世界に沈殿していって、ますます重い世界が生まれる。

◆記憶容量に限界はないが、扱うべき分しか思い出せないようになっている。
目玉を前に付けて死角をつくり、すべて忘れて生まれてくるのは、
未知なる部分を設定することで探究心を起こさせるため。
新たに思い出すたびに、進化するように仕組まれている。

◆知りたい/知るのが喜び/知らないと不安/というのは「見えない(知らない)死角」
を構造的に設定されたからで、それがこの世界の進化の原動力となるが、
「見える/見えない」という二元性の構造に囚われるかぎり全てが知られることはない。

◆「知りたい」という強迫観念は人を突き動かすが、この衝動を一時的にでも
「置いておく」ことができなければ二元性の円環を見切ることができない。
この資質が備わった人は稀だ。
意図的にやろうとしても大抵の場合、無執着の概念や虚無感に陥ってしまう。

◆好き嫌いとセンスの主張の段階は、もう卒業しよう。
人生は表現以前の、自明かつ深淵なもの。

◆タイミングはすでに決まっている。 インスタントに覚醒体験しても、
核心と自覚がズレたままで、その意味が理解できない。
私は30年後に理解した。

◆もともとワークは一瞥体験者の自覚のズレに自ら気づいてもらうために始めた。
ズレの大小は人それぞれだが、私にそれが見えて修正したとしても、
タイミングが合わなければ自覚にカチッとはまらない。
そこも含めて信頼するしかない。
覚醒状態の伝達というよりは、信頼の意義を伝えることが本意。

◆パートナーは扉でも蓋でも窓でも何でもちょっとだけ開けっ放しで、
私がそれをキッチリ閉めて回っている。
そういう人ほど、ひょいひょい「あがって」いくんだからズルいね 笑
私はそういう役割なのだ。
死に際に、開いた蓋がチラッと気になって戻ってきてしまった 笑

◆覚醒してないものなどひとつもない。 認識のピントのズレだけがある。
ピントがズレていても世界はぼんやり映ってはいるが、直接見ているわけではない。
世界はもっと鮮烈なのだ。

◆自我が芽生えた直後から、ここに存在してしまっていることが意味不明で
怒りまくっていて、怒りを理解しない親に苛立っていた。
理解されない怒りは喘息とアトピーとなって身体に表現された。
病を主張し、親に奉仕させることが当然の権利と思っていた。

◆30年間、自分自身がここに呼んだことも忘れて責任転嫁の
狼藉三昧だったが、今となっては、見捨てず見守ってくれた
親の愛に驚きと感謝しかない。

◆地球の中心の空に、ハラそのものでグラウンディングすると、
重力から解放される糸口が見つかる。
この一体感覚を地底のシャンバラと呼ぶのも一理ある。
世界と身体は一体化していて、自身の身体性に目覚めれば入口が見つかる。
一体感なく地球を掘っていってもシャンバラはどこにも見つからない。

◆もし地球を救いたいと思うなら、外側から俯瞰するのではなく、
内側と一体化し、内と外の消えたところから働きかける。
それはすなわち、この身体をもって自身を救うことだ。
宇宙も、その中にある。

◆ちなみに、あらゆる使命感は幻想なのでワークはそこにフォーカスはしません。
安心してください。

◆世界は身体と分かち難く結びついていて、たとえ肉体の境界を超えたとしても、
そこには新たな身体性がある。
私たちの定義する身体の形は超えていても、どの層にも固有の身体性があるのだ。
身体の幻想を見抜くことは世界の幻想を見抜くことと等しいが、
内と外を分ける形だけを見ていても見破れない。



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【覚醒からのつぶやき 13】        

2020/12/10

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。

カクタス
今年も咲いたクリスマスカクタス


◆類推と分類という自我の進化の特性をシャットダウンせずに
「置いて」おけるかどうかが瞑想の鍵です。

◆「置いておく」のはどこか?などと考えない。
物質にしろ思考にしろ、どのレベルで気づくかによって「置く」感覚は異なる。
最終的には距離と時差が消え、置いておくもの自体がなくなる。

◆「置いておく」ことは、場所に固定することではない。
無執着とは、物理的な制限を超え、あらゆるものをそこに置いておくことだ。
すべてが完全に置いておかれた時、私と乖離するものはなくなる。
私のすべてが置いておかれたとき、何も残っていないそこに、
世界がまるごと置き換わるからだ。

◆言葉と身体の癒着を触覚的に見切れるようになると、
思考に巻き込まれる前に気づけます。

◆球も中心も、先にイメージしないこと。
球が先にあるのではなく、どこにもくっつかないことによって同心球と
中心は瞬間瞬間に同時に決定されるのです。
すなわち宇宙も今、決定されます。
ただし、決定を外側から観測する者はいません。

◆繰り返しになりますが、宇宙が球であるのは3次元の直観にすぎません。
3次元においてどこにもくっつかないときの等間隔感が球の見かけを
予想させますが、あえていえば無数の観測が時空を超えて重なり
モゾモゾ動き続ける泡の集合体のようなものです。
これも現象側から切りとった輪郭にすぎません。

◆羽毛も石も、神も悪魔も、蛆虫も宇宙も、等しく今、爆発しています。
それらの出現は同じところから唐突に起こります。

◆未来という幻想へ向かう、身体前面に偏った意志のエネルギーを、
いったんハラに落としてから、尾てい骨から背骨をつたって頭頂までまっすぐ通そう。
前面に漏れ出していたエネルギーを、別の次元で再利用するのだ。

◆胃の辺りの肋骨の一部(5~7)が前に飛び出ている人(特に男性)を
多くみかけるが、未来という前方へ向かって意地や頑張りが空回り
していることが多い。 逆にここの間が縮こまり内側に巻き込んでいると
他人の気を受けやすくなる。

◆肋間筋を呼吸とともにストレッチするように上下にひっぱりあい、
肋骨全体をスッと下方向に収めると、気が昇りにくくなって意識が
すとんと丹田に落ちる。
そうするとあまり意識してこなかった肋骨の8~10の微細な意識が芽生えてくる。

◆肋骨は、前面からなだらかに上方向へカーブして各背骨につながっている。
この、上方向へのラインを前から後ろへひとつひとつ具体的に意識でなぞると、
後方斜め上方向への意識が芽生え、エネルギーが引きあがる。

◆この状態で、頭頂上方45㎝、斜め後ろ25㎝ぐらいのところから
全体を見渡すようにする。
この全体のラインが整うと今の意識に瞬時に居られるようになり、
思考の出方がまったく変わる。

◆3次元世界の便宜上、認識の覚醒、ハートの覚醒、存在の覚醒があり、
それぞれの体験の違いがしばしば混乱を招くが、それらの3つが垂直に
並んですとんと落ちるとき、肉体という幻想の必然と神秘を知る。
肉体はただの泥団子ではないのだ。

◆垂直のエネルギーに龍だの蛇だの名前をつけると、神話の世界に逆戻りする。
エネルギーはエネルギーそれ自体として扱い、自我と結びついた魅惑的な
実体を持たせようとしないこと。
どんなに神秘的に見えることでも、すべては具体的なバランスのもとで起こっている。

◆「自分で選択できる」という信念は、希望に満ちた想念世界を築くが、
それ自体がすでに起こってしまっている選択なのだ。
想念から想念へと逃げ回り続けると一見、軽くて楽しいが、存在の沼を置き去り
にしたまま、どんどん希薄になっていき、想念それ自体に幽閉される。

◆いちどでも選択の現場に立ち会えば、信念は吹き飛ぶ。
核分裂のようなエネルギーの中に飛び込んで、自分で選択できようはずもない。
だから、その目で見てきてほしいのだ。
こう言っているのも、私の選択ではない。

◆覚醒が今回はじめての方は、トラップに気をつけてください。
何回もひっかかってきた人は、今回はトラップが大掛かりなので気をつけてください。
それにひっかかって、物語側の綻びを見つけてやろうという
野望を持たないようにしてください。

◆ゴールがあるという幻想は捨てる。
死も悟りもゴールではない。
この果てしない世界で正気を保つには、完全に発想を切り替えるしかない。

◆家族を付属物と見ず、各人それぞれの宇宙を尊重し、自立しよう。
血ではなく、法を見るのだ。

◆「正確に」というのが曲者で、明確な体験が起こらないのは、正確にやって
いるつもりでも気づきに自身の認識パターンが付随しているからです。
認識パターンはカルマそのものの顕われで、瞑想の微細な領域まで、
あの手この手でどこまでもつきまとってきます。

◆ここは瞑想のトライ&エラーでパターンを見切って手放していくしかありません。
瞑想は体験を目指してしまうと体験が遠のきますが、 だからといっていつまでも
明確な体験がおこらず平行線をたどっているとしたら何かがズレているのです。
正確に行えば必ず自動的に運ばれていきます。

◆トライ&エラーで認識パターンを手放していくには、自己への信頼と、カルマの
理解と、ダンマへの信が必要です。
この3つがないと手放しているつもりが逆に、どんどんパターンを強化していってしまい、
瞑想は遅かれ早かれ頭打ちになります。

◆ただし、3つの信は頭での理解ではなく、自身の気づきの積み重ねから
体験的に確定していくことが重要です。

◆物の名前も、人の名前も、自分の名前も、神仏の名前も、世界のすべての名前を、
便宜上の記号として飄々と扱うことが、深刻にならずに生き切るコツ。
名前になる前の顕れだけを直接読み取り、名前にせずにそっと愛でる。

◆自我が芽生える前の子供時代は、みんな直接世界に触れていたし、
人目を気にすることも明日を思い煩うこともなかった。
名前のついた世界をいったん体験した上で、もう一度それを外して自我以前に帰る。
これは幼児退行ではなくて、新しい知性です。

◆「私という自己同一性」を未来へ向かって「反復記憶し続けなければならない」
という強迫観念が、この世でいちばんエネルギーを消費する動力です。

◆この世界は、潜在意識の魔術と顕在意識の魔術に支配されている。
何度も何度も生まれてきたけど、エネルギーに特定の名前をつけて、
魔術に使ったり信仰したりする原始的な世界が未だにまかり通っていることに、
その都度びっくりする。

◆いま目の前の物質に名前をつけて顕在化させているのも魔術。
これはある種の聖者の物質化のパフォーマンスと同じ原理。
わたしたちは自分で自分に術をかけたことを忘れている。
自身で魔術を解かなければ、信仰の争いと根源的な不安は決して絶えない。

◆個々の人間という分離意識が生まれた太古の昔、非力な人間が協力
しあって生きていくには呪術が必要だった。
呪術は、神=わたしたち自身から必然的に発生した。
呪術を用いて共通認識の地場を作り上げ、力を結集させていたのだ。

◆それがいつの間にか政治的な支配に利用されるようになり、
集団をコントロールするための魔術が進化していった。
政治的利用も、はじめはわたしたち公認の「許可」されたものだった。
選任された支配者は、覚醒から特定の目的物や方法を取り出す秘儀を授けられた。

◆しかしその中から、魂を売って当初の目的とは別の地場を形成しようとする者
たちが現れた。
元来のわたしたちの魂はあまりにも無垢だったため、それらの勢力の無知に
驚き憐れみはしたものの、放置してしまった。
それが今日ここに展開している魔術世界だ。

◆だが、それに対して武装して立ち向かおうとする必要はない。
すべては自作自演の幻だ。
今この一瞬に、自身が自身を縛ってきた魔術から目覚めればいいだけなのだ。

◆こういった内容は今世は管轄外と決めこんでいたつもりだったけど
(実はけっこうヤバい裏話もいちおう知っている)、なぜ今こんなことを呟いたのか
考えてみたら、「この人はわかってる人だな」と思っていた人が、昨今の世界情勢
のうねりに気絶して急に右往左往しはじめているのを散見するからです。

◆どうか正気を保ってください。
裏も表も、自分自身なのです。

◆中世の魔女裁判は、裁く側の魔術が漏れるのを恐れたヒステリックな粛清でしょう。
当時の魔術はどちらも素朴なものでしたが。
今はもっと怖いですね、逆に。
スピ系の魔法なんて毒にも薬にもならない可愛いもの。
これは陰謀論などではなく事実です。

◆こういった話は、あまり内容に踏み込むとエネルギーが捩じれて
汚染されてくるのでこの辺にしておきます。

◆認識の空中浮遊を体感する方法は世間にいろいろ出回っているが、
それらのほとんどは水切り石のように現象の表面だけを上滑りしていく仮想浮遊だ。
とりあえず夢の向こう岸まで渡り切れればよいのかもしれないが、たいていの場合、
川の途中でぽちゃんと落ちて沈む。
浮遊は表面ではなく中心で起こる。

◆時間は幻想なので、自分を変えるパラレルシフトに時間をかけなくていい、
というのはある意味真理なんだけど、基本ベースが解脱志向か現世志向かで
意味と結果が変ってきますね。(本当はそんな境界もないけど)

◆見落とされがちなのは、時間は幻想というとき、時間をかける・かけないという
尺度自体も幻想ということです。
だから時間をかけるのは泥臭くスマートじゃない、ということでは決してないのです。

◆私自身は過去世の呪縛で解脱志向にはまった経験から、時間をかけた修行も
幻想ということが今はわかるけど、「この私」の現世利益のための引き寄せ的
インスタントシフトもまた、自分にとって好ましい表層だけを渡り歩く虚しさと
本体からの乖離しかありません。

◆ここを勘違いして上滑りし続けると、脳内の報酬系の回路にハマって、
好ましくない状況が起こるとそれを無視してヒステリックに快楽を求めはじめます。
結局いちばん強いのは、どのような状況が起こっても受け入れ流していける、
変化と不動のバランスの真ん中に固定されずにあることです。

◆昔、とあるタントラの導師はこっそり「悪魔とは茶飲み友達」と語ってくれました。
この方は一線を画した本物の覚者です。
これを聞いて引き攣る人もいるだろうけど、まあ、二元の世で導くとはそういうことです。
悪魔崇拝とは全く違いますので、念のため。

◆至福意識が極まると、身体が高圧についていけなくなって、彼方で悲鳴をあげる。
その微かな瞬間の内に、怖れと罪悪感と退屈が紛れ込んで夢に引き戻す。
この生体の防衛反応を見切る。

◆「何も信じていない」という人は「信じていない」ということを信じている。
その人の生きる個人的世界は、その人が信じているものの総体だ。
信じているから今この時も、その人の世界が生まれ続ける。
信じることは、世界を組成する磁力なのだ。

◆個人的世界は信念を外せば崩れるが、非個人的世界を個人的な私が消す
のは不可能だ。
非個人的世界を創造しているのは、個人を超えた何者かの信念だからだ。
その信念の磁力にがっちり組み込まれた私たちはどうすればよいのか?
ただ、在ることと無いことのあいだで、世界の意味を無化するしかない。

◆須弥山を下から見上げれば、頂上は遥か高みにそびえていて、生きている
うちにとても辿り着けそうにないと圧倒されるが、ちょっとひっくり返して真上から
俯瞰すれば、頂上も裾野も同一平面上にあるように見える。

◆このように時空の視点を自在に転換させれば、肉体では辿り着けない
高みにも、意識だけでひょいっと跨げる。
意識を飛び越えさせたら、肉体も連動してある程度リミットを外せるようになる。

◆類推と分類と編集と記憶の機能がなければ、世界が一気に流入してきて脳がパンクし、
順序立てた処理が何一つできなくなる。
それらは自我がこの世で効率よく目的を果たすために獲得してきた機能だが、
覚醒体験では一時的にストッパーが解除される。

◆このとき、集中が高まっていれば認識のスピードが、流入のスピードを上回り、
怒涛の非連続的世界が展開していくのを目撃する。
いったん世界の様相を見切ったら、覚醒度を落として自我の機能とのバランスを
意識的に取り戻す必要がある。

◆ストッパーが外れたままでは心身が崩壊するからだ。
(たいていの場合、自然に落ち着いてくる) そして、体験は体験として明確にあっても、
本質は体験の現象面にはないことをはっきりと悟って、人間に復帰する。

◆変化と不変は裏表ではなく同じものです。 それを矛盾と感じるのは、
二元的な認識が動きを時間の流れのコマ送りでとらえるからです。
「変化し続けるという真理」が不変なのではなく、変化即不変なのです。

◆この世界の認識の正体を見破っても、次から次へと理解不能な新しい
認識形態が創造され続けます。
物理で仮定された世界は、わたしたちの認識の想定内で組み立てられるため、
次元を増やしたり小さく丸めたりして辻褄合わせされたものにすぎません。
境界線はありません。
認識の違いだけがあります。

◆創造に限界はありません。
固定化された進化の螺旋階段もありません。
あるように見えているのは、小さな私たちの想定内の幻です。
一切の制約のないところでは、創造主自身が無限に変化し続けるのでゴールはありません。
物理的な終焉はゴールではありません。

◆「なぜ覚醒を求めるのか」という問いに明確に答えられる人を見たことがない。
たいていの場合「覚醒という素晴らしい境地があるらしい、だから覚醒を求めています」
というトートロジーで、自身の源が結び付いていない。
この場合、覚醒体験に必要なエネルギーが十分に供給されない。

◆理由のわからない衝動が原動力であれば、それはそれで構わないが、
求め続けるうちに衝動に不純物(知識欲・プライド・達成欲・自己実現欲・承認欲求など)
が混じってくることが多い。
それに対し、衝動とともに自身への信頼(盲信ではない)が内側から沸き起こってくるなら、
純粋な動機が働いている。

◆大腿直筋の前面と鳩尾と喉とサードアイ前方に力が入っている人が多い。
これらの力みに無意識なままだと、身体前面の意識を強化し、未来へ向かって
前のめりに焦り続ける。
逆に、身体後面のハムストリングスや筋膜群が上下に引き伸ばされる痛みは、
心身が「今」にあるために確実に変容している証拠。

◆肉体の夢から覚めると、夢を見ていた肉体に戻る。
世界の夢から覚めると、夢を見ていた者の不在を知る。



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