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【覚醒からのつぶやき 10】       

2020/10/26

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。

水晶クラスター
アリゾナから連れてきた水晶クラスター


◆世界は回転する巨大な揺り籠のようなもの。
お母さんに守られてスヤスヤ寝ている。

◆夢の中には夢の物理があって、それを信じ切っている。
信じないとバラバラになってしまうから。

◆ギョッとする感触でそのことを悟る。

◆こうやって動いたり呼吸したりしているのが当たり前だと思ってるけど、
夢の物理に気づいたら、一瞬一瞬ギョッとするよ。

◆夢の中の微かな違和感は、目覚めのはじまり。

◆夢から覚めたいと言いながら、この夢が現実である証拠を探し続けている。
自分が自分でなくなるのが怖いから。

◆夢を夢と見破るには、夢の原理じゃどうにもならない。

◆物理的に夢から抜けようと思ってもダメ。
夢の物理にギチギチに組み込まれた、 夢の構成員だから。

◆夢から覚めたと思ったらまた別の夢に入ってる。

◆夢のどこかに出口があるのではなく、夢のあいだに始まりと終わりの
交わる点がある。
この点はすべての次元の接点。 出入り口という感覚は捨てること。

◆夢の出入り口という発想は、起きてるか寝てるかという、
わたしたちの二元的な認識による思い込み。

◆夢から目覚めるのは、お母さんに反抗することではなくて、
育ててくれたお母さんをねぎらうことなんだ。

◆お母さんの気持ちを知ること。

◆夢のどこからでも目覚められる。
すべての瞬間が、接点だから。

◆本当は寝ても起きてもいないんだから、
接点に重なるだけでいいのです。

◆救われるというよりも、受け取られる自覚が生じる。

◆その人の言葉を見れば、存在の底から泣いたことの
ある人かない人かがわかる。

◆存在の底はどこまでも深く、悲劇も喜劇もすべて飲み込む。

◆存在の奥底は、この世にないほど低く重く響く音。
認識の消失点は、この世にないほど高く細かく震える音。
どちらも肉体の耳では聴こえない。

◆部屋の片隅に蜘蛛がいると気になる。
生きて動いてるからだ。
でも本当は生きているのは蜘蛛だけじゃない。
部屋の中の全部の物が、生きているのだ。
そのように、世界のざわめきと親密になろう。

◆「生きとし生けるものが幸せでありますように」 というとき、
無意識に生物だけをイメージしない。
世界のすべてが、区別なく生きているのだ。

◆物質と生物を自分の感覚で切り離すと、
常に自分と離れた物が取り残される。

◆心理的な癖は、時空を超えた物理的なねじれ。

◆灌頂を受けるのも、鼻をほじくるのも、同じ「それ」。

◆睡眠は気のすむまでとる。
肉体的にも心理的にも、寝不足の人が多すぎる。
寝不足なところにどんなテクニックを加えても無駄。

◆人間は太陽と月のリズムに支配され続けてきた。
リズムに合わせないと自律神経が狂うように刷り込まれてきたけど、
本当は睡眠なんて自由なのだ。
猫のように気の赴くままに寝たり起きたりしていると、
瞑想はいつでも勝手に起こる。
ただし、罪悪感は完全に捨てなければ、逆効果で鬱になる。

◆ワークで参加者さんが、無自覚なまま一瞬「それ」の状態を体現すると、
頭の周りの光がウワッと広がる。
「あっ、それです!」と言った瞬間、また縮まる。
勘違いしやすいのは、この光を自分で広げようと画策すること。
光自体は現象であって、覚醒そのものではない。
自分を拡大しようとしない。

◆父は垂直、母は水平。
これもまた、3次元の呪縛。

◆文字は意識を鋳型にはめ込む。
文節は意識を時間にはめ込む。
構文は意識を世界にはめ込む。

◆体を憎まず、一緒に連れていってあげてください。
むしろ体のほうが、あなたの成長を待っているのです。

◆縄跳びの輪に入って、世界と一緒に跳べばいい。
まだ輪に入ってもいないのに、輪から抜けようとしている。

◆一緒に跳んだところに、それがある。

◆「それ」の状態では、一切の判断はシンプルになる。
自分の頭で取捨選択しなくてよくなるからだ。
ただし「取捨選択しない」わけではなく「取捨選択は起こる」。
このとき「あれ?アルツハイマーになったのかな?」と一瞬、
ぽかんとする感覚を伴うが、曖昧なものはなくすべてを鮮明に見ている。

◆感覚としては、はじめて来た土地に泊まって、夜中にパッと起きて
「あれ?」と、状況がつかめないのだけど、周囲のものが鮮明に迫って
浮きあがっているような感じ。
その状態のまま、時計を見たり水を飲んだりすることはできるが、
自分の実感が戻ってこない感じ。

◆電車でうとうと居眠りをしていて、目的の駅でドアが閉まりかけて
ハッと起きて、頭が白紙のまますごい勢いで荷物を持って飛び降りる、
そんな感覚。
全部、勝手に起こってる。
脳を使っていないわけではなく、自我の実態感とは別のところで
動いているのだ。
反射運動ともまた違う。

◆この意識状態は、意図的につくろうと思えばつくれるが、
状態を体験するだけでは覚醒ではない。
自己との一致の確信がないからだ。
状態は現象にすぎない。
瞑想者は、テクニックだけでは確信に至ることはできない。

◆夢遊病や離人症のように自己と離れて動いているわけでもない。
逆に、世界は自己の空白に「迫ってくる」感覚が起こる。
でも、これは最初の予兆にすぎない。
自我の実態感が消えた驚きにとらわれていて、
まだ、中心に消えていないのだ。

◆この意識状態は、自分を取り繕う意思がまったく抜け落ちているので、
無駄なエネルギーを使わない。
白紙の状態のところにボールが飛んできたら、それを自動的に避けたり
投げ返したりはするが、頭に当たって死んでもまあいいか、ぐらいの感覚。
ものすごく、軽い。

◆この軽さで、みんなで笑いながら生をひょいっと飛び越えたいですね。
重さなんて、エネルギーのちょっとした偏りにすぎないのだから。
もっといえば、笑いさえ重い。
笑いは、人間であったときの苦の反動。
ありのままに在るものは、わざわざ笑っていないでしょう?

◆これは本当に、心理的な問題なんかじゃないんです。
ぽーんと飛んじゃえばいいだけ。
「自己の本性を見抜く」とか、大上段に構えないで。
自分の存在意義を誰かに説明しようとしないで!
わかっているものがただ、わかっていればいいんです。

◆自分で教えてて何ですが、悟り業界、覚醒業界とか、
人類史における壮大なトリックなのです。
そんなものは遠慮せずに、飛び越えていいんですよ。
「それは違う」って、何が違うというのですか?
それとしてすでにあるわたし以上に正しいものがあるでしょうか?
物語の重圧に飲み込まれないこと。

◆覚醒しても経典を投げ捨てないひとは、嘘です。

◆もっといえば、経典を投げ捨てるフリをする人も、嘘です。
そんなことはどちらでもいいのです。

◆経典って、人間への優しさなんだろうね。
なんとかして噛み砕いて希望をあたえようっていう。

◆あれが違う、これが違うという境地のケチのつけあいなど、
笑止千万です。
教義の正しさの証明のために生きているのでしょうか?
あなたがあなたであることは、神でさえもケチをつけられないのです。

◆私は、いつか教えることはやめるだろう。
あらゆる教えは、究極ではないから。
教えるものも教えられるものもいない。
存在をめでることしか、できなくなる。

◆鼻息は軽く、軽く! 鼻息で羽のように天に舞う。

◆みんな、すでに気づいているのに、気づいていないフリをして
遊んでいるだけでしょう?
わたしは長いこと騙されてきたけど、もうみなさんのことは知っていますよ笑
長い長いネタフリの末に、ネタバラシのサプライズの時機を
うかがっていたんでしょう?

◆この世界は、メタ小説だ。 わたしがわたしを、騙している。

◆騙し騙されていたのが、自作自演だったと知って、ゲラゲラ笑う。
笑いながら、飛んでいく。

◆この世界でちょっと遊ぶつもりが、いつの間に巨大なエネルギーになっていって、
自分で自分に重りをつけてしまったことに面食らっている状態。
子供が線路に石を置いて遊んでいたら大惨事になってしまった、みたいな。
ほんの微かに興味が動いてしまったんだね。
そのことは、いいかげん学習しよう。

◆覚醒にロマンを求めない。
うっとりしない。

◆自分が消えて、世界が消えることが怖い?
大丈夫です。
この世界の見かけが消えるだけです。
何も変わりません。

◆この肉体を一緒に連れていくことは、この世界を一緒に連れていくこと。
そのことは、担当者として一任されているのです。

◆たったひとつのことを言うのに、よくもまあそんなに
たくさんの経典が書かれたものだ。

◆聖なる体験と俗なる体験が分かれてあるわけではない。
フォーカスの倍率の違いだけがある。

◆いま突然「怖れも畏れもオーソレミオ」というしょうもないダジャレ
が浮かんできて「どんなカルマが言わせたんだよ」と失笑したが、
オーソレミオって「ああ、私の太陽よ」って意味だ。
案外、深いね笑

◆今しがた乗ったエレベーターの映像広告で「時間と空間を超えろ」
という言葉が流れた。
このエレベーター、ちょいちょいこういうこと言ってくる。

◆目の前にあるものは、存在がギリギリに極まった切っ先の形。
どこも足し引きできないもの。
もちろん、あなたもわたしも。

◆ゲシュタルト崩壊は母国語も音の羅列に分解して外国語のように
聞こえさせるが、もういちど再学習して意味を復活させることもできる。
でも組み変わった意味は、初めて覚えた外国語のように新鮮な世界を持つ。

◆この世界は矛盾だらけなのを承知のうえで生まれてきたんだから、
人の矛盾も自分の矛盾も、槍玉にあげない。

◆何かを考えたり言葉にしたりするときに、意識がギュっと縮まる感覚がしたら、
見直すサインだ。
自分の思う正しさではなく、意識のあり方にまず、気づく。

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【覚醒からのつぶやき 9】       

2020/10/22

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。

レモン


◆個人的な感性のゆらぎの真ん中に浮いてあることで、
非個人的な感性の切っ先に立つ。

◆個人的な感性と自己表現は、いちどは誰でも出し切ってみたほうがよい。
そこで思う存分、泣いたり笑ったりする。
出し切ってもう何もでなくなったところで、非個人的な感性の手触りが、
背後から立ち顕われる。

◆だから、いちどはちゃんとドロドロした人間をやってみる。

◆取り残されたエネルギーは不発弾として持ち越される。
不発弾は爆発してしまえば消えるが、どこに埋まっていたか忘れたまま残り続けると、
存在に常に不安の影を漂わせることになる。

◆夢の3D映画は最後までぜんぶ観ないといけないと思い込んでるけど、
いつでも席を立っていい。
お尻は座席にくっついてない。
映画の続きが気になっても、この映画は永遠に上映し続ける。
席を立つタイミングを逃さないように。

◆夢は全部気づいたら終わる。
でもわたしたちの気づきは死角があるように設計されたから、
一人で全部見ることはできない。
だから、みんなで分担して夢の隅々まで照らそう。
額にサーチライトをつけて。

◆夢の3D映画には結末がない。
一コマ一コマが次の場合を生成し、ストーリーは無限に分岐していく。
だから、結末を知るのは放棄する。

◆映画を見ないためには、目をつぶるのではなく、勇気を持って席を立つ。
そのための気力は蓄えておく。

◆映画を見るのをやめるのに、肉体を殺してはいけない。
殺された肉体は、座席に残されたまま、映画の続きを見てくれる亡霊を待ち続ける。

◆本当は、映画も夢だし、映画を見ているのも夢だし、
映画を見るのをやめるのも夢だし、そもそも夢なんてない。

◆肉体の死というタイムリミットがあるから、人は常に未来に向かって
「間に合わない」と焦っているけど、間に合っていないのは未来ではなく現在なのだ。
いつも現在から0.2秒、遅れている。

◆盲点なのは、0.2秒遅れているその感覚自体を共通認識として「今」と呼んでいること。
だから「今ここ」という教えは常に混乱をもたらす。

◆「間に合わせたい」人がいなければ、今は今のままある。

◆「あなた」が「今ここ」にいることはできない。
「今ここ」が「今ここ」にあるだけ。

◆ある意味、この私はわたしの作品だけど「素晴らしい作品を創ってやろう」
という意図はさもしい。

◆透明な作品は、美しい。

◆自分自身に慈悲を向けられるようになると、世界が喜ぶ。

◆慈悲と憐憫は似て非なるもの。

◆究極の慈悲は、手を差し伸べない。 そこに存在の信頼がある。
神とはそういうもの。

◆慈悲は一本の柱となって次元を貫く。

◆だから神は柱に見立てられてきたのだ。

◆この柱は相似形として、わたしたちの中にもある。
わたしたちは、それによって立っているのだ。

◆祈りはこの柱で起こる。

◆だから、ただ自分そのものであれば、何かに向かって祈らなくていいのだ。

◆わたしたちは、理論の正しさを証明するために生きているのではない。
だってわたしは事実、これなんだから。
これ以上にまぎれもない事実があるだろうか?

◆神を持ち出すのは半ば禁じ手にしてきたが、その言葉を使わざるを得ないこともある。
それによって頑なな視界が開けることもあるからだ。
ひとつのことがわかれば、自由に横断していい。

◆いったん脱落したらヨコとタテのあいだに浮く。
そのとき、脱落は地上のものだったことを知る。

◆本当にすごい人は秘仏のように隠されているので表に出てこない。
縁があれば出会えるけど、多分、見ても気づかない。

◆散漫な状態には散漫な気づきがあるだけで、それがいけないわけじゃない。
メタ的に気づかれる気づきは、その時々の主観の密度と時間の
経過をありのままに正確に顕しているだけなのだ。
「ひとつの瞬間に集中する」という幻想にとらわれて、
気づき自体をサマタの訓練の道具に使わないこと。

◆現象世界での個人の責任は、能動的に行為している感覚によって発生するが、
能動と受動のあいだにあるとき、個人の責任は無化される。
ただし、無化=放棄ではない。
すべての次元の責任の真ん中にあるのだ。

◆四次元以外の次元は「爆発できなかった」のではなく、
わたしたちの認識がそれを「爆発させることができない」のだ。

◆徳と善行について。
エネルギーとして貯まるというよりも、瞬間瞬間の反応パターンが組み変わるんですよね。
その結果、エネルギーが変化して軽くなる。
徳という考え方は一長一短で、自分が徳の貯蔵庫であると考えるとエゴが肥大しますね。

◆一切を限定したくなければ、言葉を発しなければよい。
言葉で表せばその瞬間、限定が発生することは自覚しておく。
その自覚をこの世界では「責任」と呼ぶ。

◆気づきに気づいている人が2人以上いる空間はピーンと冴える。
1人以下だと場の影響下にボーッと流され続ける。

◆面白いのは、気づいている人が1人だけだと、ありのままに見ているだけで
場自体は変わらないということ。
だから、よくあるスピリチュアリズムで覚者を何人か配置して世界を変える
みたいな話は分からなくもない。
でも、覚者自身は自分が世界を変えようという意思なんてない。

◆気づきに気づいている人は場を超えた全体に気づいているので
場のエネルギーのうねりに飲み込まれない。
だから空気がパキっと澄む。
それは法悦ではなく、静謐なエネルギーだ。

◆人は常に幻想の場に飲み込まれ、その場その場の空気感に気絶して
流され続ける。
気づけばそれをいつでも切ることができるのにも関わらず。

◆場に飲み込まれる心身が癖付いている人は、気づきに気づく静謐な空気
のハリを肉体で捉えるため緊張と勘違いし、隙あらば居心地のよい緩んだ元
の場に戻ろうとする。
心して心身の癖付けに気づき、組み換えていく必要がある。

◆頭の後ろの化石みたいな塊を引き剥がして360度の意識を取り戻そう。

◆頭蓋骨から背骨がゆらゆらぶら下がっているだけ。
肉は忘れる。

◆気づき続けることは、心を殺してサイボーグになることではない。

◆空気を読むのではなく、場全体のハリを直接読む。

◆抽象化と観念化を混同しないこと。

◆覚醒は世界を抽象化することではない。
また、概念化しないことは覚醒の一部であっても、全部ではない。

◆感性は抽象化してもよい 感性に自我の痛みを混入させないこと。

◆思想・哲学は世界と言葉ありきの戯れ。
感性が回収されぬよう、注意して遊ぶ。

◆一息の呼吸で肉を突破し、どこまでも深淵に入っていく。
深淵は入れば入るほど、明るく軽く開けたところ。

◆呼吸は止まるのではなく、一息が肉体を超えてどこまでも細く長く深く
引き伸ばされ、認識できなくなるのだ。
この究極が死だ。 死は停止ではない。

◆自分が悟るという考えはまず最初に捨てられるべきもの。
かといって、みんなで悟るわけじゃない。
強いて言えば、ひとりであった何かが独りごつ、という感覚。

◆瞑想の一息には瞬きがない。 だから、肉体を超えた息が続くかぎり
どこまでも見ていける。
ただし、途中で何も掴まなければの話。
死後という観念のヴィジョンもこの延長で起こる。
呼吸を止め、瞬きする肉体がなければ時空を遮るものがないのだ。
ただし死者は、ヴィジョン自体に遮られる。

◆気づきの目の瞬きの瞬間、一瞬の気絶と共に場面が切り替わる。
その瞬間は常に「なかったこと」にされている。

◆清潔感があるかどうかは重要な判断材料。
うねうねギラギラした禍々しさは避けよう。

◆体の感覚が鈍ってると清潔感を判断できなくなるので注意。
そういうとき、インスタントなものに飛びつく。
インスタント自体は悪くはないが、飛びつく時の目が眩む気絶は沼にハマらせる。

◆エネルギー系であれ覚醒系であれ、特定のパワーを「扱おう」とするものは注意する。
自身のエネルギーバランスが崩れていると、そういうものに飛びつく。

◆何かを表現すれば、その逆の力が発生する。
しかもそれは必ずしも一対一対応でないのがややこしい。

◆そうは言っても、怖いからといってまったく動かなければ、
傷つきはしないが赤ちゃんのまま何も学べない。

◆結局、すべてのバランスのあいだに在ることしか救いはない。

◆私はわたしに任せておけば安心だ。 頼もしいなあ!

◆ありがたいね。 考えなくてもいいんだから。
こんな楽してバチがあたりそうだ笑
ああ、ヒマだから罰の意識を創っちゃったんだろうね。

◆人っていうのは自分の存在を誰かに受け取ってもらいたいんだね。
自分で自分を受け取ればいいだけなんだけど、自分を信じてないから
別の信じられる人を探して彷徨う。
それじゃ、信用されてない自分が可哀想。
でも本当は今だってちゃんと受け取られてるんだけどね。

◆パラレルワールドは並んでない。 並べてるのは自分。

◆気づくというのは、全体が気づいていることなのです。
だから、自分が自分に気づけば、全体が自分に気づいていてくれるのです。
この気づきを、神の目ともいう。

◆全体には、あらゆる次元のわたしがいます。
だから、気づきに気づくだけで、すべてのわたしが私と重なって
協力してくれるのです。
こんなに心強いことがあるでしょうか?

◆観光バスツアーみたいに気楽に乗ってればいいんですよ。
たまに渋滞とかトイレ休憩とかガイドの変な民謡とか聴かされるけど。
勝手に連れてってくれるから。

◆不思議でしょうがないんだけど、なんで肉体年齢を伸ばそうとするのかね?
意識を変えたほうが時間は伸びるのに。
時間なんていくらでも伸び縮みする。
でも、伸びたところで梵天界なんて退屈だよ?

◆X X業界の人、と定義されそうになったら走って逃げる。

◆人間ドラマは1話完結でいいです。 キャストもセットも最小限で。

◆死んでもどこにもいかない。 (自縛霊じゃないよ)

◆孤独で寂しいとか言ってるけど、覚醒の現場はあり得ないぐらい
ぎゅうぎゅうづめで賑やかどころじゃないからね。
今のうちにゆったり孤独を楽しんだほうがいいよ。

◆祈るなら、殺されるつもりで祈る。
自分を全部、差し出す。
このエッセンスがつかめたら、生きても死んでもいないところで、
祈りそのものになる。

◆痛みを見るより痒みを見るほうが難易度が高い。

◆笑いに皮肉と逃避と自虐が入ってないか注意する。
この笑いは苦しみと表裏一体。

◆この笑いが集団化すると、陰湿な村を形成する。

◆仲間意識を「確認する」ための笑いには注意する。
この確認がしばしば強要に発展する。

◆野生動物は笑わない。
家畜化すると笑いを覚える。

◆いい気分の中に潜む「ほくそ笑む」影に気づきのメスを入れる。
この影は聖なるものにもいつの間にか忍び寄る。
あらゆる色合いに潜む影の尻尾をつかまえる。

◆「悪魔との対話」の悪魔は、比喩ではないのだ。
擬人化するかしないかは別として。

◆影はうっとりとした心地良さを纏って、あらゆる瞬間にスルっと入ってくる。
この影を根絶しようと血まなこになれば、思うツボだ。
気づきの光を当てることで影は退散する。
影もまた、自らの創った実態のない幻想だからだ。

◆影の尻尾を捕まえるには、名付け得ないエネルギーの微かな移ろい
を見るのが一番早い。
自分の感覚に淫する前に気づけるからだ。

◆人間としてのあらゆる経験は、影に気づくための予行練習となる。
この練習は、痛みを伴う。

◆光があれば影がある。
影は影で必然としてあるだけだが、それに「あるがまま」と居座れば、
いつのまに影が入り込み、その視点でしか世界を見られなくなる。
しかも、光と影は想像を絶するほど複雑に入り組んでいる。
光=善、影=悪という3次元の単純な二項対立ではないのだ。

◆だが、その複雑さに正義感をもって首を突っ込む必要はない。
ただ、一人一人が自身に起こるエネルギーの移ろいを粛々と見切っていけばよい。

◆善は次の瞬間には悪となり、悪は次の瞬間には善となる世界だ。
ひとつの信念をつかめば、変化に気づけなくなる。

◆生まれては死ぬというアイディアは局所的な異端思想。
この宇宙はカルト。

◆バクティの道は一見優しそうだけど、様々な「お試し」がやって来る。
その究極が、磔刑。
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【覚醒からのつぶやき 8】        

2020/10/14

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。


セレナイト
セレナイト(繊維状透明石膏)

**************

◆心身の硬さを能動的に柔らかくしようとすると、
表面だけ緩んでも硬い芯が残り続ける。
見ている自分の意図自体が硬いからだ。
柔らかくしようと意図せず、そこにある硬さを置いたまま、
ただ受動的に見続けていると、見ている自分とともに芯から解けていく。
この柔らかさは別次元のもの。  

◆今日はワーク開催予定だったが、おととい台風の影響を考えて
次週に変更した。
変更したと思ったら進路が変則的な動きを見せている。
今回の台風は、いろいろな意図が連動しているようで面白い。  

◆神はこうやってすべてを完璧に配置する。
それが一見、自分にとって好ましくないことであろうとも。 

◆台風が逸れて喜んでるけど、逸れた先で被害に合う人もいる。

金子みすゞの詩を思い出す。

朝焼け小焼けだ大漁だ
オオバいわしの大漁だ
浜は祭りのようだけど
海の中では何万の
いわしの弔いするだろう

この視点はいつも持っていたい。

◆現在の私が過去の私を癒せるとしたら、現在の私の苦しみもまた、
未来の私が癒してくれるだろう。
癒し、癒される、私自身の過去・現在・未来の信頼関係において。
そして、過去・現在・未来の距離がなくなったとき、癒し、癒される私は
ひとつとなり、瞬間瞬間に苦は浄化されるようになる。  

◆過去の私、現在の私、未来の私、すべての私と仲良くなろう。
すると、私自身が私を助けてくれるようになる。
この安心感は唯一無二のもの。  

◆ウィリアム・ブレイク『天国と地獄の結婚』より
「知覚の扉が取り払われたら、何もかもがありのままの無限の姿で
人間の前に顕れるだろう。人間は自らを閉ざしてきた。
今や、人間は、洞穴の狭い隙間からものを見ているに過ぎないのだ」  

◆経典は頑張って理解しようとしない。
わからない部分を頭で理解しようとすると、その時点の認識による解釈で
自分自身を固定してしまう。
自分の体験から直観的に腑に落ちるまで、先を急がず寝かせておく。  

◆苦しみが自分のアイデンティティになっている人は苦しさが生きる糧なので、
他人の苦しみまで探してあれこれお節介を焼こうとする。
だから望みどおり、ますます苦しくなる。  

◆姿勢による各部位の力の方向性と意識は連動している。
身体と意識のすべての方向性を一点でバランスをとるのが座禅。
その一点は、止まっているわけではなく、すべての運動の可能性を
含む消失点なのだ。
それを知るために、いったん動きを分解して身体動作の方向性を知る
アプローチは有効。  

◆いわゆる「引き寄せ」では、力を「くっつける」方向ばかりを強調するが、
「くっつくこと」と「はなれること」と「ひっぱりあうこと」、
この3つの力が現象の本質です。
特に意識においては「ひっぱりあう」拮抗する力のあいだにいることが重要。  

◆ぶっちゃけた話、すべては動きでしかないんですよね。
高尚な言葉や難解な概念をとっぱらうと。  

◆動いているものは誰でも認識できます。
あとは、動いていないものの動きを見るだけ。  

◆ただし、すべての動きは相対的な錯覚です。
  
◆つまづくとしたら、ここですね。
だから観察して錯覚を見抜くのです。
ヒントは身の回りのすべてにあります。
あれこれ習いに行く必要もないのです。  

◆そのことを、仮の定点である私を通して見抜くということです。  

◆仮の定点がなければ何も認識できません。
自分自身が動きそのものになるからです。
だから、仮の定点を担う私という存在は貴重なのです。 

◆そんなの知ってるよと思うかもしれませんが、それだけなのです。
それさえわかれば、あとは動きの組み合わせがあるだけです。

◆あらゆる解釈がものごとを複雑にする。
複雑さにプライドをもたず、単純でいる勇気を持とう。  

◆単純であれば、力をひとつに凝縮できる。

◆複雑化してもいいが、複雑化の過程の中の単純さにあること。  

◆「わかりたい」という想いが世界を創る。
動きそのものは「わかる」以前にある。

◆「わかりたい」者がいないとき、動きそのものだけになり、
世界があるかないかを観察する者はいなくなる。  

◆動きそのものは無明ではない。
動きをコントロールしようと足掻く意図が無明だ。  

◆頭ですっきり割り切れるものよりも、心がすっきり割り切れる方向
へ導かれよう。 
 
◆過剰な自信も、過剰な謙遜も、神への冒涜となる。  

◆止まっている電車に乗っていて隣の電車が動き始めると、
乗っている電車が動き出した感覚がする。
隣の電車と並走していて乗っている電車が減速すると、
後ろに進んでいく感覚がする。
乗っている電車と同じ速度の電車が並走していると、
止まって見える。 

◆物体の相対速度による錯覚は理屈を知れば容易に見抜けるが、
心の錯覚は見抜きづらい。
物体も心も錯覚の仕組みは同じだが、心は常にいろんな速度で変則的
にあちこちに飛び回っていて、相対的な基準がズレ続けていくからだ。
逆にいえば、心の方向と速度がシンプルになれば、錯覚は見抜きやすくなる。  

◆単純であることは、騙されやすくなることではない。
単純であればあるほど迷いがなくなり、本質が見抜けるようになる。 

◆女性でも男性でも、どちらでもない性でも、
女性の心身の働きの微細な綾を知る人は、
現象世界の創造の原理を理解する。
ここはマッチョな修行だけではわからない。
私自身、女性でありながら無視し続けてきたところだったが、
それを知ることは計り知れない恩恵がある。  

◆勘違いしてはいけないのは、女性として生まれても、
女性性の原理を自ら理解する必要があるということ。  

◆念が呪いに近くなって別の存在を呼び寄せてしまう人がいます。
妄想とはいえ、ある種のパワー感を持ち始めるのが厄介です。
そうなるとなかなか自分では気づけなくなります。
気づきに爽やかな軽さがあるかどうかは常にチェックしてください。  

◆何らかの対象物に対して祈りを捧げる時も注意が必要です。
いつのまにか別の存在に祈っていることがあるからです。
強いパワー感があっても、知らないうちに妙な契約を結ばないようにしてください。  

◆危ないパワーを身につけるぐらいなら、無知な方がずっとマシです。
エネルギー系は自分で判別できなければ、うかつに扱わないことです。
 
◆こういう類のパワーを纏っている人は薄暗い空虚な内面を隠しています。
この空虚さは、千と千尋のカオナシのように何でも飲み込んで自分のパワーを
拡大しようとします。
底なしの虚空は周囲を引き込むパワーがあるため、無知な人々を引き寄せます。  

◆この虚空を無我や空と勘違いしないこと。
パワーをいくら身につけても不足している感じがしたり、寄ってきた人の
エネルギーを吸い込んで浄化が必要と感じる場合はカオナシになっています。
空虚さをパワーで埋めるのではなく、自身のエネルギー量に応じて人に与え、
何も持とうとしないことです。  

◆存在には、真剣さはいるけど、深刻さはいらない。
瞑想では、深刻な馬鹿にならず、真剣な馬鹿になる。  

◆真剣になればなるほど、どんどん軽くなっていく。
重くなっていくのは、深刻になっている証拠。
  
◆もっと軽いノリでいこう。
くすくす笑ってる途中でふっと瞑想に入るぐらいでいいのだ。
瞑想の境目をなくしていく。  

◆頭と顔の筋肉を緩めて、美しい馬鹿になろう。  

◆真剣な馬鹿の馬鹿力は、この世で一番強い。
全部が緩んだとき、瞑想が爆発する。  

◆緩みきってハラから笑いが沸き起こってきたら、目覚めはすぐそこ。 

◆緊張を知らないと緩みもわからないから、人生の緊張も悪くない。
緊張したら、あとは緩むだけ。
  
◆今からオリンピックメダリストやノーベル賞受賞者にはなれなくても、
自分至上最高の馬鹿には誰でもなれる。
すごい希望じゃないですか?  

◆人に与える心地よさに味をしめて、欲張って与えすぎないようにする。
自分自身を過不足なく知り、すべてにおいて丁度いいエネルギーの
真ん中に浮いていよう。
  
◆全体の力のバランスを知ってはじめて、煩悩とよばれるエネルギーを理解する。
煩悩自体はただのエネルギーで、特定のバランスに引き込む作用があるだけ。
これが個別の人間という限定された枠の中で、偏りの幻想を生む。  

◆弱い力の「あいだ」と、強い力の「あいだ」は同じもの。
弱い人間も強い人間もいるが、どこを切りとっても「あいだ」は同じもの。
だから、覚醒を知るのに自分自身以上に強くなろうとする必要はない。
弱くても強くても、そのままの自分で「あいだ」を知ることはできる。

◆世界と分離して孤独だと感じたら、いったん赤ちゃんの知覚から
復習してみるのがおすすめ。
赤ちゃんは視界がぼんやりしている時期から周囲のものを舐め回したり
触ったりして世界の知覚を学習する。
視野がはっきりしてくると、自分の体で遊んだり、周りのものを指差したりする。  

◆この過程を、馬鹿馬鹿しいと思わずに実際にやってみる。
目をぼんやり開けて周囲のものを舐めたり触ったりしてみる。
そうすると忘れていた世界との親密感が蘇ってくる。
特に、舐め回し感覚は意識の触覚を創る。
個人的にここはワンネス感覚にも少なからず影響していると感じる。 

◆ここからもう少し大きくなって、床を転がり回って体の重さとバランスを知る。
ハイハイは四肢の視覚的・体感的なコネクションを知りバラバラな世界を連結する。
これらの鏡像段階前の世界のつながりをいったん取り戻すと安心感が生まれる。
身体を取り戻す前に身体を超えようとすれば揺り戻しがくる。

◆赤ちゃんは腸の快不快の意識はあるが、ハラの意識はない。
ハラは自我と連動しているからだ。
自我がハラに脱落するためには、いったん自我を育てる必要がある。
そうでなければ、赤ちゃんの自他未分のままなのだ。
その状態は苦を苦と認識しなくて幸せともいえるが、世界を再認識できない。  

◆体系化された言葉は頭を気絶させる。
体験はいつも、その人の言葉にならない言葉でしか語り得ない。
うまく語れたと思ったらもう、体系に気絶している。  

◆しいて言い表すと「シャッ」とか「ピキッ」とか「ウニョにょにょ」とか
「きききっっっっききっっっっっっk」とかだけど、それじゃあ経典は信者の手前、
格好がつかなかったんだろうな笑  

◆認識が剥がれるときは、頭の中心でF1カーが死ぬか生きるかの
舵切ってるような感覚というのが、思いつくかぎりでは近い。  

◆瞬間は前後ではなく、同心球状に断たれる。
ここにつまづくと、気づきは並行線をたどる。  

◆二次元的な前後の裁断は卒業する。
同心球状(ただし人間の構造上、体感としてはトーラスになる)以上は、
この次元の自己同一性では同時には捉えられないので直観にとどめておく。  

◆もちろん、気づきの瞬間に同心球を設定しているわけではないので、念のため。  

◆前後に裁断するというのは、直列的時間の中の話ということに加えて、
世界を認識の問題だけで片付けようしてしまうのが片手落ちなのだ。
両側を立体的に見るには、世界の創造の源にも立ち会う必要がある。  

◆気づきの瞬間にはひとつしかないというのは、人間の認識形態による体感だ。
もちろん、この体感は人間としていったんハラで経験する必要がある。
しかし、これが終着点だと決めると、またもやここに幽閉される。  

◆人間としてハラで一如を経験しても、前後ではないということは明確にわかるはず。
おそらくその直後に、頭が概念化したのだろう。  

◆前後という前提こそが、見切られるべきものである。
同心円もまたしかり。  

◆同心球状の裁断とは、全方向への回転の真ん中に「回転を止めずに消えている」
ということです。
この消える一点においては、一如の覚醒体験としては違いはありません。
ただし人間は、この軌跡の一瞬を、直線から切り取って認識します。
だから前後の裁断と錯覚するのです。  

◆すべての瞬間は、あらゆる速さと大きさの相対的な回転の中心ですが、
地球上での認識はまた、重力と自転と公転の方向に限定されます。
全体の回転はこれらの方向に限定されません。
瞬間は無限の回転方向が同時に運行している中の一点です。  

◆前に進むという直線的な前後感覚は、人間の心身と認識の構造自体に
組み込まれています。目が前面に配置されたのはこの理由です。
認識には、後ろが見えないという視野の死角が大きな影響を与えています。
これが、トーラス状の見かけ上の運動の一部を、直線的に切り取らせる要因です。  

◆しかし、これらもまたひとつの中心があって回転が起こっているという限定された認識です。
中心はひとつであってひとつでないのです。
これ以上は、同時複数的な全方向に回転するカメラのような存在形態でしか認識できません。
現象は、ひとつの平面的なスクリーンに映っているだけではないのです。 

◆すべてのものが、それ自体が回転しながら全体の回転の中の一部です。
全体の回転は無限に拡大されますが、どの回転の一点でもそれを悟ることは可能です。
これら全体の回転から人間の進化の軌跡を切り取ったのが螺旋構造です。  

◆これらの認識もまた、途上にすぎません。
とはいえ、ここまでを体験することはそう難しくありません。  

◆運動と一体化している意図もまた、回転の中の一点から
「飛び出して(はみ出して)」くるのです。  

◆私たちの局所的な運動は、無限の回転の遠心力から飛び出してきては、
新たな回転を生み出し、それ自体がまた、中心をつくって周囲と引き合います。  

◆個人が悟るのではないのです。そうであるとき、悟りもまた、永遠に進化します。  

◆これらを知るときには、いったんすべて忘れる必要があります。
座禅にしても、輪廻にしても、同一性の忘却可能な認識システムは
有り難い恩寵なのです。  

◆螺旋の軌跡は3次元上で仮に視覚化されたものです。  

◆私たちの身体性をもって体感できるのは、平面球までです。  

◆上の次元から俯瞰するとき、瞬間に裁断されて飛び出すものは回転する球です。  

◆当たり前の話ですが、球を裁断するのは「球のナイフ」です。
だから自身の認識が球になる必要があるのです。  

◆回転もまた、切り取られた仮の姿です。
しかしそれを「平面的に」却下するのは幼く乱暴すぎます。
それを私は「気絶」と呼びます。  

◆私たちは古代からこの気絶の境界を、様々な象徴にすり替えてきました。
神の概念もそのひとつです。  

◆ここで言っていることも途上にすぎません。
ただし、幼い私たちでも、過程を見る目を開くことは可能です。
いったん目を開き認識が転換すれば、勝手に進んでいきます。  

◆いったん「ぶった切る」という荒療治が必要なのです。  

◆ごちゃごちゃいわずに悟ればいいんだよ!という態度は
子供っぽいと言わざるを得ません。  

◆何も信じないこと。
既存の言葉に当てはめないこと。  

◆「過程のままでいい」と悟ること。
誤解を恐れず言うならば、解脱もまたひとつの「アイディア」なのだ。  


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【覚醒からのつぶやき 7】       

2020/10/10

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◆いかなるものにも定義されない自分自身であろう。

◆自分も他人も定義しないとき、子供の頃見ていた美しい世界が帰ってくる。

◆思考という計算機は使ってよいが、計算高い思考にならないようにする。

◆目を開けて机に指を置く。
目を開けて足に指を置く。
目を開けて顔に指を置く。
目を閉じて机に指を置く。
目を閉じて足に指を置く。
目を閉じて顔に指を置く。
そこに何がありますか?

◆ジャンプするときには地面を踏み込んでから反発で飛び上がる。
その、飛び上がる直前の、足の裏が未だ地面に付いているときの
感覚で立禅や座禅しよう。
ただし飛び上がってしまうと気だけ昇って重力で落ちるだけなので、
身体は地面にぴったり付けておく。
これがどこにも居座らない状態だ。

◆現実世界のほうが夢なので、ある意味リアリティの整合性の結合が緩いんですよね。
だから実際、この世界は不条理だらけだし何だって起こりうる。
逆に、覚醒した世界は緩みがありません。

◆世界は不条理だからこそ奇跡も起こるが、現象として顕れた奇跡の神秘性に
惑わされるのではなく、何でも起こりうる危うい夢の構造の方を見抜こう。
奇跡はそのためにある。

◆全員が良い人になっても、全員が悪い人になっても、世界は消える。
良い人が悪い人を創り、悪い人が良い人を創る。
そうやって持ちつ持たれつ協力して世界を保っている。
だが、世界創造のバランスゲームは良い人と悪い人というバランス以外でも保ちうる。
そろそろ気づこう。

◆世界を保たなければいけない義務も義理もない。
消しても消しても次々に顕れるから。
今この瞬間も、生まれた。
だからといって、使い捨てにしてると、劣化版で再生することは肝に命じておく。

◆正義心は心身を固める。

◆意識の風通しがよければ心地良いが、吹き溜まりができても慌てず
次の風向きを待つ。

◆百年の気絶も、一晩の気絶も、一瞬の気絶も、同じもの。

◆思考を見張ると気づきが凶器になる。

◆気づきは綿毛で触れるよりも軽くていい。

◆見たくない部分は気づきが落ちても気づかずノーカウントにしている。
ノーカウントの時間は、深く沈殿して闇となる。

◆カッコよくやろうとすると苦しくなる。
いま在る生を、愚直に全うするだけ。
それが結果としてカッコよさになる。

◆何かを信じるたびに目に鱗がくっつく。

◆私がある幸せはいつか消えるが、私がない幸せはいつもある。

◆幸せは自家発電しよう。

◆何もつかまなくていいとき、幸せは理由なくお腹の底からふつふつ
と湧き上がってくる。

◆ふつふつと湧いてくる幸せの種を見つけたら、爆発させようと欲張らないで、
花粉のように細かく放出させて静かに愛でる。

◆幸せの花粉は刻一刻と色合いを変えていくが、このエネルギーに
名前をつけたとたん、限定された幸せに留まる。

◆すべてのエネルギーがひとつのところにあって、刻一刻変化しつつ世界
に流れ込んでくる。
その中の限定されたエネルギーだけをつかもうとすれば、限定された存在に留まる。
私を通りすぎていくエネルギーの変化そのものを愛でよう。

◆「○○のエネルギー」と名付けたものへの信仰は、光のスペクトルの一色
だけの世界に限定するようなものだ。
世界の本質は境界のないすべてのスペクトルの変化し続けるうねりのダイナミズムだ。

◆とはいえ、一つ一つの色を知らなければ変化に気づけない。
現象世界はそのための学びの場だ。
一つのエネルギーを深く味わえば、他のエネルギーの味わい方も理解する。
味わい方を知ったら、味わう自分と個別の境界を手放して、変化そのものになる。

◆エネルギー酔いは甘美だが覚醒そのものではない。

◆酔っ払いは「酔ってない」と言い張るが、本当に酔いの中心にいられるならば
酔ってもいい。
酔いを物のように完全にそこに置いて置けるなら。
でも、それならもう、自分が酔う必要はなくなる。
この世界のすべての酔いは、忘却の希求だ。

◆気づきの距離がなくなったとき、世界はまるごとわたしの生命活動となる。

◆気づきの距離を自分でなくそうとすることは、目の前のコップを念力で
自分にくっつけようとするぐらいナンセンスだ。

◆どんな人でも、その人の良いところを見つけて愛でよう。
まったく見つからなくても、そのユニークさを愛でよう。
そうするうちに、自分自身のまだ気づかない良いところが見つかる。
そこに気づいて、生きる力を取り戻そう。

◆自己を離れることは生きる活力がなくなることではない。
活力そのものになるのだ。

◆因果の外には出られない。 絶対に。
だから、因と果の重ね合わせの中心に消えるしかない。

◆わたしたちは本来、一切の制限がなく自由だが、無制限を権利に掲げれば、
限定された自由に留まる。

◆人が覚醒するのではなく、その人の目を通して覚醒が覚醒する。
そのときその人の目は、覚醒と世界のあいだの透明な回転扉になる。
その人がいるかいないかは、言葉の遊びだ。

◆「いる」と「いない」は言葉の上では真逆だが、「いる状態」と「いない状態」
のあいだには無限のグラデーションがある。
どこからが「いる」でどこからが「いない」のかは、その人の次元の主観的な
感覚にすぎない。
確かなのは、覚醒においては、いるとかいないとかを考える隙は一切ないということ。

◆そもそも「いる」と「いない」は3次元の感覚であって、わたしたちの想像もつかない
認識形態においては、例えていうならば「いるいない」とか「いないいない」とか
「いいるない」とか「ないいいる」とか理解不能な別の言葉が存在するのだ。

◆覚醒は言葉で表現できないというが、例えば「ぴぽぽ」という新しい言葉が
覚醒状態を「完璧に」言い表す言葉でそれが世界中に広まるならば、
覚醒は瞬く間に伝播しうる。
その言葉が今のところ見つからないのは、言葉の構造自体が二元性に由来しているからだ。

◆「ばかうけ」の形にそっくりなUFOがでてきて話題になった映画「メッセージ」では、
認識形態の異なる生命体と言語学者が言葉の解読によって意思の疎通を図ろうとする。
この生命体の時間と言葉は地球とは異なる円環構造だった。
その理解の過程で時空の概念の転換が起こって世界が救われた話。

◆母親が東北生まれの東京育ちで、東北弁はまったく話さないが、なぜか
「いずい」という言葉だけはたまに使う。 「しっくりこない微妙にむずむずする違和感」
のような意味らしいのだが、その体感をうまく言い表す標準語がないからだという。

◆その言葉を何度か聞くうちになんとなく「いずい」体感がつかめてきた。
このように、知らない言葉によって今まで埋もれていた感覚が掘り起こされることがある。
覚醒もそのように、ただ、それを体感するための言葉が発見されずに埋もれているだけなのだ。

◆なんらかの体験で感動があふれ出てきたら、外側の感情にもっていかずに、
感動の中心のエネルギーを細かく小さくどこまでも凝縮していってハートの奥の
真空に吸い込ませる。
そうすると隠れていたポータルが見つかる。
いつまでも感動屋のままだと肉体の波動にとどまる。  

◆その際、肉体の反応である涙や鼻水や嗚咽は勝手に出るにまかせておく。
感動する自分に感動しない。
それらはそこに置いておいて、凝縮されたエネルギーを中心に吸い込ませ続ける。
このとき、肉体側にひっぱられる拮抗でGがかかるように細かく震えだしても、それも置いておく。  

◆目もハートもハラも、現象と思考と感情のごちゃごちゃの癒着をいったん整理する。
これは本当に必要。
ごちゃごちゃの認識でごちゃごちゃのものを見ても、ごちゃごちゃの気づきのままなのだ。  

◆本気でサマタ力を高めたければ、いったん瞑想から離れて、生まれてから今までの
すべての感情の未消化物を記憶のかぎり虱つぶしに追っていき、ひとつひとつ具体的に
納得して昇華させていく。

◆何をもって納得とするかは、ひとつひとつの体験によって違うが、リアルにその
当時の感情になりきって、当時見えなかった感情の奥の本心に気づいてあげよう。
もちろん、すべての記憶を追えるわけではないが、徹底的にやるとある段階で
「もうこれでやりきった」という時がくる。 

◆すると、瞑想における反応の出かたや手放し方の質がまったく変わったことに気づく。
そこではじめてすべての反応を置いておくことができ、集中が勝手に起こるようになる。
ただし、過去の自分を癒す感傷的な感覚に夢中になると、目的を忘れて延々と自分探し
をはじめるので注意する。  

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【覚醒からのつぶやき 6】       

2020/10/10

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◆目覚めている人がいるのではなく、目覚めている目だけがある。  

◆消える中心を、探さない先どりしない後追いしないつかまない  

◆「この私が消えなければ」と考えている最中にも、わたしはいないのです。
だから問題ない。  

◆世界のすべては始まっても終わってもいないものの再現です。  

◆認識のタイムラグを時間で修正しようとする瞑想は一如の完成を見ない。  

◆世界に包まれているのではなく、中心が世界を包んでいる。  

◆自分だと思っていた中心を外せば、あらゆるものが瞬間瞬間に中心となる。  

◆いかなる中心も固定されていない。
中心が移動していくのではなく、移動の只中で中心が無限に顕れては消えていく。  

◆捉えがたい曖昧なものや不安定なものにも中心がある。  

◆ミクロからマクロまですべてに中心があって、それらのひとつひとつは
バラバラなのに距離がない。  

◆自分の中心を外すのが怖ければ、身体の軸を外してシミュレーションしてみよう。
ただし、あくまでもシミュレーションなので骨格と重力に囚われているかぎりは
完全に外れることはない。  

◆軸を外そうという想いが軸にならないように。  

◆自分で自分を見ているってことは、すべてのものが見てくれてることなんだから、
それで充分じゃないですか。  

◆覚醒うんぬんよりも、各自が謙虚に責任もって自分自身に気づいてくれてる
世界って優しくて心の底から安心できる。
その心構えさえあれば、失敗しても未熟でも何でも許しあえる。  

◆今日も人知れず気づいていてくれてありがとう。  

◆瞬間瞬間というけれど、瞬間は相対的で主観的なものなので
「瞬間に気づこう」と意図したらダメなのです。
瞬間は定力に応じて決定されますが、定力が高ければ高いで、
瞬間は拡大され引き延ばされていきます。  

◆瞬間と瞬間の間はない。
それは時間の直線で区切られるものではないからだ。

◆便宜上「瞬間」と呼ぶところに在るときには、時間を前に進むのではなく、
中心に触れたと思ったらまた次の中心が中心自体から吸いついてくる、
といった感覚で入れ子になった中心が果てしなく顕われては消えていく。  

◆認識の極限を見切るとき、気づきはギリギリのところまで「並行に」
入り続けるが、最終的に一如を悟るには気づきは「垂直に」落ちて
中心に消えなければならない。  

◆降りてきた智慧の凄さに興奮しないで、しばらく寝かせておこう。
そうやって熟成させておくと、本当に必要なときに、必要な智慧が発動する。  

◆智慧の切り売りは自身をすり減らす。  

◆瞬間は前後ではなく、同心球状に断たれる。ここにつまづくと、
気づきは並行線をたどる。  

◆瞑想は「意図しない」というたったひとつのことだけを徹底すればよい。
ほんとうに、これだけなのだ。
意図しないことが続かなくても、続かない過程自体に、自身を知るための
数限りないヒントと恩寵が散りばめられている。  

◆「意図しない」ことは「意図を止める」ことではない。
この世界のすべてのものは意図が創っている。
純粋は意図はエネルギーだ。
意図に自分という想いがくっつかなければ私の苦は発生しない。
瞑想は、意図と自分との癒着を浮上させ見切っていくことなのだ。  

◆この世界では、中心とバランスの明滅だけが、永遠に起こりつづける。  

◆オンとオフの明滅は二元に限定された意識が生み出す。
神そのものは明滅以前にある。  

◆認識形態によっては、世界は単純な生滅の反復ではない。
生滅だけで世界を説明するのは地球の方便にすぎない。
生滅は時間ありきだからだ。  

◆意図と自身の癒着が剥がれてくると、隠れていた神秘が次々と
勝手に顕われてくるようになる。
神秘はすでにそこにあるもの。
神秘を追わなければ、神秘のほうからこちらを見つけてくれる。 

◆学者や芸術家は、夢現で閃いたアイディアが逃げないうちに枕元のメモに記す。
智慧の閃きは一瞬なので粗い意識では見切れない。
頭でメモをとろうとすると間に合わないのだ。
それを受け取れる精妙な意識と身体がないと記録できない。
人は、各々の意識の速度に合った智慧しか認識できないのだ。 

◆智慧はハラに落ちなければ自身を救えない。
だから、肉体の世界でハラをつくる。  

◆完全な無為の認識においては教える人も教えられる人もいない。
だが、ここでも思い込みの罠がある。
見かけ上、教える人と教えられる人がいたとしても、それ自体が無為なのだ。

◆瞑想で集中できなくても、自分の好きなことなら集中できる。
この世界は、好きなことをやって集中力を身につける場ともいえる。
この世界への集中から執着が抜ければ即、瞑想になる。
極端な話、パチンコの集中だって依存がなければ覚醒に触れうる。

◆執着=悪というのは二元的発想だ。 短絡的な価値観に囚われないようにしよう。
ただ単に、執着は明晰さを奪い、苦しみを呼び起こすという事実があるだけ。
それが嫌なら執着を離れるし、嫌でなければ好きなだけ続けていい。
誰も咎めはしない。

◆激辛のものを食べると辛さに悶絶する。
これは身体が危険信号を発しているからだが、危険信号に意識をあわせず
衝撃の中心を見てみると、辛さに触れていないすっと醒めた何もないところ
があるのを発見する。
苦行に何か意味があるとすれば、ここだろう。

◆瞑想は、自我の生命維持のストッパーを外せるかどうかが鍵になる。
自己同一性が崩れるのは自我にとって恐怖でしかないので危険信号を発し、
別の対象に意識をそらそうとあの手この手で仕掛けてくる。
でも、本当は大丈夫なのだ。 ストッパーを外しても死にはしない。
見かけ上の自分が死ぬだけだ。

◆もしまだ怖ければ、いきなりストッパーを外さず、身の回りのものの
「概念の死」を確かめながらゆっくり進んでいけばいい。

◆熱湯や火に触れてしまったときなども、生命の危険信号の前に一瞬、
空白があるのを見出す。
事故等で痛みも感じずに景色がスローモーションになるのは、この空白が
引き延ばされたものだ。
そこからわたしたちは、この肉体を維持する機能の以前に在るもの、
ということができる。
ここを見切ろう。

◆すべての瞬間がヒントであり答えである有り難い世界です。

◆この私が本体かコピーかというのは自己同一性の記憶の問題がすべて。
死んで生まれ変わる時は記憶が消える。
今この瞬間は、記憶を持った死からの再生。
一瞬一瞬、死んでいる。
でも本当は記憶も継続しているのではなく、一瞬一瞬再生されている。 

◆直列的時間の認識が瞬間につぐ瞬間の死と再生に追いついていないから
自己同一性を保てるのです。 

◆生と死はチャンネルの切り替わりです。
チャンネルを切り替えて、また同じチャンネルを見ることが、自分という同一性。
ただしチャンネルを変えているのは自分ではありません。

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