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質疑応答 「日常に顕れている神秘と観察方法について」

2018/08/27
「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」をお読みいただいた方より、日常における「観察」方法についてご質問をいただきましたのでシェアいたします。


<質 問>

「今まで精神世界サイトや本などで、あるがままとか今ここのとらえ方が間違いということが、わかりました。

読んでいると、なんかとても普通の日常では、覚醒は無理かな?と感想をもちましたが、

最後の方に日常全てのことにすでに神秘が顕れていることを知り、注意深く観察することで、

覚醒が向こうから触れてきている瞬間をつかんでほしいとありましたので、注意深く観察することから、

始めようと思いますが、今の瞬間している動作に注意深くすることと、思考を観察するということに意識していれば、

よいという意味でしょうか?」


<応 答>

よくいわれている「いまここ」「あるがまま」のとらえ方は間違っているわけではなく、時空の感覚の位相が異なっているために生じる違いになります。

観察についてですが、日常で起こっていることを観察するとき、基本的には一瞬一瞬、五感に触れてきたことすべてを見ていきます。
(視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚・思考・感情・動作すべて)

観察するといっても、能動的に観察対象を探すのではなく、受動的にその瞬間に触れてきた感覚に気づいていきます。

また、すべてを見るといってもすべての感覚をまんべんなく見なくてはならないということでもありません。

あくまでも、その瞬間に自分が気づいた感覚だけを淡々と見ていきます。
(結果として、人によって気づく対象や感覚に偏りがあるはずです)

通常の場合、一瞬一瞬明確に気づいていることは稀で、気づかないまま何十秒も思考に巻き込まれていたり、様々な事象が起こっているのに気づかずにひとつの感覚に巻き込まれてとらわれている状態にあります。

まずは見過ごしていた感覚に意識的になって気づきの鋭敏さを養うことが重要になってきます。

最初のうちは思考や感情や好悪の感覚が意識を占有していることが多いので、それらが浮かんできたらひとつひとつ観察します。

ただし、観察するときに「これは良い」「これは良くない」という判断をなるべくしないでただ「今こういう思考が浮かんだ」「今こういう感情が起こった」という事実だけを見ます。

慣れてくると、思考と思考の間に様々な感覚が触れてきていることに気づいてきます。

気づいたらそれらをまた、判断をしないでただ観ます。

「観察する」ということは、内容を分析したり判断したりすることではなく、瞬間瞬間に触れてくる感覚やそれに対する反応を見切っていくということです。

そして自分の反応のパターンを知り、いかにこれまで思考に巻き込まれて様々なことを見過ごしてきたかという事実に気づくことです。

注意点としては、思考を観察しているつもりが「思考について考えてしまっている状態」にいつの間に巻き込まれていたりするので、思考に巻き込まれた状態に気づいたらいったんその思考内容から離れて「いま思考が起こった」という事実だけを確認します。

また、いままで無意識に行っていた動作も注意深く観察してみます。

たとえば食事のときに皿から口まで食べ物を運ぶ間に起こっている様々な事象は、無意識に食欲にまかせて食べているときには気づかずにいつのまに口に入っていたりしますが、細かく観察すると1秒の間にも「箸で食べ物に触れた感触」「箸で食べ物をつまんだ圧力」「食べ物を持ち上げた重さ」「箸を上にあげる速度」「箸を上げるときに曲がった肘の感覚」「手を上にあげていくときの筋肉の感覚」「食べ物が口に近づいてくるときの口内の唾液の感触」「口を開く感覚」「家族の会話が聞こえる」「食べ物が唇に触れた感触」・・・等々、細かく分割していけば無限の事象が発生しているわけです。

それらのすべてを細かく見て行かなくてはならないわけではありませんが、気づきの鋭敏さのそれぞれのレベルに応じて、その瞬間、五感や意識に触れてきたことをただ見ていきます。

本来は、ネガティブな思考であれポジティブな思考であれニュートラルな事象であれ、すべて生じていることは覚醒の顕れであり、すべての事象が認識された瞬間に現象世界が顕れては消えていっているのであって、そのこと自体がすでに覚醒の証明なのですが、現象世界が顕れていることを当たり前だと思ってしまっているために目の前に顕れている神秘に気づかずに思考に巻き込まれ続けている状態になっています。

まずはその無意識の状態に気づいてすべてのことに意識的になることによって、思考と思考のあいだの隙間に気づき、そのときに起こっている様々な現象に気づいていきます。

事象が気づかれる瞬間というのはまさに現象が生み出され、世界が生み出される瞬間なのです。

そのことに気づいたとき、今まさにこの自分が世界と覚醒のポータルとしてあり現象の生成に立ち会っているという驚きと感動が生じるはずです。

結論をいってしまうと、無限に切れ目のない気づきの連続が、いま目の前に顕れている世界そのものなのです。

気づいていることに気づいていないだけで、気づいた結果としての総体が、目の前にあたかも脳から飛び出して外にあるかのように「世界」として見られているのです。

エゴは思考に巻き込まれている状態が自分だと勘違いしているので、思考を客観的に観察して思考以外の事象に気づいていくことを最初は嫌がりますが、徐々に観察する意識が定着してくると、思考と思考の隙間であらゆる事象がハートに直接響いてくるようになってきます。

長くなりましたが、最初はあまり気負わずにやってみていただけたらと思います。

もし思考に巻き込まれてしまったとしても自分の不注意を責めず、巻き込まれたことに気づいた段階で毎回リセットして新たに気づいていけば問題ありません。

最初は根気がいるかもしれませんが、観察する意識を定着させることは必ず一生の宝物になると思います。




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ワークのお知らせと、質疑応答 「世界は進化しているの?」

2018/08/22
先週の土曜日、パートナーのリアル氏が主催する「it会」という秘教の会に参加しました。

この会は「it」(=「それ」、「神」「宇宙意識」などを便宜上、指示代名詞で置き換えたもの)のダイレクトな体感を分かち合いましょうという、かなりストレートな趣旨の会で、「it」という講座の参加者対象で2ヶ月に1回開催しています。


その会に拙著「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」を読んでくださった方がいらして、質問を受けました。



ひとつめは「世界全体としては結局、進化していっているのですか?」

というご質問でした。

ふたつめは「実際にルビンの壺の絵を眺めてみたが、本文に書かれていた『あいだ』がよくわからない」
とのご質問でした。


ひとつめのご質問者は

「みんなの意識が進化して愛ある世界になっていってほしい」

という希望をお持ちのとても純粋な方です。


それにお答えするにあたって前提として

「全体としてはなにも変わりません。はじめからおわりまですでにこのままで、まったく変わりません。でも、世界を切り取る認識と読み取り方は進化するし変わります。認識が変わることによって、変わらずにあった全体性の中から今よりも進化した側面を読み取ることができます。それを『進化した世界』と呼ぶことは可能です。進化した世界は『ある認識においては』存在することができます」

と答えたうえで、

「もちろん、愛ある世界に『も』なりますよ」

と断言しました。


なぜでしょうか?


直列的な時空を超えたところでは、すでに世界ははじまっておわっており、すべての進化の可能性の萌芽を包括した場としてあります。

そこにおいては、人間にとってわかりやすくいうと、例えば「愛ある世界」と「愛のない世界」の可能性の両方が、一瞬という「点」として認識される以前の意味の排除された状態で、エネルギーとしてアイドリングしているのです。


この「場」に認識が触れた瞬間、人間が「愛ある世界」と呼んでいるエネルギーのものに引き合えば「愛ある世界」というタイムラインが現象世界として出現します。

この「場」にはこのような無数のタイムラインの可能性が同時並列的にあって認識の瞬間を待っています。
(ここが直観的に理解しづらく難しいところだと思います)


こうして人間の3Dの認識で瞬間瞬間に今が切り取られ見かけ上直列的なタイムラインとして並べられたものが「世界」と呼ばれているものです。

いま認識されるこの世界は、いまこの認識レベルで切り取られた世界なのです。

しかし次の瞬間、別の認識レベルで世界が切り取られた時、それはすでに別の世界なのです。


よって進化した認識で一瞬でも全体から愛が切り取られたとき、そこはすでに今よりも進化した愛の世界なのですが(直列的時空の感覚では「でも私がいま愛を感じていても世界にはこの瞬間飢餓に苦しんでいる人もいるので愛の世界ではない」と感じるでしょうが)、次の瞬間に愛でない状態が切り取られたとき、それは愛でない世界がふたたび出現したのです。


愛の世界とそうでない世界は、瞬間瞬間に全体から読み取られ、分岐していきます。

無数の分岐が同時に起こり同時に消滅していきます。


人間は、瞬間瞬間の分岐に気づかず世界を地続きの連続体だと思って生きています。

この分岐のうち、あなたの意識が進化した認識(この場合は愛の状態)によって起こり、それが見かけ上持続するとき、あなたの世界は愛の世界になります。


それは、「愛でない人がいるうちは私の世界は愛にならない」「世界の全員が愛にならないと愛の世界が訪れない」ということではありません。

分離した人がいないとき、あなたが愛であれば世界は即座に愛の分岐世界のタイムライン(パラレルワールドといってもいい)に入るでしょう。


世界はどの瞬間でもこのように切り取られる状態にあるのです。

あなたが進化のスパイラルにいれば世界は進化していくものとして切り取られるし、退化する側にフォーカスすればそのような世界が出現するでしょう。


ただし、どちらの世界が切り取られようとも、全体は何も変わりません。

現象世界において認識の見かけ上の進化と退化があるだけなのです。
(本当はそれすらもなく、進化や退化にフォーカスさせられるエネルギーが発生しているだけなのですが)


現象世界は固定していません。

それは読み取られる認識レベルによって切り取られ流転しつづけます。


全体はなにもかわりません。

この人間の現象世界というひとつのものが固定されてあるわけではなく、切り取られた数だけ世界が派生しては消滅していくのです。


そのひとつひとつの無数のシナリオは運命やカルマとよばれ、それぞれにフォーカスされた意識の担当者が見かけ上の自己同一性をもって、その運命を過去から未来へ向って生きているように錯覚しています。



・・・「こんなややこしい話なんかいらないから、愛ある世界をフィーリングで感じていたい」

というのももっともな話です。


もしそれが望みで四六時中、愛を感じていられたならば、この厳しい現象世界においてそのようなタイムラインに居続けることができるあなたは本当に幸せな人だと思います。


しかし、愛を感じながらもどこかで

「でもいまこの瞬間、世界中には愛のない人がいて争いが絶えないから、愛のない人たちを何とかしないと世界が救われない」

と、ちらっとでも頭をよぎったりハートがチクっと傷んだりしたのならば、それはその瞬間、あなた自身が世界を分離したのです。


かといって、そのことに罪悪感を抱く必要はありません。

二元的な現象世界において愛のエネルギーが一方に集約すれば、もう一方でバランスをとるために愛でないエネルギーも集約するものだからです。


だから、現象世界における愛は永遠に、愛でないものとの表裏一体から逃れられません。

こんなことをいってしまったら身も蓋もないと思うかもしれません。


しかし、もしあなたが現象世界における愛のなかでチクっとした痛みを感じたとしたら、それは世界の仕組みに気づくための恩寵だともいえます。

そこからはじめて、愛とはなにかという問いが湧き起こってくるからです。



ふたつめのご質問については、言葉で説明しようとすると少しややこしい話になってきますので、実際にワークを行いながら体感していけたらと思います。


*****  Rubin’s work ワークの日時が決定しました。 *****

定員に達したため今回の募集は締切りました。
今後のワークの案内をご希望の方はメルマガにご登録ください。


● 9/23(日)18:30~21:30

場所は東京都中央区、参加費は無料です。


内容については大筋で考えている流れはあるのですが、参加者さんの状況をみながら即興的に進めていこうと思っています。

大まかにいうと認識/身体/意識のそれぞれの側面からシンプルにアプローチしていく予定です。


拙著「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」をお読みになり参加ご希望の方は、まずは以下のフォームからメルマガのご登録をお願いします。

⇒ メルマガ登録はこちらから

追って参加条件等の詳細をご連絡いたします。

なお、すでに参加募集を開始しており、会場の広さの関係で先着順になる可能性もありますことをあらかじめご了承願います。




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「神の通訳者」ショーン・ボルツと神の愛の証明

2018/08/07
先日、パートナーのリアル氏「神の通訳者」(ショーン・ボルツ著)という本を読んでいて「やっぱり信じることの基本が大事だよなあ」としきりに繰り返していました。


ボルツさんはロサンゼルスにある教会Expression 58の主任牧師で、子供のころから神の声を聞き、神の愛を預言として人々に伝えるミニストリー活動で有名な方。

著者のことは知らなかったのですが、最近なぜかキリスト教関係の情報がいろいろ入ってくるので気になっていくつか預言の動画を見てみました。

⇒ 動画 「預言・イエスと共にいる今は亡き少年」


この動画にもありますが、基本は神の声として降りてきた名前や数字や地名などをミニストリーの会で参加者に伝え、該当する人がいればその人に神の言葉を伝えるというスタイル。

多くの場合、降りてきた数字が住所の番地だったり誕生日や銀行口座番号だったりして、その正確さに驚くのですが、あくまでもこれらの的中は「神があなたをいつも見ておられますよ」という証明の一端にすぎず、重要なのは「いかに神があなたを愛しているか」「神の御心としてあなたが何をすることを望んでいるか」というメッセージのほう。


とはいえ、やはり通常では知りえない個人情報をこの精度でいきなり当てられたら「本当に神が見て下さってる」と信じる気持ちが強まるのも確かだと思います。

実際、預言を授かった人たちが愛の証明に打ち震える様子は感動的です。


これらの動画を見て思ったことがふたつあります。

ひとつは、最近の非二元やマインドフルネスブームのなか二元的な対象物を持つ祈りや愛といったものが軽視されがちですが、キリスト教信者の神への愛の純真さや情熱と比べて、はたしてわたしたちは対象化できない「それ」へ毎日そこまで意識を向け続けているだろうか?という疑問。

もうひとつは、はたして「信じる」ために特別な「証明」が必要なのか?という疑問。


これらの問いに関してわたしは、拙著「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」のあとがきにこのように書いています。


*********** 引 用 *******************

ここで、わたしのいちばん願っていることと、いちばんの秘伝をお伝えしたいと思う。

本文では、覚醒の根拠を明らかにするために、なるべく具体的に記したいとの思いから認識や体験の細部まで記したため、「結局、訓練と才能が必要なのか」とがっかりしたり、匙を投げたくなった人もいるかもしれない。

しかし、華々しい神秘体験を期待するのではなく、一見なんの変哲もない日常のすべてのことにすでに神秘が顕れていることを知り、熱心に注意深く観察することによって、覚醒が向こうから触れてきている瞬間をつかんでほしいのだ。

ほんとうは覚醒はつねに触れているのだが、その瞬間、思考や感情やストーリーによって認識が占有されているため、それに気づいていないだけなのだ。

もし、この本を読んで覚醒というものにほんの少しでも心が動かされたら、覚醒の手触りが日常に紛れ込んでいないかどうか、根気強く意識を見張っていてみてほしい。

そのときに、なにか特別なことを見つけようと意図するベクトルを働かせないで、ただ、起こってくることを観察してほしい。

どのような瞬間もあなたにとって好ましいか好ましくないかは関係なく、すべて、覚醒の采配そのものが顕現したものであるのだ。

あなたに起こってくることすべてが、覚醒と直接つながっていることなのだ。

あなたの存在が、その証拠なのだ。

それは、あなたが気づいていないだけであなたが生まれてからずっと顕れていた。

というよりも、その顕れとしてあなたが生まれた。

もしかしたら、あなたの人生はずっと悲惨なものだったかもしれない。

ただ、悲惨さの中にも、ほんの一瞬だけでもふっと心が軽く透明になったことは過去に一度でもなかっただろうか?

それは、人間関係の悲痛に泣き暮れているときにほんの一瞬、風の心地よさが通りぬけたときや、日々の仕事でくたくたに疲れて帰ってお風呂に入った瞬間に身体の力が抜けたときや、耐えがたい頭痛に悩んでいるときにほんの一瞬、赤ちゃんの笑い声が耳に入ったときや、家庭内の問題で頭がいっぱいのときにお茶を飲んだほんの一瞬、香りが鼻をぬけたときかもしれない。

…そういった瞬間は、すぐに次の瞬間、悩みや思考にかき消されて忘れられてしまうだろうが、ほんとうに注意深く意識の流れを見守り続けたときに、無数の忘れ去られた瞬間があったことに気づく。

それらが意識にのぼってきたとき、その瞬間をのがさずに、少しだけそこに意識のフォーカスをあわせてとどまって観察してみる。

それらがどこから来てどこへ去っていったかを注意深く観察する。

それを繰り返すうちに徐々にこういった瞬間が増え、とどまる時間が長くなってくる。

すると、徐々にそこに覚醒側からの采配の手触りを読み取るようになってくる。

そこではじめて神秘体験を受け取るためのスペースができる。

正確にいえば、スペースはすでにあったのだが、その瞬間を占有していた思考や感情やストーリーとの同化が解除されることによって、もともとあった覚醒が顔を顕すのだ。

注意すべきなのは、決して自分にとって好ましくない体験を排除しようとしないでただ観察すること。

スペースを自分で空けようとしないこと。

排除するベクトルが働くとその意図が新たにスペースを占有する。

そうではなく、ただ、采配にまかせて起こってくること、見せられていることをただその順番どおりに受け取って観察することで、覚醒が認識されうる瞬間、チャンスが確実に増える。

考えてみれば、悲惨な体験が時間的に連続しているかのように見えているなかで、ふと、まったく別の出来事が目の前に起こってくること自体、不思議ではないだろうか?

悩み事で絶望していても、道を歩いていると人が歩いているのを見たり、むこうから挨拶してきたり、店や木や車や信号や散歩している犬が意図せず目にとびこんでくる。

電車に乗れば、いつのまに知らない人が隣に座って肩が触れていたり、窓の外に景色が流れていくのがぼんやりと目に映っている。

悩み事で頭がいっぱいのうちに電車は駅に到着し、足が勝手に動いていつのまに職場のデスクに向かっている。

そのあいだにもあなたの認識にはのぼってこない無数の出来事や景色や音や香りが映っては消えていっている。

それらはみんな、あなたのなかに起きたことなのだ。

たとえあなたがずっと悩むことに専念したいと思っても、あなたの意図とは関係なく様々なことがあなたのなかに勝手に入ってきて触れていく。

それらの勝手に入ってきたものはどこから来てどこへ消えていくのか?

あなたを占有している思考から、ふと離れたとき、今まで忘れていたそれらが生き生きと存在感を増してうったえてくる。

そういった瞬間に気づいていくことで、あるとき突然(のように思える)、采配の神秘の電撃に撃たれる。

このことを、ほんとうに小さな瞬間から自分で実証していってほしい。

すべてのことを自分への顕れとして見、目の前にあることを自分のなかをのぞいているかのようにつぶさに観察しつくしてほしい。

すると、小さな発見の積み重ねによって自らの内から信頼と感謝が生まれ、神秘が必ず顔を顕すことになる。

気の遠くなるような地道な作業だと思うかもしれないが、熱心に観察すればそれはすぐにでも突然パっと開ける。

この提案をいま目にしているこの瞬間、信じるか疑うかにかかわらず、すでに覚醒側からの働きかけははじまっている。

もし観察のしかたに迷ったら、わたしなりの地点からお伝えする用意はある。

あなたを撃ち抜くような神秘体験とは、それを受け取るためのスペースと、自ら沸き起こった純粋な信頼と感謝があるところにしか顕れることができない。

覚醒側はその瞬間をずっと待っていたのだ。

**************************************


ここであらためて言いたいのは、愛は現象のなかに常にあらわれていて、一瞬たりともわたしと離れたことはないし、離れることもできない、ということです。

そしてそれは特別な証明など必要なく、あらわれていることすべてが証明なのだということ。

そこにおいて「信じる」ことは自明に沸き起こるということ。

自分の名前や姿形がこのようであること以前に、空気のようにすでにあるということ。

それとわたしがぴったり重なって一体化してあるとき、まるでソファに深々と座ってくつろぐかのように「信じてあること」の安堵だけがあるのです。

そのとき、どこまでも深く無限に「あること」の自明さをひたすら受け取り続けることになります。

この、無心の瞬間をせめて一日一回でも思い出してあげること。

それはもう信じる信じないを超えて存在そのものの受容です。

それさえあれば、他人に何かを期待したり愛を強要したりすることもなくなるでしょう。

それだけは、生まれる前からずっと一緒にあるものでどこにも行かないものなのですから。




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