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11/24(土)18:30~20:30 「ワーク開催日時が決定しました」                                     

2018/10/26
*****  Rubin’s work  ワーク開催日時が決定しました。 

定員に達したため募集を締め切りました。
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大阪ワーク、募集締切ました。
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● 11/24(土)18:30~20:30

場所は東京都中央区、参加費は無料です。


内容については大筋で考えている流れはあるのですが、参加者さんの状況をみながら即興的に進めていこうと思っています。

大まかにいうと認識/身体/意識のそれぞれの側面からシンプルにアプローチしていく予定です。


前回のワークの様子(ブログより)
⇒ 「9/23(日)『認識転換ワーク』を開催しました」


拙著「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」をお読みになり参加ご希望の方は、まずは以下のフォームからメルマガのご登録をお願いします。

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なお、すでにメルマガにて参加募集を開始しており、会場の広さの関係で先着順になる可能性もありますことをあらかじめご了承願います。


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comment (0) @ 参加募集

「エゴは消すべき?」「エゴの正体と対処法」 【質疑応答】    

2018/10/06
本をお読みいただいた方よりコメントをいただきましたのでシェアします。
(コメントと応答の一部を編集・追記しています)

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<質 疑>

スピリチュアル探求を始めて7年経ちますが、成長の実感がありません。

ただ全てを受け入れ起こる事に委ねるしかないと頭では理解していても、
エゴに取り込まれることの繰り返しで嫌気がさしています。

また、他者に対する嫌悪感が払拭できず苦しく、優しくすることができません。

根本的に自分が変わらなければ同じことの繰り返しになることも想像できます。

どんな手を使ってもエゴの幻想を見抜きストーリーに巻き込まれることなくなりたいです。


<応 答>

結論から言うと、エゴはあっていいのです。

エゴは、それが幻想であると気づいていてもいなくても、ただエネルギーの癖のようなものとしてあるだけです。


極端にいえば、たとえば強迫神経症などの場合、わかっていながらひとつの行動パターン(過剰な確認行動など)
を繰り返してしまったりすることがありますが、エゴとは強迫神経症のエネルギーパターンが人間の世間の
「常識」「平均値」程度まで薄まった状態のようなものです。

頭ではやめたいと思っても癖づいたエネルギーパターンに無意識に巻き込まれ、言動が起こった後で
自己嫌悪に陥ったりします。


本の中でも述べましたが、私たちはそのエネルギーパターンの引力にひっぱられ、エネルギーと同化し、それを
自分だと思っていますが、究極的には瞬間瞬間のエネルギーに割り当てられた担当者(という意識)なのです。

この、瞬間瞬間の担当者の意識を直線的に繋ぎ合わせた感覚を現象世界において「自分」と呼んでいるのです。


エゴに染みついたエネルギーのパターンに巻き込まれて一時的に自己嫌悪に陥ることがあっても、
少なくとも〇〇様は巻き込まれてしまったことに気づく瞬間はあるわけですよね。

そのとき、短い時間かもしれませんが純粋な意識としての本来の〇〇様が姿を顕しています。


時空を超えたところでは、意識が意識そのものに気づいたときが新しく生まれ出た瞬間なのです。

私たちは一瞬一瞬生まれ変わりリセットしています。

今の瞬間と次の瞬間は、別の世界なのです。

言い換えれば私たちは、毎瞬リセットされた世界を認識し存在を確認するための担当者として、
様々なエネルギーに付随して生まれ出ているのです。

もしこの考えを少しでも受け入れることができましたら、今はたまたま一定のエネルギーの引力にひっぱられて
そのエネルギーの担当者として存在している(と思っている)としても、いつどんなときでも次の瞬間生まれ
変わってリセットすることができることを忘れないでいただきたいと思います。


現象世界において、見かけ上の他者と対面することがエネルギー的な軋轢を生むのは当たり前のことです。

この世界の創造拡大のためには不協和音やエネルギーの差異が必要なのです。

調和だけでは単調になり衰退していきます。
(このあたりは、いわゆるスピリチュアル的な観点からは過激に聞こえるかもしれません)


誤解を恐れずにいうと、見かけ上の個別の存在の担当者として嫌いな人がいてもまったく構わないですし、
そのことに自己嫌悪を覚える必要も一切ないのです。

究極的には私たちは何も自ら行為していないのですから、ある意味なんの責任もないのです。


とはいえ、人間は自我の発達過程で自分で自分を意識するというメタ構造を持ってしまったため、
不協和音の担当者が「この自分」であることを苦しく感じてしまいます。

特に、高度に発達した自我の形態において「覚醒」のような概念を理解できるようになったことにより、
より自己嫌悪や被害者意識が強まってしまうということがあります。

それは、「完璧な自分でなければ意識が進化せず覚醒できない」あるいは「行為する者がいないのに
何故よりにもよって自分はこの未熟な個体幻想の担当者なのか?」といった複雑な自意識からくるものです。

それはある意味、素朴な「自我」と自我自身を意識している「メタ自我」に加えて「覚醒」「ワンネス」
といった第三の概念を意識するようになったことによる「メタ-メタ構造」の弊害ともいえます。


以上をふまえて、私なりに〇〇様に具体的にアドバイスできることがあるとすれば、まず、

・エゴはあってもいい
・エゴに巻き込まれてもいい
・嫌悪感が出てもあたりまえである
・嫌悪感が出ることは自分の責任ではない
・優しくなろうとする必要はない
・自己嫌悪は単なる一過性エネルギーである
・瞬間瞬間いついかなるときでもリセットできる
・能動的にすべてを受け入れて委ねることはできない

ということをいったん認めたうえで、(難しければ最初はそのように仮定するだけでかまいません)

・「この自分が」優しくなければならないと思うのはなぜか
・エゴの存在を否定しなければいけないのはなぜか
・「ストーリーに巻き込まれていない自分」を求めているのは誰か
・成長しなくてはならないという思いはどこからくるのか

というように、「~ねばならない」という思いが出てきたときに、一瞬立ち止まって自問してみて
いただきたいのです。


エゴは消そうとすればするほど反発し増長していきます。

消そうとしたり否定したりするのではなく、駄々をこねる小さな子供を見守るように、いったんエネルギーが
出るのに任せることです。

そうするとその瞬間認められたエゴは満足して勝手に引っ込みます。

エゴを敵視するのではなく、エゴはエゴでこれまで自ら傷つきながら嫌な役割をはたしてきてくれたんだな、
と感謝し和解することです。


エネルギーの癖が強いときはなかなか引っ込まないかもしれませんが、エゴ自身の母親であるかのように
辛抱強く見守ります。

ただし、子供であるエゴを甘やかしたり頭ごなしに否定したりすることなく見守ってください。


そして、エゴに巻き込まれたことに気づいた瞬間があったときに、それは恩寵の顕れであることを知り、
気づけた自分自身に感謝してあげてください。


見守る時間はいくらでもかけていいのです。

すぐに変わらないからといって自己嫌悪に陥る必要はまったくありません。

一時間でも一週間でも一年でも極端にいえば一生かかっても、ある瞬間にリセットされればすべての時間は
超越されるからです。


注意するのは、気づいた瞬間を能動的に「引き伸ばそう」としないことです。

好ましい状態を「引き伸ばそう」とするのはエゴの欲求です。

気づきは常に一瞬でいいのです。

このことを認めることによって逆に気づきの瞬間は自らのコントロールを離れて勝手に連続
していくようになります。


「優しくなろうとする必要はない」というのは人間の観念から見れば道徳的でないと感じ抵抗
があるかもしれません。

でも、「(人として)優しくしなければならない」という観念を手放し、エゴのエネルギーの衝動を
見守っていこうと腹をくくったとき、結果としてまったく別次元の優しさが発露するのです。


その優しさにおいて、聖なるものも悪しきものもすべてを存在するままに受け入れられることになるのです。


関連記事
⇒ #丹田、ハート、意図、重心 【ワークのご感想と質疑応答】

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comment (0) @ 質疑応答

「覚醒と恩寵の関係」「誰が覚醒するのか?」 【質疑応答】     

2018/10/01
ワークに参加された方から質問をいただきましたのでシェアします。
(質問と応答の一部を編集しています)


<質 問>

覚醒の体験は自分ではコントロールできず完全に恩寵任せでしか起きないのでしょうか?

最後の最後は恩寵によるものだとしても、自ら起こせるアクションはあるのでしょうか?

今まで自分だと思っていた枠が広がっていくと結局のところ全てが自分であるという感覚が残る事になるのだと
思うのですが、そうすると全て自分だから自分が覚醒したという感覚は起こらないのではないでしょうか?

認識する主体がないとき、夢を見ている自分を認識できないのと同じく、覚醒や悟りそのものを捉えることは
できないのではないでしょうか?


<応 答>

究極的な視点からみれば、こちらがわの自分が能動的に行っていることは何もないので、すべての体験が
恩寵と言えます。

「恩寵」という言葉や神秘体験だけにとらわれすぎると、日常のすべてに顕れている恩寵を見逃すことになります。


神秘体験は、人間の思考や感情その他に隠されていた「それ」が一瞬だけ「わかりやすい形で」気づくように姿を
顕してくれるという意味においては「むこうがわ」からの積極的な働きかけと解釈することができ、それを特別な
「恩寵」ととらえることもできるのですが、本当はふだん認識されていないだけで常に周囲のすべてのものが
恩寵の顕れなのです。


能動的に行為している自分がないとき、能動と受動の区別はなくなります。

そのため一見、自分で能動的にコントロールして覚醒のために訓練することも、実は受動的に起こっている
恩寵なのです。

そこにおいては、突発的に起こった神秘体験も、見かけ上「能動的」に行う訓練も、まったく同等に「むこうがわ」の
采配によって現象化されたものということになります。


ただ、どちらの現象においても「〇〇さん」という見かけ上の個人の体験として認識されたとき、その体験の最中
における「〇〇さん」の気づきの主体がどの位相にあったかによって、それが「能動的」に自分で行ったかのように
感じたり、まったく突発的に受動的に起こったかのように感じられたりするのです。


究極的には覚醒のための「能動的」な訓練はできません。

なぜなら、「能動的」に行う感覚が伴う位相の主体はエゴであり、エゴ感覚があること自体が覚醒を
見えなくするからです。


覚醒のための訓練というのは、このようなエゴ感覚や能動と受動の感覚を明確に知るための訓練であり、
能動的な感覚をもって手放せるとこまで手放したうえで、最終的にはすべての訓練そのものも手放し
「明け渡す」ことになります。

この、最終的な明け渡しのために「やれるところまではやった」という地点までは見かけ上の能動的な感覚をもって
行うということです。


訓練なしでも突発的な「明け渡し」が起こることはあります。

しかし、たいていの場合、その後に再びエゴが顔を出し、困惑することが起きてきます。


訓練というのは、エゴの性質を見極め、エゴを否定することなくうまく手懐けながら進んでいくためのマニュアルです。

この道はすべての人に絶対フィットするというわけではありませんが、比較的安全で確実であるといえると思います。


また、究極的な覚醒そのものにおいては、人間であるかぎり何も認識することができません。

それは「無」と認識できるものですらないのです。

少しでも認識できる体験があったとしたらそれは主体と客体が分離している状態です。


人間にとって、覚醒の体験というのは常に後付けの記憶やイメージにすぎません。
(本当は、一瞬一瞬、この覚醒を体験しているのですが、認識されていないため「なかったこと」として、認識された
点と点だけをつなぎ合わせてこの世界を見ているのです)


「全てが自分だった」という体験は、主客の区別がなくなった状態といっても、あくまでも現象世界の中での話です。

この段階においては、対象として認識されている現象世界が存在したうえで、主体のエゴ感覚が外れてその空白に、
これまで客体としてとらえていたすべてのものが置き換わっているのです。

この状態のとき、気づきに映っているすべてのものが空間的な距離を超えてあたかも「自分」であるかのように
触覚を伴って存在感を訴えてきます。


ちなみに本でも触れましたが、自分という存在感覚は丹田に関係していて、丹田の感覚が残っていると「全てが自分だった」
「全てが自分の中にあった」という認識に至りやすいと私は体験的に感じています。
(人間の場合、世界を創造するということは、女性の子宮と同じく、ハラの感覚に根ざしているからです)


ただ、おっしゃるとおり「全てが自分だった」という体験の最中においては「覚醒している」という認識は伴わないはずです。

なぜなら「この自分が」覚醒しているという認識を伴ったとたん、自他の区別が発生するからです。


この体験を「覚醒」と呼ぶのは、体験から出た後にエゴ感覚が戻ってきてから後付けで名づけられたものです。


さらに「自分」という感覚を伴わない体験の場合は、唐突に自分が空白になったところに世界そのものが置き換わり、
ただ世界だけが映っている状態(ただし、強烈なリアリティを伴って。なぜなら、エゴにリアリティを持つために使っていた
エネルギーがすべて世界そのものへの認識に置き換わるため)になりますが、これも、その体験の最中は認識している
自分を自覚することはできず、体験から出た後に後付けで気づくことができるだけです。


体験され語られたものはすべて例外なく、この現象世界の中の出来事です。


ここで、ひとつ重要なことがあります。

〇〇さん自身もなんとなくお気づきのように「誰が覚醒や悟りを認識しているのか」という問題です。


これは先にすでに答えをいっていますが、「覚醒や悟りそのものを認識する者(人間)はいない」のです。

「覚醒は覚醒自体としてある」のであって、認識されたとたんにそれは覚醒そのものではなくなるのです。

覚醒は対象物ではないので捕まえることはできません。


そもそも覚醒や悟りを問題にしているのは現象世界における人間の思考です。

覚醒は常にそのままあるのに、それを人間の思考が隠しているだけなのです。

それでも覚醒や悟りを「人間としての個別の自分を残したまま」体験したい、ということ自体がエゴなのだということです。


だから、ワークをしていてこんなことを言うのも何ですが、本来は覚醒など求めなくてもいいのであり、求めるエネルギー
のベクトルが発生しておらず、かつ、人間として認識されている自分という担当者を受け入れこの生を無心にまっとう
できていればいいわけです。


それでも「悟り」というのは古来から、人間世界における概念であり目標であるため、人間において共通する状態、
というのが設定されており、一応は到達点があるとされています。

その到達点において、体験された状態というものがいろいろと報告されてはいますが、結局のところ「人間として
わかり得ないもの」という一点は必ず残ります。

それは人間の認識の構造上の問題です。
(神も宇宙も、すべてがわかった、という覚者がいたら疑ったほうがいいと思います)


ただ、その段階においては、「わかり得ないもの」をわからなくてはならない、というエゴはなくなっており、
わからないものはわからないままにあることに疑問も不満もなくなった平安の状態になっているということです。

「すべてがわからなくては不安だ」と思うエゴがなくなったとき、すべてのものがあるがままに存在している
だけになるのです。


このとき、エゴを完全に消さなくてはならない、という観念自体もなくなります。

なぜなら、エゴはエゴとしてあってもそこに同化していなければ何の問題もないからです。


この「夢」の世界に同化している私は、これが夢であることを知らないとき夢を夢と認識することができませんが、
夢であることを明確に知ったとき、夢の中にありながらも明晰夢のように夢であることを認識しながら「私」という
担当者として「私と世界」を自覚的に体験することになります。


何故わたしがこのようなことを確信をもって言うことができるのかというと、それは私なりに「わかり得るところまでは
わかる」ことによって「わかり得ない」一点の入り口を垣間見、エゴが降伏する地点を知ったからです。

エゴがもう何もできることがないと降伏する地点を知り「明け渡し」が自動的に起こったとき、不思議なことに
「わかり得ない」ところから仕組みの理解がもたらされるようになったのです。


もちろん今これを語っている人間としての私、この個別の脳のキャパシティの私にすべての仕組みがわかるなどと
驕る気持ちはまったくありません。

私にわかることは本当に一部分にすぎません。

それでも、この私のキャパにおいて私なりに理解させていただいたことに対する有難さには常に感謝しかありません。


〇〇さんが私とまったく同じ体験や状態を経験する必要はありません。

〇〇さんには〇〇さんのプログラムがあり、そうでしかないタイミングに起こるべきことが起こることは間違いありません。

今回ワークに参加されたのも(それが最終的にどういう結果につながるにせよ)起こるべくして起こったことです。


私に言えることは、「わかり得ないこと」に対する不安や欲求がなくなり、それに対する畏敬と感謝と安心の状態は
確実にあるということで、必ず一人一人が納得できる地点があるということです。

私という顕れを通じて、そのことだけでも伝われば本望です。


一瞥体験が何だったのか、覚醒や悟りとは何か、という疑問が生じ、考えれば考えるほど堂々巡りしてしまうときは、
いったん疑問を保留し、なぜそれを知らなくてはならないのか?知りたいというエネルギーはどこから生じてくるのか?
という、思考の発生と内的衝動のエネルギーに気づいていく方向にシフトしてみることをお勧めします。

そのときも「なぜ?」ということにこだわりすぎず、ただ起こってくる思考や衝動に淡々と気づいて瞬間瞬間に受け流していく
ようにしてみてください。



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