ワークに参加された方から質問をいただきましたのでシェアします。
(質問と応答の一部を編集しています)
<質 問>覚醒の体験は自分ではコントロールできず完全に恩寵任せでしか起きないのでしょうか?
最後の最後は恩寵によるものだとしても、自ら起こせるアクションはあるのでしょうか?
今まで自分だと思っていた枠が広がっていくと結局のところ全てが自分であるという感覚が残る事になるのだと
思うのですが、そうすると全て自分だから自分が覚醒したという感覚は起こらないのではないでしょうか?
認識する主体がないとき、夢を見ている自分を認識できないのと同じく、覚醒や悟りそのものを捉えることは
できないのではないでしょうか?
<応 答>究極的な視点からみれば、こちらがわの自分が能動的に行っていることは何もないので、すべての体験が
恩寵と言えます。
「恩寵」という言葉や神秘体験だけにとらわれすぎると、日常のすべてに顕れている恩寵を見逃すことになります。
神秘体験は、人間の思考や感情その他に隠されていた「それ」が一瞬だけ「わかりやすい形で」気づくように姿を
顕してくれるという意味においては「むこうがわ」からの積極的な働きかけと解釈することができ、それを特別な
「恩寵」ととらえることもできるのですが、本当はふだん認識されていないだけで常に周囲のすべてのものが
恩寵の顕れなのです。
能動的に行為している自分がないとき、能動と受動の区別はなくなります。
そのため一見、自分で能動的にコントロールして覚醒のために訓練することも、実は受動的に起こっている
恩寵なのです。
そこにおいては、突発的に起こった神秘体験も、見かけ上「能動的」に行う訓練も、まったく同等に「むこうがわ」の
采配によって現象化されたものということになります。
ただ、どちらの現象においても「〇〇さん」という見かけ上の個人の体験として認識されたとき、その体験の最中
における「〇〇さん」の気づきの主体がどの位相にあったかによって、それが「能動的」に自分で行ったかのように
感じたり、まったく突発的に受動的に起こったかのように感じられたりするのです。
究極的には覚醒のための「能動的」な訓練はできません。
なぜなら、「能動的」に行う感覚が伴う位相の主体はエゴであり、エゴ感覚があること自体が覚醒を
見えなくするからです。
覚醒のための訓練というのは、このようなエゴ感覚や能動と受動の感覚を明確に知るための訓練であり、
能動的な感覚をもって手放せるとこまで手放したうえで、最終的にはすべての訓練そのものも手放し
「明け渡す」ことになります。
この、最終的な明け渡しのために「やれるところまではやった」という地点までは見かけ上の能動的な感覚をもって
行うということです。
訓練なしでも突発的な「明け渡し」が起こることはあります。
しかし、たいていの場合、その後に再びエゴが顔を出し、困惑することが起きてきます。
訓練というのは、エゴの性質を見極め、エゴを否定することなくうまく手懐けながら進んでいくためのマニュアルです。
この道はすべての人に絶対フィットするというわけではありませんが、比較的安全で確実であるといえると思います。
また、究極的な覚醒そのものにおいては、人間であるかぎり何も認識することができません。
それは「無」と認識できるものですらないのです。
少しでも認識できる体験があったとしたらそれは主体と客体が分離している状態です。
人間にとって、覚醒の体験というのは常に後付けの記憶やイメージにすぎません。
(本当は、一瞬一瞬、この覚醒を体験しているのですが、認識されていないため「なかったこと」として、認識された
点と点だけをつなぎ合わせてこの世界を見ているのです)
「全てが自分だった」という体験は、主客の区別がなくなった状態といっても、あくまでも現象世界の中での話です。
この段階においては、対象として認識されている現象世界が存在したうえで、主体のエゴ感覚が外れてその空白に、
これまで客体としてとらえていたすべてのものが置き換わっているのです。
この状態のとき、気づきに映っているすべてのものが空間的な距離を超えてあたかも「自分」であるかのように
触覚を伴って存在感を訴えてきます。
ちなみに本でも触れましたが、自分という存在感覚は丹田に関係していて、丹田の感覚が残っていると「全てが自分だった」
「全てが自分の中にあった」という認識に至りやすいと私は体験的に感じています。
(人間の場合、世界を創造するということは、女性の子宮と同じく、ハラの感覚に根ざしているからです)
ただ、おっしゃるとおり「全てが自分だった」という体験の最中においては「覚醒している」という認識は伴わないはずです。
なぜなら「この自分が」覚醒しているという認識を伴ったとたん、自他の区別が発生するからです。
この体験を「覚醒」と呼ぶのは、体験から出た後にエゴ感覚が戻ってきてから後付けで名づけられたものです。
さらに「自分」という感覚を伴わない体験の場合は、唐突に自分が空白になったところに世界そのものが置き換わり、
ただ世界だけが映っている状態(ただし、強烈なリアリティを伴って。なぜなら、エゴにリアリティを持つために使っていた
エネルギーがすべて世界そのものへの認識に置き換わるため)になりますが、これも、その体験の最中は認識している
自分を自覚することはできず、体験から出た後に後付けで気づくことができるだけです。
体験され語られたものはすべて例外なく、この現象世界の中の出来事です。
ここで、ひとつ重要なことがあります。
〇〇さん自身もなんとなくお気づきのように「誰が覚醒や悟りを認識しているのか」という問題です。
これは先にすでに答えをいっていますが、「覚醒や悟りそのものを認識する者(人間)はいない」のです。
「覚醒は覚醒自体としてある」のであって、認識されたとたんにそれは覚醒そのものではなくなるのです。
覚醒は対象物ではないので捕まえることはできません。
そもそも覚醒や悟りを問題にしているのは現象世界における人間の思考です。
覚醒は常にそのままあるのに、それを人間の思考が隠しているだけなのです。
それでも覚醒や悟りを「人間としての個別の自分を残したまま」体験したい、ということ自体がエゴなのだということです。
だから、ワークをしていてこんなことを言うのも何ですが、本来は覚醒など求めなくてもいいのであり、求めるエネルギー
のベクトルが発生しておらず、かつ、人間として認識されている自分という担当者を受け入れこの生を無心にまっとう
できていればいいわけです。
それでも「悟り」というのは古来から、人間世界における概念であり目標であるため、人間において共通する状態、
というのが設定されており、一応は到達点があるとされています。
その到達点において、体験された状態というものがいろいろと報告されてはいますが、結局のところ「人間として
わかり得ないもの」という一点は必ず残ります。
それは人間の認識の構造上の問題です。
(神も宇宙も、すべてがわかった、という覚者がいたら疑ったほうがいいと思います)
ただ、その段階においては、「わかり得ないもの」をわからなくてはならない、というエゴはなくなっており、
わからないものはわからないままにあることに疑問も不満もなくなった平安の状態になっているということです。
「すべてがわからなくては不安だ」と思うエゴがなくなったとき、すべてのものがあるがままに存在している
だけになるのです。
このとき、エゴを完全に消さなくてはならない、という観念自体もなくなります。
なぜなら、エゴはエゴとしてあってもそこに同化していなければ何の問題もないからです。
この「夢」の世界に同化している私は、これが夢であることを知らないとき夢を夢と認識することができませんが、
夢であることを明確に知ったとき、夢の中にありながらも明晰夢のように夢であることを認識しながら「私」という
担当者として「私と世界」を自覚的に体験することになります。
何故わたしがこのようなことを確信をもって言うことができるのかというと、それは私なりに「わかり得るところまでは
わかる」ことによって「わかり得ない」一点の入り口を垣間見、エゴが降伏する地点を知ったからです。
エゴがもう何もできることがないと降伏する地点を知り「明け渡し」が自動的に起こったとき、不思議なことに
「わかり得ない」ところから仕組みの理解がもたらされるようになったのです。
もちろん今これを語っている人間としての私、この個別の脳のキャパシティの私にすべての仕組みがわかるなどと
驕る気持ちはまったくありません。
私にわかることは本当に一部分にすぎません。
それでも、この私のキャパにおいて私なりに理解させていただいたことに対する有難さには常に感謝しかありません。
〇〇さんが私とまったく同じ体験や状態を経験する必要はありません。
〇〇さんには〇〇さんのプログラムがあり、そうでしかないタイミングに起こるべきことが起こることは間違いありません。
今回ワークに参加されたのも(それが最終的にどういう結果につながるにせよ)起こるべくして起こったことです。
私に言えることは、「わかり得ないこと」に対する不安や欲求がなくなり、それに対する畏敬と感謝と安心の状態は
確実にあるということで、必ず一人一人が納得できる地点があるということです。
私という顕れを通じて、そのことだけでも伝われば本望です。
一瞥体験が何だったのか、覚醒や悟りとは何か、という疑問が生じ、考えれば考えるほど堂々巡りしてしまうときは、
いったん疑問を保留し、なぜそれを知らなくてはならないのか?知りたいというエネルギーはどこから生じてくるのか?
という、思考の発生と内的衝動のエネルギーに気づいていく方向にシフトしてみることをお勧めします。
そのときも「なぜ?」ということにこだわりすぎず、ただ起こってくる思考や衝動に淡々と気づいて瞬間瞬間に受け流していく
ようにしてみてください。
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