#自己イメージ 【1/13(日) 大阪ワーク ~ご感想と応答】
(太字「」内は感想、⇒以降は返答です)
「まず自分を描くというワークの時に
私は木を描きました。
それが自分というイメージを表していて、
固定化されたものだとわかりました。」
⇒ 正確にいうと、自分というひとつのイメージの形が固定化されて常にあるのではなく、意識の水面下に
自分という感覚を形作るための断片的なイメージのパーツが瞬間瞬間に浮かんでは消えている状態があり、
「自分を描いてください」といわれた瞬間にそれらのパーツの中からその時そのお題にふさわしいと感じた
イメージを「絵を描く」という時間の流れの中で選びとったということになります。
そのため、よく言われるように自我ありきの視点で心理的に「自己の固定化されたイメージを崩しなさい」ということ
ではなく、意識の主体を転換し、無意識に選び取られたパーツが時間の経過(絵の線は時間経過の痕跡を示しています)
を経てひとまとまりの整合性のとれた像として顕れ出たことを、一瞬遅れた後付けで「発見」していることに気づいて
いただきたいのです。
たとえば今回のように木のイメージの像が結果として結ばれたとき、意識下では「木として完成された絵」があったわけ
ではなく、無数の断片的なパーツ(例えば、幼少期に読んだ絵本の中の木の断片、過去に触ったことのある木の感触、
ワーク会場に来るときに無意識に目にした街路樹、その瞬間の身体感覚の一部、人間と木の関係にまつわる集合意識
の一部、過去に読んだ木に関する精神分析の本の記憶、過去に自分自身について考えたときの記憶の断片、その他
さらに非個人的なレベルの言語化・具象化できない無数のパーツ群など)が磁石に吸いつけられるようにエネルギー的
に瞬時に引き合い組み合わされています。
(このとき、どのような組み合わせになるかは「自分」で選ぶことは一切できません。)
その結果、木として完成されかけたイメージが紙に描く直前に意識に上ってきて、手の動きを伝わって紙に映しだされたと
いうことになります。
(本当は手も紙も意識の「外界」にあるわけではなく、手も紙も上記のイメージのパーツ群と時空の切れ目なく同列にある
のですが)
この水面下のプロセスが意識化されていないと、常に、すでに像を結んだ後に水面上に浮かび上がってきた表面的なイメージ
を3次元の自我の視点から見ているだけの世界にフォーカスし続けることになります。
「気など高次元のエネルギーに対しても
それはイメージであり、
それに対して気づいているという立場が
とても重要だということ。
(世界に埋没してしまわないようにする)
前日に神的なエネルギーを感じて埋没していました。
それが今まではよいと思っていましたが、
それでは覚醒の方に行かないので、
そこから一歩出ることが必要だとわかりました。」
⇒ ワーク中にご説明したとおり、どのような次元のエネルギーであれ、意識のチャンネルが固定化
されれば、その次元の世界に埋没することになります。
いわゆる高次元のエネルギーというものは肉体と同化することによる苦しみからは離れていても、その次元に「気絶
して」しまえば、そこに埋没し存在し続けることになります。
(ちなみに「気」とよばれているものは通常、肉体の延長上の次元にあるものです。また、身体に感じている
エネルギーは高次の次元そのものというよりも、エネルギーのごくごく一部を3次元のレベルに翻訳した、人間特有の感じ方です)
高次の世界が人間にとっていくら心地よいものであったとしても「存在の二元性」の問題は解決しません。
ただ、存在を成り立たせる創造のエネルギーを感じとること自体は悪いことではありません。
自我感覚が薄れ、創造の源に委ねるとき、意識は空白になり圧倒的なエネルギーの引き合いの大小の波に触れる
ことができます。
この波を無視することなく逆に感謝を捧げることで、覚醒への現象面からのサポートが得られるようになります。
(人間はここに神秘的な意味と相関性を見いだしますが、あらゆる概念を外して見たとき、これは厳然と組み込まれた
システムだということがわかるようになります。注意点としては、このサポートを現象世界において自我を増大させる
パワーとして使わないこと)
覚醒の源へと遡る道は、現象世界のエネルギーの波と二人三脚のように進みます。
意識を遡るときの「波乗り」のような状態はエネルギーが存在するからこそ触覚のようなものとして具体的に辿って
いくことができます。
また、意識の「波乗り」の最終段階まで、この世界に組み込まれた身体を基盤とする生体エネルギーが利用されます。
そして、誤解を生みやすい表現ではありますが、現象世界の創造のベクトル(増大し、存続する志向性)を逆向きに
辿ろうとするとき、擬人化していうならば、創造の源からのある種の「許可」のようなものが必要となります。
創造の源からのエネルギーを無視することなく感謝を捧げつつ、同時に認識の訓練を行うことは本来は矛盾しないので
すが、2つの関係性が実感できない段階ではどこに主体を置けばよいのか混乱する可能性もあります。
そこで、次のことを試してみてください。
○○様はすでに神的なエネルギーを感じられる状態ですので、神的なエネルギーを感じたときにそのエネルギーの源を
(「これは☓☓の神様のエネルギーだ」等)特定せず、最初は意識が気絶した状態でよいので、起こってくる波のうねりに
身をまかせてください。(うねりではなく痺れるような感じ等でもかまいません)
しばらくしたら、エネルギーに身をまかせたまま、その状況で微かにちらちらと意識にのぼってくる思考の残像や身体感覚の
一部やうねりの感触などにほんの少しだけ気づきのフォーカスを移動させます。
エネルギーの渦は渦として残したまま、その中に気づきの微細な点がふっと顕れたり消えたりしていくのを感じていきます。
このとき、無意識に眼球を動かして見ようとせず、ただ意識に触れてくることを感じとっていきます。
(結果として眼球が勝手に動いている状態はそのままでOKです)
そうしているうちに、エネルギーの渦の力と気づきへのフォーカスのベクトルが綱引きのように行ったり来たりしていくのを
感じるようになります。
そして、両方のバランスがとれたとき、うねりを感じながらその中心でエアポケットのようにしーんと静寂な気づきのスペース
があり、そこにすとんと意識が収まりながら起こっている事象をただ眺めていることに気づきます。
このとき注意するのは、自分の意志でバランスをとろうとしないことと、「自分が」エネルギーとの距離を測ろうと意図しない
ことです。
なぜなら、「自分が」動こうとする意図のベクトルはそれ以外の事象を瞬時に認識外に押しやるため、エネルギーのうねりも
気づきのスペースも消えてしまうからです。
瞑想においては常に、空間という距離を測ることを無化してください。
意識単体ではエネルギーの内や外に「自分から」出たり入ったりすることはできません。
ただ、意識に触れてきたあらゆる事象を概念化する前に気づき続けることによって結果的にいつの間に中心に台風の目
のようにすとんと収まっていることに気づきます。
あらゆるものを等価にみるとき、特定のエネルギーに引っ張られないため、結果的にすべてのものから等価に離れた気づき
の中心(といっても3次元的な座標があるわけではないのですが)に浮いてあることができます。
「その次のワークでは
前にある壁のほうを見て
後ろがどうなっているのか?
をイメージしました。
後ろにもほぼ間違いなく壁がある
というイメージを持っているが、
実際にはないかもしれない、
ということ改めて認識。
思い込みで世界は成立しているように思いましたが、
正直まだそれがリアルに実感できるレベルではありません。
ただワークを通じて
その世界を見切っていくことが大切だとわかりました。
つまり、世界に埋没している自分を
べりっと世界から剥がすことが
ワークの一番の焦点だと理解しました。
それを聞いたときに、
昔、坐禅で目をあけてずっとある場所を見続けることの
意味がようやくわかった気がしました。
同じように見えているが、
同じということはないということ。」
⇒ 人間は何の因果かまったくもって不可思議ですが、アメーバのような原初の生物から徐々に脊椎が形成され、
目が発生し、四足歩行で目が頭の横についていた状態から背骨を立てて二足歩行となり頭が上、足が下となり、
その過程で目が顔の前面に移動し、身体の前方しか目で見ることができなくなりました。
(この状態は存在の形態としてはかなり特殊だと感じられます。前しか見えないなんて!二元の認識の問題は平たくいって
しまえばほとんどすべてこの構造に由来するといっても過言ではありません)
この進化の過程はそっくりそのまま認識と自我の進化の過程となっています。
目という機能が発生する過程で、人間は自分を定点として「向こう側」にいる者を他者と認識するようになり、「向こう側」に
自分と分離して見えているものの総体を「世界」と呼ぶようになりました。
人間の空間認識は個体としての自我が生き延びるための必然に基づいて形成されています。
たとえば原初的なレベルにおいては、個我は獲物を狩ったり敵から逃げるために、獲得された空間認識に基づく予測パターン
を駆使して前方のこのぐらいの距離にいる獲物はどのぐらいの労力で捕獲可能か、このぐらいの距離にいる敵に殺されない
ためにはどのぐらいのスピードで逃げればよいか、ということを常に生命の危険と隣り合わせの状態に身をおきながら脊髄反射
のレベルで脳に刷り込んできたのです。
この進化の過程での刷り込みが、脳が発達し生命の危機レベルの敵がいなくなった現代にいたるまで認識を支配しています。
というのも、自我は常に「自分が生き延びたい」という原理に基づいて自身の位置を定点として世界を見、他者との関係を図って
いるからです。
空間認識においても、自我は基本的にすべてにおいて自己の保身を図り自分にとって効率的な方向へ進もうとするため、
刷り込みと記憶に基づく認識の最大公約数的なパターンを利用しながら自己に都合のいいように空間を読み取ろうとします。
今回のワークの場合、そもそも前方にある壁が2メートル先ぐらいに見えているという認識自体、自己を定点とした記憶に
基づく「予測」にすぎないのです。
99.99999%ぐらいはこれまでの経験上、ほぼ予測どおりだと思われますが、それでも100%とはいえません。
その証拠に人間は「こうであるはず」という距離感覚を誤り足を踏み外したり、錯覚に騙されて頭をぶつけたりすることが
しばしば起こります。
また、「今、自分は四角い部屋というものの中にいる」という予測の延長上において自我は、今この瞬間見えていない後ろの
空間にも当たり前のように壁が存在している、という仮定を「とりあえず」効率的に選択し「とりあえず」安心しています。
というのも、もしここで「とりあえず」でも仮定を選択しなければ、「今この瞬間見えていない後ろの空間に何があるか検討が
つかない」「さっきまで壁があったけれど、今はもしかしたら後ろは崖かもしれない」「後ろに殺人鬼がいるかもしれない」という
ようなあらゆる仮定をすべて考慮して不安をつのらせ身を守るために何度も後ろを振り返って確認しなくてはならないか、
後ろを振り向けないとしたら崖から落ちる万一の可能性を回避するために見えている前方方向へのみ逃げ続けるしかない、
といったことが起こってきます。
この話は詭弁に聞こえるかもしれませんが、誤解しないでいただきたいのは、人間の認識で見ているものが予測と仮定にす
ぎないからといって、ひとつの仮定をはずしてみたら他の仮定が押し寄せてきて、すべてを疑って一歩も動けなくなったり、
あらゆる可能性を同時に考慮しなければならないと思うのは、あくまでも自我が定点になっているときにおいてです。
ワークは「いかに概念化して空間をみているか」ということをはじめの一歩として気づいていただきたいという目的で行いました
が、自我は先にも述べたとおり、危険の回避と効率の採用のベクトルによって動いているため、自我を定点としたまま無理やり
概念を外して外界を見ようとしてもうまくいきません。
なぜなら、外そうと試みる自我自体が概念であり、概念が概念自体を外すことはできないからです。
今はまず、その仕組みを知っておいていただくだけで大丈夫です。
あらゆる概念が外れ、自我が定点になっていないときには、網膜に映る像としては同じように前面に壁と呼ばれるものが見えて
いたとしても(究極の状態では時には映る像の見え方も変化しますが)、映っているものはただその瞬間映っているものとして
あり、映っているものに対して自己との距離を測ったり自分にとって有益な情報を読みとろうとする判断がありません。
人間の形態であるかぎり、自我の定点がなくなっても物理的な目においては後方を見ることはできませんが、その段階では
「前方・後方」という意味自体が解体され、保身すべき自我がなければ「後方に危険性があるかないか」という仮定は、たとえ
実際に後ろが崖であったとしても無意味であり問題にされないのです。
このときはじめて、瞬間瞬間にただあるものがある、という状態となり、意識に何かのベクトルが発生する以前にあるものが
ある、というところにまるで無響室のなかで無限にブラックホールに吸い込まれるかのように立ち会うことになり、エネルギー
の連続性が無限に「断ち切られて」いくことを見ます。
「ただ、そこに実際に至るには
その前段階として
集中力を持続させるためのパワーも必要。
そのために体作りもとても大切。
自動的に受容状態が作られるようにしたほうが良い。
それが覚醒へのベクトルを阻む要素を
なるべく取り除くということになるわけですね。
思考などの癖として体に出るので、
体と整えると他が同時に整う。
実際に姿勢を見てもらって
眉間のゆがみ、
首のゆがみ、
肋骨が上に上がろうとしていること
などが具体的にわかりました。
それと元に修正をかけていって、
しっくりきている状態を
OKで言ってもらえたのはとてもよかったです。
そういう点でも
先生の存在はとても大切だなと思いました。」
⇒ ワーク中にも言いましたが、身体は身体の次元に任せておけるレベルに整え、意識を完全に受動的な
状態に開いてありたい、というのが目的です。
任せておく、というのは、たとえば不随意筋や内臓や消化や代謝の働き自体は普段から身体に任せてありますが、
そのレベルで身体をまるごと任せて忘れているような状態にしたいのです。
エネルギー的な滞りや骨格の歪みや筋肉の不均衡などがあると身体各部の感覚やそれに伴う思考に意識がひっぱられて
しまいます。
また、生体エネルギーのパワーは集中力の持続もそうですが、最終的に認識が転換するギリギリの瞬間にも使われます。
ただし、パワーのバランスがとれていないと逆にエネルギー過多で集中していられなかったり、自我と結びついてエゴの欲求
を強化して暴走したりします。
このあたりのバランス感覚は、実際に瞑想と並行しながら自分で掴んでいく必要がありますが、想像以上に莫大なエネルギー
が必要となります。
意識の受容状態の自動化は、エネルギーや思考の偏りがあると起こりにくくなります。
受動性は瞑想の最大の鍵ですが、偏りは物理的な感覚に近いレベルで、あらゆるものが触れてくる瞬間を受動的に見る意識
状態を妨げます。
偏り自体を完全に受動的に見ることができれば理論的には問題ないのですが、実際やってみるとなかなか難しいため、やはり
偏りに気づいた時点で身体の次元で修正できる部分は修正したほうが早いと思います。
姿勢やエネルギーのバランスについては実際に見ながらもっと細かくお伝えしたいことがたくさんあるのですが、とりいそぎ
ワーク中に気づいたことを述べてみます。
● 眉間について、特に思考がチラチラと働いているときに右側(右手側)のほうの眉の付け根に強くこわばり(と皺)がでてい
ました。
顔の右半分は左脳が司り、社会との関係性(外向きの顔)を顕しているといわれます。
瞑想する段階においては意識的にこわばりを解いてから座ってもよいですが、実生活においてはこわばりが顕れた瞬間
「この状態はよくない」「こわばりに顕れている社会的・心理的な問題を解決しなければならない」といったように「~ねばらなない」と判断せず、最初はこわばりが顕れた事実だけを観察してみてください。
観察を続けていくことである時、こわばりが起こるときの心理的パターンや状況的パターンや連動する身体的パターン、あるいは
それらにまつわる過去の記憶などが自動的に浮かび上がってきます。
それらが浮かび上がってきたときも、こわばりとの相関関係の事実をただ見て「エネルギーの引き合いによってそれらが顕れて
いるのだな」ということにただ気づいていてください。
判断せずに相関関係に気づいてある、という状態がわかってきたら、次に現象世界において解決できる部分はできるところまで
は解決に取り組みます。
そのときも「解決せねばならない」という意識ではなく、エネルギーの引き合いを紐解くように淡々と取り組みます。
基本的にはこのように、
特定の状態に気づく→それが起こるたびに観察する→相関関係やパターンに気づく→実際に解決できることは取り組む→解決する過程で新たに特定の状態に気づいたら最初にもどり一連のプロセスを繰り返す
といった流れで現象面での問題と瞑想に並行して取り組んでいきます。
このプロセスを繰り返していくと、あるときから自分では思いもよらなかったような原因や解決の糸口が文字通りピカっ!と電光石火のごとく閃く瞬間が増えてきます。
これは本当に驚きの体験で、まさに受動的に啓示がもたらされたような感覚であり次の段階へ進むための恩寵といえます。
「そしてエネルギーを蓄えるために
呼吸を整えることも大切で、
背骨に注目できたことはとてもよかったです。
丹田にエネルギーが入るような
自然な姿勢と呼吸法を教えてもらえたので、
呼吸がとてもしやすくなりました。
ただテクニックはあくまでも
自動化までのプロセスとして大切だという認識を持って
やっていこうと改めて思いました。」
● ワーク中も指摘しましたが、口の周辺と咽喉とエラの部分の力みが見られるので、これらも上記の一連の気づきのプロセス
に取り組んでみてください。
これは歯をくいしばってがんばろうとしながら(エラのハリ)言いたいことを言おうとしているのだけれど(口の周囲の筋肉の前方
への突出)咽喉を固めて言いたいことを我慢している状態なのかなと感じました。
(あるいは、言おうとする際に下から昇ってきて口から出すためのハラのエネルギーが足りない)
口と咽喉はワーク中に意識的にゆるめたときにはよい感じになっていました。エラについては、瞑想前に軽くマッサージしてみる
のもよいかもしれません。
また、呼吸に伴う横隔膜の動きにつられて肋骨全体が上に押し上げられ、肋骨どうしの感覚が狭くなり、肋骨の6~8番目あたりが前に出ていると具象化したい欲求がありながら呼吸の上下やリズムに伴い外界の現象に左右されやすく、想いは強くても欲求が空回りしやすいということが起こってきます。
この場合もワークで行ったように肋骨の角度に気をつけながら呼吸をするたびに肋骨があがらないようにし(意識可能なら
肋間筋をストレッチして引き伸ばしていくようにする)、呼吸とともにハラに気が満ちていくようにしてみてください。
○○様のように股関節が柔らかく足の付け根が固まっていないことは瞑想においては非常にアドバンテージが高いといえます。
ここが固まっていると意識と身体がくっついた状態が外し難いのです。
● 頸椎の傾き(前方方向)は瞑想中の思考に直結します。
○○様の場合、それほど傾きが強いわけではありませんが、若干、傾きによって顔が前方斜め上方向に出て、サードアイ周辺
が前方へ抜けていっているようです。
この状態ですと、ある特定のエネルギーに入っていってイメージや光を見たりすることは起こってくると思いますが、それらは
前方のスクリーンに「対象物」として顕れてしまうかもしれません。
頸椎を背骨の延長としてとらえて首をななめ上方向へ僅かに引っ張り上げることで(このとき咽喉に力を入れないでください)
集中力の高まりのプロセスで顕れてくる光や鮮明なイメージは前方ではなく場所のないところの中心(矛盾する表現ですが)に
閃光のように生じるようになります。
(これは目安であり、あくまでもプロセスの初期の段階なのでそれらの現象自体にはとらわれないでください)
● 指の冷えを感じました。腸のあたりは冷えてないでしょうか?
ベジタリアンとのことですので、根菜や木の実や生姜などを摂るとよいと思われます。
特に根菜はハラの力とグラウンディングによいのですが、もし食材に制限があるようでしたら、呼吸法で肋骨の間を空け、
ハラに気をためエネルギーを自家発電することで多少は改善するかもしれません。
以上、不躾に感じたことを述べさせていただきましたが、ワーク中にほんの少し修正しただけで非常に綺麗な姿勢で座ってらっしゃって、そのときのお顔が子供のように清らかだったのが印象的でした。
そこに○○様の本来の姿を見たように思いました。
よいときの状態を再現しようとすることは惰性にすぎませんが、常に生まれたての赤ちゃんのようにこの世界に出会っていって
いただきたいと思います。
関連記事
⇒ #丹田(存在の座) 【11/7(土) 東京ワーク ~所感と解説~】
*******
※ワーク参加ご希望の方は、メルマガ登録をお願いします。
⇒ ご登録フォームはこちら
⇒ Rubin's work 主催 AYA プロフィールはこちら


