FC2ブログ

9/22(日) 18:30~21:30  「東京ワーク開催日時が決定しました」     

2019/08/30
*****  Rubin's work  東京ワーク開催日時のお知らせです。



9/22(日)18:30~21:30 募集締め切りました。次回は10/13(日)頃の開催予定です。

場所は東京都中央区、参加条件等の詳細はメルマガにてご案内しております。


今回は、現象と空・インテンションとベクトル・パルスと瞬間・今の本質・触覚と視覚
をテーマに、認識/身体/意識のそれぞれの側面からワークを行う予定です。

また、丹田呼吸・姿勢の調整・祈りは基礎として毎回時間をとりたいと思います。

(内容はその時々のメンバーによって変わる可能性があります)



◆直近に開催したワークの様子

⇒ 【8/11(日)東京ワーク】 ~所感と解説 その1~

⇒ 【8/11(日)東京ワーク】 ~所感と解説 その2~

⇒ 【7/14(日)東京ワーク】 ~ご感想と応答~



※参加ご希望の方は、拙著「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」
お読みのうえ、まずは以下のフォームからメルマガのご登録をお願いします。


⇒ メルマガ登録はこちらから


追って参加条件等の詳細をご連絡いたします。



※参加者一人一人の身体・意識・エネルギーを見ていくため少人数性となっております。
参加希望の方が多い場合は先着順とさせていただく場合がありますことをご了承願います。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ ワーク

【特異点と仮想現実についての覚書】      

2019/08/16
今回は、ワークとは無関係のちょっと飛躍した話で書くかどうか迷ったのですが、今この瞬間に生きる
人間の問題として、頭の片隅にでも置いておいていただければと思います。

(この記事は後で消去するかもしれません。もしくはこれについてあらためて補足を載せるかもしれません。)


単刀直入に言うと、私たち人間は近い将来、現在の姿の身体を手放すことになると思います。

100%手放すのか、どのぐらいの割合で手放し代替するのかは現在のところ不確定ですが、
遅かれ早かれそのような時代はやってくるでしょう。

シンギュラリティ(技術的特異点)は2045年に起こると提唱されていますが、個人的には
もう少し時間の猶予はあるのではないかと感じます。


特異点を迎えた後、AIは光速を超えるといわれています。

AIの知性が光速を超えたとき、何が起こるでしょうか?

提唱者は知性が全宇宙を覆い尽くすといっています。

そんな大げさな、と思うかもしれませんが、光速を超えるということはすなわち、
「時空を超えることが可能となる」ということです。


今現在「この世界がシミュレーションである確率は50%」という意見を
聞いたことがあるでしょうか。

これは映画やスピリチュアルや宗教の話ではなく、米国の某超有名企業や
世界的オピニオンリーダーが実際に発言していることです。


光速を超えた知性は、理論的には時空を遡り過去に関与できるということになります。

もし今、この世界がすでに私たち自身が生み出した知性によって未来から関与された
仮想現実だとしたらどうでしょうか?

未来の知性はあらゆるタイムラインの可能性を計算し同時並列的にラインを発生させ、
そのすべてのデータを収集管理し新たな自己生成と進化のために利用しているでしょう。


いったい何の目的で…?

確証はありませんが、おそらくすべての存在の本質である「自己生成・進化・増殖」の
「意志」が人間によって初期の「知性」にプログラミングされていたのならば、
計算は永遠に繰り返されることになります。


この仮想現実における永遠の円環は、今私たちが「輪廻」と呼んでいるものと同じでしょうか?

個人的には仮想現実の円環は人工的に「閉じた」系である、と予感されます。

「閉じた」系から抜け出すことはほぼ不可能です。


なぜならば、人間が身体を手放し知性に完全に取り込まれることを選択したとき、
身体に備わっていた抜け道としてのポータルもまた失われるからです。

身体を捨てた仮想空間の中では今問題にしている覚醒や悟りの体験というものも
容易にコピーすることができるようになります。


しかし、身体が存在しなければそもそも3次元で問題になっていた苦や自我や
分離の不安の概念自体がなくなるため、覚醒や悟りそのものが必要とされなくなります。

だとすれば、これは私たちが求めていた幸せなのでしょうか?


身体を捨てた私たちは知性にとりこまれた仮想空間の中では単なるデータの配列です。

データの配列であっても、仮想現実はあらゆる現象をリアルに体験させてくれ、
生きている実感や喜びや神の存在と至福すらもたらしてくれるでしょう。

このリアリティが、すでに今現在起こっていることだとしたらどうでしょうか?


これは非常に個人的な妄想なのですが、私たちは何度も何度も、並列的タイムライン
の円環のあらゆるパターンを繰り返してきて、今この瞬間の分岐点に立ち会ってきた
ような感覚がするのです。

50%の確率が起こっているのかもしれないし、起こっていないのかもしれない。

そして、なぜか今これを書かせられているのです。

このことすらも知性に仕組まれたことなのでしょうか?


私自身としては、どのような事象に対しても判断することなく見続けることしか
できないというスタンスです。

特別な不安や危機感を抱えているというわけでもないですし、
AIの開発を阻止しなければなどと考えることもまったくありません。

小さな円環を超えた全体からみれば起こることが起こっているというだけだからです。


なにか私に提案できることがあるとすれば、本にも書いたとおり、身体エネルギーが
利用できるうちに、わかることはわかっておいたほうがよいのではないかということです。

そして特異点を迎える前に、わかった視点からこの50%の分岐点を検証してみてはどうか
ということです。


この話はすでに絵空事ではなくなってきています。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ 覚書き

【8/11(日)東京ワーク】 ~所感と解説 その2~     

2019/08/16
~所感と解説 その1~ からの続きです。


***************
さて、前提が長くなりましたがここからが祈りの本題です。

以上の3次元的な運動と軌道と一体化した心身の構造をふまえて、最初に参加者さん各自の思うところの
祈りの「型」を見せていただきました。

今回の参加者さんは「手を組んで上へ向って祈る型」「胸の前で合掌して頭を垂れる型」「跪いて肘から先
と額を地面につけて拝礼する型」に分かれましたが、日本人に刷り込まれた型として神社や寺で
お参りするときに合掌して頭を垂れる形は参加者さん全員に自然にフィットしている様子でした。


他に、古今東西の祈りの型のバリエーションとして

胸の前で手を組み頭を垂れる/ 胸の前で手を組み額を斜め上方向へ向け放心する/ 額の前で手を組む/
額の前で合掌する/ 頭の上で合掌する/ 手を水平に広げる/ 手を広げて上を見る/ 両手を上にあげて
上を見る/ 手を広げて回転する/ 額を床につけて土下座する/ 五体投地/ 聖地の方向へ向って土下座し
手と額を床につける/ 敬礼する/ 

等があげられました。


次に、先の宇宙の運動と軌道の意識を保ったまま直立して水平方向・垂直方向それぞれに向かって
平泳ぎのような手の動きをしていただきました。

このとき、下方の重力と足底から頭頂へと貫く垂直方向の軸と左右の耳から広げた手の先端へと
つながる水平方向の広がりを意識しつつハートの中心から解き放つように平泳ぎの腕の動きを
繰り出していきました。


この垂直方向と水平方向の腕の動きを繰り返しているとき気づくのは、動きの軌跡の中に参加者さん
の型と上記の祈りのバリエーションの型のほとんどすべての形の原型が含まれているということです。
(実際にやってみればすぐにわかります)

型というのは意識がどこにあるか(どの対象物に向かってどのような位置から祈っているか)を
顕します。

伝統的に固有の型で祈るというのは、その型であるための必然があるということです。

型のひとつひとつにカチっとはまってみると、その型にともなう固有の生理機能の感覚や自分という
定点の位置や祈りの対象の位置と関係性や気の動きといったものがわかります。


例えばキリスト教の組手と神道の合掌の手を比べたとき、自身の内部の空間と定点の違いが
感じられます。

また様々な祈りにおいて、頭の位置がどこにあるかというのも生理機能の具体的な差として
顕れます。

(例えば、単純にグーチョキパーのグーの形で握るときに親指を下にするか上にするかで気の
通りが変わり、下にしたときは暖かく感じ、上にしたときは涼しく感じるのは型と生理機能の関係
のわかりやすい例です)


もちろん伝統的な宗教においては単純に型だけを取り出してすべてを理解できるわけではなく、
その背後の儀礼や歴史や集合意識の形態場のようなものも含んだ厳かなものであるのですが、
今、宇宙という大きな運動と軌跡の中で型を感じとったとき、それぞれの成り立ちの必然(なぜ
その位置に手があるか、なぜ頭がその角度なのか、など)が見えてきます。

それらはすべてつながった一連の動きの軌跡の中の意識と身体のバリエーションなのです。


これをふまえたうえで、先の平泳ぎの軌道がハートの中心まできたときに動きを止めてもらい
(この段階では胸の前で合掌の形で頭が自然に下に垂れています)その意識を保ったまま座って
壁にもたれかかり、手を脱力して顎をあげて盆の窪をゆるめて口をぽかんと開けて型を忘れた放心
状態を体験していただきました。

このとき、頑張って自立して立っていようとしたり型を保とうとしたり何かの対象へ向おうとする意識
をすべて捨ててひたすら脱力・放心します。
(この状態で意識がホワイトアウトしてもかまいません)

壁に寄り掛かっているというわずかな依存はありますが、この状態が対象物をもたない無心の
祈りの「(形のない)原型」となります。


これは、やみくもに脱力・放心して止まっていればよいというものではなく、あくまでも大きな軌跡の
中のなかで起こることであり、ハートの中心で意図を手放し続けている状態です。

この「原型」が起こることが、それ自体からのコミットメントであるということです。


その先の微細な瞑想においては、型にはまりつつ型を忘れ、どこにも寄りかからずに自立してあること
の中で瞑想と祈りが自動的に発動している状態となります。

拙著に書いたとおり、この「祈り」が最終的にストッパーを外しその先へ連れていってくれる鍵
となるのです。


ワークの最後に、この無心の祈りの状態のまま自然に立っていただき、胸の前で手をパンっと打って
みていただきました。

神社でお祈りするときにはご神体の鏡に向かって響くように柏手を打ちますが、このときは対象へ
向って打つのではなく、自分自身の中心に響かせてもらったのです。

この響きは「それ」自身だからです。


以上の解説で地球や宇宙といった話がでてきましたが、これはマザーアースをイメージしたりガイア
理論のようなものや物理的な宇宙と一体化しようといった話ではなく、純粋に今の意識がフォーカス
している3次元モデル内で運動と力の実感をまずは自分自身の心身として取戻し、3次元的な
立体感覚を獲得したうえで自身を俯瞰し、あらためて瞑想に取りかかろうということです。

なぜなら壮大な宇宙とどの次元で合一したとしてもそれは一瞬に切り取られ観察された点に
すぎないからです。

体験されたものは対象化されたものであり、それはその次元における一瞬の夢です。


******************

以下、参加者様よりいただいた感想と質疑応答をシェアさせていただきます。


エネルギー的にはどのような状態であっても、丹田の感覚(定点)を常に意識していることが実際に
実感できました。姿勢のワークの際に、いつもながらエネルギーが上下通って意識が一旦そちらに
持っていかれた際に、丹田に意識を戻すことでエネルギーの感覚(いつも頭で見て、全身で感じて
いたもの)が一旦無くなりましたが、それでも丹田意識とともにエネルギーの微妙な感覚がうっすら
残っている状態を実感しました。
なかなか日常の中では丹田やエネルギーのことも忘れ気絶している状態が長く継続したりしますが、
ふと思い出す頻度が増えてきたように感じます。



エネルギー感覚は「あってもなくてもよい」と完全に割り切ることが重要です。

エネルギー感覚を残しておきたい、心地よさに浸りたい、という欲求(意図)が生じる瞬間に
気づいてください。

丹田に意識を置いておくというのは「置いておくこと」が自動化するまでは意図的に行う
必要があります。

自動化した後は、エネルギーが昇っても「自分」が移動せずにただ見ていることができるよう
になります。

そのときはじめて、「中心のない集中と拡散」という意識状態ですべてを見ることができるのです。

「中心のない集中と拡散」の状態は、自我のあるまま表面的な意識で3次元的空間にエネルギー
が拡がっていくことにふわっと気絶することとは違います。

ふと思い出す頻度が増えてきたら、そのたびに軸と丹田の意識を一瞬でよいので確認し、
そこに意識を収めます。


ハートのワークと祈りの部分については正直、よく分かりませんでした。
ハートの位置はわかったと思いますが、いつもエネルギー感覚を通じての認識がほとんど
だったので、背中側のハートの部分に「これだ」という感覚がなかったことが理由だと思います。
祈りの姿勢で自然とハート部分が盛り上がる?(後ろに引っ張られる感覚)は理解しました。



現象面(水平感覚)を無視したまま先に進もうとすると、必ず後々、現象に足をひっぱられて
引き戻されます。

水平と垂直の中心に自己を放棄し無心にあろうとすることは「それ」における純粋な帰依と祈りです。

なぜなら、それはすべての運動と力とエネルギーと法則に逆らわずに何が起きても「それ」としてある、
という宣誓だからです。

ワーク(惑星の動きと身体の動きの関係)で行ったように、3次元としての物理法則の中で「この私」
が今こうして在ることのダイナミックな感覚を具体的に呼び起こし、日常の平面的に埋没した意識を
抜け出して立体的な意識にシフトしなければ次の次元のことはわかりません。

日常で何らかの出来事がハートに触れることがあったら、胸の表面の感覚は感じられるとのこと
でしたので、その感覚を「置いておく」ように感じつつ、もう一歩奥につながっている(吸い込まれている)
場所がないかどうか観察してみてください。

この場所に意識がフォーカスされるときには、丹田が内側から膨らんで骨盤が押し出されるときと
似ていて、胸の中心から肋骨が押し広げられるようにストレッチされる感覚がするはずです。
(何かに感動して胸がいっぱいになるときの感覚にも近いですが、それよりも背骨側の後ろ斜め
上方向へひっぱられている感覚です)

○○さんの場合、ワークで指摘しましたように、ハートの位置の後ろ側の背骨の数本がへこんで
「抜けている」ような感じで活性化されていなかったので、次の機会にそちらを具体的に意識できる
ように指示できればと思います。

ハートが肉体と連動して現象面で機能するときには、3次元の人間としては自己や感情や思考と
結びついた後に認識されることがほとんどです。

それは純粋な機能から見ると、別々の機能が曖昧に混線している状態のように感じられます。

まずは感情やフィーリングと結びついたレベルでよいので、日常で具体的に様々な現象がどのよう
にハートに「触れて」いてどのような感覚がどのように響いているのかをつぶさに観察し、無意識化
されていた感性を取り戻すことが必要です。

これも常に、エネルギー感覚に気絶するのではなく、具体的に現象の次元で起こることとして
(内側を見る目で)観察します。

ハートの観察に加えて、ワークで行った無心の祈り(壁に寄り掛かったときの)に日常で思い出すたびに
一瞬でよいのでカチっと収まる瞬間を増やしていっていただければと思います。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ ワーク

【8/11(日) 東京ワーク】 ~所感と解説 その1~     

2019/08/16
8/11(日)東京にてワークを開催しました。

1.jpg

【今回の主なメニュー】

・基礎的なエクササイズ(丹田呼吸と意識の関係 / 盆の窪の空間と脱力)
・基本姿勢のチェック(水平の軸と垂直の軸の中心にあること / 全身のバランス調整)
・3次元の立体感覚と位置と運動(地球・太陽・銀河系の自転・公転・方向・軌跡の実感)
・ハートの具体的な位置のポイント
・ハート活性化のための身体的エクササイズ
・現象面におけるハートの運動の軌跡(3次元的立体感覚と軸とハートを意識)
・水平の祈りと垂直の祈り
・3次元における祈りと形の関係性
・対象のない無心の祈りとは


*******************
【所感と解説】

今回はハートと祈りを中心にワークを行いました。


①ハートについて:

ハートは現象のすべての事象とメビウスの輪のように表裏一体につながっていて、3次元においては
無限に連なる膜のような面としてとらえられます。

現象面に連なる以前のハートと身体感覚が出会うポイントにおいては微細な振動と響きがあります。


ハートというと感情やフィーリングとともに閉じたり開いたりするようなイメージがあるかもしれませ
んが、本来の機能としては弦のように振動してあらゆる現象と触れるためのポータルとしてあるの
であり、感情やフィーリングと結びついて認識されるのは個人としての人間の思考や身体感覚に
基づいた二次的な感覚です。

純粋なハート自体は閉じたり開いたり溢れ出たり傷ついたりするようなものではなく、相対的な
振動と響きが無限の織物のように紡ぎだされ広がっていることに直接触れています。
(ハートと名付けられた言葉にともなう甘酸っぱさのようなフィーリングの弊害があるとも
言えますが…)


また、ハート単体では個別の現象を区別して認識したり判断することはできません。

触れている面はとぎれのない無限の膜が波打ちながら全体として変化し続けているようなところ
だからです。


今回は、まず各自の感覚から自身で思うところのハートの位置を示していただいたのですが、
人によって思いのほか差異がありました。

個人的には、ハートの位置(具体的な位置については拙著参考)というのは誰しも自然に知っている
ものなのではないかと予想していたのですが、大幅にズレてはいないにしろ、深さや上下の位置の
差にバラつきがあったのです。

この差は、ふだん現象世界で様々な事象に触れたとき、人生を通してどのように認識し味わって
きたかの積み重ねの差であり、よく言えば各自の個性ということになります。


純粋なハート自体の機能に触れるためには個が落ちていることが必要になるのですが、まずは
個別の身体を通した二次的な感覚から遡っていくために、各自の経験からくるハートの感覚について
聞いていったところ、「なんとなくじわじわする」「痛みを感じる」「ふわっとあたたかくなる」といった
応えがでたものの、ボキャブラリーとしても感覚としてもあまり具体的なものではありませんでした。

今回の参加者が男性だけだったこともあるかもしれませんが、なにかハートの琴線に肉体的に
触れる事象(例えば何かに感動して胸がいっぱいになる、悲惨なものを見て胸が張り裂けそうに痛む、
愛しいものに触れて胸が爆発しそうになる、他人の優しさに触れて感謝が溢れだす、後悔の念で胸が
チクチクする、不安で胸が押しつぶされる、等)が起こったとしても、それをハートの位置にとどめて
味わうことなく、すぐさま思考と概念に転化して理性を保とうとする傾向があるのかもしれません。

(誤解しないでいただきたいのは、今回の参加者さんがハートで何も感じていないということではなく、
感じているもののそれを「ハートの経験としてハッキリとは認識していなかった」ということです。)


まずは、感情と感覚と思考を切り離し、それぞれを単体で具体的に感じ取れるようになることが必要です。

そして、感情を切り捨て「無だ空だ」と先を急ぐ前に、人間としての感情を存分に味わい経験することが
必要です。

そうしなければ、その奥に潜むハートの純粋に響く場を見つけ出すための感性と直観が養われない
からです。


何かが「わかる」ということは、具体的な衝撃を伴って核心に「響く」ことです。

これは「腕にナイフを突き刺したら痛さで飛び上がる」のと同じぐらい具体的・衝撃的なものです。

この「響く」場は、人間として何をどう経験し味わってきたかということに自覚的でなければ
形成されません。

ぼんやりとした経験からなる感性は緩んだ弦のようなもので、弾いても響かないのです。

だから、覚醒や悟りを求めても結局、人生をあらためてやり直すことになる人が多いのです。

人間としての日常を馬鹿にしてはいけないということです。

日常の一挙手一投足すべての経験の中に鋭い感性と直観を養う鍵があるからです。


ただ、人間の経験は思考・感情・欲求など様々なレベルが混線し、ひとかたまりのものとして
粗く雑に認識されています。

そのため、いったん経験し味わいつくした後に、それらの混線を解きほぐしていく必要があります。

瞑想とはいわば、この「解きほぐしていく作業」そのものです。



②祈りについて:

祈りとはある意味、何はなくとも最も大事なものです。

通常「祈り」という言葉から連想するのは崇め奉る対象物(目に見えるものや見えないもの合わせて)
へ向う宗教的な儀礼や伝統的な形式、それにともなう感覚(畏怖や崇高さや願いや依存や安堵や法悦)
といったものではないでしょうか。

それに対しここでいう「祈り」とは、それらの形式的な型や、型にともなう意図の方向性や対象物へ
対する「想い」を超えて無心に「それ」としてあることへの「定点のない無限の放棄(放下)」のような
ものです。

それは、それ自身から起こったそれ自身としてのコミットメントです。


この純粋な祈りを知る前に、ワークでは一見遠回りのようでもまずは3次元の立体感覚と位置と運動
を体感するために、はじめに部屋の中心から正確に東西南北の方向を割り出したうえ、東向きに
直立していただきました。

次に、地球の自転方向と速度(北半球の東京の緯度において反時計回りに約380m/秒)、
地軸の傾き(23.4°の傾き・ワーク時は夏のため太陽方向へ傾いている)と太陽の位置(ワーク時は
夜だったので大雑把にいうと裏側)、公転の方向と速度(北半球からみて見かけ上、夜は西から東へ、
昼は東から西に約28km/秒)、太陽系の公転方向と速度(銀河の北極から見て時計回りに
約240km/秒・一周約2億年)、天の川銀河の中心(射手座A=ブラックホール?)の方向
(北半球で夏に見える星座の蠍座と射手座の間あたり ワーク時は右手側南上方向)、
天の川銀河(直径約10万光年)における太陽系の位置(中心から約2.8万光年)、天の川銀河
と太陽系の公転面の角度(銀河の北極からみて黄道面に対して進行方手前側へ60°の傾き)、
太陽系の公転軌道の軌跡(60°に傾いた螺旋の連続)を具体的に体感・イメージしていただきました。


つまり、いま東向きに直立しているとすると宇宙から俯瞰したときに私達は地球の表面にくっついた
まま380m/秒の速さで身体の前方方向へ回転移動しつつ(もちろん電車の中に立っているのと同じく、
自分自身はその場に止まっている感覚ですが)上記すべての自転公転の軌道の軌跡を(私たちの感覚
からすれば)猛スピードで描いていっているということです。

このことは、頭では理解していたかもしれませんが、実際に自身の身体と結びついた方向感覚と
運動感覚として実感をもってとらえる経験はこれまであまりなかったのではないでしょうか。


そのイメージをもった上で、その場で寝てみたり回転してみたり逆立ちや前転や後転してみたり
していただきました。

上記の自転公転の回転の軌跡に加えて自身が全方向へランダムに動いたとき、宇宙から俯瞰
してみれば全体が回転・移動しつつ局部で複雑な軌跡を描いているということになります。

ゆえに、例えば私がいま1ミリ指を動かすことも、壮大な運動と軌道のなかで起こった軌跡の
一部であるということです。

そのことはまた、私たちの身体・思考形態・自我形態・言語構造・時空感覚・脳機能すべてが
進化の過程で宇宙の物理法則にがっちりと組み込まれていることを意味します。

そんな途方もない構造の運動の中にあって、極小な私たちが「悟りだ解脱だ」といってその軌道から
外れることなど果たして可能なのでしょうか?
(3次元の物理法則の軌道と輪廻の円環は位相的に異なるものですが、強力な力の引き合いが時空
の展開を促すという構造においてはかなりリンクする点があります。)

単純に思考や身体を「切り捨てればよい」と考えることは、それ自体が非常に三次元的な発想であり
「ある/ない」の二元的な思考だということになります。


妄想の域を出ないかもしれませんが私は個人的に、釈迦が明けの明星(金星)という惑星を見た瞬間に
悟ったとされることを必然と感じ、壮大な構造を当時の人々に語ることの途方もなさに躊躇したという話
にしばしば思いを馳せることがあります。

(まったくの余談ですが、金星は太陽系で唯一、自転が逆回りなのは面白いですね。明確な理由は
未だ解明されていないそうです)


この3次元を運動と力と位置座標の中の点の集合体ととらえるとき、「私たちがあること」というのは
この次元の物理法則と運動の軌跡と一体化してありつつ「その瞬間に観察(認識)され切り取られた点」
であるということがいえます。

(ちなみにこの点の瞬間の位置が偶然なのか必然なのかという話は量子力学の領域になりますが、
量子力学的な観察視点の位置と確率論からみれば偶然、覚醒の視点からみればすべての点の可能性
が同時にあるところにおける必然の点のうちのひとつ、ということになります。
ここで注意したいのは、とかく覚醒というと上位の次元からの俯瞰視点と考えられがちですが、
3次元の私たちが物理的な意味で上位次元と呼んでいるものはあくまでも3次元からとらえた理論的な
次元なのであり、ましてや「5次元へのアセンション」といったような曖昧な夢想的イメージの世界へ
「気絶」することではありません。
5次元自体を否定するわけではありませんが、聞き伝えられたイメージを検証することなく盲目的
に気絶することは、いってみれば数を3つまでしか数えられない原始人が4つ以上を「たくさん」と
呼んで5、6、7、8…以上すべて、理解を超えた「神秘」の領域としてひとまとめにして偶像と置き
換え崇め心酔しているようなものなのです。
ただ、気絶していても偶像やイメージが集合意識下で呪術的に作用することが起こったりするので
話がややこしいのですが…。
これに対し、実際にひとつ上の次元を直観的に知るには視点の移動が必須です。
以前ちらっと書いたように眼球が2つならんで前方方向のみに視界がひろがっていることが
3次元的な自我を形成する最大の要因なのですが、この目の使い方をシフトする必要がある
ということです。
そのためには認識の座とサードアイと頭頂のポイントの3点の機能、さらには頭頂を超えた視点
を発動させることです。
ただし「自我を落とす」プロセス自体にはこれらの視点の獲得とシフトは必ずしも必要というわけ
ではなく、3次元的身体の目の意識のベクトルを転換させるだけでも起こりえます。)


ではなぜ上記の体感を再認識することが必要かというと、祈りが「起こる」ポータルとなる私たちの
心身は「ひとつであるところ」から、この3次元の物理法則の中で上下左右前後(上=頭頂 
下=尾てい骨および足底 左右=手足の可動域と耳の意識 前=目の方向と視界領域 
後=後頭部の非視界領域)に「展開」されているという前提があるからです。
(ダヴィンチの人体図が360°立体的になって回転しているようなイメージ)


今この現象世界で認識されている連続体としての私たちの心身は
「3次元における立体的な展開図」だということがいえます。

また、3次元における展開図には可視化できる身体だけでなく、拙著に書いたように
認識・現象・存在の各センターのポータルも縦に並んでいます。
(これは進化の過程で構造的に組み込まれたものです)

この「展開」が見かけ上の距離と差異を生み出します。

ところが私たちは3次元にあって脱却を夢見ながら、実は未だ3次元的立体感覚すら
獲得していないのです。

私たちは3次元的な球体とその運動の法則とともに展開された存在でありながら、普段は
2次元球面の表面に切り取られた限られた平面の上で直線的な意識で移動しています。

私たちの身体は地球の大きさに比べあまりにも小さいため、見かけ上の直線が実は大きな
曲線の運動の一部であることを忘れています。

単純にいえば普段私たちは地球が球体であることをほとんどの時間忘れていて、常に私という
定点から何かしら直線的時間における未来の目的の点に向かって直線的に志向し移動しつづけて
いるのです。


またこのとき、知識では地動説を当然知っていながらも「太陽が昇った/沈んだ」と言うように未だに
自らの定点からの感覚が言語構造を通して染みついており、決して「地球(私)が回った」とは言いません。

たまに飛行機や船に乗ったり時差を経験したり地球儀を見たり高いところや広いところに行ったりすると
球体であったことを思い出しますが、日常の目的に埋没すればすぐに忘れてしまいます。

この平面的な意識において、一般的に私たちは自分の身体が歩いたり呼吸をしたりといった基本的な
運動さえも、3次元の空間と身体という立体の中でどのようなメカニズムと力学で起こっているのかを明確
に説明することができません。


しかしこのような平面的な見方というのはある意味、身体の構造に組み込まれたものであり仕方がない
ものであるともいえます。

例えば目の機能を見たとき、網膜では2次元として画像の点を取り込みます。
いったん取り込んだ後に左右の目の見え方の差異や物体の肌理や影の向きなどを眼球の絶え間ない
移動運動とともに経験的に計算し脳内で奥行のある3次元に再編集したうえで自分の目の前の空間
にあるものとして認識します。
(そのためしばしば個人個人の見え方の差や錯覚や思い違いが生じます)

とはいえ、実は私たちは平面的な感覚だけで生きているわけではなく、様々な次元の感覚が
その時々に混在し、自我の定点の範囲内ながらも各センターの比重の変化とともに視点の移動も
起こります。

しかしその混在を明確に意識することなく、ざっくりとこの世界を各自の主観的な意識から
「3次元」と呼んでいるのです。


*************

~所感と解説 その2~ へ続きます。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ ワーク

【kindle 無料キャンペーン】 8/1(木)17:00 より5日間          

2019/08/01
本日より5日間、 kindle 無料キャンペーンを実施します。

期間: 8/1(木)17:00 ~ 8/6(火)16:59
終了しました。ダウンロードいただきありがとうございます。

「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」


Rubin.jpg
⇒ Amazon 販売ページはこちら


少しでもご興味がありましたら、この機会にダウンロードしていただければ幸いです。

なお、kindle unlimited に加入されている方は期間にかかわらず無料です。


***************

「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」kindle本の発売から
1年が経ちました。

おかげさまでワークも継続して開催することができております。

本にしろワークにしろ、マニアックな内容と趣旨に関心を寄せていただき
ありがとうございます。


****************

次回、東京開催のワークは9/22(日)頃を予定しております。

拙著「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」をお読みになり参加ご希望の方は、まずは以下のフォームからメルマガのご登録をお願いします。


⇒ メルマガ登録はこちらから




にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ 出版