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<3.現象発生の現場と衝撃> Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために 【全文掲載】    

2019/09/26

3. 現象発生の現場と衝撃

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覚醒における現象の発生の場に遡っていったとき、すべての可能性を内在する全体性の場で、認識が発生した瞬間、閃光が走り、可能性から実際の現象へ展開していくための最初の萌芽の候補が選び取られる。

選び取られる瞬間、ひとつのものから個別の事象を引きはがすような、引力のような力が働くのがわかる。

それはあたかも、真空のなかの出来事のように感じられる。


閃光のひとつひとつは、認識発生のための気づきと対象が出会って引きはがされるときの個々の爆発であり、それらは覚醒の本体の莫大なエネルギーから供給される。

この、認識の第一段階では、無数の可能性の最初の萌芽が断続する無数の閃光とともに発生し、それぞれが映画のコマの一枚一枚のように前後の脈絡なくパラパラと高速で流れていく。

(ほんとうはパラパラと時系列で流れていっているのではなく、無数の閃光が同時多発的・並列的に発生する多次元的な構造なのだが、人間の3Dの認識では0.1~0.2秒ごとに一つのコマを見切るのが限界であるため、それらが直列のフィルムのごとく並んでいるように感じられる)


第一段階は、すでに現象の萌芽は発生しているのだが、観察者は個別の現象に飛び込まずに、その手前でどの現実も選ばずに待機してコマが流れていくのを、ものすごいGがかかるなかで見送っているような状態である。

なぜGがかかるかというと、発生と消滅の逆方向のベクトルの綱引きの「あいだ」にギリギリのところでホバークラフトのように浮いて待機しているからなのだ。

(この、見送る状態になるためには、ひとつのコマにも同調しないための、観察者の完全な無志向性を必要とする。つまり、いかなる意志のベクトルも働いていない状態にあるということ。これが先に述べた、源における「いっさいの識別のない状態」の、人間のたどりつきうるギリギリのレベルである。厳密にいえば、萌芽が発生している段階で、観察者に内在する「選びうる可能性」の引力がすでに働いてしまっている状態ではある。その証拠に、無選別で見せられているコマどうしには前後の脈絡がないものの、しばしば集合意識的な形状や過去の記憶をわずかに含むものや、母や父の原型のようなものの萌芽が流れてくることがある。ちなみに「識別のない状態」とは、動きが停止している状態ではなく、よく勘違いされるような「無」というイメージにはまりこんで止まっている感覚や、暗闇のようなところでなにも感じていない状態とは異なる。それらは身体と自己という幻の構築物が発生した以後に生じるハラのセンターに由来する感覚と認識のセンターから派生したイメージとの複合物である。)


第二段階は、「識別のない状態」からほんのかすかなベクトルが動いた瞬間に起こる。

そこでは、ある特定の引力のエネルギーの同調が働き(自動的に采配され)、流れていくコマの一枚の中に強力な磁力で吸い込まれるように一瞬で入り込む。

(入り込む瞬間にはまだ、身体と自己の意識は形作られていない)

そして驚くべきことに、まったく唐突に、その瞬間から3Dの現象世界がはじまっているのである!

それはあたかも、夢の世界が睡眠の途中で唐突にはじまるのに似ている。

これはほんとうに、驚愕すべきことである…!


このプロセスを見切ることができない人間は常に、入り込んでしまった後に3D世界の共同幻想にはじめからずっと連続して存在していたかのように感じて生きている。
 
この、まったく唐突な生まれ出る瞬間の果てしない断続が、3D世界の時空の発生と自己の見かけ上の連続性の正体なのである。

現象に入り込んだ瞬間、磁石に引き寄せられる無数の砂鉄のようにエネルギーの粒子が一瞬にして身体と自己を形作り、それに伴い時間と空間が発生する。
(時間と空間も、このように一瞬一瞬、断続的に生まれている)
 

そして、3Dの直列的時間から見た「一瞬前の自己」と引きあうエネルギーが、再び発生の萌芽から自動的に采配され、次の瞬間に生まれ出て、見かけ上の自己の連続性を保つ。

この一連のプロセスにおいて、「識別のない状態」から生まれでる引力が働くときの自動的な采配、エネルギーの引き合いこそがいわゆるカルマとよばれるものであり、本来、識別のない状態の観察者としての「わたし」は、なにひとつ自らの意志で動いてはいないのである!

まったく、1ミリ1秒たりとも、「わたし」は能動的に動いていないのだ!!

このことを知ってしまったとき、ただただ驚愕に目を見開いて唖然と立ちすくむしかない。
 

エゴにとって、自分がいっさい何もしていないことを知らしめられることは、とてつもない恐怖である。

それは、崖から飛び降りて、どこにもつかまるところのない無限の落下に果てしなく慟哭しているような状態なのだ。


「わたし」の本体は、発生の現場に待機している、自らなにもすることのできない、現象発生と認識のための媒体機能にすぎなかったのだ。


…しかし、驚愕と衝撃のほとぼりが冷めてきたころ、ふと考えることになる。

はたして、この「わたし」は単なる媒体として使われている「被害者」なのだろうか?と。


「いっさいの識別のない状態」の観察者であったわたしは、観察者以前に、覚醒そのものとしてあったのではなかったのか?

そこに気づいて主体の転換が起こったとき、覚醒そのものが一斉にざわめきはじめ、莫大なエネルギーのなかにホワイトアウトしてわたしは一瞬にして消えてしまった。

ホワイトアウトした先のことを、わたしは知らない。

ただ、消えゆく一瞬のうちにかすかに、背後のブラックホールのような巨大な存在の手触りを感じることができるのみである。


ホワイトアウトするときも、ブラックホールの手触りを感じるときも、現象へ「前」へ飛び込むときとは逆に、見えない「後ろ」へ吸い込まれて消失するだけなのだ。

あとのことは、わたしの知らないところに任せておくことしかできない。

そして、任せておくことに、わたしは絶対の降伏と信頼をもつのみである。


いつだって、必要なときに必要なことを、そうでしかないタイミングで見せてきてくれたもの、それへの信頼だけが、必要であればわたしをまた導いてくれるであろうから。



続き ⇒ <4.時間と空間と形> Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために 【全文掲載】

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<2.覚醒とは> Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために 【全文掲載】    

2019/09/26

2. 覚醒とは

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・認識に先立って、覚醒がある。

・覚醒とはすでに目覚めてしまっているものである。

・認識は目覚めてしまっているものの後追いしかできない。

・認識されたときはすでに終わっているものを後追いで見ているだけである。

・覚醒においてはすべての可能性が同時にはじまり終わっている。

・覚醒における瞬間は直列的時間上には属さない。

・人間はすでに終わっている3D映画を見ている。

・覚醒には空間的な広さはない(しかしながらすべての空間の可能性を同時に含んでいる)。

・覚醒した意識はそれそのものを認識することができない。

・なぜなら覚醒した意識は対象物を認識することができないからである。

・人間の認識機能は対象物を必要とする。

・人間は1つの瞬間に1つの対象物しか認識できない。

・ゆえに、ルビンの壺においては、人物と壺を同時に認識することはできない。

・しかしながら、覚醒した「それ」とは、ルビンの壺において人物と壺を同時に認識しようとする無限の瞬間の連なりの「あいだ」に永遠に自己放棄し続けることによって顕現する。

・覚醒とはルビンの壺において図のどちらかが認識される以前の可能性としての全体である。

・「あいだ」に自己放棄するとき、意識は磁石と磁石の間で反発して浮いているがごとく認識以前に留まる。

・そのとき、見かけ上は止まっているように見えても意識は高速に動き続けている。

・覚醒とは時間の流れの中の瞬間ではない。

・覚醒は時間の流れ以前のすべてが「高速に動きつつ見かけ上、止まっている」ところにある。

・認識のはじまりよりも自己放棄のエネルギーの強さが勝るとき、認識のあらゆる可能性の爆発の手前で、高速かつ高エネルギーのスタンバイ状態で待機し続けるところに遡る。

・遡りきったところで再会するのが覚醒である。

・覚醒は漠然としたイメージではない。

・覚醒は具体性と衝撃を伴って発見される。

・衝撃とは、たんなる心理的な驚きではなく、現象が発生するプロセスを逆にたどるときに引力をひきはがすかのような物理的な感覚である。



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<1.ルビンの壺と「あいだ」> Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために 【全文掲載】 

2019/09/26

1. ルビンの壺と「あいだ」

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●ルビンの壺

この本の表紙にある絵は、デンマークの心理学者エドガー・ルビンが考案した多義図形
「ルビンの壺」である。

人間の知覚において、壺が図として認識されるときには人の顔が認識されず、人の顔が図として認識されるときは壺が認識されない。

一方が図になると、片方は地として背景にひっこんでしまい、2つの図を同時に認識することはできない。

無理やり2つを同時に見ようとしても、見ようとした瞬間に図が切り替わってしまい、切り替わりの速度が速くなって同時に見ている錯覚に陥ることがあったとしても、実際は決して同時に認識することはできない。


このことは、人間の認識が、時系列の時間の流れにおいてひとつの瞬間にひとつの認識しか自覚できないというシステムによる。

しかし、この絵自体は固定された黒と白の線と面であって、なにも動いていない。
動いているのは見る者の認識と図の意味付けの瞬間だけである。

このとき、この絵自体は動いていなくても、観察する者の存在によって、2つの意味付けが切り取られる動的な「可能性」が内在しているといえる。

逆にいえば、観察者がいなければ、絵はただの黒と白の線と面のままで静的にありつづける。

もっといえば、絵そのものが存在することすら観察者がいなければ認識されない。


では、認識が切り取られるときの図と地とはなんだろうか?

それは、3Dの人間が現象における個々の事象や物体を識別するときのメカニズムと同じである。

全体が同時に内在する空間から、自分と引き合ったひとつのものを取り出して意味付けし、識別されたその瞬間、その他のものを瞬時に背景に押しやっているのである。

たとえ、空間全体を一度に見ようとしても、厳密にいえばそれは瞬間瞬間に物質の位置や色や影や遠近を時系列に識別し、それをひとつの空間のイメージとして脳内で編集しなおしたものを後づけで見ているのである。


基本的には人間によるこの世界の読み取りかたは、このメカニズムによっている。

ルビンの壺でいえば、ひとつの瞬間にひとつの図を識別するという無限の瞬間の断続体がこの3Dの認識に切り取られ意味付けされた世界なのである。


では、もし観察者がまったくなんの意味付けもなさずに、ただ空間やルビンの壺の絵を見ることができたとしたら、それはなにを意味するだろうか?

そのとき観察者は、すべての読み取られる可能性を内在した空間なり絵から何物をも切り取らず内在を内在のまま静的に映し出す鏡のような存在にならないだろうか?

もっといえば、そのとき個別の観察者は、すでに存在しないといえるのではないか?


ごくごく簡単にいってしまえば、これがこの3Dの現象世界におけるいわゆるワンネスという覚醒した認識状態である。

しかし、この認識は現象として投影されたものを鏡として映し出すために、未だ空間と事物を対象として必要としているのであり、覚醒の結果として投影された片側だけを見ている状態なのである。


実は、人間の認識下において、内在された全体性は認識以前につねにすべて映ってスタンバイされていたのであり、たまたまいっさいの識別のない瞬間においてその全体性が前面に顕れでたというだけの話なのである。

その意味では、すべての人間はすでに無自覚ではあれ、覚醒しているともいえる。

ただし、ここで問題なのは「いっさいの識別のない状態」が偶発的に自覚にのぼってくるのは非常に稀だということである。

それは次の瞬間に起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。


ただひとついえるのは、ひとつの瞬間にひとつの対象しか認識できないシステムの人間において、他の対象物(思考をふくむ)が瞬間を占有しているあいだは絶対に「識別のない状態」を知ることができない、ということである。

だからといって「対象物を見ないでおこう」「思考しないでおこう」と意図的に空白をつくろうとすることは失敗に終わる。

なぜなら、「~しよう」と思ったまさにその瞬間、その意図に占有されるからである。

ではどうするか?


●「あいだ」

次に、ルビンの壺において図と背景が切り替わる瞬間のまさにその「あいだ」を見てみよう。

が、あいだを見ようとした瞬間、すでに図が切り替わってはいないだろうか?

それでもあいだを見ようとし続けたとき、図の切り替わりの速度があがっていき無限に切り替わりつづけるのを見ているうちに奇妙なことに気づく。

図と図の切り替わる瞬間の認識できない一瞬の空白の感覚と、なにかわからない「あいだ」らしきものの手触りの直観である。

それは、識別と識別の隙間に奇妙な引力によって浮遊しているような何かなのである。


先に答えをいってしまうと「あいだ」そのものは、どこまでいっても決してそれ自体を見ることはできない。

それは、「あいだ」が対象物を持たず識別されない瞬間だからである。

しかし、対象物を持つ瞬間があることによって、見えない「あいだ」の存在感が突如として際立ってくる。
(先走っていえば、それこそが二元であることの恩寵なのである!)


そして先ほどの、すべての可能性が内在する全体が識別されずにスタンバイしているところが「あいだ」なのである。
 
「あいだ」は、人間に観察された瞬間に消える。


「あいだ」は、人間の直列的時間の感覚でとらえられたときには、特定の時空のなかに存在するもののように思われるが、「あいだ」そのものは時空の発生する前のものであり、すべてに先立つ可能性を内在するなにかである。

まず、無自覚的な対象物から対象物への識別の移動の状態から脱し、自覚的に「あいだ」を見切っていくことが覚醒の源に遡るための第一歩となる。

「あいだ」を見切るということは、逆にいえば「あいだ」でない対象物の識別を、瞬間ごとに手放していくことを意味する。

これは先にいっておくと、見切りが自動化するまでは、根気とエネルギーと訓練を必要とする。

内在的にはすでにすべてが覚醒しているとはいえ、その状態を自覚に浮上させるには、今まで3Dの人間として何万年ものあいだ馴染んできた認識方法を転換させる必要があるからだ。

しかし、いったん自動化してしまえば、覚醒へのめくるめく展開が怒涛のようにやってくる。



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<0.はじめに> Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために 【全文掲載】    

2019/09/26

<目 次>

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0. はじめに
1. ルビンの壺と「あいだ」
2. 覚醒とは
3. 現象発生の現場と衝撃
4. 時間と空間と形
5. 愛・信頼・祈り・無私・善悪・覚醒の鍵
6. 3つのセンターにおけるワンネス体験
7. 死・誕生・運命・カルマ
8. 現象・魔術・ツボ・物質
9. 瞑想・認識・酩酊・うねり
10.覚醒によってわかること
11.よくある間違い・注意点・ヒント
12.提供可能なワークについて
13.おわりに


************************
0. はじめに


この本は、覚醒を「目指して」しまっている「あなた」、そして、一瞥体験にとどまってしまっている「わたしたち」へ向けた、指南の試みとして生まれた。


これまで覚醒の話を聞いて、そのときは感動しても、あとから煙に巻かれたような気分になって、結局なにも変わっていないことに当惑したことはないだろうか?

あるいは、すでに一瞥体験はあるものの、未だ現象世界の意味や構造が不明瞭なままだったりすることはないだろうか?


ここに書かれていることは、「わたし」の体験から、3Dの人間の認識機能において「実際にはっきりと見ることができる」ものであることを断言する。

これを読んだとき、もしかしたらエゴの居心地の悪さやいらだちを覚え、思考で理解できずにめまいがするかもしれない。

また、覚醒側からの視点による独特の言い回しに違和感を覚えることがあるかもしれない。

それは覚醒の主体の位置と、人間の言語と文字の構造とのズレに由来する。


いまわたしはこれを、見かけ上、わたしたちの「ストーリー」のなかのあなたに、「ストーリー」の階層から「ストーリー」の形をとりつつ話しかけているが、それと同時にわたしたちの覚醒が、「あなた」という読者を媒体として、わたしたちの覚醒自身にダイレクトに話しかけている。

覚醒の階層からみれば壮大な「ひとりごと」として。
(何をいっているのか頭が混乱するかもしれないが、この意味はのちに体感できるようになる。)


わたしたちはずっと眠り続けてきた。
あるいは、一部のわたしたちは自ら望んで寝坊してきた。

こちらのわたしたちは、何度も何度も、3Dの引力のうねりに流され、瞬間に乗り遅れるという寝坊を繰り返してきた。

だが、ある意味、それは瞬間に間に合えば次の瞬間、即座に目覚めうるということでもある。

(実は寝坊している連続したわたしが続いているのではなく、寝坊している瞬間の同化が、無限かつ非連続的にあるというだけなのであるが、このことはおいおい説明を試みる。)


ほんとうは、あなたたち(わたしたち)も瞬間瞬間に次々と目が覚めて、目が覚めているものは別の次元に旅立っている。

こうしている間にも、あらゆる瞬間、3Dのわたしたちに「いま」同化していないわたしたちは、次々と分岐していっているのだ!

それは、この地球上で特定の覚者が出現してどこか別の世界へ旅立っていく、という意味ではない。

まさに、無数の「わたしたち」自身の無数の可能性である無数の「わたし」が、いまこの文章を読んでいる瞬間の「わたし」だけを取り残して、覚醒そのものとしてあるのである。


それも実は、目覚めていない瞬間に同化しているあなたのその瞬間の意識だけが、取り残されているように感じているだけなのだ。

あなたはそのとき、その瞬間的な意識を成り立たせるための単なる「担当者」にすぎないのである。


だが、見かけ上の瞬間の「担当者1」が次の瞬間に旅立ったとしても、全体を司るエネルギーの采配のバランスから、担当者1と同質のエネルギーが即座に供給され、担当者1に「そっくりな」新たな「担当者2」が次の瞬間に生まれる。

その瞬間に同化した「担当者2」の意識は、非連続的な「担当者1」の記憶のエネルギーを即座に引き寄せて見かけ上連続した自己同一性と時間を形作る。

こうして、無数の瞬間に采配された「担当者1・2・3・4・5・・・・」の個々の記憶の残像が見かけ上、直列に並ぶことによって、そのときその瞬間に宿った最新の「担当者」は過去の非連続性に気付かないまま、ひとまとまりの「担当者=わたし」としての時間とストーリーに同化している夢を見続ける。

このことは、3Dにおける担当者という意識が「瞬間そのもの」を見切ることができないという認識の構造に由来する。


そう、瞬間そのものは決して見切ることができない。

この認識構造が、わたしたちが3Dに捉われ続け、目覚めることができない理由である。

だが、このように原始的な3Dの認識機能においても、覚醒から分離する瞬間を3Dなりの極限において見切ることは可能である。


しかし、現象世界における3Dの表象としての「あるがまま」の一瞥だけでは極限を見切ることができない。

それでは、3Dにおける心理的な安心と現象面から感じ取られる覚醒の手触りと信頼を得られたとしても、世界の構造の片側だけしかわからないのだ。


極限を見切ったときの「あるがまま」とは、ふんわりした心地よさや愛などではなく、エゴにとっては驚愕と恐怖でしかない。

しかしその極限においてエゴの同一化が発生していないとき、莫大なエネルギーと無限の可能性の待機と、爆発と生成と消滅を繰り返すシステムの一端を垣間見ることになる。


莫大なエネルギーである源はそれ自体を認識することができず意味が発生する以前のものであり、愛を愛と自覚することはない。

ただ、その源から見かけ上、分離する瞬間の振動と、源に戻ろうとするときの振動が、後づけで「愛」と呼ばれる感覚を創り出した。

この振動を愛として感じられるように人間は生み出された。

人間の愛の感覚は分離あってこそで、源との距離が近くなるときに磁石が強烈に引き合おうとするような振動の感覚が生じるのであり、ハートの座に響くその振動を愛と呼んでいるのだが、完全にひとつになったときには、心身など木端微塵になってしまう爆発のエネルギーだけがただある。
 

覚醒について、もっとうまく甘美に説明している覚者は大勢いると思う。

しかし、きれいにまとまった概念体系と用語に落とし込むことによって抜け落ちるもの、それを避けるために、それらが思考で解釈される「以前」の、わたしというごく普通の人間におりてきた生々しさと鮮烈さの現場の声を、すべてのわたしたちに覚醒側から「自己生成的に」転写したいと思った。

(本当は文字と時間を介さずに直接転写できればいいのだが。構造的に時間を伴う文字という形態はもはや古いのかもしれない。いずれ別の形態で表現を試みるかもしれない。)


また、「どうせこの世界は幻想だし遊びだから」といって、見かけ上3Dに閉じ込められた(同化した)断続体としてのわたしたち自身を茶化したり卑下したり道化のふりをして自嘲するような表現をすることは避けたい。

そのスタンスに逃げたくなる気持ちは痛いほどわかる。

3Dに同化した肉体と思考のレベルのあらゆることはありえないほど重くて遅くて、この世界の時空の窮屈な直列的思考の原理で説明したり、なにかを変えようとすることは、とてもとても疲れるから。


この重さと遅さから、別の次元にすでに逃げ去ってしまった存在(これも実はわたしたちである)も、瞬間瞬間に、無数にいる!
(厳密にいえば、ポジティブに逃げ去って再び戻ってきて働きかける者と、ネガティブに放棄して逃げ去って戻ってこない者がいるが、それもまた、わたしたち自身なのだ…)


決して茶化すことのできないこの感覚は、まさにこの文字を時系列で直列的に見ている担当者であるあなたが今この瞬間にはわからなくても、ある瞬間に時間と空間と存在の発生現場のしくみを見抜いたとき、自ずと生じることであるとあらかじめ断言しておく。

なぜなら、多層的な視点と主体発生のしくみを実際に垣間見てしまった者にとって、それは、わたしたち自身というあまりにも巨大なものを茶化すことになってしまうからだ。

この3D世界も、全体の中の「そうでしかありえなかった」表現、途方もないシステムに采配された絶対的な瞬間なのだから。

本文でこれからする説明(自己生成的呼びかけ=わたしたち自身に対する「リマインド」)を、「そんなの聞いたことある、で?」と思考で切り捨てないでほしい。

そういう風に思わせてしまったり、覚醒の手触りすら転写されなかったとしたら、表現者としてのわたしの力不足と、この世界における媒体としてのわたしのエネルギーの器の小ささゆえとしかいいようがないが、実際にわたしたちひとりひとりが覚醒を見切って文字どおり「腑に落ちる」ところを目指したいと思っている。


先にいっておきたいのは、これから記すことは概念ではなく、ただただ、わたしが実際に観ているものをそのまま写し取っていることだ。

あたかも目の前の花の一部始終を見たままに描くように。

そしてこれらのことは、わたしたちすべてが実際に観ることができるということをいっておく。


あなたが思っているよりも3Dの認識機能のレベルは高い。

人間の認識機能で見切ることのできるレベルまで行きつくことを放棄して、3Dの表面的な雰囲気やイメージに酩酊してそれを覚醒と勘違いしている段階を脱してほしい。


あるいは、擬人化・具象化等のイメージの「変換」に逃げることが認識の段階において「はやすぎる」ことに気づいてほしい。

人間の脳でも、あなたが思っている以上にもうすこしだけ先を見切ることができる。
そこまでは今生の意識形態のうちに知ってほしい。


見かけ上の今生ではあるが、認識しうる機能の担当者として生まれたあなた(わたしたち)はその可能性をこの一点において使うべきである。

あるいは、極限にたどり着く前に早々にあきらめて気絶したり、イメージやエネルギーのおおざっぱな「ひとまとまり」に逃げてしまう段階がはやすぎることに気づいてほしい。

認識の鋭利さと見切る速さを養い、瞬間の隙間に飛び込めるだけのエネルギーを凝縮し、3Dを発生させる強力な引力に逆らうかのように存在の発生現場へ遡ること。

これら一連のプロセスを一生に一度のチャンスと思って、生体のエネルギーを活用できるうちに機能にまかせて「自動化」できるところまではやっておいてほしい。


どうか、3Dの認識システムで「見切る」ことができるところまでは今生で見切っておいてほしい。


もちろん、見切る手前で放棄(気絶)してしまった認識のレベルでのイメージの世界の甘美さ、美しさというものはある。

その美しさだけでも完璧に味わうことができれば、それはそれで現象として表現された神秘を知ることであり、神秘的であるがゆえに背後の覚醒の気配を感じとり感涙することもできる。


しかし、投影された甘美さに酩酊することに無自覚に淫してしまうと3Dの引力のうねりに巻き込まれたまま現象世界に「実体なく」幻として漂い続けることになる。

3Dの認識に幽閉されて3Dの見かけ上の「あるがまま」に納得したふりをして、永久に「投影されたものとして」ありつづけることになる。

その状態で覚醒の気配に感涙することは、真実に目覚めることではなく、永遠に辿りつかないものを追い求めて幻を存続させるための美味しい餌にすぎないのだ。


そのことに不安や疑問を抱かないのであれば、「あるがまま」の存在として永遠に投影されて流転していく側に同化し続けるというのも究極の選択だとはいえる。

瞬間瞬間、現象全体のエネルギーの采配に目的もわからず受動的に貢献する担当者としての立場に徹し、いっさいの被害者意識を持たないのであれば。

道端の「石」担当の「石」そのものが「石」であることに文句をいわずに、わたしたちのためにじっと在りつづけてくれるように…


ただしこの本では、甘美なイメージを愛でたり3Dとしてのあるがままに開き直ってしまうことなく、見切るところまでは見切るというスタンスで展開していくので、エゴにとっては否定されたような違和感や怒りや恐怖や疲労を感じるかもしれない。

しかし、見切ることを実際にうながさないすべての覚醒の甘美な概念は「いつか未来に届くべき」到達点という意識のベクトルと直列の時空を発生させてしまう。

それでは瞬間に飛び込めないのだ。


意識のベクトルを動かす以前に「振り返らずに後ろ向きに(!)」飛び込んでしまうこと。

動かすと対象が発生して対象と見かけ上分離した「一体化すべきわたし」がつねにベクトルの矢印の「こちら側」に取り残される。

何度もいうが、実際に見切ることは可能である。

わたしごときでよければ、これだけは請け負う。


見切ったところでしくみと神秘を知らされることによって、やっとすべてがスタートする。

そこからはじめて、いままで無意識だった存在発生のプロセスを自覚的に辿ることができるようになり、また、意識的に気絶してこちら側を愛でて遊ぶこともできるようになる。


すべての采配の意志が同時に働きながらそれが同時にわたしの意志として瞬時に現れ出て身体となって顕れ、3Dのわたしの感覚が付随され、直線的に進む時間と空間の法則のなかに「意識的に」わたしとして存在し、3D原理の思考と身体を用いて物質や他者を見かけ上の空間の座標にそって動かしていく…それが同時に多次元すべてと同調し、存在の発生の源に即座にフィードバックされることを知る。


この3Dは重くて遅くて暗くて疲れるけれど、源にとって、3D次元から物理的に動かすことによるフィードバックが全体のエネルギー采配と均衡において必要だったため創られた。

見かけ上の分離を創り、自己と他者が対面できる二元とはある意味、わたしたち覚醒側からの画期的な発明、そして実験であった。

当初、エゴや思考は単なる機能の役目として創られた。

エゴをつくりエゴどうしを対面させたとき、相互の投影の干渉とそれぞれの背後の引力のバランスゲームによって現象世界は爆発的に多様化していった。

その多様化のエネルギーは、源の采配から発生しながら、同時に源へフィードバックされることにより、源のバランスと動的な恒常性に貢献している。


「あなた」は今これを書いている「わたしたち」の共時的存在としてすでに在る。
対面しうる「あなた」の顔を「わたし」は未だ知らないけれども。

「わたし」が「あなた」としてこのページをめくって(スクロールして)いる「今」が、すでに在る。

「わたし」がこれを書いているとき、「あなた」はすでにこれを読んでいた。


そんな、くらくらするような時空の交錯と主体のゆらぎが、くらくらすることに気絶することなく、すべての「わたしたち」において明晰に紐解かれることを切に願う。



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「気づきのポイント」 「身体と意識の境界線」 【質疑応答】        

2019/09/26
先日、ワークに参加された方から質問をいただきましたのでシェアします。

(一部、編集・加筆しています)



【五感の気づきの瞑想について】

瞑想時、日常時にワークでやったように音、刺激、思考などへの自分の反応
を見ているのですが音を聞くときは体の中が音の振動が体内に伝わってきたのに
反応しているのを見ている感じ、その他の刺激でも同様にその刺激、思考などに体の内部の
何かが反応しようとしているのを見る感じになってます。
瞑想としてはこれで良いのでしょうか。
ワーク時にも聞きましたが結構せわしない感じで忙しい感じです。




見るのは「反応」ではないです。

「反応」は何かの事象の結果ですが、見るべきは「原因」と「結果」の区別のない
瞬間です。

「反応」が出てきてから見ようと意図すると、音や刺激や思考や感覚に触れた瞬間を
見逃し、それらによって引き起こされる自分の反応を一瞬待って見ようとして時間差が
生まれてしまいます。

また、このように見ていると「自分(の反応)」という感覚もなくなりません。

そうではなく、感覚に触れた(意識にのぼった)まさにその一点を
「意図のベクトルを動かさずに」見るのです。

もちろん、最初の瞬間を見切れずに次の反応が起こった後に気づくこともありますが、
反応自体を意図的に待ち構えていたのでなければ、それはそれでかまいません。
(とはいえ、集中力が弱い段階では反応が起こった後に気づくことが大半ですが)


とにかく、常に気づいた瞬間自体に気づくことがポイントです。

ここが難しいところなのですが、気づく瞬間を待ち構えてもいけないのです。

また、気づきという概念を探そうとするのも違います。

あまり考えすぎると瞬間とはなにか、気づきとは何か、と混乱してきますが、
シンプルに今この瞬間に顕れた事象をひとつひとつ見ていきます。


次に、本来は「正しい音の聞きかた」というものはないのです。

今回は訓練の段階として聞くことだけに特化して瞑想しましたが、そもそも瞑想における音は
「耳という特定の場所」でとらえようとしたり意図的に「聞きにいく」ものではなくむこうから
勝手に「触れ」、勝手に「響く」ものです。

音の「聞きかた」「触れかた」「響き方」「感触」等は瞬間瞬間の状況と集中の度合いによって、
どの瞬間と振動に気づくかが異なってきます。

気づくレベルは毎瞬毎瞬異なっています。


例えば、集中が浅ければ身体感覚と自己の定点感覚に付随して音の発生源の位置や距離、
音の続く時間、リズムやメロディやフレーズ、何が発した音かへの興味、その音に対する好嫌、
といった音が聞こえた瞬間に誘発される様々な思考が同時に付随して起こってきますし、
集中が少し高まって身体の境界線が薄れてくれば、音の振動が皮膚に触れる感じや刺激の
強弱、ある周波数が身体内部の特定の部位に響く感覚などに気づくようになってきます。

さらに集中が高まって完全に身体と自己が消えていれば、音と自身の区別がなくなりあらゆる
音の振動が瞬間瞬間、場所のないところでパラパラと非連続的に顕れては消えていくのを
自分自身として見ている(響いている)ようになったりします。


ここでポイントは、音を聞く、あるいは感覚を見るときには「こういう意識と心構えで聞こう」という
態度をいっさい決めずに、ただその場その場で受動的に受け取った瞬間の事実だけを判断なし
に見るということです。

身体感覚が優位の人の場合は音の振動が身体の様々な部位に触れ反応する瞬間に気づくことが
多いですが、「音の聞き方として身体感覚だけをみていればよい」ということではないのです。

だからといって「自分の得意な身体感覚以外での音の聞き方を意図的に探そう」とするのでも
ありません。


このあたりは非常に微妙な感覚かつ勘違いしやすいポイントで間違ったまま続けても先に進まない
ため、瞑想⇒レポート⇒修正を繰り返し、個人のパターンに気づくことが必要になってきます。

○○さんの現在の気づきのセンスは繊細でよい感じなので今後はさらに集中力を深めて受動的に
見ることが自動化するレベルへもっていけたらよいと思います。

せわしないと感じるのは気づきの自動化が確立していないのと、見たり聞いたりする対象と瞬間の
状況を「自分」とくっついた気づきの意図が一回一回探しにいってあちこち動いてしまうからです。

集中力が高まれば自己が切り離され気づきの主体が移動せずに軽く高速であらゆる事象に「触れて」
いるような感覚になってきます。



【黒点に集中するワークと丹田の集中について】

意識が下に降りてゆく時に丹田であればまだ丹田を黒丸としてそれ
以外にずれるものを観察しやすくなるのですが(それでも観察するたびに上に引き戻されますが)、
丹田より下に降りたとき体から出て地面に潜っていく時によって立つべき黒点というかズレを
見るための基準は地下に置くで良いのでしょうか?



丹田の奥へより深く入っていく、というのは丹田を突き抜けて身体の外へでて地面へ潜っていくと
いうことではありません。

身体感覚をもったまま意識できる丹田の一番深いところを見つけたら、その後は呼吸とともにもう
一歩奥の身体と意識の境界線に「出会い」ます。

この境界線の場は身体の輪郭や物理的な対象物を離れているところであって、物理空間の「奥」
(地底)ではないのです。


境界線に出会ったら(睡眠に落ちる瞬間に意識がひっぱられつつ「潜る」感覚に近い)身体と物理的な
輪郭のイメージを手放します。

この、輪郭のない場には黒点のような物理的な対象物があるわけではないのですが、それでも意識が
収束されているポイントがはっきりとあります。


集中力が弱い場合はポイントからズレて認識が境界線上(肉体と意識の境界)をいったりきたりして、
丹田という場の内部あるいは周囲で様々な事象が様々なレベルで起こっていることに気づきます。
(黒点を見ていて意識が逸れる瞬間に起こる思考や感覚の顕れのように)

最初の段階では境界線自体に出会ってそこに意識を収束させ続けること自体が難しいため、
まずは丹田という大まかな場所(骨盤内部5センチ四方ぐらいのイメージ)の内部を肉体的な感覚で
意識し、そこで起こっている感覚を見ていくだけでもかまいません。

集中を一点に収束させる感覚がわかってきたら徐々に境界線の奥へ潜ってとどまっていられるように
なるので、その位相からズレを見切っていくことになります。


ちなみに、肉体として地下にひっぱられているように意識を向けておくのは丹田ではなく「尾てい骨」
です。

ただし尾てい骨のポイントを意識するのは瞑想前の準備として行い、丹田に意識をむけたら肉体の
ことは忘れます。



身体と意識の境界線というのはピンとこないのですがとりあえず初期の段階としては音、
感覚、思考などを見ている「自分」というものが丹田付近にあるという認識で良いのでしょうか?



丹田に意識を集中したときの感覚には「自分」という言葉やその他いかなる
言葉や概念も付随させないようにします。

丹田に集中すると様々な感覚が起こってくると思いますが、その感覚に「見ている主体」
という「実体感」を持たせないでください。

とはいえ、なにか実体感のある定点がなければどのように見ればよいのかわからないのは
人間として当然のことです。

ワークはいわば、定点を取り払って事象だけを見ようという、人間としては矛盾することを
やろうとしているのです。


丹田に意識を置くというのは、自我が対象を認識するときにあちこち動くことをいったん静め、
一時的な定点として仮に意識を一点に集中させておく目的があります。

境界線というのは、例えば丹田に集中したとき、身体にくっついた意識では腸の動く感覚や
ちくちくする感覚や痛みや圧迫感や暖かさなど、肉体に由来する感覚が次々に起こってきますが、
肉体を超えた意識においては、肉体という器の境界の限界のない真空のようなところで
起こってくる感覚を瞬間瞬間、連続性をもたない点として見ています。

境界線を完全に超えると、睡眠に入った後に「落ちる」感覚と同じで「自覚」が保てませんが、
これを避けるために、落ちるか落ちないかという境い目で見ているようにします。


ゴムを使ったワークを思い出してみてください。

ゴムを丹田の前で縦にひっぱってその「張力」と丹田の感覚を同化してみたときに
ふっと軽く入り込めるポイントのような場所が見つからなかったでしょうか?

そのポイントに顕在意識を「落とし込む」ような感覚です。
(とはいえ、意図的に落とし込もうとはせず、丹田に集中する意識を「置いておく」こと
によって勝手に落ちる瞬間をただ「待つことなく」待ちます)


また、丹田ではありませんが、水を飲むワークで水の感覚が消える境目を見たときに
消える瞬間の前は肉体で感知しているのに対し、消えた瞬間のすぐ後からしばらくは
微細な余韻とそこに意識が細く吸い込まれるように入り込んでいくのが感じられたと思います。

この余韻との境目が肉体感覚と意識そのものの境界線となります。


ただし、丹田に集中のポイントを設定したときの境界線は、水が消える位置でおこる余韻とは
違った感覚を伴います。

これは、自我感覚が丹田と密接に結びついているという構造からくる感覚の違いです。

このとき、ある種の丹田特有の実体感が伴うのですが、この実体感を「自己」と結びつけないように
します。


この感覚をすぐにわかろうと焦らないでください。

意図的にやろうとすると意図と自我がくっついて頭部の方向へ意識が上がってしまいます。
何度も繰り返すうちに「すとん」と入る場所があることに気づく瞬間がきます。

本当は、丹田付近になにかの実体があるわけではないのです。
丹田に集中するのは身体構造の便宜上のテクニックです。

丹田に集中することを利用して、身体の枠をまず忘れ、真空の場で起こってくる様々な事象を
ニュートラルに眺めているようになることが最初のステップになります。


言葉だけで説明する限界があるのですが、ここは本当に難しい微妙なところなので
逆にすぐに実感できるほうが稀です。

また、目的がズレるとなぜこのワークをやっているのかがわからなくなります。
このワークの目的は自我を落として身体の枠を超えたところで見るということです。

このあたりはポイントがつかめるまで何度も繰り返しワークでも行っていきます。


関連記事  ⇒ 「世界は進化している?」 【ワークのお知らせと質疑応答】

*******

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10/13(日) 18:30~21:30  「東京ワーク開催日時が決定しました」     

2019/09/24
*****  Rubin’s work  東京ワーク開催日時のお知らせです。


10/13(日)18:30~21:30
募集締め切りました。次回は11/9(土)頃の開催を予定しています。
参加を希望される方はまずはメルマガにご登録ください。


⇒ メルマガ登録はこちらから

場所は東京都中央区、参加条件等の詳細はメルマガにてご連絡しております。


◆今回は、丹田呼吸・対象のない祈り・姿勢の調整を基礎としたうえで、五感の気づきのポイント、
内部の目の確立、意図と自己感覚の関係性、受動と能動のあいだの空、をテーマにワークを
おこなっていく予定です。

(内容はその時々のメンバーによって変わる可能性があります)


◆直近に開催したワークの様子

⇒ 【9/22(日) 東京ワーク】 ~所感と解説~

⇒ 【8/11(日) 東京ワーク】 ~所感と解説 その1~

⇒ 【8/11(日) 東京ワーク】 ~所感と解説 その2~


※参加ご希望の方は、拙著「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」をお読みのうえ、
まずは以下のフォームからメルマガのご登録をお願いします。

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追って参加条件等の詳細をご連絡いたします。


※参加者一人一人の身体とエネルギーを見ていくため少人数性となっております。
参加希望の方が多い場合は先着順とさせていただく場合がありますことをご了承願います。



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comment (0) @ 参加募集

「動体視力」 【9/22(日) 東京ワーク ~所感と解説~」            

2019/09/24
9/22(日)東京にてワークを開催しました。


yjimage.jpg
ワークで使用した「蛇の回転」錯視図


【今回の主なメニュー】

・いきなり瞑想(準備なく座る)
・姿勢の調整
・脳の活性化
・内部の目と意識の立体視の確立(集中と拡散を両立させる具体的なポイント)
・自発的な祈りの発動
・対象のない祈りと座禅の型の関係性
・マイクロサッカード(眼球不随意運動)と世界の顕れ
・肉体の目の動体視力
・内部の目の動体視力
・動体視力で思考を見切る
・一点集中と五感発動の瞬間



*******************
【所感と解説】


今回は継続して参加されている方のみだったため、瞑想の具体的な説明と実践がメインとなりました。


まずはじめに前回( ⇒その1 / ⇒その2 )からひきつづき、基本形として以下の
プロセスを復習していただきました。

※対象のない祈り⇒放下した祈りと姿勢の型の両立⇒丹田の奥へ呼吸とともに入る⇒
さらに奥深く肉体と意識の境界に入る⇒サマタ瞑想(一点集中)の自動化


この基本が確立されていないと次の段階(起こってくる現象を受動的に気づく)へ進んでも気づきの
切れ味が鈍くなってしまうため反復練習が必要となります。

私の経験から、基本の段階でポイントがズレたまま先へ進めなくなる方を多く見てきたので、どこを
どうピンポイントで意識すればよいのかできるかぎり具体的に指示するようにしています。

その方が今、どのような意識でどこに焦点をあわせてどの深さで集中しているかは、見れば即座に
わかります。

それは神秘的で曖昧な霊能力のようなものではなく、パっと見た瞬間に内側のコアからスキャン
して相対的なズレの「感触」を直接測るような具体的な感覚です。

(ここで自身のエゴを発動させ、その方の表面的な感情や思考と同調して一緒に揺らいでしまうと
「エンパス」のように苦しみが発生してしまうため、あくまでもコアのブレないところから
ニュートラルに見ることが必要となります。)


基本の復習の後、次の段階へ進むための土台となる「内部の目」の具体的な位置と見方について
ワークしました。

方法としては以下のプロセスとなります。

①空間の水平方向の全体を見る
②壁などの一点の対象物を見る
③ ①と②を繰り返し肉体の目における集中と拡散のフォーカスの違いに気づく
④肉体の目のフォーカスにおいては①と②の「見ること」が同時に成り立たないことに気づく
⑤次に「内部の目」の位置(目の奥4~5センチ)で壁の一点を見る
(肉体の目のフォーカスを前方方向へ動かさずに内部の一点に像を置くように映す)
⑥内部の目に壁の一点をはっきり映しつつ肉体の目に映った空間全体を同時に眺める
(①と②が同時に成り立つ)
⑦このとき「見る」ことのフォーカスが立体的になり観察者の視点と定点が転換する

例えば、サマタ瞑想の初歩段階として光の球を内的視野でサードアイ方向へ映しだして見ていく流派
がありますが、このとき「見ること」が肉体の目で見る感覚と無意識に連動してしまっていると対象を
見ようとした瞬間に光は消えてしまいます。

しかし、上記の内部の目のフォーカス感覚が確立していれば光の球をはっきりと「置いて」おいたまま、
回転させたり動かしたりすることが可能になります。

(とはいえ、私は光を見る方法はあまりお勧めしていません。なぜなら、光自体にエゴが満足する
ような意味を見いだそうとしたり、見える見えないにこだわったりすることが妄想につながりやすい
からです。ただし、このような現象が受動的に起こってくること自体は集中力の高まりのひとつの
目安になることはあります。ちなみに、光がみえて全体に広がってまぶしくなるのは肉体の目と前方
方向の注意のベクトルが連動しているためであり、集中のレベルとしては浅いものです)

内部の目の位置については以前、ワークで触れたことがあったのですが、今回はより具体的な
フォーカスの使い方についての練習だったため、参加者さんにとって⑥から先は難しかったようですが、
ある程度反復練習すればポイントをつかむのはそれほど難しいことではありません。

(少し前に「マジックアイ」という立体視の訓練が流行りましたが、難易度としては同じぐらいだと思います。
ただしその目的とメカニズムはまったく異なります。)


なぜ次の段階へ進むためにこの視点の転換が必要かというと、この見方が確立していないと
「起こってくる現象を受動的に見切っていく」ときに、肉体の目のフォーカスと意図のベクトルが
無意識的に同時に連動して動いてしまい、その瞬間に「自分が見ている」という能動的な自我感覚
が発生してしまうからです。

また、これらの連動した動きによる認識は見た瞬間そのものとの時差を生み出します。

この時差は普段の生活では気づかれていませんが、実は想像以上に遅く、この「遅れ」が世界の
幻想と錯覚を生み出す元となっています。

これについては次の動体視力のワークにも関係してきます。


動体視力の説明に入る前に、まず一番上にあげた「蛇の回転」図を見てもらいました。

これは有名な錯視図ですが、じっと見続けていると図が動き始めます。

なぜ動きはじめるかというと、私たちは普段、外界の一点を止まって見ているときも実は高速
(0.01~0.3秒程度)で眼球が動き続けていて、この運動(サッカ(ケ)ード)による眼球の揺れを画像
の動きとして認識してしまうからです。

この眼球運動は不随意に起こり普段は意識されておらず、自身でコントロールして止めようとする
ことはできないのですが、なぜ眼球の動きとともに世界が一緒に動いて見えないかというと、眼球が
動いた瞬間は神経への刺激が遮断され、その瞬間は認識されないからといわれています。

つまり私たちの認識はマイクロサッカードの視点移動の瞬間は空白になっているということになります。

しかし私たちはこの空白を空白として認識することはなく、映画のフィルムに例えるならば、途切れた
空白の瞬間に、一瞬前に認識した画像を挿入して補正・認識しているのです。

私はこの空白の補正の瞬間に認識の「ゆらぎ」が起こり、このゆらぎの間に個々の世界の認識が
自動的に取捨選択されているのではないかと予測しています。(この「ゆらぎ」の瞬間は次に述べる黒点
のワークでも観察することができます。「ゆらぎ」の瞬間、気絶が起こっていることがわかります。)


非常に興味深いのは、眼球の動き(固視微動)が起こらない場合、見ているもの自体が消えてしまうと
いうことです。(トロクスラー効果※)

yjimage514M8QH8.jpg
※中央の+を見続けると周囲の色が消える


私たちは一定の同じ刺激が続きその刺激に網膜の細胞が慣れてしまうと、見ていた対象物自体を認識
できなくなってしまうのです。

つまり、私たちは常に「動き続け」「刺激を受け取り続ける」ことによって世界という顕れを持続させている
ということになります。

さらに興味深いことに、五感に入ってくる刺激に注意が向いた直後は、サッカードの運動が起こりづらく
なるという研究結果があります。

この辺りに「気づき」の性質と世界の顕れの関連性が見られると感じるのですが、この話は長くなるので
また次の機会にしたいと思います。
(「気づき」と「注意」の違いについても折をみてお話します)


次に以下の黒点の図を見てもらいました。

3A21lYc2CUAAvw-b.jpg
この黒点の一点に集中し続けようとすると、上記のマイクロサッカードによる視点の移動とそれに伴う
認識の空白とゆらぎの瞬間を観察することができます。

視点を一点に集めて集中しようとすればするほど、そこからチラチラとズレようとする瞬間や視点の
動きがはっきり見えてきます。

また、もう少し集中力が高まるとこのズレの瞬間に空白になってその直後にふらふらっと思考が顕れる
様子も観察することができます。

これはシンプルですが私たちの認識の構造を知るためには効果的なワークです。

(この一点集中の点を意図的に丹田に置くのが座禅の形のサマタ瞑想となります。丹田に定めるのは
心身の構造的に利にかなっているためです)


この、チラチラと動きズレようとする瞬間を見切るために先の動体視力が関係してくることに
なります。

まず、通常スポーツ選手が訓練で行うような「肉体の目」の動体視力を鍛えるワークを行いました。

ネット上にもやり方はたくさん出ているので方法は割愛しますが、手を肩幅ぐらいに開いて左右
の指を交互にすばやく見たりします。

このワークをしばらく行った後「肉体の目」から「内部の目」の動体視力の発見に移行します。

これは内部の目自体が認識されていないと難しいのですが、内部の目で見るときは肉体の目
と違って意識内で動く瞬間(意識に触れる瞬間)の事象を見切るときには「移動」はしません。

先に述べたように、内部の目は事象を映し、見るというよりは触れているような感覚に近い
ものだからです。

しかし、動かないといっても、止まっているわけではなく、高速に次々と触れてくる事象を
感知しています。

この感知の鋭利さが「意識の動体視力」ともいうべき感覚に近いのです。

この内部の目は意識が気づきとともに生まれる場の境界線上にあり、それ自体を見る
ことはできません。

またその目は本来、受動的に立ち顕れてくるものなのですが、訓練の段階では便宜上の
定点として設置しています。

(では、いわゆる観察者は「どこ」にいるのか?という話は長くなるのでまたの機会に
したいと思います)

この目の感覚でふたたび黒点を見てみると、これまで無意識に排除されていた様々な現象や
動きが次々と起こり続けていることがより明確に観察されるようになります。


ここで注意すべきなのは、集中とは動きを止めることではない、ということです。

むしろ集中が高まれば高まるほど、現象の動きと発生の瞬間はより微細なレベルで次々に
明確に見切られていくことになります。

なぜなら、この世界はあらゆることが膨大かつ高速で起こり続けているにもかかわらず、普段
私たちはそのほんの一部を粗く遅い意識で自分に関連する部分のみを切り取って認識している
にすぎないのですが、集中力が高まると高性能の顕微鏡とカメラを内部の目に直接はめ込んだ
ような認識になるからです。

このレベルになるとこれまで無視されていた極小レベルの刺激が拡大されて「触れて」
くるようになります。


ここで、ある参加者さんが「瞑想ってものすごく忙しいんですね」という感想を漏らされました。

確かに、怒涛のように次々と起こってくる現象を見切っていこうとすると居眠りしたり退屈したり
する暇は一切ないのですが、忙しいというのは少し違うのです。

というのは、初歩的な段階では「見る」ということを意識的に行っているため、自分が能動的に
「忙しく」やっている感覚がするのですが、集中力と見ることが自動的に働くレベルが確立すれば
あとはジェットコースターに乗っているように怒涛の展開をただ眺めていればいいということに
なります。
(とはいえ、その段階はその段階で、休んで止まっているわけではなく危うい綱渡りをし続けて
いる状態なのですが)


少し話はそれますが、この瞬間に触れた事象というのは一見どんなに些細なことであっても実は
とてつもないものなのです。

というのは、直線的な時間の流れとそれを前提としたカルマの構造からみたとき、この瞬間は
ありとあらゆる過去と今この瞬間の宇宙の動きとカルマの引き合いが一点に集中した結果
だからです。

この世界においては、どの瞬間も例外なくこの法則の下にあります。

だからこの瞬間を見るということは、すべてを含んだ結果の一点の「観察者」としてあるという
ことになるのです。

「観察者」であること自体に気づかずこの瞬間を流れていくことはすなわち、結果が原因となって
眠ったまま次の展開が起こっていくということです。

それに対し、「観察者」であること自体を自覚しつつこの瞬間に気づくこととは、大げさでなく、
すべてを含む結果としてのこの瞬間を「(盲目的な次の展開の原因となることから)救った」
ということになるのです。

このことを自覚したとき、居眠りしたり退屈したりしてる場合ではない、ということに気づくのです。


さて、上記の内的な動体視力の発見をふまえたうえで、基礎的な型(祈り・丹田・姿勢)に入りつつ
目をつぶり、まずは「思考」に特化してその発生の瞬間を観察していただきました。

しばらく座った後に、思考が出る瞬間の空白やゆらぎやズレ、どこにどのような感触で出るのか、
思考のレベル(言葉になったもの/ならないもの、イメージをともなうもの、感覚をともなうものなど)、
思考の連動、等をレポートしていただいたのですが、予想以上に繊細に細かく観察されており短時間
とはいえワークの成果が見られました。

本来は、思考に限らず受動的に触れてくるすべての事象(仏教的にいえば眼・耳・鼻・舌・心・意に
触れるもの)を等価に見ていくのですが、訓練の一歩として今回は時間的な都合もあり「思考」と「音」
にターゲットを絞って見てもらいました。

「音」の観察については気づきのベクトルの移動や定点感覚や響きの場、陥りやすい気づきの勘違い
のパターンなど注意点があるのですが、五感を分解してひとつづつ観察するワークは引き続き行おうと
思うので、説明は次回とします。


関連記事 ⇒ 「存在の呼吸」 【12/7 (土) 東京ワーク ~所感と解説~】

*******************

ワーク開催は去年の9月からはじまり、今回でちょうど1年経ちました。

継続して参加してくださる皆様のおかけで徐々に話が通じやすくなり微細なレベルへ入って
いくための下地ができてきました。

この場をもって皆様に御礼申し上げます。

もちろん、新規の方もいつからでも途中参加可能です。


次回は10/13(日)開催を予定しています。

ご興味がある方はまずはメルマガに登録のうえご応募ください。

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*******************

IMG_2938.jpg
ワーク用の走り書きメモ群(1年でこの3倍の量になりました)


untitled.jpg
ワーク中に撮られた謎のポーズ


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comment (0) @ ワーク

「瞑想に入る前の準備」 【ワーク参加にあたっての推奨事項】          

2019/09/12
今回は、ワーク参加にあたって事前に推奨している事項をシェアします。

あくまでも本格的な瞑想に入る前の基本的な準備ですが、普段の生活で以下のことを
意識するだけでも心身が軽くなって集中力が増したり、先へ進んでいくための直観と智慧
が閃く瞬間が増えてきます。


*************************
【ワーク参加にあたっての推奨事項】


*今の自分にとって不要なモノを捨てる

小さなモノでも大きなモノでも重要度は問いませんが、捨てるときに心身のエネルギーがどう動く
かを観察してみてください。捨てるモノは物質でも情報でも習慣でもかまいません。

また、これだけはどうしても捨てられないと思うモノは何かを見つけて理由を考えてみてください。


*日頃、気になりながら見ないふりをしていたことを片付ける

後回しにしていた誰かへの連絡や、部屋の中で気になっていた箇所の修繕や、
おっくうで手つかずでいた各種手続き関係や、行きたくてもなかなか行けなかった場所や、
親孝行や、その他なんとなく気になって滞っていたことを意識的に片づけたり行為します。


*感情とエネルギーの滞りを紙に書き出す

捨てたり片付けたりするにあたって、もやもやする感情やエネルギーの滞りを感じたら、
それらが何に由来するのかを思いつくままにすべて紙に書き出してみます。

少しでも気にかかることがあれば殴り書きでよいので思いつくまますべて書き出します。
書いたら捨ててかまいません。


*3人の人に心の中で感謝の念を送る

身近な人でも過去に出会った人でも気になった人がいたらその人に感謝の意識を持てるか
どうか見てみてください。難易度は高いですが、気の合わないタイプの知人や過去にトラブル
のあった人に対して感謝の意識を持てるかどうか見てみてください。

無理にする必要はありませんが感謝できないとしたら自分の中で何がどのようにひっかかって
無理だと感じられるのか心身の反応を観察します。


*感謝と慈悲の念を思い出す

自分と世界が存在することに対する感謝と慈悲の念を一日一回、一瞬でいいので思い出す。
ハートの感覚がわかっている方や覚醒の一瞥体験がある方は、いったん動作をストップして立
ち止まり、その感覚に意識を一瞬重ねてくつろぎ、感覚を味わいます。(一瞬でOKです)


*飲食について

ワーク開催日の一週間ぐらい前から飲食にあたって、次のことに注意します。

「これを食べた(飲んだ)後すぐに瞑想したり運動したりできるぐらいの心身の軽さがあるか」
「腸が詰まっていたり重い感じがしないか」
「食べた直後に意識が鈍い感じや停滞する感じに曇らないか」
「眠気を誘発する予感がしないか」
「もっと貪りたいという欲求がないか」
「興奮を誘発する予感がしないか」

等、自分の感覚を基準に飲食の量や種類を意識的に見極めて摂取します。

頭で「腹8分目」「糖質制限」「添加物は悪い」などと考えず、あくまでも
「これを食べたら(飲んだら)意識がクリアでいられるかどうか」
「次の瞬間すぐに瞑想に入れるか」
を基準に自分の心身を観察しながら決めます。

ストイックになる必要はありませんが、その時その時の心身の状態を意識してみてください。


*************************
上記の準備事項を読んで「なんだ、よくあるスピリチュアル系の浄化とか断舎利と同じじゃないか」
と思われるかもしれません。

確かに、手法としてはほぼ同じです。

ただ、目的が違ってきます。


一般的なスピリチュアル系の場合、浄化は「心身のゴミを片付けて空いたスペースにエゴの望むもの
(お金・出世・恋愛・健康・開運など)を呼び寄せよう」という目的がほとんどです。

それに対し、覚醒を目的とする場合、思考をシンプルにし、日常で無駄に使っていたエネルギーを
意識的に排除して覚醒の一点に集中するために行います。

これはあくまでも事前準備で浄化自体が目的というわけではありません。

物質化されたゴミは現象世界のしくみの中で片付けたほうが早いですし、
常日頃から心身をできるだけシンプルな状態にしてエネルギーロスを防ぐことがポイントです。

この「覚醒の一点に集中する」というコミットメントは、私自身の経験から絶大な効果を発揮します。


ただし、コミットメントの際の意識のベクトルを誤ると逆効果になるので注意が必要です。

このことは意識の集中と拡散のしくみの実感によってわかってきます。

「集中しながら手放している」という一見矛盾するような状態ですが、おいおい体験していって
いただければと思います。


*************************
【現象世界におけるエネルギー還元について】


私自身の経験上、覚醒を志向するときにはそれに見合うエネルギーを意識的に現象世界に
還元・循環させることは必須となります。

具体的には、エネルギーの象徴としての金銭や人力等を日常のあらゆる場面でできるかぎり
意識的に提供していくことです。

このときのポイントは「提供してあげている」という立場ではなく、「提供させていただいている」
という感謝の感覚で行うことです。

なぜならそれは、すべて再び自身に戻ってくる還元の流れを意識的に利用させていただいて
いるからです。

覚醒は現象世界のエネルギーを無視しては起こりません。

それは、壮大な時空の流れのなかで今この瞬間、創造の源との表裏一体の協力体制のもと
に起こるのです。

突発的に見える一瞥体験も実は、過去に放ったエネルギーの循環のなかでの結果です。

最初は難しく考える必要はありません。

「自分にとって大切なものを受け取ったとき(受け取りたいとき)には、それに見合うエネルギー
を感謝とともに現象世界へお返しする」と考えてください。

エネルギー還元(循環)が無意識のレベルまで癖づいてくると、瞑想や気づきの深まりとともに
「その先」へ進むためにはどの方向のエネルギーがどのように還元されフィードバックされている
のか具体的な意識の触覚を伴ってわかってきます。


*************************
【感覚を共有するための推奨課題】

できましたら参加前に以下の課題のうちいずれかの遂行を推奨します。
(ワークの説明時に感覚が共有しやすくなります)

ブログにも書いたのですが、覚醒が「ヴィヴィッド」に直接響くための心身の感受性を取り戻す
ことが目的です。

重要なのは個々の体験の表面的な意味ではなく、その基底にある「何がこの一瞬の事象を
響かせ体験しているのか」ということです。

ここが直接的に「カチッ」と核心にはまって、思考から切り離されたすべての事象が「定点のない
響きとして鮮明にある」ことが覚醒のひとつの鍵なのです。

以下の課題は一見、馬鹿馬鹿しく感じるものもあるかもしれませんが、まずは自身の感性の
レベルを知るためにこのような意図的で極端な体験からはじめて、徐々に日常レベルの動作から
更に身体を超えた意識の微細なレベルにまで具体的に還元していきます。


●遊園地のジェットコースターに乗る
(できれば3回)心臓や体の弱い方は不可 高低差のあるジェットコースター推奨

 1回目 何も考えず
 2回目 目をつぶって
 3回目 目をあけて 頂上から落ちるときに胸と丹田を意識してその感覚を加速とともに
     走行中ずっと維持

●バンジージャンプをする(できれば3回)心臓や体の弱い方は不可

 1回目 何も考えず
 2回目 目をつぶって 喉を開放して声が出るのにまかせる 自分ではないものの浮力と力学が
     心身を通り抜けるのを見る
 3回目 目をあけたまま すべてのプロセスを見る

●プール(深いほうがよい)の水底に潜ってしばらくしてから頭頂と尾てい骨を意識しながら垂直
 に水上に一気に飛びあがる 体の弱い方は不可
 頭頂から空間へ放たれる

●海や川や流れるプールで流れにまかせて泳ぐときと流れに逆らって泳ぐときの体感の違いをみる。
 流れに逆らって泳いだ後に再び流れにまかせるときの一瞬の切り替わりの感覚を見る

●VR施設(お台場・渋谷・池袋など)で脳がだまされ身体が連動する感覚を知る

●マラソンでランナーズハイが起こるまで走る

 身体が軽くなったときに走りが勝手に維持されているときの主体と重心がどこにあるかを見る

 マラソン以外の運動でも可

 運動ができない方はひたすら単純作業を続けて(文字を書く 楽器を弾く等でもOK)
 動作が勝手に続くレベルになったときの主体を見る

●家や動物園や水族館などで動物の動きを見る 猫 犬 猿 象 虎 魚など 自分と動物の重心を
 一体化させて見る(感じる)

●寝起きを観察する

 目覚めた瞬間から自分という感覚と身体感覚がもどってくるプロセスを詳細にたどる

 意識が起きたら横になった状態のまま心身を観察する 心身が「自分」という感覚と一致するとき
 のエネルギーのスイッチの切り替えのポイントを見る(具体的にカチっと切り替わるポイントがある
 ので自身で発見してください) そこから身を起こし立ち上がるまでのエネルギーの動きを観察する 
 
 さらにできれば目ざめるときに気づきが起こる最初の瞬間を見る

 自分であるという感覚はどこからはじまっているかを具体的に見る

●湯船に浸かった瞬間を見る

 心地よさを感じる前にあるものを見る 言葉に還元される前にあるもの、そのものにとどまる

●クラブで大音響のスピーカーの前で踊る(カッコ悪くても反復して飛び跳ね続けるほうが効果的) 

 耳で聴くのではなく直接響き、動きの重心と一体化する部分を見つける

●音楽(なんのジャンルでも可)をヘッドフォンやイヤフォンで聴こえるか聴こえないかぐらいの最少
 ボリュームで聴く

 音がどこに触れているのかを微細にたどる

●梅干しを食べる

 梅干しを見た瞬間の反応から、それを口に運び味わい飲み込むまでの心身の
 プロセスを見る
 
 次に同じプロセスを別の食べ物でたどり観察する

●香水の匂い(柑橘系の果物などの匂いでも可)を直接嗅ぐ

 匂いの好き嫌いを感じる前に匂いを感受した瞬間をみる

●包丁の刃に指を近づけた瞬間と綿毛(ふわっとしたもの 柔らかいものなど)に指を近づけ
 た瞬間の心身の感覚をみる

 「ぞくっとした」「ふわっとした」などという言葉に還元される前の瞬間を見る

●カラオケでハラの底から叫び続ける(歌わずに)エネルギーの余剰分を吐き出しきる

●バッティングセンターで、丹田を意識しつつ球が投げられた瞬間から目の前を通りすぎる
 まで、ひたすら見続ける

●月に一回すべてを開放する日をつくる

 やりたいことや気になっていたことを全部やる

 そのときの欲望や衝動のエネルギーの質と動きをみる

 エネルギーのベクトルがとりあえず発生しないところまでやる

 睡眠を心行くまで気のすむまでとる

 3年ぐらいかけるつもりで、もうこれ以上ないというところまでは意識的にエネルギー
 の滞りと衝動を片付けておく

 このときに本来の目的を忘れてエゴを増長させないこと

 (エゴの増長のサイン「しめしめ にやり オラオラ感 いいぞいいぞ ドキドキハラハラ うっとり
 甘美 得してる 優越感 ほくそ笑む」などの反応が出ていないか注意する)

 エゴを排除しようとせずにこれまで二人三脚でやってきたエゴをねぎらいながら円満にフェードアウト
 していってもらう感覚で行う


関連記事 ⇒ 「感覚の共有」 【2/23(日) 大阪ワーク ~ 推奨課題 と 質疑応答 ~」

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