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【ワーク体験談】 ~リアル氏の場合~     

2019/10/29
ほぼ毎回、アシスタントとしてワークに参加してくれているパートナーのリアル氏
(瞑想・覚醒の講座を主催 /⇒ブログ「リアルワールド」 /⇒旧ブログ「リアルワールド」
が前回(10/20開催)のワークの感想を書いてくれました。

ワーク中は出すぎず消えすぎずの絶妙な存在感で、さりげなくエネルギー的に場を
調整してくれているので助かっています。

(たまに予想外のタイミングで突然笑ったり斜め上からの茶々を入れてきたりするので
ハッとすることはあります。この「ズラし」効果も実はメタ的に重要な意味をもちます。)


***************

突然、意識が拡張した。

犬の散歩中のことだった。


毎朝40分ほど犬の散歩をしている。

20分程歩いた後、折り返しで家へ向かう途中のことだった。

自分は犬のリードを持って歩いていると同時に、歩いていなかった。


「何を言っているんだ?」

と思われるかもしれないが、どう説明したらいいのだろう?

「在るけれども無い」

矛盾した言い方ではあるが、あらゆるところに拡張していった。


別の表現をすると、今の体を持った自分や街が全て・・・

「ジオラマ」

のように架空のものと感じられ「私」はそれから超越していた。


「これほどヴィヴィッドに感じるのは久しぶりだな」

と言う想いがよぎる。

30代の時に瞑想中に意識が拡大する体験があり、それ以降は一定の割合でその状態が
続くわけだが、正直、背筋がゾクゾクするほどのその臨場感をいつも感じているわけでは無い。

そのゾクゾクする感覚。

自分が人間とは違うモードになった感覚。


「最近何かあったっけ?」

と考える事1〜2秒。

そうだった。

日曜に開催されたワークで身体と意識の感覚を調整したことを思い出す。

「意識と身体のリセット」

をする作業というかワークをひたすら行う。


通常わたし達は、あまりにも・・・・

「人間というフォーマット」

にハマりすぎているので、意識の自在性というのを感覚として忘れている。

その為、本来は翼があるのに地面を這い回るような日常を送っている。


なんだか、ルーミー風なことを書いてしまったが、とにかく私達は本来もっと自由な存在である。

それが諸々の制約により閉じ込められてしまっているわけだ。

それがワークにより解放されたのだろう。


***************


身内の体験談で手前味噌ながら、ワークの意図が直接体験に繋がると具体的に
どのような感覚が起こるかという事例です。

ワークはとにかく直接的に各自の核心に響かせ転換させることを意図して組み立てて
います。


見たことも聞いたこともないような手法が含まれていて「覚醒となんの関係があるんだろう?」
と、はじめは戸惑う参加者さんもいるとは思いますが、私の中では楽器をあらゆる角度から
細かくチューニングして最終的に「これしかない音」を響かせたい、というような感覚で確信を
もって行っています。

(中には楽器という「素材」として客観的に扱われることに「人間」として違和感を覚える
方もいるとは思いますが、ここはエゴを超えて行っていくしかないところです。)

ワークにあたっては2週間前から私自身のチューニングを段階を踏んで行い、
当日は参加者さんの核の中心に直接触れる感覚で見ていくようにしています。


リアル氏は自身の覚醒体験を「頭が天空になった日」というタイトルで公開していましたが
(今はブログでは非公開のようです)、私からみてもその体験は徹底していて、大げさで
なくちょっと他には類を見ないものです。

そのような意識状態を知っているリアル氏からワークの効果のお墨付きをもらったことは
心強く思います。


もともと私のワークの目的としては、突発的な一瞥体験だけでは定着しない認識の転換の
確定と、その後に展開してくる直観と智慧によるこの世界の理解ということでした。

このときにどうしても必要になってくるのが、心地よい「あるがまま」や離れがたい「至福」
をいったん置いておき、意識的に再調整に取り組むということです。

ここは本当に意識的に行うしかありません。


また、一瞥体験などがなかったとしても、まっさらな意識で概念を組み替える「勇気」の
ある方であれば、核心に直接響くことが起こり得ます。

響く場は雲のあいだの隙間にあります。

求めている本人は隙間自体に気づいていません。

ワークでは、そのポイントに語りかけ、直接的に狙い撃ちます。


ちなみに先日、リアル氏に「ちょっとブログでワークのネタバレしすぎじゃない?」と
指摘されたのですが、私としてはできるかぎり具体的に包み隠さず公開していきたい
という思いがあります。

ほとんどすべて書いてはいますが、それでも実際に体験しないと意味のないものであり、
その時その場でしかないタイミングや調整といったものが胆になります。

また、「隙間」に触れるぞっとするような神秘性は、概念としての知識だけでは決して
得られないものです。

そのためにも、もし何か心に触れるものがあれば直接足を運んでいただければと思います。

***************

iphone5 016
リアル氏の相棒:ライト君と野山の散歩道



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11/9(土)18:30~21:30  「東京ワーク開催日時が決定しました」     

2019/10/25
*****  Rubin’s work  東京ワーク開催日時のお知らせです。


11/9(土) 18:30~21:30
募集締め切りました。次回は12/7(土)頃の開催予定です。


場所は東京都中央区、参加条件等の詳細はメルマガにてご連絡しております。


◆今回は「相対性のあいだを泳ぐ」「リアリティとはなにか」「別次元に寝落ちする」
「私が立ち顕れるプロセス」「気づきの自動化へのステップ」「主観的な痛みと客観的な痛み」
をテーマにワークを行う予定です。

(内容はその時々のメンバーによって変わる可能性があります)


◆直近に開催したワークの様子

⇒ 【10/20(日) 東京ワーク】 ~所感と解説 その1~

⇒ 【10/20(日) 東京ワーク】 ~所感と解説 その2~

⇒ 【9/22(日) 東京ワーク】 ~所感と解説~


※参加ご希望の方は、拙著「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」をお読みのうえ、
まずは以下のフォームからメルマガのご登録をお願いします。

⇒ メルマガ登録はこちらから

追って参加条件等の詳細をご連絡いたします。


※参加者一人一人の身体とエネルギーを見ていくため少人数性となっております。
参加希望の方が多い場合は先着順とさせていただく場合がありますことをご了承願います。



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【10/20(日)東京ワーク】 ~所感と解説 その2~     

2019/10/24

~所感と解説 その1~ からの続きです。


*******************

⑥内部の目の開発と認識のシフトの関係

前回に引き続き、肉体の目と内部の目の見え方の違いと使い方について
以下の順番でワークしました。

1.肉体の目で(空間の)一点を見る
2.肉体の目で(空間)全体を見る
3.内部の目で一点を見る
4.内部の目で全体を見る
5.肉体の目で全体と一点を同時に見る
6.内部の目で全体と一点を同時に見る

通常、肉体の目の意識で見ているときは一点か全体どちらかにフォーカスされていて
全体を見ながら一点を同時に見ることができません。

同時に無理やり見ようとすると視界全体がぼやけるか、双方のフォーカスが定まらない
まま眼球が動いてしまいます。

それに対して内部の目(目の奥4~5センチのポイントに意識を置き、肉体の目は
その場に置いたまま、映っているものを眺めている感覚)で見るときには、全体を
映しつつ、全体の中の一点も同時に映っている状態が起こります。

内部の目で見ているときには身体内部が内側から立体的に広がる感覚が起こります。

この視点のシフトは認識の変化と観測者の定点の変化を具体的にもたらします。


ワーク中に参加者さんが「内部の目で一点と全体を同時に見ているときには、一点は
全体の中にあるけれども、それ自体を対象として『つかめない』感覚です」
とおっしゃっていましたが、まさにそこがポイントで、全体の中のどの一点も
明確に映っていながら「自対他」という関係性は力学的に発生していないのです。

それはすなわち、どの一点も全体と同時にあってすべてが同等に存在するという
状態です。

この視点が瞑想においてニュートラルな見方の基本となり、気づきの精度があがる
ポイントとなります。


気づきは「見ること」と無意識に連動していて、ここが意識化されていないと、
瞑想中に何かに気づくときには肉体の目が連動して動いてしまいます。

そうすると、目の動きとともに気づきの対象に「自分」が移動してしまうのです。

それに対し、内部の目は気づきの対象に連動することなく不動で映しているだけです。
(この目は不動であっても定点としての主体感覚は伴いません。なぜなら、それはただ
鏡のように映しているものだからです。)

この目=気づきのセンターが確立されると、不動で映している中でちらちらとそこから
ズレて動き出そうとする様々な現象が即座にとらえられるようになります。



⑦「意識の動体視力」内部の目で見切る感覚

前回に引き続き、まず肉体の目の動体視力のトレーニング(指の動きを眼球で追う等)
を行った後、次に眼球を動かさず内部の目の意識だけで対象の動きをとらえていく
ワークを行いました。

例えば、視界の中に指が入ってきたとき、眼球を動かして見るのではなく、意識だけで
その瞬間をとらえます。

このとき、視覚としては指は視界の中に映り込んでくるだけですが、内部の目が発動して
身体内部が立体的に広がっている感覚が発生していれば、しばしば視覚とともに
「むこうから触れてくるような」触覚が同時に発生することがあります。


この、視覚と触覚の混在したある種の共感覚のようなものは、ワンネスにおける二次的な
感覚として発生してくることがありますが(すべてのものがひとつの中にあって同時に
触れているといった感覚)、日常においても比較的しばしば起こっている感覚です。

例えば、綿を見た時にふわふわした感触が想起されたり、金属を見たときに冷たく
硬い感覚が想起されたりするときに同じような感覚が働いています。

⑥にもあげたように、内部の目の意識で起こってくる事象の動きに気づくときには
見るというよりは動きのベクトルが発生する瞬間に「触れる」感覚のほうが近い
かもしれません。


内部の目の意識の動体視力が鍛えられてくると、不動に映っている中からズレて顕れて
くる動きをより微細なレベルで見切ることができるようになります。

このズレは、ある事象が意識に顕れたときにそれを「つかもう」とする引力=カルマ
のパターンによって生じます。

肉体の目で見ているときには、引力の瞬間をとらえることができず、現象として展開
してしまった段階でしか気づくことができません。


意識の動体視力のワークをふまえたうえで、これも前回同様、紙に描かれた黒い点に
集中していただき、集中からズレる瞬間を内部の目で見切るワークを行いました。
(黒点の一点を⑥のように内部の目で見ることに集中する)

気づきにおいてどの感覚が優位かによって、集中がズレる瞬間に顕れるものは異なって
きますが、ある参加者さん(前回は不参加)は「黒点からズレる瞬間、視点がちらちら
動いたり突然がくんと大きく動いたり、その間に意識の空白の瞬間があったりしました」
とレポートされました。

前回、黒点に集中するワークと「サッカード」という眼球運動の特性の関係を説明しま
したが、サッカード運動はまさに上記のような変則的な動きを繰り返すものであり、
「視点のズレと移動」に特化した観察においては非常に正確なレポートなので感心
しました。

このレベルで観察できるようになると、瞑想で起こってくる様々な事象を見切る精度が
どんどん加速化していきます。



⑧思考の発生現場を見る / 「私」が思考することは可能か?

⑦のワークをふまえ、集中からズレたとき顕れる思考がどこからどのように発生
しているのかを見るワークを行いました。

とかく瞑想において思考というと「切り捨てるべき悪者」ととらえられがちですが、
思考の機能や思考の発生そのものが悪いわけではありません。

問題なのは、思考の種が発生した次の瞬間にパターン化された個人的嗜好に惰性的に
気絶することです。

この惰性と気絶がその人の世界を展開し存続させていきます。

(嗜好を一般化し分類したものが煩悩と呼ばれるものです。思考の種の発生はカルマ
によって自動的に起こります。この種自体を意図的に止めようとすると抑圧が起こる
ため、私は思考の種の発生の段階は流しっぱなしにする方法をとっています。ただし、
現象世界で対処できるパターンについては出来うるかぎりの対処をするべきです。)


今回は思考を受動的に見るのではなく逆に、あえて自ら能動的に思考しつづけてみる、
といった一風変わった方法を実験的に試みました。

方法はシンプルで、ひたすら「私」自身が思考を能動的に起こし、途切れることなく
思考していきます。

すると、瞑想中にあれほど思考にとらわれ、ふりまわされ「止めたい」と思っていた
にも関わらず、逆に思考しつづけようとすると今度はそれが続かず、空白の瞬間が
生まれているのに気づきます。

しかも何もないところから思考を自ら発生させようとしても発生の瞬間自体はどうや
っても自分で生み出すことができないことに気づきます。
(発生は常に直前の何らかの因子によって自動的に誘発され、その瞬間は空白にな
っています)

そして、「私」が能動的に思考しようと四苦八苦している間にも、その状態に対して
「よくわからないなあ」「何か考え出さなくちゃ」「何の意味があるんだろう」等々、
「私」が能動的に発生させたのではない思考が自動的に発生してきます。


思考や妄想が次から次へと連鎖してとまらない状態があったとしても、それは
「私」が能動的に発生させ持続させているのではなく、思考の種が何かの因子に
触れて自動的に発生し、嗜好パターンが自動的にそれをつかんで持続させて
いるだけです。

すなわちある意味、今この瞬間の「私」なるものは、思考の発生から持続の一連
の流れになんら能動的に参加していないということになります。

このとき思考は「私」のものといえるでしょうか?

この参加していない「私」とはいったい何者でありどこにいるのでしょうか?



⑨「自分」とはなにか(自己同一感覚を成り立たせているもの)

次に⑧の実験をふまえたうえで
「今まさに自分が自分であるという感覚はどこにあるのか?」
という自己同一感覚の源を探っていきました。


まず参加者さんに唐突に「今、自分はどこにいますか?」と尋ねました。

すると一瞬きょとんとした顔をされたので、もう一度言葉を変えて
「今この瞬間、自分が自分であるという感覚は何によるものですか?」
と尋ねました。

すると一瞬の間があったのち、ある方は「怖れです」と答え、ある方は
「ハートの辺りの感覚です」と答えました。

各自の優位な感覚によって当然その瞬間の答えには違いがでてきますし、
絶対的な正解があるものでもありません。

そのときその人がそう感じてそのように答えた、という事実があるだけです。


とはいえ、個人的な感触としてはそれらの答えに「気づきの遅れと分別の
発生」を見てとり、ちょっと肩すかしをくらったような違和感を感じました。

というのも、まさに今この瞬間といったときに、真にとっさにそれを顕そうとすると
禅問答ではありませんが、ドンっと足を踏み鳴らしたり、ふっと息を吐いたり
輪郭の一部をなでたり、床をさわったり、対面している私に向かって指さしたり、
「あっ」と一言発したり、「い~!」と歯ぎしりしたり、といったことしか
できないと思うのです。
(ちなみに、なるほどそういう類の答えを求められているのか、といって真似
をするのはもっとも真実から遠いことです。)

もちろん、それぞれが答えに至る前には何らかの感覚が起こっていたはずなの
ですが、それらを統合して言葉にするときに、瞬間にあったはずの「生々しい」
何かが抜け落ち、行儀のよい分別だけが提示されている感じがあります。

そこにはすでに「私」の怖れ、「私」のハート、といった「私」がはじまって
しまっているのです。

それは「持続してしまった時間に顕れた私」のアイデンティティです。


もし本当に愚直に顕されたとしたらそれは「きょとんとした瞬間が私でした」
という答えでもよかったのかもしれないのです。

私自身は体感感覚が優位な性質で感覚を形に表現してきた経験とある種の図太さ?
があるため、瞬間的に上記のような反応を起こすかもしれませんが、心理面にせ
よ何にせよどのような感覚が優位であれ、やはり瞬間的には分別が働く余裕はな
いはずですし、この瞬間には常に言葉によっても思考によっても総括できない断片
しかないはずです。


逆にいえば、この「断片」を編集・総括してとらえられたものが「私」という
感覚だということになります。

それでは、この「私」という感覚を編集・総括するプロセスはどのように
起こるのでしょうか?

このプロセスは、自我や脳の進化とも深く関わっています。

これに関しては次回、もう少し具体的なワークを通して見ていきたいと思います。



⑩意図と自己と行為 / 脳内シミュレーションに気づく

不完全とはいえ、⑨で「私」という感覚が意識化されたうえで、
またしても唐突に「あの壁を触ってきてください」と指示しました。

すると参加者さんたちは素直に壁に向かってまっすぐ歩いていって壁に触りました。

そこで「今、移動のあいだに何に気づいていましたか?」と尋ねました。

するとまたしても一瞬きょとんとしながら「目的にむかって何も考えていません
でした」と答えました。

そこではじめて「あっ、今まさに気絶していたんだ!」ということに
気づかれました。


次に、片手をあげて壁に沿わせ、右足を壁につけたまま壁についていないほうの左足
を動かして、先ほどのように向こうの壁まで歩いて触ってきてください、と指示しました。

すると身体構造上の理由から、壁に足をつけていると重心が移動させられず、歩こうとしても
足があがらず歩き出せないという事態が起こりました。

このとき、意識では「壁を触りに行こう」という意図が発動し重心が動き出そうとしている
にも関わらず、行為としての歩行の一歩が踏み出せない、といった「意図と行為の分離」
の感覚が起こります。


通常、行為が目的どおりにスムーズに達成されるときは、目的へ向うまでのプロセス
(目的の発令⇒意図の発動~意図とエネルギーと重心の統合~重心移動と運動の発動
⇒目的の達成)はほとんど無意識のうちに行われます。

このプロセスにおいて、これもまた無意識のうちに「行為している自己感覚の発生」と
「目的が達成されるまでの脳内シミュレーション」が同時に進行しています。


それが今回のように行為が不意に阻まれたときには、プロセスの統合が起こらずそれぞれ
の機能が一瞬、慣性で動き続けようとしながら行き場を失いバラバラに宙に浮いたような
違和感を覚えます。

スムーズに目的が達成されていたときの無意識=気絶の間に起こっていたプロセスが、
このときはじめて強制的ながらも意識化されたのです。


このワークは無意識のプロセスを意識化することが目的なので極端な方法をとって
いますが、常に行為を分断して気づかなくてはいけないということではありません。

大切なのは、目的⇔行為の間に気絶することの繰り返しの日常に気づき、惰性的な
世界の展開の構造を見抜くことです。

そして、目的と意図と行為の発動と結びついて出現してくる自己感覚の「手触り」
の萌芽に気づくことです。

この気づきは具体的に瞑想の次の段階に関わってくる重要なポイントなので、
引き続きワークに取り入れていきます。


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【10/20(日)東京ワーク】 ~所感と解説 その1~     

2019/10/24

10/20(日)東京にてワークを開催しました。
(先週は台風19号が関東を直撃したため開催日が変更になりました。)


【今回の主なメニュー】

①脳を活性化する準備運動(後ろ歩きetc.)
②体軸と回転 / 時空の発生しない在り方とは
③姿勢の調整(脱力と起立の両立)
④対象のない祈りから意図のない座禅へ
⑤瞬間に目覚めているための「どこにも居座らない座法」
⑥内部の目の開発と認識のシフトの関係
⑦「意識の動体視力」内部の目で見切る感覚
⑧思考の発生現場を見る / 「私」が思考することは可能か?
⑨「自分」とはなにか(自己同一感覚を成り立たせているもの)
⑩意図と自己と行為 / 脳内シミュレーションに気づく



*******************

【所感と解説】

前回に引き続き、具体的に瞑想に入っていくための基礎と、その先の微細な領域に入って
いくためのポイントを身体と意識の両面からワークしていきました。

基礎とはいうものの、ひとつひとつのワークが高度かつ微細な領域に直接つながってくる
ものになります。

ワークそのものはシンプルですが、その場その場で起こってくる感覚や事象を正確に嘘偽りなく
見ていく集中力と受容性を要するため、必然的に各自の目的とモチベーションが問われてくる
ことにもなります。

その点で今回の参加者さん達は、ご自身がとらえたその場その場の生(なま)の感覚を
率直にレポートしてくださったので、具体的なフィードバックにつながっていきました。



①脳を活性化する準備運動(後ろ歩きetc.)

毎回、準備運動として足裏~膝の屈伸~尾てい骨~仙骨~腰椎~胸椎~頸椎~頭頂のラインの
意識を高める簡単な動きを数パターン行った後、脳を活性化するための指の運動や動作などを
行うのですが、その一環として「後ろ歩き」を取り入れました。

「後ろ歩き」は脳を活性化し短期記憶力を即効的に高めるという研究結果がありますが、それ
に加えてワークの目的としては「身体の前面だけに意識が偏っている」状態を組み替えるとい
う意図があります。


目が前面に並んであり背面を見ることができないという人間の身体構造は、認識の在り方を
「自対他」という二元の感覚に限定している最大の要因ともいえます。

この構造のために人間は、対象物や目的に向かうときには意識が前方へ集中し、それに向かって
前へ「進もう」とします。

前へ「進もう」とする感覚は、人間の直列的な時間感覚にも密接に関わっています。

「前への意識」は無意識のうちに意図と生体エネルギーと結びついて「未来への推進力」となって
人間を運んでいきます。

この無意識の感覚にまず気づくことが3次元的な時空の固定概念を組み替える一歩となります。


後ろ向きに歩くことに慣れていないと、はじめはおっかなびっくりそろそろと歩くことになりますが、
前へすたすた歩く感覚と後ろ歩きの感覚のギャップが次第になくなってくると、意識の中心が
明らかにシフトする瞬間が見つかります。

このときポイントとなるのが、先の足裏~膝の屈伸~尾てい骨~仙骨~腰椎~胸椎~頸椎~頭頂
のラインを意識しながら歩くことです。

この軸があったうえで、前後どちらにでも同じようにすたすた歩けるようになると前方に偏って
いた意識の中心がニュートラルな位置に自然とシフトします。
(この中心は通常、自分が思っているよりも少し後ろにあります)


後ろ歩き自体は単純なワークですが、注意深く観察しながら歩くと様々な発見があります。

例えば前方への意識だけで普段歩くときに使っている筋肉と後ろ歩きで使う筋肉が異なっている
ことに気づくとき、筋肉の固定化されたパターンがいかに個人の意識を限定しているかということ
がわかります。

また、見えない方向へ歩いてみたときに普段の行為がいかに肉体の目で「見る」ことの比重が
大きかったかに気づき、「見えている」ことに安心しきって動きが惰性となり意識が気絶していた
ことに気づきます。


前面の視界に入っている範囲だけを見て進むとき、私たちの意識は3次元というよりも2次元の
感覚に近くなっています。

以前も書きましたが、3次元的な固定概念を崩そうとする前に、まずはこの直線的に前の対象に
向かう意識に気づき、360°立体的な意識を獲得することが必要になってきます。


人間の、未来という「前」へ進んでいこうとする意志と推進力は、地球上の生物の進化の歴史
とともに必然的に定まってきたものです。

人間の目が前方についているというのも直立姿勢への進化に伴う必然であり、進化に伴い自我
の発生と3次元感覚も必然として起こりました。


しかし、実は未だに完全な直立と360°立体運動の感覚が獲得されているとはいえません。

この感覚が確立されたときはじめて3次元とは何かということがわかります。

そして次に、前方向への対象物を目指す推進力が、上方向への推進力へとシフトすること
になります。
(上方向というのは便宜上、3次元の身体を基にした座標で表現されたものです)

今この次元というものは、ひとつ上の次元からしか全体を俯瞰して見ることはできません。



②体軸と回転 / 時空の発生しない在り方とは

①で感じ取った軸の意識を持ったまま、今度は軸を中心に回転してみます。

自己感覚と身体が同一化されているとき、身体=私は体積として空間の部分を占め、
回転は身体の面の移動の軌跡を生みだします。

しかし、軸そのものは体積を持たず、それ自体が回転によって軌跡を生みだす
ことはありません。
(軸自体は回転しません)

軌跡を描かず空間を生み出さないものは直線的な時間の一部として「観測」されません。

また、身体における軸には上下はありますが、軸そのものには前後左右の区別はありません。


スーフィーのセマー(回旋舞踊)は軸を中心に回転し続け神と一体化するというもの
ですが、このとき起こる恍惚状態は人間の意識に起こる二次的なものであり、軸そのもの
が私が消える構造的な鍵となっています。

ただし「軸=無我」「軸=空」などと短絡的に結びつけることは逆に身体や物質という
概念に捉われていることになります。

軸という概念自体が対象物ありきのものだからです。


とはいえ3次元の私たちは対象物なしに何かを認識することはできません。

座禅は身体をもって意識的に軸をつくり、軸自体に成りきって軸を忘れます。

このときはじめて、軸からズレる微細な動きと事象を発生させる引力の働きを見切る
ことができるようになります。



③姿勢の調整(脱力と起立の両立)

基本的な座禅の型と、型にともなう意識がどのようなものかを体感するワークです。

準備段階として、

壁に手をついて立つ~かかとを上げる~顔を上にあげる~かかとを降ろす~
頭頂を意識しながら顔を正面にもどす~

という一連の動作を繰り返して軸の感覚をつくったうえで、次に身体のパーツを
分解してひとつひとつ脱力させていきながら最終的に床に寝転ぶ状態になります。


脱力して寝ている状態から今度は逆に、

尾てい骨~仙骨~腰椎~胸椎~頸椎~頭頂

の順番に意識しながら背骨を立てていき、最終的に座禅の形で座ります。


このときのポイントは、型は身体の骨格と軸によって保たれているけれども
「型によって座らされてしまっている私」自身は脱力している状態にあるということです。

「私」が座ろうとすると力んで意図が抜けないため、型の担当は身体にお任せ
しておきます。
(ただし、丹田だけは意識的に気が抜け落ちないようにします。ここが抜けて
いると座り続ける気力につながりません)

そうすると「私」と「型」が分離したままになってしまうと思うかもしれませんが、
脱力と型のそれぞれがカチっとはまると両方がすとんと一致して意識から抜け落ち
ます。


座禅においては常に受動と能動のバランスがポイントになってきます。

このバランスがとれたときに次の段階の「自動化」の状態が起こります。



④対象のない祈りから意図のない座禅へ

「対象のない祈り」については基礎として毎回とりいれていますが、
祈りの本質がカチっとはまると、③の脱力の感覚がさらに微細な領域で起こり、
心身の芯から微粒子が分解されていくような軽さと安堵が感じられるようになります。

対象がないというと抽象的で感覚的に捉えづらいとは思いますが、いってみればそれは
自己受容とあるがままの究極の状態のようなものです。


先ほどのセマーに例えるなら、神と私が一体化している状態、畏れ多くも神であり私である
ことがあるがままに「許されている」状態ということです。

この状態は受動と能動の究極的な「あいだ」ということにもなります。

受動と能動が一体化しているとき、意図のベクトルは働いておらず、起こることはただ
その瞬間に「突如として(!)」起こっています。

これが意図のない座禅です。



⑤瞬間に目覚めているための「どこにも居座らない座法」

瞑想していると、いつの間にか思考にはまっていたり居眠りしていたりすることが
あります。

また、自分ではうまく集中していると思いこんでいても特定のイメージにはまって
見続けているだけだったり、間延びした感覚に気絶しているだけだったりします。
(「呼吸が止まって無想無念になっていた」「光に包まれて恍惚としていた」等の
状態は注意が必要です)

さらに、無意識のうちに瞑想するにあたっての態度や心構えが固定化(「前回これで
うまくいったから今回もこうしよう」「この感覚にあるときは瞑想がうまくいくときだ」
「この状態にあれば楽に座れる」「この状態にあるときに安定していられる」等)
され、その態度に「居座っている」状態も往々にして起こりがちです。

「居座っている」状態は「私」という存在感覚が固定化された状態であり、惰性で
パターンにはまっている状態です。
(武道では「居付く」というもう少し身体よりの言葉がありますが、「居座る」は
さらに「全存在」をまるごと含む感覚です)

このパターンはカルマの引き合いによって起こっているものであり、瞑想が進む
か進まないかはここに気づけるかどうかにかかっています。


この状態に陥らないためには注意深く瞬間瞬間に気づいて、あらゆる態度を固定化せず
ひとつの状態に怠惰に居座らず、常に一回一回新鮮な状態であることが重要ですが、
態度以前に基本的な座法の型の問題があります。

例えば、骨盤が後ろに傾いて仙骨が斜め後ろに抜けた状態で腸が重く下に落ちている
状態だと一見、楽に落ち着いて座れているようでも、疲れたときに溜息をついて
どさっと座りこんで動けないような状態に近いのです。

逆に「気合いを入れて座禅するぞ」という意気込みで意図的に腹部を押し上げてへこませ、
骨盤を前に傾けすぎて鳩尾が上がってしまっている場合もあります。

ここまで極端でなくても、微妙な骨盤の傾きや肋骨や頸椎の状態の違いに各自の意志
と態度のパターンが如実に顕れています。


本来は瞑想を続けていく過程で型と意識との関係を自分自身で見抜いて修正していければ
よいのですが、気づくまでに非常に時間がかかりそのまま一生を終えてしまうことに
なります。

そのため、ワークではこの姿勢の調整を重視し毎回行っています。

今回は特に、坐骨の接地面のバランスを調整しました。


具体的にはまず、座禅の姿勢から居合のようにすぐに腰を浮かせることができるかどうかを
チェックし(坐骨が傾き腸が重く落ちていると持ち上がりません)さらに2つの坐骨が
垂直に点で接地する位置に骨盤の角度を調整しました。

坐骨を点ではなく面の意識で接地させてしまうと骨盤の傾きが生じ、パターン化された
「居座り」にはまり込みます。

この座り方に慣れていないと最初はどっしりと腰をすえて座っている感覚がなくなった
ように感じたり、骨盤部を引き上げ続けるための筋力のこわばりをしんどいと感じたり
すると思いますが、心身ともに「居座らない」ということは瞑想が自動化されるまでは
ある種の緊張感を伴うものでもあります。

ここが勘違いしやすいところなのですが、「あるがまま」「意図しない」という言葉を
文字通りとらえてパターン化された楽な姿勢を固定してしまうと、皮肉なことに
まさに正確に今のレベルの「あるがまま」の意識状態を保つことになります。


瞑想において「いかなる状態にも居座らない」ということは非常に重要です。

瞑想は瞬間瞬間に生まれては消えていくものであり、世界を展開させる引力を
瞬間瞬間に見切っていくものだからです。

それは何処にもつかまる物のない所で、どちらに転ぶかわからないバランスの
あいだに気づいていることです。



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~所感と解説 その2~ へ続きます。



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