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【2/23(日) 大阪ワーク】 ~ 推奨課題 と 質疑応答 ~      

2020/02/28

2/23(日)大阪にてワークを開催しました。


【今回の主なメニュー】

・姿勢と軸~エネルギーの調整
・丹田呼吸と肉体と意識の境界
・対象のない祈り
・受動と能動のあいだ


********************

今回は初参加の方がいらっしゃったこともあり基礎を中心に
時間をかけてワークを行いました。
(基礎の内容については、前回までのワークの所感と解説を
参照してください)


毎回、参加にあたっての事前準備として推奨事項をお送りして
いるのですが(⇒【ワーク参加にあたっての推奨事項】の記事
参加者さんより、取り組んでくださった感想と質問をいただきました
のでワークの所感と解説を交えた質疑応答をシェアしたいと思います。
(一部、修正・加筆しています)



***** 質疑応答 ~はじめに~ *****

〇〇様へ

なにはともあれ、課題に取り組んでくださる〇〇様の姿勢は
素晴らしいと感じました。

頭で考えるとかなり意味不明な課題もあったかと思いますが、
まっさらな精神でひとまず課題を受け入れ、まずは実直に
実践してみようという姿勢は覚醒に求められる大きな資質
のひとつといえます。


ワークでは便宜上、姿勢その他について私の感覚に基づいて
ニュートラルなポジションに近づけようと修正したりしましたが、
〇〇様の場合「正しさ」にこだわるよりは、本来持っている資質を
純化し研ぎ澄ませていくことによって、しかるべきタイミングに
カチっと何かが目覚めることになると思います。


資質というのは子供のような純粋な受容性と感受性です。

この受容性をもってワークで行ったように(座布団を抱えたときのように)
日常に顕われているすべてのものをありのままに感じきることです。


このとき、能動的な意図(「目の前のものを感じ取ろう」
「現象を受け入れよう」「世界を愛そう」といった意図)は一切不要です。

ただ、何も考えずにすべてのものを自身の鏡に映してあることが
究極的な愛です。

自身が無心の鏡であることが即、世界の存在を成り立たせているからです。


そのためのアドバイスとしては、五感に触れる現象を概念的な理解や
イメージに還元しないことです。

野球の球が丹田に触れていくような感覚を経験したということですが、
もうひとつ深いところ(意識と肉体の境界を超えたところ)ですべての
現象に直接触れ、自分自身として響くことです。

この「自分自身」が落ちたときに現象=私となって、ただそれだけに
なります。


自分自身は能動的に落とすことはできません。

ただ無心にこの世界を映して感じ取ろうという純粋な姿勢に徹するとき
にそれは勝手に起こります。

そのためにワークで行った「対象のない祈り」は助けになると思います。


対象のない祈りに自身が消えているとき、そこにはこの世界の道理が
直接顕われています。

擬人化した表現をすれば、世界の道理を手放しで受け入れたときに、
ありのままに存在することを許された世界は、自身の核芯と融合して
「微笑む」のです。



***** 推奨事項に対する質疑応答 *****

⇒【ワーク参加にあたっての推奨事項】の記事はこちら


●今の自分にとって不要なモノを捨てる。

→ 承認欲求に焦点を当ててみました。
 しかしながら、エゴさんが、会社などで会話中むくむくと
 入道雲のように、出て来て、発言しようとして、その内容が、
 明らかに「認めてーーー!!」となっているのが、わかるのですが、 
 止めれるのは、3回に1回ぐらいです。



課題としては単純に物質という意味で「モノ」と書いたのですが、
承認欲求のような「こだわり」のようなモノの場合は「捨てる」のでは
なく、そのような欲求があることをただ「認める」ことがポイント
になります。

ワークやブログでも書いたのですが思考や性質や感情は止めようとする
とエゴの反発が起こり欲求不満が残ります。

逆に、それらの反応パターンを抑圧せずに「ああ、自分はこういう性質なん
だな」ということをただ気づいて認めることでエネルギーは収まるべきところ
に収まってそれ以上の反応の連鎖は起こりません。


エゴの反応というのは壮大な時空の連なりとの関連によってその一瞬に
起こっています。

その反応はその時、必然があって起こったのです。

それは全宇宙レベルのジグソーパズルのように必然で組み合わさった結果
でありどんなに些細な反応ですら自分ひとりのものではありません。


必然で起こるべきエネルギーを「この自分」が抑圧すれば、抑圧が蓄積して
「この自分」の未来の反応パターンへとつながります。

それに対して、そのとき起こったエネルギーの必然にただ気づいてその場で
反応の連鎖が終われば、そのとき発散されたエネルギー分だけ「この自分」
が請け負うべき反応パターンが浄化されます。


この「浄化」が起こるときには、気づきの一瞬の空白とともに「すっ」と
自身の中心の固まりが抜けて軽くなる感覚があります。

このとき、なぜ今そのパターンが発動したのかに対する直観的な理解を
伴います。

これは頭で理解するものではなく、体感レベルで腑に落ちるものです。

エゴの反応に対処する場合はまず、基本姿勢としてこの全体性の理解が必要
となります。

(ちなみにもともとの課題の趣旨の、物質として目に見えるモノを捨てる
ことは、物質と同化した自身のこだわりを目に見える象徴的な形でいったん
片付け、片付けきれなかったモノから今まで気づかなかった執着やエネルギー
に気づこうという意図で行います。)



●捨てるときに心身のエネルギーがどう動くかを観察してみてください。

→ エネルギーの変化はあまり感じませんね。


これは、上記のように物質ではなく承認欲求を「止めよう」とした
ためです。

止めようとすればエゴの反発から欲求不満が生まれ、よりいっそう反応パターン
を強化してしまいエネルギーは滞る感覚になります。



●これだけはどうしても捨てられないと思うモノは何かを見つけて理由を
考えてみてください。


→ 飲酒と喫煙。理由は特に思い浮かばないのですが、習慣、癖でしょうか。
 飲酒は、寝付きやすいと言う理由があります。



飲酒と喫煙も承認欲求と同じで、それらを志向する心身の性質を抑圧
して無理やり止めようとするとストレスが生まれます。

飲酒や喫煙は、人間の基本的な身体の維持にとっては必要のないもの
ですが、だからといって絶対にしてはいけないというものでもありません。
(絶対に~ねばならない、という思考は常に抑圧とパターンの連鎖を
生みます)


覚醒という意味においては、飲酒や喫煙はその人にとっての必然としてその
瞬間に起こっているのであり、それは全体のバランスとして必要だったために
起こったことです。

まず、この基本の道理を受け入れたうえで、「この私は飲酒や喫煙を欲している」
という状態を認めることです。


このようにいうと「いや、そんなの言われなくても当たり前じゃないか、
だって自分が認めてるから飲酒や喫煙を自らの意思で好きでしているんだし」
と思われると思いますが、よくよく見てみると、飲酒や喫煙をしながら
うっすらとどこかで「飲酒や喫煙はよくないものだ」というネガティブな感覚が
常に潜在意識の底に刷り込まれていて(世論によって刷り込まれていたり健康へ
のうっすらとした本能的な恐れなどから刷り込まれたもの)、このうっすらとした
常に根底にある恐れのようなものが先に述べた「現象を手放しで100%認める」
という状態を阻んでいるのです。

すなわち、飲酒や喫煙という現象をその瞬間、100%味わいきっていないのです。


特に、習慣や癖、あるいは眠るためといった他の目的によるものであればな
おさら飲酒や喫煙は単なる惰性の行為となってしまいます。

惰性で行為が行われるとき、そこには常にエネルギーの消化不良が生まれ、
消化できなかったエネルギーの繰り越しが、それらの行為に対するさらなる
執着を生みます。


覚醒という意味においては、飲酒や喫煙の相対的な善悪の判断ではなく、
常に「そのときその行為を100%それ自体として味わいそれ自体として成立
させていたか」ということがポイントになります。

(個人的には飲酒や喫煙を肯定も否定もしませんが、エネルギーや人間の
身体構造の観点からみたときには、それらは肉体側に作用するために
意識レベルは粗いところにとどまります。
しかし、もし覚醒の本質を体得しているのならば、粗いレベルには粗いレベル
における完璧な覚醒があって、それ自体は何ら優劣のないものということを
知ります。
ただし、その本質を体得していなければ、粗いレベルの現象面に意識は
巻き込まれ気絶します。
その意味においては飲酒や喫煙、あるいは薬物といったものは扱いが
難しいものです。)



●日頃、気になりながら見ないふりをしていたことを片付ける。

→ 結構、9割ぐらいは、その場で片づけるので、習慣になっていますが、
 残り1割は、理由をつけて、手を付けず放置する事があります。
 原因は、取り掛かる前にエゴさんが理由付けをしっかりして、
 後回しにします。



気になることや片付けるべきことを見て見ぬふりをして放置していると
想像以上に重く意識を引っ張るエネルギーとなり瞑想にも多大な影響がある
ものですが、〇〇様の場合はこの辺りはそれほど問題はないようですね。

実務能力に長けている方は後回しにする癖がなく身辺がすっきりしている
ことが多いですが、このあたりも瞑想の資質としては優れているといえます。

残り1割すぐに片付けられなかったとしても、理由と原因が分析できていて
いつでも片付けられるというエネルギーの体感があるのならばそれほど問題には
なりません。



●捨てたり片付けたりするにあたって、もやもやする感情やエネルギーの
滞りを感じたら、それらが何に由来するのかを思いつくままにすべて紙に
書き出してみます。


→ もやもやする感情や、エネルギーの滞りは、あまり感じませんでした。


現時点で特に滞りを感じなければ問題ありません。

ただ、意識の微細な領域に入っていくときには自分でも気づかなかった
エネルギーの滞りを発見することがあります。

滞りがネガティブな思考や感情に由来するものではなくても、癖付けされた
思考のパターン(微細なレベルにおいてはそれは意味になりきる前の感触や
イメージとして顕われます)を発見したらそのたびに前述のようにただそのこと
に気づき、気づいた瞬間に浄化が起こるかどうかを観察します。


もし、しつこく同じパターンの癖が顕われれば、そこに自分でも気づか
なかった何等かの現象面での原因があることがあるので日常のなかで自身
の反応パターンを観察・検証していきます。


そうするうちにあるとき、文字通りピカっと直観的な閃きとともに原因が
発見され浄化されます。

この直観知とでもいうべき閃きと思考パターンの浄化抜きには瞑想は深まり
ません。



●3人の人に心の中で感謝の念を送る。
難易度は高いですが、気の合わないタイプの知人や過去にトラブルの
あった人に対して感謝の意識を持てるかどうか見てみてください。


→ 気の合わないかた3名にありがとうを心の中で言ってみました。
 でも、なんかの理由で、違和感が残ります。
 今わかることは、わたしだったらこうするのに、何故出来ないの?
 と言う声ですね。



感謝の念を送るときのポイントとしては、「自分の感謝」として
念じないということです。

念を送るときにはワークで行った「対象のない祈り」の基本ポジションに
自身を放棄して無心で「感謝そのもの」としてあるようにします。


この感謝と祈りはエゴの好き嫌いをなくすといった表面的なものではなく、
瞑想の進化に直結し絶大な効果を発揮します。



●自分と世界が存在することに対する感謝と慈悲の念を一日一回、
一瞬でいいので思い出す。


→ 実行中!


これも上記と同様「対象のない祈り」のポジションで行います。

結局、このポジションにおいては他人に対する感謝も自身に対する感謝も
同じものとなります。

対象のないところでは相対的な好悪は発生しません。


また、このポジションにぴったりとはまったときには、感謝や慈悲を能動的
に起こそうという意思すら必要なくなります。

それはただ世界があることそのものだからです。


現象世界に意識がフォーカスしている私たちは日常に埋没してこの状態を
忘れて気絶していますが、一日一回でも思い出すことで忘れられていた
「むこうがわの私」は必ず何等かの形で応答してくれるようになります。

(応答の形にはあまりこだわらないでください。むこうがわの私を擬人化
しすぎるとイメージの世界に入り込んでしまいます。わかりやすいポイント
としては、前述の直観知の閃きが増したり心身が軽くなったりエネルギー感覚
が増したりすることがあります)



●ワーク開催日の一週間ぐらい前から飲食にあたって、次のことに注意します。
「これを食べた(飲んだ)後すぐに瞑想したり運動したりできるぐらいの心身
の軽さがあるか」
「腸が詰まっていたり重い感じがしないか」
「食べた直後に意識が鈍い感じや停滞する感じに曇らないか」
「眠気を誘発する予感がしないか」
「もっと貪りたいという欲求がないか」
「興奮を誘発する予感がしないか」等、
自分の感覚を基準に飲食の量や種類を意識的に見極めて摂取します。
頭で「腹8分目」「糖質制限」「添加物は悪い」などと考えず、あくまでも
「これを食べたら(飲んだら)意識がクリアでいられるかどうか」
「次の瞬間すぐに瞑想に入れるか」
を基準に自分の心身を観察しながら決めます。
ストイックになる必要はありませんが、その時その時の心身の状態を意識
してみてください。


→ 3か月ほど1日納豆、豆腐、ヨーグルト、卵、全粒粉食パン(天然酵母)、
有機無塩バター、以上のローテーションで過ごしました。体調と目覚めが
良かったと思います。
食生活に飽きて、今はカップ麺、吉野家など多用しております。



食事の内容としては体質にあっていれば絶対にこれでなければならないという
こだわりは必要ありません。

意識の微細な領域に入っていくときに「これを食べたときには重くなる」
「これを食べたときには落着きがなくなる」といった自身の感覚に鋭敏に
なることが大切です。


また、意識的に瞑想をする場合は、食事のタイミングと量が最も重要な
ポイントになります。

このあたりは毎日の食事と意識の関係を観察し、自身で発見していくことです。



●【現象世界におけるエネルギー還元について】 ※重要※
「自分にとって大切なものを受け取ったとき(受け取りたいとき)には、
それに見合うエネルギーを感謝とともに現象世界へお返しする」
と考えてください。


→ これ、やっている事は、物ですね。
 頂き物や、取り寄せもの、お菓子、肉、調味料、などなどを
 配ります。まだ、エネルギーを意識してお返しするのは、
 具体的に、どういう感じなのか、イメージがつきません。



エネルギーの流れの感覚がつかめてくると「この現象に対しては、この
エネルギーが全体の中でこのくらいの大きさと質で動いている」という感触が
あたかも物質を見るかのようにわかってきます。


物質に例えていえば、現象世界においては何か物を買うときにはそれに見合う
対価として貨幣を支払います。

支払う額が物質の価値に比べて多すぎれば高いと感じ、少なければ安いと
感じます。

構造としてはこれと同じことです。


大切なものを受け取ったとき(物であれ知識であれ目に見えないものであれ)
には自身にとっての「大切さ」の度合いに見合うものを何等かの形で
交換・流通します。

物質世界においては交換する物はエネルギーが目に見えるものになった形であり、
象徴です。

こう考えたときに、覚醒といった自身の存在の一大事にかかわる現象世界における
交換とは何かと考えてみてください。
(ただしこれは魂を売って覚醒を得るというような利己的な「交換条件」
とは異なります)

究極的には交換は対象ありきのものであるため、先の対象のない祈りのポ
ジションでは交換と移動を介さずに自己完結します。
(ここが能動と受動の究極の「あいだ」です)


まずはあまり難しく考えずに、たとえば物を配るときでも物はあくまでも
象徴であって流通させているのは形を超えたもの(誤解しやすいのですが、
物と形を超えたものは分離はしておらずそこに優劣はありません)を同時に
含んでいることに意識的になることです。

すべてのことを意識的にそのように見ていくと、何かひとつの物が動くなかにも
すべてのレベル(肉体と意識のすべて)を包括したエネルギーの全体性の流れが
捉えられるようになってきます。


その意味においては、物質の移動だけを観察しても直観的に全体性を把握できる
はずですが、もしエネルギーそのものをより具体的に体感したければまず自身の
身体内で毎瞬起こり続けている感覚の変化をつぶさに観察することです。

この具体的な体感のないままオーラや気のようなものの表面的な感覚だけが
見えたとしてもいつまでたっても自身と現象の全体がひとつにつながっている
確信がもてません。



***** 感覚を共有するための課題について *****


●遊園地のジェットコースターに乗る(できれば3回)
心臓や体の弱い方は不可 
高低差のあるジェットコースター推奨
1回目 何も考えず
2回目 目をつぶって
3回目 目をあけて 頂上から落ちるときに胸と丹田を意識してその感覚を加速
とともに走行中ずっと維持

→ 〇〇パークで実施。意識はそのまま残って、体だけが、
 下に持っていかれる感じでした。


さらに詳細に観察すると、体が下に持っていかれる直前に
ごく微妙な時間差でマイナスGに引き込まれる瞬間の感触
(一瞬内臓が浮くような)があると思います。

このとき、ワークで行ったように体はその場に「置いて」おき意識だけで
その状態に気づきます。

すると、身体とがっちり結びついていた自己感覚が強制的な形とはいえ一瞬
結合を緩めます。

結合が緩むと、身体の枠から宙ぶらりんになったエゴは一瞬空白になって
Gとともにすとんと落ちて消えます。
(エゴの本質は心身の現象を基盤として後付けで生まれる実態のないベクトル
の集積だからです)


この状態は瞑想においてエゴが落ちるときの感覚に似ています。

しばしば突発的な一瞥体験でバイクに乗っていて事故で吹っ飛んで覚醒に触れる
といった話がありますが、すこんと不意打ちで身体との結合から抜けるときの
体験はこれに似ています。
(ただし幽体離脱とは異なります)

images (1)
⇒ サンダードルフィン体験動画
(私はこれに乗りました。動画だけでもけっこうきますね。)



●バンジージャンプをする(できれば3回)
心臓や体の弱い方は不可
1回目 何も考えず
2回目 目をつぶって 喉を開放して声が出るのにまかせる 自分ではないものの
浮力と力学が心身を通り抜けるのを見る
3回目 目をあけたまま すべてのプロセスを見る


→ 同じく〇〇パークにあるこの機種に乗りました。
バンジーではありませんが。
⇒ ■ジャイアントドロップ メテオ
目を開けていると、力が入つて構えてしまって、しんどいだけでした。
目を閉じると、先ほどのジェットコースターの感覚になりました。


肉体の目の感覚がエゴ感覚と結合していると見たものを理性で判断しよう
としますが、エゴが受け入れたくない状況(この場合は強制的に
絶叫アトラクションで恐怖にさらされる)を目で見続け頭で対処しようと
すれば当然、防御反応によって心身全体が強張ります。


また、この機種の場合はジェットコースターの体感とあまり変わりません。

できれば自身の足で飛び降り空中でどこにもつかまるところがない
状態を体感していただけたらと思います。


身体的にどこにもつかまっていない(足や腰に紐はありますが)状態を
体験すると、瞑想で意識の微細なレベルに入ったときに意識が何かを
つかんでいるときの感触がクリアになり見切ることができるようになります。

ここがクリアにならないと、何かをつかんでいるのにそれ自体に気づかない
という状態にとどまり続けてしまうのです。


何もわざわざバンジージャンプなどする必要があるのかと思われるかも
しれませんが、意識単体で動きを見切れるようにならないかぎり
常に無意識に身体感覚がくっついたままそれに左右されていることに
気づくことができないため、荒療治として提案してみました。


本来はこういった身体感覚は極端なことをしなくても日常のすべてを
ヴィヴィッドに感じながら生きることによって自然と身についている
はずなのですが、概念に気絶し不感症になって固まってしまった心身には
意識的なショックも必要だと思われます。

21_yomiuri.jpg
(よみうりランドのバンジージャンプ。私はこれで飛びました。)



●プール(深いほうがよい)の水底に潜ってしばらくしてから頭頂と
尾てい骨を意識しながら垂直に水上に一気に飛びあがる 
(体の弱い方は不可)頭頂から空間へ放たれる


→ やってません


これもバンジーやジェットコースターの体感に近いものになります。
この場合は下ではなく上に抜けていきますが、このときも
水圧と飛び上がる速度と上への意思のベクトルの微妙な時間差に
よって身体とエゴは結合を緩め、意識が身体の枠を超えやすくなります。
上記のバイク事故で投げ出されるときなどに近いかもしれません。

私自身も小学生のとき、深さのあるプールで潜ってギリギリまで息を
とめて一気に浮かび上がる遊びをしていたら水面から飛び出した瞬間
に頭から意識だけがすこーんと抜けて拡大したのですが、わけがわか
らず「あっ!巨人になってしまった!?」とギョっとしたことがありました。
ものすごく背が高くなったような感じがしたのです。
おそらく自然といわゆるクンバカ状態になっていたようです。



●海や川や流れるプールで流れにまかせて泳ぐときと流れに逆らって泳ぐとき
の体感の違いをみる。流れに逆らって泳いだ後に再び流れにまかせるときの
一瞬の切り替わりの感覚を見る(夏限定)


→ やってません


これは全体性のなかで運動が起こっているときのベクトルと内部感覚を具体的な
感触として体感するために行うワークです。


●VR施設(お台場・渋谷・池袋など)で脳がだまされ身体が連動する
感覚を知る


→ 2機種やりました。視覚が感情を決めているのか?思い込みのひどい人の感じでした。
⇒ ■高所恐怖SHOW
⇒ ■ハネチャリ

高所恐怖SHOWは同じものをお台場で体験しました。

Cf0e-I-VIAAjC8S.jpg
(地上200mの板の上を歩いて猫を救います)

vr.jpg
(猫救出に向かうリアル氏)

映像は実写ほど精密というわけではないのに、一歩踏み出すにも足が
すくみますよね 笑

この体験により、実際に存在しない高さの感覚を認知する脳の回路が存在
するという実感と、認識と身体感覚の自動的な結合を再認識することが
できます。

VRだと知った上で機器を装着すれば、これが現実ではないということが
わかりますが、もし映像のクオリティが現実とまったく同じで、生まれたて
の赤ちゃんのときから脳内に直接機器が埋め込まれていたとしたら、
その世界を見て育った人は何をもって現実と呼ぶでしょうか?

現象世界はそこまで単純なものではないとはいえ、基本的な世界の認識の構造
としてはVRもこの現実と呼んでいる世界もそれほど違いはないといえます。


「ラバーハンドイリュージョン」という有名な認知実験があります。
ダウンロード
⇒ "Rubber hand illusion"のデモ動画

これは映像のように自分の手を隠し、ゴム手袋の手を目の前に置き、
自分の手とゴムの手を同時に筆で撫でているうちに、見ているほうのゴムの手
を自分の手のように錯覚しはじめ、あたかも手袋が自分の手として触覚や痛覚
があるかのように感じ始めるという実験です。

この実験からわかるのは、この身体が自分のものであるという認知は絶対的な
ものではなくいかに揺らぎやすいかということです。


逆にいえば、これが自分の手であると認識(錯覚)するための脳の固有の
パターン回路がいかに強固かということもいえます。

ある特定の条件のもとでは、皮膚にも骨にもつながっていない切り離された
物体を自身の手として認識するような認知パターンが組み込まれているという
ことです。

(この認知パターンを利用していわゆる幻肢の痛みを軽減したり脳梗塞など
で失われた神経回路を脳を「だます」ことで回復するという治療法もあるそう
です。)

「脳の中の幽霊」の著者V.S.ラマチャンドラン博士
が考案したセラピーに使用される装置「ミラーボックス」
ダウンロード (1)
⇒ ミラーボックスの紹介動画

このことからも、いったい私たちがこの現実のリアリティと呼んでいるものは
何なのかという疑問が生じます。

(ちなみに上記のVRや実験は視覚情報の割合の高い認知パターンに基づき
ますが、目の不自由な人々にはまた独自のリアリティがあります。

数年前に参加したことのある「ダイアログインザダーク」 という、完全な真暗闇
の中で視覚障がい者の世界を体験するイベントはその一端を垣間見ることができ
興味深いものでした。
slider1_pc.jpg
⇒「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」(Wikipediaより)

以前、東京のワークでは暗闇の中で床を触って感覚だけを見るという
実験をしました。

余談ですが、こちらの本は目の見えない人のリアリティのユニークさに
触れることができて面白かったです。)
31kD0XD3iqL.jpg
⇒「目の見えない人は世界をどう見ているのか」伊藤 亜紗(著)


先日、東京で行ったワークでは集中力の高まった状態と立体的な内部の目
の使い方のもとに、自身の手を周囲の物と同じように「置いておく」ことで
逆VRとでもいうべき認知状態に入って自分と身体との結合のゆらぎを感じ取って
いただきました。


このときある参加者さんはまさに「VRのようで気持ち悪い」という感想を
漏らされました。

重要なのはVRのような奇妙なリアリティを面白がることではなく、
認知パターンと心身の結合感覚がいかに曖昧かを知り、現実と呼んでいるものの
リアリティのゆらぎに気づくことです。

ここから、強固なひとつながりの身体=私という感覚がゆらぎはじめ「あいだ」
の手触りが顕われはじめます。



●マラソンでランナーズハイが起こるまで走る 身体が軽くなったときに
走りが勝手に維持されているときの主体と重心がどこにあるかを見る
マラソン以外の運動でも可 運動ができない方はひたすら単純作業を
続けて(文字を書く 楽器を弾く等でもOK)動作が勝手に続くレベル
になったときの主体を見る


→ ギターで試しましたが、誰が弾いてるの?と言う感じになりました。


集中力が増して運動や作業が自動的に続くようになってくるといわゆる
ゾーンに近い状態になって、目の前に起こっていることを俯瞰して眺めて
いるような感覚になります。

手先の作業のみの場合は俯瞰して見ている意識と行為が並行して存在する
ような状態になりやすいのですが、ランナーズハイのように身体の重心自体
が動作と一致している場合は並行する視点が消えて行為そのものだけがある
ような一体感が起こりやすくなります。


瞑想というと動きを制止するものと勘違いしやすいのですが、実は高速で
動き続ける主体の消えた行為=現象をそこに「置いておく」ことにより結果
として止まって見えているのです。

この仕組みが体感できないといくら瞑想中に一点集中しても現象世界の仕組み
を理解することができません。


注意すべきなのは、動作を繰り返しているうちに催眠状態にはまりこまない
ことです。

自動化した行為に主体が一致して消えているときには催眠状態とは逆に
意識は明晰に覚醒しています。



●家や動物園や水族館などで動物の動きを見る
猫 犬 猿 象 虎 魚 など 
自分と動物の重心を一体化させて見る(感じる)


→ お店の水槽の魚でやりました。
 あまりよくわからなかっです。


ダウンロード (1)
⇒ 飛び回るケナガクモザルの動画
(この動物園にはよく行きます)

これを知るにはまず、重心とはなにかというところから明確に体感
する必要があるのですが、(以前、東京ではこのワークを行いました。
大阪でもやりたかったのですが今回は時間の関係で割愛しました)
野球の球を丹田で感じたときの感覚を思い出してください。

単純に丹田=重心というわけではないのですが、丹田の内部の感触と同じ
ような感じで動物が動くときの重心の移動と移動のあいだの「グルーヴ感」
のような「うねりの緩急」をハラで捉えてみるとわかりやすいと思います。


表現が難しいのですが水槽の魚であれば、前述の流れるプールでの切り替わる
瞬間の感覚や、ジェットコースターでのマイナスGの感覚を丹田の内部感覚
と直接触れて一緒に踊っているような感覚です。

踊っているといっても身体の表面を故意に動かすのではなく、ハラの中心
そのものが動物の重心と一体化して(動物はエゴや思考に惑わされないので
重心の移動と動きのはじまりに時間差と迷いがありません。この感覚をつかむ
ことです。ただし動物園やペットの動物は人間に近い時間差を見せることが
あります)純粋に「ノッて」いるような感覚といえばいいでしょうか。


こういった見方をしているうちに徐々に生物のみならず現象世界のさまざま
な物や現象がハラ=存在の中で生き生きと踊っているような感覚が生まれて
くるはずです。

覚醒自体は、そのような感覚自体を成り立たせている原初の起点のような
ものです。



●寝起きを観察する

→ これ難しいですね。わたくし、起きたらスグ覚醒してしまい、
まどろみタイムがほぼない状態です。引き続きチャレンジしてみます。


寝起きが良いのは精神が健全な証拠なので無理にまどろむ必要
はありませんが、半覚醒のまどろみの状態というのは瞑想のヒント
が隠れています。

電車や休み時間などのちょっとした間にまどろむ感覚が生まれたら
観察してみてください。


慣れてくると就寝の際に意識的に寝落ちに入る時間を長引かせて
観察することができるようになります。

意識がどこから自覚されどこへ消えていくのか、自分という身体感覚
がどこからはじまるのかを観察すると無意識に自分と同化している状態
に気づくことができます。



●湯船に浸かった瞬間を見る 心地よさを感じる前にあるものを見る
言葉に還元される前にあるもの、そのものにとどまる


→ なんか先に感じているものがいるのではと思いました。
 自分以外の何かが。


心地よさとは「自分」にとって「好ましい状態」です。

心地よい感覚がはじまって好ましい状態を継続させようとしたとき
湯舟のお湯やそれに浸かった瞬間はそれそのものとして見られるのではなく
「自分」に隷属するものになり、それそのものの生々しさは失われます。

これは「心地よい状態を享受してはいけない」ということではありません。


自分以外の何かとはそれそのものであった何かです。

これを概念的には空と呼んだりします。


自身それそのものと、お湯それそのものと、あらゆるものそれそのものが
完全に一致していた瞬間が、先にあったものです。

ただし先にあったというときには時間の感覚が生まれています。

本当は先にあったのではなく常に今それそのものがあるのです。



●クラブで大音響のスピーカーの前で踊る
(カッコ悪くても反復して飛び跳ね続けるほうが効果的)
耳で聴くのではなく直接響き、動きの重心と一体化する部分
を見つける


→ やってません


音そのものとは何でしょうか?
大音響の中にいると音の波動が身体に直接響いてきますが、響きを
「聴く」のではなく響きのインパクトの中心と自身を一致させて
「音そのもの」に為ってみることで直接的に理解していただけたらと
思います。

音のみならず、五感のすべてが「それそのもの」に直接触れるための
ポータルです。

耳で聴く、目玉で見る、舌で味わう、脳で考える、鼻で嗅ぐ、皮膚で触れる、
といった「自分の器官ありき」の感覚を外し、それそのものがその瞬間そこに
あるだけになるとき、覚醒が顕われます。



●音楽(なんのジャンルでも可)をヘッドフォンやイヤフォンで聴こえるか
聴こえないかぐらいの最少ボリュームで聴く
音がどこに触れているのかを微細にたどる


→ 耳がこそばゆくなり、止めました。


上記のように、音そのものを耳で聴かずに自身の中心で響いてあるように
すれば耳がくすぐったくなることはないと思います。

もしくすぐったくなるとすれば、耳ではなく自身の中心が
「くすぐったさのはじまり」
としてそこにあることを発見します。

微細な感触をたどることは、応用としてハート自体の振動を知る訓練にも
なります。

音がわかりづらければ五感の他の感触を入り口にしてもかまいません。



●梅干しを食べる 梅干しを見た瞬間の反応から、それを口に運び味わい
飲み込むまでの心身のプロセスを見る 
次に同じプロセスを別の食べ物でたどり観察する


→ これおもしろいですね。自分ではない何かが動いているような、
 動いていないような。継続中です。(1日1品づつ)



食べる瞑想は覚醒の本質に触れるためには非常に効果的なワークです。

ポイントとしては、つまようじを使ったワークのときのように、食べ物を
運ぶ行為の主体と食べ物が入ってくる身体側の主体そのどちらでもない、
能動でも受動でもない「あいだ」で観察することです。


物を食べるという行為は、この私という主体の感覚が抜け落ちたときには
内でも外でもない「どこか」に何かが触れて変化していき消えていく感覚
が唐突かつ奇妙なインパクトで迫ってくるものです。


そのときには、誰が何に食べ物を運んで誰がそれを味わいどこへ消えて
何が消化するのかといった目的と意味が抜け落ち、行為ですらなくなってい
ます。

梅干しは初期段階として刺激を利用して現象の変化に意識的になりやすい
ように選んでみました。

ume.jpg
試しにこの画像を見たときの反応を観察してみてください。




●香水の匂い(柑橘系の果物などの匂いでも可)を直接嗅ぐ
匂いの好き嫌いを感じる前に匂いを感受した瞬間をみる


→ アロマで試しましたが、タイミングが難しいですね。
 継続して、たまにトライしてます。



意図的に自分で香りを選んで能動的に嗅ごうとすると難しいかも
しれませんね。

不意に意図せず香ってきた芳香に気づいた瞬間に意識がどのように反応
するかを見てみるほうがよいかもしれません。

意図的に嗅ぐ場合のポイントは先の湯舟に浸かるときその他、五感に直接
触れるときの在り方と同じです。



●包丁の刃に指を近づけた瞬間と綿毛(ふわっとしたもの 柔らかい
ものなど)に指を近づけた瞬間の心身の感覚をみる
「ぞくっとした」「ふわっとした」などという言葉に還元される前を見る


→ 視覚の影響???ですが、言葉の前が難しいですね。


これは先の「丹田=存在の中心で現象が踊っている」ことの質的・触覚的
なバリエーションといえます。
(ただし、ほとんどの人はふだん丹田の意識に気づいていないため、
「ぞくっ」とする感覚を表面的な皮膚や神経や頭でとらえて対象物として
「怖い」と感じたりします)

この感覚にはもちろん視覚も影響しています。

逆にいえば、普段わたしたちは視覚を使って現象を見ながら同時に
他の感覚も連動させています。


また「これは包丁である」「綿である」といった概念が排除された
意識状態においても、ぞくっとしたりふわっとしたりする質感
のごく微細なエッセンスは残ります。

これは波動レベルの差異です。


ちなみに以前、本物の日本刀で真剣試し切りの体験をしたこと
がありますが、持っただけで包丁とは比べ物にならないぐらい
ゾクゾクしました 笑

sinken.jpg
(試し切りをするリアル氏)



●カラオケでハラの底から叫び続ける(歌わずに)エネルギーの余剰分
を吐き出しきる


→ 解放感が半端ありません。癖になりそうです。


心身に行き場を失った余剰なエネルギーがあると意識が引っ張られて
現象そのものを正確に見ることができません。

身体レベルで解消できることはできるだけ具体的に浄化するように
しておきます。


身体レベルの浄化が最も深く起こるときには体の芯から震えが起こり
ます。

がっちりつかんでいた怒りや悲しみが慟哭とともに解放されたときには
震えの後に信じられないような安堵と軽さが訪れます。


カラオケではなかなかそこまではいかないですが、まずは身体表面の
余剰エネルギーを吐き出してから、ワークで行ったように丹田の
底に入っていき存在の深さを知ることで、奥底で掴んでいたものに気づき、
本質的な解放がどこから起こるのかを知ることができます。

また前述のように日々、五感そのものに直接触れることを心掛けること
で自身の核心が研ぎ澄まされ、そこに直観的あるいは現象的に何等かの
きっかけが触れた瞬間に爆発的な浄化が起こりやすくなります。


浄化の訪れには「対象のない祈り」の無心さが必要です。

理想としてはこの状態から瞑想が勝手に起こるようになりたいのです。



●バッティングセンターで、丹田を意識しつつ球が投げられた瞬間から
目の前を通りすぎるまで、ひたすら見続ける


→ ボールが通過する度に、丹田がボワッとしました。


これはとてもよい感じですね。

感覚がつかめたらさらに丹田の表面や筋肉や内臓ではなく丹田そのもの
(どこにも触れていないけれどもそれ自体が内圧の中心としてあるような
ところ)の中心の深いところで現象と一致してあることができるかどうかを
見ていってください。

⇒ バッティングセンター(スローモーション)疑似体験動画
bat.jpg
(バッターボックスに立つリアル氏)



●月に一回すべてを開放する日をつくる やりたいことや気になっていたこと
を全部やる


→ 具体的にどうすればいいのかわかりにくく、やっているつもりですが、
 試行錯誤中です。



カラオケと同じように、余剰エネルギーを解放したり不足したエネルギー
を補ったりします。

最初は単純に「前から気になっていつかやってみたかった」といったこと
などでよいのでいろいろ試してみます。


このとき、世間的な目やプライドなどを捨てて行うのがポイントです。
(子供のころにこれをやりたかったのに様々な理由からできなかったこと等、
バカバカしいと思わずに現時点で解消できることはやっておく)

あるいは「今死んだらこれをやっておかなかったことに後悔する」と
思うことを実際にやっておきます。
(あの人に会っておきたかった、あの場所に行ってみたかった、
など)

いろいろ試していくうちに、今生きているこの瞬間、純粋に欲するものが
何かということに気づいていきます。



***** その他の質疑応答 *****


→ エゴさんの声とインスピレーションの違いがわかりません
そのうちわかるようになって来るものでしょうか。



純粋な直観が起こるときには甘美さや興奮状態ではなくゾーン状態の
中心で「すっ」と冷めたような感覚のところに透徹した静けさを伴ってくる
ものです。

覚醒を目的にするのならば常にその瞬間に浄化が伴って
いるかどうかをチェックします。

この直観は自分で思いつくこともできないようなものでありながら
なぜか「知っていた」「完璧に腑に落ちた」といった感覚を伴います。


エネルギー感(ごくごく微細な振動であって粗い興奮ではない)を伴うこと
もありますが、声を意図的に解釈して高揚して気がのぼった状態になって
しまうといつのまにかエゴの声にすりかわってしまいます。

「~したほうがよい」「~しなければならない」と急き立てるような感覚
を伴ったり命令形で降りてくるものは肥大したエゴの声であることが
ほとんどです。

この声を「ハイヤーセルフ」の声だ、などと思い込まないようにします。


エゴの声に従おうとすると、当たり前ですがそれはエゴの望みを拡大すること
なので最初はワクワクしたり自己が拡大した感覚になったり興奮状態になって
いきます。

この声に従うことは、これはこれで現象世界においては物質と現象を動かす
エネルギーにはなるため実際に望みが叶ったり現象が進展したりすることも
起こりますが、この状態にある人は覚醒そのものから見たときには現象に
気絶して現象に使われている駒としての存在です。


駒という言葉がどぎついと感じるのならば、別の言い方をするとこの
状態の人は現象世界に隔離され安全地帯で育てられる子供です。

母親は子供が育つまで本当のことを教えて玩具を取り上げるのは不憫だと
思って時が来るまで気のすむまで遊ばせ守っています。

純粋な直観知の訪れのためには何かを求めずに「対象のない祈り」に
無心になる瞬間をできるだけ増やしていくことです。



→ 怒りの感情が出るタイミングの抑え方について
・自分やったらこうするのにきちっとしなさい。
・NTTや市役所の手続きで融通が利かない時
これって、眺めて流した方がいいのでしょうか



先にも触れましたが、怒りその他の感情は抑えて止めようとしないこと
です。

だからといって怒りを常にまき散らしていいと開き直って態度を固定化
することは違いますが、怒りが出たということは怒りがその時でるべくして
でたのであってまったくもって正確に現象が起こったのです。

まずはこの道理を受け入れたうえで怒りが出たという事実にただ気づきます。


このとき、怒りを流して消そうとしたり怒りを認めようとしたりといった
あらゆる能動的な努力は不要です。

もし怒りが出た自分に罪悪感や否定感が起こったとしたら、それもただ
気づきます。

前述のように身体レベルの余剰エネルギーから出る怒りや感情などは日頃
から意識的に解放することは効果的ですが、それでも不意に起こる怒りや
感情などに対しては理性で分析したり無理やり解放させる必要はありません。


道理を受け入れただ現象に気づこうという決意があれば、怒りの浄化は起こる
べきときに起こります。

このときに怒りの反応パターンが何に由来するのかが直観によってもたら
されます。


怒りのパターンは様々なバリエーションで起こるため、ひとつの怒りが浄化されても
また別のパターンの怒りが起こってきます。

もし新たに怒りが起こり、その怒りの瞬間に浄化と直観知が訪れないときは、
まだその怒りは現象世界に必然として顕われるべきものだったということです。



→ よく出てくる「自分を愛しなさい」と言う言葉ですが、
愛するがそもそもわからないし、自分をと言われても、
自我なのか、思考なのか、自分と錯覚している肉体なのか、
ワンネスのことなのか、結構長い間の疑問です。



愛する存在は「目にいれても痛くない」という表現があります。

また、愛しくて「食べてしまいたい」(これが歪んだ形で暴走すると
実際に食べてしまったりする事件がたまにありますが…)、あるいは心身
ともに「ひとつになりたい」といった欲求、これらはみな現象世界における
個に分離した身体感覚に基づく愛の表現のバリエーションです。

現象世界のわたしたちはつまり、究極的には自他の境界をとりはらって
ひとつに融合したいと願っています。

なぜならば、個別の境界と個別のエゴを持つ心身への自己同化は孤独
であり、境界があるかぎりは他者と完全にひとつになることは不可能
だからです。


現象世界はある意味、この「ひとつになりたい欲求」に基づき、
その理想に近づいたり離れたりする無限のバリエーションの顕われと
いうことができます。


現象世界にありながら「ひとつになる」唯一の方法は、他者に愛を求める
のではなく自身がひとつであるところに消えることです。
(ワークでは「対象のない祈り」として体感していただきました)

自身が消えることでその瞬間、すべてのものをひとつのものとして
まるごと存在させてあげることができるのです。

「自分を愛しなさい」というときに「わからない」と思っているのはエゴ
としての自分です。

自分を愛するときには、自分とは何かというときの「自分」について
考えたり対象化したりしないことです。

問題になっている「自分」とは、さまざまなレベルが混在した感覚に
基づく実態のないものであって、混在した「自分」が「自分」を正確に理解
することはできません


自分を愛している状態のときには自分は消えていて、ただ「愛」とよばれて
いた実態だけが対象化されずにあります。

このとき「愛」という言葉自体、認識されません。

愛という言葉に伴う陳腐なイメージに惑わされないことです。


自分の存在を二元的に認識している段階であったとしても、自分を対象化
して愛さなければと努力する必要はなく、ただ分離されてある自己感覚を
認めてあげれば、自分が消えてあるところに自動的に融解します。

この融解がいついかなるときでも起こってもよいのだという心の底からの
了解と安心のようなものが自分を受け入れ愛し愛されている状態です。


もし了解と安心の感覚がわからなければ、「対象のない祈り」の状態に
入って、すでにしてその状態で「絶対的な必然性をもって存在している了解」
がとれているのだということに気づいてください。




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【2/8(日) 東京ワーク】 ~所感と解説 その2~      

2020/02/11

【2/8(日) 東京ワーク】 ~所感と解説 その1~ からの続きです。


【身体を「置いておく」~体の所有感覚が消えたとき世界はどのように見えるか】

以前「居付かない座法」に関連して身体を「置いておく」説明をしましたが、今回は
ある程度集中が高まったところで具体的に「置いておく」感覚がどのようなものか
を体感していただきました。

まず、各自のレベルで身体の軸に自身が「消えている」状態に入ってもらい、
壁の前に立って手のひらを壁に置きます。

IMG_3108.jpg

その状態で手のひらと壁の接触面で起こってくる現象を先の爪楊枝のワークと
同じように能動でも受動でもない「あいだ」で観察します。

このとき、肉体の目ではなく内部の目に全体が映っているようにします。

しばらく観察を続けているうちに、手のひら全体を見ると自分の手ではない
ような奇妙な感覚が起こってきます。

参加者さんの手が壁と一続きに区別がなくなった感覚になったところで
私(AYA)の手を参加者さんの手の横に置いてみます。

すると、参加者さんは自身の手とAYAの手の区別がわからず、ただ誰の
ものでもない2つの手のひらを眺めているような状態になります。

そこでゆっくり壁から手のひらを離していってもらうと、集中力が途切れた
瞬間に「自分の手」であるという感覚が戻ってきますが、集中力が続けば
自分のものではない手が視界の中で動く様を奇妙な感覚で眺めることに
なります。

これが身体を「置いておく」ことの体感です。

よく瞑想していて「身体を動かそうとしても動かせなくなった」というのは上記
の初期段階で身体が金縛りのように固定されている状態なのですが、さらに
集中力が高まれば、動作をしながらでも身体とエゴの意図がくっつかずに
動作が勝手に起こっていることを眺めていられるようになります。

スポーツなどで起こる、いわゆる「ゾーン」の感覚はこれと同じものです。

今回の参加者さんは皆、想像以上に短時間で集中力が高まった状態に
入れていたので、この感覚の手触りを実感していただけたと思います。

この状態をある参加者さんは「まるでVRを見ているようで気持ち悪い」
と表現されましたが感覚としては近いものです。


※参考までに、この方の質疑応答の一部を以下にシェアします。

手を壁について押すでもなし引くでもなしの状態においてモノとして観る
というのはVRを見ているようで面白かったです。
同様にいままで指導されてきた体が「真ん中にいる」というのは、
この状態を作るためであったと納得できました。


集中力が高まってくると自分の身体や周囲の物がVRのような奇妙な
感覚で見えてくるようになります。

さらに集中力が高まると、歩く、食べる、等の動作を行いながら同じ
感覚が続くようになります。

途中で壁から手を放して手をひっくりかえして見ていたときも集中は
途切れていなかったようなのでかなりいい感じですね。

先日は短時間でその状態に入れたのは集中力の高まりと物の見方
のシフトが起こりつつあることの証明といえます。

ただし、「モノとして観ている」状態はあくまでも結果的に起こる見え方
であって、目に映る対象物すべてを単純に「モノ」として自身と切り離せば
よいということではないのです。

それではモノ(=対象物)対 自分(鑑照者)という構造がなくなりません。

重要なのは能動でも受動でもない「あいだ」にあってそこで起こってくる
現象を淡々と「映っているものが何であるかという判断なく」あり続ける
ということです。

その「ある」状態の一環として、例えば壁に置いた手(と呼ばれていたなにか)
から自分の所有物という感覚が抜け落ちて初めて出会う未知のものの
ように他のものとの区別なくそこに生々しく顕われていることを発見するのです。

また、この見え方というのは集中力の高まりと自分が消えるポイントの途上
で起こることであって、これがゴールではありません。

新しい見え方に興味を持つのではなく、それを成り立たせている構造のさら
に奥深くに入って行って存在の核心に触れることが覚醒です。
(それは先日行った、音の中心そのものの空に自身の核心が触れることと
同じです)

この、奥深くに入っていくときに必要なのが「あいだ」にあるということなのです。

見え方のシフトの段階ではまだ肉体に近いところの「あいだ」で転換が起こって
いるにすぎません。

これから先は非常に鋭利で繊細な気づきと集中力と直観を要するようになります。




【身体と意識の「あいだ」の感覚を直接体感する 】

最後に各自の「あいだ」の感覚のチェックと直接的な体感のために、
禁じ手?を試みました。

丹田を意識しながら座って片手を差し出してもらい、その手の上に
AYAの手を重ねます。

すると、その方の内部と意識で何がおこっているのかが手の接触面の
「あいだ」を通して直接伝わってくるので微妙に調整しながら「これは違う」
「これです!」と伝えます。

実際に触れてみるとその方の意識の在り方や個性がダイレクトに伝わって
きますし、内部感覚を理解しているかどうかが明確にわかります。

他人の手が重なっていることで最初は戸惑って緊張で固まっている方も
いらっしゃいましたが、皆さんそれぞれ「これだ」という瞬間を体感していただけ
たと思います。

ここで注意が必要なのは、体感された感覚もまた現象の一部であるということです。

この感覚を肉体のバランスのレベルにのみ還元して再現しようとしたり、その感覚
にさえ入っていればいいと態度を固定化したりすることは違います。

感覚はあくまでも感覚であって、結果として顕われたものにすぎません。

また、この感覚が空だ、などと短絡的に結び付けないことです。
(身体に偏重しすぎるとこのような思考に陥ります)

今回は、参加者さんとの信頼関係が構築されてきたこともあって禁じ手的
にお伝えしましたが、本来は「何がその感覚を成り立たせているのか」
を自身で直接知ることが最も重要なことです。


IMG_3133.jpg
集中したいとき30分前に摂るブドウ糖



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【2/8(日) 東京ワーク】 ~所感と解説 その1~      

2020/02/11

2/8(日)東京にてワークを開催しました。


【今回の主なメニュー】  

・姿勢の調整 / 軸に消えるためのニュートラルな身体
・丹田の具体的な感覚と呼吸 / 肉体と意識のあいだにある丹田感覚
・「ハラで見る」具体的な内部感覚 / 現象が「わたし」の中に在る感触
・「ハラ=存在=わたし」の消失点と現象の起点が一致して響くとき
・受動と能動のあいだで唐突に生成消滅し続ける現象を見る
・身体を「置いておく」~体の所有感覚が消えたとき世界はどのように見えるか
・身体と意識の「あいだ」の感覚を直接体感する


********************

【所感と解説】  


今回は存在の基盤となる丹田の内部感覚を中心に、意識と肉体の境界を越えた
ところで何がどう響いているのか、主体が消えて受動と能動のあいだにあるとき
現象がどのように起こっているのか、ということを具体的に体感していただきました。

(丹田の位置や働きや呼吸と意識との関係は前回までのブログ記事をご参照ください)



【「ハラで見る」具体的な内部感覚 / 現象が「わたし」の中に在る感触 】

まず、呼吸をたよりに肉体として認識できる丹田の一番奥を探してもらい、
そこからさらに細く繊細な意識レベルで肉体とイメージの境界線を超えたところ
へ入っていきます。

境界線を超えたところで、瞬間瞬間に起こっている事象を起こってくるままに
見ます。

このとき注意するのは、一瞬なにかの事象にとらわれてもやもやっとイメージの
連鎖に巻き込まれて気絶しないことです。

また、頭の中で見ているという感覚を落とすために、多少意図的にはなりますが
頭部の中心から意識レベルを落として半覚醒状態(半分寝ている)になって丹田
の底にすとんと落ちている感じにします。(ハラだけで気づいている感覚)

この状態までは段階を踏みながらこれまでのワークで行ってきたため、参加者さん
にはひとまずこのポイントに入っていただきました。

次に、写真のような重り(今回はネットに入ったビー玉を使用)の上部に輪ゴムを
結びつけたものを丹田の前で持って、ごくごく小さな動きでゴムの張力とビー玉の
重さを感じつつ床にくっつけたり離したりします。

IMG_3119.jpg

このとき、意識は重りを持っている手のほうではなく丹田のほうに集中し、重りの
上下とともに丹田内部で変化する感触に集中します。

しばらく集中して続けていると、ビー玉が床から離れる瞬間と床へくっつく瞬間の
前後にごく微細な空白があることが丹田内部で感じ取れるようになります。

この空白が一瞬あってから「ふっ」と浮いて上下へ引き延ばされるような動き
の感触が生まれます。

粗い意識で雑に見ていると、この空白と浮力を見逃してビー玉の物質的な重さ
と丹田内部の圧を一体化させて「重さ」「力み」として動きをひとまとめにして
感じてしまいます。

例えば、ワンネスの「物質世界寄り」の感覚においては「通りの向こうを走る
自動車が『わたし』として『わたし』の中を通り過ぎていった」という体験をする
ことがありますが、ここでいう「中」と「動きの感触」は上記の丹田=存在の座で
起こっています。

(ただし、ワンネスの体験というのは身体の一部の箇所だけで起こることではなく、
心身のトータルなバランスの「あいだ」で起こることのため、丹田感覚だけを
肉体的に単体で磨けばよいというものではありません。
逆にいえばハートの感覚や気づきの感覚だけでは物質世界の構造と幻想を
ガツンとした衝撃をもって理解することができません)



 【「ハラ=存在=わたし」の消失点と現象の起点が一致して響くとき 】

次に、上記の丹田の感覚を確かめてある程度集中力が高まってきたら、
今度は丹田の前に割り箸を立てて持ってもらい、軽く持ち上げてコトンと垂直
に床に落とし、その音の振動が直接丹田に響くことを感じていただきました。

IMG_3126.jpg

このとき、コトンという音を耳で聴くのではなく、音の響きの中心が丹田の中心
と一致するように内側から感じとります。

もっといえば、振動となった段階を内臓感覚でとらえていれば、それは物質の
段階であり、それそのものではないということになります。

だからといって身体としての「この私」が音の響きの「前」に意図的に入り込もう
としても間に合いません。

なぜなら、物質と同化した私の認識は、音速よりもはるかに遅いからです。

しかし本来、純粋な意識そのものは距離も速度もありません。

そのため、丹田の底で受動でも能動でもない「あいだ」にあってそれに対する
一切の私の判断が認識されていないところに音が起こったとき、すでにして
そこにズレのない空があるのです。

ただ、空そのものを見ることはできません。

なぜなら、空そのものは「空そのものである私」との完全な一致であって対象化
が起こらないからです。

現象世界で「わかりたい」と思う私は、その感触を知ることしかできません。

その感触の手がかりとして私の存在の深いところに触れる「振動」のはじまりが
あって、振動の起点と私の起点が出会ったときに鮮烈な感触がスパークすること
を感じることになるのですが、この振動自体はすでに現象世界のものです。

この起点の「始まりの始まりの始まりの始まり…」を無限にたどっていくと、人間
としての認識の限界のレベルに達した地点で、真空に吸い込まれるように意識
はブラックアウトします。

このブラックアウトした地点から先を対象化することは不可能です。

参加者さんの一人は、箸の先が「コトン」と鳴ったと同時に「びくっ」と小動物の
ようにハラの中から身震いして意識が頭に昇って目を見開きました。

この場合、音の瞬間自体はハラでとらえているのですが、認識は肉体の皮膚
と筋膜と内臓のレベルにとどまっています。
(動物はこの感覚で危険を察知し瞬間的に反応します)

身震いしてはいけないわけではなく、身震いの奥底の中心の空に完全に意識
が落ちていれば、反応より前に空そのものの真空に吸い込まれ続けて身震い
の振動を「自分のもの」としてではなく淡々と見送ることができるようになります。

このとき注意が必要なのは意識を意図的に奥底に留めておいて生体的な反応
が出ないようにするのは違うということです。

いわゆる「無執着」を勘違いして意図的に無反応になろうとすれば意識レベルは
その地点で固まって動かなくなり、固まっていること自体にも気づけなくなります。



【受動と能動のあいだで唐突に生成消滅し続ける現象を見る】

前回、爪楊枝を使って(爪楊枝を指に刺して観察する)能動と受動のあいだに
起こっていることを見るワークを行いましたが、今回はさらに微細に観察して
いただきました。

IMG_3071.jpg

皆さん、ある程度のレベルまでは正確に観察できていて、固定化された空間や
前後のつながりなく様々な現象が起こっては消えていく様子がとらえられていました。

ここで気をつけたいのは自分では集中して見続けられていると思っていても
途中途中でふらふらっと現象の一つにはまり込んだり、もやもやっとした空白の
イメージに気絶したりしている瞬間がなかったかどうかをよく見ることです。

このような瞬間が起こっているにもかかわらず、脳は勝手に前後の時間を
編集・補正して自分が見たいと思ったことに都合のよいように書き換えます。

すると、瞑想においては前後の書き換えによって気絶していた時間が
「なかったこと」と認識され、自身では「うまくいった」というように勘違いします。

この脳の仕組みを理解し、エゴの都合よく補正しようとする再編集の罠に
気づけるかどうかが次の段階への鍵となります。

この「再編集の罠」は、その人の性質と思考パターンそのものが顕われています。
(さらに微細なレベルでは人というより脳の認識パターンの構造の問題になります)

また、今回はじめて参加された方はこのワークで「ある程度(爪楊枝の刺さった
先端の刺激が「痛み」という概念に変換される手前ぐらいのレベル)までは気づく
ことができるがそれ以上の微細なレベルで見切ることができない」とレポート
されました。

これは単純に集中力が不足しているためと、脳が「自分が知っている感覚」
のレベルに編集したものを認識しているためです。

本来、純粋な意識そのものはすべての現象を同時にあらゆるレベルで見ているの
ですが、人間の脳においては自分にとって必要かつ理解できるレベルの要素に
還元・編集して対象物を認識します。(生物としては、そのほうが生き延びるために
効率がよいため)

例えば、爪楊枝の刺激の場合は「先端が触れる感触・皮膚が押される感覚・先端が
めり込んでいく動きの感覚・皮膚下の電気的な刺激・それらすべての感覚にとらえら
れる直前の名付けられない何か」というような一連の現象が一瞬の間に次々に起こっ
てくるわけですが、それらのインプットされた要素のいくつかを脳内で繋ぎ合わせて
必要な情報だけをアウトプットした結果が「痛み」という言葉として認識されます。

この方の場合はもう少し繊細に感じられてはいますが、まずは無意識の脳の認識
パターンにとらわれていることを知り、内側から分解させることです。

ここで非常に重要なのは、意図的に微細な要素に分解して見ようとしないことです。

意図的に見ようとすればその意思のベクトルと圧が意識を固定化します。

前回ブログで、完全にバカになる状態について説明しましたが、頭の中心から
完全にテンションを抜いてただ映っているものを映っているままに見ることです。

そのとき、内部の目で見ているというよりも「ふっ」と意識に触れた感触のしっぽの
「残像」に距離なく気づくという感覚になります。

この状態のとき、「何か」になりきる前の現象の萌芽が見切れるようになります。

さらに集中力が高まれば、「残像」は鮮明になってフラッシュの連続のように唐突
に顕われては消えていく状態になっていきます。


*******************

【2/8(日) 東京ワーク】 ~所感と解説 その2~ に続く



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