【覚醒はコロナウイルスに勝てるか?】 ~世界でいちばん身も蓋もない話~
前回のブログ「コロナウイルスと神の視点」の掲載から20日あまり
が経ち、4/7には緊急事態宣言が発出されました。
未だ収束の見えない焦燥感や疲労感の蔓延するなか、世間では
すでに「アフターコロナ after corona」の議論を飛び越えて
「ウィズコロナ with corona」といった世界観が出てきています。
ウィズコロナとはすなわち、わたしたち人間が変異しつつ生き残り
続けるであろうウイルスとの共生を模索する局面に入るということです。
(長いスパンでは内在性レトロウイルスなどはすでに太古からヒトゲノム
と共生し人間の進化を促してきましたが)
ここには身体論から社会制度の在り方まで様々なテーマが含まれます。
また、今回の新型ウイルスが収束したとしても、新たなウイルスが生まれ
れば再び人類は脅威に晒されることになります。
この構造は、個という身体とそれを保つための免疫システムを基盤とする
人類にとって逃れられない宿命です。
これを聞くと果てしない闘いに虚無感を覚えるかもしれません。
ただ一方で、この危機的状況は様々な制度の改革を急速に促す原動力
ともなっていき、それによって具体的な意識のシフトも起こって
くるでしょう。
意識のシフトは前回のブログ「コロナウイルスと神の視点」の中で述べた
「進化」にもつながってくる話になります。
(ただし社会的なパラダイムシフトだけでは認識の根本的なシフトは
起こりません)
しかし、スピリチュアリズム的な進化の枠組みの中では希望があると
はいえ、今目の前にあるウイルスの脅威がすぐに消えるわけではあり
ません。
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ここで本題です。
「覚醒」はウイルス危機に対して何の役に立つでしょうか?
…答えは「何の役にも立たない」です。
というよりも、そもそも覚醒そのものとは何かひとつの現象に
対して役に立ったり立たなかったりといった次元のものでは
ありません。
それどころか、パンデミックの現象の源自体が覚醒なのです。
このようにいうと無力感や憤りを覚えるかもしれません。
わたしたち自身であるはずの存在の源はなぜこのような
脅威の夢を見せているのか、と。
源から促され源を信頼した結果がこのような状況であるならば、
何のために覚醒を目指したりするのか、と。
…ここにまたすでに誤解があります。
覚醒とはどこかの桃源郷にあってまだ見ぬ幸せを求めて目指すもの
ではなく、今この状況のどの瞬間を切り取ってもそれ自体として
あるものなのです。
現象世界にフォーカスするわたしたちは「この試練は何か大きな
計画のもとに起こっているにちがいない」「これを乗り越えれば
甘美なご褒美があるにちがいない」といった希望と意味を見出そう
とします。
事実、この希望と信念が生きる原動力となって何らかの未来の
夢につながっていくことは確かです。
ただし、これはあくまでも現象世界の不確かな夢です。
夢見は自動的に起こり、一切コントロールすることができません。
(コントロールしている主体としての「人」もいません)
希望と信念を胸に頑張ったとしても、理想どおりのご褒美がもらえるか
もらえないかは何の保証もないのです。
これを聞いて絶望を覚えるでしょうか?
何を信じて生きていけばよいのか途方に暮れるでしょうか?
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…ここでひとつ提案があります。
誰にでも簡単にできることです。
今これを目にしたまさにこのとき、ほんの一瞬だけ
あらゆる活動の途中で
「ストップしてみてください」
「どのように止まればよいのか?」などと正解を考えず、いかなる
準備もなく一瞬で止まってみます。
今これを試してみてくださった方のなかには
「言われたとおり止まってはみたけど、何も変わっていない」
と思われたかもしれません。
では、止まってみた瞬間のことは思い出せるでしょうか?
「その瞬間なら、思考と身体と息を止めて石のように固まっていたよ」
と思うかもしれません。
しかし、その感覚は本当に「止まっていた正にその瞬間」だった
といえるでしょうか?
それではもう一度、この瞬間に止まってみます。
「瞬間を覚えておこう」「いっせいのせで次の瞬間に止まろう」
などと準備することなく、あらゆる動作の途中で唐突に止まって
ください。
すると「止まる」という行為と意思の「オンタイムの中心点」に
あとから思い出すことのできない奇妙な空白があったことに気づか
ないでしょうか?
この空白が鍵になります。
この空白は、主観的な空白として認識されたときには直線的時空
から切り取られた瞬間としてあるものになりますが、構造的には
どの瞬間を切り取ってもその瞬間自体としてあるものです。
無限に分割しうるどの瞬間にも空白があるということは、
結局この次元の認識においてはすべてに途切れなく遍在
しているものであるということになります。
言葉で説明しようとすると難しくなりますが、まずこの空白の
最初の瞬間の感触を知ってください。
(このとき空白をイメージ化しないように気をつけます)
空白は、どこか固定化された場所にあるわけではありません。
相対的な動きの中から切り取られたどの瞬間にもあります。
空白それ自体は認識され得ませんが、次の瞬間に何かが生まれ
出ようとするときの「並列的な無限の瞬間が同時に圧縮された
何か」であって、すさまじいエネルギーの生成点であり消失点
でもあります。
「この空白を知ることが何の役に立つのか?」
と思うかもしれません。
ここでまた最初の
「それ自体は何の役にもたたない」
という答えに戻ります。
ただ、それを知ることによって脅威の時代にあってもすべての現象
すべての瞬間に覚醒の爆発があってそれ自体と一体化して動き
続けているという強烈な実感が生まれます。
そしてこの一体化した意思と力の相対的かつ絶対的な中心点の
気配に気づくとき、そこに無音室のように奇妙に静まり返った
真空にも似た「何か」が立ち顕われます。
不確かな夢の狭間に顕われる「それ」だけは、いかなる次元の
いかなる相対的な現象においても揺らぎません。
「それ」は今起こっている脅威それ自体にも中心として静かに
あります。
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昨今、「それ」の手触りに気づきはじめている人が増えていること
を実感しますが、かつての私がそうであったように、その気づきと
現実の夢の認識が平行線をたどっていて決着方法が見つけられずに
いる方も多いと思います。
決着は相対と絶対の構造的理解と認識の立体的な転換によって
起こります。
今この時期に歯痒く思うのは、言葉だけでは限界があって直接その
方法をお伝えし難いことなのですが、時期がくればワークを再開したい
と考えています。
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