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【#自称覚者 #陰謀論 #桃水雲渓 覚醒からのつぶやき 3】         

2020/09/20

1111.jpg
オリヅルランのランナーが伸びてきた


◆覚醒の最短コースなどない。
もともと距離なんてなかったのだから。

◆雲が覚醒を隠しているという物語が横行している。雲を取り払って
太陽を見ましょうというのだ。
雲自体に覚醒があることに気づけば、雲も太陽もひとつの現象である
ことを知る。  

◆すべての雲を消そうとすれば56億7000万年かかるが、すべての
雲を受け入れれば1秒もかからない。  

◆「今」というとき「い・ま」というかたまりが今の今を押し出す。
「今」に実感を求めないこと。 

◆排泄の瞬間に覚醒することもあるだろうが、口外はしないかもしれない。
夢を壊さぬよう、慈悲ゆえに笑

◆ジャンクフードの後引く味覚を正確にたどっていけば覚醒にたどり着く。
オーガニックな覚醒もジャンクな覚醒もないのだ。  

◆覚者は自身の「状態」を訴えない。
「状態」は常に完結しているからだ。
つらいときにはつらさが完結している。
つらさが続けばつらさが続くことが完結している。 
 
◆つらさの連続を直列的な時間の感覚で切ろうと必死にならないこと。
「つらさの連続」もまた、引き延ばされた一瞬である。
残酷といえば残酷だが、人によってはつらさの連続で一生が終わるかもしれない。
だが、被害者意識を持たずにこの一生を受け入れると覚悟すれば、
つらさ自体の中で救われる。  

◆「自称覚者」は槍玉にあげられるが、「他称覚者」は誰が判断しているのか。  

◆教義の証明と自己の証明を取り違えていることがあるが、
そもそも自己の証明自体、いらない。 

 ◆時間を「前後に切る」という呪縛を解こう。
気づきが「上下左右前後に分離する」という呪縛を解こう。 
 
◆360°のベクトルを意識すれば私たちは回転の中で切り取られた
限定的な一形態にすぎないことを知る。
今この現象世界に肉体を持って在ることは無駄ではない。
すべての現象の顕われがヒントとなるからだ。
ヒントは今この画面を見ている方向自体にある。  

◆それがわかれば逆に、上下左右前後を消さなければと
躍起になる必要もなくなる。
人間ならざるものになろうとして、重力や内耳の平衡感覚を
消そうとするのはバカげている。
重力と回転の中で、身体も思考も感情も夢も記憶も、
自動的に天地と水平を測ろうとする。  

◆透明なカプセル(ガチャの容器でもいい)に水を入れて持ち、
直立したり逆立ちしたり仰向けに寝たりうつ伏せに寝たりでんぐり
返ししたりしてみよう。水は即座に水平を保とうとする。
この働きが、私たちの存在様式のすべてに浸透している。

◆覚醒とは、カプセルの中で水が一瞬、無重力状態になるその時に閃く。
無重力状態で、宇宙飛行士はどのような夢を見るだろうか?
惑星の記憶が薄れていけばやがて夢の認識も変わるだろう。
お腹の中で浮いている胎児はどのような夢を見るだろうか?
惑星に産まれる前の夢を見ているにちがいない。  

◆透明に見える空気も重力に従って常に落下している。
落下の運動の中の気づきは現象世界の気づきだ。
究極的な気づきは、落下も上昇もしない。  

◆自我感覚と意思の発動と重心の移動がごちゃ混ぜになったまま
気づきを入れても「私が行為している」という感覚はいつまでたってもなくならない。
無我に先走るよりも、いったん我に戻ってそれぞれの機能を意識的に分離して
正確に観察してみよう。  

◆どの機能がどの瞬間にはじまり、どの割合で混在するのかが明確になれば、
「行為する私」が生まれる以前のエネルギーのベクトルの初動を等価に
見切れるようになる。  

◆ここがごちゃ混ぜになったまま、自分の得意な感覚に特化して気づきを入れ
続けても、気づきから切り捨てられた機能の混在が気づかないうちに意識を
「この私」に引き戻す。  

◆これに気づくには、気づきを入れつづける間にふらふらっと気づきが曖昧になる
瞬間を見逃さないことだ。
(ただし見逃すまいと緊張して待ち構えるとそれ自体が気づきのベクトルを固定する)  

◆曖昧な瞬間には必ず「不得意な(見たくない)部分の気づきのごまかし」がある。
その瞬間に気絶しているのだ。現象世界の気づきはトータルで発動しないとこの
心身を同時に連れていけない。  

◆気づきの次の瞬間の「納得感」に一瞬でも気をとられるとそこに私という質量が
発生する。
気づきは薄氷の湖上をつま先立ちで走るように入れる。
一歩にとどまれば湖の底に沈む。  

◆足裏に画鋲が刺されば足裏に意識が集中するが、足裏の痛みは脳が感じている。
夜空を見上げれば遠く離れた星が見えるが、今見ているその星はとっくの昔に
消滅しているかもしれない。
3次元の世界でも、時空を超えた知覚なんていつも体験しているのだ。  

◆苦そのものは存在しない。
あるエネルギーのベクトルと私の想いのベクトルにズレがあるとき、そのズレを
私が「苦」と名付けているだけだ。  

◆「自画像を描いてください」といったときに描かれたものには、その人の意識の
次元が顕われている。
これは実際、どこに意識があるのか丸わかりだ。
小細工もすべてバレる。  

◆わたしは私のものではない。私がわたしを所有できるはずがない。  

◆星新一のショートショートで、あるサラリーマンが会社の命令であるときは
支社に行って爆竹を鳴らし、またあるときは別の支社に行って壁を塗り替え、
といった意味不明な行為を再三繰り返させられるという話がある。
実はそれは会社の繁栄のために行われていた魔術的なツボ押しだったというオチだ。  

◆現象世界の私たちの行為は、無意識である限りこのようなツボ押し要員として
今日はあっち、明日はそっち、と使われている。世界は無数の無意識によって動いている。
ミツバチは花の蜜をせっせと集めるが、自身が花の受粉のために働いていることは知らない。

◆陰謀論が横行しているが、支配ー被支配という固定化されたひとつの世界像などない。
それらほとんどの物語は爬虫類脳に組み込まれた恐れから編まれる。
とはいえ、恐れからくる世界像の幻想が共有されれば磁場が形成され、
それがリアルと認識されるようになる。  
軽々とこの世界を駆け抜けるには、いかなる世界像の磁場にも意識を向けないことだ。 

 ◆自分の口の中の味がしないように、自分の頭の中の思考の音は聞こえていない。
思考の音すべてが聞こえたらビービーガーガーうるさすぎて一日で気が狂うだろう。  

◆瞑想者は自分の体の境界線が消える感覚を必死になって求めるが、
そんなの誰だって常にやっている。
自分の体の外にあるモノ、お金、土地、家、車、家族、恋人、人間を「自分のもの」
と感じるのは境界が消えているからだ。
我が境界を侵食して外のモノに所有感を持つ。
物質次元の我執のワンネスだ。  

◆「未来の方向へ歩いてください」というとき、後ろ向きに歩いたり横へカニ歩き
する人はまずいない。
時間の方向感覚がすでに身体に組み込まれているのだ。
逆にいえば、時間を順行させるために身体はこのような構造になった。
だから時間の幻想が見抜かれると人間は上方向へ脱出しようとするのだ。  

◆「コーヒーを飲む」という意図に気絶しているとき、コーヒーカップの取っ手の形状は、
飲もうとする人の指の動きと形を無意識のうちに誘発する。
気づきの瞑想とは、客体との関係性がアフォーダンスの手前で脱落しつづけることだ。
バーナデット・ロバーツは覚醒直後、冷蔵庫にスリッパを入れた。  

◆注意が欠陥していたからではなく、注意が極まって関係性が完全に無化してしまったのだ。
自分の手を壁に置いて立体的な内部の目で見ていると、手の行為の道具としての意味が
無化され、はじめて見るもののように「そこに何かがある」という感覚になる。 

◆ はっきりとそこにあるのに手の使用目的が抜け落ちるのだ。このとき、行為の目的
とつながった神経回路が分断されれば、微動だにせずその「何か」が映ったままサマーディに入る。
神経回路がつながったままであれば、目的の脱落した行為が起こり続けるのを奇妙な
浮遊感のあいだで目撃することになる。 

◆ 人間は音の発生場所を左右の耳に届く振動の時間差で特定している。
音速340mから算出すると、10万分の1秒の左右の時差を正確に検出しているという。
 
◆ ワンネスにあっては、音の振動はあるが音源の場所は無化される。
左右の耳の時間差はあっても、意識が音源の方向へ引っぱられないのだ。
すると、遠くの音も近くの音も、右の音も左の音も、中心で生まれては消えていく。
中心でただ、炸裂している。 

◆ 「覚醒とは」とあれこれ説明するよりも「覚醒とは今たべてるバナナです。」と言ったほうが近い。
桃水雲渓は、道で行き倒れになった乞食の傍らにあった吐瀉物をむしゃむしゃと食べて
「お前にこれができるか」と、つきまとう弟子を追い払ったそうだ。

◆具体的な視点の転換は、肉体の目を切り捨ててイメージに没入するだけでは獲得できない。
これでは常に肉体とイメージが分離してしまいイメージから戻れば肉体に引き戻される。
肉体の目は目として置いておき、同時に内部の目が発動している立体的な視点を獲得して
はじめて、新しい世界が立ち上がる。 

◆自分の心身や知覚を平面的にとらえているかぎり、世界は自対他の二元にとどまる。
自身が立体となったとき、はじめて世界の立体が立ち顕われる。一元は平面から点に
戻ることではない。
平面から立体になることで内部から視座が開き、二元の固定が解かれる。 

◆「そのままでいいんだよ」そう言われたことで緩む安心は仮初の自己受容だ。
「そのままでいいんだよ」の「そのまま」は、まさにそう言われた瞬間そのままの不確定の中にある。  

◆不幸の中心と幸福の中心は同じものである。
苦痛の中心と快楽の中心も同じものである。
ただし中心は同じ場所にはない。
中心は動き続けるすべての瞬間に立ち顕われる。
あらゆる動きは自動的に起こり続ける。
すべての動きに切れ目なく中心があるから結局、動きは中心であり、中心は動きなのだ。 

◆ このことがわかるには、いったん軸を自覚してから軸を忘れ、すべての瞬間の
無限に分割された軸を見切ればよい。
ほんとうに簡単なことだ。
探求にまつわる複雑な体験は、この心身の構造に準じて起こる些末なエピソードにすぎない。 

◆直列的な時間においては、ひとつの瞬間にひとつの事象しか存在できない。
もし自分という継続する実体があるのなら、ひとつの実体が瞬間瞬間を占有しつづけて
何一つ前に進んでいかないということになる。
事象が流れ変化し続けるのは、自分のみならずあらゆるものに固定された実体がないからだ。 
 
◆自分の物語の背後にいつもうっすらとテーマソングやバックグラウンドミュージックが
流れていないだろうか。感傷や高揚を増幅する音楽は私という物語を映画のように演出
してくれるが、死の直前まで音楽に酔っていれば再び映画の中に生まれ変わる。
死は完全な無音と最後の息の一致において完成する。 

◆ もちろんこれは、音楽を否定するものではない。
音楽は自分をナルシスティックに説明してくれる小道具ではなく、音それ自体が自身として
響いてあるものだ。音それ自体は音に酔わない。

◆新緑にも紅葉にも息吹がある。
枯木にも朽木にも息吹がある。
新緑にしか息吹を感じられないのなら、生の半分しか見ていないということになる。
新緑の発現も、枯木の発現も、同じ呼吸から起こっている。

◆気づきは、見張るのではなく見守るように入れよう。 

◆人生という関数を無限回微分しても空は導き出せない。 

◆人生でも瞑想でも、とかく「一つのことに集中しなさい」といわれるが、
空は一極集中の中心だけにあるのではない。
一極集中主義は、直列的時間においてはひとつの瞬間にひとつの事象しか認識できない
という概念にしばられている。
私という定点がなければ、二極の分裂した意識のあいだにも空はある。  

◆高校生の頃、駅のホームで電車を待っているときに前に立っている人を見て
突然「誰もいない」という奇妙な感覚が襲った。
辺りを見回しても、人の姿はあるが誰もいない。
誰もいないのに人の形が保たれ動いているのでゾっとした。 

◆ 皮膚に囲まれただけのものが自立して生きているということに、未知との遭遇
のような衝撃をうけた。
自分が今までどのように動いてきたのかも、確信が持てなくなった。
学校に着いて友達と馬鹿話をしているうちにその感覚は消えていった。
 
◆その意味がわかるのはそれから15年経ってからだった。
15年の間、確信の持てなくなった身体と自分を一から取り戻す作業に費やした。
身体の獲得は、逆行するようだが無駄ではなかった。 


関連記事
⇒【#賢い悟り #祈りとは #光と闇 覚醒からのつぶやき 29】
⇒ 【#AIソフィア #脳を断捨離 #覚者の驕り 覚醒からのつぶやき 68】


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【10/10(土)14:00~17:00 、17:30~20:30 「東京ワーク参加募集」】     

2020/09/17

*****  Rubin’s work  東京ワーク開催日時のお知らせです。

r.jpg
⇒ Amazon 販売ページはこちら


10/10(土) 14:00~17:00 、17:30~20:30
定員に達したため締め切りました。次回は11/7(土)開催予定です。

前半(基礎)後半(実践)に分けて行います。
通しで受講していただくほうが理解と集中が深まりますが、
前半もしくは後半のみの参加も可です。
(初参加の方はなるべく前半から受講してください)


◆場所は東京都中央区、参加条件等の詳細はメルマガにて
ご案内しております。


◆今回は、

【基礎】
・一瞬で集中に入るための軸と姿勢
・どこにも居座らない座法
・呼吸の秘伝的ライン
・丹田のポイントと集中の奥義
・対象のない祈り
・内部の目へのシフト

【実践】
・存在の脱落に気絶せず見ることを同時に成り立たせる
・一点集中から全方向開放の気づきへの移行
・ベクトルの発生しない気づきのありかたとは
・無限に分割される能動と受動のあいだ
・止まっていることと動いていることの差をなくす

をテーマにワークを行なっていく予定です。
(内容は参加者さんの状況によって変更となる場合があります)


◆ワーク開催にあたっては、以下のコロナウイルス
対策を行います。

・参加者間の十分な距離を確保
・息のあがる運動はしない
・参加者に新品マスク配布
・入場前の手洗い必須化
・入口での手指のアルコール除菌
・平熱以上の方の入場不可
・ワーク中の身体接触回避


直近に開催したワークの様子

【9/5 (土) 東京ワーク】~所感と解説~
http://rubins-work.com/blog-entry-86.html

【8/11 (月・祝) 東京ワーク】~所感と解説~
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【#今ここ #過去世と禅定 #自分軸 覚醒からのつぶやき 2】         

2020/09/10

虹
パートナーが朝の散歩で出会った風景。
よく見るとうっすら二重になっています。


◆「今ここ」という言葉の呪縛から解放されよう。
「今ここ」は「瞬間」ではない。
例えば、ある人が幻想に気絶したまま100年の一生を終えたとする。
そのとき、その人の「生まれてから死ぬまで」の100年の時間の
流れ自体が「今ここ」にある。
「今ここ」は無限に伸び縮みする。

◆一呼吸ごとに全世界が組み変わる。
全宇宙がわたしと同時に動いている。
信が確立するまでは「わたし」が定点のままでいい。

◆ほんの一瞬でもいいから毎日、それとともにある自覚を
思い出せば信頼は加速度的に増していき、わたしを必ず助けてくれる。

◆瞑想は新しい境地の開拓ではなく、原初の在り方の再発見だ。

◆サマタは一人称視点、ヴィパッサナーは三人称視点で起こる。
統合に至ったとき「第三の視点」ともいうべき、未知の視点が顕われる。

◆禅定は過去世の果実。
これを聞いて諦めるか諦めないかも過去世の信の果実。
だがしかし、過去世はまさに今ここにある!
このことは大いなる救いだ。

◆純粋な気づきによる心随観の直観は、時に心身の奥底
から震えが起こるほどの解放をもたらすが、一定レベルの
定力とテクニックが必要になる。
まずは思考レベルで問題を整理し、直観が起こる環境を整えよう。

◆意識的に瞑想するのならば「私は肉体ではない」と信じこもう
とする前に、何はともあれ腸を軽くするのが一番手っ取り早い。
腸が詰まっていると意識が肉体に引っ張られる。
腸が軽いとそれだけで思考のグダグダの半分は消える。

◆瞑想は、人間の心身の構造をただそのままに「置いておく」ことと、
信頼からの安堵の軽さが同時に成り立っているところで起こる。
心身のことは心身にまかせておけばいい。
心身はこのわたしよりもずっと賢い。
そうすれば、わたしはただ、軽さそのものとしてある。

◆意識的に瞑想するならば、次はないと思ってその一回の瞑想に
全ての照準を合わせよう。
全カルマの結晶がそこにあることを自覚するのだ。

◆瞑想には始まりも終わりもない。
あらゆる動作の途中で、いかなる準備もなく唐突に 座ってみよう。
そのうち座る必要すらなくなる。
区切りや構えがなくなれば、瞑想のほうからいつでも勝手にやって
くるようになる。
むこうからやってくる瞑想は、至福に満ちている。

◆身体の輪郭は、ハンガーで服を掛けておくように、物理的にも
心理的にも押しても引いてもいない「あいだ」にひょいっと引っ掛け
ておけばよい。

◆肉体の一部である脳が私であると信じれば、爬虫類にまつわる罪
や支配の呪縛と、集合無意識のアーキタイプから永遠に逃れられない。
爬虫類脳の記憶と新皮質とのせめぎ合いが原罪の物語を創る。

◆この物語がベースにあるかぎり、恐怖からの逃走が進化の動機で
在り続ける。 物語の呪縛に囚われたままAI時代に突入すれば、
恐怖からのヴァーチュアルな解放を餌に永遠に幽閉される。

◆自分がないからこそ、自分の言葉で語ろう。

◆「信」はあたりまえの日常から育まれる。
華麗な体験が起こらないからといって悪態をついて諦めてしまう前に、
今このとき自動的に呼吸が起こっている奇跡の目撃者であることを自覚しよう。

◆誰にも認められないからといって卑屈になる必要はない。
わたしたちが在ることは、それ自体で「まるごと認められている」ことの証明だから。
すでに在るんだから、そのまま居ていいのだ。
そこに誰かの許可なんているはずがない。

◆自分の存在を証明しようと躍起になる必要はない。
存在とは何か?などと考えなくてもよい。
すでに存在してしまっていることを認めるだけでよい。
それは存在について考えていないときにある。

◆生物の歴史を、自分の体で一からたどってみよう。
アメーバあたりからはじめて背骨ができて人間になったら、
ハイハイから直立歩行までやりなおしてみる。
こんどは、背骨をなくして原核生物まで逆にたどってみる。
そうすれば、神の意図に少しだけ触れられる。

◆この世でいちばん二元性を強化するのは無我の概念だ。

◆覚醒は音符 カルマは楽譜 人生は演奏 上手い演奏や下手な
演奏があるが、音符は記号として並んでいるだけだ。

◆この世界は決して完全燃焼しないようにできている。
不完全燃焼の渇望がまだ見ぬ未来への夢を生む。

◆アメンボが水面を滑るように、バッタが地面を蹴るように、
わたしという呼吸のダンスに成りきろう。

◆赤ちゃんはよく自分の足指と遊んでいる。
この世では、そういうふうに自分を遊ぼう。

◆「二極化」という「素晴らしい夢」が叶えば、弥勒菩薩は
「残念なほうの世界」でまた一からやり直しだ。

◆「悟りとはなんぞ」と「晩ご飯なに食べよう」を、同じ軽さで気づこう。

◆空間にぶらさがっている軸だけで動けば、イルカのように歩ける。

◆ネコをそっと撫でるようにエゴを労わってあげれば、安心しておとなしくなる。

◆モノとモノのあいだを魚のように泳いでいこう。
モノにぶつかっても、よくよく見るとモノは無限の穴だらけ。
自分の大きさを決めなければ、いろんな穴をくぐっていける。

◆笑いは思考の結び目を一瞬解くが、笑ってさえいればいいという
居座りは感性を愚鈍にする。

◆この世でひとつだけ修行を選ぶとすれば、肉親との確執を自力で
解消することだ。
確執のエネルギーはパターンを変えて必ず次生に持ち越す。
この際、親がどう思うかは考えなくてよい。
自身の親に対する意識だけが組み変わればよいのだ。

◆肉親との関係は確執だけにとどまらず、一見うまくいっているよう
でもそこに潜んでいる依存や力関係や価値観の刷り込みがないか
どうか内観してみよう。
それらは例え縁を切って蓋をしたとしても、必ず手を変え品を変え
反応パターンに顕われてくる。
このパターンが瞑想のサマタの完成を妨げる。

◆年齢を重ねると一見、自然に落ちてくる反応パターンもあるが、
火種が完全に消えたわけではない。
火種に油を注ぐ生体エネルギーが減少しただけで、新たな肉体に
宿れば再燃する。
ここはエゴが一番見たくない部分だが、
今世の生体エネルギーが残っているうちに着手しよう。

◆現象世界の多様性は一元性とは何ら矛盾しない。
次元を跨ぐアクロバティックな視座がハートに落ちたとき、
直接触れるようにそのことを理解する。

◆わたしは、その人その人の生き生きした実存のダンスに触れたいと思う。
それは結局、個を超えながら、個のダンスとなる。
行住坐臥のすべてがダンスだ。
座禅は、究極の即興ダンスだ。

◆熟睡して目覚めた休日の朝
震えるほど怒り泣き切った後
広々とした温泉に浸かった瞬間
悩み続けた問題が解決した瞬間
乾いた喉を湧き水で潤す瞬間
深い森のなかで深呼吸する瞬間
それらの浄化と解放すら重く感じるほど、
「信頼」から理由なく放射される安堵は、翔べそうなほど軽い。

◆亡霊は過去の記憶のループの中に閉じ込められている。
今を生きていると思っている生身の人間もまた、過去の記憶の
反応パターンに囚われているかぎり、永遠に届かない今の裏で
亡霊のように彷徨い続ける。

◆月の裏側が見えないように、自分の頭の後ろが見えないのは、
存在の形態としては摩訶不思議だ。
産まれた瞬間に、この形態にびっくりして産声をあげたくもなる。
「とんでもない世界に来てしまった」と。

◆自分の顔も、内臓の中も、背中の大部分も、脳味噌も、目玉も、
3次元の世界では一生、自分の目で見ることができない。
それなのにこの身体にアイデンティティを保ち続け、2つの小さな穴から
覗いているものを信じ切っている。

◆わたしたちは常に、一人称と三人称のあいだをゆらぎ、自身から
離脱したところにイメージとしての自己を設定し、自分の顔があることを
信じて生きている。

◆バケツに水を入れてぐるぐる回すと、水は落ちてこない。
バケツの回転を止めたとたん、水は落下する。
私の心身はバケツの中の水のように重力と遠心力のギリギリのバランス
により同一性を保っている。 バランスが崩れたとたん、私はバラバラに霧散する。
…バケツをぐるぐる回しているのは誰か?

◆常に0.2秒遅れた世界にいる私たちは、未来に進んでいるというより
「過去に間に合っていない(!)」のだ。
空白の0.2秒の間に、世界は始まって終わっている。
無限に引き延ばされた0.2秒の間に宇宙が入っている。
宇宙を知りたければ、未来に向かって急いでも絶対に間に合わない。

◆動作が起こるときの意図は、そのエネルギーとベクトルにエゴが付随
していなければ、花の蕾が開くことや木の葉が舞うことや鳥が鳴くことや
魚が飛び跳ねることとまったく同じ力から起こっている。
その根源の力を擬人化するならば、この世界は神の意図であるということもできる。

◆1秒間に24コマのフィルムは連続した動きに見えるが、1秒間に24回の
音は分割して聞こえる。
この違いは、視覚と聴覚の信号受信システムの速度差からくる。
音は「今」に少しだけ近づく鍵となる。
音の中心をハラに落とそう。

◆ 空気を瓶に詰めて売るのが経済
空気を区切り所有するのが政治
空気の性質を分析するのが科学
空気の存在を定義するのが哲学
空気に香りをつけるのが芸術
空気の価値を教えるのが宗教
空気に気づかず息してるのが凡夫
空気に気づいて息になるのが行者
空気を忘れて空気になるのが覚者

◆ 林檎を見て「林檎」とラベリングすれば、その人は林檎
を林檎と呼ぶ世界にいる。
林檎を見て「見た」とラベリングすれば、その人は林檎を
見る自分の世界にいる。
林檎を見て「・」としか林檎の実存をラベリングできないこと
がわかればラベリングを卒業してよい。
ここから空性のビーイングが始まる。

◆ どこかの星から転生してきたので地球の今世は違和感
があって辛いという話がある。
その人は転生したのではなく、この同じ場所で何生も何生も
今と同じ違和感を感じてきたのだ。
それは転生の違和感ではなく、自分自身への違和感だ。
たとえ次生で故郷の星に帰ったとしても、その人の違和感は続く。

◆ 星は自分の意識の中の座標だ。
自分の中に星の地図が入っている。
この場所にいて故郷の星との距離があるのは、この私が私自身
と一致していないからだ。
私が一致すれば、故郷はここになるのだ。
すべては意識の地図の中の座標だ。

◆ 宇宙を一人称の定点と三人称の俯瞰で同時に見ると、
座標と座標の距離は自由自在に伸び縮みする。
同時に見るときに発生するチラチラとしたゆらぎが、
無数の宇宙と星を生み出す。

◆この私が上位次元に上昇する必要はない。
この私が目指すかぎり上昇などできない。
すべての次元の私はすでにいる。
私はすでに、すべての私たちの軌跡の一辺だ。
私たちを信頼して任せておけばよい。
そうすればこの次元でこの私を全うしてあげられる。

◆カルマは理由を聞いてくれない。
「あの人が悪いから怒ったんだ」 といっても、
「あの人が悪いから」 というネバネバした質感とピキピキした
怒りの質感だけが正確に引き継がれる。
そこにおいては一切衆生が恐ろしく平等だ。

◆遠近感は両眼視差や物体の肌理や影により脳内で編集されたものだ。
だからしばしば錯覚が起こる。
遠近法の一点透視図法は一神教の神を中心に描く宗教画から発展した。
それ以前の人間は、日本画のように多神教的なフラットな世界に住んでいた。

◆ 遠近法の啓蒙によって人間は視点と意識を固定された。
それと同時に自我が強化された。
古代の人間は自我をメタ認知することがなかった。
メタ認知が、人間の苦しみを生み出した。

◆線も面も立体も多次元も、点ではなく「・」だ。

◆離れているものと自分を一体化しようとしないこと。
離れていることそのものの真ん中に、距離のない自分がある。

◆世界は無限の真ん中の連続である。

◆真ん中の波に乗っていく。

◆不均衡なものにも真ん中はある。
見かけの不均衡さにとらわれないこと。

◆一瞬の気づきを持続させようとしないこと。
あらゆる持続の意図は夢に気絶する入り口となる。
しかし、本当は夢も持続しているわけではない。
一瞬一瞬あらたに眠っているだけなのだ。
覚醒はこの逆を辿ればよい。

◆持続の夢から目覚めるために、見かけ上の動きの
連続性を止めようとしないこと。
気づきは時間と空間の分割の中にはない。

◆この私とは、世界を分割し分類する「機能」である。
便宜上の機能がなければ、限定された空間の中で私と私は
ゴツンとぶつかってしまう。
機能は単にメカニズムであってそれ自体、良くも悪くもない。

◆「自分軸」は自分が消えるところにある。
自分のイメージする自分軸を自分で作れば、
自分軸自体にがんじがらめになる。

◆夢の持続の瞬間には麻薬的なうねりと気絶がある。
この瞬間を見切ろう。

◆粒と波の両方を見よう。
粒を見るには粒に、波を見るには波になればよい。

◆善行の果を今生の自分が受け取るという保証はない。
「自分が受け取る」という自分がないとき、善行は善行
としての目的を果たし、善が剥がれて行となる。

◆入念に準備してからわかろうとする必要はない。
今、わかってしまっていいのだ。
そこには自己を超えた自己受容がある。

◆存在に言い訳はいらない。
モノも植物も動物も、自身が在ることを言い訳したりしない。
言い訳してもしなくてもかまわないが、どちらが自然の状態かは明らかだ。

◆この世界は、肉体にフォーカスすれば肉体の、イメージに
フォーカスすればイメージの、運動にフォーカスすれば運動の、
空にフォーカスすれば空のワンネスとなる。

◆パンが肉でありワインが血であるのは肉体の世界のワンネスだ。

◆パンとワインが肉と血を超えるとき、パンがパンにパンを
食べさせ、ワインがワインにワインを飲ませる。

そこに食物連鎖はない。

◆存在の覚醒では、沸騰した水の泡のように全てが私ととも
に弾けている。

ただし沸騰し底から昇って水面で弾けるまでのプロセスは一切ない。

唐突に弾けた瞬間だけがある。


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#能動と受動 #あいだ  【9/5(土) 東京ワーク ~所感と解説~】   

2020/09/09

◆9/5(土)東京にてワークを開催しました。

ワーク1


**************

【所感と解説】


◆今回は初参加の方が数名いらっしゃったので、すべてのベース
になる「能動と受動のあいだ」の気づきをメインに進めました。

ここは、基本でありながら最後の核心部にまで直接つながっている
重要なポイントです。



◆まず、「あいだ」を見切るための土台として、以下のエクササイズ
を行いました。

※それぞれのワークの方法と解説については
下記にある過去記事を参照してください。

・軸に消えてあるためのエクササイズ
http://rubins-work.com/blog-entry-60.html
http://rubins-work.com/blog-entry-68.html

・インテンションのベクトルとはじまりを見切る
http://rubins-work.com/blog-entry-61.html

・意図が落ちたインテンションの感覚を知る
http://rubins-work.com/blog-entry-61.html



◆ニュートラルな身体と気づきのベースを共有したところで、
ここ最近、毎回恒例になりつつある「爪楊枝」をつかった
ワークを行いました。

IMG_3071.jpg


※前回・前々回の爪楊枝のワークの様子と方法
http://rubins-work.com/blog-entry-69.html
http://rubins-work.com/blog-entry-72.html

~前々回のブログより~

能動でも受動でもない、どこにも属さない「あいだ」とはなんでしょうか。

今回は、一見他愛もない遊びのようですが小道具として爪楊枝を使って
実験してみました。


最初に爪楊枝で軽く指先などをチクっと軽い痛みが起きる程度に刺してみます。

何度か刺してみて、その瞬間の感覚や反応を観察します。

次に、爪楊枝を利き手で持って「能動者の意識=刺す側の意識」になって逆側
の手の指を刺してみます。

その次に、こんどは「受動者の意識=刺される側の意識」になって爪楊枝が指
に触れてから刺されるまでの感覚を見ます。

能動者のときと受動者のときの刺す⇔刺される瞬間の感覚や心理的な反応の
違いが観察できたら、能動受動を意識せずに単純な行為として爪楊枝を指に
刺してみます。

刺す行為を何度かゆっくり注意深く繰り返してみて、瞬間瞬間に先ほどの能動
か受動のかすかな感覚が発生していないかどうかを観察し、そのどちらでもない
ニュートラルな瞬間がどこにあるかを発見します。

そのニュートラルな瞬間には、爪楊枝の先端と指の接触点では何が起こって
いるでしょうか?

さきほどまで「チクッとした痛み」と名付けられていたものが意味を失い、刻々と
変化しながら起こり続け果てしなく分割可能な点の断続に気づかないでしょうか。

そこにはすでに心理的な反応は介在していません。

なぜなら、個別の能動者も受動者も存在しないからです。

そのときその瞬間は、誰のものでもないのです。

そこではただ、唐突に現象の断続的な変化が自動的に起こり続けています。

これが、いかなるベクトルも発生させずに「あるがままの世界を見る」ことです。

あるがままの世界を見ているとき、観察者は現象そのものの中心と一体化して
消えています。

「あるがままの世界を見る」というよりも、正確には「あるがままの世界としてある」
といったほうが近いかもしれません。




◆この、能動と受動のあいだというのは、どの位相のどの瞬間にも
全てにおいてあるものです。

このことをまずは3次元の物質を通して体感していただくために、
上記の爪楊枝のワークに加えて、今回はナイロンの糸を使ってみました。

糸


まず、2人組になって糸の両端を指でつまんでもらいます。

そして、糸をピンと張って相手と自分のあいだで起こる微細な振動や
バランスが取れて一瞬止まっている状態を感じ取っていきます。


微細な振動を感じているときは、2人の間で糸の引っ張り合いの
駆け引きが起こっていますが、バランスが取れているときは、糸の
張りの感覚自体が消えて真ん中でふっと質量の消えているような
ところが見つかります。

ここは能動的に引っ張っても受動的に引っ張られてもいない
均衡なポイントです。

この真ん中にお互いの意識があるとき、その瞬間2人は同時
にそこに消えています。


次に、お互いの微細な振動を感じとりながら瞬間瞬間、糸の
バランスのとれる方向へ感覚をたよりに移動していきます。

すると、2人の身体が思いもよらない方向へどんどん勝手に
進んでいったり回転したり上下したりしはじめます。
(皆さんの動きは即興的なデュエットのダンスとして見ても
優雅で秀逸なものでした。)


このとき、糸の移動と運動のどの瞬間にも先ほどの「質量の
消えているところ」があることを見出せます。

見かけ上、止まっていても動いていても、どの瞬間にもそれが
あるのです。

この実験ではシンプルに2方向のバランスから起こる力学的な
消失点を体感していただきましたが、実はこの消失点は360度
どのバランスの中にもあって、どの方向のどの瞬間にもあるのです。

そしてまた、物質のみならず思考や感情や意図やエネルギーと
いったすべてのものに、このポイントが瞬間瞬間に無限にあるのです。
(これは、単純に物質的な力学に還元しているだけでは体感的に
見切ることが難しいですが、原理としては同じことです)


糸で例えるとイメージとしては、ひとつの思考の瞬間に360度すべての
方向に糸が引っ張られていてその瞬間のバランスをとっている感覚です。
(360度というのはあくまでも3次元で例えた場合です。多次元から
見れば別のベクトルが加わってきます。)

このように、あらゆるものが360度引っ張ったり引っ張られたりしながら
無限にバランスをとっていて、そのひとつひとつの「決定された」バラン
スの真ん中はそれ自体として消えているのです。

これは現象世界の極小から極大まですべてのものに共通しています。


ある意味、現象世界側の理解としては、このことがシンプルに腑に
落ちればよいといえます。

ただ、おそらくそれらの消失点をバラバラに見出すことができても、
運動の連続性や「わたし自身」の存在や認識との関係性が腑に
落ちないということがあると思います。

これは、サマタが高まっても対象と気づきが並行し続ける問題にも
関係していますが、認識とハートと丹田それぞれの明確な理解と、
軸に消えて存在に脱落してあることによって一気に解決します。



◆次に、同じことを壁をつかって体感していただきました。

IMG_3108.jpg

まず手のひらを広げて壁に触れます。
そして思い切り壁を能動的に押してみます。

壁を押したままこんどは壁から受動的に押し返されている
圧を感じます。

そして、手をそのままの圧でそこに「置いて」おいたまま、
能動でも受動でもないあいだを見つけます。


あいだが見つかったら、そこで起こってくる一瞬一瞬の圧の
変化やゆらぎを見ていきます。

ここでポイントなのは、手を「自分の手」の感覚の延長で置くのでは
なく、内部の目から「誰の手でもないもの」として見ていることです。

このとき、手と名付けられていた「何か」が視界に映り込んでいる
ところで、壁との接地面で起こることだけを気づいている状態になります。


tamago.jpg

この状態になったら手を壁から離し、こんどは手のひらに卵をのせて
割れるか割れないかぐらいの強い力で握ってみます。

(卵を小道具に選んだのは、割れるか割れないかという緊張感を
気づきの精度に意図的に転換できると考えたからです)

壁を押していたときと同じように、卵と手のひらの接地面の能動でも
受動でもないあいだを見つけます。


あいだはふわっとした隙間のイメージではなく、強いテンションや
どのような物質や運動の真ん中にもあります。

その感覚をつかむとともに、能動と受動のバランスのゆらぎを見て
いくと、どのバランスで自分という感覚や意図がでてくるかが
見切れてきます。


tamago2.jpg

tamago3.jpg

しばらく「あいだ」に起こってくる現象を微細に見ていった後、
卵をそっと床に置いてみます。

すると、よほど集中力が高まっていないかぎり通常、手のひら
から卵が離れた瞬間「自分が握っていた卵」と「床に置かれた卵」
との間に断絶が起こります。

床に置かれた卵は、手のひらの中にあった時と同じように、あいか
わらず能動でも受動でもないあいだにピッタリのバランスでそこに
存在しているのにもかかわらず、なぜそれは「私から離れたもの」
になったのでしょうか?

何が卵と私を隔てたのでしょうか?


そのことを確かめるために、卵をもういちど握ってみて、
床に置いてみます。

あらん限りの集中力をもって、「あいだ」からその瞬間を見ます。

指からふっと卵が離れた瞬間、何が離れたのでしょうか?


手を徹底的にただ「置いておく」ということと、能動と受動との
あいだに私が消えていることで、この断絶はなくなり、握っていた
卵は手から離れても一続きの存在としてただ在りつづけます。

これら一連のことすべてが、あいだに消えている私の中で地続き
に展開しているのです。

これはシンプルなワークですが、集中力が一瞬に結実すれば
これだけで覚醒に触れることもできるといえます。



◆ワークの終わりに、ある参加者さんが「あいだの感覚はつかめ
たのですが、ゆらゆら揺らいでしまいます。あいだが見つかったら
それをキープしたほうがよいのでしょうか?」と質問されました。

自身では能動的に「キープしよう」と一切考えないでください。

気づき自体は一瞬一瞬切れていてかまいません。


あいだの一点に自動的に「集中してしまっている」ことは必要です。

でもこの集中は勝手に起こっているのです。

ただ、集中が勝手に起こるにはある程度の訓練は必要になります。

そのために、今回は行いませんでしたが、丹田の奥底に集中していく
ワークがあります。


集中が自動的に「吸いつく」ような感覚になってはじめて、そこから
逸脱する微細な動きや意図が見切れるようになります。

これは集中しながら醒めて見ているような状態です。

この状態において、先の「卵と私」の区別がなくなるのです。
(正確にいうと、この状態では認識の境界線がなくなる段階であって
私自身の存在との一体化はもう一段別の仕組みが必要となります)


この参加者さんは、あいだの感覚や丹田の感覚や内部の目の感覚
などを繊細に感じ取られているので、今回の質問のようなちょとした
思い違いで脇道に逸れなければ、バラバラだった気づきがご本人の
タイミングで統合されていくだろうと思います。



◆ここ数回のワークで思うことは、覚醒のトリガーは人それぞれで、
その人その人の入口があるということです。

一人一人の入口をピンポイントで見つけて直接働きかけれたらと
いうエネルギーが私の中で沸き起こってきています。

その人にフィットしない方法をいくら続けても、できないことだけに
フォーカスして委縮していってしまうのは悲しいと感じるのです。

物理的な制限でなかなかお一人お一人と向き合う時間がとれない
状態ですが、グループワークにおいてもこの点は常に心していたい
と思います。


今回、ある参加者さんが糸のワークのときに思いがけず生き生きと
弾んでいらっしゃるのを見て、とても嬉しくなりました。

パっと見たかぎり繊細な神経をお持ちで、繊細だからこそ外部に
侵入されないように観念をもって自身からズレたところに軸をつくろう
とされているように見受けられたのですが、実はこの方はある種
(男性ですが)「巫女」的な感性をお持ちなのではと発見しました。

この感性は、前回のワークのときにもその一端がちらっと見えたの
ですが、今回さらに確信しました。


ご本人は硬派な哲学や修行を望まれているかもしれませんが、私は
個人的にその方の巫女的な感性の延長にとてつもない集中力と
突破口があるような感触を得たのです。

ただ、私だけがそう感じていてもご本人の意図やタイミングと合って
いないと無理やり進めることはできません。

それでも、私としてはこのような発見をさせていただいたことは
今後の指針になってくるだろうと感じています。


この方にかぎらず、参加者さん全員それぞれの存在の煌めきが
諸所に感じられ、今回も密度の濃いワークとなったことを感謝します。

ワーク2


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