【#自称覚者 #陰謀論 #桃水雲渓 覚醒からのつぶやき 3】

オリヅルランのランナーが伸びてきた
◆覚醒の最短コースなどない。
もともと距離なんてなかったのだから。
◆雲が覚醒を隠しているという物語が横行している。雲を取り払って
太陽を見ましょうというのだ。
雲自体に覚醒があることに気づけば、雲も太陽もひとつの現象である
ことを知る。
◆すべての雲を消そうとすれば56億7000万年かかるが、すべての
雲を受け入れれば1秒もかからない。
◆「今」というとき「い・ま」というかたまりが今の今を押し出す。
「今」に実感を求めないこと。
◆排泄の瞬間に覚醒することもあるだろうが、口外はしないかもしれない。
夢を壊さぬよう、慈悲ゆえに笑
◆ジャンクフードの後引く味覚を正確にたどっていけば覚醒にたどり着く。
オーガニックな覚醒もジャンクな覚醒もないのだ。
◆覚者は自身の「状態」を訴えない。
「状態」は常に完結しているからだ。
つらいときにはつらさが完結している。
つらさが続けばつらさが続くことが完結している。
◆つらさの連続を直列的な時間の感覚で切ろうと必死にならないこと。
「つらさの連続」もまた、引き延ばされた一瞬である。
残酷といえば残酷だが、人によってはつらさの連続で一生が終わるかもしれない。
だが、被害者意識を持たずにこの一生を受け入れると覚悟すれば、
つらさ自体の中で救われる。
◆「自称覚者」は槍玉にあげられるが、「他称覚者」は誰が判断しているのか。
◆教義の証明と自己の証明を取り違えていることがあるが、
そもそも自己の証明自体、いらない。
◆時間を「前後に切る」という呪縛を解こう。
気づきが「上下左右前後に分離する」という呪縛を解こう。
◆360°のベクトルを意識すれば私たちは回転の中で切り取られた
限定的な一形態にすぎないことを知る。
今この現象世界に肉体を持って在ることは無駄ではない。
すべての現象の顕われがヒントとなるからだ。
ヒントは今この画面を見ている方向自体にある。
◆それがわかれば逆に、上下左右前後を消さなければと
躍起になる必要もなくなる。
人間ならざるものになろうとして、重力や内耳の平衡感覚を
消そうとするのはバカげている。
重力と回転の中で、身体も思考も感情も夢も記憶も、
自動的に天地と水平を測ろうとする。
◆透明なカプセル(ガチャの容器でもいい)に水を入れて持ち、
直立したり逆立ちしたり仰向けに寝たりうつ伏せに寝たりでんぐり
返ししたりしてみよう。水は即座に水平を保とうとする。
この働きが、私たちの存在様式のすべてに浸透している。
◆覚醒とは、カプセルの中で水が一瞬、無重力状態になるその時に閃く。
無重力状態で、宇宙飛行士はどのような夢を見るだろうか?
惑星の記憶が薄れていけばやがて夢の認識も変わるだろう。
お腹の中で浮いている胎児はどのような夢を見るだろうか?
惑星に産まれる前の夢を見ているにちがいない。
◆透明に見える空気も重力に従って常に落下している。
落下の運動の中の気づきは現象世界の気づきだ。
究極的な気づきは、落下も上昇もしない。
◆自我感覚と意思の発動と重心の移動がごちゃ混ぜになったまま
気づきを入れても「私が行為している」という感覚はいつまでたってもなくならない。
無我に先走るよりも、いったん我に戻ってそれぞれの機能を意識的に分離して
正確に観察してみよう。
◆どの機能がどの瞬間にはじまり、どの割合で混在するのかが明確になれば、
「行為する私」が生まれる以前のエネルギーのベクトルの初動を等価に
見切れるようになる。
◆ここがごちゃ混ぜになったまま、自分の得意な感覚に特化して気づきを入れ
続けても、気づきから切り捨てられた機能の混在が気づかないうちに意識を
「この私」に引き戻す。
◆これに気づくには、気づきを入れつづける間にふらふらっと気づきが曖昧になる
瞬間を見逃さないことだ。
(ただし見逃すまいと緊張して待ち構えるとそれ自体が気づきのベクトルを固定する)
◆曖昧な瞬間には必ず「不得意な(見たくない)部分の気づきのごまかし」がある。
その瞬間に気絶しているのだ。現象世界の気づきはトータルで発動しないとこの
心身を同時に連れていけない。
◆気づきの次の瞬間の「納得感」に一瞬でも気をとられるとそこに私という質量が
発生する。
気づきは薄氷の湖上をつま先立ちで走るように入れる。
一歩にとどまれば湖の底に沈む。
◆足裏に画鋲が刺されば足裏に意識が集中するが、足裏の痛みは脳が感じている。
夜空を見上げれば遠く離れた星が見えるが、今見ているその星はとっくの昔に
消滅しているかもしれない。
3次元の世界でも、時空を超えた知覚なんていつも体験しているのだ。
◆苦そのものは存在しない。
あるエネルギーのベクトルと私の想いのベクトルにズレがあるとき、そのズレを
私が「苦」と名付けているだけだ。
◆「自画像を描いてください」といったときに描かれたものには、その人の意識の
次元が顕われている。
これは実際、どこに意識があるのか丸わかりだ。
小細工もすべてバレる。
◆わたしは私のものではない。私がわたしを所有できるはずがない。
◆星新一のショートショートで、あるサラリーマンが会社の命令であるときは
支社に行って爆竹を鳴らし、またあるときは別の支社に行って壁を塗り替え、
といった意味不明な行為を再三繰り返させられるという話がある。
実はそれは会社の繁栄のために行われていた魔術的なツボ押しだったというオチだ。
◆現象世界の私たちの行為は、無意識である限りこのようなツボ押し要員として
今日はあっち、明日はそっち、と使われている。世界は無数の無意識によって動いている。
ミツバチは花の蜜をせっせと集めるが、自身が花の受粉のために働いていることは知らない。
◆陰謀論が横行しているが、支配ー被支配という固定化されたひとつの世界像などない。
それらほとんどの物語は爬虫類脳に組み込まれた恐れから編まれる。
とはいえ、恐れからくる世界像の幻想が共有されれば磁場が形成され、
それがリアルと認識されるようになる。
軽々とこの世界を駆け抜けるには、いかなる世界像の磁場にも意識を向けないことだ。
◆自分の口の中の味がしないように、自分の頭の中の思考の音は聞こえていない。
思考の音すべてが聞こえたらビービーガーガーうるさすぎて一日で気が狂うだろう。
◆瞑想者は自分の体の境界線が消える感覚を必死になって求めるが、
そんなの誰だって常にやっている。
自分の体の外にあるモノ、お金、土地、家、車、家族、恋人、人間を「自分のもの」
と感じるのは境界が消えているからだ。
我が境界を侵食して外のモノに所有感を持つ。
物質次元の我執のワンネスだ。
◆「未来の方向へ歩いてください」というとき、後ろ向きに歩いたり横へカニ歩き
する人はまずいない。
時間の方向感覚がすでに身体に組み込まれているのだ。
逆にいえば、時間を順行させるために身体はこのような構造になった。
だから時間の幻想が見抜かれると人間は上方向へ脱出しようとするのだ。
◆「コーヒーを飲む」という意図に気絶しているとき、コーヒーカップの取っ手の形状は、
飲もうとする人の指の動きと形を無意識のうちに誘発する。
気づきの瞑想とは、客体との関係性がアフォーダンスの手前で脱落しつづけることだ。
バーナデット・ロバーツは覚醒直後、冷蔵庫にスリッパを入れた。
◆注意が欠陥していたからではなく、注意が極まって関係性が完全に無化してしまったのだ。
自分の手を壁に置いて立体的な内部の目で見ていると、手の行為の道具としての意味が
無化され、はじめて見るもののように「そこに何かがある」という感覚になる。
◆ はっきりとそこにあるのに手の使用目的が抜け落ちるのだ。このとき、行為の目的
とつながった神経回路が分断されれば、微動だにせずその「何か」が映ったままサマーディに入る。
神経回路がつながったままであれば、目的の脱落した行為が起こり続けるのを奇妙な
浮遊感のあいだで目撃することになる。
◆ 人間は音の発生場所を左右の耳に届く振動の時間差で特定している。
音速340mから算出すると、10万分の1秒の左右の時差を正確に検出しているという。
◆ ワンネスにあっては、音の振動はあるが音源の場所は無化される。
左右の耳の時間差はあっても、意識が音源の方向へ引っぱられないのだ。
すると、遠くの音も近くの音も、右の音も左の音も、中心で生まれては消えていく。
中心でただ、炸裂している。
◆ 「覚醒とは」とあれこれ説明するよりも「覚醒とは今たべてるバナナです。」と言ったほうが近い。
桃水雲渓は、道で行き倒れになった乞食の傍らにあった吐瀉物をむしゃむしゃと食べて
「お前にこれができるか」と、つきまとう弟子を追い払ったそうだ。
◆具体的な視点の転換は、肉体の目を切り捨ててイメージに没入するだけでは獲得できない。
これでは常に肉体とイメージが分離してしまいイメージから戻れば肉体に引き戻される。
肉体の目は目として置いておき、同時に内部の目が発動している立体的な視点を獲得して
はじめて、新しい世界が立ち上がる。
◆自分の心身や知覚を平面的にとらえているかぎり、世界は自対他の二元にとどまる。
自身が立体となったとき、はじめて世界の立体が立ち顕われる。一元は平面から点に
戻ることではない。
平面から立体になることで内部から視座が開き、二元の固定が解かれる。
◆「そのままでいいんだよ」そう言われたことで緩む安心は仮初の自己受容だ。
「そのままでいいんだよ」の「そのまま」は、まさにそう言われた瞬間そのままの不確定の中にある。
◆不幸の中心と幸福の中心は同じものである。
苦痛の中心と快楽の中心も同じものである。
ただし中心は同じ場所にはない。
中心は動き続けるすべての瞬間に立ち顕われる。
あらゆる動きは自動的に起こり続ける。
すべての動きに切れ目なく中心があるから結局、動きは中心であり、中心は動きなのだ。
◆ このことがわかるには、いったん軸を自覚してから軸を忘れ、すべての瞬間の
無限に分割された軸を見切ればよい。
ほんとうに簡単なことだ。
探求にまつわる複雑な体験は、この心身の構造に準じて起こる些末なエピソードにすぎない。
◆直列的な時間においては、ひとつの瞬間にひとつの事象しか存在できない。
もし自分という継続する実体があるのなら、ひとつの実体が瞬間瞬間を占有しつづけて
何一つ前に進んでいかないということになる。
事象が流れ変化し続けるのは、自分のみならずあらゆるものに固定された実体がないからだ。
◆自分の物語の背後にいつもうっすらとテーマソングやバックグラウンドミュージックが
流れていないだろうか。感傷や高揚を増幅する音楽は私という物語を映画のように演出
してくれるが、死の直前まで音楽に酔っていれば再び映画の中に生まれ変わる。
死は完全な無音と最後の息の一致において完成する。
◆ もちろんこれは、音楽を否定するものではない。
音楽は自分をナルシスティックに説明してくれる小道具ではなく、音それ自体が自身として
響いてあるものだ。音それ自体は音に酔わない。
◆新緑にも紅葉にも息吹がある。
枯木にも朽木にも息吹がある。
新緑にしか息吹を感じられないのなら、生の半分しか見ていないということになる。
新緑の発現も、枯木の発現も、同じ呼吸から起こっている。
◆気づきは、見張るのではなく見守るように入れよう。
◆人生という関数を無限回微分しても空は導き出せない。
◆人生でも瞑想でも、とかく「一つのことに集中しなさい」といわれるが、
空は一極集中の中心だけにあるのではない。
一極集中主義は、直列的時間においてはひとつの瞬間にひとつの事象しか認識できない
という概念にしばられている。
私という定点がなければ、二極の分裂した意識のあいだにも空はある。
◆高校生の頃、駅のホームで電車を待っているときに前に立っている人を見て
突然「誰もいない」という奇妙な感覚が襲った。
辺りを見回しても、人の姿はあるが誰もいない。
誰もいないのに人の形が保たれ動いているのでゾっとした。
◆ 皮膚に囲まれただけのものが自立して生きているということに、未知との遭遇
のような衝撃をうけた。
自分が今までどのように動いてきたのかも、確信が持てなくなった。
学校に着いて友達と馬鹿話をしているうちにその感覚は消えていった。
◆その意味がわかるのはそれから15年経ってからだった。
15年の間、確信の持てなくなった身体と自分を一から取り戻す作業に費やした。
身体の獲得は、逆行するようだが無駄ではなかった。
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