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【覚醒からのつぶやき 10】       

2020/10/26

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。

水晶クラスター
アリゾナから連れてきた水晶クラスター


◆世界は回転する巨大な揺り籠のようなもの。
お母さんに守られてスヤスヤ寝ている。

◆夢の中には夢の物理があって、それを信じ切っている。
信じないとバラバラになってしまうから。

◆ギョッとする感触でそのことを悟る。

◆こうやって動いたり呼吸したりしているのが当たり前だと思ってるけど、
夢の物理に気づいたら、一瞬一瞬ギョッとするよ。

◆夢の中の微かな違和感は、目覚めのはじまり。

◆夢から覚めたいと言いながら、この夢が現実である証拠を探し続けている。
自分が自分でなくなるのが怖いから。

◆夢を夢と見破るには、夢の原理じゃどうにもならない。

◆物理的に夢から抜けようと思ってもダメ。
夢の物理にギチギチに組み込まれた、 夢の構成員だから。

◆夢から覚めたと思ったらまた別の夢に入ってる。

◆夢のどこかに出口があるのではなく、夢のあいだに始まりと終わりの
交わる点がある。
この点はすべての次元の接点。 出入り口という感覚は捨てること。

◆夢の出入り口という発想は、起きてるか寝てるかという、
わたしたちの二元的な認識による思い込み。

◆夢から目覚めるのは、お母さんに反抗することではなくて、
育ててくれたお母さんをねぎらうことなんだ。

◆お母さんの気持ちを知ること。

◆夢のどこからでも目覚められる。
すべての瞬間が、接点だから。

◆本当は寝ても起きてもいないんだから、
接点に重なるだけでいいのです。

◆救われるというよりも、受け取られる自覚が生じる。

◆その人の言葉を見れば、存在の底から泣いたことの
ある人かない人かがわかる。

◆存在の底はどこまでも深く、悲劇も喜劇もすべて飲み込む。

◆存在の奥底は、この世にないほど低く重く響く音。
認識の消失点は、この世にないほど高く細かく震える音。
どちらも肉体の耳では聴こえない。

◆部屋の片隅に蜘蛛がいると気になる。
生きて動いてるからだ。
でも本当は生きているのは蜘蛛だけじゃない。
部屋の中の全部の物が、生きているのだ。
そのように、世界のざわめきと親密になろう。

◆「生きとし生けるものが幸せでありますように」 というとき、
無意識に生物だけをイメージしない。
世界のすべてが、区別なく生きているのだ。

◆物質と生物を自分の感覚で切り離すと、
常に自分と離れた物が取り残される。

◆心理的な癖は、時空を超えた物理的なねじれ。

◆灌頂を受けるのも、鼻をほじくるのも、同じ「それ」。

◆睡眠は気のすむまでとる。
肉体的にも心理的にも、寝不足の人が多すぎる。
寝不足なところにどんなテクニックを加えても無駄。

◆人間は太陽と月のリズムに支配され続けてきた。
リズムに合わせないと自律神経が狂うように刷り込まれてきたけど、
本当は睡眠なんて自由なのだ。
猫のように気の赴くままに寝たり起きたりしていると、
瞑想はいつでも勝手に起こる。
ただし、罪悪感は完全に捨てなければ、逆効果で鬱になる。

◆ワークで参加者さんが、無自覚なまま一瞬「それ」の状態を体現すると、
頭の周りの光がウワッと広がる。
「あっ、それです!」と言った瞬間、また縮まる。
勘違いしやすいのは、この光を自分で広げようと画策すること。
光自体は現象であって、覚醒そのものではない。
自分を拡大しようとしない。

◆父は垂直、母は水平。
これもまた、3次元の呪縛。

◆文字は意識を鋳型にはめ込む。
文節は意識を時間にはめ込む。
構文は意識を世界にはめ込む。

◆体を憎まず、一緒に連れていってあげてください。
むしろ体のほうが、あなたの成長を待っているのです。

◆縄跳びの輪に入って、世界と一緒に跳べばいい。
まだ輪に入ってもいないのに、輪から抜けようとしている。

◆一緒に跳んだところに、それがある。

◆「それ」の状態では、一切の判断はシンプルになる。
自分の頭で取捨選択しなくてよくなるからだ。
ただし「取捨選択しない」わけではなく「取捨選択は起こる」。
このとき「あれ?アルツハイマーになったのかな?」と一瞬、
ぽかんとする感覚を伴うが、曖昧なものはなくすべてを鮮明に見ている。

◆感覚としては、はじめて来た土地に泊まって、夜中にパッと起きて
「あれ?」と、状況がつかめないのだけど、周囲のものが鮮明に迫って
浮きあがっているような感じ。
その状態のまま、時計を見たり水を飲んだりすることはできるが、
自分の実感が戻ってこない感じ。

◆電車でうとうと居眠りをしていて、目的の駅でドアが閉まりかけて
ハッと起きて、頭が白紙のまますごい勢いで荷物を持って飛び降りる、
そんな感覚。
全部、勝手に起こってる。
脳を使っていないわけではなく、自我の実態感とは別のところで
動いているのだ。
反射運動ともまた違う。

◆この意識状態は、意図的につくろうと思えばつくれるが、
状態を体験するだけでは覚醒ではない。
自己との一致の確信がないからだ。
状態は現象にすぎない。
瞑想者は、テクニックだけでは確信に至ることはできない。

◆夢遊病や離人症のように自己と離れて動いているわけでもない。
逆に、世界は自己の空白に「迫ってくる」感覚が起こる。
でも、これは最初の予兆にすぎない。
自我の実態感が消えた驚きにとらわれていて、
まだ、中心に消えていないのだ。

◆この意識状態は、自分を取り繕う意思がまったく抜け落ちているので、
無駄なエネルギーを使わない。
白紙の状態のところにボールが飛んできたら、それを自動的に避けたり
投げ返したりはするが、頭に当たって死んでもまあいいか、ぐらいの感覚。
ものすごく、軽い。

◆この軽さで、みんなで笑いながら生をひょいっと飛び越えたいですね。
重さなんて、エネルギーのちょっとした偏りにすぎないのだから。
もっといえば、笑いさえ重い。
笑いは、人間であったときの苦の反動。
ありのままに在るものは、わざわざ笑っていないでしょう?

◆これは本当に、心理的な問題なんかじゃないんです。
ぽーんと飛んじゃえばいいだけ。
「自己の本性を見抜く」とか、大上段に構えないで。
自分の存在意義を誰かに説明しようとしないで!
わかっているものがただ、わかっていればいいんです。

◆自分で教えてて何ですが、悟り業界、覚醒業界とか、
人類史における壮大なトリックなのです。
そんなものは遠慮せずに、飛び越えていいんですよ。
「それは違う」って、何が違うというのですか?
それとしてすでにあるわたし以上に正しいものがあるでしょうか?
物語の重圧に飲み込まれないこと。

◆覚醒しても経典を投げ捨てないひとは、嘘です。

◆もっといえば、経典を投げ捨てるフリをする人も、嘘です。
そんなことはどちらでもいいのです。

◆経典って、人間への優しさなんだろうね。
なんとかして噛み砕いて希望をあたえようっていう。

◆あれが違う、これが違うという境地のケチのつけあいなど、
笑止千万です。
教義の正しさの証明のために生きているのでしょうか?
あなたがあなたであることは、神でさえもケチをつけられないのです。

◆私は、いつか教えることはやめるだろう。
あらゆる教えは、究極ではないから。
教えるものも教えられるものもいない。
存在をめでることしか、できなくなる。

◆鼻息は軽く、軽く! 鼻息で羽のように天に舞う。

◆みんな、すでに気づいているのに、気づいていないフリをして
遊んでいるだけでしょう?
わたしは長いこと騙されてきたけど、もうみなさんのことは知っていますよ笑
長い長いネタフリの末に、ネタバラシのサプライズの時機を
うかがっていたんでしょう?

◆この世界は、メタ小説だ。 わたしがわたしを、騙している。

◆騙し騙されていたのが、自作自演だったと知って、ゲラゲラ笑う。
笑いながら、飛んでいく。

◆この世界でちょっと遊ぶつもりが、いつの間に巨大なエネルギーになっていって、
自分で自分に重りをつけてしまったことに面食らっている状態。
子供が線路に石を置いて遊んでいたら大惨事になってしまった、みたいな。
ほんの微かに興味が動いてしまったんだね。
そのことは、いいかげん学習しよう。

◆覚醒にロマンを求めない。
うっとりしない。

◆自分が消えて、世界が消えることが怖い?
大丈夫です。
この世界の見かけが消えるだけです。
何も変わりません。

◆この肉体を一緒に連れていくことは、この世界を一緒に連れていくこと。
そのことは、担当者として一任されているのです。

◆たったひとつのことを言うのに、よくもまあそんなに
たくさんの経典が書かれたものだ。

◆聖なる体験と俗なる体験が分かれてあるわけではない。
フォーカスの倍率の違いだけがある。

◆いま突然「怖れも畏れもオーソレミオ」というしょうもないダジャレ
が浮かんできて「どんなカルマが言わせたんだよ」と失笑したが、
オーソレミオって「ああ、私の太陽よ」って意味だ。
案外、深いね笑

◆今しがた乗ったエレベーターの映像広告で「時間と空間を超えろ」
という言葉が流れた。
このエレベーター、ちょいちょいこういうこと言ってくる。

◆目の前にあるものは、存在がギリギリに極まった切っ先の形。
どこも足し引きできないもの。
もちろん、あなたもわたしも。

◆ゲシュタルト崩壊は母国語も音の羅列に分解して外国語のように
聞こえさせるが、もういちど再学習して意味を復活させることもできる。
でも組み変わった意味は、初めて覚えた外国語のように新鮮な世界を持つ。

◆この世界は矛盾だらけなのを承知のうえで生まれてきたんだから、
人の矛盾も自分の矛盾も、槍玉にあげない。

◆何かを考えたり言葉にしたりするときに、意識がギュっと縮まる感覚がしたら、
見直すサインだ。
自分の思う正しさではなく、意識のあり方にまず、気づく。

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【覚醒からのつぶやき 9】       

2020/10/22

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。

レモン


◆個人的な感性のゆらぎの真ん中に浮いてあることで、
非個人的な感性の切っ先に立つ。

◆個人的な感性と自己表現は、いちどは誰でも出し切ってみたほうがよい。
そこで思う存分、泣いたり笑ったりする。
出し切ってもう何もでなくなったところで、非個人的な感性の手触りが、
背後から立ち顕われる。

◆だから、いちどはちゃんとドロドロした人間をやってみる。

◆取り残されたエネルギーは不発弾として持ち越される。
不発弾は爆発してしまえば消えるが、どこに埋まっていたか忘れたまま残り続けると、
存在に常に不安の影を漂わせることになる。

◆夢の3D映画は最後までぜんぶ観ないといけないと思い込んでるけど、
いつでも席を立っていい。
お尻は座席にくっついてない。
映画の続きが気になっても、この映画は永遠に上映し続ける。
席を立つタイミングを逃さないように。

◆夢は全部気づいたら終わる。
でもわたしたちの気づきは死角があるように設計されたから、
一人で全部見ることはできない。
だから、みんなで分担して夢の隅々まで照らそう。
額にサーチライトをつけて。

◆夢の3D映画には結末がない。
一コマ一コマが次の場合を生成し、ストーリーは無限に分岐していく。
だから、結末を知るのは放棄する。

◆映画を見ないためには、目をつぶるのではなく、勇気を持って席を立つ。
そのための気力は蓄えておく。

◆映画を見るのをやめるのに、肉体を殺してはいけない。
殺された肉体は、座席に残されたまま、映画の続きを見てくれる亡霊を待ち続ける。

◆本当は、映画も夢だし、映画を見ているのも夢だし、
映画を見るのをやめるのも夢だし、そもそも夢なんてない。

◆肉体の死というタイムリミットがあるから、人は常に未来に向かって
「間に合わない」と焦っているけど、間に合っていないのは未来ではなく現在なのだ。
いつも現在から0.2秒、遅れている。

◆盲点なのは、0.2秒遅れているその感覚自体を共通認識として「今」と呼んでいること。
だから「今ここ」という教えは常に混乱をもたらす。

◆「間に合わせたい」人がいなければ、今は今のままある。

◆「あなた」が「今ここ」にいることはできない。
「今ここ」が「今ここ」にあるだけ。

◆ある意味、この私はわたしの作品だけど「素晴らしい作品を創ってやろう」
という意図はさもしい。

◆透明な作品は、美しい。

◆自分自身に慈悲を向けられるようになると、世界が喜ぶ。

◆慈悲と憐憫は似て非なるもの。

◆究極の慈悲は、手を差し伸べない。 そこに存在の信頼がある。
神とはそういうもの。

◆慈悲は一本の柱となって次元を貫く。

◆だから神は柱に見立てられてきたのだ。

◆この柱は相似形として、わたしたちの中にもある。
わたしたちは、それによって立っているのだ。

◆祈りはこの柱で起こる。

◆だから、ただ自分そのものであれば、何かに向かって祈らなくていいのだ。

◆わたしたちは、理論の正しさを証明するために生きているのではない。
だってわたしは事実、これなんだから。
これ以上にまぎれもない事実があるだろうか?

◆神を持ち出すのは半ば禁じ手にしてきたが、その言葉を使わざるを得ないこともある。
それによって頑なな視界が開けることもあるからだ。
ひとつのことがわかれば、自由に横断していい。

◆いったん脱落したらヨコとタテのあいだに浮く。
そのとき、脱落は地上のものだったことを知る。

◆本当にすごい人は秘仏のように隠されているので表に出てこない。
縁があれば出会えるけど、多分、見ても気づかない。

◆散漫な状態には散漫な気づきがあるだけで、それがいけないわけじゃない。
メタ的に気づかれる気づきは、その時々の主観の密度と時間の
経過をありのままに正確に顕しているだけなのだ。
「ひとつの瞬間に集中する」という幻想にとらわれて、
気づき自体をサマタの訓練の道具に使わないこと。

◆現象世界での個人の責任は、能動的に行為している感覚によって発生するが、
能動と受動のあいだにあるとき、個人の責任は無化される。
ただし、無化=放棄ではない。
すべての次元の責任の真ん中にあるのだ。

◆四次元以外の次元は「爆発できなかった」のではなく、
わたしたちの認識がそれを「爆発させることができない」のだ。

◆徳と善行について。
エネルギーとして貯まるというよりも、瞬間瞬間の反応パターンが組み変わるんですよね。
その結果、エネルギーが変化して軽くなる。
徳という考え方は一長一短で、自分が徳の貯蔵庫であると考えるとエゴが肥大しますね。

◆一切を限定したくなければ、言葉を発しなければよい。
言葉で表せばその瞬間、限定が発生することは自覚しておく。
その自覚をこの世界では「責任」と呼ぶ。

◆気づきに気づいている人が2人以上いる空間はピーンと冴える。
1人以下だと場の影響下にボーッと流され続ける。

◆面白いのは、気づいている人が1人だけだと、ありのままに見ているだけで
場自体は変わらないということ。
だから、よくあるスピリチュアリズムで覚者を何人か配置して世界を変える
みたいな話は分からなくもない。
でも、覚者自身は自分が世界を変えようという意思なんてない。

◆気づきに気づいている人は場を超えた全体に気づいているので
場のエネルギーのうねりに飲み込まれない。
だから空気がパキっと澄む。
それは法悦ではなく、静謐なエネルギーだ。

◆人は常に幻想の場に飲み込まれ、その場その場の空気感に気絶して
流され続ける。
気づけばそれをいつでも切ることができるのにも関わらず。

◆場に飲み込まれる心身が癖付いている人は、気づきに気づく静謐な空気
のハリを肉体で捉えるため緊張と勘違いし、隙あらば居心地のよい緩んだ元
の場に戻ろうとする。
心して心身の癖付けに気づき、組み換えていく必要がある。

◆頭の後ろの化石みたいな塊を引き剥がして360度の意識を取り戻そう。

◆頭蓋骨から背骨がゆらゆらぶら下がっているだけ。
肉は忘れる。

◆気づき続けることは、心を殺してサイボーグになることではない。

◆空気を読むのではなく、場全体のハリを直接読む。

◆抽象化と観念化を混同しないこと。

◆覚醒は世界を抽象化することではない。
また、概念化しないことは覚醒の一部であっても、全部ではない。

◆感性は抽象化してもよい 感性に自我の痛みを混入させないこと。

◆思想・哲学は世界と言葉ありきの戯れ。
感性が回収されぬよう、注意して遊ぶ。

◆一息の呼吸で肉を突破し、どこまでも深淵に入っていく。
深淵は入れば入るほど、明るく軽く開けたところ。

◆呼吸は止まるのではなく、一息が肉体を超えてどこまでも細く長く深く
引き伸ばされ、認識できなくなるのだ。
この究極が死だ。 死は停止ではない。

◆自分が悟るという考えはまず最初に捨てられるべきもの。
かといって、みんなで悟るわけじゃない。
強いて言えば、ひとりであった何かが独りごつ、という感覚。

◆瞑想の一息には瞬きがない。 だから、肉体を超えた息が続くかぎり
どこまでも見ていける。
ただし、途中で何も掴まなければの話。
死後という観念のヴィジョンもこの延長で起こる。
呼吸を止め、瞬きする肉体がなければ時空を遮るものがないのだ。
ただし死者は、ヴィジョン自体に遮られる。

◆気づきの目の瞬きの瞬間、一瞬の気絶と共に場面が切り替わる。
その瞬間は常に「なかったこと」にされている。

◆清潔感があるかどうかは重要な判断材料。
うねうねギラギラした禍々しさは避けよう。

◆体の感覚が鈍ってると清潔感を判断できなくなるので注意。
そういうとき、インスタントなものに飛びつく。
インスタント自体は悪くはないが、飛びつく時の目が眩む気絶は沼にハマらせる。

◆エネルギー系であれ覚醒系であれ、特定のパワーを「扱おう」とするものは注意する。
自身のエネルギーバランスが崩れていると、そういうものに飛びつく。

◆何かを表現すれば、その逆の力が発生する。
しかもそれは必ずしも一対一対応でないのがややこしい。

◆そうは言っても、怖いからといってまったく動かなければ、
傷つきはしないが赤ちゃんのまま何も学べない。

◆結局、すべてのバランスのあいだに在ることしか救いはない。

◆私はわたしに任せておけば安心だ。 頼もしいなあ!

◆ありがたいね。 考えなくてもいいんだから。
こんな楽してバチがあたりそうだ笑
ああ、ヒマだから罰の意識を創っちゃったんだろうね。

◆人っていうのは自分の存在を誰かに受け取ってもらいたいんだね。
自分で自分を受け取ればいいだけなんだけど、自分を信じてないから
別の信じられる人を探して彷徨う。
それじゃ、信用されてない自分が可哀想。
でも本当は今だってちゃんと受け取られてるんだけどね。

◆パラレルワールドは並んでない。 並べてるのは自分。

◆気づくというのは、全体が気づいていることなのです。
だから、自分が自分に気づけば、全体が自分に気づいていてくれるのです。
この気づきを、神の目ともいう。

◆全体には、あらゆる次元のわたしがいます。
だから、気づきに気づくだけで、すべてのわたしが私と重なって
協力してくれるのです。
こんなに心強いことがあるでしょうか?

◆観光バスツアーみたいに気楽に乗ってればいいんですよ。
たまに渋滞とかトイレ休憩とかガイドの変な民謡とか聴かされるけど。
勝手に連れてってくれるから。

◆不思議でしょうがないんだけど、なんで肉体年齢を伸ばそうとするのかね?
意識を変えたほうが時間は伸びるのに。
時間なんていくらでも伸び縮みする。
でも、伸びたところで梵天界なんて退屈だよ?

◆X X業界の人、と定義されそうになったら走って逃げる。

◆人間ドラマは1話完結でいいです。 キャストもセットも最小限で。

◆死んでもどこにもいかない。 (自縛霊じゃないよ)

◆孤独で寂しいとか言ってるけど、覚醒の現場はあり得ないぐらい
ぎゅうぎゅうづめで賑やかどころじゃないからね。
今のうちにゆったり孤独を楽しんだほうがいいよ。

◆祈るなら、殺されるつもりで祈る。
自分を全部、差し出す。
このエッセンスがつかめたら、生きても死んでもいないところで、
祈りそのものになる。

◆痛みを見るより痒みを見るほうが難易度が高い。

◆笑いに皮肉と逃避と自虐が入ってないか注意する。
この笑いは苦しみと表裏一体。

◆この笑いが集団化すると、陰湿な村を形成する。

◆仲間意識を「確認する」ための笑いには注意する。
この確認がしばしば強要に発展する。

◆野生動物は笑わない。
家畜化すると笑いを覚える。

◆いい気分の中に潜む「ほくそ笑む」影に気づきのメスを入れる。
この影は聖なるものにもいつの間にか忍び寄る。
あらゆる色合いに潜む影の尻尾をつかまえる。

◆「悪魔との対話」の悪魔は、比喩ではないのだ。
擬人化するかしないかは別として。

◆影はうっとりとした心地良さを纏って、あらゆる瞬間にスルっと入ってくる。
この影を根絶しようと血まなこになれば、思うツボだ。
気づきの光を当てることで影は退散する。
影もまた、自らの創った実態のない幻想だからだ。

◆影の尻尾を捕まえるには、名付け得ないエネルギーの微かな移ろい
を見るのが一番早い。
自分の感覚に淫する前に気づけるからだ。

◆人間としてのあらゆる経験は、影に気づくための予行練習となる。
この練習は、痛みを伴う。

◆光があれば影がある。
影は影で必然としてあるだけだが、それに「あるがまま」と居座れば、
いつのまに影が入り込み、その視点でしか世界を見られなくなる。
しかも、光と影は想像を絶するほど複雑に入り組んでいる。
光=善、影=悪という3次元の単純な二項対立ではないのだ。

◆だが、その複雑さに正義感をもって首を突っ込む必要はない。
ただ、一人一人が自身に起こるエネルギーの移ろいを粛々と見切っていけばよい。

◆善は次の瞬間には悪となり、悪は次の瞬間には善となる世界だ。
ひとつの信念をつかめば、変化に気づけなくなる。

◆生まれては死ぬというアイディアは局所的な異端思想。
この宇宙はカルト。

◆バクティの道は一見優しそうだけど、様々な「お試し」がやって来る。
その究極が、磔刑。
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【11/7(土)14:00~17:30 、18:00~21:00 「東京ワーク参加募集」】     

2020/10/22

※ Rubin’s work  東京ワーク開催日時のお知らせです。


◆11/7(土) 14:00~17:30 、18:00~21:00

※前半(基礎)と後半(実践)に分けて行います。
通しで受講していただくほうが理解と集中が深まりますが、
前半もしくは後半のみの参加も可です。
(初参加の方はなるべく前半から受講してください)

場所は東京都中央区、参加条件等の詳細はメルマガにてご案内しております。


◆今回は、

【基礎】
・一瞬で集中に入るための軸と姿勢
・どこにも居座らない座法
・呼吸の秘伝的ライン
・丹田のポイントと集中の奥義
・対象のない祈り
・内部の目へのシフト

【実践】
・全体の気づきと場のエネルギーの読み方
・各ポータルを立体と動きでとらえる
・内部の目の確立と発火する気づき
・境界を越えた空間としての動きと意図
・純粋な意図だけが自動的に起こること

をテーマにワークを行なっていく予定です。
(内容は参加者さんの状況によって変更となる場合があります)


◆ワーク開催にあたっては、以下のコロナウイルス
対策を行います。

・参加者間の十分な距離を確保
・息のあがる運動はしない
・参加者に新品マスク配布
・入場前の手洗い必須化
・入口での手指のアルコール除菌
・平熱以上の方の入場不可
・ワーク中の身体接触回避


◆直近に開催したワークの様子

【10/18(日) 東京ワーク】~所感と解説~ ←new
http://rubins-work.com/blog-entry-95.html

【9/5 (土) 東京ワーク】~所感と解説~
http://rubins-work.com/blog-entry-86.html


◆参加ご希望の方は、拙著「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」
をお読みのうえ、まずは以下のフォームからメルマガのご登録をお願いします。

⇒メルマガ登録はこちらから

追って参加条件等の詳細をご連絡いたします。


※参加者一人一人の身体とエネルギーを見ていくため少人数性となっております。
参加希望の方が多い場合は先着順とさせていただく場合がありますことをご了承願います。


※メルマガ登録されている方で万一、ワーク案内メールが届いていない方が
いらっしゃいましたら迷惑メールフォルダをご確認ください。



※ツイッターはじめました※
@Rubins_work
https://twitter.com/Rubins_work
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【10/18(日) 東京ワーク】 ~所感と解説~      

2020/10/22

10/18(日)東京にてワークを開催しました。

ワーク6

ワークブログ1


【今回のメニュー】

・存在の奥からベロを出す
・肉体の目の動体視力(意識の動体視力への準備)
・眼球運動の非連続性と盲点を見る
・前後左右の区別をなくす歩行
・丹田で風船を膨らます
・右脳と左脳の境界をなくすエクササイズ
・盆の窪の空間をつくって背骨をぶら下げる
・プリセットされた球の意識を瞬間で切る
・頭頂と尾てい骨の感覚を物質的につかむ
・頭頂から尾てい骨の引張り合いと軸
・軸だけの意識で尾てい骨から飛ぶ
・物体と重力に規定された軸の感覚をつかむ
・居座らない座法(姿勢の調整)
・居付かない立禅(姿勢の調整)
・丹田~胸~喉~目~頭頂、各部のあいだの具体的な感覚
・対象のある祈りから対象のない祈りへ
・肉体の目と内部の目の感覚の違いを見る
・内部の目の立体感覚と視界の変化
・内部の目を留意し気絶せずに寝落ちする
・内部の目の活性化と頭部の意識の調整(コーリング)
・呼吸の先をたどって存在の奥のもうひとつ下に潜る
・物質と肉体の境界を観察してひとつ先を見る
・スキャン&ダイブで肉体の限界点を突破する
・肉と骨を動かさずに境界のない空間から動く


【所感と解説】

今回は、身体の意識を組み替えるための基礎的なワークが中心
となりました。

ここが曖昧なまま瞑想しても、様々なレベルの「自分」という感覚
がごちゃごちゃなまま混在し、肉体の先へ入る集中を妨げます。

物質を超える前に、まず物質と肉体を具体的に意識したうえで
「そうではないもの」の領域に入っていくほうが明確なのです。

そのため、ワークではしばしば実際に周囲の物質や小道具などを
用います。



・存在の奥からベロを出す

丹田の奥の肉体の境目から慟哭するように息を吐き出しながら舌を出します。

背骨を整えて腸腰筋を上下にストレッチしないと舌は奥底から連動して出せません。

ここから出る声は重低音で響くオームと同じです。

基本的な体のラインと全体の拮抗関係のチェックになります。


・丹田で風船を膨らます

丹田から舌を出したときの感覚で息を奥から吐き出し、風船を膨らませます。

胸から息を吐かずに丹田の圧が直接風船に連動するようにします。

風船を膨らませるたびに丹田に気が貯まり骨盤が押し広げられている状態
になるとエネルギーが充足されます。


・肉体の目の動体視力(意識の動体視力への準備)

肉体に同化している意識では、気づきが眼球の動きと連動しています。

意識単体の気づきの動体視力へ移行する前の準備として、肉体の目の
動体視力を体感するためのエクササイズです。


・眼球運動の非連続性と盲点を見る

両手を広げて眼球を左右の手の間でゆっくり動かしていきます。

すると、日常で意識していないカクカクした非連続的な眼球の動きと
気づきの関係や、普段は脳内で編集され意識にあがってこない左右の
盲点に気づきます。

普段意識されないこれらの空白の瞬間に、一瞬の揺らぎとともに思考
の種が発生することを見ます。


・前後左右の区別をなくす歩行

私たちは普段、死角になっている背面を意識せずほとんど前面の意識
だけで生きています。

まずその自覚を持ったうえで背面を意識し、さらに前面と背面の区別を
身体的に無化するエクササイズです。

前に向かうときの感覚を細かくチェックし、次に後ろに向かうときの感覚
との差を観察します。

次に、前に歩くときとまったく同じ感覚で後ろへ歩いてみます。

体の各パーツの位置を意識して具体的に行うのがコツです。

同じく、左右も無化していき、前後左右が無化されたら回転します。

すると、自分が回転しているのではなく軸だけが回転している感覚になります。

ここにプラスして上下の区別もなくしたいのですが、逆立ちは若干難しいという
ことで、できれば水の中で前後左右上下がなくなるまで回転してみていただき
たいと思います。

(逆立ちをする場合は、壁を使ってもよいので手の平を足の裏、足の裏を手の平、
頭頂を尾てい骨、尾てい骨を頭頂と置き換えて宇宙空間に向かってグラウンディング
し、手の平で地球を持ち上げるようにします)


・右脳と左脳の境界をなくすエクササイズ

左右の手に別々の動きをさせることで脳の偏りをニュートラルにします。
ここが偏っていると軸がズレたまま、その傾きを自分だと思い込み続け
るのです。

最初は左右ともに簡単な動きから入って、徐々に複雑にしていき、最終的
に立体を描くところまでもっていくのが理想です。

また、左は平面、右は立体というように、左右で次元を異なるようにする
と効果的です。

はじめは脳が混乱してつっかえつっかえだったのが、ある瞬間ふとできる
ようになると、自転車に乗れた瞬間のように軽くなり脳の中心にシフトします。

個人の心身の癖を突破し、この中心から見ていたいのです。


・プリセットされた球の意識を瞬間で切る

膨らませた風船を持って表面をなぞって球体のイメージをつくります。

目をつぶっても球体のイメージと感触がはっきり出るようになったら、
次に、いったんイメージを捨てて瞬間瞬間を見ていきます。

このとき球体のイメージが出かかったらそこで気づいて像を結ぶ前に
切ります。

先に触覚、視覚、体感で創った球体のイメージを瞬間瞬間で崩していきます。

植え付けられた概念がどのように立ち上がってくるのかをつぶさに観察することで、
概念化のプロセスを見切ります。


・盆の窪の空間をつくって背骨をぶら下げる

頭蓋骨と頚椎の境目の窪みの周囲の強張りに気づき、空間を開けるように
すると、頚椎がしなやかに動き始め、頭蓋骨からぶら下がっているように
なります。

盆の窪周辺の感覚は、背面の意識や、意識のホワイトアウトに関係しています。

ここを開けると、内部の目の感覚がとらえやすくなります。

瞑想のポイントとなる「バカになる」ためには、ここと口腔内の空間をぽかんと
開けます。

合気上げもここを使うと一瞬のホワイトアウトのあいだに相手がふっとびます。


・頭頂と尾てい骨の感覚を物質的につかむ

まず頭頂のポイントを明確にします。

ここでいう頭頂とは、頭蓋骨の中央ではなく、背骨の延長上にある点です。

そのため、自分で思う頭頂よりもかなり後ろにある感覚がするはずです。

このポイントと背骨がピタっとそろうと容易に意識はホワイトアウトします。
(ホワイトアウト自体は目的ではなく、過程なのでここに気絶し続けないこと)

今回は頭頂にビー玉の袋をのせてゆっくり上に持ち上げ、押すでも引くでもない
あいだにふっと浮く瞬間を見てもらいました。

さらに頭頂のポイントを壁にグリグリ押し当てて、常に留意する感覚を物質
レベルで記憶させます。

尾てい骨の感覚も同じく物質から記憶させます。

床に座って膝を立てて足を開き、尾てい骨を床に押し付けて感覚をたしかめます。

感覚を保ったまま尾てい骨から連動させて足を動かしていきます。

尾てい骨の物理的な感覚とともに、そこから始まってエネルギーが派生していく
様子を観察します。


・頭頂から尾てい骨の引張り合いと軸

尾てい骨の感覚が記憶されたら、頭頂のポイントと連動させ、蛇腹のように動く
一本の軸の意識をつくります。

このとき、尾てい骨は地面に垂直に刺さっており、頭頂のポイントと軸を通して
引張りあう感覚にします。


・軸だけの意識で尾てい骨から飛ぶ

尾てい骨と頭頂が引張りあっている軸ができたら、軸だけが空間にぶら下がっている
イメージで、上下に軽くジャンプしてみます。

このとき実際には足の裏と地面の押し合いで飛び上がりますが、足の裏からではなく、
尾てい骨からジャンプが起こる感覚で飛びます。

(感覚がわかる人は、尾てい骨から起こるエネルギーを軸を通して頭頂に突き抜け
させることでジャンプします。尾てい骨から発火するイメージです。)

肉と骨を忘れて軸だけが上下にスライドしている感覚をつかみます。


・居付かない立禅(姿勢の調整)

軸だけが浮いている感覚がつかめたら、ジャンプする直前の感覚で足の裏を床に
置いておき、頭頂に留意しつつ直立します。

内臓と肉は骨盤内にどさっと落とさず、骨格の間の空間に浮いているようにします。

ここで、一人では気づきにくい各自の癖やバランスを調整しました。

この状態で立ったまま瞑想します。


・居座らない座法(姿勢の調整)

基本的に、居付かない立禅と同じ状態で座ります。

理想としては、立禅の状態からすとんと軸が尾てい骨から床に落ちて足が折り
たたまれ、その瞬間から座禅がいきなり始まる感覚になりたいのです。

座ったときは股関節の柔軟性や骨盤の傾きによって軸がズレるので、再度
調整していきます。

このときも、内臓と肉が骨盤内に落ち切らないようにし、いつでもパっと立ち上がれる
感覚を保ちます。

この感覚が瞑想の軽さのために必要なのです。


・丹田~胸~喉~目~頭頂、各部のあいだの具体的な感覚

輪ゴムを3~4本束ねて持ち、指で引っ張ったり緩めたりします。

次に引っ張ることと緩めることのどちらでもないあいだの感覚を
見つけます。

実際に身体のポータルとなるそれぞれのポイントの前で輪ゴムを
持ち、あいだの感覚と各ポイント内部の感覚を連動させていきます。

ゴムとの連動で物理的に空間を開け、ニュートラルかつ動的なあいだ
に浮いている感覚をつかみます。

頭頂のポイントではゴムの輪を開いてそこから軸が上空に飛び出していく
感覚をつかみます。


・対象のある祈りから対象のない祈りへ

軸をつくったうえで、ハートの奥のポイントから腕を平泳ぎのように繰り出します。

前・左右・上下に向かって吐く息と同時に胸から投げ出すようにします。

投げ出す感覚をつかむために、座布団などの上に五体投地のように胸から身体を
飛び込ませるのも効果的です。

この手の動きの延長で、すとんと自然に胸の前に落ちるところで合掌します。

合掌した手を頭の前に差し出して開いていきながら、首の後ろの急所を前方へ
差し出します。

このとき「殺されてもかまいません」といった感覚で自分を差し出すのです。

そこからニュートラルな直立姿勢に戻り、手を上に上げながらサードアイを天に
向かって開きます。

全天に意識を差し上げホワイトアウトする感覚で行います。

ここからさらに頭を後ろへ落として首の前面を天に差し出します。

「首を切られてもかまいません」という感覚です。

そこから再びニュートラルな直立姿勢と合掌に戻ります。

ここで合掌の手をほどき、直立のまま祈りの真ん中にいます。

これが対象のない祈りの基本の型です。

祈りは全体の運動と軸の中心で起こっているのです。

この祈りに、自分を捨ててぽかんと放下します。


・肉体の目と内部の目の感覚の違いを見る
・内部の目の立体感覚と視界の変化


気づきが肉体の目と連動していると、意識が肉体と癒着したまま
先に進めません。

次の段階に進むための具体的なエクササイズです。

内部の目は偶発的に引き剥がされることもありますが稀です。

このポイントだけは意識的に訓練する必要があります。

<過去のワーク参照>
http://rubins-work.com/blog-entry-43.html
http://rubins-work.com/blog-entry-61.html
http://rubins-work.com/blog-entry-68.html
http://rubins-work.com/blog-entry-73.html


・内部の目を留意し気絶せずに寝落ちする

上記の内部の目の感覚がつかめたら、その感覚を軽く留意したまま
意識は丹田の奥へ落とします。

落とすときに留意も一緒に落ちないように、意識だけをするっと引きはがします。

意識を落としたときの感覚は熟睡しているときの感覚に近いですが、見ている
目は起きているように注意します。

内部の目の留意が強すぎても弱すぎてもうまくいきません。

この目を完全に置いておけるようになると、気づきが場所を離れて自動化します。

(「置いておく」感覚は、瞑想すべてにおいて重要ですが、目を置いておくのは
気づきと連動していて難しいため、手や足などの身体のわかりやすい部分から
感覚をつかむワークも別途行ったほうがよい)


・内部の目の活性化と頭部の意識の調整(コーリング)

内部の目の留意と丹田の意識を保ったまま床に寝てもらい、頭部の中の
位置と感覚を見ていきました。

具体的には、私が参加者さんの頭の下に手を置いて読み取り調整します。

明確な位置と機能はまだ曖昧なものの、気絶せずに寝落ちする感覚を
つかんでいただくために、呼吸によって頭蓋骨の中が収縮するタイミング
で気絶しないように都度、信号を出して意識化してもらいました。

(信号を出さない場合は経験上、ほとんどの人がそのまま寝てしまいます)

この感覚は、実際に認識がバリっと剥がれるときまで明確になりませんが、
本人の自覚とは関係なく、こちらの感覚と同調させることで未来に直接
「呼びかけておく(コーリング)」ことは可能なのです。

(こういう表現は誤解を生みやすいのであまり使いたくないのですが…
これは神秘的な何かではなく、具体的なものなのです)


・呼吸の先をたどって存在の奥のもうひとつ下に潜る
・物質と肉体の境界を観察してひとつ先を見る


丹田の奥に意識を落とすとき、肉体と意識が同化していると肉体の
境界より先に進めません。

この先に進むために、まず肉体の呼吸の境界を知っておきます。

まず、呼吸とともに意識がたどれる一番深いポイントをみつけてもらいます。

ポイントがみつかったら、呼吸が続く最後の苦しくなるところで一瞬、意識を
ふっと浮かせて細かく分散し、ポイントの裏側からもう一段奥へ滑りこみます。

(苦しくなるところで呼吸を肉体に戻さずに一瞬だけ置いて忘れた隙に意識で
潜り込む感覚です。苦しくなった瞬間に身体のテンションをすべて抜くのがコツ
です)

ここは、肉体とイメージの境目で、肉体の呼吸だけでは入っていけません。

意識の呼吸のような微細な波動で入っていき、そこで気絶しないように内部の
目で見続けます。

たいていの場合、このポイントから先に入れてもそこで意識が曖昧になり気絶して
しまうのですが、そこを突破してどこまでも見続けます。

この先は集中しようとしなくても、ただ見続けることで勝手に集中が起こります。

この感覚を具体的につかむために、水を飲んで感覚が消えるまでを観察してもらい
ました。

水が食道を通って冷たい感覚が霧のように消える瞬間までを正確に見ます。

消える瞬間までは肉体の感覚ですが、消えた瞬間の余韻のようなところまでを
観察し、肉体からイメージへと続くグラデーションを見ます。

この感覚がつかめたら、これを丹田の奥の呼吸に応用すればよいのです。


・スキャン&ダイブで肉体の限界点を突破する

丹田の奥に入っていくとき、なかなか肉体のレベルの呼吸から先の感覚が
つかめないことがあるため、参加者さんの呼吸の深さと意識をスキャンして
その奥へと進む感覚をナビゲーションしました。
(手に触れて一緒に「連れていく」感覚で行います)

みなさんかなり深く入れてはいましたが、やはりまだ肉体の限界で呼吸を
折り返しているため、まずは参加者さんの潜在意識に「この先、まだ進めるよ」
という呼びかけを刷り込みました。

顕在意識に呼びかけても意識化自体が呼吸を浅くするからです。

ただ、先の説明のように、ほんの少しだけポイントでの「抜き方」を知るだけで
突破は思いのほか容易なので、あくまでもナビゲーションは補助であり、
自身で感覚を見つけていただきたいと思います。


・肉と骨を動かさずに境界のない空間から動く

「足を上げてください」というと、足という肉と骨の物体を持ち上げる
イメージが浮かびますが、肉体ではないところから動きが起こる感覚を
具体的につかみます。

まず、股関節周辺の何もぶつからない空間のような感覚を見つけます。

そして、その空間だけを折りたたむようにすると、肉と骨が勝手に
ついてきて結果的に足を上げた形になります。

同じように、これを肘でも行ってみます。

肘の内側の空間をみつけ、その空間を肉体にぶつからないように折り
たたみます。

すると、肉を動かしている実感のないまま、肘は結果的に曲がった形
になります。

これは頭でも目でも耳でも内臓でも身体のどのパーツでも行えます。
(さらには思考や意識でも行えます)

このどこにも触れていない空間は、身体の枠を超えた周囲の空間と
まったく同じものです。

枠はあってないようなものなのです。

この感覚がつかめると、空間そのものがただ動いていて、そこにたまたま
身体の形のものが連動しているといった感覚になります。

身体の枠を超えようとしなくても、枠を置いておいたまま、私たちは
すでに内部も外部もない空間そのものなのです。

注意するのは、動かしているのは気功の気のようなものではなく、あくま
でもただ空間が境界なくそこにあるだけで、その空間に唐突に意図が起こって
身体の枠がついてくる感覚ということです。


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【覚醒からのつぶやき 8】        

2020/10/14

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。


セレナイト
セレナイト(繊維状透明石膏)

**************

◆心身の硬さを能動的に柔らかくしようとすると、
表面だけ緩んでも硬い芯が残り続ける。
見ている自分の意図自体が硬いからだ。
柔らかくしようと意図せず、そこにある硬さを置いたまま、
ただ受動的に見続けていると、見ている自分とともに芯から解けていく。
この柔らかさは別次元のもの。  

◆今日はワーク開催予定だったが、おととい台風の影響を考えて
次週に変更した。
変更したと思ったら進路が変則的な動きを見せている。
今回の台風は、いろいろな意図が連動しているようで面白い。  

◆神はこうやってすべてを完璧に配置する。
それが一見、自分にとって好ましくないことであろうとも。 

◆台風が逸れて喜んでるけど、逸れた先で被害に合う人もいる。

金子みすゞの詩を思い出す。

朝焼け小焼けだ大漁だ
オオバいわしの大漁だ
浜は祭りのようだけど
海の中では何万の
いわしの弔いするだろう

この視点はいつも持っていたい。

◆現在の私が過去の私を癒せるとしたら、現在の私の苦しみもまた、
未来の私が癒してくれるだろう。
癒し、癒される、私自身の過去・現在・未来の信頼関係において。
そして、過去・現在・未来の距離がなくなったとき、癒し、癒される私は
ひとつとなり、瞬間瞬間に苦は浄化されるようになる。  

◆過去の私、現在の私、未来の私、すべての私と仲良くなろう。
すると、私自身が私を助けてくれるようになる。
この安心感は唯一無二のもの。  

◆ウィリアム・ブレイク『天国と地獄の結婚』より
「知覚の扉が取り払われたら、何もかもがありのままの無限の姿で
人間の前に顕れるだろう。人間は自らを閉ざしてきた。
今や、人間は、洞穴の狭い隙間からものを見ているに過ぎないのだ」  

◆経典は頑張って理解しようとしない。
わからない部分を頭で理解しようとすると、その時点の認識による解釈で
自分自身を固定してしまう。
自分の体験から直観的に腑に落ちるまで、先を急がず寝かせておく。  

◆苦しみが自分のアイデンティティになっている人は苦しさが生きる糧なので、
他人の苦しみまで探してあれこれお節介を焼こうとする。
だから望みどおり、ますます苦しくなる。  

◆姿勢による各部位の力の方向性と意識は連動している。
身体と意識のすべての方向性を一点でバランスをとるのが座禅。
その一点は、止まっているわけではなく、すべての運動の可能性を
含む消失点なのだ。
それを知るために、いったん動きを分解して身体動作の方向性を知る
アプローチは有効。  

◆いわゆる「引き寄せ」では、力を「くっつける」方向ばかりを強調するが、
「くっつくこと」と「はなれること」と「ひっぱりあうこと」、
この3つの力が現象の本質です。
特に意識においては「ひっぱりあう」拮抗する力のあいだにいることが重要。  

◆ぶっちゃけた話、すべては動きでしかないんですよね。
高尚な言葉や難解な概念をとっぱらうと。  

◆動いているものは誰でも認識できます。
あとは、動いていないものの動きを見るだけ。  

◆ただし、すべての動きは相対的な錯覚です。
  
◆つまづくとしたら、ここですね。
だから観察して錯覚を見抜くのです。
ヒントは身の回りのすべてにあります。
あれこれ習いに行く必要もないのです。  

◆そのことを、仮の定点である私を通して見抜くということです。  

◆仮の定点がなければ何も認識できません。
自分自身が動きそのものになるからです。
だから、仮の定点を担う私という存在は貴重なのです。 

◆そんなの知ってるよと思うかもしれませんが、それだけなのです。
それさえわかれば、あとは動きの組み合わせがあるだけです。

◆あらゆる解釈がものごとを複雑にする。
複雑さにプライドをもたず、単純でいる勇気を持とう。  

◆単純であれば、力をひとつに凝縮できる。

◆複雑化してもいいが、複雑化の過程の中の単純さにあること。  

◆「わかりたい」という想いが世界を創る。
動きそのものは「わかる」以前にある。

◆「わかりたい」者がいないとき、動きそのものだけになり、
世界があるかないかを観察する者はいなくなる。  

◆動きそのものは無明ではない。
動きをコントロールしようと足掻く意図が無明だ。  

◆頭ですっきり割り切れるものよりも、心がすっきり割り切れる方向
へ導かれよう。 
 
◆過剰な自信も、過剰な謙遜も、神への冒涜となる。  

◆止まっている電車に乗っていて隣の電車が動き始めると、
乗っている電車が動き出した感覚がする。
隣の電車と並走していて乗っている電車が減速すると、
後ろに進んでいく感覚がする。
乗っている電車と同じ速度の電車が並走していると、
止まって見える。 

◆物体の相対速度による錯覚は理屈を知れば容易に見抜けるが、
心の錯覚は見抜きづらい。
物体も心も錯覚の仕組みは同じだが、心は常にいろんな速度で変則的
にあちこちに飛び回っていて、相対的な基準がズレ続けていくからだ。
逆にいえば、心の方向と速度がシンプルになれば、錯覚は見抜きやすくなる。  

◆単純であることは、騙されやすくなることではない。
単純であればあるほど迷いがなくなり、本質が見抜けるようになる。 

◆女性でも男性でも、どちらでもない性でも、
女性の心身の働きの微細な綾を知る人は、
現象世界の創造の原理を理解する。
ここはマッチョな修行だけではわからない。
私自身、女性でありながら無視し続けてきたところだったが、
それを知ることは計り知れない恩恵がある。  

◆勘違いしてはいけないのは、女性として生まれても、
女性性の原理を自ら理解する必要があるということ。  

◆念が呪いに近くなって別の存在を呼び寄せてしまう人がいます。
妄想とはいえ、ある種のパワー感を持ち始めるのが厄介です。
そうなるとなかなか自分では気づけなくなります。
気づきに爽やかな軽さがあるかどうかは常にチェックしてください。  

◆何らかの対象物に対して祈りを捧げる時も注意が必要です。
いつのまにか別の存在に祈っていることがあるからです。
強いパワー感があっても、知らないうちに妙な契約を結ばないようにしてください。  

◆危ないパワーを身につけるぐらいなら、無知な方がずっとマシです。
エネルギー系は自分で判別できなければ、うかつに扱わないことです。
 
◆こういう類のパワーを纏っている人は薄暗い空虚な内面を隠しています。
この空虚さは、千と千尋のカオナシのように何でも飲み込んで自分のパワーを
拡大しようとします。
底なしの虚空は周囲を引き込むパワーがあるため、無知な人々を引き寄せます。  

◆この虚空を無我や空と勘違いしないこと。
パワーをいくら身につけても不足している感じがしたり、寄ってきた人の
エネルギーを吸い込んで浄化が必要と感じる場合はカオナシになっています。
空虚さをパワーで埋めるのではなく、自身のエネルギー量に応じて人に与え、
何も持とうとしないことです。  

◆存在には、真剣さはいるけど、深刻さはいらない。
瞑想では、深刻な馬鹿にならず、真剣な馬鹿になる。  

◆真剣になればなるほど、どんどん軽くなっていく。
重くなっていくのは、深刻になっている証拠。
  
◆もっと軽いノリでいこう。
くすくす笑ってる途中でふっと瞑想に入るぐらいでいいのだ。
瞑想の境目をなくしていく。  

◆頭と顔の筋肉を緩めて、美しい馬鹿になろう。  

◆真剣な馬鹿の馬鹿力は、この世で一番強い。
全部が緩んだとき、瞑想が爆発する。  

◆緩みきってハラから笑いが沸き起こってきたら、目覚めはすぐそこ。 

◆緊張を知らないと緩みもわからないから、人生の緊張も悪くない。
緊張したら、あとは緩むだけ。
  
◆今からオリンピックメダリストやノーベル賞受賞者にはなれなくても、
自分至上最高の馬鹿には誰でもなれる。
すごい希望じゃないですか?  

◆人に与える心地よさに味をしめて、欲張って与えすぎないようにする。
自分自身を過不足なく知り、すべてにおいて丁度いいエネルギーの
真ん中に浮いていよう。
  
◆全体の力のバランスを知ってはじめて、煩悩とよばれるエネルギーを理解する。
煩悩自体はただのエネルギーで、特定のバランスに引き込む作用があるだけ。
これが個別の人間という限定された枠の中で、偏りの幻想を生む。  

◆弱い力の「あいだ」と、強い力の「あいだ」は同じもの。
弱い人間も強い人間もいるが、どこを切りとっても「あいだ」は同じもの。
だから、覚醒を知るのに自分自身以上に強くなろうとする必要はない。
弱くても強くても、そのままの自分で「あいだ」を知ることはできる。

◆世界と分離して孤独だと感じたら、いったん赤ちゃんの知覚から
復習してみるのがおすすめ。
赤ちゃんは視界がぼんやりしている時期から周囲のものを舐め回したり
触ったりして世界の知覚を学習する。
視野がはっきりしてくると、自分の体で遊んだり、周りのものを指差したりする。  

◆この過程を、馬鹿馬鹿しいと思わずに実際にやってみる。
目をぼんやり開けて周囲のものを舐めたり触ったりしてみる。
そうすると忘れていた世界との親密感が蘇ってくる。
特に、舐め回し感覚は意識の触覚を創る。
個人的にここはワンネス感覚にも少なからず影響していると感じる。 

◆ここからもう少し大きくなって、床を転がり回って体の重さとバランスを知る。
ハイハイは四肢の視覚的・体感的なコネクションを知りバラバラな世界を連結する。
これらの鏡像段階前の世界のつながりをいったん取り戻すと安心感が生まれる。
身体を取り戻す前に身体を超えようとすれば揺り戻しがくる。

◆赤ちゃんは腸の快不快の意識はあるが、ハラの意識はない。
ハラは自我と連動しているからだ。
自我がハラに脱落するためには、いったん自我を育てる必要がある。
そうでなければ、赤ちゃんの自他未分のままなのだ。
その状態は苦を苦と認識しなくて幸せともいえるが、世界を再認識できない。  

◆体系化された言葉は頭を気絶させる。
体験はいつも、その人の言葉にならない言葉でしか語り得ない。
うまく語れたと思ったらもう、体系に気絶している。  

◆しいて言い表すと「シャッ」とか「ピキッ」とか「ウニョにょにょ」とか
「きききっっっっききっっっっっっk」とかだけど、それじゃあ経典は信者の手前、
格好がつかなかったんだろうな笑  

◆認識が剥がれるときは、頭の中心でF1カーが死ぬか生きるかの
舵切ってるような感覚というのが、思いつくかぎりでは近い。  

◆瞬間は前後ではなく、同心球状に断たれる。
ここにつまづくと、気づきは並行線をたどる。  

◆二次元的な前後の裁断は卒業する。
同心球状(ただし人間の構造上、体感としてはトーラスになる)以上は、
この次元の自己同一性では同時には捉えられないので直観にとどめておく。  

◆もちろん、気づきの瞬間に同心球を設定しているわけではないので、念のため。  

◆前後に裁断するというのは、直列的時間の中の話ということに加えて、
世界を認識の問題だけで片付けようしてしまうのが片手落ちなのだ。
両側を立体的に見るには、世界の創造の源にも立ち会う必要がある。  

◆気づきの瞬間にはひとつしかないというのは、人間の認識形態による体感だ。
もちろん、この体感は人間としていったんハラで経験する必要がある。
しかし、これが終着点だと決めると、またもやここに幽閉される。  

◆人間としてハラで一如を経験しても、前後ではないということは明確にわかるはず。
おそらくその直後に、頭が概念化したのだろう。  

◆前後という前提こそが、見切られるべきものである。
同心円もまたしかり。  

◆同心球状の裁断とは、全方向への回転の真ん中に「回転を止めずに消えている」
ということです。
この消える一点においては、一如の覚醒体験としては違いはありません。
ただし人間は、この軌跡の一瞬を、直線から切り取って認識します。
だから前後の裁断と錯覚するのです。  

◆すべての瞬間は、あらゆる速さと大きさの相対的な回転の中心ですが、
地球上での認識はまた、重力と自転と公転の方向に限定されます。
全体の回転はこれらの方向に限定されません。
瞬間は無限の回転方向が同時に運行している中の一点です。  

◆前に進むという直線的な前後感覚は、人間の心身と認識の構造自体に
組み込まれています。目が前面に配置されたのはこの理由です。
認識には、後ろが見えないという視野の死角が大きな影響を与えています。
これが、トーラス状の見かけ上の運動の一部を、直線的に切り取らせる要因です。  

◆しかし、これらもまたひとつの中心があって回転が起こっているという限定された認識です。
中心はひとつであってひとつでないのです。
これ以上は、同時複数的な全方向に回転するカメラのような存在形態でしか認識できません。
現象は、ひとつの平面的なスクリーンに映っているだけではないのです。 

◆すべてのものが、それ自体が回転しながら全体の回転の中の一部です。
全体の回転は無限に拡大されますが、どの回転の一点でもそれを悟ることは可能です。
これら全体の回転から人間の進化の軌跡を切り取ったのが螺旋構造です。  

◆これらの認識もまた、途上にすぎません。
とはいえ、ここまでを体験することはそう難しくありません。  

◆運動と一体化している意図もまた、回転の中の一点から
「飛び出して(はみ出して)」くるのです。  

◆私たちの局所的な運動は、無限の回転の遠心力から飛び出してきては、
新たな回転を生み出し、それ自体がまた、中心をつくって周囲と引き合います。  

◆個人が悟るのではないのです。そうであるとき、悟りもまた、永遠に進化します。  

◆これらを知るときには、いったんすべて忘れる必要があります。
座禅にしても、輪廻にしても、同一性の忘却可能な認識システムは
有り難い恩寵なのです。  

◆螺旋の軌跡は3次元上で仮に視覚化されたものです。  

◆私たちの身体性をもって体感できるのは、平面球までです。  

◆上の次元から俯瞰するとき、瞬間に裁断されて飛び出すものは回転する球です。  

◆当たり前の話ですが、球を裁断するのは「球のナイフ」です。
だから自身の認識が球になる必要があるのです。  

◆回転もまた、切り取られた仮の姿です。
しかしそれを「平面的に」却下するのは幼く乱暴すぎます。
それを私は「気絶」と呼びます。  

◆私たちは古代からこの気絶の境界を、様々な象徴にすり替えてきました。
神の概念もそのひとつです。  

◆ここで言っていることも途上にすぎません。
ただし、幼い私たちでも、過程を見る目を開くことは可能です。
いったん目を開き認識が転換すれば、勝手に進んでいきます。  

◆いったん「ぶった切る」という荒療治が必要なのです。  

◆ごちゃごちゃいわずに悟ればいいんだよ!という態度は
子供っぽいと言わざるを得ません。  

◆何も信じないこと。
既存の言葉に当てはめないこと。  

◆「過程のままでいい」と悟ること。
誤解を恐れず言うならば、解脱もまたひとつの「アイディア」なのだ。  


**************
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【覚醒からのつぶやき 7】       

2020/10/10

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。


tamago3.jpg

**************

◆いかなるものにも定義されない自分自身であろう。

◆自分も他人も定義しないとき、子供の頃見ていた美しい世界が帰ってくる。

◆思考という計算機は使ってよいが、計算高い思考にならないようにする。

◆目を開けて机に指を置く。
目を開けて足に指を置く。
目を開けて顔に指を置く。
目を閉じて机に指を置く。
目を閉じて足に指を置く。
目を閉じて顔に指を置く。
そこに何がありますか?

◆ジャンプするときには地面を踏み込んでから反発で飛び上がる。
その、飛び上がる直前の、足の裏が未だ地面に付いているときの
感覚で立禅や座禅しよう。
ただし飛び上がってしまうと気だけ昇って重力で落ちるだけなので、
身体は地面にぴったり付けておく。
これがどこにも居座らない状態だ。

◆現実世界のほうが夢なので、ある意味リアリティの整合性の結合が緩いんですよね。
だから実際、この世界は不条理だらけだし何だって起こりうる。
逆に、覚醒した世界は緩みがありません。

◆世界は不条理だからこそ奇跡も起こるが、現象として顕れた奇跡の神秘性に
惑わされるのではなく、何でも起こりうる危うい夢の構造の方を見抜こう。
奇跡はそのためにある。

◆全員が良い人になっても、全員が悪い人になっても、世界は消える。
良い人が悪い人を創り、悪い人が良い人を創る。
そうやって持ちつ持たれつ協力して世界を保っている。
だが、世界創造のバランスゲームは良い人と悪い人というバランス以外でも保ちうる。
そろそろ気づこう。

◆世界を保たなければいけない義務も義理もない。
消しても消しても次々に顕れるから。
今この瞬間も、生まれた。
だからといって、使い捨てにしてると、劣化版で再生することは肝に命じておく。

◆正義心は心身を固める。

◆意識の風通しがよければ心地良いが、吹き溜まりができても慌てず
次の風向きを待つ。

◆百年の気絶も、一晩の気絶も、一瞬の気絶も、同じもの。

◆思考を見張ると気づきが凶器になる。

◆気づきは綿毛で触れるよりも軽くていい。

◆見たくない部分は気づきが落ちても気づかずノーカウントにしている。
ノーカウントの時間は、深く沈殿して闇となる。

◆カッコよくやろうとすると苦しくなる。
いま在る生を、愚直に全うするだけ。
それが結果としてカッコよさになる。

◆何かを信じるたびに目に鱗がくっつく。

◆私がある幸せはいつか消えるが、私がない幸せはいつもある。

◆幸せは自家発電しよう。

◆何もつかまなくていいとき、幸せは理由なくお腹の底からふつふつ
と湧き上がってくる。

◆ふつふつと湧いてくる幸せの種を見つけたら、爆発させようと欲張らないで、
花粉のように細かく放出させて静かに愛でる。

◆幸せの花粉は刻一刻と色合いを変えていくが、このエネルギーに
名前をつけたとたん、限定された幸せに留まる。

◆すべてのエネルギーがひとつのところにあって、刻一刻変化しつつ世界
に流れ込んでくる。
その中の限定されたエネルギーだけをつかもうとすれば、限定された存在に留まる。
私を通りすぎていくエネルギーの変化そのものを愛でよう。

◆「○○のエネルギー」と名付けたものへの信仰は、光のスペクトルの一色
だけの世界に限定するようなものだ。
世界の本質は境界のないすべてのスペクトルの変化し続けるうねりのダイナミズムだ。

◆とはいえ、一つ一つの色を知らなければ変化に気づけない。
現象世界はそのための学びの場だ。
一つのエネルギーを深く味わえば、他のエネルギーの味わい方も理解する。
味わい方を知ったら、味わう自分と個別の境界を手放して、変化そのものになる。

◆エネルギー酔いは甘美だが覚醒そのものではない。

◆酔っ払いは「酔ってない」と言い張るが、本当に酔いの中心にいられるならば
酔ってもいい。
酔いを物のように完全にそこに置いて置けるなら。
でも、それならもう、自分が酔う必要はなくなる。
この世界のすべての酔いは、忘却の希求だ。

◆気づきの距離がなくなったとき、世界はまるごとわたしの生命活動となる。

◆気づきの距離を自分でなくそうとすることは、目の前のコップを念力で
自分にくっつけようとするぐらいナンセンスだ。

◆どんな人でも、その人の良いところを見つけて愛でよう。
まったく見つからなくても、そのユニークさを愛でよう。
そうするうちに、自分自身のまだ気づかない良いところが見つかる。
そこに気づいて、生きる力を取り戻そう。

◆自己を離れることは生きる活力がなくなることではない。
活力そのものになるのだ。

◆因果の外には出られない。 絶対に。
だから、因と果の重ね合わせの中心に消えるしかない。

◆わたしたちは本来、一切の制限がなく自由だが、無制限を権利に掲げれば、
限定された自由に留まる。

◆人が覚醒するのではなく、その人の目を通して覚醒が覚醒する。
そのときその人の目は、覚醒と世界のあいだの透明な回転扉になる。
その人がいるかいないかは、言葉の遊びだ。

◆「いる」と「いない」は言葉の上では真逆だが、「いる状態」と「いない状態」
のあいだには無限のグラデーションがある。
どこからが「いる」でどこからが「いない」のかは、その人の次元の主観的な
感覚にすぎない。
確かなのは、覚醒においては、いるとかいないとかを考える隙は一切ないということ。

◆そもそも「いる」と「いない」は3次元の感覚であって、わたしたちの想像もつかない
認識形態においては、例えていうならば「いるいない」とか「いないいない」とか
「いいるない」とか「ないいいる」とか理解不能な別の言葉が存在するのだ。

◆覚醒は言葉で表現できないというが、例えば「ぴぽぽ」という新しい言葉が
覚醒状態を「完璧に」言い表す言葉でそれが世界中に広まるならば、
覚醒は瞬く間に伝播しうる。
その言葉が今のところ見つからないのは、言葉の構造自体が二元性に由来しているからだ。

◆「ばかうけ」の形にそっくりなUFOがでてきて話題になった映画「メッセージ」では、
認識形態の異なる生命体と言語学者が言葉の解読によって意思の疎通を図ろうとする。
この生命体の時間と言葉は地球とは異なる円環構造だった。
その理解の過程で時空の概念の転換が起こって世界が救われた話。

◆母親が東北生まれの東京育ちで、東北弁はまったく話さないが、なぜか
「いずい」という言葉だけはたまに使う。 「しっくりこない微妙にむずむずする違和感」
のような意味らしいのだが、その体感をうまく言い表す標準語がないからだという。

◆その言葉を何度か聞くうちになんとなく「いずい」体感がつかめてきた。
このように、知らない言葉によって今まで埋もれていた感覚が掘り起こされることがある。
覚醒もそのように、ただ、それを体感するための言葉が発見されずに埋もれているだけなのだ。

◆なんらかの体験で感動があふれ出てきたら、外側の感情にもっていかずに、
感動の中心のエネルギーを細かく小さくどこまでも凝縮していってハートの奥の
真空に吸い込ませる。
そうすると隠れていたポータルが見つかる。
いつまでも感動屋のままだと肉体の波動にとどまる。  

◆その際、肉体の反応である涙や鼻水や嗚咽は勝手に出るにまかせておく。
感動する自分に感動しない。
それらはそこに置いておいて、凝縮されたエネルギーを中心に吸い込ませ続ける。
このとき、肉体側にひっぱられる拮抗でGがかかるように細かく震えだしても、それも置いておく。  

◆目もハートもハラも、現象と思考と感情のごちゃごちゃの癒着をいったん整理する。
これは本当に必要。
ごちゃごちゃの認識でごちゃごちゃのものを見ても、ごちゃごちゃの気づきのままなのだ。  

◆本気でサマタ力を高めたければ、いったん瞑想から離れて、生まれてから今までの
すべての感情の未消化物を記憶のかぎり虱つぶしに追っていき、ひとつひとつ具体的に
納得して昇華させていく。

◆何をもって納得とするかは、ひとつひとつの体験によって違うが、リアルにその
当時の感情になりきって、当時見えなかった感情の奥の本心に気づいてあげよう。
もちろん、すべての記憶を追えるわけではないが、徹底的にやるとある段階で
「もうこれでやりきった」という時がくる。 

◆すると、瞑想における反応の出かたや手放し方の質がまったく変わったことに気づく。
そこではじめてすべての反応を置いておくことができ、集中が勝手に起こるようになる。
ただし、過去の自分を癒す感傷的な感覚に夢中になると、目的を忘れて延々と自分探し
をはじめるので注意する。  

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【覚醒からのつぶやき 6】       

2020/10/10

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◆目覚めている人がいるのではなく、目覚めている目だけがある。  

◆消える中心を、探さない先どりしない後追いしないつかまない  

◆「この私が消えなければ」と考えている最中にも、わたしはいないのです。
だから問題ない。  

◆世界のすべては始まっても終わってもいないものの再現です。  

◆認識のタイムラグを時間で修正しようとする瞑想は一如の完成を見ない。  

◆世界に包まれているのではなく、中心が世界を包んでいる。  

◆自分だと思っていた中心を外せば、あらゆるものが瞬間瞬間に中心となる。  

◆いかなる中心も固定されていない。
中心が移動していくのではなく、移動の只中で中心が無限に顕れては消えていく。  

◆捉えがたい曖昧なものや不安定なものにも中心がある。  

◆ミクロからマクロまですべてに中心があって、それらのひとつひとつは
バラバラなのに距離がない。  

◆自分の中心を外すのが怖ければ、身体の軸を外してシミュレーションしてみよう。
ただし、あくまでもシミュレーションなので骨格と重力に囚われているかぎりは
完全に外れることはない。  

◆軸を外そうという想いが軸にならないように。  

◆自分で自分を見ているってことは、すべてのものが見てくれてることなんだから、
それで充分じゃないですか。  

◆覚醒うんぬんよりも、各自が謙虚に責任もって自分自身に気づいてくれてる
世界って優しくて心の底から安心できる。
その心構えさえあれば、失敗しても未熟でも何でも許しあえる。  

◆今日も人知れず気づいていてくれてありがとう。  

◆瞬間瞬間というけれど、瞬間は相対的で主観的なものなので
「瞬間に気づこう」と意図したらダメなのです。
瞬間は定力に応じて決定されますが、定力が高ければ高いで、
瞬間は拡大され引き延ばされていきます。  

◆瞬間と瞬間の間はない。
それは時間の直線で区切られるものではないからだ。

◆便宜上「瞬間」と呼ぶところに在るときには、時間を前に進むのではなく、
中心に触れたと思ったらまた次の中心が中心自体から吸いついてくる、
といった感覚で入れ子になった中心が果てしなく顕われては消えていく。  

◆認識の極限を見切るとき、気づきはギリギリのところまで「並行に」
入り続けるが、最終的に一如を悟るには気づきは「垂直に」落ちて
中心に消えなければならない。  

◆降りてきた智慧の凄さに興奮しないで、しばらく寝かせておこう。
そうやって熟成させておくと、本当に必要なときに、必要な智慧が発動する。  

◆智慧の切り売りは自身をすり減らす。  

◆瞬間は前後ではなく、同心球状に断たれる。ここにつまづくと、
気づきは並行線をたどる。  

◆瞑想は「意図しない」というたったひとつのことだけを徹底すればよい。
ほんとうに、これだけなのだ。
意図しないことが続かなくても、続かない過程自体に、自身を知るための
数限りないヒントと恩寵が散りばめられている。  

◆「意図しない」ことは「意図を止める」ことではない。
この世界のすべてのものは意図が創っている。
純粋は意図はエネルギーだ。
意図に自分という想いがくっつかなければ私の苦は発生しない。
瞑想は、意図と自分との癒着を浮上させ見切っていくことなのだ。  

◆この世界では、中心とバランスの明滅だけが、永遠に起こりつづける。  

◆オンとオフの明滅は二元に限定された意識が生み出す。
神そのものは明滅以前にある。  

◆認識形態によっては、世界は単純な生滅の反復ではない。
生滅だけで世界を説明するのは地球の方便にすぎない。
生滅は時間ありきだからだ。  

◆意図と自身の癒着が剥がれてくると、隠れていた神秘が次々と
勝手に顕われてくるようになる。
神秘はすでにそこにあるもの。
神秘を追わなければ、神秘のほうからこちらを見つけてくれる。 

◆学者や芸術家は、夢現で閃いたアイディアが逃げないうちに枕元のメモに記す。
智慧の閃きは一瞬なので粗い意識では見切れない。
頭でメモをとろうとすると間に合わないのだ。
それを受け取れる精妙な意識と身体がないと記録できない。
人は、各々の意識の速度に合った智慧しか認識できないのだ。 

◆智慧はハラに落ちなければ自身を救えない。
だから、肉体の世界でハラをつくる。  

◆完全な無為の認識においては教える人も教えられる人もいない。
だが、ここでも思い込みの罠がある。
見かけ上、教える人と教えられる人がいたとしても、それ自体が無為なのだ。

◆瞑想で集中できなくても、自分の好きなことなら集中できる。
この世界は、好きなことをやって集中力を身につける場ともいえる。
この世界への集中から執着が抜ければ即、瞑想になる。
極端な話、パチンコの集中だって依存がなければ覚醒に触れうる。

◆執着=悪というのは二元的発想だ。 短絡的な価値観に囚われないようにしよう。
ただ単に、執着は明晰さを奪い、苦しみを呼び起こすという事実があるだけ。
それが嫌なら執着を離れるし、嫌でなければ好きなだけ続けていい。
誰も咎めはしない。

◆激辛のものを食べると辛さに悶絶する。
これは身体が危険信号を発しているからだが、危険信号に意識をあわせず
衝撃の中心を見てみると、辛さに触れていないすっと醒めた何もないところ
があるのを発見する。
苦行に何か意味があるとすれば、ここだろう。

◆瞑想は、自我の生命維持のストッパーを外せるかどうかが鍵になる。
自己同一性が崩れるのは自我にとって恐怖でしかないので危険信号を発し、
別の対象に意識をそらそうとあの手この手で仕掛けてくる。
でも、本当は大丈夫なのだ。 ストッパーを外しても死にはしない。
見かけ上の自分が死ぬだけだ。

◆もしまだ怖ければ、いきなりストッパーを外さず、身の回りのものの
「概念の死」を確かめながらゆっくり進んでいけばいい。

◆熱湯や火に触れてしまったときなども、生命の危険信号の前に一瞬、
空白があるのを見出す。
事故等で痛みも感じずに景色がスローモーションになるのは、この空白が
引き延ばされたものだ。
そこからわたしたちは、この肉体を維持する機能の以前に在るもの、
ということができる。
ここを見切ろう。

◆すべての瞬間がヒントであり答えである有り難い世界です。

◆この私が本体かコピーかというのは自己同一性の記憶の問題がすべて。
死んで生まれ変わる時は記憶が消える。
今この瞬間は、記憶を持った死からの再生。
一瞬一瞬、死んでいる。
でも本当は記憶も継続しているのではなく、一瞬一瞬再生されている。 

◆直列的時間の認識が瞬間につぐ瞬間の死と再生に追いついていないから
自己同一性を保てるのです。 

◆生と死はチャンネルの切り替わりです。
チャンネルを切り替えて、また同じチャンネルを見ることが、自分という同一性。
ただしチャンネルを変えているのは自分ではありません。

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【覚醒からのつぶやき 5】              

2020/10/02

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サンスベリア

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◆覚醒は、どの次元にも触れつつ、どの次元にも属さない。  

◆内と外の定義が、終わりのない哲学を生む。
覚醒は哲学ではない。  

◆終わらせようという意図が、始まりの種となる。
この直列的思考を脱しよう。  

◆完成の途上で、宙ぶらりんのまま悟ってしまおう。
それしか、ない。  

◆義理がたく几帳面な人ほど、後片付けしにここに戻ってきてしまう。
そのラスボスが弥勒だ。  

◆とっ散らかったことに後ろ髪引かれない人はサクっと飛んでいく。  

◆そう考えたら、ここに残ってしまうわたしたちって愛すべき存在じゃないですか?  

◆いかなる知識をもっても心のざわつきが消えないなら、チャンスだ。  

◆生きていても死んでいても罰する者も罰せられる者もいない。
罪悪感も正義感も、ただ自らの恐れが生み出す幻想だ。
それらは他者への恐れではなく、逆に、たったひとりで自立してある現実を直視
できない恐れからくる。
他者の目を設定しなければ存在できないと思い込んでいるのだ。 

◆アダムとイヴが人間になるには、もう一人の視線が必要だった。
それが蛇の狙いだった。
しかし、この物語自体も、恐れが生み出した幻想だ。
物語を存在の根拠にすれば、恐れが恐れを支配し続ける。  

◆頭蓋骨という独房に閉じ込められた無数の視線が互いの脱走を監視しあう世界は、
異常というほかない。  

◆視線の分化自体は問題なかった。
多様性においてむしろメリットのほうが多いはずだった。
自分自身の隅々まで探索できて楽しかった。
しかし、いつしか源を忘れてしまって、楽しかった分化が分離の苦しみにすり替わってしまった。  

◆分離の苦しみすら忘れた不感症の人間は、ただの肉の塊だ。
苦しみを感じられるのならば、救いがある。  

◆苦しみだけを利己的に取り除こうとすれば、幻想の快楽と引き換えに、
永遠に閉じた輪の中のエネルギー源として飼われる存在となる。
それが今、現実となりつつある。
苦しみを感じられるうちはまだ間に合う。  

◆西欧人がアジア人の見分けがつかないように、宇宙人が地球人を見たら、
姿形も言葉も思考も全員同じで見分けがつかないだろう。
見分けのつかない違いで争っていることに笑い出すか、一片の興味すら持たないにちがいない。  

◆「苦であるこの世」も幻想です。
だから、苦の外に脱出するわけではないのです。

◆瞑想ですべてがバラバラに崩壊する現場とすべてがバラバラに発生する
現場を見極めても、わずかに離れた位置に展開していれば観察者が残っている。
観察者の位置がわずかに「引いて」残っているからこそ、正気が保てるギリギリの
ところで無常を悟るわけだが、この地点はまだ半立体的な覚醒だ。  

◆ここでいったん認識の癒着を平面からバリバリと引きはがしてからもう一度現象
に戻って同じことを立体で悟る。
観察者が現象の中心と一致して消えたとき、崩壊する自己も発生する自己もなくなって
気づきの分離が完全に落ちる。
ここにおいて、起こることが起こっているということに真の意味で触れる。 

◆意識の立体感覚は自身の内部で具体的につくりたい。
奥行きは自身の中に作りたいのだ。
そのために肉体の目から内部の目へのシフトが必要なのだ。
そうすれば、目の前の空間に多次元立体モデルを創らなくても、目に映ったものが即、
多次元の回転の動的な影の断片にすぎないことがわかる。  

◆立体は、上位次元の動的な影である。
止まって見えるものも、高速に回転しているものから切り取られた立体的な影だ。  

◆地球という球体もまた、上位次元で全方向に同時に回転する、無限に重なった軌跡
の動的な影である。
(上位次元では全方向=360°ではないので3次元の単純な軸の回転と同じではない)  

◆動的な影である球体はひとつではなく「見かけ上」上位次元の回転とともに
無数に分岐する。(上位次元では実際は分岐していない)
この分岐を、3次元ではパラレルワールドと呼んでいる。
上位次元の軸は平面、さらに上位では立体なので、3次元からみれば角度
によって影は均一ではなく伸び縮みする。  

◆3次元の現象が顕われては消えていくように見えるのは、上位次元の
伸び縮みする動的な影を瞬間瞬間、断続的に切り取って直列に並べているからである。  

◆3次元の瞑想においては、古典的な洞窟のアナロジーの「回転しない影」を
見切るところからはじめる。
まずは肉体の目と癒着した1対1に限定された認識を引きはがす必要があるからだ。
平面の影の極限を見切るとはじめて、立体の影の手触りが浮き上がってくる。  

◆平面の影はスクリーンに映るが、立体の影は360°のVR空間に映る。
ここから、対象としての現象の気づきではなく、現象それ自体からの気づきがはじまる。
ただし、影が影であることは、どの次元においても変わらない。
だから、どの次元からも覚醒に触れられるし、すべての次元を知る必要もない。  

◆3次元上で組み立てられた多次元立体モデルは、上位次元の回転する軌跡から
均一な時間差と角度で頂点と交点を抽出して辺と辺でつなぎ合わせたものだ。
3次元上に組み立てられた立体は、いかに多層構造であっても可視化できる時点で
3次元の視点を固定する。  

◆動的な影の本体を直観できなければ、切り取られた影の立体だけを見て、
回転のエネルギーを未知なる力と崇めるレベルで認識が気絶する。  

◆「今」とは衝撃である。今、今、今、の吸いついてくる炸裂のインパクトが強烈
すぎて前後は勝手に切れてしまうのだ。
時間がどうとか空間がどうとか自分がどうとか考えている余地なんてない。
今以外が入り込む隙間がないとしか言いようがない。  

◆それを体験すると、時間というのは「今」の物理的衝撃から肉体を守るために
引き伸ばされ薄められたもの、という感覚が出てくる。
肉体の波動はこの次元にしか耐えられない。  

◆肉体は「今」のマグマから冷え固まって遅れて出てきたもの、というのが率直な印象だ。  

◆肉体にとっての「今」そのものは寛ぎではなくむしろ痛みに近い。
痛みがあると苦痛が意識を占有するように、今の衝撃が意識のすべてを占有する。
今の痛みはエクスタシーの中心で耐えきれず死にたいと願うようなエネルギーなのだ。  

◆これもシステムとしては途上にすぎず、おそらく、この原始的な「今」の感触と肉体を
同期させて使うエソテリックな方法もあるだろうが、あまりそこには興味がない。  

◆子供の頃に夢中になったオモチャを見ると、懐かしさと温かさに心が解けこそすれ、
今それを取り上げられても泣き叫んだりはしない。
現象世界における無執着とはそのような感覚だ。
家族も、人も、モノも、国も、世界も、自分自身も、そのように見るようになる。  

◆股関節から下が足だと思わず、腸腰筋の一番上から足だと思って使うと
動きの質があがるように、眼球を目だと思わず、松果体の裏からが目で眼球は
変換レンズだと思って世界を見よう。  

◆「歩く」ことは肉体の足から起こっているわけではない。
足は結果として動きだすのであって、歩きの最初の最初をどこまでもたどっていくと、
最初の意図の発動に出会う。
すべての動きの意図がどこから生まれてくるのか、本気で見る決意をすれば、
一瞬にして源にたどりつく。  

◆承認欲求を隠している人ほど「覚醒して人々を救う」という願いを掲げて修行に励む。
それ自体は良くも悪くもないが、限定された願いは限定された結果しか生まない。
覚醒した結果、どのように生きるかは一切限定されていない。
表に顕われる覚者はそのようにプログラムされた一部の人にすぎない。  

◆皮肉なことに「救いたい」という想いが「救ってもらいたい」人を創る。  

◆「答えを知りたい」と渇望するが、答えはその、喉から出ている手の中にもある。
 
◆「死ぬまでに悟りたい」という想いが、有限の存在と時間の限定を創る。

◆病巣の痛痒さを掻きむしり一瞬の快楽を得る人間と、完治させることのない薬を
売り続ける人間。
どちらも報酬系の回路の犠牲者だ。
痛みを快楽で麻痺させるのではなく、正常な痛みを取り戻すことからはじめなくてはならない。  

◆あと何回生まれ変わるかを気にしているうちは、生まれ変わり続ける。
なぜそのことがそんなに気になるのだろうか。  

◆わたしたちの頭の上は、上でも下でもない。
頭が足だと思って宇宙にグラウンディングしてみよう。  

◆地球にくっついているからといって、まっすぐ立っていると勘違いしないように。
わたしたちは今このときも、ものすごい勢いで全方向に吹っ飛んでいっている。
でもこのことは、地球にまっすぐ立ってみないとわからない。  

◆果てしない螺旋構造を縦に昇っていこうとするから気が遠くなるのであって、
横の隙間からちょっと飛び出して蚊取り線香みたいにぺちゃんこにして
渦の中心に消えちゃえばいいんですよ。  

◆頭蓋骨の外を見るということは、私の内に映ったものを反転させて2つの穴から
「のぞき込んでいる」。
のぞき込んだ景色の中に、私は映っていない。
もちろん、エルンスト・マッハの絵のように身体の一部は視界に入るだろうが、
のぞいている私自身は反転せずに常にその場に消えていることに気づこう。  

◆映っているものは内と外が反転するが、気づきは反転しない。
気づきとともに見ている私自身は、常にその場に消えている。
(ここでは世界が先にあるのかないのかという話は置いておく。ただ、映っている事実だけを見る。)  

◆外側に見えている世界は私の内でみたもの、すなわち私の内側そのものだ。
手を前に伸ばせば、私が私の内に触れる。
世界のすべてのものは、私自身に触れるものとしてある。
だが、肉体の目の限定をはずせば、いっさいの距離がなくなって世界は直接わたしになる。  

◆手を前に出すとき、同時に、手がむこうから私に侵入してくる。  

◆股関節が折りたたまれると、膝が私に迫ってくる。  

◆世界は手品みたいに驚きに満ちている。頭で解明してしまったら、もったいない。  

◆目が前面に2つ並んでるって、なんの冗談かと思う。
なにか悪いことしてここに入ったのかと、罪の意識を持っても仕方ない。  

◆心身の構造には不条理な仕組みが多々あるが、進化というものがあると
仮定すると、突貫工事で無理やりいろんな機能をひとつの入れ物に詰め込んだ結果だろう。
例えば、目の盲点は眼球の配置の都合で残ってしまったし、直立歩行を優先したために
腰に負担がかかる構造になったりした。  

◆目は直立の獲得とともに前面に移動してきたが、これなどは意図的に視界の死角
をつくって別の機能を発達させようという何等かの意志が見られる。
その意味では、進化は意思であるといえる。
これを神の意志と呼んでもいいが、デザインはわりと行き当たりばったりのところがあるという印象。  

◆腸って長すぎるし、あまりにも狭いところに詰め込まれすぎてて笑える。
消化と吸収のためにひとつの器官がここまで長い必要があるのが不思議だし、そもそも
固形物を食べること自体が不条理と感じる。
食べなければ、生体のデザインがこの形である必要はなくなるが、
そうなったらなったで何を残す?  

◆脳なんてパーツごとに時代の古い順に積み重なってて、このせいで複雑怪奇で
矛盾だらけの悩みが出てくる。
あとから取ってつけた感がすごい。
あまり愚痴ってるとデザイン担当に怒られそうなのでこのへんでやめておこう。  

◆3Dにおいて人間の形をしているものは、覚醒の場においては人間の形を成していない。
バラバラの粒子の萌芽が可能性として待機している。

◆3Dの人間の創造というアイディアが生まれたとき、自我の芽生えと意識の進化を
見越して「最適なパーツ」が様々な次元から選択・采配された。  

◆そこにおいては、例えば、人間の手と内臓と目と脳の素材はバラバラの次元から
寄せ集められ、「人間」という形に都合のいいようにつなぎあわせて一つの個体に
仕上げられ、それが現象世界の共同幻想として「通用」するようになっている。  

◆それらのパーツは、3D世界に入り込んだときにだけ、ホログラムで多方向からの
光がひとつの像として浮かび上がるように、一続きの皮膚に覆われた一個の個体
として認識される。
逆にいえば、そのように認識されるように、3Dの人間の意識はつくられた。

◆胃にモノを入れることは、蝙蝠傘にミシンを食べさせるぐらい、ある意味シュールな行為なのだ。
でも、消化は身体のみならず意識の顕われでもあるので単純に切り捨てればいいというものでもない。
「飲み込みが早い」「知識を吸収する」などの感覚は身体と連動している。
人生の消化不良もしかり。  

◆これまでは地球の重力は人間全員、平等だったが、覚醒の局所から反重力部分だけを
利己的に利用しようという動きが出てきた。
近い将来「重力格差」がやってくる。
二極化という概念は好まないがあるとすればここだ。
これは陰謀論などではない。
UFOすご〜い!とか呑気に喜んでる私達への覚書き。  

◆三次元の覚醒は反重力感覚を「含む」から話がややこしい。
これはトンデモ話ではなく、わたしたちの心身と思考すべてが重力に支配されてきた
ことが真に見切られれば、自然に理解されること。    

◆地球が平らだと言い張る人たちを笑うけれど、地球がひとつの球体だと思い込んでる
私たちも、上の人に笑われているのです。  

◆わたしたちが神と呼んでいる存在はわたしたちの限定された認識の投影にすぎない。
それがいかに超越的に感じられたとしても。  

◆わたしたちの意識が、3次元を3次元として縛り続けてきた。
意識の「引っかかり」が、次元の法則を限定しているのだ。  

◆もともとは、意識と気づきは同義だったが、メタ認知によって意識と気づきと思考と感情を
ごちゃ混ぜにしているうちに、自己がバラバラになってしまった。
まずはその混乱を解きほぐそう。  

◆いずれ認識の区分は一元、二元、非二元、の3つだけでは間に合わなくなる。
まったく理解不能な認知形態がごまんとある。
だから、単純なうちにわかってしまおう。  

◆空は反重力を含むが、空=反重力ではない。
「反」重力は重力ありきの二元だが、空は一元でも二元でも非二元でもない。
3次元においては、どこにもつかまらない意識は原理的に反重力感覚に近いものがあって、
自動化された瞑想ではこの波のあいだに乗っていく。
UFOもこうやって操縦するのかも。  

◆よく、クンダリーニのエネルギーはどこを通るんですかと聞かれるけど、
背骨に近いけど肉体じゃなくて、どこにもくっついていないところを重力に逆らい
ゴゴゴゴゴ!っと怒涛の衝撃で昇る。  

◆そのエネルギーは本来、すべてに満ちているが、あらゆる引力から自由になった
空の道しか通れない。
逆にいえば、空いた道を見つけたら向こうから待ってました!とばかりに通り抜けてくる。  

◆「あなた」と呼びかけるのは、認識の感覚にそぐわないので苦手だ。
そう呼んだとたん、舞台と客席が分かれて演劇が始まる。  

◆肉体の意識で開けた道には、肉体に近いエネルギーしか通れない。
じゃあ、意識だけでどうやって道を開けるんですかと言うけれど、物体と意識に境界がない
ことを知れば、手で物体のゴミを取り除くのと同じように、意識で思念のゴミを取り除くだけでいい。  

◆物質の世界は意識の世界への直接的なポータルなのだ。
だから目の前の物質をつぶさに観察しよう。  

◆にわかには信じられないと思うけど、私が立ったその時その下に、重力と地球が生まれ、
全体が回転し始めるのです。
本当に信じがたいけれども。  


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【覚醒からのつぶやき 4】       

2020/10/01

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植物

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◆存在の本体は莫大なエネルギーのアイドリング状態だ。
肉体が固形物だと信じれば、エネルギーは個体分しか通り抜けられない。
無理やり通そうとすれば木端微塵に吹き飛ぶ。
だが、肉体が無限の「あいだ」の非連続体だと知るとき、
エネルギーはすべての「あいだ」を自由自在に行き来する。

◆人間を一個体と見る認識からは、個人個人のエネルギー量は異なる
ように見えるが、境界のない「あいだ」の非連続体を見る認識からは、
すべての存在のどの瞬間にも莫大なエネルギーを見出す。
たとえ衰弱した病人にあっても、どの瞬間にも「あいだ」の莫大なエネルギーがあるのだ。  

◆このことは、エネルギーを現象面でとらえていては理解できない。
エネルギーを相対的な強弱ではなく二極の「あいだ」で瞬間瞬間に決定される
創出それ自体としてとらえるのだ。
創出そのものに強弱はない。
存在と非存在の二極の発生するあらゆる場に、相対を超えたエネルギーの爆発がある。  

◆「わかりたい」というエネルギーを、時間の前後ではなく存在の上下に貫こう。
追いかけてくる自我から、純粋な意思だけを救出するのだ。  

◆単純に、「わかりたい」と「わかる」のベクトルと位相がズレているだけなのだ。
愛を知るために冷蔵庫の中を探しているぐらい、明らかなズレがある。  

◆「わからない」ことに開き直るのでもなく、「わかりたい」という意思を固める
のでもなく、不可解の真只中に永遠に放下してしまおう。
無限後退の真空において、存在と再会する。  

◆わたしという現象は、噴水で吹き上がる水ではなく、噴出それ自体のエネルギーだ。
放物線を描いて落ちる水の軌跡は3Dにおけるわたしの残像にすぎない。
身体に同化すれば、重力によって噴出は上下に固定される。
身体に同化しなければ、噴出は360°どの瞬間にも見出せる。  

◆ここは瞑想者の盲点なのだが、噴出自体に気づきはじめると、残像を
一括して切り捨てようとする。
残像が一切認識されなければ問題ない。
しかし、残像が残像であると認識された瞬間、残像が残像でなくなり、
そこに自身の噴出の発現がある。
噴出は常にあるが、その発現は決定されるものとしてある。  

◆「それ」を神と名づけた瞬間、人間は人間の枠に気絶する。  

◆意思を「意思」として気づく段階では、すでに「目的」が伴っている。

◆ 生まれ変わりの印に前世と同じところに痣があるとか、臨死体験者が
過去を見てきた記録として建造物に印をつけておく、などという話は心情的
にわからないでもない。

◆肉体の死を迎えて意識のフォーカスのチャンネルが変わるとき、
前回のチャンネルで理解したところから始められれば効率がいいので
自分自身にヒントを残しておきたいのだ。

◆ただ、そうそう思い通りにいくものではなく、前回理解したところまで
辿り着くのに紆余曲折する場合があるが、紆余曲折の中に前世で取り
こぼした新しい発見があったりもする。

◆私自身、散りばめられたヒントに子供の頃から要所要所で出会ってきた。
(ヒントなしで唐突にフラッシュバックが起こって困惑することもしばしばあったが)
直線的時間で理解しようとするとオカルトにしか聞こえないが、過去の私からの
ヒントも、未来の私からのヒントも、現在に散りばめられている。

◆時には積極的に直接呼びかけられることすらある。
また、現在の私が過去の私や未来の私に呼びかけることもできる。
例えば今、過去に直接呼びかけられたときの私の記憶を想起してみる。
すると、呼びかけた声は他ならぬ私自身だったことに気づく。
(これは声の響きと安心感の有無で判断できる。) 

◆また、現在の私が同じ声に呼びかけられるとき、未来の私がこちらに
目を向けていることが経験的に理解できる。
ただ、過去現在未来というのはあくまでも直線的時間における私の記憶の分裂だ。
私が私に呼びかける声がひとつのところにあるとき、時間は消える。 

◆こういった話は誤解を生みやすいのであまり話さないようにしているが、
時空の仕組みとしてむしろ自然なことなのだ。

◆面白いものでこの仕組みに気づくと、例えば今この瞬間、未来の私を想起したとして、
しばらくそのことを忘れていても未来のしかるべき時点で今この瞬間
(未来から見れば過去)に想起したことを思い出す。
つまり、特別な目印をつけておかなくても意識の中で気づきの時限爆弾を仕掛けておけるのだ。

◆しかし、この仕組みの利用は目的を誤ってはならない。
だから、それがわかるまで隠されている。 

◆ハートの本質を知りたければ、現象の発生する前面ではなく「裏側」の振動に触れよう。  

◆意識も反重力装置が発動すればいいんですよ。
地球上の心身はすべて重力に規定されています。
私はその感覚を前時代的にホバークラフトと呼んでいましたが。
ただし、空中浮遊する必要はありません笑
重力に逆らおうとするのではなく瞬間瞬間に「あいだ」が決定される仕組みを
使えばよいのです。  

◆物理次元ではヴィジョンを定めないと物事が形にならないという理がある。
ヴィジョンが明確であれば強い意志とともに具現化するのだ。
そこには粗く単一的なエネルギーがある。  

◆しかし、ヴィジョンを定めないことの中にも、別次元のエネルギーがある。
決定以前のエネルギーの混沌それ自体にすべてを任せてしまえば
、限定されない未知の力が私の行先を決めてくれる。
ただし、全託の信念に盲目的に気絶すれば、それもまた単一的なエネルギーとなる。  

◆ある力が決定されるのは、同じ力が二極に分離して引きあうからだ。
強い力と弱い力が引きあうのでは「あいだ」が決定されず、現象として像を結ばない。  

◆ある力が現象として発生するとき「あいだ」は発生と同時に決定されている。
創出のエネルギーは二極のバランスのあいだが決定されるときの引きあいの作用そのものなのだ。  

◆眼耳鼻舌心意の六門の入力に対して反応しないことを修行と考えていないだろうか。
人間の知覚には、同じ刺激が続けばそれに対して反応しなくなるという特性がある。

◆たとえば、視点が一点に固定されれば周囲の視界は消えしまうし、
同じ臭いを嗅ぎ続ければ臭いの存在を忘れるし、微妙なストレスが続くと
ストレス自体に気づかなくなる。

◆単純に反応さえ出なければよいのであれば、知覚の特性によって反応が
消えることはいくらでもある。
この仕組みを利用したのがサマタ瞑想だが、ここがゴールではないことは明らかだろう。  

◆頭と感情で人間を見限る前に、まずは人間として直立しよう。
飛ぶのはそれからだ。
直立する前に無理やり飛べば、自他未分の沼に引き戻される。  

◆服着るのと、歯磨くのと、食事するのと、掃除するのと、本読むのと、メールするのと、
花飾るのと、トイレ行くのと、病院行くのと、銀行行くのと、呼吸するのと、踊るのと、
歌うのと、瞬きするのと、やるべき優先順位がすとんと抜け落ちて、焦るでもなく、
諦めるでもなく、カーンとサマディに張りつく。  

◆覚醒とは、脳の機能はそのままに、生の優先順位が組み変わることともいえる。
必死に生きようとしなくてもよくなるのだ。
もちろん、目の前の危険は回避するし、お腹が空けばご飯を食べる。
ただ、命の維持はお任せしておくだけになる。  

◆ふと思ったけど「必死」に「生きる」ってアンビバレンツの極みですね。  

◆死が必然だから生きるってことか。  

◆平面の気づきは対象と観察者が並行しつづける。
ここに気づかないかぎりヴィパッサナーは頭打ちとなる。
球体の気づきは観察者が消え、あらゆるものの中心でありながら、何もつかんでいない。
ただし、この私が球体の中心に入ろうとすれば、たちまち平面の気づきに逆戻りする。  

◆球体が先にあるのではなく全方向、何もつかんでいないことの徹底が
球体の中心に浮いている瞬間瞬間を決定する。
球体の大きさは瞬間瞬間に決定され、極小から極大まで無限に変化するが、
実体があるわけではない。  

◆球体の感触も中心の浮遊感もまた、即座に手放されると、バラバラに捩じれて
引きちぎられるような高密度の領域に触れる。
そこには、同じ極の巨大な磁石どうしを無理やりくっつける間に挟まれているような
凄まじいうねりと圧がある。  

◆鮮やかだった花が色褪せ枯れていき、最期の最期に干からびた花びらの一片が
粉々になって風に運ばれ消えていく。
最期の一片はまだ、花の一部だった。
消える間際までは、花の存在の延長だった。  

◆消えた瞬間、何がなくなったのだろうか。
花を花と見る私が消え、色と形から自由になった花が、そこに存在しつづけている。  

◆簡単なのでやってみてほしい。
手を思いっきり強くグーに握ってみる。
今度はふわっと軽くパーに開いてみる。
グーの中心とパーの中心はまったく同じものだと気づくだろうか。
これがわかれば全部わかったのと同じなのだ。
難しいことなんてひとつもない。
中心ってどこ?などと考えないように。  

◆個人的には、アナパナは気が昇りやすく、意識が身体の前面に偏りやすいので、
初心者は丹田をつくって気を落とせるようになってから移行するほうが身体の構造
としては自然という考えです。  

◆アナパナで意識が前面に偏ると、光やヴィジョンなどのニミッタが出やすくなりますが、
サードアイ付近前方にみえるニミッタは集中の度合いとしては浅く、気づきが肉体の目
を伴ってしまっています。
ニミッタの光をまぶしく感じるならば、肉体の目に囚われている証拠です。  

◆それに対し、場所のない虚空のようなところに唐突にフラッシュするニミッタは集中力が
高まってきた証拠になりますが、ニミッタ自体には囚われず手放していく必要があります。  

◆呼吸の秘伝として、鼻から吸った息を縦方向ではなく横方向のラインを意識してみてください。
(ただし身体の軸は縦方向に「置いて」おきます)縦の意識だけだと鼻孔入口付近で意識が
途切れ、気づきが平面的になります。
その意識で丹田呼吸をしても意識が前面に偏り、丹田の奥深くまで落ちません。  

◆横のラインは、鼻から入った息を上咽頭付近に向かってぶつける感じで吸い込みます。
(顎を引かず、顎先と鼻先はその場所に「置いて」おくようにします)

◆このとき、硬口蓋から軟口蓋のあたりが軽く浮いて前後にストレッチされる感覚が
すれば正しく吸えています。  

◆また上咽頭に呼吸がぶつかる感覚と盆の窪を開く感覚と頭上のポイントをつなげることで、
瞬間的にサマディに入りやすくなります。
出来る方は合気あげでこの感覚を使ってみてください。
横のラインの呼吸の感覚がつかめると呼吸とともに肋骨と筋膜が内部から風船が膨らむように
押し広げられてきます。  

◆肋骨と肋骨の間が縮こまっていると感情や思考に囚われやすくなり、気が昇って
丹田に意識を落とせません。
ワークでは毎回、この辺りを基本として調整します。
集中力の欠如は9割方、身体の基本的な使い方(および食事)に起因していると
いっても過言ではありません。  

◆眼球が左右均等にまっすぐ前を向いているかどうか意識したことがあるでしょうか。
まっすぐ向いているかどうか鏡ではなく(鏡だと鏡の中の目を見てしまうため)
他人にチェックしてみてもらってください。
たいていの場合、左右不均衡で片側だけわずかに内転していたり外転していたりします。

◆このバランスが、瞑想における思考の発生や気づきの偏りに直結しています。
偏りのあったまま眼球が微動するとその人特有の思考が発生し気づかないまま連鎖します。  

◆肉体との同化から離れて完全に眼球をその場に「置いて」おけるようになれば
偏りも無関係になりますが、それ以前は基本的な身体の型として眼球をまっすぐにする感覚
を身につけたほうが気づきが等価に入りやすくなります。  

◆肋骨の「いちばん下」を触ってみてください。
自分がイメージするよりもかなり下のほうにあって驚くかもしれません。
普段意識しているのは胸骨にしっかりくっついている第1~7番目までの肋骨で、
下のほうの第8~12番目の肋骨はあまり意識できていません。  

◆体の前面からしっかり触れる第8~10番目まで(第11~12は背骨側から浮いています)
は無意識に上の肋骨と癒着し委縮していることが多いのですが、ここが委縮すれば
気が昇りやすくなったりネガティブになったりします。  

◆先の呼吸とともに肋骨の8~10番を下方向へ「置いておく」ようにすることで徐々
に肋骨の間がストレッチされて均等になっていきます。
(この調整は多少時間がかかります)
それにより、意識は丹田の奥深くにすとんと落ちることができるようになります。  

◆サードアイやら高次元の目やらを開くまえに、まず人間としての肉体の目を開こう。
なんのために人間に産まれたのかという話。  

◆100年にひとりのバレエダンサーといわれたシルヴィ・ギエムは、ある著名な
日本人ダンサーと共演したとき「私の目をちゃんと見て!」と何度も注意したという。
日本人ダンサーは「ちゃんと見ているつもりなのに何故?」と困惑したそうだ。
ほとんどの人間がまだ肉体の目すら開いていないということ。

◆股関節周りに隙間を開ける感覚と、腸腰筋を上下に引っ張る感覚と、仙骨を
立てて仙腸関節の隙間を開けて折りたたむ感覚がつかめないうちは無理に
座禅の形を組まないほうがよい。  

◆前頭筋を頭上へひっぱり、皺眉筋をの間をふわっと開き、鼻根筋と眼輪筋の力をゆるめ、
側頭筋を盆の窪へひっぱり、咬筋の力をゆるめ、オトガイ筋と頬筋をひっぱりあい、
顔と頭の皮膚を張って、頚椎が盆の窪に刺さって頭蓋骨全体が浮いているようにしてみて下さい。
そうすれば妄想なんて出ないですよ。  

◆身体のすべてが引っ張りあいだし、意識のすべても引っ張りあいなのです。  

◆前頭筋が下方向にゆるんで妄想したり居眠りしたりしている人が多すぎる。  

◆逆にいえば、客観的に気づいて修正すればいくらでもショートカットできるという話。
むやみに走りださず、まずスタート地点に立とう。 

◆意識が意識それ自体を客観視できるようになるまで、まずはこの世界の身体を
客観視のモデルとして有難く使わせていただく。  

◆まずは肉体の目を獲得しなければ、見ることと気づきの肉体的な癒着に気づけない。  

◆ある次元の体験的理解は、常にひとつ上の次元からの俯瞰のよってもたらされる。
肉体の目にしろ、3次元にしろ。  

◆悟りとは「システムを解明すること」ではない。  

◆身体の理解と調整は途上の補助にはなるが、ある地点で一気に無効になる。
ラマナ・マハルシの曲がった首が語っている。 

◆気づきは透明だからといって、対象を銃で撃ち落とすように均一のテンションで
気づこうとしないこと。
柔らかい気づきもあれば、硬い気づきもある。
すべての気づきが世界をぴったり覆うとき、ただそのままの世界が戻ってくる。  

◆すべての教えが各自にとっての方便であることは謙虚にわきまえておくべきである。
ここにおいて例外はない。  

◆硬い身体は硬い意識がつくる。
硬さと硬さがぶつかったところが物質として固定されていると思い込んでいるのだ。
軟らかい意識は、身体を塊としてとらえないので、どこにもぶつからない。
「ぶつかる」という意識の強張りが解ければ心身は内側からバラバラにほぐれる。  

◆硬い意識のまま身体の表面だけを脱力させようとしても「脱力しよう」という
硬い意図が心身の中心を強張らせる。
このときの脱力はぐにゃぐにゃした砂袋のような重さと虚脱感を伴う。  

◆軟らかい意識の脱力は、全身が花粉になってふぁ~っと霧散しているような
飛翔感を伴う。
この感覚は物質を超えているので、肉体の柔軟性や可動域に限定されず誰でも
体感し得る。
瞑想はここからはじめたいのだ。  

◆意識のありかたで身体の重さや動きの質は変化する。
たとえば床に丸まっている相手を肉体の塊として転がそうと思っても重くて動かない。
自分の肉体と相手の肉体が塊としてぶつかるからだ。
が、水平線のはるか先まで意識して地球ごと転がそうとすればあっけなく動かせる。  

◆また、開脚するときには左右の足先と耳が水平線のはるか先まで伸びているように
意識すれば限定していた可動域を超えられる。
これはイメージトレーニングではなく、具体的な意識と身体のメカニズムなのだ。
この身体の枠にかっちりはまっていると思い込めば、意識と身体も限定されたものにとどまる。  

◆二極が離れようが近づこうが、あいだにあれば関係ない。 

◆あいだにあることは、極を設定しないこと。  

◆凪にいる魚も時化にいる魚も、そこにふさわしい力で泳いでいる。
泳ぎがあいだで起こっているのだ。意識の力学でその力を体感していこう。  

◆唾をごくんと飲むときの喉の実感、それぐらい具体的に覚醒に触れよう。  

◆今すぐ実際に水を飲んでみてほしい。
水を飲んで、体の中でその感触が消えていく最期の最期まで見つづけてみよう。
最期にある、肉体とイメージの境界に気絶しなければ、あいだの入口に出会う。  

◆好き嫌いをなくそうとしないこと。
好き嫌いはまさにその瞬間、事実として起こっているからだ。
好き嫌いをする自己嫌悪がでたらでたで、それは事実としてあるだけだ。
事実を事実として受け流しきっていくこと、それは過去現在未来のすべての
自分をその瞬間救っているのだ。
奇跡はここにある。  

◆地面に立っているということは、こちらからも押しているし、あちらからも押されている。
その真ん中に、それでしかないバランスで立たされている。
そのことさえわかれば、すべてわかる。 

◆気づきの極限を見切ったら、現象世界にもどってこよう。
現象発生の同心円の真ん中で、祈りになろう。  

◆「上咽頭に呼吸がぶつかる感覚と盆の窪を開く感覚と頭上のポイントをつなげること」
この真ん中でサマディにホワイトアウトせずに、気づきが気づいていればよいのです。
ここが団子状に癒着していると瞑想は堂々巡りします。  

◆気づきのとらえかたの癖に気づかない限り、気づきが解放をもたらすことはない。
気づきのベクトルが一定の方向になっているから自他が分離し続けるのだ。
気づきの癖は、その人そのものが顕われている。  

◆「気づきに気づく」とは、気づきそれ自体の中心で気絶せず「目覚めている」
ということです。
気づき自体は対象化できません。  

◆「すでにそれである」ということは、帰納法でも演繹法でも導き出せない。
修行のトリックに惑わされないこと。  

◆瞑想はゴールを目指す長い道のりではない。
ものを見ることの基礎が現象世界で健全に養われていれば、ほんの一瞬の瞑想で
すべてが一致する。
だから、現象世界で健全に生きる。  

◆無執着は結果として起こること。
だから無執着を目指さないこと。無執着は諦めや放棄ではない。
無執着は性質ではなく構造なのだ。  

◆それの手触りが見えてくると足元が崩れ去るように感じはじめるが、逆に、
肉体の足はしっかり大地を踏みしめるようになる。  

◆肉体と仲良くなって協力してもらおう。  

◆「先に進もう」という意識が自己の分離を生む。
ここで誤解しやすいのは「先に進んではいけない」ということではないこと。
いまここに「止まろう」とするのはちがう。
「先に進んでいること」のすべての瞬間が自己と一致していれば、
結果としてただ「進むこと」の軌跡があるだけなのだ。 

◆覚醒を「動き」の中でとらえられるようになろう。
それが、現象世界での悟りだ。  

◆動いているから止まっているし、止まっているから動いているのだ。
座禅で停止に陥っていないかチェックしよう。  

◆自分自身であることとは、想像の中の小さな自分にふてぶてしく胡坐をかくことではない。
自身の顕われは自分の想像を超えている。
そのことに畏敬の念と感謝をもとう。 

◆不足感は自分自身とのズレから生まれる。
ズレの大きさが即、不足感の大きさなのだ。

◆自分自身とぴったり重なっているとき、そこに心理的にも
物理的にも過不足があろうはずもない。 
 
◆自分自身の過不足が消えて、それでもなお何かが溢れてくるのならば、
それを表現すればよい。
そこから利他行がはじまる。 

◆なんらかの体験が起こったら、他人の言葉や経典の言葉で定義づけてしまわず、
あらゆる角度から自分の言葉で検証してみよう。
他者の定義を必要とするならば、それまでの体験だったということだ。  

◆テレビを見続けると洗脳されるように、一方的に情報を受け取る側に居座ると
意識の筋力が退化する。
それがどれほど素晴らしい教えであっても例外はない。  

◆とかく瞑想というと受動ばかりが強調されるが、最終的に「能動も受動である」
ということが腑におちなければ、この世界でエネルギーを循環させることはできない。
わたしたちひとりひとりは、世界の創造のエネルギーの中継地点なのだ。
エネルギーの循環、これが創造主の意思である。  

◆三角形のあいだは固定されるが三角錐のあいだは浮く。
3次元の身体をポータルにして意識を立体化しよう。  

◆呼吸と意識の深さで他人を受け入れる器が決まってくる。
他人を拒絶する人はたいてい鳩尾で呼吸が止まっている。
心理的に「他人を受け入れなければ」とあれこれ悩むよりも、まずは身体を変えるほうが早い。
深く境界のないところには四次元ポケットのように何でも入る。  

◆女性であれば、子宮が安らぐ感覚を知っている。
子宮の安らぎの最奥に世界がまるごと入っている。
男性であっても、女性性と現象世界の創造原理の理解によって同じ感覚が養われる。
この理解は、必ず修行者の助けになることを覚えておいてほしい。  

◆死に方がどうこうというよりも、死の瞬間の意識レベルが正確に次のチャンネルに
引き継がれる。
引き継がれる際の中間層のタイムラグ(人によって時間感覚は伸び縮みする)で、
自身の創り出す死後の世界にフォーカスする。
誰が罰するわけでもなく祝福するわけでもなく、自分自身が反映される。  

◆傍観者にも批評家にも野次馬にもそれぞれの軸があるが、自分自身が
存在の実感に撃ち抜かれたければ、プレイヤーとして世界の軸と一体化しよう。  


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