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【覚醒からのつぶやき 12】        

2020/11/26

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。

薔薇
   新宿御苑の秋の薔薇


◆世界を一周すると自分の背中に再会する。
背中側から自分自身にそっと入って重なる。
すると過去現在未来の自分がひとつになる。
でも時間をかけずもっと簡単な方法がある。
今すぐその場で自転して軸に消えればいい。

◆意識は「非重力」であることを皆すっかり忘れてしまって、
重力のバランスをグラグラとりながら、全体でUFOみたいに
あっちへ飛んだりこっちへ飛んだりしている。
ちなみに反重力は重力ありきで、覚醒ではない。

◆覚醒感覚を持った人はたくさんいるけど、すぐにこの世界を
擬人化した物語に回収してしまうのがもったいないなと思う。
知りたい人が「ひと」だからしょうがないけど、いま一度、
ダイレクトにそれ自体を抽出する感覚を思い出してほしい。

◆覚醒を擬人化すると、世界が魔術に転ぶ。

◆神は目に見えないぐらいが丁度いい。
四六時中、目の前にいたらプレッシャーでしょうがないからね。

◆神の姿は、コーンフレークかコーンフレークとちがうか、
想像している時が一番楽しいのです。

◆魂という響きは、すでに物質の粘性を持つ。

◆光はすでに生まれてしまったものだけど、
露光せずに在るものも、ある。

◆全員が無知でなくなる日が来ることを願う「愛の人」もまた、
この世界を残存させ続けるのです。

◆人を殺すことも自分を殺すことも不可能。
肉体を殺すことは可能に見えても。

◆回転という概念も、方向に囚われています。

◆グルは物質世界の魔術の素養が必要で、特定の通路使用
の権限を「与えられている」が、それは覚醒そのものとはまた
別のフェーズと心得る。

◆子供の瑞々しい感性は、認識のサビに気づかせてくれる。
あらゆる固定化は覚醒を覆う。
生命の新陳代謝は、認識の新陳代謝のためにある。

◆人を救うのは不遜な態度だ。 認識の空白で、ただ祈るだけ。

◆私は弱いので、わたしは私を見守る。 私が強くなろうとすれば、
わたしは遠いところからそっと悲しむ。

◆時空の直列的な連結を俯瞰して組み替える魔術は、空間を箱と
とらえる認識が完全に転換しなければ扱えない。
だが、仮に空間を組み替えても、自分という磁力の定点がある限り、
構造は引き継がれる。
だから、魔術を諦めて自分が消えてしまったほうが速い。

◆過去生は全員が共有している架空の場。
全部繋がっている。

◆単に苦を無効にするだけなら、この瞬間に個が消えれば終わる。
ただそれは、あくまでも個の覚醒だ。
何度もここに戻ってくるのは、それが何かを訴えてくるからだ。
それは二元性に還元できない何かだ。 それを概念化すれば、
たちまち魔術に逆戻りする。
だからただ、お任せするしかない。

◆カルマの磁力を人工的に組み替えた魔術的な契約は、
幾何学的なロックを説かなければ未来永劫つづく。
(ただしこの組み替えは見かけ上の幻影)
神話や支配・被支配の構造は、魔術的な組み換えの応酬
による勢力分布から成る。
魔術は幻想だが、幻想に生きる限り、鍵を知る者が力を握り続ける。

◆神話的に語るならば、わたしたちはこの魔術的世界の認識に
足止めされてきたが、見方によっては「足止めする者」は善でも
あり悪でもある。
夢から覚めるには、善と悪を包括する神のごときパワーを身に
つけるか、あるいは今この場で幻想を見切るかだが、どちらが
容易かは自明だろう。

◆意識の座標の片隅に、ミイラ取りがミイラになってしまった覚者
たちの墓場がある。
救済の請願と引き換えに、この世界の魔術に踏み込みすぎてしまったのだ。

◆日本語をはじめて聞く外国語のように聞いたり、目の前の
モノを用途と名前がわからないまま見たりする認識は奇妙だが、
概念のフィルターを介さない、直接的な親密さと鮮烈さがある。
そこに曖昧さはなく、脳の特定の部位を切り離して浮かせておくような
具体的な感覚がある。

◆この状態を意図的に訓練してつくることもできるだろうが、
そこにある直接的な親密さが実存と溶け合わなければ、
VRのゴーグルを付けたような人工的な立体感と薄っぺらい
シュミラークルの世界像に漂うだけだ。

◆仮想現実が世界の実態、という共通認識が確定したら
「はじめにコードありき」ってVR聖書も書き換えるのかな?

◆現実現実っていうけど、宗教原理で動いてる世界って
非現実感の極み。
完全に狂ってる。

◆分離の根本的な不安から、人は存在を保証してくれる何かを
信じずには生きていけない。
肉体も自我も物質も「在る(在ってほしい)」という信念の磁力で結実している。
この構造の延長でどのような高次の知識を仕入れたとしても、
壮大な「宇宙宗教」に永遠に取り込まれ、利用され続ける。

◆だからといって、宇宙宗教に立ち向かおうとするのは、もっと狂っている。
たった今、その信念を手放せばいいだけ。
なにも信じない。
狂信を手放しても、信頼は残るので大丈夫。

◆7歳の頃、近所の子と喧嘩して30㎝四方のアスファルトの
塊を頭にぶつけられ、一瞬のホワイトアウトの後、
カシャッ、カシャッ、カシャッ…とシャッターを切るように
意識がカメラになってゆっくり傾いていった。

◆おそらくほんの2~3秒のことだったのだろうが、
その間、五感がシャットダウンして無音の中でただ周囲の景色
を断続的に切り取っていた。
そのまま倒れて斜めのアングルの地面を見ていたら、無音の真空
の彼方からキャーキャー叫ぶ声がだんだん大きくなってきて、
誰かが側にいるのを感じた。

◆視界上方向にドロっとした感触を感じ、カメラのフレームの中に
他人のものみたいな手をのばしたら、ヌルっとした何かに触れ、
ぼたぼた血が流れているのに気づいた。
その瞬間、五感の一部がもどって、ワーッ!と悲鳴をあげている
子供たちの声が全方向から押し寄せてきた。

◆まだ状況がつかめないまま、ふらふらと立ち上がって、アスファルト
を投げた子のほうを向いてニヤっと笑ったように思う。
頭から血を大量に流して笑っている図はホラーそのものだったのだろう、
その子は顔面蒼白で立ち尽くしていた。

◆それから道路にぼたぼた血の海をつくりながら家に向かった。
子供たちは興奮しながらも恐ろしさで遠くのほうからついてきた。
玄関に入って母親の悲鳴を聞いた瞬間、どくどくとした痛みが
襲ってきて、はじめてウワーーーッと泣き叫んだ。

◆ひとつ言えるのは、もしこのとき死んでいても、その瞬間は
まったく痛くも怖くもないし、なんの想いもないということ。
死とともに肉眼の機能が途絶えれば視界はフレームアウトする
だろうが、そこにはこの世界と連続した意識が確かにある。
この体験の意味を理解したのは、それから25年後だった。

◆この世界には、100人いれば100通りの「現実」があるが、
その人の中に嘘があるかないかは、ひとつしかない。

◆ゲームクリアしたければ、アバターの肉体をねぎらってあげてください。

◆ゲームに気づいたアバターが、こっちに視線を合わせてきたら、
味方を名乗って、メタゲームの始まりを告げましょう。

◆アバターの一挙手一投足をコントロールすると大変なので、
自我と現実感を与えて自由っぽくやらせてる。

◆漫画家がよく「描いてるうちにキャラが勝手に動いて暴走し始める」
というけど、創造の神も、そういう風にちょっと面食らいながらわたしたちを
見ている。

◆魂が肉体の痛みと連動するシステム実装は、この世界面だけの
レアなプロトコル。
その痛痒さの麻薬的に幻惑され、何度もプレイボタンを押してしまう私たち。

◆わたしたちは愛を肉体の切なさに還元したがる生きもの。
還元された愛はDNAに刻まれて、肉体を再生させる甘美なトラップ。

◆生と死の面の切り替えゲームをクリアしたら、継ぎ目のない回転体
のゲームに入ります。
このゲームはステージの切り替えがないので、恐怖もないかわりに
難易度は桁違いに上がります。
その前にゲームを降りてもいいのです。

◆悟った瞬間、経典を師匠に投げつけたという話がありますが、
あえてパフォーマンスでやってくれてるのです。
投げても投げなくてもどっちでもいいんだから。

◆痛みは地上の郷愁。
忘れても懲りずにまた味わいたくなる。
自傷行為のように、仮初めのリアリティを確かめるために。

◆事実だけを伝えればいいのに、神やら仏やら像やらを持ち出して
「怖くないよ、信じてごらん」とか誘うから、いつまでたってもUMAを
探すみたいな不信感が消えないのだ。
(自戒の意味もこめて笑)

◆なぜ思考を「掴む」「手放す」と表現するのでしょうか?
それは言語に組み込まれた肉体感覚を無意識に適用しているからです。
思考は物質と同じくエネルギーです。
この理解は、気づきの質を変化させます。

◆この世界の奇跡はバグなので、あまり頻繁に起こるとシステムエンジニア
が異動になる。
奇跡が当たり前になると有り難みを忘れるので。

◆鏡は自分自身を映すというが、映すという発想自体が落ちない
と自他が分離し続ける。
世界を映された幻影と見切ることは必要だが、幻影を切り離すと
いう発想は自他の区別を強化する。
映す/映されるという二元化のあいだに世界をまるごと入れてしまおう。

◆認可制の悟りは狂気の沙汰。

◆人生も自分も宇宙も、今の爆発の中では塵より軽い。

◆「それ」は私が満足するかしないかの問題ではないのです。

◆「今」をストップウォッチで測らない。

◆刹那と劫は「今」の希釈と圧縮です。

◆理性は楷書  覚醒は草書

◆覚醒を語るには、絶対音感ならぬ絶対語感が必要。
ただし、気づきには絶対五感は不要。

◆あらゆる順番が組み変わっても、結局おなじことなのです。

◆この世界は、膨大な順番の試算です。

◆認識されたすべてのものは、信念体系の屍です。

◆いま語っているこれも屍です。

◆認識の屍は、愛の遺物です。 敬意を持って葬います。

◆「今」という言葉の齟齬に騙されないでください。
今は時間差の補正ではないのです。

◆気づき云々より、まず気を確かに持ってください。
身体を離れる前に、まず身体に為ってください。

◆パートナーの知り合いが、仕事中に机の下でカウンターを
持ってマントラを唱えていたそうです。
私が経営者でもグルでも、即刻クビにします。
今の仕事の中に真理を見出してください。

◆円環も3次元に展開された概念です。

◆文字のカドって脳内の肉体マップを確定してくるんですよね。
骨の角にハマる感覚。 まあ、正中線で書くから当たり前なんだけど。
私は脳内バラバラ屍体です。

◆人間は魔の2歳児。
自我のイヤイヤ期。

◆究極的には重力もひとつの信念体系。
ほとんどの人が、意識も重力に規定されていることを自覚していない。
重力の物理的な力は思いのほか強くないし、意識だけなら信念の解除
で解放されうる。
だからといって空中浮遊を目指すのは本筋ではない。
肉体を浮かせること自体が重力的発想だからだ。

◆信念体系の解除には、肉体の空中浮遊は不要だが、認識の
空中浮遊は必要。
それは、重力に規定されたこの世界のあらゆるものに「くっつかない」
無限後退の末に、ベリッと音がして剥がれ落ちる。
すると、今まで私を世界にくっつけていた磁力が、幻だったことを知る。

◆認識の空中浮遊を体感する方法は世間にいろいろ出回っているが、
それらのほとんどは水切り石のように現象の表面だけを上滑りして
いく仮想浮遊だ。
とりあえず夢の向こう岸まで渡り切れればよいのかもしれないが、
たいていの場合、川の途中でぽちゃんと落ちて沈む。
浮遊は表面ではなく中心で起こる。

◆とかく自我を悪者にしがちだけど、個人的に自我の過剰な
人は嫌いじゃないです。
自我を保つにはパワーがいるので、強烈な自我を持つ人はそのぶん
エネルギー量が多い。
そのエネルギーのベクトルをほんのちょっと転換すればドカンと
花火が打ち上がる。
自我の弓をギリギリまで引くと反動力になる。

◆自我は最終的に使えるものになるが、それを道の途中で
自我に気づかせるとグレて反抗してくる。
自我は思春期の少年少女のように扱う。
成熟した自我は稀だが、なくはない。
ただし、どんなに老成した修行者でも、道においては例外なく
少年少女の自我になる。
それに気づかないのは単に老化。

◆三島由紀夫は「俺には無意識がない」と嘘ぶいたけど、
100%意識化されたら、世界は停止する。 世界は気絶の瞬間、采配される。

◆自分自身に「ありがとう」と言えるかどうかチェックしよう。
そこに恥ずかしさや嘘くささが含まれていないか観察する。
心の底から「ありがとう」と言えたら、過去現在未来のわたし
がいつでも助けてくれるようになる。

◆自分自身への感謝は、対象のない祈りの軸で起こる。
感謝と軸が、一体化して至福に溶けていく。

◆「何も考えずそれそのものになれ」と言われますが、
機能としての理性は必要です。
まっとうな理性を育てたうえで、機能の構造を物理的に抽出し、
そこに「置いておく」のです。
人間の機能で不要なものはひとつもありません。
すべて、あるべきように組み込まれた構造です。

◆「学校の勉強など何の役にも立たない」と言うけれど、
学校の是非はともかく、勉強は内容そのものというよりもそれを
解くときの思考の筋肉を物理的に鍛えるという意味はある。
数学や哲学は日常に直接関係なくても、思考を立体的にし、
脳内の知恵の輪を解くような閃きの感覚を育てる。

◆この感覚を知っていると、瞑想における意識それ自体にも
応用できる。
思考も機能として必要なのだ。
思考を悪者にして見ないようにし続けると、あるべき機能の退化
とともに、意識もぼんやり不明瞭になる。

◆ちょっと計算してみたんだけど、たとえば60秒の動画を300倍速
で聴くと、たぶんRVのエニアグラムを書く意識と同じになる。
これは、認識のギリギリのライン。 瞑想もこのラインでやります。

◆無限倍速はもはや神の領域 笑 でも時空の仕組みを完璧に理解
してたら、絶対に不可能というわけでもないと思う。

◆思考というのは一見、質量がないようでいて、実は物理的な感触を持つ。
この身体と同化した認識においては、物質の密度と不可分なのだ。
思考の癖は物理的な形状記憶そのもので、ちょっと修正してもすぐに戻る。
だから、根本的に認識を変えるしかないのだ。

◆覚醒とは、宇宙の仕組みを解明することではなく、
すべての次元を貫く「在り方」に再会し、信頼が確定することである。

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【12/5(土)14:00~17:30 、18:00~21:00「東京ワーク参加募集」】       

2020/11/19

*****  Rubin’s work  東京ワーク開催日時のお知らせです。


12/12開催予定でしたが、緊急事態宣言発令の可能性も見越して
12/5(土)に前倒しとなりました。

今後のコロナウイルスの状況によっては今回を最後にしばらく
開催できなくなる可能性もあります。

ウイルス自体はそれほど心配していないのですが、場所の確保
が難しくなるためです。

今回の開催も危ういところですが、今年最後ということもあり、
全開でお伝えしていきます。


12/5(土) 14:00~17:30 、18:00~21:00
定員に達したため締め切りました。
次回は1/9(土)を予定しています。
※状況により変更になる可能性があります。


※前半(基礎)と後半(実践)に分けて行います。
通しで受講していただくほうが理解と集中が深まりますが、
前半もしくは後半のみの参加も可です。
(初参加の方はなるべく前半から受講してください)

場所は東京都中央区、参加条件等の詳細はメルマガにてご案内しております。


◆今回は、

【基礎】
・一瞬で集中に入るための軸と姿勢
・どこにも居座らない座法
・呼吸の秘伝的ライン
・丹田のポイントと集中の奥義
・対象のない祈り
・内部の目へのシフト

【実践】
・全体の気づきと場のエネルギーの読み方
・肉体とイメージの境界を物理的に超える
・内部の目の確立と発火する気づき
・境界を越えた空間としての動きと意図
・あらゆる瞬間の中心に消えてあること
・定点が外れた非重力的な気づきへの移行

をテーマにワークを行なっていく予定です。
(内容は参加者さんの状況によって変更となる場合があります)


◆ワーク開催にあたっては、以下のコロナウイルス
対策を行います。


・参加者間の十分な距離を確保
・息のあがる運動はしない
・参加者にマスク配布
・入場前の手洗い必須化
・入口での手指のアルコール除菌
・平熱以上の方の入場不可
・ワーク中の身体接触回避


◆直近に開催したワークの様子

【11/7 (土) 東京ワーク】~所感と解説~
http://rubins-work.com/blog-entry-99.html
【10/18(日) 東京ワーク】~所感と解説~
http://rubins-work.com/blog-entry-95.html


※参加ご希望の方は、拙著「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」
をお読みのうえ、まずは以下のフォームからメルマガのご登録をお願いします。


⇒メルマガ登録はこちらから

追って参加条件等の詳細をご連絡いたします。


※参加者一人一人の身体とエネルギーを見ていくため少人数性となっております。
参加希望の方が多い場合は先着順とさせていただく場合がありますことをご了承願います。


※メルマガ登録されている方で万一、ワーク案内メールが届いていない方が
いらっしゃいましたら迷惑メールフォルダをご確認ください。

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【覚醒からのつぶやき 11】        

2020/11/14

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。

なし


◆たまに「私はもう〇歳だから、せめてわかるところまでわかって死にたい」
とか言う人がいてびっくりする。
自ら意識を限定したらそこで硬直し朽ちていくだけ。
限定しなければ、身体エネルギーが減少したって、いくらでも柔らかく微細な
あいだに入っていける。
あいだはどこからでも入れる。

◆いかなる外的な条件にも限定されないであることを知れば、
死の直前まで進化し続けられる。
身体がまったく動かなくなったって関係ないのだ。
そのことを知ってもらいたい。
それはまったく、難しいことじゃない。
誰でも知りうる意識の技術なのです。
まずは、今ある限定に気づくこと。

◆真理を求める人が考えるところの真理は、真理ではありえない。
求めて得られる固定された真理などない。
強いていえば、そのことが真理。

◆全体という何かがあるわけではない。

◆身体性、個別性という器をパカっと重ねて枠を落とすこと。
どの器にも偏らない。
まず、器の幻想に気づくこと。

◆自分という器の境界線を、ぼんやりと消していくのではない。
くっきりとした私という機能の器が、全部そろってすとんと落ちるのだ。
だからまず、この世界で生きて、器をはっきり自覚する必要がある。

◆中心という感覚は、3次元の概念。
このことを鮮烈に知る。

◆わたしたちの悟りは、認識形態に限定されたもの。

◆対象から一対一で離れようとするのではなく、遠心分離機のように
全方向から引き剥がされて浮く。
このことを、意識単体でやるのです。

◆突然、漆黒の宇宙空間に投げ出されたように、つかまるところがなくなる。

◆何かに触れる時に、意識で前に押しすぎなのです。
ほんの少しだけ引いて、浮いていてください。
そこが3次元の中心です。

◆「ここにいる」感覚を、肉体の目と癒着した気づきで見ているから、
対象と一対一になるのです。
まず、その癒着に気づいてください。

◆対象一つ一つの密度と速度は異なる。
それなのに同じ力で見ていけば、単一の限定された気づきの主体が形成される。
主体自体を崩すには、気づきを瞬間瞬間、流動的にすること(ただし意図的でなく)です。

◆恩寵によって自動的に運ばれる感覚がなければ、何かがそれを止めている。
隠されたヒントに気づくこと。 止められているのも恩寵なのだ。

◆「〜論」に終始せずに、自身の実存に生々しく触れるところからはじめる。
無我を「自分を消すこと」と勘違いしない。

◆この心身を保っているのは、わたしたち自身の信念なのだ。
次の瞬間、巨大な虫になったとしても信念のほうが強ければ、
すぐに心身の形に引き戻されて何食わぬ顔で生きている。
そんなバカなと思うかもしれないけど、本当は個別の形態なんて
固定されていないのだ。
儚いけれども、強固な夢。

◆信じることは力にはなるが、妄想と紙一重。
常にバランスを意識する。
生のエネルギーと、自我のパワー感を混同しない。

◆自分の頭で「あるある〜」と割り切れるものは、慰みにはなるがシフトは起こらない。
具体的なシフトを促すものは、何のことを言ってるのかさっぱりわからないが、
直観的に「何かある」と微かな動きを察するようなところにある。

◆ここでポイントは、何かわからくても安易にそれを魔術的な「シンボル」
に還元しないということ。 マントラにしろヤントラにしろ神聖幾何学にしろ、
シンボルはパワーを持つが、意味を自身で理解しない限り、ここで気絶が
起こり、集合意識に組み込まれてしまうのだ。
神のシンボルもしかり。

◆一切合切、物質的にも社会的にもすべてのモノを捨ててみる、
というのはリスク覚悟で一回はやってみたほうがいい。
(出家もそれに近いけど、寺も社会だ)
その昔、実際やってみたら、あり得ない軽さとともに一回だけとんでもない
瞑想が起こってターニングポイントにはなった。

◆でもそれによってわかったことは、あくまでも社会とのコネクションが断たれて
物質的に軽くなった分だけの体験が起こったにすぎないということ。
問題は、捨てる・捨てないという二元性にはない。
わたしたちは物質であって物質ではないのだから。
でも本気なら一回はやってみるといろいろわかる。

◆瞑想は過激であって静謐なもの。

◆覚醒そのものには個々の密度や形はない。
現象世界に采配される時も、カードのように均一に並ぶ。
世界に入ったとたん、わたしたちの認識によって密度と速度が配分される。

◆祈りは命を差し出すこと。
だから、古代の生贄の儀式は効を成した。
ただし、それは原始的な集合意識の中で起こった。
だから1人の生贄で全体に波及した。

◆現代の祈りは生贄に変わる象徴を用いるが、集合意識ではなく、
ワンネスの意識が前提になければ、局所的な個の願いにとどまる。
そろそろ対象のない祈りへ移行するときだ。

◆ニヒリズムは覚醒の手前で力尽きた者の墓場。
まだ手足が動くニヒリストは、墓土の下から自力で出てきてください。
筋金入りのニヒリストだった私の阿保面を見に来てください。

◆この世の便宜上、チャクラという見方をするならば、頭上に手を伸ばして
触れられる部分までは肉体の延長で開発できるでしょうね。
でも、もう15センチほど後ろに視点を置いた方がいいです。
そこは肉体と空間の延長じゃないので。

◆女性は、性エネルギーを直接利用することができる。
受動的に発生したエネルギーを脳天まで垂直に突き抜けさせればよいのだ。
男性は、能動的に発生したエネルギーを、放出せずに一瞬引き戻して
受動に転化するプロセスが加わるので、難易度があがる。
だから、男女の能動受動の円環が利用される。

◆性エネルギーは体表でバラバラに放出させずに、背骨の際を通らせる。
通り道がついたら、エネルギー単体で認識できるようにエクスタシー感を切り離す。
このエネルギーは認識の座の確立に利用されるが、その場合は頭頂に突き抜け
させずに、松果体の裏付近の気づきの極限の場でスパークさせる。

◆感覚としては、能動的にスパークさせるのではなく、気づきの精度が極まって
高密度の磁場のようなものが発生しているところに、垂直に昇ってきた
エネルギーがゴゴゴッと吸い寄せられていく衝撃。
そこでバリバリと音がするように認識の座が引き剥がされて宙に浮く。
ここで、現象発生の場に立ち会う。

◆これは認識の座の確立にすぎず、覚醒の全体ではない。
だが、ここが確立しないかぎり、すべての体験は不明瞭なままなのだ。
ここだけは、エネルギーが使えるうちに意識的に取り組む必要がある。

◆認識の座は場所ではない。
松果体のように活性化すればよいものでもない。
ほとんど物理的といっていい力で、引き剥がすのだ。
無意識に剥がれかけている人もたまにいるが、そのことに気づいていない。
それ単体で意識することを知らないからだ。

◆あれはどうか、これはどうか、と聞く前に、まず、自分はどうかに気づく。
それがすべての基本。

◆グラウンディングしていない覚醒は危険です。
頭だけを開こうとしないでください。
バランスを崩してこの世界との調整に苦しむことになります。
私はワークには参加条件をつけています。
基本的な人間としてのバランスが取れていることです。
ここを無視すれば結局やり直すことになります。

◆無明は形を変えて生き延びる。
この悲哀を慈悲の名の下に、世界のアイデンティティにしてはならない。

◆覚醒の最大の鍵となる信頼がトータルで発動するには、
この世界での自己受容が必要です。
そこから逃げるための覚醒ではありません。

◆インスタントな覚醒を求めないでください。
ワークでは無駄な回り道はカットできますが、それぞれの覚醒の時機を
変えることはできません。
それはすでに決まっているからです。
その決定を信頼してください。

◆全員を均一に救おうとしても結局、誰も救えない。

◆火事場の馬鹿力は、気づいたら重いタンスを運び出してるけど、
信じられない重さのタンスを気づきながら運び出しているのが瞑想。
まずは馬鹿になってストッパーを外そう。

◆電車でうとうと居眠りをしていて、目的の駅でドアが閉まりかけて
ハッと起きて、頭が白紙のまますごい勢いで荷物を持って飛び降りる、
そんな感覚。
全部、勝手に起こってる。
脳を使っていないわけではなく、自我の実態感とは別のところで動いているのだ。
反射運動ともまた違う。

◆要は、火事場の馬鹿力にせよ、電車の飛び降りにせよ、無意識の反射
に気絶せずに気づきが伴うのが瞑想ということなんですが。
逆に、気づきが伴うことによって動きが制限されるなら、その気づきには
認識のバイアスがかかっています。
ここは、身体にも協力してもらわないと、わからないところです。

◆知り合いの僧侶で「輪廻を信じてない」という人がいる。
それだったら解脱という概念自体が崩れるけど、なぜか人一倍、熱心に修行している。
常にもやもやした点が残るからだろう。
輪廻は視点によってあるともないともいえるけど、信じる信じないではなく、
自身の体験から検証していくべきこと。

◆ただし、なんでもかんでも輪廻に結び付ける安直なスピリチュアリズムに
逃げるのではなく、あくまでも今生きているこの私の一点において実相を見切る。

◆すべてが矛盾であれば、矛盾が真理となる。
全員の前提がちがうのに議論しても不毛だ。
矛盾だらけのわたしたちを、ただ受け入れる。

◆この心身を保っているのは、わたしたち自身の信念なのだ。
次の瞬間、巨大な虫になったとしても信念のほうが強ければ、すぐに心身の形
に引き戻されて何食わぬ顔で生きている。
そんなバカなと思うかもしれないけど、本当は個別の形態なんて固定されていないのだ。
儚いけれども、強固な夢。

◆人間からみて整合性のとれた因果は、時間が直列的に進むという
信念の磁力によるものです。
このことは、瞑想によって体験として知ることができます。
因果の実相を見破らなければ、人はいつまでも瞬間に差し込まれた
サブリミナルメッセージに洗脳され続けます。

◆純粋な「それ」は物理的な手ごたえがないので、常にそこにあるのに
肉体は気づかずに素通りしていく。

◆一歩あるくたびに、足元からパタパタパタパタと順番に積み重なったものが、
私となる。
膝の皿だけが間違って食器棚に入ったりしないのが、不思議でしょうがない。
覚醒の現場は、あんなにもランダムなのに。

◆この世界というのは、手品みたいに唐突に顕われる。
次の瞬間、何もない真空からニョキッと顕われる。
ニョキッと顕われるのにも法則があるんだろうけど、
たとえ法則を知ったとしても何もできないんですよ。
法則を知らないと不安なのは、何もできないことにまだ、
完全降伏していないから。

◆認識に閉じ込められた亡霊が、記憶をつなぎ合わせて保っている世界。
小さな自分のつくった世界がないと、生きられないと思っている。

◆「この世界」というとき、何をイメージしているだろうか?
そのとき浮かんだイメージが、わたしたちを限定しているもの。
世界があるかないかを考えるのではなく、世界というイメージが
あるかないかを直観すること。

◆開脚したまま足を後ろに抜けるようになると、世界が立体的になる。
耳の後ろ側の世界が開けるのだ。
肉体と結びついたわたしたちの認識は、身体の可動域と連動している。
股関節が硬ければ、頭の上にタオルを水平に持って両手を後ろに抜いてみてもいい。
トーラスの後ろ側が捉えられるようになる。

◆開脚が苦手な場合は、筋肉と骨を開こうとするのではなく、筋肉と骨の
あいだの空間を後ろへ回転させるイメージで行うといい。
そのとき、耳でどこまでも広がる水平線を意識するとその意識に連動して
縮こまっていた空間が開く。

◆前後開脚の場合は、サードアイと盆の窪を遠い彼方まで前後にひっぱり
あっている意識で足の付け根の空間を引き延ばす。

◆このとき、空間にぶつかる筋肉の強張りを見つけたら、肉体を伸ばすのではなく、
意識で塊をほぐしていく。
痛みも意識でほぐしていく。 あくまでも、肉体ではなく空間が先にあることを意識すること。
これを毎日続けると、肉体が連動して少しづつ可動域が広がってくる。

◆本当は、肉体と意識を切り離せるならば、身体の柔軟性は関係ない。
意識だけで同じことができればいいのだ。
でもまず、物質と認識の癒着を実感するために、肉体という対象物があったほうが
理解しやすい。
イメージだけですべてやろうとすると結局、肉体に癒着した認識にひっぱられて妄想になる。

◆愛を知りたい人は仕組みを放棄する。
仕組みを知りたい人は愛を放棄する。
どちらの放棄も新たな夢の世界を創る。

◆外部のエネルギーと契約を結んだ人は、パワーを身につけていても中心がズレている。
魂を売るという言葉はまさしくそのとおりで、自身とは別の中心のブラックホールに
向かって吸い込まれているのだ。
そういう人は、その人自身の中心に安らぎがない。

◆ハンペルマン人形みたいに、軸だけ上下にひっぱられて、ピョコン!
と座ればいいんですよ。
手足はブラブラで。

◆相対的な不正もわたしの中にあって、意識の分布図が瞬間瞬間に組み替わっていく。
痛みが伴うことがあっても、私はただ「へ〜?」と見ているしかない。

◆私という定点がなければ、押すのも引くのも方向がない。
押し引きの概念自体がない。
中心に消えるというのもまた、方便なのだ。

◆「この世で使命を果たすために生まれてきた」という発想はエゴを強化する。
覚醒から見れば、全員が見事に配置されていて、使命を果たしていない人など
一人もいないのだ。
ぼーっと息してるだけで、完璧に使命を果たしている。

◆言葉というのは、言葉以前ではみんな知ってることを、指差し確認するためのもの。
言葉の世界では、みんな忘れたフリしてる。

◆覚醒は境界が曖昧になって自分が消えていくものとイメージしていないだろうか。
その逆なのだ。
すべての色と形がくっきりと鮮明になる。
ゾクゾクするようなエッジで切り取られた鉱物など、それ自体、
サマディに張り付いているではないか!

◆死が楽しいものだと皆すぐ死んでしまうので、怖いものと思わされている。
裏を返せば、そう思わせてまで、やっぱり生きてほしいという母の願いがそこにはあるのだ。

◆女性はホルモン周期によって、集中や気づきの精度にバラつきが出やすいため、
伝統的な修行は不利と見られがちだが、周期を逆手にとり卵胞期のピークに
タイミングを合わせればむしろ有利で、飛躍的な進展も可能。
ここは男性の指導者は考慮してくれない。

◆もちろん不調な時期をあるがままに見ることも大事な修行だが、
もし瞑想体験に特化してリトリートに入るなら、できれば月経期と黄体期を避ける。
男性も女性も身体を理解し、アスリート並みにすべてのタイミングをここぞという一瞬に合わせる。
ダメでも次がある、とダラダラやらない。

◆徳という概念は誤解を生みやすいのであまり使いたくないが、あえていえば
一瞬のタイミングを全カルマの果として合わせられるかどうかが徳だ。
本気ならここは常に意識する。
リトリート前は断食必須で、復食期から入る。
能動的にタイミングを合わせるのは、見かけ上とはいえこの私なのだ。

◆ひとつの瞬間にひとつの気づき、というのは3次元の限定された認識にすぎない。
この現象世界において、まずは生滅智は明確な体験によって見切られるべきだが、
同時に、生まれて滅するという直列的時間の生滅の幻想も見切る必要がある。
生滅のスクリーン側の圧倒感にとらわれないこと。

◆ワークで内部の目の開発をしているときに「筋肉痛になりそうです」と言われた方
がいて感度が鋭いなあと感心した。
内部の目が開けて認識が転換するときは意識と連動して肉体の癒着がバリバリと音
がするように剥がれる。
さながら、意識の筋肉痛といったところ。

◆絵を描く人はモノを見る目が出来ている人が多い。
デッサンで正確に対象を写し取るときに、自他のないところで自身の中で線を引くからだ。
こういう人は意識を単体で捉える感覚をつかみやすい。

◆黒点を集中して見ていると眼球運動とともに意識がチラチラ動くことに気づく。
これはサッケードという生理機能なので眼球を止めることで黒点を固定しようしても無駄。
チラチラ集中がズレることの瞬間瞬間に気づき続けるとどこにも触れていない
「あいだ」が立ち顕れてくる。

◆その「あいだ」に内部の目で黒点を「ピンどめ」して置いておく。
サマタの訓練の観想は、この位置で見るのだ。

◆ここ数年でASD、ADHD、HSP等(カテゴリーは異なるがLGBTQ等のセクシャリティも)
を名乗る人が急速に増えた印象だが、個人的には例えば「この人はASDの人」
といった見方はせずに、常にその人そのものを見たいと思う。
その人個人のユニークさを、それらの画一的な区分で切り捨ててしまいたくないのだ。

◆そのような見方は極端な話、ガンを患った人を十把一絡げに「ガンの人」
と呼ぶような乱暴さがある。
もちろん、社会的に長年苦しい立場にいて、それらの区分の自覚で自己受容が起こったり、
社会的認知によって権利を獲得したりすることはあるだろう。

◆だからといって「私はHSPだから」と自身を概念で固定してしまうと、その人に
しかない存在の豊かさを自ら切り捨ててしまうこともありうる。
基準からはみ出した個性の権利を主張しながら、自ら新しい基準をつくってしまうのだ。

◆私自身、子供のころから一般の基準からズレている自覚はあって、
周囲との摩擦や生きづらさを感じたこともあったが、自身の存在の個性に概念的な
名前をつけて救われたいと思ったことは一度もない。
存在する自由は何ものにも限定されないからだ。
存在の権利を決定する世間など幻想だ。

◆わたしたちは、世間以前に存在している。
「そんな風に思えるのは強い人だけだ」と思うかもしれないが、そうではないのだ。
自らを限定して、世間という幻想に甘んじて傷ついているのだ。
権利を声高に叫ばなくてもありのままでいられる大らかな世界は、
自らの幻想の解除によって立ち顕われる。

◆パートナーも私も自己肯定感が半端なくて、お互い相手そっちのけで「自分って天才!?」
と自画自賛して悦に入ってる笑 端からみたら気持ち悪いだろうけど笑、
自分を誉めるのはナルシシズムではなくて、神の創造を誉め称えていることなのだ。
だってこんなユニークな存在、自分で一から創れます?

◆太陽と月のあいだと
昨日と今日のあいだと
原子と原子のあいだと
生と死のあいだと
色と形のあいだと
刹那と刹那のあいだと
わたしとあなたのあいだ
すべておなじところにある

◆あいだはすべての真ん中だけど
定規では測れない
定規で測った真ん中は
測るわたしの目によって
真ん中から逃げてしまう
真ん中そのものを知るには
わたしが真ん中になるしかない

◆座禅の形は結果として止まって見えているだけで、止まった形に自分を
押し込むわけではない。
野口整体の活元運動は、体癖に応じて体の外に自発動運動を放出させていくが、
内と外のない座禅においては、放出の瞬間瞬間のあいだに放下し続けることで、
存在の本来の輪郭がその場に浮かび上がる。

◆座禅の輪郭は、線ではなく点なのだ。
そこでの自発動運動は、瞬時にその場で回収され、圧縮されたエネルギーとなり循環する。

◆鐘がカーンと鳴って見性するとき、鐘と私と音の区別がないところで
カーンがカーンのまま炸裂する。
でも、カーンは誰も聞いていないところで、いつだってカーンのままあった。
カーンがカーンと鳴ったかどうか、わたしが思い煩うことはない。

◆覚醒を言葉で伝えるとしたら、長嶋茂雄のコーチングみたいに、
オノマトペと指示代名詞だけになる。
「ビューッと!」 「それを!こう!」 「そこで!バチーン!」
それでも、伝わる選手には伝わる。

◆覚醒体験の非個人性は、逆にその人の独自性を浮上させる。
なんらかの体験が起こったら、既存の言葉に当てはめずにしばらくの間、
それそのものに深くとどまってみよう。
そうすると、堰き止めていたエネルギーが溢れでてくる。

◆生まれることと滅することは、交互ではなく同時なのです。
そのことを明確に目撃することなくして、世界への疑いは晴れません。

◆肉体という集積の幻想が、仮想空間に摩擦を生み、物質の動きを創発する。

◆この次元を他の次元から俯瞰しても、そこに新たな目が発生するかぎり、
それは覚醒ではない。

◆メシア思想は自己愛と不信から起こる。
その思想自体が、世界を残留させ続ける。

◆神と呼ばれるエネルギーの総体がどこかにあるわけではない。
エネルギーの決定それ自体だけがある。
決定自体に質量も時空もない。
決定は即全体であって、同時に起こる。
決定は連続しない。

◆全体の決定と共にあるとき、人生の行く先を思い煩うことはあり得ない。

◆私たちは、自ら生んだ時空に「せり出して」しまったネバネバした泥人形です。
泥は洗えば落ちます。

◆何もしていなくても、形の幻想は莫大なエネルギーを消費する。
本来、形はその形以上のエネルギーは必要ないのに。

◆世界の悪は撲滅するのではなく、自らの内にあることを知り「無効」にする。

◆「覚醒=宇宙を知ること」ではありません!
覚醒においては、宇宙を知ることと晩御飯の献立を考えることは「まったくの同義」です。
そこを見切らずに語られた宇宙は、どんなに複雑な多次元理論であれ、
3次元の恒星の重力に囚われた発想に留まります。

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【11/7(土) 東京ワーク】 ~所感と解説~        

2020/11/13

◆11/7(土)東京にてワークを開催しました。

ワーク
 「内部の目」のワーク


今回も身体や目の基本的な使い方や姿勢の調整などを基礎として行いましたが、
ワークの後半では基礎をベースにしながらも、テクニック云々よりも「存在」の
感覚をダイレクトに感じていただくことに主眼を置きました。


◆まず、以前行った糸を使ったワークで他者と自分とのバランスのあいだに消える
ことを体感していただきました。(前回のワーク参照)

前回は2人組で行いましたが、今回は4人組で4つの方向に糸を引っ張り合いながら
4人のバランスの中心を感じ、全員の意図の一致する方向へ動いていってもらいました。


<前回のワークの解説より抜粋>

糸

http://rubins-work.com/blog-entry-86.html


この、能動と受動のあいだというのは、どの位相のどの瞬間にも
全てにおいてあるものです。

このことをまずは3次元の物質を通して体感していただくために、
上記の爪楊枝のワークに加えて、今回はナイロンの糸を使ってみました。


まず、2人組になって糸の両端を指でつまんでもらいます。

そして、糸をピンと張って相手と自分のあいだで起こる微細な振動や
バランスが取れて一瞬止まっている状態を感じ取っていきます。


微細な振動を感じているときは、2人の間で糸の引っ張り合いの
駆け引きが起こっていますが、バランスが取れているときは、糸の
張りの感覚自体が消えて真ん中でふっと質量の消えているような
ところが見つかります。

ここは能動的に引っ張っても受動的に引っ張られてもいない
均衡なポイントです。

この真ん中にお互いの意識があるとき、その瞬間2人は同時
にそこに消えています。


次に、お互いの微細な振動を感じとりながら瞬間瞬間、糸の
バランスのとれる方向へ感覚をたよりに移動していきます。

すると、2人の身体が思いもよらない方向へどんどん勝手に
進んでいったり回転したり上下したりしはじめます。
(皆さんの動きは即興的なデュエットのダンスとして見ても
優雅で秀逸なものでした。)


このとき、糸の移動と運動のどの瞬間にも先ほどの「質量の
消えているところ」があることを見出せます。

見かけ上、止まっていても動いていても、どの瞬間にもそれが
あるのです。

この実験ではシンプルに2方向のバランスから起こる力学的な
消失点を体感していただきましたが、実はこの消失点は360度
どのバランスの中にもあって、どの方向のどの瞬間にもあるのです。

そしてまた、物質のみならず思考や感情や意図やエネルギーと
いったすべてのものに、このポイントが瞬間瞬間に無限にあるのです。
(これは、単純に物質的な力学に還元しているだけでは体感的に
見切ることが難しいですが、原理としては同じことです)


糸で例えるとイメージとしては、ひとつの思考の瞬間に360度すべての
方向に糸が引っ張られていてその瞬間のバランスをとっている感覚です。
(360度というのはあくまでも3次元で例えた場合です。多次元から
見れば別のベクトルが加わってきます。)

このように、あらゆるものが360度引っ張ったり引っ張られたりしながら
無限にバランスをとっていて、そのひとつひとつの「決定された」バラン
スの真ん中はそれ自体として消えているのです。

これは現象世界の極小から極大まですべてのものに共通しています。


ある意味、現象世界側の理解としては、このことがシンプルに腑に
落ちればよいといえます。

ただ、おそらくそれらの消失点をバラバラに見出すことができても、
運動の連続性や「わたし自身」の存在や認識との関係性が腑に
落ちないということがあると思います。

これは、サマタが高まっても対象と気づきが並行し続ける問題にも
関係していますが、認識とハートと丹田それぞれの明確な理解と、
軸に消えて存在に脱落してあることによって一気に解決します。



◆次に、この糸のバランスの感覚を持ったまま、2人組でボールを投げあって
もらいました。

ボール


このとき、自分の丹田と相手の丹田が糸でつながってバランスをとっている感覚で、
丹田からボールを投げ、丹田で受け取るようにします。

すると、投げあっているうちにだんだんと呼吸とリズムが合ってきて「相手を受け取る」
という直接的な感覚が生じてきます。

なぜならば、丹田というのは自分自身という存在の感覚につながっているからです。


丹田からボールを投げて受け取るというのは、自分を渡して相手を受け取ることに
つながっているのです。

ボールという物質を介してはいますが、より集中力が高まってボールが自身のハラと
一体化しているとき、ハラの中に相手の存在が直接入っている感覚が起こってきます。


ある参加者さんは
「ボールを受け渡していると、愛が生まれてくる感覚がします!」
と感想を漏らされましたが、自身の存在の中に相手をまるごと受け入れる感覚は、
この世界の創造原理である女性性の子宮の感覚なのです。

この愛は、自他の愛ではなく、存在の合一の愛です。


見性体験のレベルでは、受け入れる相手もいなくなって、ただひとつのところに
相手と自分がぴったりと重なって消えていますが、そこまで集中力が高まっていなくても、
自分の中に入っているという感覚はつかめるはずです。

子宮の中にまるごと世界が入っているという感覚は、マッチョな修行体系では切り捨て
られる部分ですが、この感覚の理解なくしては二元性の原理は悟れないのです。


ボールを投げあっていると循環のうねりが起こってきますが、女性性や愛の感覚と
いっても、そのエネルギーを単純な肉体のセクシャリティやエクスタシーに還元して
しまわずに、エネルギーの中心の醒めたところで見ていることが重要です。
(うねり自体は止めません)

今回は、エクスタシーに気絶しないための準備として、内部の目を立体的にして
肉体の目と気づきの癒着を切り離すワークを先に行っていたため、相手を受け入れ
つつ全体に飲み込まれずに見ているという感覚をつかんでいただけたと思います。

また、ボールを投げあうことによって、座禅による静的なワンネスから現象世界を
見切るための動的なワンネスへの移行訓練にもなります。

(本来は静的・動的といった区別はないのですが、一瞥体験がある人でも動的な
世界に戻るとエネルギーのうねりに巻き込まれてしまうことが多いため、意識的に
それらの差をとっていく訓練が必要になります)


この感覚は、存在のワンネスの感覚と直接つながっています。

拙著「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」
ではこれを「存在の座」のワンネスとして記しています。


<「3つのセンター」より抜粋 ③丹田(存在の座)を参照)>

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6. 3つのセンターにおけるワンネス体験


●3つのセンター

ひとくちにワンネスの体験といっても、実はその顕れかたにはバリエーションがある。

さまざまな覚者のいうことに微妙な相違があるのはそのせいである。

わたしはこの相違の理由が、実際に体験するまでわからなかった。


覚醒に帰還するとき、3Dに生まれ出てしまったわたしたちは、見かけ上の身体の
エネルギーと空間的位相を利用する。

このことはすべての3Dの存在が避けては通れないものである。

たとえ身体がなくなり意識だけが拡散したと感じたとしても、それは先に身体に同化
していた感覚ありきなのである。


覚醒側から身体を純粋な機能として見たとき、3つのセンターというものがある。

①頭(認識の座)
②ハート(振動の座)
③丹田(存在の座)

(これに加えて①~③を統合する④頭頂(消失の座)がある。
ちなみに④におけるホワイトアウトと認識の座の気絶とは消失の次元が異なる。)


これらは、現象側からひとつながりの身体としてみたときは、見かけ上、ひとつの
身体の枠の中に縦に順番に並んでいるように感じられるが、覚醒側からみたとき、
それぞれの機能は独立した位相にある。

3つの位相が現象側に顕れるときは、ホログラムのように別方向からの3つの機能
が並んだところに身体という枠の意識が創られるようなものといえる。


現象側の感覚からみたとき、

①頭(認識の座)の座標は、頭部の中心の松果体のあたりに位置する。
(名づけられた器官である松果体そのものではない)
通常の人間が「頭の中心」と感じる場所の、ほんの少し後ろにある。

②ハート(振動の座)の座標は、心臓の後ろの右端が触れるところと背骨
との間あたりにある。これも、人間が通常「ハート」と呼んでいる場所の位置
からほんの少し後ろにある。

③丹田(存在の座)の座標は、恥骨と尾てい骨のあいだにあり、女性の子宮の位置に近い。
これは人間が通常「丹田」と呼んでいる位置よりも少し下であり、たいての場合、
恥骨と尾てい骨の間の水平バランスがズレているので正確に感じることが難しい。


ここで注意が必要なのは、これら3つのセンターは、物理的な内臓などの位置では
ないということである。

センターそのものは、何も対象として触れていない空間のようなものとしてある。
そこは、物質と意識の境目の消失点のようなものとしてある。


しかし、人間は対象物がないとその存在を認識することができないため、便宜上、
身体の内臓や骨の位置の感覚をたよりにそれとの距離を探るしかない。

だがそれらは、身体の物質的な実感のある場所よりも、ほんの少しズレたところ、
「あいだ」にあるのだ。
 
逆にいえば通常、実感の感じられる場所というのは、すでに対象物に触れてしまった
後の現象世界の中の座標なのであり、その感覚をいくら強化していっても覚醒本体には
遡れない。


これら3つのセンターのそれぞれの消失点は覚醒に直接つながっている。

だが、「各センターはそれぞれ単体ではそれそのものを認識できない」。

覚醒の見え方のバリエーションは、これら3つのセンターの複合的なコンビネーション
による。
 

先に述べた、わたしの認識の座における体験は、認識の座が優位に立った覚醒の見え方
だったが、存在の座が背後のベースとしてあったうえで成り立っていた。

なぜなら、最後の瞬間にいたるときまで、現象世界における存在の座があったうえで、
そこから無限に後退していくという見切りのプロセスを利用していたからだ。

このとき、存在の座は消失の目的には利用されず、現象側の対象物として利用された。


●それぞれの機能とワンネスの見えかた

①認識の座は、純粋な観察者として機能しており、それ単体では対象物がないと認識できない。
すべてのワンネス体験のコンビネーションは、度合の差はあれ、認識の座を必要とする。
なぜなら、これがないとなにも見ることができないから。
認識の座は、それがそれそのものとしてあるとき、個人的な観察者としての意識は消えている。
だからワンネスの体験においては観察者としてのわたしはなくなっているかのように見え、
他のセンターの体験が全面にでてくるのだが、観察者の機能は、それらを体験するうえで背後
にまわっているだけで必ずベースとしてある。

②振動の座は、先に述べたように、覚醒との距離(の幻想)によって振動を変える、
現象との中間地点のようなものである。純粋に振動だけが抽出されたときは消失点に吸い込ま
れるような空間的座標のないもののように感じられるが、現象側に顕れでているときは現象
すべてに直接ふれてそれぞれの振動とともにあるかのように感じられる。
それは裏と表のすべてに触れて無限の空間に水平に飛び出していくような触覚のようなもの
としてある。
個別の魂の感覚や愛の感情といったものは、この機能にエゴ感覚が結びついた、二次的な
副産物である。
この感覚も、それ単体では認識できず、認識の座の観察者を必要とする。
「すべてが愛であった」という体験は、振動が、覚醒側ではなく現象側に触れている感覚の
度合のより強いときに起こる。「神の愛」を感じるというとき、それは「神」という対象物が
まだある、こちら側の話なのである。もし、覚醒側のハートに対応する振動に直接ふれたと
したら、愛を感じる間もなく、その莫大なエネルギーによって一瞬にして身体など吹き飛んで
しまうだろう。

③存在の座は、文字通り存在の感覚と結びついている。
「在る」という純粋な実態感、あるいは「わたし」という純粋な実態感はここから生じる。
(ここでいう「わたし」とはエゴ感覚とは異なる)この座において心身脱落するときは、
ダルマ落しのようにすとんと落ちて、丹田の器にパカっとハマると同時に個別のエゴ
の枠が抜け落ちる。
存在の座は、もともと内在的にすべての現象を包括していたのだが、存在の座に心身
が脱落したとき、「わたし」の感覚が占めていた場所が本来包括していたすべての現象
と置き換わる。
そのとき、わたしの中にすべてがあった、という体験が生じる。
こうして、このセンターで消失点に触れたとき、「わたしの中にすべてはあった」「わたしは在る」
という感覚とともにワンネスを見るが、このときもやはり、①の認識の座の純粋な観察者を
必要とする。
このとき重要なのは、①の観察者が③の代替としての「わたし」という個別感覚を持たずに、
背後の観察者として消えていられるかどうかである。
また、現象の対象物やストーリーに結びついた自我の実態感も、より物質に近い次元でこの
座を借りて起こるが、それと純粋な「わたし」の実態感を混同してしまうと「自分が悟った」
という的外れな感覚が生じることになる。
また、③に脱落したときに①の認識の鋭利さが弱いと、気づきの目が開いていないまま
暗闇の空間にはまりこんで何も動かない(触れてこない)無として在るように勘違いする
ことがある。


以上をふまえ、①~③の配合の割合でワンネスの体験の見え方のヴァリエーション
が決まってくる。

また、各種の覚醒のための修行体系というものも、①~③のどこにフォーカスして
いるかの度合で異なってくる。


最近のさまざまな覚醒の報告をみると、深さの差はあれ、②と③の配合率の高い
コンビネーションが多くみられるように感じる。

①と③は比較的、突発的に起こる可能性が高いように思われる。
(ただし、③は深さの差が出やすい)
このとき①は、「透明な気づき」という名のもと、うっすらとしたイメージとして背景に
ひっこんでしまっている。

しかし水を差すようだが、①の認識の座が確立されていないと、それらの体験は偶発的な
一瞥に終わり、体験の意味や構造の全体を理解することが難しい。


認識の座が確立されていないと、すぐに現象世界へ引っ張られて戻ってしまい、体験の
神秘を現象世界の論理で語るにとどまってしまうのだ。

優位なセンターの体験のひとつですべてが終わったと思ってしまう。

そして、いつのまに現象世界のうねりに飲み込まれて「すべてはわたし」「あるがまま」や
「愛」の名のもと、再び流転を続けることになる。


だから、最初に述べたように、①の認識が確立し、自動化される必要があるのである。

3つのセンターの体験は、認識されていないだけで、実はすで備わっている。

それらは、別の対象物に占有されている認識の瞬間において、ただ隠れているだけなのである。

つねにすべてのものがそれらに触れてあるのであって、すべての人間は覚醒を読み取ることが
可能なセンターをはじめから割り当てられている。


これら3つのセンターは必ずしも現象側においてひとつに統合される必要はない。

むしろ統合しようという試み自体が、身体への同化の強化と、現象側において
「いつか未来に統合されうるもの」という、意図のベクトルを発生させてしまう。

そもそも3つ同時に身体というひとつの入れ物に並んでいるというのが幻想なのだ。


逆にいえば、各センターという覚醒のポータルが現象側へそれぞれが司る機能を
顕すために、見かけ上身体という枠がつくられ、そのなかに配置されるというアイディア
が採用されたのだった。

現象側のわたしたちは、その配置にしたがって担当者意識として采配される。


それらは個々の機能であって見かけ上わかれているが、それぞれの消失点においては
ひとつの覚醒の場にある。

現象側においては、統合はされていなくても、上記のようにコンビネーションの形はとる。

そのときも、3つ同時に機能させようとこちら側から意図する必要はないのである。


3つの機能によるそれぞれのワンネス体験を経験することは、現象と覚醒の多元的な
理解に役立つ。

覚醒とは、3Dの現象側のひとつの側面だけですべて説明できるものではないのだ。

覚醒へ遡ろうとするとき、3つの機能が本来の純粋な機能としてそれぞれ自動的に
働いている状態を知っておくことは、帰還の確率を高めるといえる。

純粋な機能とは、それぞれのセンターの役割に人間側の意味やストーリーといった
不純物が混じっていない状態である。

すなわち、先の③であれば、存在のセンターの純粋な「わたし」とエゴを混同していない
ことであり、②であれば、純粋な振動とエゴの愛や感情を混同しないことであり、①であれば、
純粋な気づきとエゴの思考や判断を混同しないことである。


また、①②③相互のあいだの機能の取り違えと混同を避けることも重要である。

これらの混同を注意深く見切って、各センターの純粋な機能を自動的に働かせることが
できたとき、エゴに依っていたそれらの存在のコントロールを忘れて、手放しで任せて
しまうことに専念できるのだ。

混同を避けるためには、各センターに無自覚に混入していた不純物を注意深く無限に
見切っていく必要がある。

この作業はエゴにとっては面白くないし、自動化されるまでは強い意志と根気がいるだろう。

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