
12月に満開になったゼラニウム
◆存在の始原のスパークは、この世界に受肉したからにはいちどは
ハラで明確に見ておかないと話が進まない(通じない)。
ただし受肉の先の仕組みは、その役割の人が取り組む。
善し悪しはともかく、解脱志向の呪縛は受肉の手前のスパークで世界
をぶつ切りにしてしまうので、興味が続かないのだ。
◆ハラで見るときの存在の始原は、受肉の「予感」を内包するので、
この視点から直観された世界像は身体の触覚の延長からなる。
ただ、ハラは数ある始原の入口のひとつにすぎないこともまた、
明確に見ておく必要がある。
◆物語の構造的な強度は否定しないが、この強度は世界を強固に
保つかわりに、物語に内在する私たちに、物理的に引き裂かれるような
痛みを与え続ける。
◆物語の痛みを物語で救おうとして失敗してきた私たちは、
物語をメタ物語で救うアイディアを思いついた。
ところがメタ物語を構築する「目」の転換が不十分だったために、
実際には単に物語の延長の上位階層の設定にとどまり、
痛みをさらに複雑にしてしまった。
◆目の転換だけは意識的に取り組むしかない。
知識を仕入れるだけでは転換しない。
◆私は物語を否定しないし、物語から数々の恩恵を受けてきた。
いまこれを書いているのも物語だし、物語の切なさ美しさを味わってきた。
だが、物語の延長で世界を記述したいという欲求はない。
ただ私の知り得た範囲で、存在がくつろげる瞬間の可能性を提示するだけ。
◆物語において、私は虫の意識から生まれたこともあったし、
魚の意識から生まれたこともあった。
幾何学の集合体から生まれたこともあったし、非線形の連続体から
生まれたこともあった。
もちろん個人的に生まれたわけではない。
私たちは、どこからでも生まれてくる。
◆「落下して/弾けて/引っ張られる」というのは人間特有の受肉だ。
その瞬間、重力と世界が同時に生まれる。
3次元では、この受肉のプロセスを瞑想によってはっきりと追体験できる。
ここをまず知ってほしい。
◆伝統的な体系では、修行中はこの受肉の追体験に意味を見出すことは禁じられる。
受肉のプロセスは歓喜とともに苦しみの始まりだからだ。
ここが、世界の記述と世界の無化の志向の分かれ道だ。
ただし、最終的にはこのプロセスも理解される。
◆融合による回転のエネルギーは二元性の見かけ上、トーラス状になる。
3次元のトーラスの断面は、形も機能も世界の「会陰」そのものといえる。
だが、これらの二元性の創発は宇宙ではごく原始的な形態にすぎない。
◆女性は落下による創造を体感的に理解している。
エクスタシーの中心に「落ちて」子宮に世界が内包される感覚を知っているからだ。
女性原理はこの世界の鋳型なのだ。
◆落下だけでは底がないが、下から突き上げるエネルギーが融合すれば
世界が回り始める。
これは男性原理のエネルギーだ。
ただし、男性エネルギーは偶発的(神から見れば意図的)な一石で(見かけ上)
唐突に発生し、その都度世界は生まれたり生まれなかったりする。
◆見かけ上の偶発的創発は、擬人化して言うならば、女性原理がそれを
受け入れるか入れないかによって受胎が決まる。
その相似形が生殖だ。
創造の基本は拡大なので、受胎の準備が整った瞬間はすべて利用される。
◆落下の方向性は自我を落とすときにも利用される。
この時には、上方向のエネルギーに結び付けず
(意図が働くとエネルギーと結びついてしまう。この意図を落とすのが修行の目的)
に底なしの真空に「送り返す」。
◆落下は、次の子宮に入るときにも利用される。
ただし、落下の直前まで上下という区別はない。
ここを見切っていないと、進化を上方向の階層に見出そうとして円環にはまる。
◆「根拠はチャネリングです」と言われると、そういう信念体系なのねという
他ないが、この世界自体が共通認識という幻想を受信しながらチャンネルを
切り替え続けていることを見れば、決して笑うことはできない。
共同幻想もチャンネルも、信じれば磁場が形成され、現象が動く。
◆現象が動くのなら、プロセスがブラックボックスでも、はたまた神話を捏造してでも、
使えるものは使おうという「ポジティブな気絶」が広がっている。
この場合、ある種のスキゾ的回路は開かれるが、身体を基盤に人間が積み上げて
きたエソテリックな回路は閉じる。
◆それを自覚したうえで、チャネリングを使うことはある。
全ての直観にはチャネリング的要素が多かれ少なかれ混入するが、
RVのようにイメージと意図の出現前に触れると、圧縮された情報が意識に
引っかかるので、それを自分の言葉で解凍する。
その場合も必ず、自身の体験とのすり合わせを行う。
◆知己の修行者によると、某国の伝統的な体系の寺のインストラクション
でもチャネリングを使う流派があったというから驚く。
それはともかく、究極のチャネリングは、等寸の自分自身の即時のフィードバックだ。
本当は常にすべての人間がそれをやっている。 情報は常に、開示されている。
◆体験もまた、その人にとっていくらリアルであっても相対的な現象にすぎない。
だが、そもそも覚醒や悟りが問題になるのは個人においてしかないので、
個人の体験と乖離した悟りなどないのだ。
知識で無我を持ち出して、体験を否定すれば、どこにもたどり着かない。
◆極度に純化した魂の持ち主に出会ったことがある。
側にいるだけで涙が出てくるほど透明な人だった。
生まれたときから、老成したタルパを意識の奥深くに従えていて、
タルパとの絶対的信頼によって自己の高潔さを保っていた。
◆タルパの協力の元、他者の霊視をはじめるようになると、
信頼はますます深くなっていったが、あまりにも全霊で他者の原初の領域
にまで関わりすぎたために心身の境界が崩れはじめ、30代で夭折してしまった。
肉体を離れる直前に、タルパは何を語ったのだろうかと、
今でもふとその人のことを思い出す。
◆魂という言葉を使うと「無我じゃないんですか?」と言われる。
魂も実態はないが、その人を集積させる磁力の性質がハートの奥で響く
ポイントがあって、それを呼ぶ名称がないと不便ということはある。
神やチャクラといった言葉も同じく、便宜上の名称。
◆次元を貫く超個の責任を自覚しても、そこに過剰な使命感を持てば、
個の妄想に逆戻りする。
究極的には、ただ在るだけで責任は果たしている。
在ることに一切の努力は要らない。
世界は初めから救われている。
◆方便は、絶対的な目的に向かわせるものではなく、相対的なバランス
のあいだに引き戻すために使われる。
だからその時々で一見、矛盾しているように見える。
常に思考や現象の意味内容ではなく、自身のバランスが偏っていないかを見る。
◆バランスの真ん中は崩れないという単純明快な真理がある。
そのことを変化し続ける動きの中で見切る。
これだけ。
◆本来、すべてのバランスは完璧で、個々の現象の顕れの差はあれど、
偏りというものはない。
偏りの違和感は、身体との同化と自分という定点の維持願望から生じる。
◆世界を均一にしようとするから、努力が空回りし不満が続く。
差の真ん中にいれば、差は存在しない。
◆365日逆立ちしてます。
一日一回天地を逆にして、足の裏で宇宙にグラウンディングし、
手のひらで地球を支えてみると、意識が変わります。
腕に体重をかけずに腸腰筋をストレッチしながら、上方向へ体全体を引っ張りあげるのがコツ。
◆逆立ちの際、頭頂は地球のコアに向かって突き刺すイメージで。
◆逆立ちしたら、頭頂を留意したまま、腕の間から世界を見渡します。
このとき体感的に「逆になっている」という意識が出たらそれに気づきます。
繰り返していくと、空間の上下感覚の固定化がどこから生じるのかが理解され、
これまで無意識だった想念レベルの限定を見切れるようになります。
◆どれほど高度なレベルの瞑想でも、身体が瞑想するかぎり、上下の規定は
アプリオリに伴っています。
上下があるから人は瞑想できるのです。
上下感覚を完全に外せたら、この宇宙は卒業ですが、そんな「人」はいない。
つまりそれは「いない人」になるわけです。
◆身体は使ってみてはじめて神秘の玉手箱だということに驚愕する。
人間は未だ身体を捨てる段階ではない。
そのことに若干の危惧がある。
◆百歩譲って、ここが7回目の地球と仮定しましょう。
なぜまたここに生まれてきたのか?
それは身体を置き去りにしたからです。
一瞬前の6回目が嘆いてます。
◆7回目どころか無限回目の地球です。
◆正しさではなく、事実を目指そう。
◆裏話だけど「今回はこれにしよう」と決定する知性体が磁力を
コントロールしていて歴史も毎瞬書き換えてる。
これだけ聞くと狂ってるように思われるね 笑
◆ウイルス騒動なんかがあると「やっぱり身体はもう古いから捨てよう」
って方向が加速するけど、それもこの知性体のコントロールです。
未だ、今は早いと個人的には思いますが、どうすることもできません。
◆何回もガチの修行者をやったけど、今回はじめて女性の身体として
生まれたという人は多いかもしれない。
見ないふりをしてきた片側が、ここに呼んだのです。
自覚的に両性を選んだ人もいるが、重力とDNAの呪縛で性別非適合
の悲劇も起こった。
これはもう少しの辛抱。
◆知性体に名前を与えなければ、本来の機能以上の力は持ちません。
スピリチュアルと称してそれを名付けて方向性とパワーを供給しないでください。
すべてが無化されたところにしか安らぎはありません。
◆ワークの参加者さんが「変化しようとすると、家族が足をひっぱる」と漏らされました。
家族とのカルマ的なつながりが深い場合、ここぞという場面で必ず何かしらの
現象が起こってきて、変化を引き留めようとするベクトルが働きます。
このとき、カルマに無自覚な家族を責めても仕方ありません。
◆視点を転換すれば、この現象は私自身の中で起こった私の問題であって、
家族はそれを気づかせるために自ら傷ついて役割を負ってくれているのです。
現象は現象として対処しますが、それと同時に、私自身の変化への怖れや
関係性の依存を見極め、エネルギー的なねじれを浄化していく必要があります。
◆徳という言葉はエゴを強化しやすいのであまり使いたくはないのですが、
こと修行においてはカルマや徳が直接作用してきて、起こってくる現象の意味
を解かないかぎり先に進むことはできません。
そこに気づけるか気づけないかは徳に左右されます。
◆「それ」自体はここにあって、それに辿り着くためのすべての努力や熱意は
それとは無関係ということもできるが、だからといって膨大な過去の物語に
敬意を払わなければその人の目覚めはそこで終わる。
◆感動や愛情を胸の奥で感じたことがないという人が思いのほか多くて驚く。
身体の機能で無駄に備わっているものはひとつもないので、機能自体は
働いているが、胸の感覚を素通りして頭の概念として感動を認識しているのだ。
胸の奥には現象世界と直接触れて振動している場がある。
◆振動は身体や感情以前にあるが、この精妙な場を見つけるにはいったん
現象世界での経験を通して感覚を育てていく必要がある。
感動や愛情で胸が震え、内圧が高まり身体が耐えきれなくなる時、身体の反応
をそこに置いたまま内側水平の奥深くにフォーカスすると、高速に振動する
静寂の場が見つかる。
◆このとき、頭でフォーカスしようとすると振動の場は隠れる。
胸それ自体で直接フォーカス(触れる)する。
ただし、この発見に感動してしまうと再び内圧に押し戻されて
肉体の限界で認識は止まってしまう。
◆このギリギリのラインに踏みとどまるとき、瞑想の訓練で培った無執着
が具体的に発動する。
瞑想はこのためにあったのだ。
感動は肉体との同化で起こる。
感動屋の修行者や指導者は多くみられるが、感動と至福を混同しないように見極める。
◆ただし、感動を止めようとして心身を不感症にしない。
完全にオープンな状態では、胸に直接触れてくる世界は鮮烈な触覚と
爆発を誘導する。
それは決して止めることなどできない。
ここで現象側にフォーカスすれば肉体は爆発に耐え切れずに失神するか、失速するしかない。
◆だから、現象としての体験は常に一過性のものとなる。
だが、台風の目の中にある静寂の場の振動は、いかなるときも消えることはない。
それ自体、どこにも依存しない源泉だからだ。
対象のない祈りは、この場と軸が十字に重なって垂直に放下する。
◆圧倒的な静寂に吸い込まれ続ける至福は、決して消えない。
◆まず、現象世界をこの身体でくっきりと体感してみてほしい。
そこから離れた神秘など、ない。
世界を頭で切り捨てても、切り捨てているその頭は、現象の創造物なのだ。
◆愛と信頼と慈悲、胸の奥でこれらの振動の僅かな差異を見極める。
ここにはまだ、対象がある。
関係の中でそれらを探そうとしない。
◆「存在」からの指示で、グノーシス的二元論による世界統治の歴史を
眺めていたら、エネルギーが妙な渦にはまって直観が切断されてちょっと焦った。
まあ「あれ」は切断が目的だから当然なんですが。
こうやって介入してくるんですよ、あれは。
◆わかる人にはわかると思うけど、好奇心と正義感からあれに
首をつっこんではいけない。
生まれてきた目的はそこじゃない。
ミイラ取りがミイラになる。
◆問題を問題にしない。
ひとつも問題ない。
◆当たり前の話ですが、体験されたものはすべて一瞥にすぎません。
信頼の確定と智慧の発露が伴わなければ悟りとはいえません。
ここは正直に検証してください。
◆認識の転換前に理解を急いで名前を付ければ、
高貴なものも卑近なものに転落する。
◆興奮の荒いエネルギーを頭に登らせずに、ハラに落として再利用してください。
興奮の快楽の虚しさに気づいたら、エネルギーを無駄使いしないよう、回路を組み替えよう。
◆覚醒は感覚の興奮の延長にはない。 薬や外的な刺激によって故意に
感覚的なピントを合わせても、存在との一致の自覚が生じない。
それだと存在の「悲しみ」が取り残される。
悲しみがこの世界に沈殿していって、ますます重い世界が生まれる。
◆記憶容量に限界はないが、扱うべき分しか思い出せないようになっている。
目玉を前に付けて死角をつくり、すべて忘れて生まれてくるのは、
未知なる部分を設定することで探究心を起こさせるため。
新たに思い出すたびに、進化するように仕組まれている。
◆知りたい/知るのが喜び/知らないと不安/というのは「見えない(知らない)死角」
を構造的に設定されたからで、それがこの世界の進化の原動力となるが、
「見える/見えない」という二元性の構造に囚われるかぎり全てが知られることはない。
◆「知りたい」という強迫観念は人を突き動かすが、この衝動を一時的にでも
「置いておく」ことができなければ二元性の円環を見切ることができない。
この資質が備わった人は稀だ。
意図的にやろうとしても大抵の場合、無執着の概念や虚無感に陥ってしまう。
◆好き嫌いとセンスの主張の段階は、もう卒業しよう。
人生は表現以前の、自明かつ深淵なもの。
◆タイミングはすでに決まっている。 インスタントに覚醒体験しても、
核心と自覚がズレたままで、その意味が理解できない。
私は30年後に理解した。
◆もともとワークは一瞥体験者の自覚のズレに自ら気づいてもらうために始めた。
ズレの大小は人それぞれだが、私にそれが見えて修正したとしても、
タイミングが合わなければ自覚にカチッとはまらない。
そこも含めて信頼するしかない。
覚醒状態の伝達というよりは、信頼の意義を伝えることが本意。
◆パートナーは扉でも蓋でも窓でも何でもちょっとだけ開けっ放しで、
私がそれをキッチリ閉めて回っている。
そういう人ほど、ひょいひょい「あがって」いくんだからズルいね 笑
私はそういう役割なのだ。
死に際に、開いた蓋がチラッと気になって戻ってきてしまった 笑
◆覚醒してないものなどひとつもない。 認識のピントのズレだけがある。
ピントがズレていても世界はぼんやり映ってはいるが、直接見ているわけではない。
世界はもっと鮮烈なのだ。
◆自我が芽生えた直後から、ここに存在してしまっていることが意味不明で
怒りまくっていて、怒りを理解しない親に苛立っていた。
理解されない怒りは喘息とアトピーとなって身体に表現された。
病を主張し、親に奉仕させることが当然の権利と思っていた。
◆30年間、自分自身がここに呼んだことも忘れて責任転嫁の
狼藉三昧だったが、今となっては、見捨てず見守ってくれた
親の愛に驚きと感謝しかない。
◆地球の中心の空に、ハラそのものでグラウンディングすると、
重力から解放される糸口が見つかる。
この一体感覚を地底のシャンバラと呼ぶのも一理ある。
世界と身体は一体化していて、自身の身体性に目覚めれば入口が見つかる。
一体感なく地球を掘っていってもシャンバラはどこにも見つからない。
◆もし地球を救いたいと思うなら、外側から俯瞰するのではなく、
内側と一体化し、内と外の消えたところから働きかける。
それはすなわち、この身体をもって自身を救うことだ。
宇宙も、その中にある。
◆ちなみに、あらゆる使命感は幻想なのでワークはそこにフォーカスはしません。
安心してください。
◆世界は身体と分かち難く結びついていて、たとえ肉体の境界を超えたとしても、
そこには新たな身体性がある。
私たちの定義する身体の形は超えていても、どの層にも固有の身体性があるのだ。
身体の幻想を見抜くことは世界の幻想を見抜くことと等しいが、
内と外を分ける形だけを見ていても見破れない。
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