【#聖者の仕事 #創造と被創造 #覚者の特性 覚醒からのつぶやき 23】

◆色盲の人が矯正眼鏡をかけた瞬間の動画には、
驚きと感動がある。
もし認識矯正眼鏡があれば同じく驚きを生むだろうが、
それは覚醒そのものとは言えない。
覚醒は、認識や体験ではないからだ。
◆個人的には否定も肯定もしないが、
薬物体験談に違和感を覚えるのもその理由だ。
生のままの意識に触れれば、隠れていた世界も顕れるだろうが、
それは新しい矯正眼鏡を手に入れたに過ぎないのだ。
◆進化の方向は無限にあるのに、集合意識が現段階で
「理解可能な」方向性に舵をとるので、
この回の地球はシュメールに暗示された支配・被支配
の物語がリアリティを持ち始めている。
◆このままいくと、このリアリティから他星系の干渉
なども起こってくるだろうが、それがあたかも決まった
過去と未来のように意識を固定するのは、既知のレール
に乗って気絶する退化だということに気づいてほしい。
◆今回の大統領選は、その辺りの集合意識のせめぎ合い
も見られたが、表面的な現象の善悪に必要以上の
期待とパワーを持たせてはならない。
重要なのは、各自の自覚的な気づきだけだ。
◆その人の神はいつも、
その人のギリギリ届かないところにいる。
◆スタートに立つ前にゴールを目指している世界。
やっとウォーミングアップを始めたところ。
◆家電も猫をなでるように触れると長生きするもんだね〜
◆モノの扱いは自分の扱い
自分の扱いは神の扱い
◆24時間、呼吸してることがそのまま祈りです。
◆肉体は風化しても、呼吸のエッセンスは続きます。
◆呼吸が祈りだといってもピンとこないだろうけど、
思惑のある祈りなんて祈りじゃないんですよ。
◆理性が外れてやらかすことがあるように、
感性が外れてやらかすこともあるのです。
◆悟りは理性を外すことと言うけれど、
外すのは私たちの思う理性ではない。
◆理性と道徳を混同しない。
◆外すのは理性の慣習であって、理性の機能は必要。
◆祈りは常に起こっているが、自分と祈りが分離している。
自分自身が一致したとき、祈りは遍く行きわたる。
◆とかく、神って老人の姿で描かれて「~するがよいぞ」
とか言いがちだけど、赤ちゃんの姿で「あばばばばば」
って言ってるほうが近いと思うんだよね。
◆神は老獪なんかじゃなくて、
この世でいちばん瑞々しいものだから。
◆神が人間を自分の姿に似せたのではなく、
人間が神を自分の姿に似せたのです。
◆許すは傲慢。
ただ認める。
◆時空が存在しないから、どこにでも存在できる。
◆社会の階級に挫折して、宗教の階級に逃げ込む人の闇は深い。
◆聖者のお仕事とは、この世の特殊技能なのです。
◆苦行は報酬系回路に取り憑かれた歪んだ快楽。
◆気づきは、楽器を弾くように入れる。
ピアノだったら、手指の腱を押しつつ引いた
「あいだ」に浮いてないと各指が独立せず、
速くて微細な音が出せない。
鈍い気づきは、なんでもかんでもドラえもんの手
で殴っているようなもの。
◆モノの世界は幻想というけれど、切り捨てる前に
いったんモノの扱い方を見直してみてほしい。
モノにはモノに相応しい「それでしかない」扱い方があって、
それを学習して始めて意識の扱い方が理解できる。
もし目の前の紙屑に「紙屑以上でも以下でもない」
触れ方ができたら、それはすでに覚醒なのだ。
◆以前、日本の匠みたいな番組で、おぼろ昆布職人が
「昆布はハラで削る」と言っていた。
0.01mmの世界の瞑想。
◆スピリチュアルがこじれると、
次元の数でマウンティングしはじめる。
◆こっちの世界で成就しないことは、
あっちの世界でも成就しない。
だから、こっちの世界を生きる。
ただただ生きることが、成就。
こっちの世界を生ききれば、
こっちの世界もあっちの世界もなかったことを知る。
◆信頼から頼が落ちて信となる。
信から言が落ちて人となる。
人から人が落ちて空となる。
◆自分の長所を30億個あげてみよう。
一生は約30億秒だから、
毎秒長所にするしかないね。
◆気づきは一生で150億回入ればいいんだから楽勝。
◆悟りに囚われすぎると、命がガラパゴス化するよ。
◆覚醒において、ミシンと蝙蝠傘の出会いも、
ご飯と味噌汁の出会いも、どっちもレアリスム。
◆今は昔、神はどこに隠れても見つかるので、
自分自身の中に隠れましたとさ。
◆左右の耳の裏側の感覚差に気づくと、
空間の立ち上がりが見える。
◆五感は世界のどこにもくっついてない。
◆五感を輪郭にくっつけて空間を
ひっくり返すのは、私。
◆忘我では、無我は悟れません。
忘れた我は、至福が去れば戻ってきます。
◆いま立っている足元の地面は、
時空のどこにも固定されていません。
「立っていたい」という意思が、
この瞬間の地面を足元に出現させます。
◆「テーブルクロス引き」は物質の
慣性の法則を使った余興。
瞑想においても、クロス引きの瞬間のように、
肉体をそこに置いておけばよい。
意識は、法則をすり抜けること。
◆私は花に触れられない。
花が花に触れている。
◆気づきは移動しません。
私が移動しているのです。
◆眼球の焦点のズレ、体軸のズレ、
気づきの深度などから、その人の意識のオモテとウラ
が3次元空間上のどの座標にあるか割り出せる。
ウラの座標をピンポイントで認識できれば、
気づきのセンターが自動的に発動する。
◆空間が先にあるのではなく、
オモテとウラの引き合いが、
その人の空間を瞬間瞬間に決定する。
個々の空間は固定されておらず、
ぐにゃぐにゃと蠢き続けている。
私たちは、デフォルメされたオモテの
柔らかい空間に生きている。
◆地球では、すぐ動くことが良しとされてるけど、
すぐ動かなくちゃいけない強迫観念に動かされるぐらいなら、
すぐ動かなくてもいい。
それだって「すぐ動かないこと」が「すぐ動いてる」んだから。
つまり、私が動こうが動くまいが、
結局すべてがすぐ動いてるってこと。
◆覚者の特性として自己肯定感が異様に高いことがあるが、
それが鼻につくとしたら自己肯定感の低さを隠している証拠。
自己肯定感の高い者どうしが出会うと、
わけもなく楽しくなってゲラゲラ笑いだすもの。
◆世界の仕組みが直観的にわかってきたとしても、
創造側にフォーカスしているか、
被創造側にフォーカスしているかで、
参加のスタンスが違ってくる。
もう一段理解が進めば、
スタンスを固定せず自由に行き来するようになる。
◆願望と実現の時差がゼロになれば、
願望は意識されない。
現実は、常に願望が叶った瞬間の連続。
願望と実現の時差は、思考が生む。
時差は、ワクワクしてもイライラしても、
生体にとってストレス。
この構造を、この世の苦と呼ぶ。
◆奇跡は、予期不能な瞬間に起こる。
予期は、具現化の境界を限定する。
◆100%イメージできれば、何でも具現化する。
そこに意図が入ればその瞬間、100%でなくなる。
だから「この私」が具現化できるものは何もない。
それでも世界は具現化している。
世界を「100%イメージしている者」がいるからだ。
◆ありがたく思うのではない。
ありがたさとして在るのだ。
◆肉体の耐えられない致死レベルの
ありがたさというものがある。
◆「あか」や「あお」の信号が届く前の
「何か」は「いろ」ではない。
◆心理と物理の分類のない気づき。
◆肉と体は別モノです。
◆カラダは想起の集合体
◆肉は無限に分割できる
◆世界は想起のダンス
◆質量とは動的な幻想
◆世界はわたしのタルパ
◆ひとつが分割したのではない。
分割自体がひとつなのだ。
◆方便は方便と気づかないときに
威力を発揮するもの。
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