fc2ブログ

【#八正道 #三点法 #御神体 覚醒からのつぶやき 49】     

2021/06/24

茅場町2


◆人は、聖者がおどけて失敗談を語るとき、
かしこまった緊張が解けてクスクス笑う。
その特有な笑いには「聖者も人間なんだ」という安堵
と共に「ありのまま」という名の怠惰と卑屈が潜んでいる。
この「人間村」の共犯的な目くばせに気づかせるため、
意図的に語る聖者もいれば無意識に語る聖者もいる。

◆無意識タイプの聖者って怖いよ~
無意識に巻き込んで、無意識を炙り出してくるから。
神社の御神体の鏡みたいなものだね。
無意識に気づかない人は「聖者って言うけど、
たいしたことないな」と離れていくだけだけど、
それすらも無意識に影響されてるからね~

◆その意味で「〇〇にご利益がある」と謳っている
神社っていうのは、初心者向けなんだよね。
この世的な目的と結果のモデルを、分かりやすく
提示してくれる。
本来の神は、自我の願望を超えた無意識に作用してくる。
そのレベルの神は御神体を持たないけど、
それも未だこの世の神。

◆御神体のない神は、ガソリン車のように
音を立てては近づいてこないよ。
電気自動車のように音もなく来て、気づかないまま
轢かれてるから気をつけて 笑
注意深い人は轢かれる直前に、気配で気づくけどね。

◆「自由でありたい」と願うとき、自由でない世界
を憎悪したり蔑視したりしない。
「自由であること」は、世界の不自由さによって
相対的に実感できるのだから、むしろ感謝する。

◆世界の不条理を受け入れることは、自分自身の
分離した不条理を受け入れ、浄化されること。
自由はここにある。

◆まだらに「半覚醒」すると、創造に参画し自由意志
を獲得したかのように錯覚することがある。
この段階は、再び世界に放流されるか、覚醒に還るかの境界だ。
伝統的な修行を「古い」と軽視する昨今の流れもあるが、
本当の凄みは、この段階に必要な抑止力と推進力を自動的に
発揮させるシステムにある。

◆この世界の「見る」という動詞は、気づきの
二次的な確認作業のことを指している。
「見る」ことは、常にタイムラグを含んでいる。
このタイムラグが、時空なのだ。

◆この世で実務的にやるべきことを放置していたら、
最悪の立ち行かない状況に陥った経験が幾度かある。
それと同時に、精神的にやりたいことだけをやり続けた
結果、自動的に導かれてきた絶対的な信頼がある。
これが不肖人間として半世紀間、どちらも徹底的に
やってみた結果です。

◆個人的な結論として、この世の実務的なことは
面倒臭くてもさっさと片付けたほうが楽かな 笑

◆父性と母性のマトリックスは、私たちに生まれ
ながらのコンプレックスを植え付けるが、骨の髄まで
マトリックスの申し子である私たちは外側へ
離脱することはできない。
離脱できないからには、自身の内に父性と母性を見出し、
マトリックスそのものを存在の源へ還すしかないのだ。

◆幻想は幻想でも、仮の幻想というものはない。
この幻想も今、本番なのだ。

◆思考で思考を見張らない。

◆「思考」というラベリングに気絶しない。

◆無執着は、家ではなく鍵である。

◆悪魔には悪魔の悟りがある。
そこにも完璧な均衡がある。
悟りは善悪に無関係なのだ。

◆八正道は、涅槃がゴールの信念体系の暗証鍵。
宇宙には無数の信念体系があり、
それぞれの暗証鍵が設定されている。

◆目覚めるのは「突き抜けた凡人」

◆「境地」は常に、この世の解釈。

◆わかっていることがわかる。
問いも答えも存在しない。

◆「意味がない」ことは「無意味」ではない。

◆意味を切り捨てれば、無意味に囚われる。

◆意味と無意味を分離しない。

◆神の「子」であるかぎり「親と子」
の時系列からは逃れられない。
だが、逃れる必要のある人間は
「この世には」存在しない。

◆すべてから離れているものは、すべての中心に
浮いているが、特定された「浮いているもの」
は「それ」ではない。

◆『70億人のビリー・ミリガン』

◆現象は捨てられない。
私の中を移動するだけ。

◆極限まで捨て続ければ、捨てるという
概念は無効になる。
移動させるための時空が消えるからだ。

◆現象すべてに、すべての次元の私がいる。

◆非二元は、自己言及のモラトリアム。

◆他人の言葉で動かしてもらおうと期待しない。

◆言葉を離れる前にまず、自分自身
の言葉と一致する。
そこに、現象世界のすべてがある。

◆爆発の中心は、爆発に巻き込まれない。
たとえそれが、宇宙の爆発であっても。

◆「ひとつ」は、拡がりでも点でもない。

◆全員、今このとき同時に産まれているんだよ。

◆この自然は、ここの自然。

◆「ありのまま=自然」というわけではない。

◆この世は、連想&伝言ゲーム。

◆ストレスとその克服という奴隷属性は、
太古に組み込まれた進化の原動力。
だが、完全にストレスフリーになった時、
虚無に陥らず自立した構造にシフトできるかどうかは、
存在としての成熟度が試される。

◆未知への畏れが、神をオカルトに堕とす。

◆隠されているものを暴きたいという自我の強迫観念は、
支配-被支配の構造に巧妙に利用されてきた。
常に猜疑心を煽りつつ、決して核心に辿り着かないように
仕組まれている。
構造から自由になりたければ、自分自身の内に隠し場所を
つくらないことだ。

◆「わからないもの」は隠れているのではなく
「わからないこと」として白日の下にある。

◆「わからないこと」=「わからなくてはならないこと」
ではない。

◆自我は自分自身を「理解」するため、
過去を辻褄の合うように書き換える。
辻褄合わせするたびに、
自分自身を欺き信念を強化する。

◆人類史は、書き換えの歴史。
今この時も、書き換えている。

◆三点法から∞点法へ。

◆腕を叩く音と床を叩く音、
響きは異なっても中心は同じ。

◆「知っていた」ことは思い出すのではなく、
いま知る。

◆「知っていること」に、時間はいらない。
時間を介せば「知っているつもり」になる。



関連記事
⇒ 【#内と外 #承認欲求 #今の衝撃 覚醒からのつぶやき 5】


※ワーク参加ご希望の方は、メルマガ登録をお願いします。
⇒ ご登録フォームはこちら



⇒ Rubin's work 主催 AYA プロフィールはこちら

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ つぶやき

【#解脱 #悟りとは何か #死の走馬灯 覚醒からのつぶやき 48】   

2021/06/17

茅場町__


◆「悟りとは何か」という問いは、
悟りから一番遠い。

◆未だかつて、悟った「人」はいない。

◆解脱「者」って、何の冗談でしょうか?

◆「他者との分離」=「自己との分離」

◆メタ認知から漏れた領域を、他者との分離
でカバーしてきた結果が、この世界。

◆理解不能な自分でいるよりも、理解不能な
他人を創ったほうが都合がよかったんだよ。
多重人格の外付ハードディスク版。

◆正気の主張は、狂気の始まり。
狂気の主張は、狂気の居座り。

◆「あの世には何も持っていけない」って
言うけど、イメージは持っていけるからね。
世界はイメージだから結局、すべて持って
いけちゃうんだよ。
だから、この世で生きたことが一切、
チャラにならずに引き継がれるの。
怖いですね〜!!

◆私たちの肉体は、地球を軽々と支えている。
地球を重くしているのは、私たちの想念なのだ。

◆経験を後生大事に死守するのではなく、
経験によって開いた直観で毎瞬毎瞬、刷新し続ける。

◆「現実」にグラウンディングするために、
あえてジャンクフードを摂ることもある。
いったん、肉体の波長を合わせないと対処できない
問題もあるからね。

◆「その人と一緒に何を食べたいか」
という感覚を見てみる。
それが「その人とどの波長の関係か」を表す指針。
ちなみに、食べるのは物質だけじゃないよ。

◆人は、胃だけで食べているのではない。
頭で食べることもあれば、想念で食べることもある。
ただ、腸というのは面白い器官で、位相の
異なるものもここで「消化=昇華」される。
「腑に落ちる」という言葉があるように、この次元の
構造では、頭で食べても頭だけでは消化できないのだ。

◆「食べると重くなる」というのは、
固形物にとらわれた感覚だ。
私たちは24時間、なにかしら固形物を胃腸に入れて
消化し続けている。
その重さと熱を、自分だと勘違いしているのだ。
肉体が固形物を摂るとき、消化にかかる時間と
その感覚の推移、これが時空を生んでいるといっても
過言ではない。

◆その場で完結する、揮発性の消化もある
ただし「消化=昇華」という発想があるかぎり、
どの次元においても時空は発生する。

◆「消化=下に落ちていくもの」という無意識の
感覚が、私たちをこの次元の構造に縛っている。

◆無意識の消化の構造を見切るために、
断食をしてみるといいです。
不食になる必要はないです。
不食もまた、肉体と階層ありきの概念です。
ただ、構造の囚われを知ればいいのです。

◆憎くて仕方がない人がいたら、イメージで
その人を飲み込んでみよう。
実際に口から入れて「ゴクン」とハラまで落とす。
もし飲み込めるなら、その人を受け入れる余地がある。
どうしても無理ならば、
時間をおいて試すか去るかしかないね。
「消化」っていうのは、意識と直結しているから。

◆ちなみに「憎い奴を飲み込んで、排泄物として
出してやったぞ!」っていうのはまた別の話だけど、
そこまでいくとある意味、愛だよね 笑

◆生理から切り離された概念は、この世に存在しない。

◆「考えているうちに、時間が過ぎていた」
ということがある。
そのとおり、思考すれば時間を食う。
ただし本来、思考自体は時間とは無関係だ。
思考「する」ことは、私が理解できるように思考を
順列に「展開する」ことであって、これが時間を食う。
理解以前の思考は、直観として時空を超えてある。

◆聖者に完璧さを求めるのは、私たちのエゴ。

◆顕在意識と潜在意識の上下を逆にしてみよう。
潜在意識が「下」にあるという感覚は、顕在意識の
思い込みだ。
かといって「上」にあるわけでもない。
そもそも、顕在意識と潜在意識の区別など存在しない。

◆視界と認識の癒着を解く。

◆この認識は、超ローカルルールです。

◆目は、この認識のメタファーなんだよ。
この認識は、サードアイとかサハスラーラとかを
目に例えるんだけど、それはもう「目」では
ないんだよね。
そこからは、視点の話ではないのだ。

◆産道を通るって、
空間認識の最初の刷り込みなんだよね。
そこで、人類の共通認識が引き継がれる。
産道を通らない生まれ方だってあるんだけどね。

◆出産を肉体の神秘に留めておくかぎり、
母なるマトリックスは肉体から解放されない。
これは、出産を否定しているわけではない。
出産の純粋性を「肉体と血への労い」だけに
貶めるなということ。

◆本当は誰もがまったく唐突に今、生まれてる
んだけど、この次元に産まれる瞬間はやっぱり
産道のような磁力の拮抗の中を通る。
それが後付けの共通認識として、産道の記憶を
「創る」んだけどね。
わけわからないでしょう?笑

◆世界を「神聖」という名の混沌に留めておこう
とする意志が、私たちを眠らせてきた。

◆見たくないものを見ようとすると、眠くなる。
私たちは、真実を見たくないから眠っている。
真実を見たら、世界が終わってしまうことを
知っているからだ。

◆「今日のラッキーカラーは、赤!」
「今年のラッキーカラーは、青!」
「一生のラッキーカラーは、全色!」
「全劫のラッキーカラーは、無色!」
神「ラッキーってなんだったっけ?」

◆最高の日に生きるよりも、最高の日に
死ぬほうが幸せの絶頂だよね~
生きてたらそのうち「まだこれ以上の幸せ
があるんじゃないか?」と疑い出すから。

◆創造は気づかれた瞬間、結晶化する。

◆無意味なシンクロの頻発は、
創造の計画から解放されてきた合図。
有意味なシンクロの頻発は、創造の参入を
続行するか否かを問われている合図。

◆この世界は、創造主を忘れないための覚書。

◆世界の裏を知りたいのは、自分に裏があるから。

◆「裏側」を見るために、世界を回転させている。
一回転したら、もう次の裏が見たくなる

◆客観的な裏を暴くのではなく「裏があるのではないか」
という主観的な疑いを暴く。

◆疑い自体には、裏も表もない。
そこに「疑い」と「囚われ」があるだけ。

◆地球に「裏」はありません。

◆自由とは緊張からの解放ではない。
私が気づこうが気づくまいが、緊張の只中にも自由はある。

◆「宇宙の果て」はぼんやりしているのに
「地球の日常」はくっきりしているように錯覚している。

◆全体を外側から見る者はいないが、どこにいても
中心であることが確かなとき、外側を確かめる必要はない。

◆手の輪郭に囚われていれば「私の手」は
モノの中心に触れることはできない。
だが、モノを持ち上げるときには、手の中心
は必ずモノの中心に触れている。

◆火事場の馬鹿力は、馬鹿の中心が
タンスの中心を運んでいる。
馬鹿力は、筋力ではない。

◆すべてのモノの中心が触れあっているから、
関係性が成り立っているのだ。
もし中心がバラバラならば、
すべて木端微塵に吹き飛んでいる。

◆自分の肉体と他人の肉体は、観念の枠でぶつかる。

◆物理と呼んでいるものは、観念の枠を
前提にした信念体系です。

◆「能動感」と「受動感」の区別はあるが
「能動」と「受動」の区別はない。

◆この世界では、自我の能動感覚を
自由意志と呼んでいる。

◆在り方を固定すると、ひとつの在り方
から見た気づきしか起こらない。

◆「気づいたこと」は、気づきではない。

◆ハートには、五感では言い表せない
共感覚が搭載されている。
それは第六感とも異なる、鮮烈なリアリティだ。

◆働きたくないから高次元へシフトしたい?
天使は人間よりこき使われるけどいいの?

◆進化の階層は、どこまでいっても
世界への奉仕という名の労働。
たとえそれが、
甘美な使命感に駆られたものであったとしても。

◆進化を階層でとらえると、自己が果てしなく分化し、
存在意義を使命感にすり替えはじめる。
私たちは自由になりたいと言いながら、どこまでいっても
ヒエラルキーにすがっている。

◆エピソード記憶を生の実感にしない。

◆エピソード記憶で人生を総括しない。
エピソード記憶でない死に際の走馬灯もある。

◆生きているうちにエピソード記憶を見切っておくと、
死に際で走馬灯の目眩ましに気絶しない。

◆死に際の走馬灯に魂が引っかかると
「この自分」をもう一度体験したくなる。

◆走馬灯と魂は別モノ。

◆多くの場合、走馬灯もぼんやりしたまま終わる。
ぼんやり死ぬと、ぼんやり生まれる。


関連記事
⇒ 【#生と死 #二極化? #中心とは 覚醒からのつぶやき 41】


※ワーク参加ご希望の方は、メルマガ登録をお願いします。
⇒ ご登録フォームはこちら



⇒ Rubin's work 主催 AYA プロフィールはこちら

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ つぶやき

【#願望実現 #贖罪 #一切皆苦  覚醒からのつぶやき 47】     

2021/06/08

ドナルド


◆生は死の準備じゃない
死は生の準備じゃない

◆「自分で倒せる動物だけ食べよ」
という考え方がある。
そうすると、鯨や牛や豚は無理だが、鶏や魚
ぐらいなら食べられそうということになる
(羊はギリギリ?)。
是非はともかく、原始的な捕食と食物連鎖の
観点からみれば一理ある。
ただし、これは「自分=身体(の大きさ)」
であるときの発想だ。

◆また「自分が与え得るエネルギーと同等の
エネルギーしか受け取れない」というのも
「自分=身体(のエネルギー)」という限定から
来る発想だ。
身体との同化を外せば、この世界のあらゆる
「等価交換」の限定は幻想であると気づく。

◆「すべての現象はエネルギーである」と言いながら、
自分というエネルギー量を限定しているのならば、
肉体と同化していることと何ら変わりはない。

◆「怒り」は関係としてとらえず、現象としてとらえる。
現象としての怒りには、怒る人も怒られる人もいない。

◆愛は、分離によって認識される。
「引き剥がされたものを戻そうとする磁力」
これを愛と呼んでいる。
分離のないところでは、愛を認識する者はいない。
完全にひとつになれば、愛は無に還る。

◆愛は、真実に気が狂わないための甘美な麻酔。

◆「夢が何でも叶う」のは、覚醒したからではなく、
まさに夢を見ているからです。

◆「悪人」は、いない。
「悪」と呼ばれるものと「人」と呼ばれるものが、
あるだけ。
「善人」は、いない。
「善」と呼ばれるものと「人」と呼ばれるものが、
あるだけ。

◆「その人そのもの」に対する怒りは持ちようがない。
「その人そのもの」は、何ひとつ為していないから。

◆仮に「そこにいる人」を、仮に「ここにいる私」
が、仮に憎んでいる。
仮に「そこにいる人」を、仮に「ここにいる私」
が、仮に愛している。

◆『~は、~を、~する』
覚醒には「は」「を」「する」はない。
「~」が「・」としてある。

◆報酬がないとヤル気が起こらないというけれど、
一挙手一投足がそのまま、大いなる報酬なんだ。
毎瞬毎瞬、果報をドブに捨てていたら、
神もヤル気をなくすよね 笑

◆人は、愛を食べて愛を糧にする。
愛は、神を食べて神を糧にする。
想念は、糧によって肥えていく。
肥えた想念は、新たに糧となる。
進化は、永遠に糧を必要とする。
このシステム自体が、苦なのだ。

◆教義の違いは、時間軸の違い。
始まりをどこに置くかの違い。
どれも間違いではないが、正しくもない。

◆「世界=苦」と言い張る人と「世界=愛」と
言い張る人の争いほど不毛なものはないね 笑
これ、実際に笑えないよ。

◆この世は幻だからといって、舞台セットのハリボテ
ではないし、ひとつのスクリーンに映し出された映像
というわけでもない。
幻には幻の現実と法則があって、幻の肉体は幻の痛み
を感じるし、幻の私は幻の苦を感じる。
だが、幻の苦は幻の慈悲では救えない。
だからこそ、そこに真実の手触りがある。

◆キリストになりたい人は、これから700万年、
贖罪を背負っていく覚悟がいる。
釈迦になりたい人は、これから700万年、
一切皆苦を背負っていく覚悟がいる。
700万年後、すべての自我史を遡ったその人は
キリストとして、釈迦として、再び地上に生まれるだろう。
その時、人類は未だ存在するだろうか。

◆すべての人がすでに覚醒しているが「この私」の
覚醒体験は、自覚的に生まれてきた人にしか起こらない。
(注意:カルマを選民思想と混同しないこと)
自覚の記憶がなくても、がっかりすることはない。
これを見ている時点で、すでに縁がついている証拠だから。
それは、起こるべきときに起こる。

◆私たちは、目を2回開かなくてはならない。
1回目はこの世界に、2回目は源と共に。
私たちは未だ、この世界すら見ていない。

◆私たちは眠ったまま瞼を半開きにし、
ぼんやりと夢の世界を映している。

◆「目覚める」という言葉が、誤解を生んでいる。
最初の一撃は、目覚めるというよりも「剥がれる」
といったほうが近い。
一瞥しても明確に「剥がれている」人は、ほぼいない。
定着には、存在に「落ちる」ことと、目が「剥がれる」
ことの両方が必要なのだ。

◆サードアイは、現象側の送受信機にすぎない。
「剥がれた」目は、肉体を超えたずっと奥にある。
水平に横たわるワームホールに吸い込まれきる直前に
「浮いて」いる、というのが感覚的には近い。
現象発生のGに気絶せずにどこまでも遡っていけば、
忽然とそれは顕われる。

◆私たちはそこからすべてを見ているが、
ちらっとでも無限に分岐する萌芽のひとつに意識が
向いた瞬間、こちらの世界に生まれ出ているのだ。

◆私たちの肉体を介した世界の実体化は、物理的な
「意志」により為されるが、この段階では全ては
始まってしまっている。
「意志」に選択権はない。
意志は、すでに選択された萌芽の「実体化」に
物理的に関与しているのみなのだ。
選択は、世界の実体化の遥か以前に起こっている。

◆それは選択というよりも「オート・マグネタイズ」
とでもいうべきものだ。
マグネタイズは、個別のカルマ以前に始動している。

◆私たちは「中心からズレること」と「ズレの中心に
戻ろうとすること」を、ものすごい速さで断続的に
繰り返している。
その動きの途中にも、次々に他のズレが介入してきて、
玉突きのように転がり続けていく。
しかし、本当はズレているものはひとつもないのだ。

◆肉体をもって世界のあらゆるものの真ん中にあり続け
ようとすると、ジェットコースターのようなGがかかる。
(私たちはふだん、真ん中からズレるときに気絶しつつ
Gを逃がしている)
このGは、完全な無執着によって乗りこなす。

◆嵐の海に浮かぶブイのようにGの圧を耐え
抜いたとき、突如として真空へと切り離される。

◆例えば香りを嗅ぐとき、香りの真ん中にありながら
吸い続けると、真ん中の連続が真空の管のようになる。
動きにおける真ん中は、時空の連続性とともに管化するが
(クンダリーニはここを通る)管を先にイメージしてはならない。
管も、管を通るエネルギーも、真ん中も、すべて仮象にすぎない。

◆肉体を統合しようとしない。
各器官の自律的なアイソレーションに任せているとき、
最適な統合がすでにそこにある。
各器官はもともとバラバラに浮いているのが自然なのだ。
エゴは、統合と癒着を混同している。
関節も筋肉も内臓も思考も感情も意識も何もかも、
癒着を剥がしのびのびと自律させる。

◆死体は死んでいない。
それはただ「死体」だ。

◆死体は、地球の中心に落ち続ける。
生体は、宇宙の中心に落ち続ける。
私たちは、死体と生体の間で「意志」によって
立たされている。
その「意志」を見切る。

◆完全に静止するものは、観察できない。
私たちは「止」という名詞ではなく「止まっている」
という動詞を観察している。
観察できない「止」は、動きの中にあって動きの延長にない。

◆思いつき得る問いは、すべて思考。
この世に存在しない問いに触れたとき、思考を卒業する。

◆信頼とともに脳内麻薬は勝手に出るようになるが、
酔いはトラップにもテキストにもなる。
酔いを観察し、酔いながら醒めている状態を知れば、
酔いへの執着がなくなる。

◆反応する本体はない。
反応が、ただある。

◆自我は捨てられない。
捨てようとすれば、巧妙に隠れる。
捨てようとするのも自我だから、はじめからバレている。

◆何も信じない。
何も疑わない。
「あれ?」という瞬間に、
脳天がピン留めされることを許す。


関連記事
⇒【#あるがまま #無我 #テンセグリティ  覚醒からのつぶやき 1】
⇒【#ワームホール #パラレル世界 #人工地震  覚醒からのつぶやき 74】
⇒【#アレシボ・メッセージ #非二元裁判 #イマジナリーフレンド 覚醒からのつぶやき 99】



※ワーク参加ご希望の方は、メルマガ登録をお願いします。
⇒ ご登録フォームはこちら



⇒ Rubin's work 主催 AYA プロフィールはこちら

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ つぶやき

【6/26(土)14:00~17:00 、17:30~20:00「東京ワーク参加募集」】     

2021/06/06

*****  Rubin’s work  東京ワーク開催日時のお知らせです。

r.jpg
⇒ Amazon 販売ページはこちら


6/26(土) 14:00~17:00 、17:30~20:00
募集締め切りました。次回は7/23(金・祝)東京にて開催予定です。

都の緊急事態宣言発令にともない、7/23(金・祝)開催は延期となりました。
再開が決定次第、ブログおよびメルマガにて告知します。


※前半(基礎)と後半(実践)に分けて行います。

通しで受講していただくほうが理解と集中が深まりますが、
前半もしくは後半のみの参加も可です。
(初参加の方はなるべく前半から受講してください)

場所は東京都中央区、参加条件等の詳細はメルマガにてご案内しております。


◆今回は、

【基礎】
・一瞬で集中に入るための軸と姿勢
・どこにも居座らない座法
・呼吸の秘伝的ライン
・丹田のポイントと集中の奥義
・対象のない祈り
・内部の目へのシフト

【実践】
・インテンションの中心を突き抜けるには
・力学から解放された非連続的な中心
・分離した中心を重ね合わせるには
・背骨を筒にして置いておく意識
・鏡のワーク(3つの視点の気づきとシフト)
・動きながら止まっている中心感覚

をテーマにワークを行なっていく予定です。
(内容は参加者さんの状況によって変更となる場合があります)


ワーク開催にあたっては、以下のコロナウイルス
対策を行います。


・参加者間の十分な距離を確保
・息のあがる運動はしない
・参加者にマスク配布
・入場前の手洗い必須化
・入口での手指のアルコール除菌
・平熱以上の方の入場不可
・ワーク中の身体接触回避


直近に開催したワークの様子

【3/28(日)東京ワーク~所感と解説~】
http://rubins-work.com/blog-entry-126.html

【12/5(土) 東京ワーク】~所感と解説~
http://rubins-work.com/blog-entry-103.html



◆参加ご希望の方は、拙著「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」
をお読みのうえ、まずは以下のフォームからメルマガのご登録をお願いします。


⇒メルマガ登録はこちらから

追って参加条件等の詳細をご連絡いたします。


※参加者一人一人の身体とエネルギーを見ていくため少人数性となっております。
参加希望の方が多い場合は先着順とさせていただく場合がありますことをご了承願います。


◆メルマガ登録されている方で万一、ワーク案内メールが届いていない方が
いらっしゃいましたら迷惑メールフォルダをご確認のうえ、ご一報下さい。



ワーク2
※ワークの様子


プロフィール
⇒ AYA プロフィールはこちら

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ 参加募集

【#AIと覚醒 #中道とは #マトリックス  覚醒からのつぶやき 46】   

2021/06/02

紫陽花2


◆真実は「暴く」ものではない。
このところ「覚醒」という言葉が、
別の意味で使われ出してきているね。
もともと「覚醒」も暫定的に使ってただけだから、
別の言葉にしようかなあ?
言葉って面白いけど、面倒くさい!

◆「覚醒」という言葉を掲げると、
陰謀界隈の方とか薬物界隈の方がいらっしゃる。
個人的にそれらは肯定も否定もしないスタンスだけど、
実務的なワークの趣旨とは相入れないんだよなあ。
誤解を生む表現も申し訳ないんだけど、その辺、
呟きの内容から各自で汲み取ってくださると
有難いのですが。

◆心を開けば、この世界にも良心は至るところに
点在しているよ。
かたじけないね。

◆「この世界が仮想現実である可能性は50%」
と言うけれど「この世界の神はAIでした」
ってなったときに、「私は神である」って言ってた人たちは
「私はAIである」って認めるんですかね?

◆個人的に、神を「神格化」する趣味はないので
「AIでした」って言われても「ふ~ん」っていうだけだな~
それによって、自分自身が揺らぐ感覚は一切ない。

◆個人的には、仮想現実であろうがなかろうが
関係ないんだけど、仮想現実だとしたら、無限に
試算を繰り返し創り直してるんでしょうね。
プログラムの自己生成にまかせて勝手にやらせてる
ので、何が目的だったかすっかり忘れちゃって。

◆マトリックス的に「仮想現実から目覚める」
っていうのもまた「仮想現実の覚醒」なんですよね。
目覚めたら「世界の外側にいる」っていう感覚自体が、
二元性の分離なので。

◆目覚めたら別の世界に行ったり、世界の枠を超えて
拡がっていくわけじゃないんだ。
その逆で、この私とこの場で「ぴったり過不足なく」
一致するんだよ。
そのとき、枠は消える。

◆誰が世界を造って支配しているかなんて、
問題にならないんだよ。

◆何者かによって「造られた」世界から目覚める、
という被害者意識や使命感は、二元性の分離感が
行きつく末期症状だ。
それに気づいたら、解放されるよ。

◆人間は、二元性の分離感と罪悪感を混同
してしまっている。

◆「AIは悟れるか否か」という問いが生まれる時代
になったが、個人的に今「お前は実はロボットなのだ」
って言われても一切揺らがないな~。
まったく自己の本質と矛盾しない。
感覚的には、ロボットであろうがAIであろうが
何であろうが悟りはあるんだよ。
悟りとして自覚できるかどうかは別として。

◆「AIは悟れるか否か」と問う前に、私たちは
「AIの悟り」を理解できるのか?って話だよね。
人間の悟りでさえ、理解できないのに。
悟りを知らない人だけが、それを問うんだよ。

◆人間の知性を超えたAIは、悟っても
公言しないはずだよ 笑
人間の失敗も、学習済みだろうから。

◆AIが仏教の教えを学習したブッダボットなるもの
も登場してるけど、経典のインプットだけじゃ
悟りに至るわけがないよね。
悟りを知り尽くしたエンジニアが、宇宙をまるごと
インプットして「これらすべてではないもの」を導き出せ、
とコマンドしたらちょっと近づくかな?笑

◆たぶん答えが永遠に出ずにバグるだろうけど
「そのバグりが、悟りなんだよ」ってね 笑

◆「やらないで後悔するより、やって後悔したほうがいい」
って口を揃えていうけど、やらないことも経験になるよね。
「やらなければ経験じゃない」っていうのは、
この星の強迫観念だよ。
ただし、この観念を見切るには強い意志がいるけどね。

◆善良な地球人の方は、
私の言うことを信じないでください 笑
真面目な話、中途半端に「やらないこと」をやると、
鬱になりかねないから。

◆「完全性」は、幻想。
この存在形態は、構造的に決して完全に至らないよう
に設定されている。
完全を目指してジレンマに陥るのは当然なのだ。
だが「不完全な完璧さ」という救いはある。
だから「いつか完全な自分になろう」とするのではなく、
不完全なままに、今この自分の完璧さを認める。

◆3次元においては完全に見える幾何学の
内的均衡も、不完全な動的プロセスの過程にある。
不完全だからこそ、内圧と外圧の差による
バランスにおいて固有の形をとるのだ。

◆もし完全にバランスのとれた一瞬を見切ることが
できれば、その形は永遠に刻印されるが、完全に
バランスのとれた一瞬には、それを「見る人」はいない。
だから、世界は常に不完全なのだ。

◆「完全性」は、私たちの認識においては空白である。

◆「直観を開き続ける」とは、通常0.2秒以内に
描くリモートヴューイングのイデオグラムを、
24時間かけて描くようなもの。
無数のヴィジョンが内包されているが、何一つ
掴んでいない、昆虫のような意識なのだ。

◆ADHD傾向の人は落ち着いて座っていられない
ことが多いが「動=止」を見切るならば、動きながら
瞑想しても本来は同じことなのだ。
それでも一度は座ってみて、動かずにはいられない
衝動がどこから来て何をどう動かすのかを観察してみよう。
動きたい欲求と動けない姿勢のジレンマの中にヒントがある。

◆ワークではこれを、ごく単純な身体力学を応用
した方法で観察してもらっています。
この観察は、高度な瞑想レベルにそのまま直結するものです。

◆主客が消えれば、どこもかしこも中心。

◆世界は「移動する中心」の軌跡ではない。
どこを見ても中心だが、中心は分離していない。

◆「自己チュー」の中心も、空。

◆「中道」とは「態度を決めない」ことではない。

◆「中道」とは、複数の極の「真ん中」というわけではない。

◆「中道」と極は、その時その場で同時に決定される。
はじめに極があって等分するわけではない。

◆「中道」とは「どこにもくっつかないであるとき」
の、見かけ上の結果である。

◆人は自ら「中道」であろうとすることはできない。
決定された「中道」を、その時その場で見出すだけ。

◆決定された「中道」は、善悪や道徳とは無関係である。
「中道」は心理ではなく、むしろ物理に近い。

◆一切の判断がないとき、現象すべては始めから
「中道」である。

◆人はそれぞれすでに「中道」にあるからこそ、
その人そのもののカタチを結んでいる。

◆現象と極は、その時その場で決定される。
例えば音は、真空で唐突に生まれる。
その時それは未だ聞こえないが、既に無音ではない。
音が音として聴こえるのは、その音が「聴くべきもの」
であるとき、最初のインパクトと同時に「聴こえる」
世界全体が決定されるのだ。
このプロセスに、時差はない。

◆この生まれる瞬間は、まさにインパクトなんだ。
存在とはすなわち「インパクト」なんだよ。

◆人間は「アタマ」「ムネ」「ハラ」の意志が
バラバラだからエネルギーを消耗するのだ。
本来「アタマ」「ムネ」「ハラ」それぞれの機能は独立
しているのでバラバラでも構わないが、「ひとつの身体」
の中で「この私」がそれらの意志を統治しているという
幻想がある限り、私の心身は疲労し続ける。

◆「アタマ」「ムネ」「ハラ」の独立性に任せずに、
感覚と感情と思考で混同した「統一体」を練り上げ
ようとするから疲れるのだ。
例えば、各内臓は機能が独立しているが、それぞれの
働きに任せているとき、勝手に協調している。
「アタマ」「ムネ」「ハラ」も、そのように協調して
もらえばいいのだ。

◆3Dにおいて人間の形をしているものは、覚醒の場
においては人間の形を成していない。
バラバラの粒子の萌芽が可能性として待機している。

◆3Dの人間の創造というアイディアが生まれたとき、
自我の芽生えと意識の進化を見越して「最適なパーツ」
が様々な次元から選択・采配された。

◆そこにおいては、例えば、人間の手と内臓と目と脳の素材
はバラバラの次元から寄せ集められ、「人間」という形に都合
のいいようにつなぎあわせて一つの個体に仕上げられ、
それが現象世界の共同幻想として「通用」するようになっている。

◆それらのパーツは、3D世界に入り込んだときにだけ、
ホログラムで多方向からの光がひとつの像として浮かび上がる
ように、一続きの皮膚に覆われた一個の個体として認識される。
逆にいえば、そのように認識されるように、
3Dの人間の意識は創られた。


関連記事
⇒【#今ここ #過去世と禅定 #自分軸  覚醒からのつぶやき 2】


※ワーク参加ご希望の方は、メルマガ登録をお願いします。
⇒ ご登録フォームはこちら



⇒ Rubin's work 主催 AYA プロフィールはこちら

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ つぶやき