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「自分を描けるか?」 【11/21(日) 東京ワーク ~所感と解説~】     

2021/11/23

11/21(日)東京にてワークを開催しました。

バランス3
バランスボードの上で片足立ち

【自画像と自分】

はじめに、参加者さんに「自画像」を描いていただきました。

似顔絵
もくもくと「自画像」を描く参加者さん


このときただ「自画像を描いてください」と言ったところ、3分ほどかけて全員迷いなく
正面向きの「自分の顔」のアップを描きました。

それはそれで間違いではないのですが、はたして自画像の「自分=顔」
である必然はあるでしょうか?

自1 自3 自5
※ 1回目に描いた自画像


参加者さんに聞いたところ、顔の描き方のパターンは以下の3つでした。

①鏡に映ったときの自分の顔のイメージを思い出しながら描いた
②他人から言われたことのある自分の顔の特徴を思い出しながら描いた
③今これを描いている時の顔のパーツの感覚をなぞるように描いた。

つまり③以外は、記憶の中の顔のイメージを描いているということになります。

③も、今この瞬間の感覚を見て描いてはいますが、自分を「顔」というひとかたまり
のイメージに当てはめようとする意図が働いています。


これらは「自画像」という言葉に囚われてしまったとも言えますが、本当に今この瞬間
の「自分」とは記憶の中の「顔」なのでしょうか?

この瞬間の「自分」とは、顔であれ体であれ一続きのまとまったイメージとして
存在するのでしょうか?

例えば「輪郭を描いて目を描いて鼻を描いて口を描いて…」とやっている時点で、
そのイメージは記憶と時間によって編集された産物なのです。



【今この瞬間の自分】

次に、参加者さんに「5秒で今この瞬間の自分を描いてください」と言いました。

その結果、こんどは記憶のイメージをなぞる暇もないうちに、文字通りその瞬間に
気づかれた生のままの感覚がそのまま映し出されました。

それがまさに、各自にとってその瞬間の「自分」だったのです。


中でも感心したのが、思考が働く前に5秒で目の前に映る参加者さん数名を
描いた方がいたことです。(色が薄いため画像は割愛します)

その方にとって、そのとき目に映った空間そのものが「自分」だったのです。

これは、すでにワンネス感覚といってもいいでしょう。

自2 自4 自6
※ 2回目に描いた「自画像」



【自分というイメージ】

以前、大阪で開催したワークでも自画像を描いていただいたのですが、そのときの
参加者さんは顔ではなく木のイメージを描かれました。

それも間違いではないのですが、そこにも「自分=木」といった象徴的なイメージの
固定があるのです。


⇒ 「自己イメージ」【1/13(日 大阪ワーク ~ご感想と応答】より

「まず自分を描くというワークの時に私は木を描きました。

それが自分というイメージを表していて、固定化されたものだとわかりました。」



⇒ 正確にいうと、自分というひとつのイメージの形が固定化されて常にあるのではなく、
意識の水面下に自分という感覚を形作るための断片的なイメージのパーツが瞬間瞬間に
浮かんでは消えている状態があり、「自分を描いてください」といわれた瞬間にそれらの
パーツの中からその時そのお題にふさわしいと感じたイメージを「絵を描く」という時間の
流れの中で選びとったということになります。

そのため、よく言われるように自我ありきの視点で心理的に「自己の固定化されたイメージ
を崩しなさい」ということではなく、意識の主体を転換し、無意識に選び取られたパーツが時間
の経過(絵の線は時間経過の痕跡を示しています)を経てひとまとまりの整合性のとれた像
として顕れ出たことを、一瞬遅れた後付けで「発見」していることに気づいていただきたいのです。


たとえば今回のように木のイメージの像が結果として結ばれたとき、意識下では
「木として完成された絵」があったわけではなく、無数の断片的なパーツ(例えば、幼少期に読んだ
絵本の中の木の断片、過去に触ったことのある木の感触、ワーク会場に来るときに無意識に
目にした街路樹、その瞬間の身体感覚の一部、人間と木の関係にまつわる集合意識
の一部、過去に読んだ木に関する精神分析の本の記憶、過去に自分自身について考えたとき
の記憶の断片、その他さらに非個人的なレベルの言語化・具象化できない無数のパーツ群など)
が磁石に吸いつけられるようにエネルギー的に瞬時に引き合い組み合わされています。
(このとき、どのような組み合わせになるかは「自分」で選ぶことは一切できません。)

その結果、木として完成されかけたイメージが紙に描く直前に意識に上ってきて、手の動きを
伝わって紙に映しだされたということになります。
(本当は手も紙も意識の「外界」にあるわけではなく、手も紙も上記のイメージのパーツ群と
時空の切れ目なく同列にあるのですが)

この水面下のプロセスが意識化されていないと、常に、すでに像を結んだ後に水面上に
浮かび上がってきた表面的なイメージを3次元の自我の視点から見ているだけの世界に
フォーカスし続けることになります。



【自画像と時空】

自分
※ AYAが5秒で描いた「自画像」
(これが正解というわけではありません)


「正確に」その瞬間の自分を描こうとすると、パラパラと起こってくる様々な次元の断片やイメージ
や思考を描き散らすことしかできません。

とはいえ、断片を描き連ねている時点で、この像にもすでに断続的な時間は発生しています。

そもそも「描く」という行為は、時空ありきのものだからです。


軸


関連記事 ⇒ 「座法の姿勢」【1/13 (日)大阪ワーク ~ご感想と応答】


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【11/21(日)14:00~17:00 、17:30~20:30 「東京ワーク参加募集」】     

2021/11/03

*****  Rubin’s work  東京ワーク開催日時のお知らせです。


◆11/21(日) 14:00~17:00 、17:30~20:30
募集締め切りました。次回は12/18(土)東京にて開催予定です。
参加希望の方は、まずはメルマガご登録ください。

⇒メルマガ登録はこちらから

※前半(基礎)と後半(実践)に分けて行います。

通しで受講していただくほうが理解と集中が深まりますが、
前半もしくは後半のみの参加も可です。
(初参加の方はなるべく前半から受講してください)

場所は東京都中央区、参加条件等の詳細はメルマガにてご案内しております。


◆今回は、

【基礎】
・一瞬で集中に入るための軸と姿勢
・どこにも居座らない座法
・呼吸の秘伝的ライン
・丹田のポイントと集中の奥義
・対象のない祈り
・内部の目へのシフト

【実践】
・内部の目と事象の消失点
・3次元の中心と覚醒の中心
・無我と中心と脱中心の関係
・バランスゲームとマトリックス
・ベクトルの無化と無我軸へのシフト
・肉体と意識の境界とワームホール

をテーマにワークを行なっていく予定です。
(内容は参加者さんの状況によって変更となる場合があります)


◆ワーク開催にあたっては、以下のコロナウイルス
対策を行います。


・参加者間の十分な距離を確保
・息のあがる運動はしない
・参加者にマスク配布
・入場前の手洗い必須化
・入口での手指のアルコール除菌
・平熱以上の方の入場不可
・ワーク中の身体接触回避


◆直近に開催したワークの様子

【10/30(土)東京ワーク~所感と解説~その1】
http://rubins-work.com/blog-entry-157.html

【10/30(土)東京ワーク~所感と解説~その2】
http://rubins-work.com/blog-entry-158.html



※参加ご希望の方は、拙著「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」
をお読みのうえ、まずは以下のフォームからメルマガのご登録をお願いします。


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追って参加条件等の詳細をご連絡いたします。


※参加者一人一人の身体とエネルギーを見ていくため少人数性となっております。
参加希望の方が多い場合は先着順とさせていただく場合がありますことをご了承願います。


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「3次元の直立と生の意志」 【10/30(土) 東京ワーク ~所感と解説~ その2】    

2021/11/02

⇒ 「マトリックスと恩寵の鍵」 【10/30 (土) 東京ワーク ~所感と解説~ その1】 
からの続きです。

傾き



【生のダンス】

先日のワークで顔合わせの自己紹介がてら、ちょっとした遊びとして「その人のダンスをつくる」
ということをやりました(個人的に、ダンスは昔取った杵柄というやつです)。

最初は皆さん緊張しているのでなかなか「これが自分自身だ」という動きが出てこなかったのですが、
たとえばある参加者さんをパッと見たときに口に手をやって遠慮して伏し目がちに目が泳いでいたので
「目をキョロキョロさせて目の方向に動いて顔を捻ったら、ハッと気づいて両手で顔を覆って隠れてください」
とか、ある参加者さんは両肩が前方向に巻き込んでいたので「肩の前面から前のめりに倒れていって
倒れそうになるのを前頭葉で上に引っ張り上げてもどしてください」とか、その時に気づいたことから
簡単な動きをつくっていきました。

ある意味これは、その方の癖の誇張なのでイヤ~な気分になった方もいたかもしれません
(昔からその人の癖を直接スキャンして似顔絵やあだ名をつけるのが得意で、先生やクラス全員の
似顔絵を描いて嫌がられてました 笑)。

とはいえ、体の傾きや動きや仕草にはその人そのものがそのまま顕われているので、
これを自覚的に気づけるようになると思考の癖にも気づけるようになります。


絶え間ない体の傾きと動きの軌跡は、現象世界におけるその人自身の表現であり生のダンスです。

自分自身で自分のダンスをつくる、というのは自分を客観視し、自覚的に動くということです。


たとえば先の「両肩が前方向に巻き込んで前のめりになるのを頭で支えている」参加者さんの場合は、
巻き込む方向に倒れていけば重力に従って転んでしまいますが、それを無意識に物理的・心理的に
頭で引っ張って「まっすぐ」に修正しバランスをとっているわけです。

その修正の際に「思考優位」のテンションがバランスのために「疑似利用」され、無意識のうちに
頭が中心になっているのです。

この方はもともと人並以上に感性優位のはずなのですが、ムネを内側に巻き込んで落とし、
思考によってそれが隠れてしまっているため、ハートの感覚が掴みづらいのです。

この辺りはおそらく「自分自身の感性を剝き出しにすると叩かれるので思考によって社会的立場を
補完してきた(そのほうがこの社会では傷つかないですむ)」といった幼少時からの経緯というのも
関係しているかもしれません。

壁



【無意識のバランス】

とはいえ、この世界に完全にバランスのとれた「まっすぐ」の身体の人など存在しません。

体の個性は社会的に造られる以前に、生まれながらのカルマによってほぼ決定しています。

だから、その人その人の個性を自身で自覚し、その人ならではのバランスを見つけていくしかないのです。
(余談ですが最近よく聞く「自分軸」という言葉は、注意しないと自我を強化することがあります)

各自のどのバランスも「間違っている」ということはありません。

それぞれのバランスの個性が、この世界を創っているからです。

ただ、そのバランスに無自覚なままでいると無駄に力をいれて疲れてしまったり緊張してしまったりするので、
この世界の重力によって規定されるニュートラルな軸をある程度知っておくほうが人間としては楽に生きられます。


人間として辛いのは、無理なバランスであっても取りあえず「立っている」ことを「水平から垂直」へ向かう
進化の過程で「強要」されてきたということです。

人として生きるときに、道路の真ん中で崩れて寝っ転がっていることは社会的にも許されません。

幸か不幸か、通常の骨格であれば足の裏を地面につけてその上に膝と腰と背骨と頭を積み上げれば、
なんとか見た目は「立っている」状態になります。

社会のバランスを優先した私たちは、崩れそうになるのを踏ん張りへとへとに疲れながらも「立っている」
ことを強要されている(と幻想している)のです。


私はよく「人間は未だ3次元で完全に立ち上がってない」と言います。

見かけ上、立っているように見えても、ほとんど崩れそうになりながら無理にバランスを取っているのです
(人類特有の腰痛はその皺寄せの最たるものです)。

バランスの崩れた状態は、物理的に緊張と思考の偏りを生み出します。

それはそれで、その人独自の個性的な生のダンスなので、そのままでいいといえばいいのですが、
やはり本人の肉体は疲弊するわけです。

そのようなアンバランスな状態のとき、人は自分が「なぜ立っているのか」「なぜ立ちあがり続けなくては
ならないのか」という存在の根本的な理由を直観することができません。



【生の意志】

では、人間はなぜ垂直に「立ち上がって」いこうとするのでしょうか?

それは例えば「キリンは高いところにある果物を食べるために進化の過程で首が伸びた(淘汰された)」
というような形態上の単純な理由だけではないのです。


人間の赤ちゃんは、時期が来れば放っておいても立ち上がろうとし始めます。

「立ち上がろう」と意識することなく「立ち上がってしまう」のです。
(もちろん、形態上は様々な生理的プロセスが働いた結果として立ち上がりますが)

立ち上がろうとして転ぶと痛くて泣いたり、膝が伸びきっていなくて尻もちをついたり、
頭が重くてバランスが取れなかったりしますが、転んでも転んでも勝手に立ち上がろうとし続けます。

赤ちゃんには「立ち上がらなくてはならない」という思考はないため、ただ自然に沸き起こってくる意志
とエネルギーに任せているだけで、立っても転んでも緊張することもないし、自分の姿勢を思い煩うこともありません。


本来、人間はこの「自然に沸き起こってくる意志=生の意志」によって立っているものなのです。

この世界の条件下で、生の意志に促され、立っていることが自然だから立っているのです。

ただただ生の意志に従っているとき、すべての生命の進化の過程を経たうえで否応なくここに立っている
だけで悦びが満ちてくるはずなのです。


赤ちゃんにとっては、立ち上がろうとすることそれ自体が悦びなのです。

それはもう、居ても立っても居られず動き出してしまう悦びのダンスです。

生の意志に任せているとき、エネルギーは勝手に沸き起こってきます。



【創造主の意志】

そして完全な直立の獲得は、物理的な視点のシフトと意識の転換を促し、そこではじめて
3次元に在ることを俯瞰できるようになるのです。

言葉にすると陳腐になってしまいますが、ここには「創造主の意志」とでもいうべき力が
働いているとしか言いようがないのです。


ところが自我が芽生え「自我=自分」と思い込みはじめると、生の意志を忘れ「自分が立っている
(この肉体を立たせてやっている)」と勘違いしはじめます。

そして自然なエネルギーを無視し、社会に合わせて自我の目指すバランスを構築しはじめ、
歪みが蓄積し疲労していくのです。


この世界のすべての創造は、生の意志から起こっています。

その意志は、この自分の意図の遥か以前に始まっています。

しかし、本当はその意志そのものも自分自身なのです。


この肉体に同化した私たちは、肉体であるからこそ「立っている」ことそのものから
生の意志を思い出すことができます。

そして無為自然に「立っている」ことが雷に打たれるようにわかったとき、世界の全てがそうであるべくして
つながっていて、各自がその人の個性として様々な傾きで立っていることが必然であることがわかるのです。

ボール



関連記事 ⇒ 「軸に消える」 【1/12 (日) 東京ワーク ~所感と解説~ その1】


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「マトリックスと恩寵の鍵」 【10/30 (土) 東京ワーク ~所感と解説~ その1】     

2021/11/01

緊急事態宣言が明け、10/30(土)東京にて4か月ぶりにワークを開催しました。

説明
今回なぜか女性の参加者さんが多かった!


【全体に気づく】

7時間におよぶ長丁場だと、どうしても疲れが出てきて、休憩時間中に部屋の空間
が「旅館の宴会の徹夜明け(和室なので 笑)」のような空気感になる一幕がありました。

女性原理のマトリックスにおける空間のテンションと密度は、あたかも女性の心理と生理
のように刻々と移り変わっていきます。

その流れとうねりを微細に読み取り、常に空間全体に気づいてあることで、いつの間
にかその場の空気に気絶し場に飲み込まれることがなくなっていきます。

この感覚はタントラ的な意味において、このマトリックスにおける恩寵の鍵なのです。


ちなみに以前、ツイッターでこのように呟いたことがあります。

◆気づきに気づいている人が2人以上いる空間は、ピーンと冴える。
1人以下だと、場の影響下にボーッと流され続ける。

◆気づきに気づいている人は場を超えた全体に気づいているので、
場のエネルギーのうねりに飲み込まれない。
だから、空気がパキっと澄む。
それは法悦ではなく、静謐なエネルギーだ。




【経営者と従業員の気づき】

この話が出た時、ある参加者さんが「(経営している店舗の)従業員が『全体』に気づいて
動くようになるにはどうしたらいいでしょうか?」と質問されました。

まず前提として、時給労働の従業員は基本的に「時給以上の働きをする義務はない」
というスタンスですから、経営者の思惑どおり全体を見て動こうとする人は稀なわけです。

「全体を見る」のは管理者の責任であって、それを経営者が強要すればパワハラと
取られてしまっても仕方ありません。

ただ、もし「この店が好きで、ずっと働きたい」と思うような環境が整っていれば、時給に
関係なく自覚的に全体を見て動く人が出てくるのではないでしょうか。

そのための環境づくりという点では、まず全体を見通せる経営者の自覚的な意識で空間を整え
(管理側の一方的な意識ではなく)従業員との信頼関係を築くことが先決ということになります。
(もちろん、この参加者さんは愛を持って日々そのための多大な努力をされていますが)

先に述べたように、従業員全員が自覚的に動くことは期待できなくても、全体に自覚的な人が
数人いれば空間は整うのです。



【創造の参画者】

これは、現象世界であっても同じことがいえます。

無自覚的・被害者的に「使われてる」意識の人の多くは、この世界において
「報酬以上の働きをする義務はない」というスタンスです。

だから全体を見ることもないし、自分のことだけを考えて一生を終えます。

「全体を見る」のは管理者(組織・制度・国、あるいは上位次元の存在や創造主)の責任なので、
管理に不満がありながらも自覚的に動こうとはしません。


しかし、全体の一部であることの自覚が生まれた「半覚醒者」は、被創造と創造のあいだの
意識で自覚的に動くようになります。

「この愛する世界で働きたい」という意識が生まれ、創造に参画している自覚があるからです。

そこには、この世界と自分自身への信頼があり、他者に対する責任転嫁はありません。

その意識を持った人は、常に全体を自分自身のこととして見ています。


実際、このような意識の人が世界に複数配置され、全体のテンションと密度を保っている
というスピリチュアル的な話を聞いたことがあるかもしれません。

そこまで大きな話ではなくても、少なくともこの私の意識の届く範囲の空間は、
他でもない私自身が気づいてあることで「そうであるべき」テンションが保たれるということです。


「創造の参画」といっても「世界を変えなくては」とか「世界を救わなくては」
などの大上段の強迫観念は必要ありません。

なぜなら、私たちはただ呼吸して在るだけで世界を創造しているからです。

各々がそのままであることによって、世界が保たれているということに
気づくだけでいいのです。


「自覚的に動く」というのはただ、私が私として在ることの一挙手一投足が今まさに
世界の創造に参画しているという強烈な気づきを持って動くということです。

たとえばいま私がイライラして「は~」とため息をつけば、そのとき「ため息としての世界」
がここに生まれ、安心して「ほっ」と一息つけば、そのとき「ほっと寛いだ世界」
がここに生まれるのです。

ため息の世界も、寛ぎの世界も、相対的なものであって良し悪しはないのですが
「半覚醒者」は創造と被創造のあいだにあってそのどちらかが選択されることを見かけ上
の能動感を伴って「目撃」します。


なぜ『半』覚醒者なのかといえば、完全な覚醒には能動感も受動感も創造者も
被創造者も善も悪も存在しないからです。

だから「この世界を愛し参画する創造者」とは常に「半覚醒者」でしかあり得ないのです。

そして「半覚醒者」は人間としてこの世界を愛するからこそ、人間にとっての幸せである
寛ぎと悦びの世界を「その人そのものとして」願うのです。



【真ん中を見る】

ボール


今回のワークでは「真ん中を見る」ことがメインテーマのひとつでした。

その一環でボールを使ったワーク(全員でひとつのボールを各自指一本で支える)を行ったのですが、
ボールを支えていると、全員の無意識の意志によってボールの中心が瞬間瞬間に決定され移動していきます。

このときボールを通して、無意識とはいえ各自の意志の方向性や思惑が伝わってくるのが面白かったです。

(ちなみに以前このワークを行ったときに参加者さんのひとりが「コックリさんみたいですね」と
言われたのですが、コックリさんだと中心は何者かに乗っ取られてますよね 笑)


例えば、前回と違って今回の参加メンバーの場合、なぜか何度もボールが天井方向に
高く上がっていってしまいました。

そこでも各自の思惑が直接伝わってきました。

ある人は無意識にボールが落ちないように意図していたり、ある人は全員の行きたい方向を
加速させていたり、ある人は加速を止めようとしていたりするのが、目をつぶっていても支えている
指一本でダイレクトにわかります。

この世界ではこのように、様々な人の無意識の思惑がその瞬間瞬間の関係性と中心を決定し、
現象が動いていっているのです。


~ボールのワーク 参照記事~ ⇒ 「壁抜けの術」 【3/28(日) 東京ワーク~所感と解説~】

今回、ワークで指一本の壁抜けならぬ「壁押し」をやりました。


指で壁を押したり押し戻されたりをしばらく繰り返していると、
物理的な押し引きの運動の中心に、不動の空白のようなものが
あることを発見します。

指と壁という概念をただそこに「置いて」おき、能動でも受動でも
ない中心と自分の中心を合わせて見続けていくと、相対的な動きに
左右されない何かが、生々しい感触で立ち顕われてくるのです。


集中力が途切れて、ある瞬間が切り取られたときには、そこは指と
壁の物理的な間の中心点なのですが、ひたすら中心を見続けていく
ときには、どこまでいっても座標のない空白です。(空白は空間では
ありません)


ある参加者さん(集中力に恵まれた方)は、見続けていくうちに「妙な
感覚になってくる」と漏らされました。

確かにそれは奇妙な感覚です。


自分がどこにいるかわからなくなって、中心がうねりを伴って次々に迫って
くるからです。

このうねりは一瞬一瞬、断続的な認識のゆらぎが引き起こすノイズであって、
中心自体はゆらぎません。


この一見、単純なことが実はすべてに通底しています。

物質・思考・感情・原子の区別なく、
どこを切り取っても無限にそれがあります。

壁の押し引きは、見かけ上は物理的な力学ですが、
力学を超えたそれが同時にあるのです。


この感覚を見た後に、参加者さん全員でひとつのボールを
人差し指一本で支えあってもらいました。

全員の押し引きがぴったり釣り合ったときには、ボールは
空中でピタッと止まります。


ボールの中心は各自の中心と一致して「そこでしかないところ」
に浮いています。

その時、中心はボールの形状と質量から解放されているのです。


そして、中心に一致している各自もその瞬間、解放されています。

次の瞬間、誰かの動きが連動して、全体とボールの位置が動きますが、
動きながらその中心は途切れなく顕われ続けます。


物理的なボールの中心は移動しますが、
解放されている中心には座標がないので移動しません。

移動しないといっても場所のないどこかに固定されているわけではなく、
無限に立ち顕われつつそこにずっとあり続けているのです。


これはまた、物理的なバランスの釣り合いも超えています。

例えば、誰かが態勢を崩してボールが床に落ちそうになっても、
そこにも中心が在り続けます。

ボールを支えてバランスをとっていたのは、ボールと自分と他者が
消える感覚を知るための仕掛けにすぎず、その感覚がつかめたときには、
物理的にボールに触れているか触れていないかは問題でなくなります。


こうして、映るものすべてがめくるめく中心の顕われとなるのです。




【即時決定される中心と世界】

また「真ん中を見る」ワークの応用で、一畳程度の大きさの布の周囲を全員で持ち、
刻々と全体のバランスが変化するとともに中心が決定されていく様子を感じとっていきました。

布


全員の意志が同じぐらいのレベルで釣り合っていれば、布はわずかに波打つ程度で中心も
それほど移動しません。(完全に釣り合った瞬間は、引っ張っている感覚自体がなくなります)

しばらく目をつぶって中心の決定と移動を感じとっていると、だんだん全体が引き合うゆらぎと
自分の中心が一致して、波に身を任せるような酩酊状態に入ってきます。
(現象世界は実際、布の膜のようにハートと裏表なくつながっています)

私は普段「うねりに気絶しない」ことを重要視していますが、ここではあえてうねりに酔い続ける
ことによって全体と共にある自分を体感していただきました。


例えばここでもし、誰かが全体を無視して突然布を強く引っ張れば「心地よさ」としてあったバランスは
一気に崩れるでしょう。

しかし崩れたら崩れたで、そこには決定された中心が生まれるのです。

そして、強いテンションはそれに見合う強いテンションと引き合い、新たなバランスの世界を生み出します。

それはエゴイスティックで粗雑な引っ張り合いですが、その瞬間の世界と、先の心地いい世界は、
すでに別の世界なのです。

布は途切れなく揺らいでいるように見えますが、中心と関係性は瞬間瞬間に決定され、そのどれもが、
ひとつの世界として独立しているのです。



【全体と局所~優しい世界】

さらに「真ん中を見る」ワークの応用で、全員で輪になって手をつなぎ、全体の引っ張り合いに委ね、
輪が移動していくのに任せました。


輪の形や引っ張り合いのテンションは刻々と変化していき、その都度、中心が決定されていきます。

つないでいる手から伝わってくる意志や方向性に身を任せていると、輪は生き物のように形を変えたり
回転したり交差したりしていきます。


ところが交差しようとしたある瞬間、一人の方の手が捩じれて動けなくなってしまいました。

このとき、それに気づいた全体が連動してその方の捩じれを解くように動くと、再び全体が
スムーズに流れ出しました。

これが、全体と局所の連動し協力しあった、優しい現象世界の縮図なのです。


~その2~に続きます。
⇒ 「3次元の直立と生の意志」 【10/30(土) 東京ワーク ~所感と解説~ その2】


笑い



関連記事 ⇒ 「軸に消える」 【1/12 (日) 東京ワーク ~所感と解説~ その1】


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