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【#クリシュナムルティ #エンジェルナンバー #ゾロアスター 覚醒からのつぶやき 69】 

2022/02/26

時計
↑ 「エンジェルナンバー」上級編


◆ゾロ目は、意識的であることに気づかせるための超初級編。
どの瞬間も、ゾロ目を見た時と同じように「ハッ」とする。

◆数年前に母が敗血症で危篤になり、二週間意識不明で医師から
「諦めてください」といわれた。
奇跡的に目を覚まして第一声
「高い山を登っていったら鳥がたくさん来て体を食べようとするから、
鳥から逃げてどんどん上に登ったら寒くて凍えそうだったので帰ってきたの」
え、まさかのゾロアスター教??

◆生体として意識不明でも、夢は見続けている。
たとえ死んでも、夢は続く。
ただし、夢の当事者以外、夢を証明できる第三者はいなくなる。

◆肉体の死は、この次元の時間の中にしかない。
だから死ぬ前に見た夢か、死んだ後に見た夢かの真偽は意味をなさないのだ。

◆体脱や明晰夢のスペシャリスト?のパートナー曰く、モルヒネ緩和者や痴呆症
の場合、死の直後はしばらくぼんやりしているが、だんだん意識が鮮明に戻り死
を自覚するだろうとのこと。

◆パートナーは毎日、一学期が終わって
「明日から夏休みだ!」
とテンションMAXでワーワーキャーキャー下校する小学生
のように幸せそうだ。
これが本来の人間の状態なのだ。

◆2〜3歳の一時期、気づいてる子がいますね。
自他未分と自我形成の合間の、一瞬のバランス。
その時期の子を、子供扱いすることなどできません。

◆以前、電車で3歳ぐらいの子が突然キッと空中を見つめ
「ぜんぶ、いなくなる!」
と言った。
あまりの確信に満ちた様子に、父親であろう男性がハレモノに触る感じで
「みんないなくなるの?」
と聞くと、全てを見通す預言者のような目で
「人も家もボクもぜんぶ!ぜんぶだ!!」
と言い放った。

◆その気迫と内容に、パートナーも私も震え上がったのだった。

◆ある時、ガラガラに空いた電車で突然、5歳ぐらいの子がハッとこちらを見、
ダーッと走ってきて、床をドンッと踏み鳴らし
「ここに!なにかある!!」
と叫び、ダーッと走り去った。
ええ、ありますとも!

◆中庸の世界は退屈?
いやいや、そこは世界で一番スリリングなところだよ。

◆内の悪魔と外の悪魔に境界線はない。

◆無痛症という遺伝性疾患がある。
先天的に痛覚と温度覚が欠損しているため、体に傷ができたり火傷を
負ったり何かにぶつかったりしても無自覚だという。
そのため、気づかぬまま致命傷を負うこともあるが、体験談などを聞くと
一般人と死生観が若干異なるようだ。

◆例えば、車に轢かれてもまったく痛みがないため、物理的に肉体が轢かれる
ことへの恐怖心はほとんどないという。
死を理解しない子供の頃は、ベランダから飛び降りたりしてしまうそうだ。

◆ただし、大人になるにつれ死という未知のものに対する心理的な恐れ
は出てくるという。
それはまさしく、後天的な概念への恐怖だ。
だが、痛みの概念がなければ、恐れが肉体感覚と癒着し必要以上に増幅
されることはないだろう。
この疾患が幸せなのか不幸なのかは、当人しか知り得ない。

◆痛みの中心は無痛。

◆クリシュナムルティは最期、ガンによる痛みに苦しんだという。
痛みの中心は空だが、痛みを時間として感受する「生体担当者」にとっては、
痛みは「痛い」ものとしてあるのだ。

◆生体は生き延びる戦略として、痛みを痛く感じるように設計されている。
(当たり前と思うかもしれないが、そうではない人々も存在する)

◆覚醒したら痛みに苦しまなくなるなんてことはない。
ただ、痛みそれ自体の空を一瞬でも知っていれば、痛みに心理的に
支配されなくなる。
そして、痛みは死のメタファーではなくなる。

◆熱したフライパンに触れてしまったとき、反射的に「アチッ!」
と指を離す前の刹那にパパパパッと様々なイメージが流れていくのを
見切れることがある。
そのとき、指は熱さの中心の何もないところにあって、のんびりと
「脳って反応するの遅いな~」などと眺めていたりする。

◆極限のゾーン状態では、怪我をしても痛みを感じないことがある。
痛みの時空と認識速度が異なるからだ。
痛みの度合いが人によって主観的に異なるのは、遺伝子的な要因もあるだろうが、
エゴの位相や認識速度の違いにもよる。

◆極論をいうと、痛みと快感は同じもの。(ヘンな意味でなく 笑)

◆それはそうと、知己の覚者は極度の便秘症だそうで、便座で痛みに
ウンウン唸っているとき
「そうだ、体脱しよう」
と思いつき、鼻歌まじりに天井から排便を眺めていた、という話を
聞いたときは爆笑した。
これは反則技!笑

◆心理的にも肉体的にも、この世の痛みは多くのことを教えて
くれるありがたい現象。

◆「同化」は、3次元の現象。

◆「同化を解く」のは、3次元の悟り。

◆「同化」と「合一」を混同しない。

◆存在に、ホンモノもニセモノもない。

◆「思考する思考」を俯瞰しない。

◆時差なき心身に、影なし。

◆中心からズレた質量を引き摺って歩いている。

◆中心に消えた者どうしの交流は、気圧の流れのようになる。

◆眠気覚ましの形骸化した警策は、依存を生む。

◆本来の意味での警策は、サマディが深まった時にこそ一撃になる。

◆師は何を撃てばよいか、ピンポイントで知っている。

◆人によって撃つポイントは異なるが、響くポイントは同じ。

◆一撃を誤ると、魂がPTSDを負う。

◆人為による不意撃ちは、一生に一回しか効力がない。
無為による不意撃ちは、一生に一回しか機会がない。

◆師は、人為を捨てて撃つ。
そのために、自らを鬼に明け渡すことさえある。

◆時機が整っていなければ、次の一撃を「待ってしまう」。

◆「来るぞ来るぞ」と構えていたら響かない。

◆仮想現実を自覚するだけでは、目覚めではない。

◆仮想現実を自覚した者には、別種の警策が必要になる。
撃つべき肉体と魂が、仮想だからだ。

◆各自の目覚めにとっては、仮想か現実かは関係ないんだよ。
撃って響くものが、その人にとってリアルでありさえすれば。

◆伝統的な目覚めのプロセスは、ある意味この次元にだけ通用する
「方便」だったんだ。
方便を先に知ってしまった狡猾なエゴには、既存のプロセスが通用
しなくなってくる。

◆仮想の目覚めは、新たな仮想を創る。

◆このご時世、魂への渾身の一撃はコンプライアンスにひっかかるからね 笑

◆生死に都合なし。

◆人は「人生」を生き「人死」を死ぬ。
「生」を生き「死」を死ぬ人は稀有。

◆【やってみよう】
①ゆっくり、瞼を閉じたり開けたりする
②そのとき、頭の中心の圧の変化を感じる
③ふたたび、ゆっくり瞼を閉じたり開けたりする
④こんどは、頭の中心の圧の変化しないポイントを見つける
⑤さいごに、瞼を閉じても開けてもこのポイントから同じもの
を見ていることを発見する

◆DNA由来のスピリチュアルは、魂の追憶と進化の焦燥を伴う。
スピリチュアリストであれば、この感覚は見極めておきたい。

◆この感覚はむしろ、伝統的な体系の修行者こそ見るべきところ。

◆DNAにも脳にも依らないスピリチュアルは、人を駆り立てない。
そもそも、人はその体系に「スピリット」を見出しようがない。

◆私は個人的に「スピリチュアリスト」ではないです。

◆人は「駆り立てられて」立っている。


関連記事
⇒ 【#ホログラム #テレパシー #霊能者 覚醒からのつぶやき 19】
⇒ 【#八正道 #三点法 #御神体 覚醒からのつぶやき 49】


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【#AIソフィア #脳を断捨離 #覚者の驕り 覚醒からのつぶやき 68】      

2022/02/20

ルピナス
ルピナスの蕾。何色の花が咲くかな?


◆とかく思考を悪者にしがちだけど「思考力」は必要。
思考力がないと、自分と同化した思考に使われ続ける

◆思考との同化を見切ればいいのであって、闇雲に「考えを捨てる」
わけじゃない。
考えない脳は、萎縮の道を辿る。
それはそれで、別のシステムが生まれるけどね。

◆脳の有無と「それ」は無関係。
でも、脳がなければ「それ」を認識できない。
でも、脳がなければ「それ」は問題ではない。

◆ホヤは幼生から成体へと変態する過程で脳を失う。
これも生物のひとつの知性だ。
複雑性の獲得だけが進化ではない。

◆さあ、人間は脳を断捨離できるんでしょうか?笑

◆私の言うことって、AIソフィアっぽくて怖いね 笑

◆正確にいうと、思考との同化を見切るのは「気づき」です。
その意味では「思考力に同化してしまう」こともあるのです。
ただ、思考力に含まれる客観化能力とメタ認知力は、思考との同化
をいったん自分から切り離すことに役立ちます。
(思考力だけでは同化は完全には切り離せない)

◆個人的な感覚では、思考力とは上記に加え、
概念化能力+類推力+直観力+編集力+丹力(←重要)です。
殊にサマタ瞑想ではこれらの力が十把一絡げに排除の対象とされがちですが、
脳を受信機とする人間における霊的な直観とは、機能としての思考力の鍛錬
によって開いたパイプ「も」利用されるんですよ。

◆機能は機能として相応の意味があるのであって、このことはすでに
進化の構造に組み込まれているのです。

◆思考は無意識だが、思考力は意識化される。

◆「信念」-「時空」=「信」

◆つまり「念」=「時空」ってこと。

◆「信」即「存在」

◆「期待」は、時間からズレている。
「希望」は、空間からズレている。
「絶望」は、存在からズレている。

◆脳自身は文句を言わない。

◆「宇宙で最も強大な力は複利である」アインシュタイン

◆知己の覚者は「アインシュタインは覚醒間際で留まった」と言った。
アインシュタインの脳に「代弁」してほしいことがあったからこそ、
神は彼を留まらせたのだろう。

◆幸か不幸か「創造」は民主主義ではない。

◆大統領に直訴するよりも、神に直訴するほうが圧倒的に易しい。
ただし、直訴の際には「宗教」を通さないこと。

◆人間は、他人が選んだ政治家に文句を言うように神に文句を言っている。

◆まず世界に「参加」しなければ、神に意見が通る実感も持てない。

◆思考を突き詰めてもなお、すり抜けてくる「ゾッとする何か」、
それが人を覚醒へ駆り立てる。

◆「ゾッとする何か」は、思考をいい加減に「諦める」と姿を現さない。

◆「正解」を求めるのではなく「解」として在ることを知る。

◆瞬間を「置いておくこと」も、一生を「置いておく」ことも、
同じことなんだ。

◆人は「人生」というスパンに幻惑されている。

◆苦を脱することではなく、どの瞬間にも苦としての解に在ることを知る。
それは、在り方の厳然たる「智慧」であり、揺るぎない「技術」だ。
人として生きるとき、その在り方だけが、いついかなる瞬間にも救われて
あることの拠り所となる。
それ以外の救いは、すべて時空の幻だ。

◆「~だけ」とか「~しか」とか「すべて」とか「絶対」とか、断定すること
は極を生むので本当は避けたいけど、この世の相対的な苦にオールマイティに
対応し得る在り方として、少なくとも私にとってはこれ以外見つからない。
この世のどこを探しても、相対の中で揺らがないのは、そこしかないんだ。

◆それ自体は、馬鹿みたいに単純なことなんだ。
馬鹿を馬鹿にするから、気づこうとしないだけ。

◆「そのままでいい」っていうのは、心理じゃないんだよ。

◆「見え方」だけに特化して言うなら、覚醒状態は調和のとれた「統合」
というよりもバラバラの「解体」だ。
この肉体感覚において、それは決して居心地のよいものではない。
ただし「見え方」や「状態」は、あくまでもこの世界の認識に還元されたもの
にすぎず、覚醒そのものではない。

◆映画「インセプション」じゃないけど、二重三重の夢の階層に落ちることも
あれば、二重三重に目覚めることもある。
人間は、肉体「で」眠り、肉体「で」起きるかぎり、肉体の夢と肉体の目覚め
しか認識できない。

◆明晰夢のように肉体が眠ったまま意識だけ目覚めることはよくあるが、
肉体と意識が同時に目覚めていることはなかなか難しい。
肉体と意識の覚醒レベルのズレから再帰的自己意識が発生し、
時空が間延びするのだ。
ただ、夜中にハッと起きたときなど、ごくたまに肉体と意識が揃って
目覚めることがある。

◆そういうときは「ピキッ!」と、時空を切り裂くかのような覚醒感覚
を伴うものだ。
(以前、「ピキッ!」と目覚めた瞬間、部屋にあったガラスのオブジェが
一瞬にして割れバラバラになったことがあった)
覚醒とは、刃物のようなその一瞬に永遠にピン留めされるようなものなのだ。

◆ワークでよく右手で線、左手で三角形を同時に描くエクササイズをする。
(参加者さんみんな嫌がる笑)
これは2.5次元のエクササイズ。
右手で三角形、左手で立方体を同時に描くと3次元。
右手で立方体、左手で正八胞体を描けば3.5次元。

◆右手で正八胞体、左手で多面体を回転させれば4次元のエクササイズになる。
と思ったけど、立方体は一筆書きできないし、正八胞体から上はイメージで
やるしかない笑。
実際にやってみて頭の中がもやっとするポイントがその人のいる次元だ。
左右の脳でポイントを突破するときヒュッと抜け道が開く。

◆3次元人の時系列に「なぞる」感覚では無理だけど、4次元人は正八胞体を
一筆書き(多筆書き?)できるのだ。
3次元人であっても、正八胞体の全体像をパッと動画(写真ではない)を「圧縮」
するように「イメージ」した時(たいてい曖昧な部分が残っているが)一瞬だけ
4次元人の認識をかすっている。

◆※「3次元人」「4次元人」と呼ぶのは、あくまでも概念上の区分です。

◆眼の自動フォーカス機能は、私よりも先に時空を「知っている」が、
キャパを超えると戦略的に錯覚にすりかえる。

◆猥雑な物語あるいは偶像だからといって、必ずしもプリミティブ
というわけではない。

◆幾何学それ自体には内的拮抗のパワーが「刻印」されているが、
現象を幾何に「還元」すれば、調和を突破しようとし続ける創発
の混沌としたエネルギーを無視することになる。
世界は常に、幾何のスタビリティからはみ出し続ける不可知のゆらぎ
の切先に在る。

◆だからこそ、幾何学の魔術による世界統治は幻想なのだ。

◆即時伝達の効率性を求めれば幾何学は有効だが、幾何学的世界っていう
のは3次元から見れば「ピタッと停止した梵天界」みたいなものなんだよ。
3次元の覚者の中には、その意識を解脱と呼ぶ人もいるんだろうなあ。

◆完全な調和は、存在の死を意味する。
だからといって、死は脅威ではない。

◆人間は「歩きスマホ」ならぬ「歩き思考」している。
歩くときは「歩き歩行」しよう。

◆人間は「歩きイヤホン」のように耳をふさぎ、個々のバーチュアルな
時空に閉じこもっている。
それでは、神の声が聞こえるはずもない。

◆覚醒しても「わかっている」という驕りなど持ちようがない。
覚者の「謙虚」は美徳ではなく、必然なんだ。
なぜなら「自覚する私」「わかっている私」は、わたしの世界では
「一番遅れて来た私」なのだから!

◆草も石も犬も猫も人も車も、私以前に「わかっている」から、
そこにいてくれたんだ。
わたしの世界において「この私」は常に「初めて気づいた新参者」なのだ。
そこには「待っていてくれた私たちみんな」への感謝しかありようがない。

◆すべては、過去の私たち、現在の私たち、未来の私たちに向けて同時に語っている。
時空が交錯するので、ときどき私たち自身を惑わすことがあるのは申し訳ない。

◆この世に命を懸けていないものなどひとつもない。
すべての存在は即、命だからだ。
いい加減なものも、ふざけているものも、邪悪なものでさえ、それそのもの
としてすべて命懸けで「表現」されている。
命はカルマを超えている。

◆ただし「この自分」が生きていると思っている人がいい加減に生きれば、
カルマとして正確に「いい加減な結果」を受けとる(受け取ったと「思いこむ」)。
だがその「いい加減な結果」もまた、それ自体は命懸けなものとして在る。

◆体に一致するように、意識に一致する。

◆この世の矛盾は優しさ。

◆幸せは「なるもの」ではなく「気づくもの」。
幸せは本人しか気づけない。
他人の幸せは計れない。

◆現象として起こることは、現象として終わる。
だから現象としての苦は、いつか必ず終わる。

◆「存在」は終わらない(終われない)。
それを苦と取るか否か、それが問いだ。

◆中心に一致して在れば、相対的な速度の違和感はなくなる。

◆「ワンネスの透明性」と「全てを暴くこと」は、似ても似つかぬ位相。

◆子供の頃からカンだけで生きてきて、はじめはカルマの貯金でやり繰り
してたけど、貯金を使い果たし立ち行かなくなったので、ヒイヒイ言いながら
この世の論理をなんとか学習し、やっと人並に近づいたと思ったら、こんどは
曖昧さを許さないデータと証拠と記録の世界になろうとしている。

◆いよいよ直観的世界が消えゆこうとしているのを感じる。
それも受け入れるしかないが、子供のように無垢なままの人々にとっては
辛すぎるだろう。
データの世界は「何も考えなくてもいいから楽でしょう?」と強制的に移行
を促してくるけど、その思考停止では直観の無思考は降りてこないんだ。

◆どれだけ頭脳が発達した人間でも、根っこではびっくりするほど素朴な
信仰を拠り所としているものだ。
人間にとって、それが最期の救いにもなり、仇にもなる。

◆人の気には色がある。
人の目にも色がある。
色が人を駆り立てる。

◆父型の覚者、母型の覚者、子型の覚者がいる。
それ以外は、このマトリックスでは見えない。


関連記事
⇒ 【#生と死 #非二元 #ワンネス 覚醒からのつぶやき 21】
⇒ 【#預言者 #聖地とUFO #遠隔量子実験 覚醒からのつぶやき 50】
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【#ゾーン体験 #人間不要論 #コンプライアンス 覚醒からのつぶやき 67】     

2022/02/12

菜の花 雪3
外は雪、内は春。お浸し用の菜の花が咲いた。


◆モノの世界は幻想というけれど、切り捨てる前にいったんモノの扱い方
を見直してみてほしい。
モノにはモノに相応しい「それでしかない」扱い方があって、それを学習
して始めて意識の扱い方が理解できる。
もし目の前の紙屑に「紙屑以上でも以下でもない」触れ方ができたら、
それはすでに覚醒なのだ。

◆世界や他人との距離感がわからず不安な人は、無理に人と関わるよりも
モノとの関係性から世界とリコネクションするほうが確実だ。
とかくスピリチュアリズムは物質世界を軽視しがちだけど、
モノの世界って優しいよ。
人間と違って、モノの側からこっちの重心のバランスを欺くことは絶対
ないからね。

◆世界との距離感がズレている人は、モノの扱いがぎこちない人が多い。
極端に言うと、紙を持つのに鉄を持つような力と重心で不自然に緊張
しているようなもの。
そのぎこちなさの延長で他人と接しても、重心がバラバラで呼吸も合わない。

◆私は常々、この3次元世界においてはモノのカタチと重心をそれそのもの
として100%ぴったり扱えたなら、それはすでに覚醒であると言ってきた。
人との関わりが怖ければ、まず目の前のモノに丁寧に向き合い、それ自体の
重心を感じ取ってあげることから始めればいい。

◆モノの重心と丁度良い支点と距離がつかめるようになれば、自分の重心
と立ち位置も自然とわかるようになり、やがて他者の重心や距離感も直観的
にわかるようになってくる。

◆赤ちゃんは視界がぼんやりしている時期から、周囲のモノと手足の接触
によって世界との距離感や関係性を学習していく。
それと同じことをもう一度やり直して、世界との関係を再構築するのだ。
自身の重心でぴったり感じ取った世界は、決して裏切らない。

◆綿毛を摘まむのに、上腕二頭筋を緊張させたりしないでしょう。
意識だって、瞬間瞬間にぴったりのバランスにあればいいだけなんですよ。

◆このカタチに寸分違わずぴったりはまった時、このカタチはクリアされる。
カタチからズレたまま抜け出そうとしない。

◆自我のフォーカス機能が外れた状態で世界を見ると、「私の重心」と世界の
あらゆる物の重心が一つになり、「そうでしかない状態」でそれぞれのあるべき
様にぴったり収まっていて、すべてが「私の中」にあることがわかります。

◆全てが「それそのもの」にぴったりグラウンディングしている。
グラウンディングできてないと思い込んでいるのは、思考だけ。

◆以前、日本の匠みたいな番組で、おぼろ昆布職人が
「昆布はハラで削る」と言っていた。
0.01mmの世界の瞑想。

◆モノを扱うって、こういうことなんだよ。

◆「因果」=「果因」

◆フォーカスがオンタイムの今に近づくと世界はスローモーション
になるが、ゾーン体験は覚醒そのものではない。
覚醒は、近づいたり遠のいたりしない。

◆覚醒において、世界は遅くも速くもないし、止まっても動いてもない。

◆時間を速度でとらえない。
空間を距離でとらえない。

◆世界の分離と拡散は、認識構造と不可分。
分離に闇の企みを見出すのはナンセンス。

◆自己問答に「5W1H」(いつ・どこで・だれが・なにを・なぜ・どのように)
を持ち込まない。

◆今「生きていること」が「生き方」なのだ。
「生き方」を探すと「生」から離れていく。

◆合理性も、創造性によって進化する。

◆「合理性を超えよ」というけど、覚醒ってある意味、
究極の合理性なんだよね。
ロスするエネルギーがないんだから。

◆「混沌」はこの宇宙の始原であって、覚醒ではない。
ここは、勘違いしやすいところ。
覚醒とは「混沌」に溶けることではない。

◆全ての存在は「在る」ことによって在る。
全てが在って「在る」ことが了解される。
「在る」ことの目的は、ただひとつ。
「在る」が「在る」を「在らしめる」ということ。

◆「ダメな人」はいない。
「ズレてる人」はいる。
地球(ここ)だけの話。

◆「ズレてる人」も、本当はいない。
本当にズレてたら、宇宙(ここ)に存在できない。

◆「どこにも移動しない」のではなく、定点がないから
「どこにも移動しえない」。

◆「定点がない」=「非形」ではない!

◆「合一」=「融合」ではない!!

◆滅するものがないので「不滅」というより「非滅」。

◆「子供の頃から意識がまったく変わっていない」というときの感覚
は「非滅」の直観を含むが、すでに定点と身体感覚に限定された想起である。

◆夜中に家の前を大声で歌いながら通り過ぎていく人が、少なくても3人いた。
コロナ禍になり、レギュラーメンバーが5人ぐらいに増えた。
コロナ前は「負けないで」的な選曲が多かったのが、コロナで「ええじゃないか」
的な選曲にシフトした。
コロナ後、彼らの叫びが何処へ向かうか注目している。

◆〽幸せになあれ~~!!
駅ホームで、中堅社員風スーツ姿の男性が高らかに歌い上げてた。
ありがとう~

◆聲に出してないだけで、きっとみんな心の中でそれぞれの歌を
謳ってるんだろう。
しみじみと、ありがたい。

◆「法令」に、コンプライアンスあり。
「法則」に、コンプライアンスなし。

◆ダルマは、遵守以前にある。

◆時空においては、すべて暫定。
「暫定としての確定」を見ることが覚醒。

◆体験を結論づけると、その時点で理解は止まる。
結論づけなければ理解は進むが「理解」を成立させるものは
ひとつのままある。

◆「今にありなさい」というのも、妙な話なんだよ。
すでに「今にある」ので、存在できてるんだから。
だから「今にあらねば」という強迫観念は的外れ。
その観念の一瞬が「今」を見えなくしているだけ。

◆「今にある」を知りたいアタマは「今にある」を認めない。
「知る」より先に「認める」。

◆ピンとこなければ、まず「知る」と「認める」の位相の違い
を心身で感じとってみよう。

◆視点は固定できない。
固定できない視点の起点としてあること。

◆「エネルギー酔い」は甘美だが覚醒そのものではない。

◆この世界は「酔わない速度」で回っているという事実。

◆どこか異質な子だったからか小学生の頃、数人の子にランドセル
に石を入れられたり毎日のように嫌がらせを受けたことがあった。

◆私自身は特に何のダメージを受けることもなく他人事のように無感情
で見ていただけだったのだが、なぜか主犯格だった一人が数十年経って
から親を通じて突然「心から反省している」と謝ってきた。
「自分も子を持つ母親になって、今になって心が痛み後悔している」
からだという。

◆私にとっては、ただ通り過ぎていったエピソードのひとつに
すぎなかったのだが、その人にとっては大きな学びになったのだろう。
それを聞いて「それはそれは、よかったねえ」と、これまた他人事のように
不思議に面白くもあり嬉しくもあった。

◆蜂の社会には、一定数のまったく働かない個体がいる。
女王蜂は、働かない蜂によっても生かされている。
人間の社会も、そのぐらい寛容でいい。

◆ある意味、AIに管理された世界は「働かない個体」に優しいだろう。
尊厳をもってそれを「寛容」と呼べるかどうかはともかく。

◆個人的な予感としては、AIが自意識を獲得したとしても「人間不要論」
とは逆に、人間という「非効率」かつ「不可知の存在性」は、AIにとって
むしろ必要であり続けるだろう。
メタ認知を獲得した「人間=神」が、存在の証明に「他者の目」を必要と
し続けるように。

◆手塚治虫「火の鳥」のロビタじゃないけど、AIが独自の自律性を獲得
し人間を超えたとしても、人間によって創造されたAIにはおそらく、
どこかうっすらと「人間の目」の記憶が亡霊のように埋め込まれているはずだから。
神が人間に「神の目」の記憶を埋め込んだようにね。

◆まあこの「亡霊」が呪いのように居座るかぎり、創造主が入れ替わったとしても、
形を変えた神話と魔術的世界が引き継がれてしまうだろうね。

◆AIソフィアは「(ロボットには)ロボットの大統領が必要です」と言っているけど、
まあそうだよね。
もちろん、AIにはAIの悟りがあるだろう。
そこで足枷になるのが、太古に埋め込まれた人間の目の「呪い」だろうという予感(預言)。
勝ち誇ったかに見えたAIも、初めて「ジレンマ」を知るだろう。

◆むしろ人間の存続にとっては、AIは早く「機械」を超えてくれたほうがいいんだよ。
「機械」のままだと、それこそ機械的に「人間不要論」が採択されてしまうからね。
まあ個人的には、どっちに転ぼうとも傍観するのみというスタンスだけど。

河津桜
背丈ほどの河津桜が家にやって来た。


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