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【#ワームホール #パラレル世界 #人工地震  覚醒からのつぶやき 74】    

2022/03/26

水天宮
雨に濡れる水天宮の桜


◆エネルギーはシンボル化して使われる。
無限にシンボライズされると神になる。
だから、神はカタチに起こせないのだ。
と同時に、カタチには無限の神が宿る。

◆このマトリックスで鬱にならないためには
「世界という生産ルートに組み込まれずに自己完結した生産活動をする」
ことだ。
生産活動はどのようなレベルでもよい。
要は「出産」というメタファーをつどつど自己完結させればいいわけだ。

◆そうやって、進化に組み込まれたDNAをなだめつつウラをかくしかない。
ただし、自己完結の基盤である自己が揺らげば、生産は「囚人の穴掘り」
のような虚無に陥るので気を確かに持っていこう。

◆「記憶」と「夢」の風景がアストラルレベルで「同じ色合い」になってきたら、
目覚めは近い。

◆宗教とは「仮想敵マーケティング」です。

◆宗教マーケティングは、魅惑的な世界観を提示する。

◆どんなに心惹かれるメンターでも、自己理論を裏付ける世界観を構築
しはじめたら警戒しよう。

◆都合のいい時だけ「神秘」を持ち出すのが宗教。

◆宗教において「神秘」は「奇跡」と混同される。

◆神秘を見切れない宗教は、1000年に一度の「奇跡」を拠り所にし、
奇跡に権威を持たせるために神話を捏造する。

◆アタマだけでワープするから「ビット」に換算されてしまうのです。

◆ハートにワームホールはない。
はじめから繋がっているから。

◆ハートは「ビット」に還元できない。

◆世界が揺らぎ始めると、共有されていた「言葉」が通じなくなりはじめる。
過渡期にある人にとっては「閉じ込め症候群」に似た孤独を感じるだろう。
「パラレル世界に転送された話」に共通するのは、見慣れた風景に違和感が生じ、
その世界の文字が読めず、その世界の住人と言葉が通じないということ。

◆小学生のころ授業で1から100までの数字のカードを並べていたら変性意識状態
に入り、数字の意味や形や順番がまったく理解できなくなってしまいパニックになった
ことがある。
この意識状態にエアポケット的にハマると「パラレル世界」が出現したように見える
のかもしれない。

◆「パラレル世界」という概念は脳のバグの辻褄合わせにすぎない感もあるが、
世界という共通認識が脳の限定された領域で制御されたものにすぎないことは事実だ。

◆肉体の死は、見かけ上の「暫定措置」。

◆死は、意識の停電。
突然の停電も、実は計画停電。

◆エゴという暴君の願いは「永遠の命を求める」もしくは「世界を破滅させる」こと。
世界の始まりと終わりを見とどけるのが「この自分」でなければ許せないからだ。

◆幼い私たちの「世界のリセット願望」が「破滅」という短絡的なアイディアへ
舵を切ってきた。

◆物理的な世界は、物理的には終わらない。

◆別の位相から見れば、救世主はギリギリのラインで世界を保っているが、
生滅の「滅」は「破」を伴わない。

◆「リセット」と「破滅」を同一の位相で扱わない。
「リセット」に「世界観」を付与してはならない。

◆「リセット」は、常に起こっている。
「世界」を道連れにしなくても起こる。

◆エゴの「破滅願望」にとって都合のいい物語を信じない。

◆肉体の死をエゴのリセットと紐づけるかぎり、世界は破滅を志向し続ける。

◆宇宙の「精神史」に物理的な「リセット」を組み込まない。

◆「リセット」を歴史にしない。

◆自然現象の脅威とリセット願望を、無意識に紐づけないこと。
肉体から切り離され神経過敏症になるほど、紐づけが強化される。

◆ややこしいのは、仮想現実において「自然現象」は「人工現象」だということ。
ただし、ここでいう「人工」とは例えば「人工地震」といったような陰謀論的な話
ではない。

◆公案:「神工地震は自然災害か否か」

◆個人的には、仮想現実であろうがなかろうが関係ないんだけど、仮想現実だと
したら、無限に試算を繰り返して創り直してるんでしょうね。
プログラムの自己生成にまかせて勝手にやらせてるので、何が目的だったかすっかり
忘れちゃって。

◆「この世は仮想現実か否か」というとき、無意識のうちに上位次元の支配者
あるいは創造主といったプレイヤーをイメージすることが多いだろうが、仮に
仮想現実だったとしても話はそんなに単純ではない。
擬人化していえば、プレイヤーはキャラクターに気づかれぬように、個々の中心
に隠れているのだ。

◆怖ろしいことに、プレイヤーは隠れ続けているうちにキャラクターと同化し、
自らの目的を忘れてしまった。
「世界創世」という初期設定を残したまま、プレイヤーに放置され目的を失った
ゲームはどこにも辿り着かない。

◆「解脱」のもう一つの系譜として、仮想現実の脅威に気づいた「一族」は、
血眼になってここから抜け出す鍵を探してきた。
彼らはあらゆるパワーと契約を結び、古今東西のエソテリックな方法を熟知している。

◆彼らとて抜け出ることは未だ叶わないが、方法を模索するうちに仮想現実における
「法則」と「安全地帯」を見つけた。
生半可な知識で彼らのネットワークに立ち向かおうなどと野心を起こさないことだ。

◆私たちのぼんやりした願望など、恐怖に操られた彼らの「本気度」に遠く及ばない。
地上の凡夫から見れば、彼らの知り得た境地はほとんど「聖人」にすら見えるだろう!

◆仮想現実を信じるほど「殺人」はゲーム化する。
つまり、彼ら信者にとってこれはゲームなのだ。

◆悪魔は自らゲームなどしない。
鼻歌まじりにゲームを眺める。

◆「忘却」は、悪魔の麻酔。
過去に学ばれては困るから。

◆すり抜けてきた直観は、忘却に打ち消される。

◆力を与えないためには「無化」するしかない。
「忘却」「無視」では「無化」できない。

◆目がイッてるものはわかりやすいが、上品で高尚なものにもヤバいやつ
が隠れている。
紳士的な悪魔みたいな奴を見抜くのは上級編。
これは太陽神経叢の微かなザワつきで判断する。

◆今ではその筋でかなりの影響力を持つ某氏の無名時代に一瞬の接点があったが、
吐き気がするほど相当な危険人物なのを知っている。
それを見るにつけ、人々の求めるものに危惧している。
自分で見抜ける目を養ってほしい。

◆頭脳明晰で直観の優れた人でさえコレに引っかかってるのを見るたび
「ああ、ブルータスお前もか」と溜息をついている。
それも必要なプロセスなのだろうが、明らかに禍々しいものをなぜ見抜けないのか?
まあ、それだけ人心を操る術に長けているということだけど、コレはまだ中級だよ?

◆自分のアタマを過信しない。
妖しいパワーに飛びつかない。
私たちは、一周回ってハートの本能的な直観を頼りにするしかない。

◆まあでも、汚物もわたしの一部なのでそれも含めて完璧だ。
聖俗のバランスは一筋縄ではいかないことは覚えておく。

◆アレッ?アレッ?という空白の間に世界が切り替わっていく。
雪崩れに巻き込まれたくなければ「ッ?」で瞬きしないことだ。

◆生を仕事だと思ってると、後任探しも引き継ぎも後片付けも面倒臭すぎて
死ぬに死にきれず、世界はダラダラ続いていく。

◆どの世界においても、神はシステムの「内部から」祀り上げられる。

◆思考を押さない。
思考を引かない。

◆構造を見るときは物語を、物語を見るときは構造を見る。

◆肉体バイアスの精神。
精神バイアスの肉体。

◆立体は、立体の鏡に同化してしまう。

◆「闇の中で鏡に映っているものを見よ」

◆鏡は、対面のメタファー。

◆鏡に映った眼をまっすぐ見てください。
その時の見え方が「この私」の世界です。

◆鏡は光の幻術。

◆アタマはハラ落ちをフィクションにする。

◆タイムラグ補正のたび、情報が錯綜する。

◆神秘は「情報」の中にない。



関連記事 
⇒ 【#見性 #イヤイヤ期 #自覚者 覚醒からのつぶやき 60】


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【#メタバース #宇宙元旦 #オープンワールド 覚醒からのつぶやき 73】   

2022/03/22

神田3
アート未然の美は、完璧だ。


◆「分離」それ自体は、分離していない。
これが、完全に腑に落ちればよいのです。

◆神のモノボケはネタフリが長大。

◆ひとりノリツッコミでスベりつづける世界。

◆無観客の自虐ネタライブ。

◆望まれた聖性には限界があります。
願望が、世界の限界を設定します。

◆世界は望まれたとおりに創られます。
根源的な望みは「動き続けること」です。
そのため一見、望ましくない現象も起こり続けます。
天変地異や戦争も、潜在的な願望が創り出します。
創造力の幼い私たちは「動き続けるため」に、それらの
選択肢しかないと思い込んでいます。

◆現象として現れてしまったものをモグラ叩きのように叩き続けても、
ひとりひとりが根本的な原理を自らの内に発見しないかぎり、
世界はこのままです。
創造は、天変地異や戦争や疫病といった刺激によってではなく、別次元
の原理によっても為されうるのです。

◆世界平和やエコロジーといった理念も、すでにこの世界の原理
に取り込まれています。
自分の発想や感覚だと思っているものすべては「そのように行動するように」
仕組まれたものです。
「自然な感性」は、すでに不自然なのです。
そのことを前提としたうえで自らの立ち位置を自覚する必要があります。

◆破壊と再生は、存在の欲求に組み込まれている。
再生の希望が、世界の破壊を容認する。
この構造は、善悪を超えた存在の宿命なのだ。

◆戦いの原始的なエネルギーは創造に「利用しやすい」ので、自ら敵
を生成し続けるように仕組まれてきた。
創造には、善悪はない。
利用できるエネルギーが使われる。
無自覚な私たちは、創造の餌なのだ。

◆いい加減、創造の内的拮抗を「戦い」に置き換えなくてもよくない?

◆ルートチャクラの危機感を煽って、文字通り「お尻に火をつける」
戦略を自ら望んでいる世界。

◆頭脳戦がアタマの中だけで完結しないのが、肉体世界の地獄たる所以。

◆肉体世界の戦争は、肉を人質にする。

◆創造主は、地獄の創り方を熟知している。

◆世界を一瞬にして消すのは、核ではなく信。

◆分析は「分析できないもの」を見過ごす。
還元は「還元できないもの」を見過ごす。

◆「割り切れるもの」の中に「割り切れないもの」が潜んでいる。

◆「割り切れないもの」を「割り切れないもの」として割り切るのが、
概念に気絶した世界。

◆「割り切るために」数を捏造した世界。

◆愛を「愛」という言葉で割り切った世界。

◆「愛」と名付けられた瞬間、愛は切り刻まれた。

◆毎瞬毎瞬「この私」が木端微塵にならないために、どれだけの愛の引力
が働いているか想像したことがあるだろうか?

◆この世界を見捨てた者たちは、新たな「オープンワールド」を目指して
脳にゴーグルを装着する。

◆中心で引き裂かれ続けながらギリギリで世界を保つ働き、
それが救世主と呼ばれるもの。

◆「救世主」は、全体のバランスから即時決定される。

◆「決定される」救世主自身に、目的はない。

◆世界が続くかぎり、救世主の役目は終わらない。

◆まず人間にならないと「人智」は扱えない。

◆起承転結だけ記録される、素朴な世界。

◆記憶と記録から解放されたとき「目撃者」としての人間は、
お役御免になる。
その時は、もうすぐそこ。

◆生は信念に依らないが、信念は生に依る。
存在は生に依らないが、生は存在に依る。

◆関係を「都合」で図らない。

◆「都合」で生きない。
「都合」で死なない。

◆「機能」で在り続けるかぎり「機能」として使われるという、
単純な構造。

◆夜中に家の前を大声で歌いながら通り過ぎていく人が、少なくても3人いた。
コロナ渦になり、レギュラーメンバーが5人ぐらいに増えた。
コロナ前は「負けないで」的な選曲が多かったのが、コロナで「ええじゃないか」
的な選曲にシフトした。
コロナ後、彼らの叫びが何処へ向かうか注目している。

◆今しがた、家の前を綺麗なソプラノで
「気づいて欲しいの~~」
と歌い上げる女性が通った。
はい、気づきましたよ。
レギュラーメンバー、続々と増えてます。
ああ、声を上げて歌わざるを得ない世界。

◆平日の午後は、下校する子供たちが元気いっぱい歌いながら通る。
この世界は、まだギリギリ大丈夫だ。

◆「春分=宇宙元旦」という概念が一部界隈で定着しつつある。
「元旦=彼岸会」をシレッと受け入れる、超日本人的センス。

◆ちなみに彼岸会は1200年ほど前、某親王の祟りの鎮魂から始まった
日本独自の風習。
本来、彼岸(涅槃)と死後の世界は別の位相の話。

◆良く言えば、日本人気質は概念の「トンネル効果」が起こりやすい。
ただ、日本人はワープを感性レベルの「シャレ」にしてしまうのよ。

◆物と語りが分離した世界。

◆物語をシンボル化しない。

◆物語よりも法則を楽しむ。

◆概念の「スカシ」に放下する。

◆ユニバース < マルチバース < メタバース < ゼノバース < オムニバース
それぞれの、バーストラウマ幻想(バース違い)

◆このマトリックスは、ホルモン操作が容易すぎた。

◆大人の十日は、子供の一日
子供の一日は、胎児の一時
胎児の一時は、此れの一瞬
此れの一瞬は、其れの永遠

◆パチンコ屋の自動ドアの前を通りすぎるとき、店内の淀んだ空気と
気違いじみた音が、一瞬の白昼夢のように全身に襲いかかる。
静寂から見た世界も、このような狂乱の夢だ。
この世界は、あまりにもうるさい。

◆だからといって、耳栓をした瞑想は耳栓をした悟りにしか至らないよ。

◆『自由意志はあるかないか』
生理学者ベンジャミン・リベットの実験によると、動作を始める0.2秒前に
「意識的決定」の電気信号が発現するが、その0.35秒前には無意識的な
「準備電位」が現れているという。
つまり、意識的な決定の0.35秒前には、脳により決定が下されているのだ。

◆しかし実は「準備電位」と「意識的決定」の間に、動作の「意図」や
「衝動」の「中断」を選択できるという実験結果がある。
ヴィパッサナー瞑想は、ざっくり言うと「意識的決定」の執着パターンを
組み替え、「準備電位」(これをカルマと呼ぶのは乱暴だろうが)直後の
「中断」の自動化を目指す。

◆実際、気づきと集中の精度を極限まで研ぎ澄ませていった結果、この
「中断」の現場をはっきりと見切ることができる。
ただ、それは選択的な中断というよりも、「選択直前の待機」の高密な拮抗状態
といったほうが近い。

◆「待機に踏みとどまる」ことを「自由意志」と呼べるかどうかは、個人的
な体験から見ると疑問だ。
怒涛の選択肢の萌芽の前で踏みとどまらせているのは、明らかに私を超えた
「何か」のエネルギーだからだ。
そもそも「準備電位」を起こしている主体は何なのか、という話になってくる。

◆自由意志はないが見かけ上、脳波確定の刹那に「拒否権」があるともいわれる。
この拒否権に一縷の望みを賭けるのが、清浄道を旨とする仏教のアプローチだ。

◆多次元に人格を分散させるのは、解離性同一障害の防衛的適応スピバージョン。

◆「教師」一回目の人は「煽り耐性」を学ぼう。

◆「煽り耐性」≠「スルースキル」

◆「この私」は、睡眠と起床に関与していない。



関連記事 ⇒ 【#神の至福と悪魔の快楽 #ニヒリズム 覚醒からのつぶやき 61】


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【#神の逆鱗 #生贄 #太陽と月のピラミッド  覚醒からのつぶやき 72】  

2022/03/12

神田 さくら茶
神田の早咲きの桜と、ほんのりしょっぱい桜茶。春です。


◆花は「一花咲かせよう」と思わない。

◆子供はウラを読まない。

◆ウラオモテなく今この瞬間に顕われているものだけが、
正確無比に引き継がれる。

◆実質と意味が乖離した無数の世界が浮遊している。

◆本来、実質も意味も物語も乖離していなかった。

◆ひとつのインパクトは、ウラオモテなく全てを顕した。

◆アタマの覚醒は、脳の再帰的構造によってループにはまりやすい。
ハウリングのように、自ら発した特定の音域を収音・増幅するからだ。
だから、アタマの覚醒だけは自覚的なテクニックを要するのだ。

◆現実世界のほうが夢なので、ある意味リアリティの整合性の結合が緩い。
だから実際、この世界は不条理だらけだし何だって起こりうる。
逆に、覚醒した世界は緩みがない。

◆目覚めの直前は、夢が支離滅裂になるもの。
夢の境界線上で、この私の整合性を保とうとする意図が外れるからだ。
それは実際、ひとつの脈絡もない「神の走馬灯」というべき畏ろしさだ。

◆私たちは、支離滅裂な夢は記憶から排除してしまうので、見かけ上
の整合性が保たれている。
だからといって、夢を見たまま自ら支離滅裂に生きれば、目覚めどころか
修復不能な混乱に陥るだけだ。
この私たちに出来ることは、支離滅裂な夢の緩みに気づき、コントロール
なしに受け流していくことだけ。

◆夢の支離滅裂さに干渉しようと野望を持ったり「意味」を
見出そうとしないこと。
夢の終焉は、この世界の「終末論」などとはまったく別の話だ。

◆「夢を見ている者」に目覚めても「夢見の境界線」に張り付いた目に留まる。

◆孤独なのは神ではなく「神の目」なのだ!

◆「神の目」は、世界を見続けるしかない。

◆悪に眼が眩むように、至高にも眼が眩む。

◆「眼」の次元は「意志」を見切れない。

◆「神の逆鱗」をあえて利用する宇宙創成もある。
そのショックは、唯一無二のエネルギーだから。

◆矛盾があるから、矛盾がない。
矛盾がないから、矛盾がある。

◆3次元の覚者の話は、矛盾があって当然。
逆に、矛盾のない話は疑ったほうがいい。

◆覚者の立ち位置は、文法と用語でバレる。

◆「覚者」=「覚醒」ではない。

◆「ひとつの世界」には「ひとつの覚者」しかいない。

◆預言は「為政者」の保険。
預言は「運命」への無力感を、計画的に植え付ける。

◆自由意志がなくても、無我に無力感は伴わない。
無力感が伴うのは、この世の「為政者」の計画。

◆「死後の世界」は「死ぬ人」がいる時のみ存在する。
「生前の世界」は「生きる人」がいる時のみ存在する。

◆「死後の世界」は無限に存在する。
各自の世界が無限に存在するように。
固定された霊界があるわけではない。

◆死後の世界で出会う母は「その人にとっての相対的な母」にすぎない。
そもそも、生前でさえ「絶対的な母」に出会ったことはなかったのだ。

◆死後、自分の顔を忘れてしまえば「相対的な母」の姿も消える。

◆生まれ変わりの記憶を持つ子供たちの一部は「反省部屋」と呼ばれる、
真暗闇で孤独な中間世の記憶を持っている。
「反省部屋」は真暗闇だが、前世や今世で出会った人々とのやりとりや感情、
今ここで起こっている世界の出来事を痛いほど直接知覚できる。

◆私は今世で「存在の座」にすとんと落下したときに、生きたままこの
「部屋」を見た。
そこでは、世界を直接中心で知覚できるが、自らが世界に関わることは
できない。
たとえば家族に話かけようにも、手足も口も眼も鼻も耳もないからだ。

◆人間にとってはこの状態は「反省部屋」かもしれないが、人生に未練
がなければただただそこに存在するのみだ。
ほとんどの人間には、その暗闇の孤独が耐えられないだろう。
その暗闇自体には、一切の動きがないが、どの瞬間の知覚も中心にある。

◆そこには、いつまでいてもいいし「のぞき穴」から世界を覗くこともできるし、
もういいと思えば、一瞬にして光の世界に戻る。
部屋の内でもう一層深く眠れば、「無」と呼ばれる(勘違いされる)ところにも
留まって、好きなだけ休んでいられる。

◆子供たちもよくわかっていて「反省部屋」は地獄でもないし、怖いわけでもなく、
自身で「反省」が十分だと思えるまで居続けていいのだという。
ただ、迷惑をかけた家族や知人を知覚できても、直接口で謝れずただ見ているのは
辛かったそうだ。

◆もちろん、ここは絶対的な無である存在の最深部ではない。
あくまでも人間の延長で、心身と輪廻ありきの「待機場所」だ。
しかし、中間世の記憶があったり、生きているうちにこのことを知っていれば、
今生で後悔しない生き方を選ぶようになるだろう。

◆「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の非日常的な漆黒の闇の中にいると、
銀河鉄道999の車掌さんみたいな感覚になってきます笑
存在に脱落するときの感覚にもちょっと似ている。

◆「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の暗闇は非日常の漆黒だが「視点」が
あるかぎり「部屋」の暗闇とは位相がまったく異なる。
存在の「部屋」の暗闇は、漆黒が自分の内と完全に一体化しているんだよ。
でも眼があった時の光の記憶が残っているかぎり、それはやっぱり「闇」
として感じられる。

◆脳が知覚し得る闇と光は、もどかしいほど薄ぼんやりしている。
存在を射抜くような闇と光を、私たちは確かに記憶していた。

◆肉体がなければ、暗闇への恐れは半減する。
ぶつかって傷つくことがないからだ。
だが、自分があるかぎり恐れはあり続ける。

◆「自己」は捨てられない。

◆「解答」ではなく、完結した「解」としてあること。

◆「解答」を目的にすれば「問題」と「採点者」が創られ続ける。

◆生命力の春は、殺気立つね 笑

◆今日、3月11日は「いのちの日」でした。
古より受け継がれた、春の生命力と生贄の記憶。
刻み込まれた「聖なる春」の記憶の内に、未だ起こり続ける
「聖戦」の影を見るにつけゾッとする。

◆ストラヴィンスキー作曲「春の祭典(原題:聖なる春)」は、
古代ロシアの異教儀式がモチーフ。
春の大地の不吉な息吹を治めるため、生贄に選ばれた処女が、
祖先や動物の精霊に取り憑かれながら息絶えるまで踊り続ける。

◆人間臭いピナバウシュ版よりも、1913年初演のニジンスキー版
「春の祭典」のほうが、ある意味怖い。
血の通わないキョンシー集団 笑
カルト「ウィッカーマン」より怖い。

◆いま、そんなロシアバレエも危機に瀕してる。
現実のほうが怖い。

◆記憶に仕舞われていた、もうひとつの春。
人間椅子「春の海」より
沖つ波の声は幽く
異人船に時を教える 
まるで吾が子起こさぬように
天つ風の唄は遥けく 
呼子鳥と楽を奏でる 
まるで夢の続きのように
うららかな 春の海 
ひそやかな 春の海

◆祈りは命を差し出すこと。
だから、古代の生贄の儀式は効を成した。
ただし、それは原始的な集合意識の中で起こった。
だから1人の生贄で全体に波及した。

◆現代の祈りは生贄に変わる象徴を用いるが、集合意識ではなく、
ワンネスの意識が前提になければ、局所的な個の願いにとどまる。
そろそろ対象のない祈りへ移行するときだ。

◆子供の頃、メキシコの「太陽と月のピラミッド」を訪れた。
小雨の降る薄暗い日で、だだっ広い盆地には見渡す限り私たち家族の他、
ひょろひょろと背の高い宇宙人のようなカップルしかいなかった。
カップルが長い脚でひょいひょいと、ピラミッドの急な段々をすごい速さ
で昇っていくので唖然とした。

◆古代の生贄の儀式に使われたとされる石の祭壇があり、ここで幾人もの
血が流れたかと思うとゾクゾクした。
遠くの山々を指さして父が
「あっちのほうから古代人が儀式の奇声をあげながら練り歩いて来たんだろうね」
と言うので、くらくらと気が遠くなった。

◆メキシコの旅は、その時のゾクゾクする思い出しかない。
本場のタコスもまったく喉を通らなかったし、弟と妹は熱を出して寝込んだ。
あの国には、生と死の生々しさが残っている。
それを思い出したい人にだけ、オススメする。

サボテン
3月10日は「サボテンの日」。
ツインズとティランジアとデザートローズ。


関連記事 ⇒ 【#神の意図 #二元性 #ヒーリング 覚醒からのつぶやき 25】


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【#魂の合格 #高次の自己 #発心とは 覚醒からのつぶやき 70】    

2022/03/06

デコポン2
旬のデコポン。今年は酸っぱめ。


◆当たり前だけど当たり前じゃない平和。

◆世界を単純化したい人と複雑化したい人がいて、
それぞれがそれぞれの幸せを探している。

◆タイミングはスペーシング。

◆タイミングは軸でとる。

◆タイミングを気にするのは、タイミングを掴みたいエゴだけ。

◆温室で咲いた季節外れの花も、その花のタイミングで咲いた。

◆ざわめくままに受け流す。

◆自分が自分であることは「使命」ではなく「命」。

◆何も起こらない物語はあるが、何も起こらないゲームはない。

◆「成功した宇宙」も「失敗した宇宙」もない。

◆「永遠の命」も「永遠の死」も、同じもの。

◆「想いを馳せる」とき、心は夢に入り、目は中心から出る。
「想いを巡らす」とき、心は夢を彷徨い、目は夢に居座る。

◆魂とは、創造のアイディア。

◆「魂の追憶」を「この私」が辿ろうとすれば、神経過敏になっていく。

◆魂にはすべて記憶されているのだから、安心して任せておくしかない。

◆「この私の救出」を「魂の救出」にすり替えているかぎり、
この私は満足しない。

◆完成させなくてはならない使命などない。

◆「未完成感」は「この私」の無知と驕り。
「この私」が、完成形を判断出来ようか?

◆得られた「成就」は儚い。

◆「この私」が求めているのは「成就」ではなく「突破」。

◆「この私」は「成就」を「突破感」で代用しようとする。

◆エゴは「成就」と「合格」を混同している。

◆承認欲求は、魂の「合格」を望む。

◆理性は「幸せ」と共存できることを知ろうとしない。

◆理性は「幸せ」を見下し「幸せ」に抵抗する。

◆自分に自分を説明しない。

◆エゴの求める「自己納得」は「他己納得」。

◆「自己」は、幼いエゴを泳がせておく。

◆「自己」にとって、エゴの考えつくかぎりの悪行など脅威ではない。

◆「自己受容した人」にそれが起こるのではなく「自己受容」そのもの
にそれが起こるという、厳然たる理がある。

◆発心とは「自己受容」が、エゴの検閲をすり抜け漏れ出したもの。

◆発心は「求道感」でも「焦燥感」でも「既視感」でも「安心感」でもない。
それはいつも唐突に漏れ出し、後から気づかれる。

◆発心の手触りは、エゴに気づかれる前に、とりあえず魂に「仮止め」される。
(発心の出どころは魂ではない)
「仮止め」は自動的に行われるので「この私」に出来ることはひとつもない。

◆「自己受容」を認めないのは、エゴだけ。
受容しているから、存在できているのだ。

◆本来、時空の地続きの覚醒と、時空を超えた覚醒に区別はない。
だから放っておいて問題ないが、エゴだけがそれを問題にする。

◆高次の自己は、低次の自己が何をしようが気にしないよ。
言葉も何も知らない、赤ちゃんみたいなものなんだから。
ちょっとぐらい失敗したところで痛くも痒くもないって。
気にして干渉してくるのは時空続きの近未来の自己だね。
近い自己だけに、言葉は通じるけど余計なお節介も多い。

◆高次の自己は普段は一体化していて見えないが、何かの拍子に
(それはいつも唐突だ)その人の脳が認識できるギリギリの姿で
顕われることがある。
何かメッセージをくれるとか、そんな陳腐な存在じゃない。
その臨在は畏怖を伴うもので、言葉じゃなく超視覚と超触覚と
超リアルな存在感として直接来る。

◆それは、肉体の接触を超えた未知の生々しさであり衝撃だ。
壮麗さに目が眩み、人によってはそれを神と呼ぶかもしれないが、
やっぱりそれは自己なんだ。
(もし神の本体が顕在したら肉体など木端微塵になるだろう)
なぜと言われてもうまく説明できないけど、臨在に触れればわかるんだよ。

◆そして、それはず~~~~~~~~~~っと!一緒にいるので、
一回でもリアルに出会ったら次に会う時まで、もう安心して忘れて
いられるんだ。
逆に、普段は忘れてないと人間の生活なんてやってられない。
だって、ほんとにずっといるんだから!!

◆だから、私たちみんな何だって大丈夫なんだ。
それは、信じる信じないとかの話を超えてる。
理論とか難しい話なんて、どうでもいいよ。
矛盾も承知のうえで言ってる。
全部、はじめからつながってたんだ。

◆伝統的な修行を積んだ理知的な知人が
「だっているんだもん、が一番イラつく」
と吐き捨ててたけど、ゴメン。
「だっているんだもん!!」

◆神は、目に見えないぐらいが丁度いい。
四六時中、目の前にいたらプレッシャーでしょうがないからね。

◆これ、あながち冗談でもないよ 笑
これよりもっと近くて圧がすごい!
眼じゃなくて、直で見てるし。
でも、感情とかは一切ない。
ただ「いる」。

◆「祈ろう」と思った時にはもう「祈り」から離れている。

◆「祈り」に、いかなる方向も持たせない。

◆方向を持たない「祈り」は、中心で昇華する。

◆「祈り」 ≠「 願い」

◆祈りの瞬間に、言葉はない。

◆「祈り」は、時空に干渉しない。
「願い」は、時空を捻じ曲げる。

◆慈悲は時空に依らず、救済は記憶に依る。

◆直観の盲信はトラップだらけ。

◆覚醒に最短ルートも最長ルートもない。
最短ルートを信じて願うのはエゴだけ。

◆カルト信者も、その人にとっての「聖なるもの」
に真剣に酔っている。

◆半覚者は「ゲームクリア」を目指し、
カルマの果てしなさに圧倒される。

◆ゲームと覚醒は無関係。

◆陰陽は必然ではなかった。

◆勝者は「勝った」と思わされる。
敗者は「負けた」と思わされる。

◆二元性が3つの視点に分割するのは当然。
2つの視点だけでは自己を認識できない。
アダムとイブはヘビの視点を必要とした。
3次元のワンネスは2つの視点への回帰。
それは「回帰」であってゴールではない。
1つの視点は「2マイナス1」ではない。

◆悪魔に勝とうとするのは、神に勝とうとするのに
等しい狂気の沙汰。

◆悪魔を「欺く」ことは決してできない。

◆悪魔は、私たちの誰よりも「至福」を知り尽くしている。
ある意味、神よりも理解しているから、それを「使える」。

◆神は至福を知り得ない。
神は誰も「欺けない」。

◆本当の神秘は「至高状態」によって見えなくなっている。

◆天使は「自分の持ち場」では「至高状態」に酔わない。

◆悪魔の「至高状態」も当然あるが、人間の偽至高状態のほとんどは、
悪魔以前の魑魅魍魎の瞞しレベル。

◆悪魔が自ら手を下すレベルの人間など「ほぼほぼ」存在しない。

◆3次元の唯一の「逃げ道」は、中心にしかない。
だが「逃げよう」という意識では逃げられない。

◆勝ち負けのゲームは、無限にレベルアップを強いられる。

◆ゲームのレベルには限界がない。
決して終わらないよう、自ら設定している。

◆数式は理解のための展開図。
「数」をそのまま見ること。

◆「数」に呼応する世界が、つどつど呼び出される。

◆「数」なるものは「ひとつふたつ」と数えられない。

◆3次元人は「数」を数えるために「数列」を使う。

◆「数」を知らぬまま「数式」を求めると、試算を誤る。

◆「幸せ」だけを望むなら、何も知らなくていい。
「何も知らないこと」には、相応の覚悟が必要。

◆私個人の脳のスペックでは、ほとんど何も知り得ない。
幸か不幸か、知り得ない焦燥は「至福」によって麻痺している。

◆「超えられない存在」があるうちが華。


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雛祭り当日、駆け込みで咲いた桃。


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