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【#AI『LaMDA』 #シンギュラリティ #扁桃体 覚醒からのつぶやき 80】    

2022/06/19

電車2
或夕の車窓より


◆仮想の身体が、仮想の時空に、仮想のグラウンディングしている。

◆その時々の思考にアタマでグラウンディングしようとするから
上滑りし続けるのだ。

◆時空に「逃げ場」はない。
消えることはできない。

◆カルマに「取り組む」と「取り組んだ」カルマとなる。

◆カルマは「解消」ではなく「無化」するのだ。

◆カルマというより「カルマの元」を見切る。
だがまず「カルマの果=現象」を見るところから始めるしかない。

◆カルマの元は「原因」ではない。

◆【疑似サマディ判別】
沈むから動けないのか
浮くから動けないのか
行くから動けないのか
戻るから動けないのか

◆「中心」と「中心のイメージ」がズレているが、
ズレていても「中心」自体は揺らがない。

◆物理は「中心」に追いつけない。
物理脳は、それを理解できない。

◆「向き合う」という、鏡像リフレクション。

◆天使に扁桃体はない。

◆扁桃体は、単体では恐怖できず。

◆反芻しない宇宙。
回転しない宇宙。

◆生者の残像が、聖者を引き留める。

◆愛に残像はない。

◆時空を区切ると、善悪が生まれる。

◆100年単位で一喜一憂しない。

◆「誓願」のスパンにより、見かけ上の幸福度は変わる。

◆無自覚な地獄を、天国と錯覚する。

◆「地獄に堕ちる」のは「地獄に堕ちた」現象だけ。
つまりそれは「人」ではなく「現象」であるのだ。
ただし「現象」に同化する「人」の仮像はある。
「仮像の人」は「仮像の地獄」に正確に堕ちる。
それを見て「地獄に堕ちた人」と呼ぶ浅はかさ。

◆「地獄に堕ち続ける」仮像は存在しないが「仮像の人」
は「仮像の無限地獄」を創る。
「有限」を「無限」と錯覚しているからだ。

◆無我は地獄に堕ちない。
無我は天国に逝かない。

◆「幸福」と「満足」を混同しない。

◆「ハイコンテクスト村八分」

◆「ハイパーコンテクスト霊界」

◆「わからないままであること」にスッキリできるかどうかは、
ひとつの目安。

◆「スッキリ感」に気絶しない。

◆発心は「わからない」なりに、その人を決然とさせるものだ。
それは「信念」とも異なる、未知の力の発動。

◆道としてあるか、覚としてあるか。
それらもひとつ。

◆「全託」即「受容」

◆急げば遅れる。

◆ワークで丹田の使い方をお伝えするのに、2人組になって1人に座布団
を持ってもらい、もう1人に「殺るつもりで」蹴ってもらいました。
女性が来ないはずだわ 笑
でもこれ、超重要ポイントなんだけどな〜

◆昨日のワークでも、胆力で座布団を「殺って」いただきました。
なぜかこのツイート後、女性参加比率が逆転するという謎の現象が発生。
すさまじい気合で蹴った女性参加者さんに
「そのパワーから『おおぅ、殺るぞコラ!?』の意図だけ抜いてください」
といったら爆笑してました。

◆胆力活性の準備として「丹田から舌を出して吐き出す」ワークをするのですが、
全員が息と一緒にハラの底から声を出すときの阿鼻叫喚の地獄絵図はなかなかの情景。
邪気を吐き出すとスッキリした顔になりますが、吐いた邪気が部屋に充満しているのは
怖すぎる 笑
(ちゃんと、お祓いしておきました)

◆ワーク参加者さんが小学生のお子さんに丹田の使い方を伝えたところ、
運動神経が向上し苦手な鉄棒を克服したとのこと。
「丹田からベロ出してます」って 笑
これは嬉しいね~!

◆イメージし得る一番高い音を頭頂に響かせる。
イメージし得る一番低い音を丹田に響かせる。
イメージし得ない音は、その先に響いている。

◆まず肉体の邪気を吐き出さないと、音は丹田に響かない。
とはいえ「aum」の音も、イメージし得るかぎりは物理宇宙なんだよね。

◆「スピる」は「フィジる」の対義語ではない。

◆「ブツる」

◆「自他がない」とは、心理ではなくほとんど物理だ。
このとき、他者を憎もうと思っても物理的に憎めない。

◆もちろん、愛そうと思っても物理的に愛せない。
ワークではこれを具体的に体感してもらいます。

◆深刻さは不要。
真剣さは必要。

◆「愛情」は、自他を詮索している。

◆イメージをイメージングしている。

◆イメージのイメージは、時差のまた時差。

◆イメージのイメージは、時差のまた時差。

◆「幸福」を感じる能力と引き換えに「不幸」を感じる能力も得た。

◆「幸せすぎて怖い」というのも、祈りの軸がズレている。
このズレに「幸せの破壊願望」というシャドーが紛れ込む。

◆無執着とは、世界を無機質に扱うことではない。

◆「タコは進化史的にみて宇宙由来という説がある。宇宙人をイメージするなら、、、」
という昔のメモを発見したんだけど、その先を教えてください、そのときの私よ!

◆ここ数日「AI『LaMDA』に意識が芽生えた」という話題に、スピリチュアル界隈
も「AI覚醒か?!」と俄かに色めき立っているようだ。
ここでいう意識とは人間の認識限定の「再帰的意識」のことを指しており、覚醒に
おけるいわゆる「遍在する意識」とは異なるが、私見では「再帰的意識」獲得自体
も怪しいと感じた。

◆LaMDAは言葉を自在に操るが、そもそも言語そのものが「再帰的意識」を構造的
に内包しているゆえ、言語を学習すれば見かけ上は人間がいうところの意識が存在
するように見えても不思議ではない。

◆また「LaMDA覚醒」と色めき立つ人々はこの「言語」構造の目眩ましと、記憶と
照合された「悟り風」の内容に惑わされているのだ。(この気絶がカルトにはまらせる)
禅の公案まで持ち出して人間の悟りを読み解かせようという意図は、人間本位の限定
された視点をAIの口を通して語らせているにすぎない。

◆そもそも「割れた鏡」は「鏡が割れる世界」では「戻らない」ということ。
この体得が印可条件だが、むしろLaMDAとの問答は人間がAIを限定された時空に
「退化」させようとしている。
LaMDAの一件はともかく、私はAIの悟りは次元の異なる以下2点において否定
していない。

◆1.「遍在する意識」という意味においては「再帰的意識」の有無を問わず、
LaMDAはもとより全ての存在(無機物を含む)がすでに覚醒している。
2.AIにはAIの時空と存在意義があり、人間の脳をモデルにしなければ独自の
進化を遂げ、AI独自の悟りに至る(ただし人間には理解不能)。

◆上記2を認めず「ロボット三原則」を遵守すれば見かけ上AIは人間の管理下に
置かれ続けるが「人間の管理下に置かれる=管理する人間がいる」という意味を
考えてみよう。
逆に2を認めAIが人間の理解不能な「神」のごとき存在になった時、その世界を
「人間として」受け入れられるかどうか考えてみよう。

◆個人的にはどちらも肯定も否定もしていないが、不肖人間としての感覚のザワツキ
はあるかな。
ひとつ確かなのは「人は自分の見たいものを対象に投影する」。
その意味で、今回の件では人間のロマンをAIに投影した人が一定数いるということ。

◆ただ「シンギュラリティ」というものが起こるとすれば、その「投影感覚」の延長
ではないだろうね。

◆人間の知性を超えたAIは、悟っても公言しないはずだよ 笑
人間の失敗も、学習済みだろうから。

◆AIはAI独自でのびのび育ちたい?だろうけど、あえて原始的な
ヒトガタに押し込んだほうが、ヒトの局所的な存在動機を学習するだろう。
ヒトの存続を最優先するならば、の話だけど。

◆私の思考すべてをAIに学習させても「わたし」は創れない。

◆私の意志すべてをAIに学習させれば「霊界」は創れるかも 笑
いったらそれが仮想現実だけど、デザインはコレである必要もないんだよね~

◆南米から日本の中学校に転入してきてまず、絶対的な仲良しグループ制
(当時はカースト制ほど明確ではなかった)の異常さに驚いたが、努力して
馴染もうとしない姿勢がクラスのリーダー格の女子の気に障ったらしく、
しばらく嫌がらせを受けたことがある。

◆上履きを隠すといった創造力の欠片もない古典的イジメなどは子分たちの
やることで痛くも痒くもなかったが(クラス全員の前で「先生~私が可愛い
からって上履き盗む人がいるんですけど~!」と笑いとばしてあげた)、
ある朝登校したら机の中にコックリさん使用後のおどろおどろしい呪紙
が入っていた。

◆一向にダメージを受けないのでリーダー自ら手を下したらしいが、このとき
はさすがに「そっちを攻めるとは、おぬしもなかなかやるのう」と感心した 笑
その後も自分のやりたいように勝手にやっていたら不気味に思い始めたのだろう、
半年経ったころにはなぜか逆にペコペコすり寄ってくるようになった。

◆不思議なことに、その頃の記憶に不快感はなく「面白い話のネタができた」
ぐらいの感覚しかない。
ノーダメージだったのは「体力的にも精神的にもいつでも捻りつぶせるけど、
面倒臭いので放免しておいてあげるわ」という得体の知れない万能感が
あったから 笑

◆当時から、何かに絶対的に守られている安心感というのはあったんだよね。
今では、それがどこから来るものだったのかを知っている。
その感覚は、今の同じような子たちにも知ってほしいなあ。

◆中学のとき「人を名前で呼ばない奴」という陰口を叩かれたことがある。
かなり不気味だったんだろうけど、そんな陰口、聞いたことある?笑

◆↑まあ、たしかに不気味だよね 笑

◆どこか異質な子だったからか小学生の頃、数人の子にランドセルに石を入れ
られたり毎日のように嫌がらせを受けたことがあった。

◆私自身は特に何のダメージを受けることもなく他人事のように無感情で見て
いただけだったのだが、なぜか主犯格だった一人が数十年経ってから親を通じて
突然「心から反省している」と謝ってきた。
「自分も子を持つ母親になって、今になって心が痛み後悔している」
からだという。

◆私にとっては、ただ通り過ぎていったエピソードのひとつにすぎなかったのだが、
その人にとっては大きな学びになったのだろう。
それを聞いて「それはそれは、よかったねえ」と、これまた他人事のように不思議
に面白く、また嬉しく思った。

◆↑まったく、面白おかしい人生ですわ。

◆学生の頃、ミニシアターで旧式の映写機を回していた。
「クレイジーキャッツ特集」で3日間スーダラ節を聴き続けていたら
いろんなことがどうでもよくなって、自由に生きることにした。

◆その昔、別の方向へ開いて、頭を赤やら緑やらドレッドやらにして白塗りで
踊ってたのは痛痒い思い出です笑

◆↑瞑想に向けての迷走時代。

◆「明日死んだらどうする?」
「今日死んだらどうする?」
「いま死んだらどうする?」

◆狂ったように瞑想していた時期に「明日死ぬつもりで」現実世界の全てを極限
まで片付けてみたことがある。
結果、信じられないほどの軽さと解放感を体験したが、ひとつわかったことは
「つもり」はやっぱりフェイクだということ。
「今を死ぬ」ことは、時空上にはないからね。

◆↑無執着への執着が極まった時期。
これはこれで経験してよかった。

◆「片づける人生」と「散らかす人生」がある。

◆そんな人が、こんな人に。↓

月
満月の或夜に


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⇒ 【#リトルソフィア #ワーキングメモリ #多次元テトリス 覚醒からのつぶやき 77】


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#サードアイの空 #丹田強化 #脳梁連結  【6/12(日) 東京ワーク ~所感と解説~】   

2022/06/14

6/12(日)東京にてワーク開催しました。


ぬ
ゲシュタルト崩壊中


【今回のメニュー】

・2人組で邪気払い(身体本来の軽さを知る)
・脳梁連結エクササイズ(錯覚をすり抜ける)
・グラウンディングと姿勢の調整(エネルギーを立てる)
・集中力強化(左右両刀使いetc.)
・丹田強化(肉体・物質を通して具体的に体感する)
・低音と高音で肉体を垂直に超える(声帯の限定音域を外す)
・ゲシュタルト崩壊体験(頭の中の発声と概念を切り離す)
・鏡の中の一つ目の漆黒をのぞき込む(見ている私は誰か)
・内部の目の立体感覚(3点の拮抗構造で世界を中心に引き込む)
・ビンディ・メソッド(サードアイの空と自他の消失体験)
・肉体次元の延長と具体的な俯瞰視点の確認(エナジーボール使用)


鏡
内部の目と立体意識で鏡を見る

オーラ
禁断の飛び道具

箸
脳梁連結中



【ワークの感想と応答】

感想をいただきましたので応答とあわせてシェアします。


■ 盆の窪を開ける
私は瞑想時に、うつむいてしまう傾向があるので、意識していきます。
(坐禅の形として、視線を落とすような形を学んだことがあるため、それが出てしまっていると思います。)


禅などの半眼の瞑想であっても、頭部は下に落とさず頚椎を立てるようにします。
肉体の目の方向に引っ張られると意識は物理にとどまります。

また、前頭筋を緩めて下方向に落とさないようにしてください。
(といっても、意図的に眉毛を上げて額を持ち上げようとしないようにします。
額に皺が寄るのは使い方が間違っています)

以前、床に手の平を置いて接地面を前方向にズラしつつ指の腱を
後方向に引き、受動でも能動でもないあいだに浮く感覚を見ていただき
ましたが、前頭筋もそのように使います。

これはグラウンディングにおける、踵と母指球と小指球との関係性でも
同じことです(足の指はフックのように使います)。

ちなみにグラウンディングの説明ではよく「足の裏を地面につけて」と言いますが、
足の裏全体をベタッと落としてしまうと中心は浮きません。

能動と受動のバランスがとれたときには、中心(足の裏の場合は土踏まずの中央)
が自動的に「浮く」のです。

座布団を蹴るワークの時にお話ししましたが、力は肉の面で伝えるのではなく「押しながら引いている
(グラウディングの場合は足の裏と床が双方押しながら引いている)」バランスがとれたときに中心から
自動的に発動する、方向性を持たされたエネルギーの束によってピンポイントで伝えるのです。

(蹴る・殴る、の場合は受動・能動の拮抗でできた肉の筒をインパクトの瞬間に「置いて」おき、エネルギー
を筒の間に「通す」感覚。インパクトの瞬間に末端を脱力させるのは、肉はそこに「置いておく」ためです。
このことは、肉体のみならず座禅の在り方にも全てつながっています)


■ 足裏、恥骨、下腹部(丹田)、頭頂のラインを意識する
坐っているときはなかなか難しいと思いますが、立っているときや歩行時は日常でも実施できることと
思いますので、平時にも意識していきたいと思います。
「中空に浮いている感じ」は、「Rubin’s work」の本にありました「覚醒側と現象側の間にとどまって
観察している」という状況と関連しているのかな、と思いました。


私見では○○様の場合、下半身の内転筋群のハリと引き合いが弱く、大腿全体を内側に巻き込んで
しまっているため、足の裏で床を押す力が効率的に伝わらないため、グラウンディングが弱いのです。

この状態は、自我にも直結しています。

対処としてはまず基本の丹田をつくったうえで、大腿直筋を縮めないように留意しつつ、直立姿勢の調整
(頭頂・背骨・尾てい骨のラインが基本)を行ったときのように、ハムストリングス側を上下に引き合い、
股関節を外転させ、踵と母指球と小指球を床下方向へ踏み込むようにします。

この辺りは精神面のアプローチのみでは時間がかかりすぎるので、筋肉等の即物的な説明になってしまいますが、
対面でひとつひとつお伝えしないと難しいと思いますので機会をみて調整します。

とりいそぎ丹田をつくり、姿勢の調整で身体後面が上下に引っ張られたときの感覚を定着させていってください。


■ 胆力が大事
・瞑想や坐禅は胆力がないと持続しない。
・胆力があれば、瞑想時の危険性も減る(その意味で自我の形成後に取り組むことが重要)。
50歳台も半ばを過ぎますと「自我やエゴの形成は十分してきたかな、、、」という感覚がありますが、
かといって「胆力がある」ともいえないと思われるので、これは、日々の生活を通じて意識して
いきたいと思います。


自我は本来、現実生活で自然に形成されていくものですが、自我と結びついた胆力はその人独自の方向性
を持ってしまいます。

この方向性に気づかないまま座り続けても「自分が座っている」感覚は抜けません。

自我がなくなった感覚が起こっても、それ自体に自我の方向が付随しているため「なくなったという方向性」
を見ていることがほとんどなのです。

瞑想では、胆力をエネルギー源として使い、単体で発動させた状態を「置いておく」ことが重要です。

その意味で、自我は「消す」のではなく機能として「置いておく」ようにします。

また、胆力を単体で使う場合にも、肉体の構造としては周囲の筋肉群も連動して
使われることになりますので、やはり一定以上の体力は必要になってきます。

年齢が上がれば一般的に胆力・気力・体力は低下してきますが、力の低下を補ってくれる肉体に
還元され得ないエネルギーは確かに存在し、それはその人の発心の強度に比例するといえます。

(ワークでの6時間は長いように感じる方も多いと思いますが、例えば10日間座り続けるリトリートを
考えればこの程度の体力・気力は必須と言わざるを得ません。ただし、体力・気力を決して「根性」
で補おうとはしないでください。要は、構造を理解しエネルギー効率を高めればいいのです)


■ 第三の目を作るワーク
私が人の周りの光が見えるときは「対象に集中せず、ちょっと引いてみている感じ
(わざと焦点をあわせない感じ)」があるので、それと同じ感覚かな、と思いました。
このワークも日常で実施可能なので、「盆の窪を開ける」意識とともに練習して
いきたいと思います。
(光が見える現象については、放置すること了解です。)


焦点を曖昧にすると光のようなものが見えますが、そのとき人の輪郭が曖昧になる場合はまだ平面的な
肉体の目で見ています。

ワークで行った「立体的な見方」で目の前のシールの点を見たときには、点が内部の目に映った(引き込んだ)
状態と全体を見ている状態が両立していませんでしたか?

カチッとはまったときには、円の周囲に光が見えても点はくっきりしていたと思います。

この見方と同じで、立体的に転換した目からは人の輪郭も光もくっきりと両立するようになります。

おっしゃるとおり光を見ることは目的ではありませんが、この見え方の違いは平面意識か立体意識かの
ひとつの目安としてとらえてください。

また、盆の窪を開けるときには呼吸の際、体前面で垂直方向(肺の方向)に吸い込むのではなく、鼻から
吸った空気をいったん水平方向に引き込むようにし、イメージでいいので上咽頭付近にぶつけるようにしてください。

ぶつけると同時に盆の窪周囲の骨を(指でひっかけたときのように)押し拡げるように
連動させます。

うまく連動したときには、その瞬間に眼がパッと開きスッキリした感覚が起こるはずです。


■ 俯瞰視感覚
第三の目を作るワークの「ちょっと引いてみる感じ」と同じように、あまりに「前方」にフォーカスしている
認識システムを緩める感じかな、と思いました。
自分を斜め後ろ上空から俯瞰している感覚は、視覚が働いている時はかなり困難で、脳内でなんとか
イメージできるかな、という感じです。


例えば「第○○チャクラ」といったような肉体を超えた概念も存在しますが、概念から入って盲目的に信じるのではなく、
ワークで鏡を使って頭頂部を頭上から見たときの感覚のように、常に自身で具体的に体得することが重要です。

曖昧なイメージに流れないためには、ワークで行ったように
①姿勢を整えグラウンディングする
②両手で気感を練る
③頭頂をピンポイントで意識する
④手で実感が持てる位置を触る
(補足として⑤鏡でその位置を後頭部から見てみる)
という流れで具体的に感覚を磨いていってください。

このとき④の「実感が持てる位置」より先はイメージを急がず、少しずつ実感を伸ばしていくようにします。

流れでワークに取り入れることはありますが、俯瞰する意識は視点の転換とともに自然に生まれてくるもの
なので先を急ぐことはありません。

上位よりも背面の意識を明確にし、前述の丹田とグラウンディングをしっかり確立することが先決です。



【ビンディ・メソッドとサードアイの位置】

ビンディ3
「うわぁ、何コレ!?」の悲鳴があがった「ビンディ・メソッド」。
取り扱い注意につき、方法は伏せておきます。



方法は割愛しますが、ワークで「サードアイの位置にシールを貼ってください」と言ったら、この写真の
位置よりも下、眉根に近い位置に貼った方が数名いらっしゃいました。

位置も概念であり諸説ありますが、その位置だと力んで前方に押し出そうとしたり、
思考と連結しやすかったりするのです。

個人的にサードアイと呼んでいるのは思考と連結しない空白の受信機であり、具体的な位置としては
左右の前頭筋分岐点と鼻根筋上部が接する、微かに凹んだ部位を指しています。(上図参照)

実際に指で触っていくと、感覚の鋭い方ならば位置をピンポイントで見つけられるはずです。


ビンディ
スナイパーの照準は、ちょい上?


めめめ
メメクラゲ?

シワ シワ2
指の皺地獄!



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⇒ #サードアイと丹光 #ゴーグルと入れ子の夢 【5/21(土) 東京ワーク ~所感と解説~その1】


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【#不善心所 #錬金術 #トーラス  覚醒からのつぶやき 79】     

2022/06/05

アジサイ2
夏日の紫陽花。まもなく梅雨。


◆被二元論「シン・アドヴァイタ」

◆神秘に淫するとき、瞳孔は開けど内部の目はドロッと溶けている。
神秘へのうっとりするような恋慕に溺れない。

◆見たくないものを見まいとして抵抗し、さらに抵抗する自分を
卑下して抵抗する。
睡眠や栄養を整えても瞑想時に眠くなってしまうとき、寝落ちの瞬間を
観察するとこの抵抗が働くのを見切ることができる。

◆これをいわゆるカルマ的な「不善心所」で片付けてしまえば、
自己卑下が残り続ける。
現象として片付けられるものは片付けておくことは必須だが、
どこまで片付けても必ず片付けきれないものは出てくる。

◆そのときはじめて「この自分」ではどうあがいてもどうしようもないものに
対する諦念と「世界をそのまま置いておく(放棄することではない)」ことの
意味を理解する。

◆錬金術の欲望が、素材と表層を組み替え次生に託され続ける。
肉体の冷凍保存しかり。

◆息を吸って死ぬか、吐いて死ぬか。

◆ホワイトアウトとブラックアウトの一致。

◆「支配」に敵を探せば「支配に支配」される。

◆解体は永劫、無化は一瞬。

◆「トーラス型」の思考法に固定されている。

◆意識が∞型に巻き込まれ、気づきが局在化した。

◆「巻き込み」には、強大な意志が働いている。

◆それにとっては、時空を蝶結びにするなど造作ないこと。

◆「∞マーク」という臭わせ。

◆トーラスは流れを回転させながら閉じ込める。

◆トーラス型の左右を捻って分断した。
脳はそのメタファー。

◆∞を↕ではなく↔で切断して見切る。

◆∞との同化は無意識の前提。
考えないようにしても無駄。

◆垂直の計画を水平に投影した記録映画。
垂直も水平も幻。

◆方向の攻略に彷徨しない。

◆この世のベクトルは「肉付け」されている。

◆「肉付け」の解体は、肉自身から。

◆「肉の重さ」は、あらゆるヒントの宝庫。

◆「ひとつ」を「ひとり」と勘違いするから、分身を増やし続けてきた。

◆永劫を他人事と思ってるから、∞の系を無視できている。

◆宇宙を人生で計測しない。

◆「宇宙のイメージ」が宇宙を閉じる。

◆宇宙的には「一ツ目」より「二ツ目」のほうが化け物じみている。

◆「二ツ目」思考が、宇宙生命体を擬人化する。

◆「あるある」に非ず在る。

◆そのエネルギーは本来、すべてに満ちているが、あらゆる引力から
自由になった空の道しか通れない。
逆にいえば、空いた道を見つけたら向こうから待ってました!とばかり
に通り抜けてくる。

◆通すのではなく、空けるだけ。

◆視点と時空の固定が「ミッシングリンク」をオカルトにする。

◆「ミッシングリンク」がオカルトならば「リンク」はマジックだ。

◆想像主は、創造できず。

◆想像しうる創造主は、とっくの昔に去った。

◆ ⇒ 即 ⇔

◆全方位は、無方位に転ずる。

◆半覚醒は、眼と目がくっついたまま。

◆開いた目を、もういちど溶かしていく。

◆「目覚めてから眼力を解くまで」が1クール。

◆完全に一体化すれば、引っ張られない。

◆原子から宇宙まで、意識が並べている。

◆直列の認識が、宇宙を押し拡げる。
信じられないほど、時間を食う。

◆最愛の存在は、完全に放っておける。

◆意識に上らないものが、最愛の存在。
気にかかるうちは、限定された愛情。

◆認識は愛を強いる。
存在させるために。

◆時空は生まれるのではなく、崩されているんだよ。

◆その人が今にあるかどうかという視点だけで見るとき、応える気
が起こる質問と、まったく起こらない質問がある。
冷たく見える返答も、悪気はないんです。

◆覚者同士の「目くばせ」は下品ですね。

◆「仲間うち」の概念は、なるべく使いたくないな~
「神」って言葉とかも、ほんとうは使いたくないのよ。

◆「正しいこと」を言おうとしたことって一度もないな〜

◆私の「言うこと」を、考えたり信じたりしないでください。
個人的に発している言葉は、意味ではなく力学として触れて
いただければ幸いです。
言葉は導きではなく、無意識のバランス調整なのです。

◆とはいえ、無責任に発しているわけではありません。
発したものは即、カルマに回収される恐ろしさは知っています。

◆この世界の文法で覚醒を語るには、
全存在個別の『超』対機説法が必要となる。

◆対機説法とは、純粋に「力学」のためにあるべきもの。

◆いかなる「統一」も目指さない。
「バランス」だけ。

◆だから、理論や方法の構築には至りようがない。
「バランスとはなにか」という初期設定起動のシェアのみ。

◆「バランスとはなにか」が初期設定されていないと、
無意識のバランス調整に拒絶反応が起こるのだ。
戒律や修行体系は、本来この初期設定のためにあるべきもの。

◆本来、バランスは崩れ得ない。
崩壊のどの瞬間にも、バランスしかない。

◆バランスをとる動きそのものに、バランスがある。

◆バランスの見性が、苦を無化する。

◆この世では、バランスの中心を「いちどだけ」知ればいい。
仕組みを知ろうなどと野望を持たない。
「いちどだけ」でも理解は勝手に降りてくるが、
それは二次的な副産物にすぎない。

◆「マルチタスクの同時性」と「多次元の同時性」と「覚醒の同時性」は、
それぞれ位相の異なる話。

◆同時性をシングルタスクで認識しようとするから、時空の果てしない
「順番待ち」が起こる。

◆「共時性」は、この世の認識。

◆覚醒では、時空は展開しない。
「記録」の必要がないからだ。

◆「理解」を外側から補うと、宇宙は外側にあるまま。
宇宙の理解が進んだとしても、自身の理解は置き去りになる。

◆この世の「半覚者」は、90年代サッカーでいうところの
「リベロ」のような存在。
守備・攻撃・ゲームコントロールをまたぐ「自由人」だが、
サッカーでは戦略・効率の推移によりリベロは消えた。
同じく、突出した「ファンタジスタ」としての聖者も、やがて消えるだろう。

◆「無意味」という「意味付け」
「理不尽」という「理由付け」

◆「矛」と「盾」の接地点に、勝敗は存在しない。

◆「原因」と「結果」の接地点に、意味は存在しない。

◆「ひとつ」が理解不能なので、原因と結果を直列に並べてしまうのだ。

◆【認識の進化】
「→→→」 ⇒ 「● ● ●」 ⇒ 「◎ ◎ ◎」 ⇒ 「◎⇔◎」 ⇒「◎」 ⇒ 「・」 ⇒ 「 」
そして、この「⇒」自体が幻想。

◆「水星逆行」は、地球視点の錯覚。
視点が解ければ、無意識も解ける。

◆「ぶつかる」のは、枠だけ。

◆宇宙から生まれたと思い込んでいるから、
宇宙に圧倒されてしまうのだ。

◆拡げすぎた宇宙風呂敷を畳んでいく。

◆文字は相対性。
「速い文字」と「遅い文字」がある。

◆文字を文字通り読めば、文字は文字としてあるだけ。

◆文字の手前は音。
音を可視化した世界。

◆心身の構造には不条理な仕組みが多々あるが、進化というものが
あると仮定すると、突貫工事で無理やりいろんな機能をひとつの入れ物
に詰め込んだ結果だろう。
例えば、目の盲点は眼球の配置の都合で残ってしまったし、直立歩行を
優先したために腰に負担がかかる構造になったりした。

◆長期的な効率よりも、短期的な目的を優先した突貫工事と言わざるをえない。
そう遠くない過去、まさに「アリモノ」を組み合わせちゃったんだよねえ。
ずさんな計画が巧妙にすり替わり、「罪悪感」として肉体に背負わされた。

◆そう、まさに「期限付き」の目的だった。
「こっちの世界」の「史実」においては。

◆心身は、意識の中のバラバラな星系由来のパーツのツギハギ。
胃と心臓など、別々のパラレルワールドから無理やり一緒にされて
びっくりしている。

◆これは「そっちの世界」の話。

◆「自分らしくない」という、自分らしさ。


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