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【#パラレルシフト #第六感 #シッディ  覚醒からのつぶやき 87】    

2022/08/28

脳1 1
🧠脳味噌っぽい鶏頭🧠


◆ムネから「は~」と吐くと溜息になる。
ハラから「ほ~」と吐くと安息になる。

◆五臓六腑の表面で力まない。
内臓を裏面から見てみよう。

◆背後霊はいても腹前霊はいない。

◆ウォークインは、背後から入る。

◆「この私」は、裏から飛び出す。

◆「私」と「わたし」を背骨で重ねて寛ごう。

◆「この私」という外人。

◆理解者でもなく共感者でもなく、
私はわたしの当事者としてあること。

◆客観は主観の空間的亜種。

◆認識の転換とは、主観と客観の反転ではない。

◆こんがらがった思考は、知恵の輪みたいに立体的に外そう。

◆多次元の知恵の輪のほうが簡単。
なにも「交差」してないからね。

◆直観を概念化すると認識は進化しない。
「神」という概念が、その最たる証拠。

◆「病気」は在っても「病人」は存在しない。

◆世界はSNS(ソーシャルネットワークサービス)
意識はPNS(パーソナルネットワークサービス)

◆忘却のプロセスを一瞬一瞬、辿れる者はいない。
忘却は忘却してしまった後に気づかれるのみだ。

◆ふと訪れる「忘却の空白」に気づくことから始めよう。

◆忘却の瞬間、何がどこにどう消えるのかを見切るのだ。
それは、忘却の対象物に意識を向けていては観察できない。

◆忘却は、忘却する者にとってのみ「忘却」と呼ばれる。

◆諦念による「消滅」と「忘却」は、似て非なるもの。

◆「忘却」は意識の気絶。
「消滅」は意識の活性。

◆生と死とは、私だけが知らない密約である。

◆「間違えて」生まれることなど絶対にない。
「ぼんやりして」生まれることだけがある。

◆純粋な空白には「有益な情報」など降りてこない。

◆修行者に必要なのは「空白」をどこにも落とし込まない諦念。

◆空白は記録できない。

◆アレッ?アレッ?という空白の間に世界が切り替わっていく。
雪崩れに巻き込まれたくなければ「ッ?」で瞬きしないことだ。

◆「時空の爆発」を孕むエネルギーの空白は、すでに現象世界の話です。

◆空白それ自体は認識され得ませんが、次の瞬間に何かが生まれ出ようとする
ときの「並列的な無限の瞬間が同時に圧縮された何か」であって、すさまじい
エネルギーの生成点であり消失点でもあります。

◆私たちは、エネルギー最大の瞬間に常に気絶しているのです。
このことは、生のパラドックスとしか言いようがありません。

◆「無」は「エネルギーゼロの地点」ではありません。

◆↓ここに「ひとつの白」を見ることができるか?
白色
◆↑「絶対的な白」を注視し得る目は存在しない。

◆五感「を」観察しても、五感「で」観察しない。

◆五感の中心は、五感ではない。

◆第六感と覚醒は無関係。

◆「五感」も「一感」も「百感」も、違いはない。

◆覚醒体験は「無感」でも「六感」でもない。

◆第六感は、五感の延長。

◆ハートには、五感では言い表せない共感覚が搭載されている。
それは第六感とも異なる、鮮烈なリアリティだ。

◆顕微鏡と望遠鏡が、宇宙を五感に閉じ込める。

◆差異が五感に振り分けられる。

◆音を聴くのか見るのか、色を見るのか聴くのか。

◆共感覚的に五感の分岐点に張り付いて在ること。

◆事象は相対するが、相対それ自体は相対しない。

◆あなたが『それ』であるならば、あなたは『それ』に酔うはずがない。

◆「正義」を免罪符にしない。

◆時空は時空を超えられない。

◆時空を利便で圧縮しない。

◆圧縮を超越と勘違いしている。

◆数式は圧縮ではなく展開。
「数」をそのまま見ること。

◆支点のない均衡は、圧縮も膨張もしない。

◆直列的認識による不自由さ・抵抗・摩擦とその回避のパターンが、
世界の可能性を分岐させていく。
分岐が分岐を呼び、無限の分岐が世界を拡散させる。

◆認識が分岐を生むが、分岐の認識はできない。

◆分岐はマーヤ。

◆闇は隠れていない。
目が闇を隠すのだ。

◆光は顕われていない。
目が光を顕すのだ。

◆本番から逃げるためのトレーニングとコンディショニング。

◆肉体の瞬きが、無限に待機する本番を隠す。

◆物質から離れれば離れるほど強烈なリアリティがあるのは、3次元特有
のパラドックス。
本当は離れているのでなく、全てを「含んでいる」から超高密度なんだけどね。

◆物質から離れれば離れるほどリアリティが希薄になるなら、
まだ物質の眼で見ている。

◆今朝、明晰夢で数回パラレルシフトした。
完全に別世界に飛ぶのではなく、日常が次の瞬間ズレる(関係性が
変わったり風景が僅かに変化したりする)のがリアルだった。
テレビみたいに一瞬で切り替わるので面白いといえば面白いけど
「パラレルシフト体験」自体は3次元的なんだよね。

◆見ている眼はすでに「切り替わりの面」に張り付いちゃってるから。
極まった瞑想では、眼は立体の奥からランダムなシフト群そのものを眺めていて、
自身はシフトに巻き込まれないのだ。
パラレルシフトは認識と世界の一対一対応で「類推可能な別世界」に飛ぶけど、
ランダムなシフト群では「類推によらない全ての世界」が待機している。

◆パラレルシフト時の眼の感覚を利用すれば、シフト群から世界を選択し得る
予感はあるけど、その能力を開発する食指は全く動かない。
そもそも、そんな能力に興味を持ったままではシフト群を奥から眺められないからね。

◆ある意味、私たちは瞬間瞬間にパラレルシフトしているが、瞬間と瞬間の変化
が小さすぎて気づいていない。
その僅かな変化を、当たり前のように「時間」に転化して納得してしまっているのだ。

◆「自己同一性」の引力が、見かけ上の瞬間と瞬間の変化を最小に保っているのです。

◆「意図なきシッディ」は宇宙を探訪し得るが、その能力は必須ではない。
宇宙の解明と覚醒は無関係だからだ。

◆肉体が3次元を超えられないのではなく「肉体というアイディア」が
「3次元というアイディア」に固定されている。

◆意識の粘性が肉体を固形化する。

◆私たちは「動き」を時間で測りますが、分割されない「動き」それ自体が
「ひとつの影」なのです。
このことを知るために時間を停止させる必要はありません。

◆時空内に完全な停止は存在しない。

◆摩擦による停止は、地上の錯覚。

◆停止は「停止」している。

◆動きを時間でとらえなければ、動きは無限の停止としてある。


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【#タイムマシン #クエーサー #先延ばし癖  覚醒からのつぶやき 86】   

2022/08/18

スイカ2
バリ島の鏡と西瓜


◆一切の制限がない時、何をするか?
それが、創造主の境地というもの。

◆「一切の制限がない」こと自体が、
すでに「制限ありき」なんだけどね。

◆人間は真の「無制限」を想像し得ない。

◆言葉を探して、言葉を超える。

◆言葉は、言葉のまま、言葉を超える。

◆言葉を超えると、言葉そのものとなる。

◆言葉を使わず、置いておけるかどうか。

◆「言葉探し」と「形探し」は同じこと。

◆言葉を音で胡麻化さないこと。

◆言霊と音霊の癒着に気づく。
癒着は神秘という名の魔術。

◆神の言葉は、発声不可能。

◆言葉の多義性を、存在の言い訳にしない。

◆言葉の配列は、物理的な領域を実際に動かす。
禍々しい言霊的な意味ではなく。

◆人称は人間の文法。

◆仮称代名詞の世界。

◆私を巡る忘却と追憶の運動会。

◆言語脳に言論の自由はない。

◆世に言論の自由を問う前に、自身の言語脳の不自由を見る。

◆世界化された言語脳が、世界に言論を問う不毛。

◆いかなるイメージも触発しないコトバとカタチになる。

◆言葉がピタッとハマったときは、言葉を超えてビビビッとくるもの。
これが、二元性の醍醐味。

◆言葉そのものは、もともとピタッとハマっているんだけどね。

◆私が私にピタッとハマったときも、私を超えてビビビッとくるものだよ。

◆「ビビビッ」に気をとられると、一瞥にとどまる。

◆「一瞥の振戦」は、肉体感覚と心得る。

◆「この私」は、わたしのサーキットブレーカー。

◆思考は、思考自身に「まだ見ぬ深淵」があるように見せかける。

◆思考そのものに奥行きはない。

◆執行猶予付きの無知に、ニヤニヤ居座らない。

◆「この私」という「踏み絵」

◆「踏む私」は絵の中にしかいない。

◆タイムマシンに乗るなら、過去でも未来でもなく「今」に還りましょう。
といっても、過去に行っても未来に行っても「今」しかないんだけどね。

◆「現在」から「今」に帰還する。

◆ひとつなのは意識であって、「世界をひとつにする」妄想は狂気の沙汰。
世界とは、もともと無限に分岐してあるもの。

◆「世界」をひとつの「有機物」に見立てない。
(「無機質に生きよ」という意味ではない)

◆肉体との同化は、世界を自他未分の有機物と錯覚させる。

◆超光速・無限「いないいないばあ」地獄

◆「心の痛風」という贅沢病。

◆解は一瞬
解読は一劫

◆「解読マニュアル」が、無限に増え続ける。

◆「マニュアルのマニュアルのマニュアル」

◆「引き寄せ」は、カルマのプラスチック・サージェリー。

◆「A-T-G-C」が私なら「A」「T」「G」「C」は誰なのか?

◆分離の不安が、崇高なものを宗教に貶めてきた。

◆崇めれば、崇高は隠れる。

◆崇高は、ただ創発の一点において知られる。

◆時空の反転のみでは自他は消えない。

◆宇宙は「先延ばし癖」の産物。

◆人生を誰かに見せる作品にしようとするから、気が重くなる。
誰もいないんだから、瞬間瞬間に完結する即興でいいんだよ。

◆「即興」とは「気まぐれ」ではない。

◆「即興」に徹するほど「今」は厳密さを増す。

◆「スピをやる」って「悟りをやる」ぐらい、奇妙な言葉だよね。

◆「スピをやめる」とかってもっと奇妙。
やったりやめたりするものじゃないし。

◆「宇宙から見れば人間なんてちっぽけな存在だよ」というけど、
相対的な「大きさ」で見ているかぎり、人間はちっぽけなまま。
肉体を宇宙の大きさに引き伸ばしたところで、何も変わらない。
宇宙の大きさには幻惑されるが、どこを切り取っても同じもの。

◆人間を「ちっぽけ」と卑下する無知は
「『空間的』に俯瞰した近視眼」ゆえ。

◆3次元における「俯瞰」は、転換以前の暫定措置にすぎない。

◆「近視眼的」俯瞰と「遠視眼的」俯瞰がある。
そのどちらも、肉体の眼に囚われた視点。

◆神は「巨人」ではない。
人間は「小人」ではない。

◆肉体が重荷のように思ってるけど、本当は肉体のほうが多次元的な知性の顕れ。
原始的なのは、私たちの認識のほうなのだ。
私たちは、ハイスペックな競走馬を乗りこなせない三流騎手のようなもの。

◆今は未だ、肉体を捨てる段階ではない。
肉体に学ぶ前に肉体を捨てれば、認識の進化はそこで打ち止めになる。

◆人間は「アタマ」「ムネ」「ハラ」の意志がバラバラだからエネルギーを
消耗するのだ。
本来「アタマ」「ムネ」「ハラ」それぞれの機能は独立しているのでバラバラ
でも構わないが、「ひとつの身体」の中で「この私」がそれらの意志を統治
しているという幻想がある限り、私の心身は疲労し続ける。

◆「アタマ」「ムネ」「ハラ」の独立性に任せずに、感覚と感情と思考が
混線した「統一体」を練り上げようとするから疲れるのだ。
例えば、各内臓は機能が独立しているが、それぞれの働きに任せているとき、
勝手に協調している。
「アタマ」「ムネ」「ハラ」も、そのように協調してもらえばいいのだ。

◆脳が知覚し得る闇と光は、もどかしいほど薄ぼんやりしている。
存在を射抜くような闇と光を、私たちは確かに記憶していた。

◆準恒星状天体「クエーサー」は、太陽の数百兆倍の明るさで輝いているという。
「イメージに限界はない」というけれど、その明るさを想像できないのは、
私たちのイメージが肉体の記憶に限定されているから。

◆限界のないイメージは、五感を超えた「インパクト」として響くもの。

◆イメージを物理に落とし込むとき、世界は五感の閾値に補正されるのだ。

◆サマタのヴィジョンは主観的に「現実世界」の解像度を超えているが、
解像度と解輝度が上がりすぎると、脳による認識は役目を終える。


ドラゴン5
ドラゴンフルーツ(火龍果)
柱サボテンの果実。
花言葉「永遠の星」


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