fc2ブログ

【4/29(月) Rubin’s work 5冊目新刊(英訳本)出版 / 無料キャンペーン】  

2024/04/29

●電子書籍(英訳本)5冊目出版●


”Rubin – Awakening – For Transformation of Perception”

⇒ amazon販売ページはこちらから


★4/29(月) 16:00 ~ 5/4(土) 15:59 無料キャンペーン実施中です★

英訳表紙 確定版
⇒ amazon販売ページはこちらから


本作は、第一作『Rubin ~ルビン~-覚 醒- 認識の転換のために』の英訳版です。

英語で読んでみたい方、日本語より英語が得意な方、英語圏の知人にお勧めしたい方、
翻訳出版の参考にしたい方など、この機会にどうぞ!

今回の翻訳にあたり日本語版を改めて読み直してみたのですが、我ながら日本語で
読んでも分かりづらい表現が多かったですね…

英語の場合はロジカルかつ平易でないと伝わらないため、もしかしたら英語で読んだほう
が分かりやすい方もいらっしゃるかもしれません。(内容は基本的に全文同じです)

★無料キャンペーン時に「おひねり感覚」でダウンロードしてくださる方や、レビュー
(英語でも日本語でもOK)を投稿して下さる方は大歓迎です!



<本書より転載>

“Rubin – Awakening – For Transformation of Perception”

This book was written as an experiment in instruction for "you," who seek to get enlightened,
and for "us," who are stranded at a glimpse of realization.

"You" already exists as the synchronic presence of "us" writing this book.
Though I do not yet know the face of the "you" whom I could see someday.

The moment of now already exists, in which the "you" who is now scrolling this page is "I."

When I was writing this book, you were reading it.

I sincerely hope that all of "us" unravel such dizzying intersections of space-time and
fluctuations of the subject with clarity without fainting or dizziness.


◆CONTENTS

0. Prologue
1. Rubin's Vase and "Between"
2. What is Awakening?
3. The Site of Phenomena Occurrence and the Impact
4. Time, Space, and Form
5. Love, Trust, Prayer, Selflessness, Good and Evil, Keys to Awakening
6. Oneness Experience on the Three seats
7. Death, Birth, Destiny, and Karma
8. Phenomena, Magic, Pressure Points, and Substances
9. Meditation, Perception, Intoxication, and Surge
10. What You Will Know by Awakening
11. Common Mistakes, Cautions, and Tips
12. About the Workshops I Provide
13. Epilogue


◆Rubin's work - The Work for Enlightenment, Meditation, Awareness –


******************

【4/30(火)追記】

おかげ様で、Amazon Kindle 洋書 Spirituality 部門で1位になりました!
たくさんのダウンロード、ありがとうございました。

ランキング1位

******************


◆X (旧ツイッター) 英語版を開設しました。

英語版 @Rubins_work_2nd
https://twitter.com/Rubins_work_2nd

日本語版 @Rubins_work
https://twitter.com/Rubins_work


◆ワーク参加ご希望の方は下記1作目をお読みになり、メルマガ登録をお願いします。
⇒ ご登録フォームはこちら


Rubin ~ルビン~-覚 醒- 認識の転換のために
r.jpg
⇒ Amazon 販売ページはこちら


⇒ Rubin's work 主催 AYA プロフィールはこちら

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ 出版

【5/18(土)18:30~22:00 「東京ワーク参加募集」】  

2024/04/27

*****  Rubin’s work  東京ワーク開催日時のお知らせです。

バルーン2 ワーク 指


◆5/18(土) 18:30~22:00
※今回は夜間のみの開催となります。

募集締め切りました。次回は東京にて6/15(土)18:30~22:00開催予定です。
参加ご希望の方は、まずはメルマガご登録をお願いします。(参加条件あり)


⇒ メルマガ登録はこちらから

場所は東京都中央区、参加条件等の詳細はメルマガにてご案内しております。


◆今回は、

【基礎】
・一瞬で集中に入る軸と姿勢
・どこにも居座らない座法
・呼吸の秘伝的ライン
・丹田のポイントと集中の奥義
・対象のない祈り
・内部の目へのシフト

【実践】
・三つ目と一つ目の統合
・3センターの垂直落とし
・垂直のワンネスポイント
・五感の共感覚と無化

をテーマにワークを行なっていく予定です。
(内容は参加者さんの状況によって変更となる場合があります)


◆直近に開催したワークの様子

⇒ #水平のワンネス/垂直のワンネス 【4/20(土) 東京ワーク ~所感と解説~】

⇒ #「慈悲の瞑想」と祈りの対象 【3/16(土) 東京ワーク ~所感と解説~ その1】

⇒ #ハート覚醒と余剰エネルギー 【3/16(土) 東京ワーク ~所感と解説~ その2】


↓ 限定公開ワーク動画 【実録!~「空」として在ること~】


【拮抗するポイントで空に浮くには】



※参加ご希望の方は、拙著 ⇒ 「Rubin ~ルビン~-覚 醒- 認識の転換のために」
をお読みのうえ、まずは以下のフォームからメルマガのご登録をお願いします。


⇒ メルマガ登録はこちらから

追って参加条件等の詳細をご連絡いたします。


※参加者一人一人の身体とエネルギーを見ていくため少人数性となっております。
参加希望の方が多い場合は先着順とさせていただく場合がありますことをご了承願います。


※メルマガ登録されている方で万一、ワーク案内メールが届いていない方が
いらっしゃいましたら迷惑メールフォルダをご確認ください。


***************

r.jpg
⇒ Amazon 販売ページはこちら



※ツイッター頻繁につぶやいてます※
@Rubins_work


⇒ Rubin's work 主催 AYA プロフィールはこちら

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ ワーク

【「徳」についての覚書き ~すべての探求者へ~】  

2024/04/25

【陰徳と紋白蝶】

ワーク当日、朝起きて窓のカーテンを開けると、トング片手にゴミ拾いをする人の姿が飛び込んできた。

真っ白なトレーナーを着た20代半ばぐらいの男性が淡々とゴミを拾い集めていると、どこからともなく紋白蝶が飛んできて男性の周囲をヒラヒラと旋回しはじめた。

思わずベランダから身を乗り出し「ありがとうございます」と声を掛けようとしかけたが、男性の無心の表情にハッとして言葉を飲み込んだ。

その表情と佇まいから「この御方の陰徳を穢してはならない」と察したからだ。

周辺のゴミが綺麗になくなると、男性は無心の足取りで去っていった。

紋白蝶


【徳のポイントゲッターと天使】

20年以上前、決死の覚悟で瞑想に取り組んでいたとき「徳を積まねばここで打ち止めになる」との強迫観念から、夢遊病のように徳積みの機会を伺い彷徨っていた時期があった。

とにかく目に付くかぎり、陽徳でも陰徳でも手当たり次第に何でもやった。

当時の表情は無心とは程遠く、端から見れば鬼のような様相だっただろう。

それでも「徳のない者は徳を積めない」との言葉を痛感し、たとえ劣善といわれようが、徳の車輪を回し続ける強い意志に突き動かされていた。

ある深夜、誰もいない公園の薄暗い電灯の下で、それこそ夢遊病者のようにゴミを拾っていた。

治安のよくない地域の荒涼とした公園には、そこかしこに吸い殻や食べ残しや吐瀉物のようなものが点々と散っていた。

私はむしろそれらを「有難い」と思って拾い続けた。

汚ければ汚いほど、誰も見ていないところで拾えば自身の「徳のポイント」になると盲信していたからだ。

暗い茂みの陰にしゃがんで一心不乱に拾っていると、背後から「よぉ、姉ちゃん、何してるんだい?」と声を掛けられた。

ビクッと振り返ると、ニッカポッカ姿の初老の男性2人がワンカップ片手にニヤニヤしながらこちらを見ていた。

その瞬間、咄嗟に「私の陰徳を邪魔する奴らが現れた」と感じ、引き攣り笑いを浮かべながらその場を立ち去ろうとした。

ゴミ袋を見た男性たちは「姉ちゃん、ゴミ拾いしてたんか、感心した。えらいなあ、えらいえらい」と言いながら近寄ってきた。

私は「いえ…」と引き攣りながらも、その男性たちの屈託のない声かけにフッと心が緩むのを感じた。

すると私の気の緩みを察したのか、男性たちはいっそうニヤニヤしながら「よぉ、姉ちゃん、独りもんなのかい?若い女が深夜にご苦労さん。なんか訳ありなんだろ?」と詮索しはじめた。

そのとき私は、エゴイスティックな徳のポイントゲッターの正体を見透かされた気がして恥ずかしさでいっぱいになり、そそくさと一礼してその場を後にした。

今思えば、あの酔っ払い男性たちは天使だったのかもしれない。

菊政宗


【行者と徳の車輪】

先日、パートナーのリアル氏(⇒ リアルワールド)の講座で、とあるヴィパッサナー行者の方と出会った。

謙虚な方でご自身の体験はひけらかさないけれど、熱心に修行されタイで短期出家された経験もあるとのことだった。

ご結婚もされているが、奥様の全面的な協力の下で修行に専念できる環境にあると伺い「それは得難いカルマですねえ」と、リアル氏ともども感心していた。

帰り道が一緒になり話しながら歩いていると、駅前で数名の若い男性たちが声を荒げて取っ組み合いの喧嘩をしていた。

それを見た行者の方は一瞬、男性たちの方へ向かおうとされたが、直観的に問題ないと判断した私が呑気に「まあ、すぐ隣に交番もあるしあの感じだと大丈夫でしょう」と言うと、胸が痛んだような表情を浮かべ何度も男性たちを振り返りながらしぶしぶ私の後をついて来られた。

そして、改札前で別れ際に「これから能登へボランティアに向かいます」と一点の曇りもない笑顔で言われ、手を振り去っていった。

その後ろ姿を見送りながら「ああ、生まれながらに徳の車輪が回っている方もいらっしゃるんだなあ」としばし感じ入ったのだった。


【徳積みは可能か】

昔、とある覚者に「徳って積めるものなんでしょうか?」と質問したことがあった。

すると、それまでにこやかに話していた覚者の顔が一瞬にして強張り無言になった。

「これはまずい質問だったのか」と思っていたら、天井の方を指さしながら重い口を開き「それに関しては…どうも『上』から言うなっていわれてるんだよ…」と、それだけ応えて質疑は終了した。

その覚者はタントラの系譜から派生して独自の覚醒に到った方だったが、絶対的なバクティからなるエネルギー感覚によって『上』の言葉を読み取り全託されていた。

その頃すでに、自分なりの実体験から徳の仕組みや因果応報の感覚を知ったつもりになっていたが、その時は「ああ、系譜が異なれば徳の扱いも異なるのだな」という程度の浅い理解に留まっていた。

ところが、いざ自分が人様に教える立場になってみると、改めてその覚者が口を噤まざるを得なかったデリケートな感覚が、身に染みて理解できるようになった。

結局のところ、徳を語るためには「どの認識から」「どの時空で」「どの覚醒レベルを教え」「どのスパンで生徒のカルマを請け負うか」といったシビアかつトータルな自覚が求められるのだ。

おそらく、その覚者はパッと来たばかりの一見の私にその場のノリでペラペラと徳を語ることを『上』から止められたのだろう。

私自身も、ワークを始めるにあたり徳を語ることには慎重になっていた。

なにより、徳という言葉の抹香臭さを匂わせないように気を配っていた。

実体験からカルマと徳の理解は絶対に外せない項目ではあったが、初めての参加者さんには極力匂わせなかったし、必要がある場合にのみ準備の整ったリピーターさんにお伝えするに留めていた。

しかしワークを重ねるにつれ、どうしても徳について語らざるを得ないシーンが出てくるようになった。

自分の体験を元に語るとき、カルマと徳の話抜きには語れないからだ。

そして、ある時期から初回の参加者さんへお送りする「参加要項」の中(それまでは2回目以降の方への要項にのみ記載していた)にも、徳という言葉を慎重に避けつつも仕組みは同義の<現象世界におけるエネルギー還元について>という項目を追加するようになった。

ワークには様々なバックグラウンドの参加者さんがいらっしゃるが、この仕組みの理解はどの参加者さんにとっても重要であり、それこそが恩寵を受け取る鍵だからだ。

これは、ワーク参加者さん以外であっても、どの探求者にとっても重要であるとの考えから、以下に参加要項からの抜粋を記載したいと思う。

~以下、抜粋~

<現象世界におけるエネルギー還元について>

私自身の経験上、覚醒を志向するときにはそれに見合うエネルギーを意識的に現象世界に還元・循環させることは必須となります。

具体的には、エネルギーの象徴としての金銭や人力等を日常のあらゆる場面でできるかぎり意識的に提供していくことです。

このときのポイントは「提供してあげている」という立場ではなく、「提供させていただいている」という感謝の感覚で行うことです。

なぜならそれは、すべて再び自身に戻ってくる還元の流れを意識的に利用させていただいているからです。

覚醒は現象世界のエネルギーを無視しては起こりません。

それは、壮大な時空の流れのなかで今この瞬間、創造の源との表裏一体の協力体制のもとに起こるのです。

突発的に見える一瞥体験も実は、過去に放ったエネルギーの循環のなかでの結果です。

最初は難しく考える必要はありません。

「自分にとって大切なものを受け取ったとき(受け取りたいとき)には、それに見合うエネルギーを感謝とともに現象世界へお返しする」と考えてください。

エネルギー還元(循環)が無意識のレベルまで癖づいてくると、瞑想や気づきの深まりとともに「その先」へ進むためにはどの方向のエネルギーがどのように還元されフィードバックされているのか具体的な意識の触覚を伴ってわかってきます。

~抜粋ここまで~


人によっては、これを読んで「なんだ、その辺の引き寄せ本で言ってることと大して変わらないし、そんなにデリケートな話なのか」と思うかもしれない。

しかし、いわゆる引き寄せの類と異なるのは、そこにエゴ感覚があるかないかなのだ。

ここが厳然たる覚悟を必要とする所以であり、その覚悟を一見の参加者さんへ問うことは、ともすれば宗教的な強要ととられる可能性があるのだ。

とはいえ、これもある時期から参加条件として「なぜ覚醒したいのか」を800字以上にまとめたレポートの提出をお願いするようになったことで、参加決定された方については覚悟とはいわないまでもエネルギー還元の意味についてお伝えしてよいかどうかを迷うことはなくなった。

ここで、なぜ長々と徳について語ったかというと、先日のワーク当日の朝に自宅の前でゴミ拾いをされている方を見かけたことを発端とし、会場へ向かう電車の中では遠くのほうからす~っとこちらへ引き寄せられてきた外国人観光客に道案内する機会が生じ、ワークではなぜかかなり早い時間に会場入りされた初参加の方がいて(開始時間を間違って記憶していたとのこと)、その場の流れで上記の参加要項の【現象世界におけるエネルギー還元について】の話題となったという一連の経緯があった。

この方は修験道の行者さんなのだが、ヴィパッサナー瞑想も経験されており、もともとカルマや徳についての理解はあったが「今回の参加要項を見て、意識的に善行に取り組んでみたことでその意味を再認し、慈悲の瞑想の理解にもつながっています」と報告された。

この方にはカルマや徳や善行といった言葉がそのまますっと入っていくので、具体的な因果応報の事例を交えてお話することができ、開始時間の記憶違いから起こったこの必然の時間が与えられたことを嬉しく思った。

「善行というのは、最初は意図的な劣善から始まっても、それがその人にとって必要な道であれば、ある時から自分で意図しなくても雪崩れのように徳を積む機会が向こうからやってくるようになるんですよ。その始まりの最初のサインは、電車に乗るとなぜか妊婦さんやお年寄りやご病気の方がす~っと引き寄せられるように自分の前に立つようになることですね」と言ったら、後から来たもう一人の僧侶の方と一緒にうんうんと頷きながら笑ってくれたのだった。

電車で


【一瞥体験と徳の枯渇】

一瞥体験というのは、往々にして過去世からの徳をその瞬間使い切ってしまうのです。 だからこそ、一瞥体験者はそこで気を抜かずに改めて徳を積み直す必要があるのです。

カルマと徳の理解のない一瞥体験者は、なぜその後同じ体験が起こらないのか、なぜ無明の苦しみに引き戻されるのか、体験の仕組みが理解できないまま、体験の記憶に執着し続けます。

もちろん、時空を超えたところではカルマも徳も幻想です。

しかし、その仕組みを知らなければ幻想も解けないのです。

徳の理解と運用には、実体験に基づく検証とセンスと直観力が必要です。

「公共のトイレを素手で磨けば運がよくなる」と聞き、仕組みはわからないけどなぜか気分がいいと喜んでいるレベルでは、いつまでたっても徳積みはブラックボックスのおまじないの域を出ません。


【徳積みのセンスと現報の果】

接心に参禅する時期になると、市場で生きた魚介類を見つけるたびにバケツごと買い取って近くの川や海に放流している行者がいた。

その行者は、生きとし生けるものへの慈悲から命を救う善行をなし、徳を積んでいると信じ至福感に浸っていた。

この行為は一見すると美談に見えるが、放流するのであれば魚介それぞれの生息地を詳細に調べ、それぞれに適応した水辺を探すか、自宅に水槽を用意したうえで引き取るべきだろう。

そうでなければ、逆に生態系を乱したり、生態系外の敵に捕食される可能性があるからだ。

とはいえ、即効的な現報という意味では、この行為が100%無意味というわけでもない。

少なくとも、その行為によって一時的にでも心が軽くなるのであれば、瞑想中になんらかの果はあるかもしれないのだ。

しかし、その楽果は限定的なものに留まり、やがて想定外の因は、巡り巡って行者へ返ってくるだろう。

そのとき行者は、返って来た原因不明の苦果に悩まされたとしても、その因果を解くことができない。

それ以前に、因果の連鎖を待つまでもなく、短絡的に善を強行する自身の性質に気づけないのであれば、その性質はそっくりそのまま瞑想の質に直結し、遅かれ早かれ瞑想は打ち止めになるだろう。

だから、徳積みにはセンスと直観力が必要だというのだ。

因果は全て瞑想の微細な領域にまで直結している。

微細になればなるほど、因果のベクトルを直観的に感知しなければ、知らぬ間に見当違いの方向へ逸れていってしまうのだ。

方向が逸れているかどうかは、意識のバランスの中心を知っている必要がある。

中心の空を知っていれば、そこから逸れるベクトルを瞬時に感知できるからだ。

デリケートな話になるが、ベクトルを見切る精度が極まれば、善行は世間一般の善悪や道徳や規律によっては図れないような行為へと促され、それに全託せざるを得なくなる。

全託者の行為は、凡夫から見ればもはや何の行動原理をもって成しているか意味不明になるだろう。

因果を折り重ねて直接行為する様は、脈絡のない儀式か魔術のように見えるかもしれない。
(拙著 『Rubin ~ルビン~-覚 醒- 認識の転換のために』 では、これを「覚醒へのフィードバック」という言葉で表現した)

全託が即、行為と一致するようになれば「善行」と呼ばれていたものは、相対的な「善」が剥がれて無為の「行」となる。

そこにはすでに、行する者は存在しない。

r.jpg
⇒ Amazon 販売ページはこちら


【聖なるエゴの麻酔と学習】

前述の覚者は、覚醒間もない頃には来るもの拒まずで早朝から深夜まで毎日、ありとあらゆる相談を受け付けていたという。

真っ新なハートは疑いを知らず、他者との境界がなかったのだ。

だがしばらくすると、それを聞きつけた心の弱い者たちが次々とやって来るようになり、一晩中電話をかけてきたり自傷をほのめかして呼びつけようとしたりするので、心身がすり減り、ついにはエネルギーが枯渇してしまった。

その経験を経てはじめて全託を問い直したところ「覚醒を伝える者の心構えと、それぞれのカルマとの中庸な距離」について学習させられていたことに気づいたそうだ。

このような経験は、今世ではじめて一瞥体験しハートセンターだけが暴走した場合に起こりがちだ。

自身のハートに従っているつもりが、そこに紛れ込んだ「聖なるエゴ」に酔ってしまうのだ。

最初のうちは酔いが麻酔となり、他者の痛みや依存をどんどん受け入れてしまうが、痛みに正直な心身は悲鳴をあげ始める。

なんらかの系譜に属していたり、絶対的なバクティが発動している場合は経験の意味に気づけるが、気づかない場合は往々にして「こんなにやってあげたのにわからないのか」と怒りはじめたり「やはり人間は救いようがない」と吐き捨て隠遁してしまったりする。

私自身は、昔からそういったパターンをたびたび目にしてきたことで、人の心の弱さと依存に対するスタンスは初期の頃から一貫していた。

以下は、先日出版した拙著『Rubin ~ルビン~ -ワーク実践篇-』のまえがきからの抜粋である。

~以下、抜粋~

また、ワーク参加にあたってはいくつかの参加条件を掲げています。

条件を目にして「覚醒は誰しも平等に起こり、誰をも平等に受け入れるべきではないか」と不快に思われる方がいらっしゃるであろうことも承知です。

ただ先にも述べたとおり、3次元の私がわたしとカチッと一致しないかぎり、私と肉体は癒着し続け「いつどの瞬間でも覚醒のポータルになる」という信は定まりません。

その意味で、肉体と癒着した段階において「自分自身を信じる」ためにはまず、3次元の人生において3次元の心身に自己納得していただきたいのです。

意識的であろうが無意識的であろうが、これを無視して覚醒の道をショートカットしようとしても、無視したレベルに「正確無比に」引き戻されることになります。

とはいえ、全てが完璧に整う必要はありません。

鍵となるのは、その人その人の「自己納得」なのですから。

~抜粋ここまで~


私の中には、人を「救う」という感覚はない。

もし「救う」人がいるならば、それは私自身が救われていないからだ。

それでも、時おり救いを求める人がやってくると、私の中の未浄化なものに気づかされる。

そのときは正直に上述のスタンスをお伝えし、それぞれの生の全うを信じることしかできない。

Rubin (5)
⇒ Amazon 販売ページはこちら


【阿闍梨と餓鬼】

霊力に優れた知己の阿闍梨は、大震災直後に施餓鬼会を行ったところ、かつて見たこともないほど無数の餓鬼が押し寄せてきたと語っていた。

震災で亡くなった方々への供養に乗じて、我も我もと救いを求めてきたのだという。

それはそれは凄まじい光景だったそうだが、押しつぶされそうになりながらもそれらの想念を丁寧に浄化していったそうだ。

これができるのは専門家の中でも選ばれた者のみだが、その供養も「救う」という意識では救われようとする想念の依存に巻き込まれてしまうのであって、自己を浄化しながら想念を「解いていく」ことが、本当の意味での成仏を促すのであろう。


【徳の自転車操業と信頼】

私は20代後半でピタッと前世からの徳を使い切った自覚があった。

それまでさんざん好き勝手なことをしてきて人様に迷惑をかけてきたので「もうここまでか」とそんな自分を見限っていたのだが、せめてこの私をダメにした自意識の正体だけでも見切ってやりたいという怒りにも近い想いだけはフツフツと湧き起こり続けていた。

だが、当時はそれを見切る術を知らなかったのだ。

そんなある日、学生の頃にフラッと立ち寄った本屋のことを思い出した。

ミニシアターでのバイト帰りに高田馬場駅前にあった本屋に立ち寄り、アート崩れの若造よろしく思想コーナーの「ユリイカ」を立ち読みしていたら、ふと隣のコーナーに目がいった。

30年前は精神世界というジャンルは手薄で、たしか認知心理学かなにかの並びだったように思う。(当時毛嫌いしていた宗教コーナーであれば完全に無視していただろう)

そこにあった心理学関係の様々なワークを紹介するムック本をなんとなく手に取り、パラパラめくっていると「ヴィパッサナー瞑想」という文字が飛び込んできた。

その時は「瞑想?ヴィパッサナー?なんだ宗教か」と思って閉じようとしたが、なぜか気になってその効果効能や体験談などをひととおり斜め読みしたのだった。

だが、その時はまだ20歳そこそこで自己表現への野心と希望に満ちており、瞑想にはまったく食指が動かなかった。

それから10年の月日がたったある日、突然その時の本屋の一角の映像と「ヴィパッサナー瞑想」という言葉がフラッシュしたのだ。

すぐにネット検索で引っ掛かった団体へメールし、2週間後には瞑想会へ参加していた。

「これを絶対にやらなくてはならない、絶対に」という異様な意志に突き動かされていたのだ。

私の徳は風前の灯だったが、ギリギリ残っていた最後の徳の燃え残りが、次の世界へと進ませてくれた。

瞑想を始めてからは、ギリギリの徳を使っては積み使っては積み、自転車操業で回していた。

はじめは徳やカルマや悟りなどという言葉すら知らなかったのが、瞑想と並行していくうちにそれらの意味を痛切に理解した。

「私には徳が足りないのだ、徳を積まなければここで終わりだ」

それが、前述の「深夜の公園」の徳積みの話につながっている。

徳のポイントゲッターというエゴが外れ、無心の行為を知るようになったある時、瞑想中にバチン!と音がするように全ての徳が一点に集中し「それ」が起こった。

ここで再び一瞬にして徳を使い切ってしまったが、昔と違ってこんどは現象世界で強制的に徳を積まされるカルマ的な怒涛の展開が起こっていった。

今思えば、完全に腐っていたあの時ギリギリ残っていた徳が作動したのは、絶望しながらもどこかで「それ」への信頼があったからだ。

それは、徳が尽きる前に徳が出会わせてくれた様々な出来事や人々の無条件の愛と慈悲への信頼が記憶の彼方に残っていたからなのだ。

私はよく、行き詰ってしまったと訴える人に対して「どんなに小さなことでもいいから自分が過去に受けた善意や一瞬の至福感を思い出してください。それはなぜこの自分に起こったと思いますか?」と問う。

そういったひとつひとつの瞬間を無視して嘆いていては信頼は育たないからだ。

この辺りは内観にもつながってくるが、自分は誰からも愛されない、不幸しかない、と思い込んでいても、生まれてこのかたほんの一瞬でも気持ちが軽くなった瞬間がなかったかどうか、自分の記憶を詳細に調べてほしい。

そこに一瞬でも至福があったなら、それへの信頼を取り戻していけるのだ。

ナイロン糸


【徳についての覚書き】

~Rubin's work Xより転載~

◆徳という言葉はエゴを強化しやすいのであまり使いたくはないのですが、ことに修行においてはカルマや徳が直接作用してきて、起こってくる現象の意味を解かないかぎり先に進むことはできません。
そこに気づけるか気づけないかは徳に左右されます。

◆エネルギーとして貯まるというよりも、瞬間瞬間の反応パターンが組み変わるんですよね。
その結果、エネルギーが変化して軽くなる。
徳という考え方は一長一短で、自分が徳の貯蔵庫であると考えるとエゴが肥大しますね。

◆善行の果を今生の自分が受け取るという保証はない。
「自分が受け取る」という自分がないとき、善行は善行としての目的を果たし、善が剥がれて行となる。

◆徳という概念は誤解を生みやすいのであまり使いたくないが、あえていえば一瞬のタイミングを全カルマの果として合わせられるかどうかが徳だ。
本気ならここは常に意識する。
リトリート前は断食必須で、復食期から入る。
能動的にタイミングを合わせるのは、見かけ上とはいえこの私なのだ。

◆徳っていうのは、優劣じゃないんだ。
徳は因果であって、すなわち時間の幻想なんだけどね。

◆「徳のポイント10倍還元セール」に群がる鬼の形相。

◆徳を知る者のみが、不徳を詫びられる。

◆得しようと思えばさもしい。
徳つもうと思えばさかしい。


花と手


関連記事 
⇒ 質疑応答 【禅とヴィパッサナーの相違と方便について】


※ワーク参加ご希望の方は、メルマガ登録をお願いします。
⇒ ご登録フォームはこちら



⇒ Rubin's work 主催 AYA プロフィールはこちら

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ 覚書き

#水平のワンネス/垂直のワンネス 【4/20(土) 東京ワーク ~所感と解説~】  

2024/04/21

4/20(土)東京にてワーク開催しました。

鏡


【水平のワンネス/垂直のワンネス】

ワークも回を重ねるごとに進化してきましたが、内部の目と水平方向(現象界)のワンネス感覚を具体的に
体感できる方が増えてきたので、今回はいよいよ次の段階の「垂直方向のワンネス」と「3つのセンターの
分離の無化」をお伝えすることになりました。

その意味では、今回は記念すべき日であったともいえます。


水平方向のワンネスも、内部の目が完全に確立しないうちはまだ肉体の目と認識が癒着していますが、
構造的に正確な位置を意識できされすれば、ある程度癒着があっても立体的な3次元視(水平のワンネス
は3次元のものです)の体感は可能です。

事実、これまでいらした参加者さんのほぼ100%がこの視覚を実際に体感できていました。


ただ、水平方向のワンネスではアタマ・ムネ・ハラそれぞれのセンターの覚醒感覚の違いが残り続けます。

もちろん、人間の認識においては一つの瞬間に一つの認識しかないため、ある瞬間においてはそれら3つ
のセンターは分離しているわけではないのですが、サマタが完璧に完成しないかぎり肉体感覚の揺らぎと
ともに、それらの覚醒感覚は時系列で顕われては消えていく繰り返しで、統合にはいたりません。
(3つのセンターのうち1つの覚醒に特化した一瞥体験だけでは、この揺らぎの仕組みを見切ることは難しいでしょう)

水平方向のワンネスにおいても垂直の軸を利用して「この私」が消えていることが前提なのですが、このときの
垂直の軸にはまだ上下の「高さ」があり、そこに消えることは肉体構造を利用した暫定措置なのです。

そこで次の垂直方向のワンネスが必要になってくるのですが、この段階では水平方向のワンネスの立体視覚
をより厳密に磨きあげ、肉体の目と認識の癒着を外さなければ成立しません。


【消失点とブラックボックス】

そのため、まずは基本の「内部の目の確立」と「3次元視の確定」と「水平(3次元)のワンネス体験」を順を追っ
て具体的にワークしていったのですが(このワークについては過去にも詳細に解説してきたので割愛)、垂直
方向のワンネスへの移行へあたり新たに加わったワークがあります。

これまでにも、内部の目の裏側(厳密にいえば座標があるわけではないので裏ではない)のブラックホールに
吸い込まれるような「消失点」とその奥の「見ることのできない」ブラックボックスの領域については度々触れて
きましたが、今回はそのブラックボックスの領域に反転して映し出される「もうひとつの現象界」を「消失点の内圧
で気絶せずに」具体的に「見る」方法を新たにお伝えしました。

「見ることができない」のに「見る」とは矛盾しているようですが、その矛盾は先に述べたように「見る」ことが
肉体の目の視覚と癒着している限りは解消しません。


シール

そこで、肉体の目の無意識の癒着を実感していただくために、まず内部の目から壁に貼った直径5mmの丸い
シールを見て(映して)もらい、その視覚の状態のまま瞼を閉じシールを見つづけます。

瞼を閉じているのでシールが視えないじゃないか、と思うかもしれませんが、シールを見ていた時の視覚と眼球
をそのままそこに置いておくと、肉体の視覚としては瞼の裏側しか映っていませんが、シールの実体感は依然
として見えていた時のままそこにあるのです。

この感覚は、シールの「イメージ」を創ってイマジネーションで視ることとは全く異なります。

瞼を閉じても開いても、具体的にそれはそこにある(感覚的には触れているといったほうが近い)のです。

このとき「見る」ことは、自分の外側にある(と錯覚している)対象物とそれにフォーカスする肉体の目との癒着から
はじめて解放され、純粋な認識(ただし、まだ純粋な気づきそれ自体ではない)として再発見されるのです。


この体感が得られたところで、こんどは眼を開けたままシールを内部の目から見てみます。

すると、純粋な認識を体感した新たな視覚は、肉体の目の癒着なしで純粋にシールを内部の目に映すことができる
ようになっています。

ある参加者さんはこの感覚を「シールが内部の目に直接吸い付いているようです」と表現されましたが、この段階
においては「自分」の外と内という境界がすでになくなっており、この見え方はすでに水平方向のワンネスの一瞥
といってもよいでしょう。


ただ、このときの内部の目の感覚はまだ「表側」に限定されており「裏側」は依然としてブラックボックスのままなのです。

ブラックボックスのまま内部の目の裏側へ回り込もうとするとき、プロセスを誤魔化さずに正確にたどれば、必ず内部の
目それ自体の高密度な内圧に気絶することになります。
(逆にいえば、適当に誤魔化してイメージで裏側へ飛んでもそこは表の認識で見た表の世界のままです。これは物理的
な表裏の話ではなく、座標のない認識の構造的な裏表の話なのです)


【肉体の目の癒着と感覚の後方転写】

そこで、裏ワザとしてこの肉体構造を利用することにしましょう。

まず先のように内部の目にシールを写します。

シールが吸い付いてくる内部の目の「表側」が実感できたら表の奥の消失点の「手触り(これを私はよく「意触り」
と表現します)」を感じ取ります。(意図的に「見よう」とするとそれは消えてしまいます)

さらに、消失点へ吸い込まれていった奥に広がる「見ることのできない」ブラックボックスのもやもやした「何か」の
気配を微かながらに感じ取ります。


ここでいったんその気配を置いておき、こんどは具体的に肉体の背面を意識化します。

これまでも説明を重ねてきましたが、眼球が前方方向に並んでいる人間の意識は常に肉体の前面に偏っています。

認識と肉体の目が癒着しているため、前面の視野と自意識が癒着しているのです。

この意識をいったん背骨側へ戻し(このワークは別途、基礎として毎回行っています)さらに視野を外れた背面の空間
を意識化します。
(背面の意識化には、両手で紐の端と端を持って腕を伸ばし、前面から頭頂を通って背面まで空間をなぞるようにします。
このとき視野から外れた瞬間に意識を変えないようにするのがポイント)

ある参加者さんは「前面から背面まで同じ密度のエネルギーの圧が感じられるようになりました」と言われましたが、
私は「手足で触れられる空間の範囲までが肉体」と定義しており、その感覚はまったく自然な道理なのです。


さて、物理的な肉体の背面が意識化できたところで、先の内部の目に映ったシールの見え方に戻ります。

この見え方は、前述のとおり内部の目の表側の現象であり、見かけ上のシールは肉体の「(見かけ上の)外側」の壁
に貼ってあります。

この(見かけ上の)外側にある壁とシールの視野全体を写している感覚を、そっくりそのまま肉体の背面に転写します。

もちろん、背面は視覚としては見えないのですが、前方の壁とシールを見ているときの内部感覚をそのまま後方へ
転写するのです。

これは前面の感覚が確立していないと難しいかもしれないので最初はイメージで補完しても構いません。
(このとき生きてくるのが、前述した「瞼を閉じても開けてもシールはそこにある」という体験です)

すると、外側から見た構造としては内部の目の消失点(・)の表(>)と裏(<)に同じ現象世界●が反転してあること
になります。(図で表すと●>・<● 構造としては「アインシュタイン-ローゼン橋」に近い)

このとき、背面の意識は未だ弱い(肉体の目の癒着が完全に外れていない)ので、裏の意識は表より曖昧だと思いますが、
多少訓練すれば表裏が同等の感覚に近づいてきます。


ただ、先に述べたとおり、この感覚は未だ肉体構造に依っています。

そのため、裏側の内部の目の感覚が強化できたら、転写したイメージを表側と同じように(肉体の目の癒着を剥がして)
内部の目の裏側に引き込みます。

このとき難しいのは、表側が視覚を頼りに引き込めたのに対して裏側は「感覚」だけを頼りに引き込まなくてはならない
ことです。
(この辺りから、文字で読んでいるだけでは珍紛漢紛になってくるかもしれませんが、ワーク参加者さんは何のことを
言っているか理解できるはずです。3次元の二元性モデルにおいては取りあえず裏表2方向だけ抑えればよいので、
実際にやってみるとそれほど複雑な話ではありません)

この「感覚」を具体的にするには、表側の立体視を精密に磨くしかないのです。

感覚が具体的になれば、イメージで補完した曖昧な部分が明確になり、転写したイメージ(感覚)が内部の目の裏側
に引き込まれ、表と等間隔の見かけ上の座標にカチッとはまるはずです。


【暗闇ワークと量子もつれ】

ワークではここまでのプロセスを明るい照明の部屋で目を開けて行い、その後、照明を消して真暗な部屋で同じこと
を行いました。

視覚情報が肉体の目と癒着しないという意味では、ある意味暗いほうが感覚を表裏同等に転写しやすいとも
いえるでしょう。

まず、壁に貼ったシールを内部の目に引き込み、裏側にも反転させた状態で照明を消すのですが、消えた瞬間に
肉体の目の瞳孔の変化に引っ張られて内部の目から意識が外れないようにします。

すると、前方の暗闇と後方のブラックボックスの暗闇(ブラックといっても本当は黒でも暗闇でもないのですが、ここ
ではひとまず暗闇とします)の境界がイメージを超えて地続きになるので、表の感覚をそのまま裏へ転写し、内部
の目の裏に感覚を引き込みます。

裏表の感覚が同等になったうえで試みとして、体軸を中心に肉体を回転させてみました。

体軸に自分という感覚が消えているとき、表裏の反転したイメージ(現象)の「前後」という概念は無化されます。

3次元の認識の私たちは、常に上記のように表と裏の現象世界の真ん中にありながら、前方の視野側に偏った
視覚にとらわれ(盲目の人であっても視覚に代替された五感を同じように使って方向を割り出しています)裏の
ブラックボックスには無意識なままです。

それが、3次元の立体視を獲得することによって前後の奥行きが意識化されると(裏表の世界は本当は同じところ
にあって分離していない)見かけ上反転した世界が立ち顕われてきます。

この反転した2つの世界こそが「量子もつれ」よろしく(この言葉自体は単なる概念にすぎないことに注意。明確な
体験なしに物理用語を乱用するスピリチュアルは信用しないこと)、消失点の高圧の気絶(=ワームホールモデル
でいうところの「ワープ」)を経由した二元性の幻視の源であるといっても過言ではありません。

(ちなみに、前時代的なプラトンの洞窟のアナロジーの影のモデルや、近時代的な映写機とスクリーンの映像の
モデルによる二元性の解説は、個人的な体感としては片手落ちと言わざるを得ません。なぜならば、影や映写機
を投影している者は誰なのか?という疑問が残り続けるからです。それらの解説者は往々にしてその「誰か」を
短絡的に「本来の私」と置き換えがちですが、映写機を回している「誰か」はすでに認識可能な表側の現象世界
に含まれるのです。そもそも、映写機とフィルムというアナロジーは時系列ありきの話です。体感的には表と裏と
ワームホールの出現に時差はなく、突如として全体の構造が同時に発生します。それは本当に唐突な瞬間です。
ただ、それが「客観的事実(本来そんなものは存在しませんが)」として「同時」かどうかを証明する術は3次元人
にはありません。その意味では量子が唐突に顕われたり消えたりする現象にも似ていますが、短絡的にそれを
認識の解説に転用するのは浅薄でしょう。また、唐突に出現する瞬間のスパークを真空から突然起こるビッグバン
モデルで説明すればエゴは満足するかもしれませんが、そういう類のエゴは、ビッグバンという現象自体が怪しく
なってきた昨今、新たな学説が生まれれば軽薄に信念を乗り換えていき、自身の実存としては結局どこにも辿り
着かないでしょう。客観的事実が幻想であるならば、最終的に重要なのはシンプルに「その人自身がどうか?」
ということしかないのです)


サクラ


【暫定的な無我感覚】

ここまで来ると「では、2つの分離した世界をどのように統合するのか?」という新たな疑問が起こるかもしれません。

前述のように、裏表の世界はもともと分離はしておらずひとつのところにあるのですが、それを分離して見ているのは
私たちの認識仕様にすぎないのです。
(といってもほとんどの人間は片側だけしか見ておらず、分離していること自体にも気づいていない)


この一つの解決案として、水平方向のワンネスにおいては先の「回転(自転)」して軸に消える、という方法があります。
(スーフィズムなどはこの回転を利用しますが、前提として神という二元的な存在を立てているので、構造的に
「恍惚(酩酊)」という忘我のシステムに踏みとどまらなくてはならない必然があります)


ただ、先に述べたように、水平方向のワンネスで利用される軸には上下の「高さ」があり、見かけ上はこの私が軸に
消えていても上の果てと下の果てはブラックボックス(というより感覚的に表現するとホワイトボックス?)のままなのです。

それはいわば、暫定的な「無我感覚」を上下に引き伸ばして確定を保留し続けているようなものです。

曖昧な領域を保留できるのは、まさに肉体感覚ありきゆえで、肉体のとどかない領域を無化ではなく無視することで
「無我」を肉体レベルで代替しているといってもよいでしょう。
(今回は準備運動として別途、ハラの底の果てしなく深い奥から個人を超えた「地獄」を吐き出すワークを行いましたが、
ハラの奥から声を出してくださいと言ったところ、声が肉体と癒着しているため、肉体の限界までしか深度を掘り下げ
られないといったことが見受けられました)


【垂直の無我感覚】

ここでやっと最初の話に戻ります。

水平方向のワンネスは、上記の理由から3次元の肉体に留まり続けるのであればそこで完結しても構わないのですが、
肉体由来の暫定的な無我感覚の保留を突破したいのであれば、次の垂直方向のワンネスの体感が必要になってくるのです。

ここで改めて生きてくるのが、水平方向のワンネスの表裏を同時に見て(触れて)いる感覚です。

ここから先は、今回のワークでは時間切れで導入を匂わせるだけになってしまいましたが、ヒントだけいうと水平の裏表
の感覚を(ある意味シンプルに)90度回転させて垂直にし、上下を水平の時と同じように見れば(触れれば)よいのです。

シンプルといえばシンプルですが、実際にやってみると肉体の目が完全に剥がれていないと「上下に垂直に見る」という
感覚は具体的に起こりません。


この感覚は、一般の人であっても例えば「お腹が痛い」といってお腹の感覚を見るときに、一瞬だけ無意識に垂直に目
を落としてお腹そのものを見ていることがあります。

ただ、本人はそのことを自覚していません。

ヴィパッサナー瞑想のマハーシメソッドなどではサマタの導入としてお腹の膨らみ縮みの感覚を見ていきますが、垂直
に見る目が確立していないと腹部というイメージを「外側」から見ることと「内側」から見ることを無意識にごちゃ混ぜに
してしまい、それにより集中がなかなか深まらないといったことが起こります。


今回のワークでは導入としてアタマの認識に特化し、水平の壁に貼っていたシールの感覚を天井に貼ったシールに
置き換えて垂直感覚の手触り(意触り)だけ体感していただきましたが、この段階ではまだ水平方向の意識が勝って
いるため、アタマ・ムネ・ハラの3つのセンターは縦に分離して並んだままです。

次回からはアタマに引き続き、ムネとハラの垂直方向のワンネス感覚もそれぞれ体感していただいたうえで、3つの
センターの分離を自意識とともに重ねて落とし、垂直方向の無我と存在のスパークの体験までをワンセットにして
いこうと思います。

(水平垂直という概念は3次元ありきなので、最終的には肉体感覚を落とすとともに水平垂直への囚われも外していきます)


ここまで文字で読んできて「これらの感覚を即物的に知ることに何の意味があるのか」「魂に何も響いてこない」と疑問
や苛立ちを感じた方もいるかもしれません。

これはもう実際に体感してみていただくしかないのですが、カチッと構造にはまったときの意識状態を知れば、どのような
心理的アプローチやスピリチュアル的アプローチにもない具体的な「エゴ感覚による苦の幻想」の激減(消滅はしません)
を即座に実感できるはずです。


チューリップ


関連記事
⇒ #輪廻はあるのか #私と世界の存続 【9/17(日) 東京ワーク ~所感と解説~】
⇒ #二元的「出産=創造」と循環 【1/20(土) 東京ワーク ~所感と解説~】


※ワーク参加ご希望の方は、メルマガ登録をお願いします。
⇒ ご登録フォームはこちら



⇒ Rubin's work 主催 AYA プロフィールはこちら

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ ワーク