【#真理と恩寵 #ニヒリズム #ASD・ADHD・HSP 覚醒からのつぶやき 11】

◆たまに「私はもう〇歳だから、せめてわかるところまでわかって死にたい」
とか言う人がいてびっくりする。
自ら意識を限定したらそこで硬直し朽ちていくだけ。
限定しなければ、身体エネルギーが減少したって、いくらでも柔らかく微細な
あいだに入っていける。
あいだはどこからでも入れる。
◆いかなる外的な条件にも限定されないであることを知れば、
死の直前まで進化し続けられる。
身体がまったく動かなくなったって関係ないのだ。
そのことを知ってもらいたい。
それはまったく、難しいことじゃない。
誰でも知りうる意識の技術なのです。
まずは、今ある限定に気づくこと。
◆真理を求める人が考えるところの真理は、真理ではありえない。
求めて得られる固定された真理などない。
強いていえば、そのことが真理。
◆全体という何かがあるわけではない。
◆身体性、個別性という器をパカっと重ねて枠を落とすこと。
どの器にも偏らない。
まず、器の幻想に気づくこと。
◆自分という器の境界線を、ぼんやりと消していくのではない。
くっきりとした私という機能の器が、全部そろってすとんと落ちるのだ。
だからまず、この世界で生きて、器をはっきり自覚する必要がある。
◆中心という感覚は、3次元の概念。
このことを鮮烈に知る。
◆わたしたちの悟りは、認識形態に限定されたもの。
◆対象から一対一で離れようとするのではなく、遠心分離機のように
全方向から引き剥がされて浮く。
このことを、意識単体でやるのです。
◆突然、漆黒の宇宙空間に投げ出されたように、つかまるところがなくなる。
◆何かに触れる時に、意識で前に押しすぎなのです。
ほんの少しだけ引いて、浮いていてください。
そこが3次元の中心です。
◆「ここにいる」感覚を、肉体の目と癒着した気づきで見ているから、
対象と一対一になるのです。
まず、その癒着に気づいてください。
◆対象一つ一つの密度と速度は異なる。
それなのに同じ力で見ていけば、単一の限定された気づきの主体が形成される。
主体自体を崩すには、気づきを瞬間瞬間、流動的にすること(ただし意図的でなく)です。
◆恩寵によって自動的に運ばれる感覚がなければ、何かがそれを止めている。
隠されたヒントに気づくこと。 止められているのも恩寵なのだ。
◆「〜論」に終始せずに、自身の実存に生々しく触れるところからはじめる。
無我を「自分を消すこと」と勘違いしない。
◆この心身を保っているのは、わたしたち自身の信念なのだ。
次の瞬間、巨大な虫になったとしても信念のほうが強ければ、
すぐに心身の形に引き戻されて何食わぬ顔で生きている。
そんなバカなと思うかもしれないけど、本当は個別の形態なんて
固定されていないのだ。
儚いけれども、強固な夢。
◆信じることは力にはなるが、妄想と紙一重。
常にバランスを意識する。
生のエネルギーと、自我のパワー感を混同しない。
◆自分の頭で「あるある〜」と割り切れるものは、慰みにはなるがシフトは起こらない。
具体的なシフトを促すものは、何のことを言ってるのかさっぱりわからないが、
直観的に「何かある」と微かな動きを察するようなところにある。
◆ここでポイントは、何かわからくても安易にそれを魔術的な「シンボル」
に還元しないということ。 マントラにしろヤントラにしろ神聖幾何学にしろ、
シンボルはパワーを持つが、意味を自身で理解しない限り、ここで気絶が
起こり、集合意識に組み込まれてしまうのだ。
神のシンボルもしかり。
◆一切合切、物質的にも社会的にもすべてのモノを捨ててみる、
というのはリスク覚悟で一回はやってみたほうがいい。
(出家もそれに近いけど、寺も社会だ)
その昔、実際やってみたら、あり得ない軽さとともに一回だけとんでもない
瞑想が起こってターニングポイントにはなった。
◆でもそれによってわかったことは、あくまでも社会とのコネクションが断たれて
物質的に軽くなった分だけの体験が起こったにすぎないということ。
問題は、捨てる・捨てないという二元性にはない。
わたしたちは物質であって物質ではないのだから。
でも本気なら一回はやってみるといろいろわかる。
◆瞑想は過激であって静謐なもの。
◆覚醒そのものには個々の密度や形はない。
現象世界に采配される時も、カードのように均一に並ぶ。
世界に入ったとたん、わたしたちの認識によって密度と速度が配分される。
◆祈りは命を差し出すこと。
だから、古代の生贄の儀式は効を成した。
ただし、それは原始的な集合意識の中で起こった。
だから1人の生贄で全体に波及した。
◆現代の祈りは生贄に変わる象徴を用いるが、集合意識ではなく、
ワンネスの意識が前提になければ、局所的な個の願いにとどまる。
そろそろ対象のない祈りへ移行するときだ。
◆ニヒリズムは覚醒の手前で力尽きた者の墓場。
まだ手足が動くニヒリストは、墓土の下から自力で出てきてください。
筋金入りのニヒリストだった私の阿保面を見に来てください。
◆この世の便宜上、チャクラという見方をするならば、頭上に手を伸ばして
触れられる部分までは肉体の延長で開発できるでしょうね。
でも、もう15センチほど後ろに視点を置いた方がいいです。
そこは肉体と空間の延長じゃないので。
◆女性は、性エネルギーを直接利用することができる。
受動的に発生したエネルギーを脳天まで垂直に突き抜けさせればよいのだ。
男性は、能動的に発生したエネルギーを、放出せずに一瞬引き戻して
受動に転化するプロセスが加わるので、難易度があがる。
だから、男女の能動受動の円環が利用される。
◆性エネルギーは体表でバラバラに放出させずに、背骨の際を通らせる。
通り道がついたら、エネルギー単体で認識できるようにエクスタシー感を切り離す。
このエネルギーは認識の座の確立に利用されるが、その場合は頭頂に突き抜け
させずに、松果体の裏付近の気づきの極限の場でスパークさせる。
◆感覚としては、能動的にスパークさせるのではなく、気づきの精度が極まって
高密度の磁場のようなものが発生しているところに、垂直に昇ってきた
エネルギーがゴゴゴッと吸い寄せられていく衝撃。
そこでバリバリと音がするように認識の座が引き剥がされて宙に浮く。
ここで、現象発生の場に立ち会う。
◆これは認識の座の確立にすぎず、覚醒の全体ではない。
だが、ここが確立しないかぎり、すべての体験は不明瞭なままなのだ。
ここだけは、エネルギーが使えるうちに意識的に取り組む必要がある。
◆認識の座は場所ではない。
松果体のように活性化すればよいものでもない。
ほとんど物理的といっていい力で、引き剥がすのだ。
無意識に剥がれかけている人もたまにいるが、そのことに気づいていない。
それ単体で意識することを知らないからだ。
◆あれはどうか、これはどうか、と聞く前に、まず、自分はどうかに気づく。
それがすべての基本。
◆グラウンディングしていない覚醒は危険です。
頭だけを開こうとしないでください。
バランスを崩してこの世界との調整に苦しむことになります。
私はワークには参加条件をつけています。
基本的な人間としてのバランスが取れていることです。
ここを無視すれば結局やり直すことになります。
◆無明は形を変えて生き延びる。
この悲哀を慈悲の名の下に、世界のアイデンティティにしてはならない。
◆覚醒の最大の鍵となる信頼がトータルで発動するには、
この世界での自己受容が必要です。
そこから逃げるための覚醒ではありません。
◆インスタントな覚醒を求めないでください。
ワークでは無駄な回り道はカットできますが、それぞれの覚醒の時機を
変えることはできません。
それはすでに決まっているからです。
その決定を信頼してください。
◆全員を均一に救おうとしても結局、誰も救えない。
◆火事場の馬鹿力は、気づいたら重いタンスを運び出してるけど、
信じられない重さのタンスを気づきながら運び出しているのが瞑想。
まずは馬鹿になってストッパーを外そう。
◆電車でうとうと居眠りをしていて、目的の駅でドアが閉まりかけて
ハッと起きて、頭が白紙のまますごい勢いで荷物を持って飛び降りる、
そんな感覚。
全部、勝手に起こってる。
脳を使っていないわけではなく、自我の実態感とは別のところで動いているのだ。
反射運動ともまた違う。
◆要は、火事場の馬鹿力にせよ、電車の飛び降りにせよ、無意識の反射
に気絶せずに気づきが伴うのが瞑想ということなんですが。
逆に、気づきが伴うことによって動きが制限されるなら、その気づきには
認識のバイアスがかかっています。
ここは、身体にも協力してもらわないと、わからないところです。
◆知り合いの僧侶で「輪廻を信じてない」という人がいる。
それだったら解脱という概念自体が崩れるけど、なぜか人一倍、熱心に修行している。
常にもやもやした点が残るからだろう。
輪廻は視点によってあるともないともいえるけど、信じる信じないではなく、
自身の体験から検証していくべきこと。
◆ただし、なんでもかんでも輪廻に結び付ける安直なスピリチュアリズムに
逃げるのではなく、あくまでも今生きているこの私の一点において実相を見切る。
◆すべてが矛盾であれば、矛盾が真理となる。
全員の前提がちがうのに議論しても不毛だ。
矛盾だらけのわたしたちを、ただ受け入れる。
◆この心身を保っているのは、わたしたち自身の信念なのだ。
次の瞬間、巨大な虫になったとしても信念のほうが強ければ、すぐに心身の形
に引き戻されて何食わぬ顔で生きている。
そんなバカなと思うかもしれないけど、本当は個別の形態なんて固定されていないのだ。
儚いけれども、強固な夢。
◆人間からみて整合性のとれた因果は、時間が直列的に進むという
信念の磁力によるものです。
このことは、瞑想によって体験として知ることができます。
因果の実相を見破らなければ、人はいつまでも瞬間に差し込まれた
サブリミナルメッセージに洗脳され続けます。
◆純粋な「それ」は物理的な手ごたえがないので、常にそこにあるのに
肉体は気づかずに素通りしていく。
◆一歩あるくたびに、足元からパタパタパタパタと順番に積み重なったものが、
私となる。
膝の皿だけが間違って食器棚に入ったりしないのが、不思議でしょうがない。
覚醒の現場は、あんなにもランダムなのに。
◆この世界というのは、手品みたいに唐突に顕われる。
次の瞬間、何もない真空からニョキッと顕われる。
ニョキッと顕われるのにも法則があるんだろうけど、
たとえ法則を知ったとしても何もできないんですよ。
法則を知らないと不安なのは、何もできないことにまだ、
完全降伏していないから。
◆認識に閉じ込められた亡霊が、記憶をつなぎ合わせて保っている世界。
小さな自分のつくった世界がないと、生きられないと思っている。
◆「この世界」というとき、何をイメージしているだろうか?
そのとき浮かんだイメージが、わたしたちを限定しているもの。
世界があるかないかを考えるのではなく、世界というイメージが
あるかないかを直観すること。
◆開脚したまま足を後ろに抜けるようになると、世界が立体的になる。
耳の後ろ側の世界が開けるのだ。
肉体と結びついたわたしたちの認識は、身体の可動域と連動している。
股関節が硬ければ、頭の上にタオルを水平に持って両手を後ろに抜いてみてもいい。
トーラスの後ろ側が捉えられるようになる。
◆開脚が苦手な場合は、筋肉と骨を開こうとするのではなく、筋肉と骨の
あいだの空間を後ろへ回転させるイメージで行うといい。
そのとき、耳でどこまでも広がる水平線を意識するとその意識に連動して
縮こまっていた空間が開く。
◆前後開脚の場合は、サードアイと盆の窪を遠い彼方まで前後にひっぱり
あっている意識で足の付け根の空間を引き延ばす。
◆このとき、空間にぶつかる筋肉の強張りを見つけたら、肉体を伸ばすのではなく、
意識で塊をほぐしていく。
痛みも意識でほぐしていく。 あくまでも、肉体ではなく空間が先にあることを意識すること。
これを毎日続けると、肉体が連動して少しづつ可動域が広がってくる。
◆本当は、肉体と意識を切り離せるならば、身体の柔軟性は関係ない。
意識だけで同じことができればいいのだ。
でもまず、物質と認識の癒着を実感するために、肉体という対象物があったほうが
理解しやすい。
イメージだけですべてやろうとすると結局、肉体に癒着した認識にひっぱられて妄想になる。
◆愛を知りたい人は仕組みを放棄する。
仕組みを知りたい人は愛を放棄する。
どちらの放棄も新たな夢の世界を創る。
◆外部のエネルギーと契約を結んだ人は、パワーを身につけていても中心がズレている。
魂を売るという言葉はまさしくそのとおりで、自身とは別の中心のブラックホールに
向かって吸い込まれているのだ。
そういう人は、その人自身の中心に安らぎがない。
◆ハンペルマン人形みたいに、軸だけ上下にひっぱられて、ピョコン!
と座ればいいんですよ。
手足はブラブラで。
◆相対的な不正もわたしの中にあって、意識の分布図が瞬間瞬間に組み替わっていく。
痛みが伴うことがあっても、私はただ「へ〜?」と見ているしかない。
◆私という定点がなければ、押すのも引くのも方向がない。
押し引きの概念自体がない。
中心に消えるというのもまた、方便なのだ。
◆「この世で使命を果たすために生まれてきた」という発想はエゴを強化する。
覚醒から見れば、全員が見事に配置されていて、使命を果たしていない人など
一人もいないのだ。
ぼーっと息してるだけで、完璧に使命を果たしている。
◆言葉というのは、言葉以前ではみんな知ってることを、指差し確認するためのもの。
言葉の世界では、みんな忘れたフリしてる。
◆覚醒は境界が曖昧になって自分が消えていくものとイメージしていないだろうか。
その逆なのだ。
すべての色と形がくっきりと鮮明になる。
ゾクゾクするようなエッジで切り取られた鉱物など、それ自体、
サマディに張り付いているではないか!
◆死が楽しいものだと皆すぐ死んでしまうので、怖いものと思わされている。
裏を返せば、そう思わせてまで、やっぱり生きてほしいという母の願いがそこにはあるのだ。
◆女性はホルモン周期によって、集中や気づきの精度にバラつきが出やすいため、
伝統的な修行は不利と見られがちだが、周期を逆手にとり卵胞期のピークに
タイミングを合わせればむしろ有利で、飛躍的な進展も可能。
ここは男性の指導者は考慮してくれない。
◆もちろん不調な時期をあるがままに見ることも大事な修行だが、
もし瞑想体験に特化してリトリートに入るなら、できれば月経期と黄体期を避ける。
男性も女性も身体を理解し、アスリート並みにすべてのタイミングをここぞという一瞬に合わせる。
ダメでも次がある、とダラダラやらない。
◆徳という概念は誤解を生みやすいのであまり使いたくないが、あえていえば
一瞬のタイミングを全カルマの果として合わせられるかどうかが徳だ。
本気ならここは常に意識する。
リトリート前は断食必須で、復食期から入る。
能動的にタイミングを合わせるのは、見かけ上とはいえこの私なのだ。
◆ひとつの瞬間にひとつの気づき、というのは3次元の限定された認識にすぎない。
この現象世界において、まずは生滅智は明確な体験によって見切られるべきだが、
同時に、生まれて滅するという直列的時間の生滅の幻想も見切る必要がある。
生滅のスクリーン側の圧倒感にとらわれないこと。
◆ワークで内部の目の開発をしているときに「筋肉痛になりそうです」と言われた方
がいて感度が鋭いなあと感心した。
内部の目が開けて認識が転換するときは意識と連動して肉体の癒着がバリバリと音
がするように剥がれる。
さながら、意識の筋肉痛といったところ。
◆絵を描く人はモノを見る目が出来ている人が多い。
デッサンで正確に対象を写し取るときに、自他のないところで自身の中で線を引くからだ。
こういう人は意識を単体で捉える感覚をつかみやすい。
◆黒点を集中して見ていると眼球運動とともに意識がチラチラ動くことに気づく。
これはサッケードという生理機能なので眼球を止めることで黒点を固定しようしても無駄。
チラチラ集中がズレることの瞬間瞬間に気づき続けるとどこにも触れていない
「あいだ」が立ち顕れてくる。
◆その「あいだ」に内部の目で黒点を「ピンどめ」して置いておく。
サマタの訓練の観想は、この位置で見るのだ。
◆ここ数年でASD、ADHD、HSP等(カテゴリーは異なるがLGBTQ等のセクシャリティも)
を名乗る人が急速に増えた印象だが、個人的には例えば「この人はASDの人」
といった見方はせずに、常にその人そのものを見たいと思う。
その人個人のユニークさを、それらの画一的な区分で切り捨ててしまいたくないのだ。
◆そのような見方は極端な話、ガンを患った人を十把一絡げに「ガンの人」
と呼ぶような乱暴さがある。
もちろん、社会的に長年苦しい立場にいて、それらの区分の自覚で自己受容が起こったり、
社会的認知によって権利を獲得したりすることはあるだろう。
◆だからといって「私はHSPだから」と自身を概念で固定してしまうと、その人に
しかない存在の豊かさを自ら切り捨ててしまうこともありうる。
基準からはみ出した個性の権利を主張しながら、自ら新しい基準をつくってしまうのだ。
◆私自身、子供のころから一般の基準からズレている自覚はあって、
周囲との摩擦や生きづらさを感じたこともあったが、自身の存在の個性に概念的な
名前をつけて救われたいと思ったことは一度もない。
存在する自由は何ものにも限定されないからだ。
存在の権利を決定する世間など幻想だ。
◆わたしたちは、世間以前に存在している。
「そんな風に思えるのは強い人だけだ」と思うかもしれないが、そうではないのだ。
自らを限定して、世間という幻想に甘んじて傷ついているのだ。
権利を声高に叫ばなくてもありのままでいられる大らかな世界は、
自らの幻想の解除によって立ち顕われる。
◆パートナーも私も自己肯定感が半端なくて、お互い相手そっちのけで「自分って天才!?」
と自画自賛して悦に入ってる笑 端からみたら気持ち悪いだろうけど笑、
自分を誉めるのはナルシシズムではなくて、神の創造を誉め称えていることなのだ。
だってこんなユニークな存在、自分で一から創れます?
◆太陽と月のあいだと
昨日と今日のあいだと
原子と原子のあいだと
生と死のあいだと
色と形のあいだと
刹那と刹那のあいだと
わたしとあなたのあいだ
すべておなじところにある
◆あいだはすべての真ん中だけど
定規では測れない
定規で測った真ん中は
測るわたしの目によって
真ん中から逃げてしまう
真ん中そのものを知るには
わたしが真ん中になるしかない
◆座禅の形は結果として止まって見えているだけで、止まった形に自分を
押し込むわけではない。
野口整体の活元運動は、体癖に応じて体の外に自発動運動を放出させていくが、
内と外のない座禅においては、放出の瞬間瞬間のあいだに放下し続けることで、
存在の本来の輪郭がその場に浮かび上がる。
◆座禅の輪郭は、線ではなく点なのだ。
そこでの自発動運動は、瞬時にその場で回収され、圧縮されたエネルギーとなり循環する。
◆鐘がカーンと鳴って見性するとき、鐘と私と音の区別がないところで
カーンがカーンのまま炸裂する。
でも、カーンは誰も聞いていないところで、いつだってカーンのままあった。
カーンがカーンと鳴ったかどうか、わたしが思い煩うことはない。
◆覚醒を言葉で伝えるとしたら、長嶋茂雄のコーチングみたいに、
オノマトペと指示代名詞だけになる。
「ビューッと!」 「それを!こう!」 「そこで!バチーン!」
それでも、伝わる選手には伝わる。
◆覚醒体験の非個人性は、逆にその人の独自性を浮上させる。
なんらかの体験が起こったら、既存の言葉に当てはめずにしばらくの間、
それそのものに深くとどまってみよう。
そうすると、堰き止めていたエネルギーが溢れでてくる。
◆生まれることと滅することは、交互ではなく同時なのです。
そのことを明確に目撃することなくして、世界への疑いは晴れません。
◆肉体という集積の幻想が、仮想空間に摩擦を生み、物質の動きを創発する。
◆この次元を他の次元から俯瞰しても、そこに新たな目が発生するかぎり、
それは覚醒ではない。
◆メシア思想は自己愛と不信から起こる。
その思想自体が、世界を残留させ続ける。
◆神と呼ばれるエネルギーの総体がどこかにあるわけではない。
エネルギーの決定それ自体だけがある。
決定自体に質量も時空もない。
決定は即全体であって、同時に起こる。
決定は連続しない。
◆全体の決定と共にあるとき、人生の行く先を思い煩うことはあり得ない。
◆私たちは、自ら生んだ時空に「せり出して」しまったネバネバした泥人形です。
泥は洗えば落ちます。
◆何もしていなくても、形の幻想は莫大なエネルギーを消費する。
本来、形はその形以上のエネルギーは必要ないのに。
◆世界の悪は撲滅するのではなく、自らの内にあることを知り「無効」にする。
◆「覚醒=宇宙を知ること」ではありません!
覚醒においては、宇宙を知ることと晩御飯の献立を考えることは「まったくの同義」です。
そこを見切らずに語られた宇宙は、どんなに複雑な多次元理論であれ、
3次元の恒星の重力に囚われた発想に留まります。
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