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【覚醒からのつぶやき 16】        

2020/12/23

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。

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◆キーボードで文字を打っていると、直観の核心がスルッと逃げていく。
直観はビットで確定できないから。
だから、瞬間的に手書きで書きとめる。
楷書ではなく、草書?で。
難点は、後で自分で見ても解読できないこと... 笑

◆覚醒状態とは「見ていること」は在るが、見ている私の再帰的自覚の
時差が限りなくゼロに近づいていき、私の不在性が極まること。
人間の形態では完全にゼロにはならない。

◆無我は性質ではない。 私が無我になるのではない。
私という感覚すら無我なのだ。
だから無我を目指さないこと。

◆押すことは、押されること
引くことは、引かれること
吸うことは、吸われること
吐くことは、吐かれること
両義性のあいだに在るとき、
どの瞬間を切り取っても身体は存在しない。

◆湧き起こるエネルギーの内圧に輪郭を纏わせず置いておこう。

◆身体の内と外は私が分けている。
内も外もないフラットな気づきになろう。

◆唾を吐き捨てると自分の頭に落ちてくる。
塵を投げ捨てると自分の腹に溜まってくる。

◆甥たちは兄弟そろって、頭の後ろにつむじが2つ並んで渦を巻いている。
まるで太極図。
真理は見えない背後にあり。

◆あちらの世界とこちらの世界が分かれてあるわけではありませんが、
そのことを、こちらの世界の認識で見ることはできません。

◆手触りならぬ「意触り」といった感覚があって、
わたしたちはそれに直接触れている。

◆「蚊に刺されたから足が痒い」という原因と結果は、
時系列の3次元的認識です。
身体を超えた次元では「痒み・刺され・蚊・足」が、例えていうなら
「ゆあれさみかしさ」というようにランダムに重なってあります。

◆ここには主客がないので、能動受動のベクトルありきの動詞はありません。
この私と身体の整合性の磁力が、それらを並び変えて見かけ上の時空を創ります。

◆世界の歴史は瞬間瞬間に組み変わっていきますが、
この私が組み変えに介入することは不可能です。
なぜならば、私は組み変えられた直後に発生する仮初めの担当者意識だからです。

◆ただし、私とわたしのあいだに在るときには、介入はできなくても
組み変わりの現場に立ち会い、その驚異を眺めていることはできます。
そこに私の意図が介入すれば、たちまちそれは隠れます。

◆現象発生の仕組みがある程度見切れても、現象が動く様を見るのは
神秘的な興奮を伴うので、表層側にフォーカスし利用しようとしてしまう人が多い。
それではちょっとだけ進化した魔術師のまま、世界に使われ続ける。
だから、一度は発生の源をはっきりと見て、完全にショックを受ける必要がある。

◆生滅智とは、存在していたものが滅していくのではなく、もともと実態のない
幻の像が、時系列で切り取られ消えていくのを3次元の直列的認識で見切ることです。
これによって諦念は確立しますが、ここがゴールではありません。
直列的認識の幻想自体が完全に見切れて初めて「普遍のそれ」が顕れます。

◆3Dのシンクロや奇跡は、直列的時空の整合性が一瞬緩んだときに
4Dと5Dの立体的認識を一瞥することです。
5Dでは3Dの奇跡は奇跡でもなんでもありません。
5Dでは時空を同時に見渡せるからです。

◆5Dにおいてもおそらく、6Dと7Dからの超立体的な奇跡が垣間見れるでしょう。
ただし、悟りと呼ばれるものは、次元の区別や奇跡などとはまったく関係ありません。
進化の過程に囚われて、このことを混同しないように注意してください。

◆この世界は、意味内容と構造が言語脳により分かち難く結びついているが、
言語と個体性を介さない時、構造はエネルギーの配列としてあるだけだ。
本来、個別のエネルギーは存在しないが、直列的な認識の切れ目切れ目が、
見かけ上のエネルギーの区別と差を生み、現象が動く。
この差自体が、幻なのだ。

◆世界は完璧だ。
心理的な意味ではなく、一分の隙なくすべてが配置されているという意味において。
私が世界を「動かせる」という想いもまた、一分の隙なく「動かせない」
ものとして、この瞬間に起こっている。

◆分離の不安が、崇高なものを宗教に貶めてきた。

◆宗教原理で回っている世界から自由になるには、
自らの分離の幻想を見切るしかない。

◆この世界では、あらゆるものが隙あらば宗教になろうとする。
宗教は平凡な日常にも「当たり前」という気絶のもとに、忍び込んでいる。
まずは、一人一人がそれに気づこう。

◆絶対的な悪が宗教を蔓延らせているのではなく、私たち自身の無知と
不安がそれを許してしまっている。
外側の悪に立ち向かう前に、自身の内側を見つめよう。

◆「見る」覚悟を決めると、存在は微笑む。

◆見ないでいれば、見なかったものに足を引っ張られる。
そこから逃げ切ることは不可能。

◆世界を救うという被支配者の正義心は、支配者と同じ闇から来ていることに気づこう。
分離した両者を、この一瞬に気づくことで、自らの内で救えるのだ。

◆瞑想が苦手な人は、一日のうち1分でいいのでボーッとする
空白の時間を意識してみよう。
意識するだけで、何もやらなくていいです。
なんなら、何かやりながらでもいいです。
いや、10秒でいいです。
そうすると、いつのまにか気づくと日常が瞑想になってきます。
これが本来の瞑想です。

◆朝がきて夜がくる。
月があって太陽がある。
光があって闇がある。
物を投げれば下に落ちる。
地球の座標と質量とサイクルは、太陽系思考ともいうべき認識パターンを
ガッチリと人間に埋め込んでいる。
人間はこのサイクルに人生を重ね合わせて生きている。

◆このパターンは人間の二元的認識の根源ともいえるが、
他の惑星系に逃げて新しい認識を獲得したとしても、
いずれその星の思考パターンに囚われる。
ここが、外側の星に救いを求めるスピリチュアルの不毛な点だ。

◆外側に救いを求める前に、なぜ地球という幻想に根付いているのか、
何が自分という感覚を規定しているのかをハラを決めて見極める必要がある。
そのために、ここで生きているのだ。

◆宇宙レベルの存在の呪縛に気づきはじめると、どこにもグラウンディング
できない根源的な不安が浮上してくる。
このレベルになると、守るべき私を掴んだままだと恐怖で狂ってしまう。
ここからが、瞑想の本番だ。

◆いま立っている足の裏、いまモニター画面を見ている目、
いまこれを読んで浮かんだ思考、すべてに答えがすでにある。

◆ワークの参加条件として、精神的にも物質的にも「自立していること」が大前提です。
いかなる依存もあってはなりません。
その意味で、教える人も教えられる人も対等です。
ただし、双方ともに謙虚さは必要です。
謙虚さは、存在への畏敬の念から起こります。

◆「だって先生がそう言ってたもん!」
子供がそう言うと「ハイハイ、可愛いね」と笑うのに、
「だって師匠がそう言ってたもん!」
「だって経典がそう言ってたもん!」
「だって宇宙人がそう言ってたもん!」
「だって神様がそう言ってたもん!」
がまかり通っているのは何なのか?

◆共通言語になっていないだけで、例えば、視覚障碍者の間だけで
通じる触覚言語があるはず。
そこには私の知らない豊かなもうひとつの世界が展開しているだろう。
私たちが使用している言語は、たまたま多数派の共通認識から成っているだけ。

◆私たちも子供の頃は豊かな世界に触れていたが、言語という共通認識
パターンにいつの間にか組み込まれてしまっている。
もし視覚障碍者が世界の多数派ならば、障碍者と呼ばれることもないし、
言語や色や形をはじめ、あらゆるシステムが触覚や聴覚に基づいて
今とはまったく異なる世界が創られるだろう。

◆つまり、今この世界がこのような見た目であるのは、たまたま2つの
目玉で見るという視覚から成り立っているということ。
このことを当たり前と思っていると、思考の固定観念は外れない。

◆「あるある」の安心感は、村社会の密やかな始まり。

◆善いカルマと悪いカルマがあるわけではない。
そのことに気づく縁と気づかない縁はある。

◆カルマ=私という思い込みは、実体のない苦しみの根源。
私たちは、この瞬間の一時的な「担当者意識」にすぎません。
次の瞬間の担当者が「この私」である必然性はないのです。

◆この世界の幻想性を映像の比喩だけで説明する教えはまだ、
認識の二元性に囚われています。
幻想性は、私という存在トータルで見切られるものです。

◆3次元のワンネスにおいては、その二元性ゆえに認識は見かけ上
反転するが、世界と私の存在が入れ替わるわけではない。
入れ替わる枠などなかったのだから。

◆神聖幾何学は、私を宇宙という枠にはめ込む手強い概念です。
少なくともこの3次元の脳にとっては。
「それ」には直線も枠も支点も構造も次元も象徴もなかったことを思い出そう。

◆トポロジーを面でとらえれば、トポロジカルな柔軟性と相転移性は失われます。
3次元で視覚化されたクラインの壷は、むしろ裏表の概念を強めます。

◆細胞感覚、体壁感覚からなる個体意識の強すぎる私たちは、
世界を膜のように捉えてしまいがちです。
膜は幻想です。

◆「概念」という名の概念に気づこう。 「思考」という名の思考に気づこう。

◆世界に直接触れようとして、モノに染み付いた言語性を排除しようと
意図すれば、記号論的な沼にハマる。
ただ意図なく気づくだけでいいのだ。
脳の機能を変えようとする必要もない。

◆映画でも小説でも漫画でも、創作においては夢オチは手垢のついた
禁じ手となっている。
「この世は夢」という覚醒観(表現)も、そろそろ禁じ手にしてもいいのではないか?
大多数が普段見ている夢の感覚との齟齬があるから、混乱を招いている。
そもそも区別する人がいるだけで、区別なんてないし。

◆時空のあらゆるレイヤーは、この瞬間の存在の重みを受け止めきれない人
のための仮想避難所として設定されています。
自分が受け止めようとするから、重いのです。

◆何が言葉を成り立たせているかという感覚が極度に鋭い人は、
世界の発生の源を垣間見る能性がある。
たいてい、その前に神経をやられてしまうだろうけども。

◆下を向き、足元を見ながら歩いてみよう。 この時、視界に映っている
客観的事実として、私が移動しているのか、地面が移動しているのか、
判別がつくだろうか?

◆次に、顔をあげて歩いてみる。
視界いっぱいに映った世界が移動していくのを見ていると、ルームランナー
に乗って足踏みしているような感覚が生まれてこないだろうか?
私が移動しているのか、世界が移動しているのか?
私はどこにいるのか?

◆グラウンディングは、肉体の重みをどさっと地面に落とすことではありません。
グラウンディングのバランスがとれたときは、足の裏はぴたっと地面に着いていますが、
全存在を点だけで支えているような軽さが生まれます。
このとき、地球も同時に軽くなっているのです。

◆背骨を「置いて」おけるようになると、新しい存在感覚が生まれる。
背骨は進化の立役者だが、私たちは肉体的にも精神的にも、
背骨に寄っかかりすぎてきた。

◆「真実の世界」が在るという、うっすらとしたイメージを持っていないだろうか。
だが存在の背景に、世界という容れ物やキャンバス地があるわけではない。
世界という地が私という模様を成り立たせているのではなく、
私と世界は同時に顕われているのだ。

◆無我から目をそらせたい自我は、自己を見る怖れをすり替え、
客観的真実を知りたい(在ってほしい)という想いを抱く。
この想いが、世界という背景のイメージを創り続け、自己イメージを
その中にはめ込む。
この無意識に発生しているイメージに気づこう。

◆ただし、世界の存在を否定しないこと。
否定したらしたで、自我を押し殺し「無い」という客観的真実を探し始める。

◆私たちはいつも何かに「くっついて」います。
モノにしろ、身体にしろ、思考にしろ、くっつくことによって私という実体感を得たいからです。
しかし、無我が真実だとすれば、くっつく本体もないはずです。
とすれば、何がそれらにくっついているのでしょうか?
それは、実体のない「空虚さ」です。

◆底なしの空虚さが、対象を吸い込んで幻の実体を構築しようとするのです。
なぜなら、私は空虚さの闇が怖ろしくて耐えられないからです。
そして実は、私という空虚さと客観的対象がくっついているのではなく、
対象自体も私の空虚さが生み出した幻なのです。

◆つまり、執着とは幻が幻をつかんでいるという実体のない関係性だということです。
さらに本当は、怖れを感じる空虚な私という感覚も、幻が幻をつかんだ瞬間に
後付けで生まれているのです。
すなわち、すべてが実体のない幻であって、幻の背景に本体があるわけではないのです。

◆このことが見切られたとき、私の空虚さと怖れの源は、
単にどこにも存在しない真空のそれであったことを知ります。

◆「記憶」は、3次元の直列的時空が混乱しないための機能として脳に実装されました。
(見かけ上)限定された空間内に、過去現在未来のすべての事象が同時に起これば、
個別の肉体を持った私という自己同一性は崩壊してしまいます。

◆そこで、同時に起こったそれらをいったん記憶の貯蔵庫に入れ、
表層の認識世界から見えなくし、直列的に小出しにしながら時空を並べるという
アイディアを採用しました。
前後に並べる際には類推と分類によって、見かけ上の整合性を保ちます。

◆私たちは何かに向かって進化しているわけではありません。
なぜなら、世界はすでに始まって終わっているものの記憶を切り刻んで並べた、
古ぼけたアルバムのようなものだからです。

◆「座」禅、「立」禅、「歩行」禅は、見かけ上の開始と終了があるが、
瞑想は本来、始まりも終わりもない波のようなもの。
瞑想は24時間、本番です。

◆分離意識のまま進化を急げば、気絶している間に「ひとつ」という
名目の全体主義に回収されます。
この流れを許しているのも、私たち自身なのです。

◆派手な奇跡は、大衆向けのマジックショーのようなもの。
本物の奇跡はまさに今、目の前に起こっている。

◆「他人がいること」と一元性は矛盾しません。
自他の区別がなくなる特殊な意識状態をキープする必要もないのです。
私たちはすでに一元性の体現者であって、二元性とは単に認識の仕様にすぎません。

◆特殊な意識状態では、一元性と二元性が並列進行しているように
感じられることがありますが、認識の仕様によって気づきが点滅し、
点と点を繋ぎあわせて見ているだけであって、本来そこに分離はありません。

◆私たちの想像しうる自由とは、すでに管理の内にあります。
どこにも属さない本当の自由を見たら、エゴは怖くて逃げ出すでしょう。


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