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【覚醒からのつぶやき 17】        

2020/12/30

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。

カーネーション


◆宇宙が先にあるのではないのです。
私と宇宙は同時に立ち上がります。
私と宇宙は極小の針穴から同時に広がりますが、
すでに広がっているものとして認識されます。
なぜなら、脳の認識処理はあまりにも遅いからです。

◆重力もまた、先にあるのではないのです。
ベクトルの引き合いの発生と同時に、重力を成り立たせる
ための惑星の配置が決まります。
重力とは、物体の力学というより、実体のない「関係性」なのです。

◆関係性を保つためのアイディアとして、惑星の位置関係
も後付けで生み出されました。
それほどまでに、関係性とは、強固な磁力なのです。
どこでもないところに、意味が付随される前の関係性だけが、
唐突に浮いて在るのです。

◆どのような形であれ、自己表現は早いうちに一度は
やっておいたほうがいい。
自己表現欲求と覚醒欲求を混同している人が多すぎる。
また、覚醒は自己実現の道具ではない。
自己はすでに実現しているから存在しているのだ。
私たちが自己実現と呼んでいるものは、自我実現なのだ。

◆人をおんぶしようとするとき、2人の重心がズレていると
重くて持ち上がらない。
それと同じく、世界のあらゆるものと私の重心がズレているから、
重さと摩擦が生まれる。
私という個体感覚は、ズレの産物だ。
全ての重心がひとつに重なった時には、全部が同時に浮く。

◆この時、個体の区別はなくなり、ズレは私が創り出して
いたことに気づく。
おんぶしているときの2人の接着面を観察してみよう。
そこに明確な境界線と質量があるだろうか?

◆パッと見た瞬間、自己完結している人としていない人がいます。
自己完結している人は、その瞬間、足したり引いたりするズレが見当たりません。
(自覚があるかないかは別の話です)
自己完結は、人間として優れているかどうか、どのような
認識レベルにあるかどうかは関係ありません。

◆その瞬間、存在が完全に自己自身に受け入れられているか
どうかだけが決め手です。
ただし、自己完結の瞬間が連続するとは限りません。
「人」がいるとき、存在との関係は常に揺らいでいるからです。
自己完結している時には、その人は消えています。

◆一流アスリートはイメージングが必須だが、一般人が同じ
イメージをしても100mを9秒台で走ることはまず不可能だ。
イメージングは、それを具現化できる身体があってこそ、
この次元での結果に結びつく。
高次元のイメージからイメージへと想いを馳せ続けても、
この次元が救われない理由は明らかだ。

◆ならば、この次元の不可能性を見ずに、まとめて放棄すれば
よいと思うかもしれないが、そう思っているのがこの次元の自分なので、
常に救われていない自分に足を引っ張られるのだ。

◆何かに触れた瞬間、過去の記憶がパパパパッとフラッシュバックすることがある。
トラウマがある場合は、この現象に気づきやすいが
(過去の経験から、危険を察知すると自動的に集中力が高まるシステムなのだろう)、
実は特別な記憶でなくても瞬間瞬間、同じことが起こっている。

◆触れてくるあらゆるものが因子となって記憶が立ち上がってくるが、
その瞬間が見切られることなく、気絶したまま次の思考や行動が誘発されている。
フラッシュバックが起こって気づけた時には、その感覚を観察してみよう。

◆気づきの瞑想の当面の目標は、因子に触れた直後にパパパパッと
展開する始まりを見切ることだ。
そのためにはやはり、危険を察知した時と同じレベルの集中力は必要ということになる。

◆赤ちゃんはよく自分の足で遊んでいる。
それが自分のものだと知らないからだ。
遊んでいるうちにどこかにぶつければ痛みが生じて本能的に泣く。
泣いていると親が来て、ぼんやり視界に入る。
そのような経験を繰り返すうちに、遊んでいた足がどうやら自分のものらしいと学習する。

◆このプロセスをいったん逆に辿って、自分と足との関係性を白紙に戻してみる。
この時、視界に映っている足と呼ばれていたものに生じた感覚から、
どのように自己同一性の認識が立ち上がるのかを観察する。

◆するとだんだん、映っているものが自分の足だという信念が揺らいできて
「この感覚が生じた時は自分に属しているはず」という認識は、
記憶から推測された仮定にすぎないのではないかという疑念が出てくる。
こうなると、自分という自己同一性も揺らぎ始める。

◆ただし、ここで揺らいでいるのはまだ思考なので、いったん思考は
置いておき、瞑想によって、起こっている事実をありのまに確認する。
すると、感覚というのは非常に曖昧なものだということがわかってくる。
そこで初めて、自己同一性の幻が見切られるための準備が整う。

◆3次元における存在は、垂直と水平の交差点に「浮いて」います。
交差点でスパークしたインパクトから「私」が立ち顕われなかった場合は、
世界は形が与えられず、もとの真空に吸い込まれ消えていきます。

◆この場に立ち会うことがいわゆるハラの見性体験です。
「私」が立ち顕われた場合は、まず即座に垂直の意識がパラパラパラッ
と積みあがります。
これが原初の背骨ですが、未だ身体の形は立ち上がっていません。
このときは、垂直に落ちた視線は存在と0次元で重なっています。

◆次の瞬間、真空に消えなかった衝撃波が波紋となって広がり、
水平の意識が生まれます。
そして、垂直と水平の意識の立ち上がりの時差がとゆらぎが、
空間をメリメリと押し広げます。
垂直に重なっていた0次元の視線は、波紋の水平方向に引っ張られて
90度回転しベクトルが発生します。

◆このとき、肉体の目が前方向へ並びます。
(肉体の目が認識の前にあるわけではありません。
また、認識の自覚は水平意識が発生したずっと後です)
このように世界は毎瞬、生まれる/生まれない可能性のギリギリの
線上で生滅を繰り返しています。

◆(いわゆる生滅智の生滅は認識の座に特化して見切られるものですが、
上記のプロセスの生滅は存在の座と認識の座のコンビネーションによって
見切られるものです)
まず、この発生の現場を自身ではっきりと見てきてください。
すべて自身の内で毎瞬起こっていることです。

◆そうすれば、この不確かな世界に際し、どの位置にいればよいのかが
自ずと理解されます。
ただし、このプロセスは3次元に限定された相対的な現象です。
発生の仕組みを限定された認識において知ることは、3次元の私にとっては
興味深くても、覚醒から見れば局所的な現象のひとつにすぎません。

◆どのような教えも常に諸刃の剣となりうる。
〇〇メソッドと名前をつけた瞬間に抜け落ちてしまう認識の手前の感触があって、
そこに各自が触れるための「在り方」を伝えたいのだが、呼吸のようにすでに
在ることを改めて教えるというのも奇妙で不遜な感覚がある。

◆ただ、それを自覚したいという私たちの想いが勝るとき、
人の形を使って教えを生み出しているとしか言いようがない。
だから完全に私たちの信頼が熟せば、そう遠くないうちに教えが
不要になるだろう予感はある。

◆思考しながら話すときには脳内の記憶やイメージを読み取ろうとして、
額と目にぼんやりと膜がかかったような表情になっている。
内部の目に意識があるときには、脳内の思考を参照しようとしても、
目が動かないので物理的に不可能だ。
だから目を見開いたまま、触れてきた直観だけしか発話できない。

◆ウルトラマンになったつもりの子供がベランダから飛んだり、
神との対話に感化された俳優がマンションから飛んだりして、
しばしば惨事が起こる。
「飛べると思ったんだね、可哀そうに」と人は憐れむけど実は、
100%信じて飛んだ瞬間は、疑って飛んだ瞬間に比べ
「ほんの一瞬だけ」実際に飛んでる!

◆悲しいかな、一瞬後には落下していくけども、その瞬間だけは
時空から自由になり浮いていたのだ。
(落下する現実を見ている私以外の世界では、
そのまま実際に飛べた世界線もなくはない)
私たちのこの現実世界はまだ、100%の信念よりも肉体と引力の
法則が勝っているが、その法則も絶対ではない。

◆本当は、顕在化している信念は自我の信念であって、潜在意識下に
「物質(肉体)の信念」というものが存在し、2つの信念が一致しないと
物理法則は超えられないのだ。
それこそ信じられないかもしれないけども、物理法則も実体のない関係性
であって、物質自体が人と同じく信念を持って存在している。

◆赤ちゃんや小さな子供が高層階から落ちて奇跡的に助かることが
たまにあるのも、そのあたりに鍵があるだろう。
また、一般人がイメージングしても100mを9秒台で走れないのは
「肉体側がそれが可能だと100%信じていない(信じるキャパがない)」からだ。
その人の肉体は信念のとおりに在る。

◆世界とは信念なのだ。
だからといって、物質と私の信念を融合させて「空中浮遊してやろう」とか
「身体を消してやろう」とか目指し始めれば信念の分離はますます強化される。
そもそも、私たちの目的は信念で世界を動かすことではなく、
信念を外して世界の幻想を無化することだったことを思い出そう。

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