【#悟りと煩悩 #右脳開発の悲劇 #弥勒菩薩 覚醒からのつぶやき 44】

まもなく梅雨入り
◆「覚醒あるある」を語ったところで
「それがどうした」って話だけど、
実際それは「それがどうした」というべき
「何でもないもの」なんですよ。
だって「あなたは息してる」って言われても
「それがどうした」ってなるでしょう?
◆「神聖」という概念は、
世界を禍々しいものに見たてる。
夢というよりもまず、魔術から目覚めよう。
◆「わかる」も超えていく。
「わかる」は、背景と模様を分離することだから。
ほら、漢字でまさに「分かる」って書くでしょう?
そういうことなんだ。
◆『分』かっていることは、わかっていればいい。
『解』かったり『判』ったりしなくても。
◆幻想が悪いわけじゃない。
進化し続ける幻想は「どこにも辿り着かない」
という意味で私たちにとって虚しいだけであって。
でも、幻想に目的地はないけど、これも完璧な
必然で起こっているんだ。
「必然=意味」ではない。
「幻想=無い」でもない。
「幻想を見ている『こと ≠ 者』」は在る。
◆命が無限のとき、目的は消える。
◆つい今しがた、爆音がした。
家の目の前で衝突事故が起こったのだ。
即座に、数名の通行人がテキパキと通報・怪我人
への声掛け・交通整理などを役割分担していた。
それを見た私は今、これを書いている。
すべてが完璧だ。
◆人間は、アタマで概念を転換できるようになった。
3次元では、立体を回転させればいいからだ。
次は、ハートの転換にチャレンジ。
これは立体じゃ上手くいかないけど、さあどうする?
ちなみに、ハラは転換しないよ。
◆悟りっていうのは、
煩悩がなくなるんじゃないんだ。
逆に、極小から極大まで全ての煩悩が同時に
あって、どれも選びようがない状態なのよ。
◆「悟り」という言葉がなくなったら困る人は、
悟りが目的になってしまっている。
◆固定された言語体系が、
世界の足枷になっている。
◆この世界の言葉は、順列の幻術なんだよ。
文字が並べられる時、肉を引き千切られる
ような産声があがるんだ。
◆数式は順列を超えるが、解は順列にもどる。
◆収支を一生で合わせない。
一瞬で合っている。
◆「可哀想な人」を創って憐れむのは、
慈悲ではない。
◆好悪は主観だけど、相性は事実。
エネルギーだから当たり前。
◆盲信は仮初めの強さを生むが、
自分自身からはどんどん乖離していく。
◆弥勒菩薩は煩悩すべてを請け負って
今この時も臨在していますからね。
胸が熱くなりますよね。
それは時空を超えた私たち自身なんですよ。
◆全ての存在が私たち自身なんだけど、
ありがちなのは、突発的に覚醒した勢いで
「私が弥勒であり、救世主なのだ!」
と主張し始めること。
でも全体が「私=弥勒=救世主」という役割
に分離した途端、ひとつであった弥勒は
私たちから離れてしまうんですよ。
◆何かに成ろうとしなくても、それぞれが
ただ私自身であるということで、すでに
全体であるということです。
◆救う者と救われる者の分離がなくなった時、
弥勒は役割から解放される。
◆貨幣がなくなっても、肉体がなくなっても、
寿命がなくなっても、進化の階層が存在する限り
「労働」は続く。
世界は「存続するための労働(奉仕)」によって
成立しているからだ。
ただし、そこに「労働者」がいないとき
「労働=苦」でも「奉仕=喜」でもなくなる。
◆この世界では見かけ上「奉仕するもの」
と「奉仕されるもの」が分離している。
◆生体にとって好ましい調和だけが
覚醒というわけではない。
◆「私は在る」にしても「私は無い」にしても、
語りの文法に気絶すれば、
むしろ分離を促すことになる。
◆この世界の文法で覚醒を語るには、
全存在個別の『超』対機説法が必要となる。
◆人間を擬人化しない。
世界を擬世化しない。
神仏を擬神化しない。
◆「動=止」であるとき、
生のままの世界に触れる。
◆動きを時間でとらえなければ、
動きは無限の停止としてある。
◆「これ!」とムネで触れた瞬間
「これ?」とアタマに戻ってしまうジレンマ。
◆主観と客観は地続きのグラデーション。
グラデーションの間に気絶の谷がある。
◆アタマの中で、蛍光灯がピキピキとラップ音
を鳴らすような興奮状態は、覚醒ではありません。
ここを勘違いして開くと、危険です。
◆知る人ぞ知るサイキックの知人から聞いた話。
幼少から右脳開発教室に通っていた子が、
人格形成前に開いてはいけない部位を開いてしまった。
モノに手を触れずに支離滅裂に動かしたり、
気に食わないことがあると鎌鼬のように離れた人の
皮膚をピッと切ったりするようになった。
◆困り果てた親に泣きつかれたが、名うての
サイキックでも危険すぎて手出しができなかったという。
頭がアンバランスに大きくて目がギラギラと冷たく光り、
まるでグレイのような様相だったとか。
こういう悲劇もあるという事例。
◆「選択する自分」は、すでに「選択された自分」です。
◆すべての選択肢が怖ろしい勢いで通り過ぎている。
選択は光速で起こり続ける。
自分の意志など、入り込む隙があろうはずがない。
「この自分」は、すべてのお膳立てが整った後に
のっそりと顕われる。
あまりにも遅くて笑えるほどだ。
それなのに「自分」が先にあると思っている。
◆発達障害の人はタスクの順番が組み立てられず、
全て同時に手をつけてしまうが、それは障害という
よりも、時系列の世界に身体操作が馴染まないと
いうだけだろう。
実際、順番に事を進めていかなければならない
この次元のもどかしさといったらない。
仕事が遅いというよりも、世界のほうが遅いんだよ。
◆思想のコンテクストを隠れ蓑に神を語り
「いや、信じてるわけじゃないけどね」と
エクスキューズするのが、古風な知識層特有のプライド。
◆禅は「エクスキューズ」の隠れ蓑になりやすい。
◆幼い子供や、認知症の人や、心神喪失の人や、
無知な人など、自分自身をコントロールする術を
知らない人の罪を怒っても仕方がない。
そこに「怒られるべき自覚のある人」が存在しないからだ。
つまり、この世界には「半覚醒」している人以外に
「怒られるべき人」は存在しないということになる。
◆半覚醒している人は、神に怒られるんですよ。
それはけっこう、キツいです。
それでも目覚めたいですか?
◆「頓悟か漸悟か」ってやたら知りたがるけど、
それを知ったからって何だというのか。
◆願望は叶ったり叶わなかったりするが
「自分自身でありますように」という願いだけは必ず叶う。
叶わないわけがない。
全存在が、自分自身でありますように。
◆ツイッター始めてから、もうすぐ一年。
我ながら膨大な数つぶやいてきたのに驚くけど、
言いたいこと一つだけ選ぶとすればこれかな。
◆その人が本当に願うべき祈りは、
必ずゾーンに入るものだよ。
自分自身と一致するから。
この状態が、祈りの基準。
◆祈りのゾーンっていうのは、
ワクワクでもギラギラでもないんだ。
◆自分自身とズレた渇望から祈らない。
◆「割り切れる」という感覚は二元的。
◆スッキリと割り切れて整理された感覚の
「気絶」もある。
◆割り切れないものを二元的感覚で割り切ろう
とする時に、繰り越し続ける「端数の展開図」
がこの世界。
◆「無選択」という態度も「選択」されたもの。
◆全存在が、この世界の「フォロワー=フォロイー」
◆大型トラックの運転手は、普通車の運転手
よりも広い車幅感覚を持つが、だからといって
普通の人よりも覚醒しているわけではない。
「空間(自分)が拡がる」感覚は、覚醒体験の
一端を占めることはあっても、身体性の延長に
基づくかぎり覚醒そのものではない。
◆「死んだら、この自分は消える」と思いを巡らせ
一喜一憂するのは、無知からくる不遜としか
言いようがない。
「この自分」ごときの死が、意識を終わらせられる
とでもいうのだろうか。
◆肉体の死後に、客観的世界が存続するわけではない。
「死者はどこかに旅立ち、この私が世界に残る」という
感覚は、見かけ上の肉体の死から類推された錯覚だ。
◆目の前の一部始終のどこをとっても「答え」しか
ないのに、目をつぶってアタマの中で答えを探している。
◆「今」の辻褄合わせのために、過去と未来が
「今」において毎瞬毎瞬、捏造される。
だが、それが捏造と気づかれることはない。
まさに「辻褄が合っている」からだ。
◆「辻褄」というのは時間の前後で合っている
のではなく「辻褄が合っている」という見せかけ
の感覚がただその瞬間にあるだけなんだ。
◆タイム「ライン」という実体はないのだ。
強いて言えば、パラレル「ドット」かな?
これも概念だけど。
◆覚醒と「見える能力」は、フェーズが異なる。
構造が「見えすぎてしまう人」は、
世界に奉仕する宿命を負う。
◆100%象徴化されると、
象徴がまるごと「現実」となる。
◆概念化は、理性よりも魔性に近い。
◆「在ると信じていること」として、
そのとおりに在る。
◆体を押すのも、物を押すのも、空気を押すのも、
思考を押すのも、意識を押すのも、
押している中心は同じもの。
◆180度の関係性から、360度の関係性へ。
360度の関係性から、0度の関係性へ。
◆郷愁の方向を錯覚して、世界のほうに
飛び込んで気絶してしまう。
それが、郷愁が渇愛に変わる瞬間だ。
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