【#洞窟の聖者 #神は自明 #タイミング 覚醒からのつぶやき 45】

◆見えないものがあるから、見ていることが意識できる。
気づけないものがあるから、気づいていることが意識できる。
◆死はグラデーションではない。
◆私たちは、観念で引き伸ばされた
「死に際」を漫然と生きている。
◆瞑想はタイミングが全て。
全宇宙の運行を、この瞬間に合わせるつもりで。
◆「タイミングを合わせるのは、自分じゃないから」
と言っていると、タイミングは「この自分」ではなく
「あの自分」に割り当てられる。
宇宙からみたら、どの自分に割り当てても同じだから。
◆「見ること」と「見られること」の分離がないとき、
「見る」という動詞は成立しない。
◆ファストフード店で
「祈りだけがある…祈りだけがある…祈りだけがある
…祈りだけがある…祈りだけが!!」
と流れてきて「!?」となった。
「春ねむり」の「祈りだけがある」という曲だった。
強い。
◆「永遠」には「記憶」は存在しない。
記憶でつなぐ必要がないからだ。
記憶をベースにした疑似永遠は、
アップデートに急き立てられる地獄だよ。
たとえ肉体を切り捨てたとしても。
これが今、私たちが目指してしまっている
仮想現実の限界なのだ。
◆これ言うと怒るかもしれないけど、
世界はこの瞬間の「思いつき」なんだ。
行き当たりばったりの思いつきなんて、
とても信じられないだろうけど、私たちが
信じている世界は、まさに信じられない世界なのだ。
◆著名な某投資家は、仮想通貨の秘密鍵を
「紙に手書き」で書いてスイス銀行に保管しているという。
「現物」の信用が勝っているうちは、
物質世界はなくならないってこと。
◆引き寄せの極意を知っても、引き寄せようという
意図がある限り、引き寄せるものには限界がある。
想像の及ばないことは、引き寄せられない。
すなわち、神は引き寄せられない。
◆昔は「しょうがない」と諦めていたことも、
技術と情報と想像の進化によって
「やればできる」世界になってしまった。
やればできるが、できなければやっていないのが
バレてしまうのだ。
「やればできる」に急き立てられ、絶えず
スピードアップとアップデートを強いられる。
これって幸せなの?
◆存在のアップデートは本来、自動更新されるものなんだ。
造られたシステムに合わせて手動でアップデート
し続けなくちゃいけない世界は、自然じゃない。
◆直列的な思考よりも、現象の意志のほうが遥かに
微細で素早いので、意志の初動が見切れるようになると、
重くて遅い思考に支配されているなんてまあ、
有り得ない話ということになってくる。
◆「永遠の意識」と「肉体を捨てた不死の意識」は異なる。
◆死とは肉体を「離れる」ことだと
思っていないだろうか?
肉体を包括する死と、肉体から切り離される死がある。
無自覚に切り離された魂は、再び肉体を形成する。
肉体を包括した死は、肉体と魂を分離しない。
このとき、ひとつの世界が完結する。
◆同じく、この次元は切り離すのではなく、
包括されたときに完結する。
◆「この私」と「宇宙」を比較しない。
この私と比べてしまえば、宇宙はあまりにも壮大なので、
宇宙が自分であることを忘れて気絶してしまうのだ。
◆本来、エネルギーは無尽蔵だが、限定的な意識
が総量を見積もり、限定されたエネルギーを奪い合う。
◆私たち自身が、神と悪魔を分離する。
◆類推と分類と編集を介さない直観は、
存在に直接落とし込まれる。
それはそれは、至福の瞬間だ。
◆全体を「知っている」とき、全体に
「入っている」感覚は生じない。
「私=全体」であるとき、
全体という枠は存在しないのだ。
それに対して肉体は、全体に「入っている」。
全体は、肉体にとっての子宮だからだ。
◆昨今、聖者もおちおち洞窟に籠っていられなくなった。
どこにいてもグーグルアースに見つかってしまう。
世界は良きにつけ悪しきにつけ、
どんどん隠れ場所がなくなっていく。
◆身体の背面は、常に意識しよう。
背面の意識から歩くようにする。
前面に偏った意識は、世界を限定するよ。
◆睡眠は、肉体と肉体に同化した私のためのもの。
睡眠は死と同じく、世界を不可知のものにする。
◆毎瞬毎瞬、気絶する度に世界が組み変わる。
睡眠の瞬間にも、死の瞬間にも、思考の瞬間にも、
組み変わる。
◆「代謝」というアイディアは、疑似永遠の車輪である。
◆ワンネスとは、単一性ではありません。
◆宇宙とは、名づけられた枠。
◆わかっていないのは「わからない」
という思考だけ。
◆「わからない」は、ただ「わからない」
であるとき、問題にならない。
「わからない」が「わからなくてはならない」
と分離しているとき、問題になる。
◆自分の消えた感情は、ただ音楽のように宇宙に響く。
◆直観を「直観」と名づけるとき、
すでに思考に侵食されはじめている。
◆パッと直観でわかるときと、
じわじわ理解が進むときがある。
一見、瞬間的な直観のほうが真理に近いように
感じるが、直観と同じ回路を開き続ければ、
じわじわ進む理解にも思考が介入しない。
その理解は、まるで長時間露光の天体写真のように、
真理の全景を映し出す。
◆この呟きは、表現ではなく呼吸。
呼吸は、この私以前にある。
◆アタマは直観を印字する。
ハートは直観を打刻する。
◆直観は、文字にすると逃げる。
文字と直観が完全一致すれば直観は逃げないが、
それは現象世界における魔術の領域になってくる。
◆直観は「開こう」としない。
ただ「閉じよう」としなければいいだけ。
誰もが、どの瞬間にも全てを見ているんだから。
◆「直観に開いた状態が100%維持されなければならない」
というのもエゴイスティック。
これは、一瞥体験者によくある思い込みなのだ。
神を一度でも知る者は、逆に神の不在感が際立つものだが、
神が「この私」ごときに常に臨在してくれるとでも?
◆誰もがどの瞬間にも全てを見ているが、
選択された時点でそれ以外は隠れる。
誰もが潜在的な「預言者」だが、意図された
「預言」は構造的に当たらない。
◆地震の預言は、ほぼほぼ当たらないが、
日常の次の瞬間の預言は、ほぼほぼ当たる。
人は「ほぼほぼ」の「セルフ預言」を
経験的に信じて生きている。
◆「預言」が「救済」の役目から解放されれば、
当たる確率は上がるだろう。
◆情報は世界を「既視感」で覆いつくしていく。
私たちは「既視感」の後追いに駆り立てられ、
どんどん世界に不感症になっていく。
その「既視感」は、まさに情報によって
操作されたものなのに。
◆子供のように未知に感動できるならば、
未だ人間には救いがある。
◆神は感動もしないが、退屈もしない。
◆神に未知はないが、既知もない。
時間を介する知は、存在しない。
◆「伝える」には、エネルギーがいる。
この世界は未だ、媒体が必要だからだ。
「自分自身が既に知っている」ことに気づけば、
伝達と媒体は不要になる。
◆「自分自身を知る」というときの「知る」
は、既に「遅い」のだ。
「自分自身=自分自身」という自明だけがあるとき、
時差がなくなる。
◆私たちは「知る」目的のために、自分自身を
他人のように媒体にしてしまっている。
◆「頓悟か漸悟か」という好奇心それ自体が、
時間の囚われであると知る。
◆自分の見たヴィジョンが「スピリチュアル的にみて何なのか」
を知りたがるが「スピリチュアル的」なイメージは神であれ天使
であれ「スピリチュアル」そのものではないのだ。
そもそも他者の解釈が必要な時点で、
それはスピリチュアルではない。
◆「見えたものはすべて『それ』ではない」
と事実を伝えると、熱心だった人もほとんど去っていく。
熱心であればあるほど、その傾向が強い。
何に熱心だったかが、あぶり出されてしまったのだ。
ただし、それはその人にとって決して悪いことじゃない。
◆「それそのもの」を言い表すことができないので
「それではないもの」の錯覚を指摘するしかないのだが、
指摘を否定ととらえて拒絶反応を起こす人は多い。
スピリチュアル的なエゴが強ければ強いほど、その傾向にある。
◆人間は、思考でアタマが便秘している。
◆自然を見るとき「自然」を見ない。
その「自然」は「不自然」です。
◆自然は自身を「自然」と知らない。
◆写実は「写実」というデフォルメです。
◆自責の念も他責の念も「行為」に対する冒涜。
行為の瞬間には、一切の責任の余地はない。
◆自分を責めるときも、他人を責めるときも、
それは目的と結果を分離し、観念としての自分と他人
を責めているだけなのだ。
いかなる行為にも、それを為す「人」はいない。
◆自己同一性の強迫観念は「メンテナンス」を義務化する。
「メンテナンス」という発想が、エネルギーを消費する。
◆呼吸が止まっても、呼吸はある。
死者は、初めて呼吸に触れる。
物理的な内臓の動きと空気圧を、呼吸と錯覚していたのだ。
◆世界の「質量」は私たちが決めている。
もともと、世界に決まった質量はない。
◆私たちの「世界」は穴だらけ。
一度たりとも、完全な姿を見た人はいない。
◆概念は、世界の虫食い穴。
◆忘却の世界に産まれるにあたって「それ」を
「忘れてはいけない」という潜在的欲求が、
備忘録としての象徴世界を存続させ続ける。
備忘録はあまりにも細分化され、何のための記録
だったのかを既に忘れてしまっている。
◆目覚まし時計で起こされた日は、
直観力が著しく落ちるね。
惰性で眠り続けても落ちるけど。
これは、覚醒のプロセスも同じなんだよ。
強制覚醒は、不自然な歪みを残す。
睡眠も覚醒も、起きるべきときに自然に起きるのがベスト。
◆人生において「意味のあることを為さねばならない」
という強迫観念が、日々のタイムスケジュールを管理し、
肉体的な睡眠と起床を強制的なものにする。
これでは、直観が働きようがないよ。
◆むしろ、神は自明なのだ。
神の臨在に驚くよりも、目の前で今、
コーヒーがこぼれたことに刮目する。
◆既知の再現は退屈だが、退屈よりも未知への
怖れが勝ってしまっているために、既知にすがっている。
退屈しのぎに、安全圏内で仮想の未知を消費している。
◆未知を怖れるけれども、未知の鮮烈さはむしろ
「懐かしい」ものなんだ。
関連記事
⇒【#自称覚者 #陰謀論 #桃水雲渓 覚醒からのつぶやき 3】
※ワーク参加希望の方は、メルマガ登録をお願いします。
⇒ ご登録フォームはこちら
⇒ Rubin's work 主催 AYA プロフィールはこちら



comment
コメントを送る。