【#願望実現 #贖罪 #一切皆苦 覚醒からのつぶやき 47】

◆生は死の準備じゃない
死は生の準備じゃない
◆「自分で倒せる動物だけ食べよ」
という考え方がある。
そうすると、鯨や牛や豚は無理だが、鶏や魚
ぐらいなら食べられそうということになる
(羊はギリギリ?)。
是非はともかく、原始的な捕食と食物連鎖の
観点からみれば一理ある。
ただし、これは「自分=身体(の大きさ)」
であるときの発想だ。
◆また「自分が与え得るエネルギーと同等の
エネルギーしか受け取れない」というのも
「自分=身体(のエネルギー)」という限定から
来る発想だ。
身体との同化を外せば、この世界のあらゆる
「等価交換」の限定は幻想であると気づく。
◆「すべての現象はエネルギーである」と言いながら、
自分というエネルギー量を限定しているのならば、
肉体と同化していることと何ら変わりはない。
◆「怒り」は関係としてとらえず、現象としてとらえる。
現象としての怒りには、怒る人も怒られる人もいない。
◆愛は、分離によって認識される。
「引き剥がされたものを戻そうとする磁力」
これを愛と呼んでいる。
分離のないところでは、愛を認識する者はいない。
完全にひとつになれば、愛は無に還る。
◆愛は、真実に気が狂わないための甘美な麻酔。
◆「夢が何でも叶う」のは、覚醒したからではなく、
まさに夢を見ているからです。
◆「悪人」は、いない。
「悪」と呼ばれるものと「人」と呼ばれるものが、
あるだけ。
「善人」は、いない。
「善」と呼ばれるものと「人」と呼ばれるものが、
あるだけ。
◆「その人そのもの」に対する怒りは持ちようがない。
「その人そのもの」は、何ひとつ為していないから。
◆仮に「そこにいる人」を、仮に「ここにいる私」
が、仮に憎んでいる。
仮に「そこにいる人」を、仮に「ここにいる私」
が、仮に愛している。
◆『~は、~を、~する』
覚醒には「は」「を」「する」はない。
「~」が「・」としてある。
◆報酬がないとヤル気が起こらないというけれど、
一挙手一投足がそのまま、大いなる報酬なんだ。
毎瞬毎瞬、果報をドブに捨てていたら、
神もヤル気をなくすよね 笑
◆人は、愛を食べて愛を糧にする。
愛は、神を食べて神を糧にする。
想念は、糧によって肥えていく。
肥えた想念は、新たに糧となる。
進化は、永遠に糧を必要とする。
このシステム自体が、苦なのだ。
◆教義の違いは、時間軸の違い。
始まりをどこに置くかの違い。
どれも間違いではないが、正しくもない。
◆「世界=苦」と言い張る人と「世界=愛」と
言い張る人の争いほど不毛なものはないね 笑
これ、実際に笑えないよ。
◆この世は幻だからといって、舞台セットのハリボテ
ではないし、ひとつのスクリーンに映し出された映像
というわけでもない。
幻には幻の現実と法則があって、幻の肉体は幻の痛み
を感じるし、幻の私は幻の苦を感じる。
だが、幻の苦は幻の慈悲では救えない。
だからこそ、そこに真実の手触りがある。
◆キリストになりたい人は、これから700万年、
贖罪を背負っていく覚悟がいる。
釈迦になりたい人は、これから700万年、
一切皆苦を背負っていく覚悟がいる。
700万年後、すべての自我史を遡ったその人は
キリストとして、釈迦として、再び地上に生まれるだろう。
その時、人類は未だ存在するだろうか。
◆すべての人がすでに覚醒しているが「この私」の
覚醒体験は、自覚的に生まれてきた人にしか起こらない。
(注意:カルマを選民思想と混同しないこと)
自覚の記憶がなくても、がっかりすることはない。
これを見ている時点で、すでに縁がついている証拠だから。
それは、起こるべきときに起こる。
◆私たちは、目を2回開かなくてはならない。
1回目はこの世界に、2回目は源と共に。
私たちは未だ、この世界すら見ていない。
◆私たちは眠ったまま瞼を半開きにし、
ぼんやりと夢の世界を映している。
◆「目覚める」という言葉が、誤解を生んでいる。
最初の一撃は、目覚めるというよりも「剥がれる」
といったほうが近い。
一瞥しても明確に「剥がれている」人は、ほぼいない。
定着には、存在に「落ちる」ことと、目が「剥がれる」
ことの両方が必要なのだ。
◆サードアイは、現象側の送受信機にすぎない。
「剥がれた」目は、肉体を超えたずっと奥にある。
水平に横たわるワームホールに吸い込まれきる直前に
「浮いて」いる、というのが感覚的には近い。
現象発生のGに気絶せずにどこまでも遡っていけば、
忽然とそれは顕われる。
◆私たちはそこからすべてを見ているが、
ちらっとでも無限に分岐する萌芽のひとつに意識が
向いた瞬間、こちらの世界に生まれ出ているのだ。
◆私たちの肉体を介した世界の実体化は、物理的な
「意志」により為されるが、この段階では全ては
始まってしまっている。
「意志」に選択権はない。
意志は、すでに選択された萌芽の「実体化」に
物理的に関与しているのみなのだ。
選択は、世界の実体化の遥か以前に起こっている。
◆それは選択というよりも「オート・マグネタイズ」
とでもいうべきものだ。
マグネタイズは、個別のカルマ以前に始動している。
◆私たちは「中心からズレること」と「ズレの中心に
戻ろうとすること」を、ものすごい速さで断続的に
繰り返している。
その動きの途中にも、次々に他のズレが介入してきて、
玉突きのように転がり続けていく。
しかし、本当はズレているものはひとつもないのだ。
◆肉体をもって世界のあらゆるものの真ん中にあり続け
ようとすると、ジェットコースターのようなGがかかる。
(私たちはふだん、真ん中からズレるときに気絶しつつ
Gを逃がしている)
このGは、完全な無執着によって乗りこなす。
◆嵐の海に浮かぶブイのようにGの圧を耐え
抜いたとき、突如として真空へと切り離される。
◆例えば香りを嗅ぐとき、香りの真ん中にありながら
吸い続けると、真ん中の連続が真空の管のようになる。
動きにおける真ん中は、時空の連続性とともに管化するが
(クンダリーニはここを通る)管を先にイメージしてはならない。
管も、管を通るエネルギーも、真ん中も、すべて仮象にすぎない。
◆肉体を統合しようとしない。
各器官の自律的なアイソレーションに任せているとき、
最適な統合がすでにそこにある。
各器官はもともとバラバラに浮いているのが自然なのだ。
エゴは、統合と癒着を混同している。
関節も筋肉も内臓も思考も感情も意識も何もかも、
癒着を剥がしのびのびと自律させる。
◆死体は死んでいない。
それはただ「死体」だ。
◆死体は、地球の中心に落ち続ける。
生体は、宇宙の中心に落ち続ける。
私たちは、死体と生体の間で「意志」によって
立たされている。
その「意志」を見切る。
◆完全に静止するものは、観察できない。
私たちは「止」という名詞ではなく「止まっている」
という動詞を観察している。
観察できない「止」は、動きの中にあって動きの延長にない。
◆思いつき得る問いは、すべて思考。
この世に存在しない問いに触れたとき、思考を卒業する。
◆信頼とともに脳内麻薬は勝手に出るようになるが、
酔いはトラップにもテキストにもなる。
酔いを観察し、酔いながら醒めている状態を知れば、
酔いへの執着がなくなる。
◆反応する本体はない。
反応が、ただある。
◆自我は捨てられない。
捨てようとすれば、巧妙に隠れる。
捨てようとするのも自我だから、はじめからバレている。
◆何も信じない。
何も疑わない。
「あれ?」という瞬間に、
脳天がピン留めされることを許す。
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