#3次元の直立と生の意志 【10/30(土) 東京ワーク ~所感と解説~ その2】
⇒ 「マトリックスと恩寵の鍵」 【10/30 (土) 東京ワーク ~所感と解説~ その1】
からの続きです。

【生のダンス】
先日のワークで顔合わせの自己紹介がてら、ちょっとした遊びとして「その人のダンスをつくる」
ということをやりました(個人的に、ダンスは昔取った杵柄というやつです)。
最初は皆さん緊張しているのでなかなか「これが自分自身だ」という動きが出てこなかったのですが、
たとえばある参加者さんをパッと見たときに口に手をやって遠慮して伏し目がちに目が泳いでいたので
「目をキョロキョロさせて目の方向に動いて顔を捻ったら、ハッと気づいて両手で顔を覆って隠れてください」
とか、ある参加者さんは両肩が前方向に巻き込んでいたので「肩の前面から前のめりに倒れていって
倒れそうになるのを前頭葉で上に引っ張り上げてもどしてください」とか、その時に気づいたことから
簡単な動きをつくっていきました。
ある意味これは、その方の癖の誇張なのでイヤ~な気分になった方もいたかもしれません
(昔からその人の癖を直接スキャンして似顔絵やあだ名をつけるのが得意で、先生やクラス全員の
似顔絵を描いて嫌がられてました 笑)。
とはいえ、体の傾きや動きや仕草にはその人そのものがそのまま顕われているので、
これを自覚的に気づけるようになると思考の癖にも気づけるようになります。
絶え間ない体の傾きと動きの軌跡は、現象世界におけるその人自身の表現であり生のダンスです。
自分自身で自分のダンスをつくる、というのは自分を客観視し、自覚的に動くということです。
たとえば先の「両肩が前方向に巻き込んで前のめりになるのを頭で支えている」参加者さんの場合は、
巻き込む方向に倒れていけば重力に従って転んでしまいますが、それを無意識に物理的・心理的に
頭で引っ張って「まっすぐ」に修正しバランスをとっているわけです。
その修正の際に「思考優位」のテンションがバランスのために「疑似利用」され、無意識のうちに
頭が中心になっているのです。
この方はもともと人並以上に感性優位のはずなのですが、ムネを内側に巻き込んで落とし、
思考によってそれが隠れてしまっているため、ハートの感覚が掴みづらいのです。
この辺りはおそらく「自分自身の感性を剝き出しにすると叩かれるので思考によって社会的立場を
補完してきた(そのほうがこの社会では傷つかないですむ)」といった幼少時からの経緯というのも
関係しているかもしれません。

【無意識のバランス】
とはいえ、この世界に完全にバランスのとれた「まっすぐ」の身体の人など存在しません。
体の個性は社会的に造られる以前に、生まれながらのカルマによってほぼ決定しています。
だから、その人その人の個性を自身で自覚し、その人ならではのバランスを見つけていくしかないのです。
(余談ですが最近よく聞く「自分軸」という言葉は、注意しないと自我を強化することがあります)
各自のどのバランスも「間違っている」ということはありません。
それぞれのバランスの個性が、この世界を創っているからです。
ただ、そのバランスに無自覚なままでいると無駄に力をいれて疲れてしまったり緊張してしまったりするので、
この世界の重力によって規定されるニュートラルな軸をある程度知っておくほうが人間としては楽に生きられます。
人間として辛いのは、無理なバランスであっても取りあえず「立っている」ことを「水平から垂直」へ向かう
進化の過程で「強要」されてきたということです。
人として生きるときに、道路の真ん中で崩れて寝っ転がっていることは社会的にも許されません。
幸か不幸か、通常の骨格であれば足の裏を地面につけてその上に膝と腰と背骨と頭を積み上げれば、
なんとか見た目は「立っている」状態になります。
社会のバランスを優先した私たちは、崩れそうになるのを踏ん張りへとへとに疲れながらも「立っている」
ことを強要されている(と幻想している)のです。
私はよく「人間は未だ3次元で完全に立ち上がってない」と言います。
見かけ上、立っているように見えても、ほとんど崩れそうになりながら無理にバランスを取っているのです
(人類特有の腰痛はその皺寄せの最たるものです)。
バランスの崩れた状態は、物理的に緊張と思考の偏りを生み出します。
それはそれで、その人独自の個性的な生のダンスなので、そのままでいいといえばいいのですが、
やはり本人の肉体は疲弊するわけです。
そのようなアンバランスな状態のとき、人は自分が「なぜ立っているのか」「なぜ立ちあがり続けなくては
ならないのか」という存在の根本的な理由を直観することができません。
【生の意志】
では、人間はなぜ垂直に「立ち上がって」いこうとするのでしょうか?
それは例えば「キリンは高いところにある果物を食べるために進化の過程で首が伸びた(淘汰された)」
というような形態上の単純な理由だけではないのです。
人間の赤ちゃんは、時期が来れば放っておいても立ち上がろうとし始めます。
「立ち上がろう」と意識することなく「立ち上がってしまう」のです。
(もちろん、形態上は様々な生理的プロセスが働いた結果として立ち上がりますが)
立ち上がろうとして転ぶと痛くて泣いたり、膝が伸びきっていなくて尻もちをついたり、
頭が重くてバランスが取れなかったりしますが、転んでも転んでも勝手に立ち上がろうとし続けます。
赤ちゃんには「立ち上がらなくてはならない」という思考はないため、ただ自然に沸き起こってくる意志
とエネルギーに任せているだけで、立っても転んでも緊張することもないし、自分の姿勢を思い煩うこともありません。
本来、人間はこの「自然に沸き起こってくる意志=生の意志」によって立っているものなのです。
この世界の条件下で、生の意志に促され、立っていることが自然だから立っているのです。
ただただ生の意志に従っているとき、すべての生命の進化の過程を経たうえで否応なくここに立っている
だけで悦びが満ちてくるはずなのです。
赤ちゃんにとっては、立ち上がろうとすることそれ自体が悦びなのです。
それはもう、居ても立っても居られず動き出してしまう悦びのダンスです。
生の意志に任せているとき、エネルギーは勝手に沸き起こってきます。
【創造主の意志】
そして完全な直立の獲得は、物理的な視点のシフトと意識の転換を促し、そこではじめて
3次元に在ることを俯瞰できるようになるのです。
言葉にすると陳腐になってしまいますが、ここには「創造主の意志」とでもいうべき力が
働いているとしか言いようがないのです。
ところが自我が芽生え「自我=自分」と思い込みはじめると、生の意志を忘れ「自分が立っている
(この肉体を立たせてやっている)」と勘違いしはじめます。
そして自然なエネルギーを無視し、社会に合わせて自我の目指すバランスを構築しはじめ、
歪みが蓄積し疲労していくのです。
この世界のすべての創造は、生の意志から起こっています。
その意志は、この自分の意図の遥か以前に始まっています。
しかし、本当はその意志そのものも自分自身なのです。
この肉体に同化した私たちは、肉体であるからこそ「立っている」ことそのものから
生の意志を思い出すことができます。
そして無為自然に「立っている」ことが雷に打たれるようにわかったとき、世界の全てがそうであるべくして
つながっていて、各自がその人の個性として様々な傾きで立っていることが必然であることがわかるのです。

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