「エゴは消すべき?」「エゴの正体と対処法」 【質疑応答】
(コメントと応答の一部を編集・追記しています)

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<質 疑>
スピリチュアル探求を始めて7年経ちますが、成長の実感がありません。
ただ全てを受け入れ起こる事に委ねるしかないと頭では理解していても、
エゴに取り込まれることの繰り返しで嫌気がさしています。
また、他者に対する嫌悪感が払拭できず苦しく、優しくすることができません。
根本的に自分が変わらなければ同じことの繰り返しになることも想像できます。
どんな手を使ってもエゴの幻想を見抜きストーリーに巻き込まれることなくなりたいです。
<応 答>
結論から言うと、エゴはあっていいのです。
エゴは、それが幻想であると気づいていてもいなくても、ただエネルギーの癖のようなものとしてあるだけです。
極端にいえば、たとえば強迫神経症などの場合、わかっていながらひとつの行動パターン(過剰な確認行動など)
を繰り返してしまったりすることがありますが、エゴとは強迫神経症のエネルギーパターンが人間の世間の
「常識」「平均値」程度まで薄まった状態のようなものです。
頭ではやめたいと思っても癖づいたエネルギーパターンに無意識に巻き込まれ、言動が起こった後で
自己嫌悪に陥ったりします。
本の中でも述べましたが、私たちはそのエネルギーパターンの引力にひっぱられ、エネルギーと同化し、それを
自分だと思っていますが、究極的には瞬間瞬間のエネルギーに割り当てられた担当者(という意識)なのです。
この、瞬間瞬間の担当者の意識を直線的に繋ぎ合わせた感覚を現象世界において「自分」と呼んでいるのです。
エゴに染みついたエネルギーのパターンに巻き込まれて一時的に自己嫌悪に陥ることがあっても、
少なくとも〇〇様は巻き込まれてしまったことに気づく瞬間はあるわけですよね。
そのとき、短い時間かもしれませんが純粋な意識としての本来の〇〇様が姿を顕しています。
時空を超えたところでは、意識が意識そのものに気づいたときが新しく生まれ出た瞬間なのです。
私たちは一瞬一瞬生まれ変わりリセットしています。
今の瞬間と次の瞬間は、別の世界なのです。
言い換えれば私たちは、毎瞬リセットされた世界を認識し存在を確認するための担当者として、
様々なエネルギーに付随して生まれ出ているのです。
もしこの考えを少しでも受け入れることができましたら、今はたまたま一定のエネルギーの引力にひっぱられて
そのエネルギーの担当者として存在している(と思っている)としても、いつどんなときでも次の瞬間生まれ
変わってリセットすることができることを忘れないでいただきたいと思います。
現象世界において、見かけ上の他者と対面することがエネルギー的な軋轢を生むのは当たり前のことです。
この世界の創造拡大のためには不協和音やエネルギーの差異が必要なのです。
調和だけでは単調になり衰退していきます。
(このあたりは、いわゆるスピリチュアル的な観点からは過激に聞こえるかもしれません)
誤解を恐れずにいうと、見かけ上の個別の存在の担当者として嫌いな人がいてもまったく構わないですし、
そのことに自己嫌悪を覚える必要も一切ないのです。
究極的には私たちは何も自ら行為していないのですから、ある意味なんの責任もないのです。
とはいえ、人間は自我の発達過程で自分で自分を意識するというメタ構造を持ってしまったため、
不協和音の担当者が「この自分」であることを苦しく感じてしまいます。
特に、高度に発達した自我の形態において「覚醒」のような概念を理解できるようになったことにより、
より自己嫌悪や被害者意識が強まってしまうということがあります。
それは、「完璧な自分でなければ意識が進化せず覚醒できない」あるいは「行為する者がいないのに
何故よりにもよって自分はこの未熟な個体幻想の担当者なのか?」といった複雑な自意識からくるものです。
それはある意味、素朴な「自我」と自我自身を意識している「メタ自我」に加えて「覚醒」「ワンネス」
といった第三の概念を意識するようになったことによる「メタ-メタ構造」の弊害ともいえます。
以上をふまえて、私なりに〇〇様に具体的にアドバイスできることがあるとすれば、まず、
・エゴはあってもいい
・エゴに巻き込まれてもいい
・嫌悪感が出てもあたりまえである
・嫌悪感が出ることは自分の責任ではない
・優しくなろうとする必要はない
・自己嫌悪は単なる一過性エネルギーである
・瞬間瞬間いついかなるときでもリセットできる
・能動的にすべてを受け入れて委ねることはできない
ということをいったん認めたうえで、(難しければ最初はそのように仮定するだけでかまいません)
・「この自分が」優しくなければならないと思うのはなぜか
・エゴの存在を否定しなければいけないのはなぜか
・「ストーリーに巻き込まれていない自分」を求めているのは誰か
・成長しなくてはならないという思いはどこからくるのか
というように、「~ねばならない」という思いが出てきたときに、一瞬立ち止まって自問してみて
いただきたいのです。
エゴは消そうとすればするほど反発し増長していきます。
消そうとしたり否定したりするのではなく、駄々をこねる小さな子供を見守るように、いったんエネルギーが
出るのに任せることです。
そうするとその瞬間認められたエゴは満足して勝手に引っ込みます。
エゴを敵視するのではなく、エゴはエゴでこれまで自ら傷つきながら嫌な役割をはたしてきてくれたんだな、
と感謝し和解することです。
エネルギーの癖が強いときはなかなか引っ込まないかもしれませんが、エゴ自身の母親であるかのように
辛抱強く見守ります。
ただし、子供であるエゴを甘やかしたり頭ごなしに否定したりすることなく見守ってください。
そして、エゴに巻き込まれたことに気づいた瞬間があったときに、それは恩寵の顕れであることを知り、
気づけた自分自身に感謝してあげてください。
見守る時間はいくらでもかけていいのです。
すぐに変わらないからといって自己嫌悪に陥る必要はまったくありません。
一時間でも一週間でも一年でも極端にいえば一生かかっても、ある瞬間にリセットされればすべての時間は
超越されるからです。
注意するのは、気づいた瞬間を能動的に「引き伸ばそう」としないことです。
好ましい状態を「引き伸ばそう」とするのはエゴの欲求です。
気づきは常に一瞬でいいのです。
このことを認めることによって逆に気づきの瞬間は自らのコントロールを離れて勝手に連続
していくようになります。
「優しくなろうとする必要はない」というのは人間の観念から見れば道徳的でないと感じ抵抗
があるかもしれません。
でも、「(人として)優しくしなければならない」という観念を手放し、エゴのエネルギーの衝動を
見守っていこうと腹をくくったとき、結果としてまったく別次元の優しさが発露するのです。
その優しさにおいて、聖なるものも悪しきものもすべてを存在するままに受け入れられることになるのです。
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