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【#魂の合格 #高次の自己 #発心とは 覚醒からのつぶやき 70】    

2022/03/06

デコポン2
旬のデコポン。今年は酸っぱめ。


◆当たり前だけど当たり前じゃない平和。

◆世界を単純化したい人と複雑化したい人がいて、
それぞれがそれぞれの幸せを探している。

◆タイミングはスペーシング。

◆タイミングは軸でとる。

◆タイミングを気にするのは、タイミングを掴みたいエゴだけ。

◆温室で咲いた季節外れの花も、その花のタイミングで咲いた。

◆ざわめくままに受け流す。

◆自分が自分であることは「使命」ではなく「命」。

◆何も起こらない物語はあるが、何も起こらないゲームはない。

◆「成功した宇宙」も「失敗した宇宙」もない。

◆「永遠の命」も「永遠の死」も、同じもの。

◆「想いを馳せる」とき、心は夢に入り、目は中心から出る。
「想いを巡らす」とき、心は夢を彷徨い、目は夢に居座る。

◆魂とは、創造のアイディア。

◆「魂の追憶」を「この私」が辿ろうとすれば、神経過敏になっていく。

◆魂にはすべて記憶されているのだから、安心して任せておくしかない。

◆「この私の救出」を「魂の救出」にすり替えているかぎり、
この私は満足しない。

◆完成させなくてはならない使命などない。

◆「未完成感」は「この私」の無知と驕り。
「この私」が、完成形を判断出来ようか?

◆得られた「成就」は儚い。

◆「この私」が求めているのは「成就」ではなく「突破」。

◆「この私」は「成就」を「突破感」で代用しようとする。

◆エゴは「成就」と「合格」を混同している。

◆承認欲求は、魂の「合格」を望む。

◆理性は「幸せ」と共存できることを知ろうとしない。

◆理性は「幸せ」を見下し「幸せ」に抵抗する。

◆自分に自分を説明しない。

◆エゴの求める「自己納得」は「他己納得」。

◆「自己」は、幼いエゴを泳がせておく。

◆「自己」にとって、エゴの考えつくかぎりの悪行など脅威ではない。

◆「自己受容した人」にそれが起こるのではなく「自己受容」そのもの
にそれが起こるという、厳然たる理がある。

◆発心とは「自己受容」が、エゴの検閲をすり抜け漏れ出したもの。

◆発心は「求道感」でも「焦燥感」でも「既視感」でも「安心感」でもない。
それはいつも唐突に漏れ出し、後から気づかれる。

◆発心の手触りは、エゴに気づかれる前に、とりあえず魂に「仮止め」される。
(発心の出どころは魂ではない)
「仮止め」は自動的に行われるので「この私」に出来ることはひとつもない。

◆「自己受容」を認めないのは、エゴだけ。
受容しているから、存在できているのだ。

◆本来、時空の地続きの覚醒と、時空を超えた覚醒に区別はない。
だから放っておいて問題ないが、エゴだけがそれを問題にする。

◆高次の自己は、低次の自己が何をしようが気にしないよ。
言葉も何も知らない、赤ちゃんみたいなものなんだから。
ちょっとぐらい失敗したところで痛くも痒くもないって。
気にして干渉してくるのは時空続きの近未来の自己だね。
近い自己だけに、言葉は通じるけど余計なお節介も多い。

◆高次の自己は普段は一体化していて見えないが、何かの拍子に
(それはいつも唐突だ)その人の脳が認識できるギリギリの姿で
顕われることがある。
何かメッセージをくれるとか、そんな陳腐な存在じゃない。
その臨在は畏怖を伴うもので、言葉じゃなく超視覚と超触覚と
超リアルな存在感として直接来る。

◆それは、肉体の接触を超えた未知の生々しさであり衝撃だ。
壮麗さに目が眩み、人によってはそれを神と呼ぶかもしれないが、
やっぱりそれは自己なんだ。
(もし神の本体が顕在したら肉体など木端微塵になるだろう)
なぜと言われてもうまく説明できないけど、臨在に触れればわかるんだよ。

◆そして、それはず~~~~~~~~~~っと!一緒にいるので、
一回でもリアルに出会ったら次に会う時まで、もう安心して忘れて
いられるんだ。
逆に、普段は忘れてないと人間の生活なんてやってられない。
だって、ほんとにずっといるんだから!!

◆だから、私たちみんな何だって大丈夫なんだ。
それは、信じる信じないとかの話を超えてる。
理論とか難しい話なんて、どうでもいいよ。
矛盾も承知のうえで言ってる。
全部、はじめからつながってたんだ。

◆伝統的な修行を積んだ理知的な知人が
「だっているんだもん、が一番イラつく」
と吐き捨ててたけど、ゴメン。
「だっているんだもん!!」

◆神は、目に見えないぐらいが丁度いい。
四六時中、目の前にいたらプレッシャーでしょうがないからね。

◆これ、あながち冗談でもないよ 笑
これよりもっと近くて圧がすごい!
眼じゃなくて、直で見てるし。
でも、感情とかは一切ない。
ただ「いる」。

◆「祈ろう」と思った時にはもう「祈り」から離れている。

◆「祈り」に、いかなる方向も持たせない。

◆方向を持たない「祈り」は、中心で昇華する。

◆「祈り」 ≠「 願い」

◆祈りの瞬間に、言葉はない。

◆「祈り」は、時空に干渉しない。
「願い」は、時空を捻じ曲げる。

◆慈悲は時空に依らず、救済は記憶に依る。

◆直観の盲信はトラップだらけ。

◆覚醒に最短ルートも最長ルートもない。
最短ルートを信じて願うのはエゴだけ。

◆カルト信者も、その人にとっての「聖なるもの」
に真剣に酔っている。

◆半覚者は「ゲームクリア」を目指し、
カルマの果てしなさに圧倒される。

◆ゲームと覚醒は無関係。

◆陰陽は必然ではなかった。

◆勝者は「勝った」と思わされる。
敗者は「負けた」と思わされる。

◆二元性が3つの視点に分割するのは当然。
2つの視点だけでは自己を認識できない。
アダムとイブはヘビの視点を必要とした。
3次元のワンネスは2つの視点への回帰。
それは「回帰」であってゴールではない。
1つの視点は「2マイナス1」ではない。

◆悪魔に勝とうとするのは、神に勝とうとするのに
等しい狂気の沙汰。

◆悪魔を「欺く」ことは決してできない。

◆悪魔は、私たちの誰よりも「至福」を知り尽くしている。
ある意味、神よりも理解しているから、それを「使える」。

◆神は至福を知り得ない。
神は誰も「欺けない」。

◆本当の神秘は「至高状態」によって見えなくなっている。

◆天使は「自分の持ち場」では「至高状態」に酔わない。

◆悪魔の「至高状態」も当然あるが、人間の偽至高状態のほとんどは、
悪魔以前の魑魅魍魎の瞞しレベル。

◆悪魔が自ら手を下すレベルの人間など「ほぼほぼ」存在しない。

◆3次元の唯一の「逃げ道」は、中心にしかない。
だが「逃げよう」という意識では逃げられない。

◆勝ち負けのゲームは、無限にレベルアップを強いられる。

◆ゲームのレベルには限界がない。
決して終わらないよう、自ら設定している。

◆数式は理解のための展開図。
「数」をそのまま見ること。

◆「数」に呼応する世界が、つどつど呼び出される。

◆「数」なるものは「ひとつふたつ」と数えられない。

◆3次元人は「数」を数えるために「数列」を使う。

◆「数」を知らぬまま「数式」を求めると、試算を誤る。

◆「幸せ」だけを望むなら、何も知らなくていい。
「何も知らないこと」には、相応の覚悟が必要。

◆私個人の脳のスペックでは、ほとんど何も知り得ない。
幸か不幸か、知り得ない焦燥は「至福」によって麻痺している。

◆「超えられない存在」があるうちが華。


momo2.jpg
雛祭り当日、駆け込みで咲いた桃。


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