【#神の逆鱗 #生贄 #太陽と月のピラミッド 覚醒からのつぶやき 72】


神田の早咲きの桜と、ほんのりしょっぱい桜茶。春です。
◆花は「一花咲かせよう」と思わない。
◆子供はウラを読まない。
◆ウラオモテなく今この瞬間に顕われているものだけが、
正確無比に引き継がれる。
◆実質と意味が乖離した無数の世界が浮遊している。
◆本来、実質も意味も物語も乖離していなかった。
◆ひとつのインパクトは、ウラオモテなく全てを顕した。
◆アタマの覚醒は、脳の再帰的構造によってループにはまりやすい。
ハウリングのように、自ら発した特定の音域を収音・増幅するからだ。
だから、アタマの覚醒だけは自覚的なテクニックを要するのだ。
◆現実世界のほうが夢なので、ある意味リアリティの整合性の結合が緩い。
だから実際、この世界は不条理だらけだし何だって起こりうる。
逆に、覚醒した世界は緩みがない。
◆目覚めの直前は、夢が支離滅裂になるもの。
夢の境界線上で、この私の整合性を保とうとする意図が外れるからだ。
それは実際、ひとつの脈絡もない「神の走馬灯」というべき畏ろしさだ。
◆私たちは、支離滅裂な夢は記憶から排除してしまうので、見かけ上
の整合性が保たれている。
だからといって、夢を見たまま自ら支離滅裂に生きれば、目覚めどころか
修復不能な混乱に陥るだけだ。
この私たちに出来ることは、支離滅裂な夢の緩みに気づき、コントロール
なしに受け流していくことだけ。
◆夢の支離滅裂さに干渉しようと野望を持ったり「意味」を
見出そうとしないこと。
夢の終焉は、この世界の「終末論」などとはまったく別の話だ。
◆「夢を見ている者」に目覚めても「夢見の境界線」に張り付いた目に留まる。
◆孤独なのは神ではなく「神の目」なのだ!
◆「神の目」は、世界を見続けるしかない。
◆悪に眼が眩むように、至高にも眼が眩む。
◆「眼」の次元は「意志」を見切れない。
◆「神の逆鱗」をあえて利用する宇宙創成もある。
そのショックは、唯一無二のエネルギーだから。
◆矛盾があるから、矛盾がない。
矛盾がないから、矛盾がある。
◆3次元の覚者の話は、矛盾があって当然。
逆に、矛盾のない話は疑ったほうがいい。
◆覚者の立ち位置は、文法と用語でバレる。
◆「覚者」=「覚醒」ではない。
◆「ひとつの世界」には「ひとつの覚者」しかいない。
◆預言は「為政者」の保険。
預言は「運命」への無力感を、計画的に植え付ける。
◆自由意志がなくても、無我に無力感は伴わない。
無力感が伴うのは、この世の「為政者」の計画。
◆「死後の世界」は「死ぬ人」がいる時のみ存在する。
「生前の世界」は「生きる人」がいる時のみ存在する。
◆「死後の世界」は無限に存在する。
各自の世界が無限に存在するように。
固定された霊界があるわけではない。
◆死後の世界で出会う母は「その人にとっての相対的な母」にすぎない。
そもそも、生前でさえ「絶対的な母」に出会ったことはなかったのだ。
◆死後、自分の顔を忘れてしまえば「相対的な母」の姿も消える。
◆生まれ変わりの記憶を持つ子供たちの一部は「反省部屋」と呼ばれる、
真暗闇で孤独な中間世の記憶を持っている。
「反省部屋」は真暗闇だが、前世や今世で出会った人々とのやりとりや感情、
今ここで起こっている世界の出来事を痛いほど直接知覚できる。
◆私は今世で「存在の座」にすとんと落下したときに、生きたままこの
「部屋」を見た。
そこでは、世界を直接中心で知覚できるが、自らが世界に関わることは
できない。
たとえば家族に話かけようにも、手足も口も眼も鼻も耳もないからだ。
◆人間にとってはこの状態は「反省部屋」かもしれないが、人生に未練
がなければただただそこに存在するのみだ。
ほとんどの人間には、その暗闇の孤独が耐えられないだろう。
その暗闇自体には、一切の動きがないが、どの瞬間の知覚も中心にある。
◆そこには、いつまでいてもいいし「のぞき穴」から世界を覗くこともできるし、
もういいと思えば、一瞬にして光の世界に戻る。
部屋の内でもう一層深く眠れば、「無」と呼ばれる(勘違いされる)ところにも
留まって、好きなだけ休んでいられる。
◆子供たちもよくわかっていて「反省部屋」は地獄でもないし、怖いわけでもなく、
自身で「反省」が十分だと思えるまで居続けていいのだという。
ただ、迷惑をかけた家族や知人を知覚できても、直接口で謝れずただ見ているのは
辛かったそうだ。
◆もちろん、ここは絶対的な無である存在の最深部ではない。
あくまでも人間の延長で、心身と輪廻ありきの「待機場所」だ。
しかし、中間世の記憶があったり、生きているうちにこのことを知っていれば、
今生で後悔しない生き方を選ぶようになるだろう。
◆「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の非日常的な漆黒の闇の中にいると、
銀河鉄道999の車掌さんみたいな感覚になってきます笑
存在に脱落するときの感覚にもちょっと似ている。
◆「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の暗闇は非日常の漆黒だが「視点」が
あるかぎり「部屋」の暗闇とは位相がまったく異なる。
存在の「部屋」の暗闇は、漆黒が自分の内と完全に一体化しているんだよ。
でも眼があった時の光の記憶が残っているかぎり、それはやっぱり「闇」
として感じられる。
◆脳が知覚し得る闇と光は、もどかしいほど薄ぼんやりしている。
存在を射抜くような闇と光を、私たちは確かに記憶していた。
◆肉体がなければ、暗闇への恐れは半減する。
ぶつかって傷つくことがないからだ。
だが、自分があるかぎり恐れはあり続ける。
◆「自己」は捨てられない。
◆「解答」ではなく、完結した「解」としてあること。
◆「解答」を目的にすれば「問題」と「採点者」が創られ続ける。
◆生命力の春は、殺気立つね 笑
◆今日、3月11日は「いのちの日」でした。
古より受け継がれた、春の生命力と生贄の記憶。
刻み込まれた「聖なる春」の記憶の内に、未だ起こり続ける
「聖戦」の影を見るにつけゾッとする。
◆ストラヴィンスキー作曲「春の祭典(原題:聖なる春)」は、
古代ロシアの異教儀式がモチーフ。
春の大地の不吉な息吹を治めるため、生贄に選ばれた処女が、
祖先や動物の精霊に取り憑かれながら息絶えるまで踊り続ける。
◆人間臭いピナバウシュ版よりも、1913年初演のニジンスキー版
「春の祭典」のほうが、ある意味怖い。
血の通わないキョンシー集団 笑
カルト「ウィッカーマン」より怖い。
◆いま、そんなロシアバレエも危機に瀕してる。
現実のほうが怖い。
◆記憶に仕舞われていた、もうひとつの春。
人間椅子「春の海」より
沖つ波の声は幽く
異人船に時を教える
まるで吾が子起こさぬように
天つ風の唄は遥けく
呼子鳥と楽を奏でる
まるで夢の続きのように
うららかな 春の海
ひそやかな 春の海
◆祈りは命を差し出すこと。
だから、古代の生贄の儀式は効を成した。
ただし、それは原始的な集合意識の中で起こった。
だから1人の生贄で全体に波及した。
◆現代の祈りは生贄に変わる象徴を用いるが、集合意識ではなく、
ワンネスの意識が前提になければ、局所的な個の願いにとどまる。
そろそろ対象のない祈りへ移行するときだ。
◆子供の頃、メキシコの「太陽と月のピラミッド」を訪れた。
小雨の降る薄暗い日で、だだっ広い盆地には見渡す限り私たち家族の他、
ひょろひょろと背の高い宇宙人のようなカップルしかいなかった。
カップルが長い脚でひょいひょいと、ピラミッドの急な段々をすごい速さ
で昇っていくので唖然とした。
◆古代の生贄の儀式に使われたとされる石の祭壇があり、ここで幾人もの
血が流れたかと思うとゾクゾクした。
遠くの山々を指さして父が
「あっちのほうから古代人が儀式の奇声をあげながら練り歩いて来たんだろうね」
と言うので、くらくらと気が遠くなった。
◆メキシコの旅は、その時のゾクゾクする思い出しかない。
本場のタコスもまったく喉を通らなかったし、弟と妹は熱を出して寝込んだ。
あの国には、生と死の生々しさが残っている。
それを思い出したい人にだけ、オススメする。

3月10日は「サボテンの日」。
ツインズとティランジアとデザートローズ。
関連記事 ⇒ 【#神の意図 #二元性 #ヒーリング 覚醒からのつぶやき 25】
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