【#タイムマシン #クエーサー #先延ばし癖 覚醒からのつぶやき 86】

バリ島の鏡と西瓜
◆一切の制限がない時、何をするか?
それが、創造主の境地というもの。
◆「一切の制限がない」こと自体が、
すでに「制限ありき」なんだけどね。
◆人間は真の「無制限」を想像し得ない。
◆言葉を探して、言葉を超える。
◆言葉は、言葉のまま、言葉を超える。
◆言葉を超えると、言葉そのものとなる。
◆言葉を使わず、置いておけるかどうか。
◆「言葉探し」と「形探し」は同じこと。
◆言葉を音で胡麻化さないこと。
◆言霊と音霊の癒着に気づく。
癒着は神秘という名の魔術。
◆神の言葉は、発声不可能。
◆言葉の多義性を、存在の言い訳にしない。
◆言葉の配列は、物理的な領域を実際に動かす。
禍々しい言霊的な意味ではなく。
◆人称は人間の文法。
◆仮称代名詞の世界。
◆私を巡る忘却と追憶の運動会。
◆言語脳に言論の自由はない。
◆世に言論の自由を問う前に、自身の言語脳の不自由を見る。
◆世界化された言語脳が、世界に言論を問う不毛。
◆いかなるイメージも触発しないコトバとカタチになる。
◆言葉がピタッとハマったときは、言葉を超えてビビビッとくるもの。
これが、二元性の醍醐味。
◆言葉そのものは、もともとピタッとハマっているんだけどね。
◆私が私にピタッとハマったときも、私を超えてビビビッとくるものだよ。
◆「ビビビッ」に気をとられると、一瞥にとどまる。
◆「一瞥の振戦」は、肉体感覚と心得る。
◆「この私」は、わたしのサーキットブレーカー。
◆思考は、思考自身に「まだ見ぬ深淵」があるように見せかける。
◆思考そのものに奥行きはない。
◆執行猶予付きの無知に、ニヤニヤ居座らない。
◆「この私」という「踏み絵」
◆「踏む私」は絵の中にしかいない。
◆タイムマシンに乗るなら、過去でも未来でもなく「今」に還りましょう。
といっても、過去に行っても未来に行っても「今」しかないんだけどね。
◆「現在」から「今」に帰還する。
◆ひとつなのは意識であって、「世界をひとつにする」妄想は狂気の沙汰。
世界とは、もともと無限に分岐してあるもの。
◆「世界」をひとつの「有機物」に見立てない。
(「無機質に生きよ」という意味ではない)
◆肉体との同化は、世界を自他未分の有機物と錯覚させる。
◆超光速・無限「いないいないばあ」地獄
◆「心の痛風」という贅沢病。
◆解は一瞬
解読は一劫
◆「解読マニュアル」が、無限に増え続ける。
◆「マニュアルのマニュアルのマニュアル」
◆「引き寄せ」は、カルマのプラスチック・サージェリー。
◆「A-T-G-C」が私なら「A」「T」「G」「C」は誰なのか?
◆分離の不安が、崇高なものを宗教に貶めてきた。
◆崇めれば、崇高は隠れる。
◆崇高は、ただ創発の一点において知られる。
◆時空の反転のみでは自他は消えない。
◆宇宙は「先延ばし癖」の産物。
◆人生を誰かに見せる作品にしようとするから、気が重くなる。
誰もいないんだから、瞬間瞬間に完結する即興でいいんだよ。
◆「即興」とは「気まぐれ」ではない。
◆「即興」に徹するほど「今」は厳密さを増す。
◆「スピをやる」って「悟りをやる」ぐらい、奇妙な言葉だよね。
◆「スピをやめる」とかってもっと奇妙。
やったりやめたりするものじゃないし。
◆「宇宙から見れば人間なんてちっぽけな存在だよ」というけど、
相対的な「大きさ」で見ているかぎり、人間はちっぽけなまま。
肉体を宇宙の大きさに引き伸ばしたところで、何も変わらない。
宇宙の大きさには幻惑されるが、どこを切り取っても同じもの。
◆人間を「ちっぽけ」と卑下する無知は
「『空間的』に俯瞰した近視眼」ゆえ。
◆3次元における「俯瞰」は、転換以前の暫定措置にすぎない。
◆「近視眼的」俯瞰と「遠視眼的」俯瞰がある。
そのどちらも、肉体の眼に囚われた視点。
◆神は「巨人」ではない。
人間は「小人」ではない。
◆肉体が重荷のように思ってるけど、本当は肉体のほうが多次元的な知性の顕れ。
原始的なのは、私たちの認識のほうなのだ。
私たちは、ハイスペックな競走馬を乗りこなせない三流騎手のようなもの。
◆今は未だ、肉体を捨てる段階ではない。
肉体に学ぶ前に肉体を捨てれば、認識の進化はそこで打ち止めになる。
◆人間は「アタマ」「ムネ」「ハラ」の意志がバラバラだからエネルギーを
消耗するのだ。
本来「アタマ」「ムネ」「ハラ」それぞれの機能は独立しているのでバラバラ
でも構わないが、「ひとつの身体」の中で「この私」がそれらの意志を統治
しているという幻想がある限り、私の心身は疲労し続ける。
◆「アタマ」「ムネ」「ハラ」の独立性に任せずに、感覚と感情と思考が
混線した「統一体」を練り上げようとするから疲れるのだ。
例えば、各内臓は機能が独立しているが、それぞれの働きに任せているとき、
勝手に協調している。
「アタマ」「ムネ」「ハラ」も、そのように協調してもらえばいいのだ。
◆脳が知覚し得る闇と光は、もどかしいほど薄ぼんやりしている。
存在を射抜くような闇と光を、私たちは確かに記憶していた。
◆準恒星状天体「クエーサー」は、太陽の数百兆倍の明るさで輝いているという。
「イメージに限界はない」というけれど、その明るさを想像できないのは、
私たちのイメージが肉体の記憶に限定されているから。
◆限界のないイメージは、五感を超えた「インパクト」として響くもの。
◆イメージを物理に落とし込むとき、世界は五感の閾値に補正されるのだ。
◆サマタのヴィジョンは主観的に「現実世界」の解像度を超えているが、
解像度と解輝度が上がりすぎると、脳による認識は役目を終える。

ドラゴンフルーツ(火龍果)
柱サボテンの果実。
花言葉「永遠の星」
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