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「東京ワーク開催 所感」 「自我と認識パターンについて」

2018/11/28
先週の土曜日、東京都内にてワークの第二回目を開催しました。

メンバーは前回参加の方に新規参加者さんが加わりましたが、今回も少人数に限定しました。


内容は前回に引き続き、現象を受動的に見切っていくときの妨げとなる、パターン化された概念の
気づき方についてのワークがメインとなりました。


●今回のワークの内容

心身の境界線とは
世界との距離と自己イメージ確立のプロセス
記号が概念に変わる瞬間
ルーティン化された動作をバラバラにする
重力に支配された心身のパターン
心の揺らぎを物理的に見る
動作のインテンションを見切る
ハートのヴァイブレーション


パターン化された認識や概念にとらわれていると「ありのまま」の存在の様相を鮮烈に受け取ることができなくなります。

本来、わたしたちはすべての事象を同時に見ているのですが、自我が芽生え成長していくうちに、人間の共通認識によって
創られたこの世界のなかで「効率よく」生き延びていくために、認識パターンの効率化のプロセスが無意識のうちに学習されて
いき、自我にとって都合のよい部分だけをつなぎ合わせて世界を切り取るようになっていきます。


たとえば今、部屋の中にいてパっと目の前の空間を見たときに、純粋な気づきそのものとしてはカメラのレンズのように
すべてを同時に映し出しているだけなのですが、学習された認識パターンのフィルターを通したときには次のようなプロセス
が一瞬にして起こっています。

1.自分という感覚を基に「見る」ための定点が瞬時に設定される
(自分のものであろう身体の一部が視界に入っていたり、身体の重さや床との接地感覚や内臓の感覚や
呼吸の感覚や感情や痛みや思考などの中からそのとき優位に感じとられたポイントをもとに「自分」という定点が発生する)

2.定点から「離れている」(と経験上想像している)いくつかのポイントが無意識に選択され視界に入ってくる
(部屋の角やむこうにあるように見えている本棚の幅と身体の幅の体感的比較から測られた距離の感覚や照明によって
つくられた椅子の影の角度や壁の垂直面や床の水平面の一部など)

3.視界に入ってきた上記のうち、いくつかの点と線と面とを選択して経験から類推されるパターンを一瞬にして組み合わせ
「想像どおりそこにあるはずの部屋という空間」を読み取る


このように読み取られた空間は、この3次元世界においては大抵の場合、ほぼ想像どおりに近く日常生活に支障はないとはいえ、
プロセスにおいて選択された情報は世界全体のうちのほんの一部で、最小限に取捨選択された点と点、線と線、面と面の
組み合わせ以外の部分は「こうであるはず」という経験上の思い込みのイメージで補完し、3次元として整合性がとれるように
つなぎ合わせているのです。

(経験的に「ほぼ」想像どおりに3次元で生活できるのは、この認識パターンに沿って社会や生活空間や家や車やあらゆる
道具すべてが創られているからです。
極端にいうと、たとえば床から天井まで経験上3メートルあるように見える部屋で床から立ち上がったら
実はそれは錯覚で実際は1メートルしかなくて頭を強打する、というような家をつくっても売れないですよね 笑。
余談ですが、90年代にはあくまでも哲学や表象のレベルではありますが、このような「お約束」の認識を崩そうとする、
いわゆる脱構築主義的建築というのが流行りました。
また、アートの分野では荒川修作+マドリン・ギンズ作の「三鷹天命反転住宅」という集合住宅の部屋の構造は心身に染み
ついた認識パターンを裏切り新鮮な感覚を取り戻す体験としてはお手軽なのでおすすめです)


以下の図は2次元ですが、〇と〇の間にあたかも辺が存在しているかのように錯覚して中央に立方体が浮かび上がるのと
原理としては近いかもしれません。

3F3F3F3F3F3F3F3FA1F13F3F3F3FA7EE.jpg


3次元のリアリティとは非常に脆いものです。

その証拠に、最近増えてきたバーチャルリアリティ施設の体験でも、空間の奥行や影や光の角度などの感覚は予想以上に
非常にリアルなものであり、実際そこに空間が存在しないとわかっていても脳は容易に騙されてしまいます。

(ただし、現時点での汎用型VR施設のコンテンツはまだまだ現実世界と完全に同じようには見えない段階ではあります。
何度か体験したことがあるのですが、たとえばメインのコンテンツ以外の背景のディティールが雑に省略されていたりすると
即座に違和感を覚えます。
このことから逆説的に、人間は上記のように自分という定点から認識パターンを利用して視界に映った点と点のあいだを
イメージで補完し像をつなぎあわせて世界を見ていながらも、つねにその背後で、意識に昇ってきていない全体を同時に
見ているのだということが実感できます。)


それではなぜ、人間は学習された認識パターンによって世界を省略化・効率化して見ようとするのでしょうか。

ひとつには、それは自我の成り立ちに由来する戦略だということがあります。


そもそも自我とは自他を区別し、「この自分」が生き延びようという本能を発動させるためのツールとして発生し進化してきました。

この自我は、基本的にはこの世界を「自分の生存」に役立つように無駄なものは省いて必要なものだけを取捨選択して見よう
とします。


しかし、この「自我」を定点とした世界の取捨選択は一見、合理的であるように見えて実は非常にエネルギーを消耗するのです。

まず、本来幻想である自我を無からいったん創り上げて定点にするために使われるエネルギーの消耗、次に、定点から自分に
都合のよいように取捨選択するときの意図と方向性の発生に使われるエネルギーの消耗、があります。


もし、自我が自分の意図で能動的に世界のすべてを選択し同時に見ようとしたらどうなるでしょうか。

おそらく生体エネルギーが即座に尽きてしまうだろうと思います。

(注意:これは、「すべてが同時にあった」という覚醒状態とは認識の構造的に異なります。)


そのため、生存の本能の戦略から、自我はなるべくエネルギーロスを防ぐように世界の都合のよい部分だけを簡略化・効率化
して見ているのです。

自我自身は気づいていませんが、人間は自我という幻想を保つことと、自分と分離した対象物を設定すること自体に毎日毎日、
莫大なエネルギーを使っているのです。

(このことは自我を維持するストッパーがはずれて脱落したときにはっきりとわかります)


自我の認識パターンの効率化の例として、有名な心理学の実験があります。

ご存じの方もいるかもしれませんが、まず実際に試してみたほうがわかりやすいと思います。


以下の動画を見て、「白いシャツを着ている人」のパスの回数を数えてみてください。

動画 ⇒ "The Monkey Business Illusion"


答えをいってしまうと、2つのバスケットのチームのうち白いシャツの選手のパスの回数を数えるように指示されて
その通りに数えていくのですが、実はその途中にゴリラが横切っていたことに、半数の被験者がまったく気づかなかった、という
実験結果だったそうです。


これは、自我が「白いシャツの選手」のパスだけを全体から取捨選択して、その目的以外の現象を切り捨ててしまうという
わかりやすい例です。
(もっといえば、たとえゴリラに気づいたとしても、被験者はモニターに映る映像だけを世界から選択して見ていたのであり、
そのとき外界の出来事は切り捨てていますね 笑)


よく、大人になると時間が過ぎるのが速いといいますが、これはなぜかというと、子供のころは世界を意図的に取捨選択すること
が少なく、経験の積み重ねや自我のこだわりも少ないため、世界に起こってくる現象のひとつひとつに新鮮な驚きとともに出会っ
ているのに対し、自我の固定された大人はすでに知っていることは退屈で役に立たないので切り捨て、都合のいいポイントだけ
を切貼りして世界を簡略化・効率化して見ているため、自我を保つためにエネルギーを消耗させながらポイントとポイントを矢継
ぎ早に繋いで世界の表面を通りすぎていっているのです。

そうかと思えば、自我の欲を保つための魅惑的なポイント(対象物)が世界に見いだせないときには意識を保っていられず、
すぐに気絶して寝てしまいます。


そのような世界は幻想であり、まさに錯覚です。


認識パターンの幻想が、単純に物理的な空間においてのみ共通認識として設定されているのならばそれほど問題ではありま
せん。

そうであれば、便宜上この世界を生きていくための法則だと割り切ればむしろ遊園地のアトラクションのように楽しめるかもしれ
ません。


やっかいなのは、自我から生じる自分本位のパターン認識は空間・行動・思考・感情すべてに染みついており、それが自我自身
の心理的な苦しみの原因となっていることです。

とはいえ、そもそもこの自我を苦しいと思わなければ人間として覚醒や悟りなどを目指す必要もなかったのであり、自我の存在
はやっかいながらも非常にユニークなシステムで、その発生と進化は最初から仕組まれていたともいえるのです。



長くなりましたが、認識や概念のパターンを崩すことの重要性は以上のような背景があったということの説明でした。


このような背景もふまえたうえで、わたしとしてはワークのレベル的には前回の延長のような感覚で行ったのですが、今回は
参加者さんひとりひとりの反応の位相が微妙に異なっていたので「あれ?」と思いました。


ワークの内容と自らの一瞥体験との関連性が腑に落ちていないであろうことを隠さず誠実に戸惑っていた方、

戸惑いつつも飄々と取り組み、あるワークの瞬間に「あっ?!」と何かに気づきそうな手触りを得たであろう方、

慣れ親しんだ禅の公案の答えとワークの目的にどうしても共通パターンを見出してしまって素直に入り込みきれなかったこと
を告白された方、

ひたすら「わからない」ということを子供のように一切の飾り気なく素直に表現してくださった方、

前回にひきつづき「わからない」ことは「わからない」と認め、その中にも自分に響く部分を見つけようという姿勢で取り組み何か
が動きはじめてきた方、

終始マイペースで脱力しつつ時おりニヤニヤしたかと思うと突然シリアスな口調で意識のギリギリのポイントを突いてくる
方(←リアル氏です 笑)


ひとりひとり様々なバックグラウンドや価値観や概念形成の過程があり、世界の見方や感覚の優位なポイントの差異
(気づきにおいて五感のどのポイントが優位か)があるため、同じワークを行ってもそれぞれ腑に落ちるポイントが異なり反応が
異なってくるのは当然といえば当然です。

が、ほとんどの方に共通するのが「ワークの目的が具体的に覚醒のどこに関連しているのかわからなくてもやもやする」という
ことだと思います。
(もやもやを含めて概念を崩す過程であるともいえるわけですが)


興味深いのは、新規参加のある方は逆に「公案をやり込んできたため、ワークの目的だけが先に見えてしまってもやもやした」
ということです。

わたし自身は公案についての知識と経験はまったくゼロで、あくまでも体験によって転換された認識で見える世界をそのまま
お伝えしようとしていたのですが、いずれにしても、結果として見える世界の種明かし的な部分の「美味しいとこどり」に先走って
しまったところはあったかもしれません。


とはいえ、以前もちらっと書きましたが、日常と瞑想の境界はないのであり、本来は意図的に瞑想に入ろうとして座禅を組んだり
しなくても気づきの鋭敏さとそれを持続させるエネルギーがあれば、前回と今回のワークの内容は日常生活においてもダイレク
トに関わってくるポイントではあるのです。

ただ、日常あるいはワークの短時間の間では集中力が高まりにくいため、「今この話はここのレベルのこのポイントのことなん
だな」ということが具体的に自分のこととして体感しづらいということはあったと思います。


リアル氏にあとで指摘されたのですが、たとえばワークで行った日常的な動作のなかで動きや意図の発動する瞬間(インテン
ション)のベクトルを微細に観察するというのはかなりの集中力が伴わないと見切ることが難しいだろうということです。

(ここを連続的に見切れるようになると「自分がやっている」という意識から離れ、瞑想が自動化してスリリングになってくる重要な
ポイントになります)


そのため、一点集中のサマタ瞑想的なクラスを別途開催し、ある程度集中力が高まったところで、いつどのポイントで次の展開
に移行させるかを具体的にお伝えすることも必要かもしれないと考えはじめているところです。



● 次回の東京ワーク開催は今のところ2月頃を予定しています。

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