質疑応答 【禅とヴィパッサナーの相違と方便について】
ブログテーマとして質問をお寄せいただきましたのでシェアします。
【質 疑】
私はヴィパッサナーと禅の経験があり、どちらの良さも感じていますが、両者の違いについて
まだ十分感得できていない点もあります。ヴィパッサナーの経験のほうが浅いです。
たとえば、禅では、そのもの自体であること(なろうとするのではなく、原初の状態がそうという
だけのことですが)が説かれますが、ヴィパッサナーでは、肉体(の感覚?)や思考と一体化する
ことから離れるよう説かれることが多いようにも思います。
後者の教えは、一般的に人は肉体や思考を自分だと考えてしまっていることから、そこから
抜け出す方便として説かれているだけなのでしょうか?
現時点では自分には禅の方が合っている感じがしておりしますが、AYA様がおっしゃるところの
「気絶している」瞬間は、禅の方が多く起きているようにも思い、このあたりどうなっているのかな
と思い質問させていただきました。
AYA様は、それぞれの流派の文法を超えて解説してくださる力量があるように感じられましたので。
【応 答】
まず第一に「なぜそれを問うのか?」「なぜそれに興味を持つのか?」に気づいてください。
禅であれ上座部であれ「今まさにそれを問う自分の思考を見よ」という大前提に立ち戻ってください。
禅と上座部の表面的な方法論の違いについての解説は、巷にいくらでも転がっています。
問いに対してひとつだけお応えするならば「一体化」という概念にひっかかっている、ということが言えます。
「離れるから一体になる」「一体になるから離れる」この2つは同義なのです。
そのことは、誰かの解説によってではなく、ご自身の体験から検証していくべきことなのです。
私はいつも「伝統的な道を行くのであれば、あちこちつまみ食いしない」ことを強調しています。
仮にも縁のついた道の方便を疑うのは、発心が曖昧で核心に導かれていないからです。
方便が方便であったとしても、導かれているのであれば方便は正しく機能します。
逆にいえば、方便か方便でないかを正確に判断することは見性するまで不可能なのです。
問いの志向性を見るところ、おそらく「この道が正しい道なのかどうか」を誰か信用できる他者に
「保証」してもらいたい、という揺らぎがあります。
厳しい言い方になりますが、修行の揺らぎを方法論の綻びに転化したいのです。
もし私の解説から保証を得ようとしても、他者(=自分自身)を信用していないので、また疑問が起こるでしょう。
方法論のメリットを天秤にかけて保証を求める揺らぎを観察してください。
揺らぎが起こるのは、ひとつの修行法を「死ぬほど」やっていないからです。
保証はなくても発心に導かれているのならば、疑問が起こる前にやっているはずです。
まず、核心に触れるまでどちらかひとつに絞って死ぬほどやってみてください。
それぞれの道の見性の「認可」(まったくもって嫌らしい概念ですが)レベルには多少の違いがあれど、
どのプロセスにおいても具体的な核心に触れれば、先の「一体化」が方法論の垣根を超えて何を意味
しているのかがわかります。
それは具体的なものです。
まさにこの自分が悟るということにおいて、他人の保証や流派の違いに気をとられている暇はありません。
ひとつの核心に撃ち抜かれなければ、流派や方便の良し悪しなどわかりません。
そのためには、今これを問う自分自身が実際にどうか?だけが問題なのです。
発心が熟せば、自動的に「そうでしかない道」に導かれていきます。
不信のまま信用を探すのではなく、信が信として自律するのです。
そこに思考の入る隙などありません。
頭で考えず、直観と魂(あえて「無我」ではなく「魂」と言います)を剥き出しにして実存に
撃ち抜かれてください。
求めていた応えと異なり困惑されているとは思いますが、結果として最も重要なテーマを提供して
くださったことに感謝します。
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