【#消失点 #野狐禅 #一神教 覚醒からのつぶやき 100】

春がウォーミングアップを始めました。
◆認識の限界が、創造の限界。
◆限界なき創造は、認識不能。
◆創造力と認識の癒着を解く。
◆認識を超えたものがあるというより、
超えられない認識があるだけなのだ。
◆知を覚えず、覚を知ろう。
◆消失点は、後天的に獲得された視覚のイリュージョン。
◆パースはアイレベルを水平線に隷属させる。
◆宇宙空間に「アイレベル」なし。
◆「遠近法」と「実在感」は一致しない。
◆パースで隠れた面をアフォーダンスで補正。
◆パース初心者は、画面からはみ出した消失点を割り出すため
に画用紙をツギハギする。
◆視野からフレームアウトした消失点は、
その先に広がる仮想空間を要する(捏造する)。
◆一神教は「パースがきつい」
信者はパース酔いしている。
◆「信心深い」近代人は無意識的に、フレームアウトした
消失点に強迫され続けてきた。
◆『視点と消失点とを強調すると、そこに遠近法の幻覚が出来上がる。
これに結びついて、空間が視覚的、画一的、連続的なものであるという、
もう一つの幻覚が生じる。』マーシャル・マクルーハン
◆『”ルネッサンス美術の観察者”はシステム的に、経験の枠外に置かれる』
マーシャル・マクルーハン
◆「遠近法を知ってしまった目」は、もう元に戻れない。
だからこそ、ルソーの(頓珍漢な)遠近感は、巨匠たちを唸らせた。
◆遠近感は両眼視差や物体の肌理や影により脳内で編集されたものだ。
だからしばしば錯覚が起こる。
遠近法の一点透視図法は一神教の神を中心に描く宗教画から発展した。
それ以前の人間は、日本画のように多神教的なフラットな世界に住んでいた。
◆遠近法の啓蒙によって人間は視点と意識を固定された。
それと同時に自我が強化された。
古代の人間は自我をメタ認知することがなかった。
メタ認知が、人間の苦しみを生み出した。
◆だからといって「多神教に回帰せよ」ということではない。
◆真の「3次元視」を獲得するには、2次元的な線遠近法が必要だった。
◆だが「3次元視」の次の視覚は、まったく別のフェーズから起こるだろう。
◆この世界で「それ」を共有しようとするのは的外れなのだ。
共有しようとすればするほど、ズレが認識される。
インパクトとして在る以外にない。
◆「同時」に「共有」されることなど、あり得ないのです!!
◆まず世界に「参加」しなければ、神に意見が通る実感も持てない。
◆真に「意見」があるならばの話。
「不平」は「意見」ではないよ。
◆それは「肚落ち」というより「肚抜け」だ。
◆ダルマへの無力感(卑小感)を無我の証拠にしない。
◆半覚者は無我の一瞥をダルマに落とし込んでしまう。
落とし込んだ爽快感を手放していく覚悟があるか?
◆100%矛盾していれば、それが真実と呼ばれる。
◆法則と現象は、一対一対応ではない。
◆「無限」を「理解の及ばない天文学的数字」と混同しない。
◆「天文学的数字」は、天文学に収まる。
私たちはただ数字に気絶しているだけ。
◆物理世界では、分岐の可能性は必ず有限になる。
天文学的な分岐を無限と勘違いしなければの話。
◆体は体のまま置いておく
私は私のまま置いておく
無も無のまま置いておく
空も空のまま置いておく
◆物理空間にしろ心理空間にしろ、それらを「置いておく」とき、
空間をそれ自体の位置からズラさないのが肝。
ここは、気づきの瞑想において「観照者」の陥りやすいポイント。
◆感傷者から観賞者へ
観賞者から観照者へ
観照者から歓笑者へ
◆観照という名の傍観に気づく。
◆鑑賞者という名の傍観者の驕り。
◆覚者は「レトリック」を魔境から取り戻す。
◆鼻で笑い肚の笑わぬ禅者の魔窟。
◆「勘のいい餓鬼は嫌いだよ」
◆未知に忖度しない。
◆未知から目を背けると、不可知の神が脅してくる。
◆認知構造に依拠する不可知を未知と混同している。
◆構造的な不可知の留保として神を立て怯えている。
◆野狐禅は未知への忖度が強迫的になりがち。
数多の半覚者が未知に脅されたまま去った。
◆この世では、未知の入口までは見ておこう。
◆未知と神を混同しない。
◆未知と無我を混同しない。
◆未知に媚びない。
◆真の無執着とは「未知なるもの」の徹底的な放念。
「未知に蓋をせず」完全に放念できるかどうかだ。
◆未知に脅かされていない時、存在は強度を増す。
◆完全なる放念から来る直観は、神秘を凌駕する。
◆神に秘はない。
◆「悟り」は「差取り」ではない!
この勘違いが横行している印象。
◆この世的には、現象差を取るより、心理差を取るほうが「速い」。
修行者は苦の激減に味を占めて、現象差を取ろうとしはじめる。
◆「差」は、認識の仕様。
◆「個の中心」は平均値ではない。
「全の中心」は中央値ではない。
「生の中心」は最頻値ではない。
◆「いま」は、時間の補正では出会えず。
「ここ」は、空間の補正では出会えず。
「それ」は、信念の補正では出会えず。
◆「肉体意識」は、時差の幽霊。
時差のない肉体は、「肉体」。
◆自分の葬儀で流したい曲目は何だろう?
その曲のイメージを、今すぐ超えよう。
自分の葬儀で使いたい写真は何だろう?
その顔のイメージを、今すぐ超えよう。
◆この世界の複雑さは、膨大な組み合わせによるもの。
意味は入り組んでいるが、パターンと運動は割と単純。
◆無限の組み合わせが、必然を偶然に見せかける。
◆ブラックボックスから忽然と顕われる神秘も、人類の未だ見ぬ
「組み合わせ」の妙にすぎない。
近未来の人間が神秘という名の手品をやってのけるAIを神と崇める
ならば、手のひらから物質を取り出す古風な聖者を崇める時代から一歩
も進んでいないことになる。
◆全ての組み合わせの試算は、既に終わっています。
◆エゴは「組み合わせ」の時系列にこだわるから苦しむのです。
◆現象すべての瞬間の無限の組み合わせが、同時にある。
◆神話創世の「既視感」が鍵なのです。
◆「仕様書のバグ」ばかり探して「潜在バグ」に気づいていない。
◆進化においてはバグさえも戦略的に組み込まれてるんだから、
プログラムの裏をかこうとしても無駄。
◆「眠っている」というより「気絶している」のです。
◆この認識形態の生を享ける瞬間のショック(代償ともいう)
としての「気絶」。

特大アンスリウム!
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