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#ニミッタ(丹光)の位相 #構造的な無執着 【4/15(土) 東京ワーク ~所感と解説~】 

2023/04/16

4/15(土)東京にてワーク開催しました。


頭蓋骨
【頭部ベクトルの拮抗バランス】

↑ コレの土台造りで、貧血になった方がいました。

クンダリーニもそうですが、偏差が起こりやすい方にとっては、バランスが整うまでは不自然な
感覚が出てくることがあります。

心身の慣れ親しんだバランスを組み換えるのは、必ずしも自然な感覚ではないです。

(もちろん、このような場合はいったん休んでいただきます)



【ニミッタ(丹光)の位相】

今回は、ニミッタ(丹光)の扱い方と位相を体験していただきました。

サマタ瞑想の導入として人工的な光の残像を利用し、どの位置からどのように見るのかをお伝え
したのですが、光を見ること自体は目的ではありません。

光は瞑想の集中度合いによって座標のない虚空に唐突に顕われてきますが、それ自体にひっぱ
られずに完全に「置いておく」ための「見る位置=内部の目」が具体的にあるのです。

このポイントを具体的に知っているかどうかで、瞑想の進み方はまったく違ってきます。

丹光を練って利用する流派もありますが、その場合でも「内部の目」が確立していないと上手く扱えません。


深い瞑想におけるニミッタは内部の目の前方のスクリーンではなく目そのものと距離なく発火しますが、
厳密にいえば光として見えているものは現象としてすでに起こってしまっているものであり、認識の空白で
スパークする現象発生の始原のフラッシュとは位相がズレています。

とはいえ、まずは瞑想の初期段階で引っ掛かりやすい現象としての光の位相について知っておくことは重要です。


~Rubin's work ツイッターより~

<質疑>
「瞑想中に光がみえて眩しくなるのですが?」

<応答>
眩しく感じるのは、集中が浅く肉体の目に意識があるからです。
目をつぶっているときは眼圧が前にかからないようにし、
サードアイ周辺を前に押し出さないように気を付けます。

眼圧がかかって前方向の意識が強くなると、様々な光が前面のスクリーンに映って
まぶしくなったりしますが、深い瞑想における閃光(ニミッタ)は場所のない中心のような
ところに出るものであり、そのとき目という肉体の意識は伴っていません。

眩しくなったときは、一歩後ろに引くようなニュートラルポジションに意識を戻します。
このとき眼球は、後ろ側に空間を開けて裏側から引っ張っぱりながら浮かせるようにします。

この段階でのニュートラルポジションはあくまでも暫定的な場です。
本来の意識のポジションは気づきの自動化とともに立ち顕れてくるものであり、
自身で設定するものではありません。

ただ、気づきが自動化するレベルになる前は、眠りにおちるときに目の奥の松果体の
あたりから意識が消え入る瞬間に微妙に下方向へカーブして落ちるか落ちないかぐらい
の位置ととらえていて結構です。

光が出た時、それを見ようとする意志は前へのベクトルを生み出すので、意識が
引っ張られる前に見送るようにします。




【肉体の目から構造的な無執着へのシフト】

これを知るためには、いったん肉体の目に戻り、肉体がどのように光を見ているかを観察してみます。

そこでよく使うのが、補色を利用した方法です。

まる
目線の高さの壁に貼付け使用。

中央の黒い点を「肉体の目」で見ていると、点以外の背景はぼんやりと映りますが、黒い点をその位置
に置いたまま見る意識を眼窩の空間に引くようにすると青い丸の周辺に補色のオレンジの光が見えてきます。

このとき、意識が円周の光にフォーカスしてしまうと眼球が動いて光の形が変わったり、消えてしまったりします。


また、眼球は放っておいても生理機能(サッケード)としてチラチラ動き続けるのですが、チラッと動いた一瞬
の空白に思考が発生し、気絶している間に意識が引っ張られ、対象物とのフォーカスの位相が変化した結果、
光が歪んだり消えたりします。

ところが「内部の目」に黒い点と青い丸を同時に映しているときには、オレンジの光をそのままそこに置いて
おけるのです。(肉体レベルのオーラであればこの状態で可視化できます)

そのまま置いておけるということは、すなわちフォーカスがグラグラ動いていないということなのですが、
内部の目のバランスがカチッとはまっているときには逆に、フォーカスを動かそうとしても動かないのです。


これはいってみれば「心理的な無執着」ではなく「構造的な無執着」状態ということなのです。

思考に癒着した気づきのまま無執着であろうとすると、思考を対象物として切り離そうと努力しつつ、
意図的な努力がさらに思考を発生させるイタチごっこに陥りますが(これが瞑想が進まない大きな理由
のひとつです)まずは構造的にニュートラルな無執着状態を体験した上で、そこからチラチラ顕われて
くるズレを見切る方法のほうが瞑想の進み方は圧倒的に速いのです。
(これはこれで注意点はありますが)


~Rubin's work ツイッターより~

個人的には、アナパナは気が昇りやすく、意識が身体の前面に偏りやすいので、初心者は
丹田をつくって気を落とせるようになってから移行するほうが身体の構造としては自然という考えです。

アナパナで意識が前面に偏ると、光やヴィジョンなどのニミッタが出やすくなりますが、サードアイ
付近前方にみえるニミッタは集中の度合いとしては浅く、気づきが肉体の目を伴ってしまっています。

ニミッタの光をまぶしく感じるならば、肉体の目に囚われている証拠です。

それに対し、場所のない虚空のようなところに唐突にフラッシュするニミッタは集中力が高まってきた
証拠になりますが、ニミッタ自体には囚われず手放していく必要があります。




【自他の分離と遠近感】

上記の「内部の目」の見方で、こんどは全身鏡に姿を映してみます。

肉体の目で鏡に映った姿を見るときは「ここに映っているのは自分の身体だ」という認識が自動的
に生まれますが、内部の目から映しているときには、映っている色形はくっきり見えているのに、
それが自分なのか他人なのかわからないのです。
(わからないというより、自他の判別の認識にフォーカスがまったく動かないという感覚が近い)


この感覚は、幽体離脱とも離人症とも異なり、非常に奇妙な感覚です。

例えば、見ている鏡の中に他人が映り込んできたとしても、内部の目が完全にバランスが取れて
いるときには、それが自分なのか他人なのかという思考が動きません。

この状態で、こんどは鏡に近づいてみたり離れてみたりしてみます。

このとき、映っている像は遠近によって小さくなったり大きくなったりしますが、像の大小にフォーカス
していないとき「映しているもの」それ自体は不動のまま在ります。
(不動といっても空間座標が固定されているわけではない)

逆に、身体の位置を固定したまま鏡のほうを近づけたり遠ざけたりしてみても、同じく像の遠近に
左右されない「不動のそれ」が立ち顕われてきます。


極まったワンネスの認知状態においては、例えば動いている車が止まっている私に向かってきたのか、
動いている私が止まっている車に向かっているのか、区別がつかなくなってしまうということも起こって
きますが、この鏡のワークもその体験に近いものです。

ただし、集中力が高まっていない状態だと「見ている私」という感覚がチラチラ顕われてきた瞬間に
「私の身体」の座標が認識され、自他の距離と分離に引き戻されてしまいます。



【自他の戦略的区別と苦の幻想】

「で、この見え方がなんの役に立つの?」と思われるかもしれません。

たしかに、このような奇妙な認識は、生体としては戦略的に不利だといえるでしょう。

自他の区別がつかなければ「敵」が近づいてきても逃げようという気も起こらないからです。


もちろん、生体として自他の区別はあっていいのですが、問題なのは自他の区別に思考が癒着し、
他者を排除し自分中心に生きていると、結果として「思い通りにならない」という人間特有の苦を
生むということです。

そもそも、この根本的な人間の苦が問題でなければ覚醒や悟りといった概念も必要ないのです。


ただ、自他のない状態をずっとキープし続けなければならないということではなく、一度でも雷に
打たれたように認識の転換が腑に落ちきれば、逆に「現象の見え方」の違いに囚われなくなり
「苦」だと思い込んでいたことは単に認識のひとつの仕様から発生する局所的な概念であったこと
に気づくのです。


聖路加2
ワーク会場へ、春時雨の道すがら


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