6/17(土)東京にてワーク開催しました。

丹田の内圧で風船を膨らませる
【無執着と自動状態】
今回も、このワーク↓中に「あっ!」と気づいた方がいたのですが「一瞬後にもやもやっと
わからなくなってしまいました」と報告されました。
↓ 限定公開ワーク動画 【実録!~「空」として在ること~】
ここはしばしば探求者の陥るポイントで、「あっ!」の直後に「わかった!?」という思考と
「わかった瞬間を引き伸ばしたい」という欲が一瞬の間に起こり、明晰な気づきが隠れてしまうのです。
瞑想において「思考に巻き込まれず無執着であれ」というのは、まさにこの一瞬に陥らないように
するためであって、心理的な無執着自体が目的ではありません。
心理というより物理に近いレベルの無執着と鋭利な気づきと集中力によりこのポイントに陥らないように
なると「わかった!」思考が発生する以前の「あっ!」の「っ!」が高速で点滅する自動状態に入るようになります。
現象側の「あっ!」に引き込まれる磁力が断続的かつ超高速で切り捨てられていくとき、Gを伴う高圧の
中心にどこにも触れていないものの気配が立ち顕われてくるのです。
~Rubin's work ツイッターより~
◆無執着は、家ではなく鍵である。
◆真の無執着とは「未知なるもの」の徹底的な放念。
「未知に蓋をせず」完全に放念できるかどうかだ。
◆無執着とは、物理的な制限を超え、あらゆるものをそこに置いておくことだ。
「置いておく」ことは、場所に固定することではない。
すべてが完全に置いておかれた時、私と乖離するものはなくなる。
私のすべてが置いておかれたとき、何も残っていないそこに、世界がまるごと置き換わるからだ。
◆ポイントは「内部の目の確立」⇒「高度な一点集中(サマタ)」⇒
「気づき(ヴィパッサナー)の自動化」⇒「五感と集中対象の全開放」です。
このプロセスには前提として徹底した「無執着」が必須。
◆「砂鉄のように集積」させるのは、カルマの磁力です。
(一瞬の気絶から)気づいたときには、すでに現象の映像に入ってしまっているのです。
この磁力は、現象側の自意識で能動的に引き剥がすことは不可能です。
「すべては自動的に起こっている」というのは、このことを言っているのです。
◆能動的には不可能でも、その地点を見切り、境界に在ることは可能です。
「無執着」とは心理的な美徳などではなく、磁力に引っ張られないための構造的な前提です。
◆境界に在るとき(ただ在るだけでも異常な磁力の圧に「意識単体で」耐えなければならないのですが)、
現象側に放出されずにランダムな選択の場を眺めていることだけはできます。
【「ある」と「ない」】

指一本で空を見る(前回ワークより)
壁に指を押し当て接触面の圧を見ていくと、押しても押しきれない空白のポイントが見つかります。
このポイントは集中が高まった状態であっても、物理的な接触のブレと意識のゆらぎにより刻々と
変化していきます。
今回このワークである参加者さんが「『ある』と『ない』は表裏一体なんですね」といわれたのですが、
正確にいうと「『100%ある』と『100%ない』は裏表なく完全に同一」なのです。
私たちの二元的な認識においては『局部的にある』ことと『局部的にない』ことが、瞬間瞬間に時系列で
点滅しているのですが、通常は『局部的にある』瞬間だけをイメージでつなぎ合わせてこの世界を
『100%ある』ものと錯覚しています。
意識的な瞑想によってこの錯覚を見切ることは可能ですが、瞬間瞬間を時系列で追うかぎり、点滅の
速度があがったとしても「ある」と「ない」の分離は解消しません。
そして、分離した「ある」と「ない」の点滅が二元性の認識の限界を超えると「表裏一体」というイメージ
に気絶してしまうのです。
~Rubin's work ツイッターより~
◆全体と局部の差がないとき、局部と局部にもまた、差がないのだ。
差はなくとも違いはあるが、区別が認識として結晶化する直前の瞬間につどつど
張り付いているという感覚が近い。
例えば、ある文字から別の文字に視界が移行した瞬間、意味が切り替わる前に、
その瞬間の局部=全体になってしまう。
◆「いる」と「いない」は言葉の上では真逆だが、「いる状態」と「いない状態」のあいだ
には無限のグラデーションがある。
どこからが「いる」でどこからが「いない」のかは、その人の次元の主観的な感覚にすぎない。
確かなのは、覚醒においているとかいないとかを考える隙は一切ないということ。
【「100%ある」状態】
それでは真に「100%ある」状態とは何でしょうか?
それは、認識が「認識として」認識されていないとき、すでにあるのです。
逆にいえば、認識されたものは例外なく「局部的」なものなのです。
ただし「認識が(再帰的に)認識されていない状態」を「無自覚に気絶している状態」と混同しないこと。
認識が認識される以前に、明晰な意識が100%そこにあるのです。
そして、100%そこにあるとき「ある」「ない」の区別は認識し得ないのです。
「ある」と「ない」の時差がゼロの状態といってもいいかもしれません。
だから「ない」ことが先にあって、現象が「ある」ことが幻想だ、という発想は二元的な錯覚なのです。
~Rubin's work ツイッターより~
◆その一部始終を、目ではない何かではっきりと「見て」いるのです。
見ることと在ることが、完全に一体化して同時に起こっているのです。
それは言葉のうえでの「無」というものなどではなく、私がないからこそ確かに
「在る」としか言いようがないものです。
◆「私は在る」にしても「私は無い」にしても、語りの文法に気絶すれば、
むしろ分離を促すことになる。
◆押すことは、押されること
引くことは、引かれること
吸うことは、吸われること
吐くことは、吐かれること
両義性のあいだに在るとき、どの瞬間を切り取っても身体は存在しない。
◆「在る」を問う傲慢。
【「見え方」のシフト】
では、なぜ意識が「ある」のに「ない」ことが同一なのか?という疑問については、実際にこの自分という
認識が消えて「100%ある」意識を直接知るまではいくら説明しても理解不能としか言いようがありません。
実のところ、人間の認識形態においては自分が消えたとしても「100%ある(=ない)」状態にはなり得ません。
その意味では集中をどこまで研ぎ澄ませても局部的な理解にしか至らないのですが、それでも「これがそれだ」
と確定する明確なポイントは存在します。
ワークでは「内部の目」と呼ぶものを単体で機能させることで、カチッとはまったときの「見え方」を具体的に
体験していただきます。
この「見え方」は、突発的な一瞥体験のみではまず定着せず、仕組みの理解も起こりませんが、ポイントを
押さえれば誰でも体験し得るものです。
この「見え方」を体得するために、何十年も修行する必要はありません。
ここは賛否が分かれるところではあるでしょうが、経験上「まず体験しないことには、確定に到るための集中
を持続させる『信』が定まらない」事例を数多く見て来たことから、ワークではこのようなプロセスを踏んでいます。
このポイントを押さえると、先に述べた「物理的なレベルで勝手に起こる無執着状態」や「肉体との同化を解き、
身体をそこに置いておく感覚」が明確に理解できます。
~Rubin's work ブログより~
内部の目のバランスがカチッとはまっているときには逆に、フォーカスを動かそうとしても動かないのです。
これはいってみれば「心理的な無執着」ではなく「構造的な無執着」状態ということなのです。
思考に癒着した気づきのまま無執着であろうとすると、思考を対象物として切り離そうと努力しつつ
意図的な努力がさらに思考を発生させるイタチごっこに陥りますが(これが瞑想が進まない大きな理由のひとつ)
まずは構造的にニュートラルな無執着状態を体験した上で、そこからチラチラ顕われてくるズレを見切る
方法のほうが瞑想の進み方は圧倒的に速いのです。(これはこれで注意点はありますが)
【「それ」を見る目】
今回のワークでも、初参加の方が「あっ!」と理解された瞬間に立ち会うことができました。
その時その瞬間その方は「それ」を見る目になっていたのです。


ワークの道すがら
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