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#輪廻はあるのか #私と世界の存続 【9/17(日) 東京ワーク ~所感と解説~】 

2023/09/18

9/17(日)東京にてワーク開催しました。

ワーク 姿見
ワークでしばしば登場する姿見


【輪廻はあるのかないのか】

今回のワークで参加者さんから「輪廻ってあるんですか?」と質問がありました。

どの位相から見るかによって答えは変わりますが、何らかの体系で修行なりワークなりに取り組むならば、
その方の信が定まるまでは暫定的に「輪廻はある」ことを前提にすることをお勧めしています。


なぜなら本来、悟りや覚醒の探求は「この世の苦からの解放」が前提であり、苦は輪廻が前提だからです。

もし輪廻がないならば、この世の(この私にとっての)苦は肉体の私が死ねばその時点で終わるのであって、
悟っても悟らなくても同じことになります。


ところが、事実としてこれまで輪廻を前提とする悟りの系譜が途切れず続いてきたのは何故でしょうか?

私はしばしばこの質問に対して

「では、なぜこの世界の時間軸上で原因と結果の整合性のとれない不条理な出来事が起こるのでしょうか?」

「なぜ予測のつかない不条理な出来事に他でもない“この私”が苦しまなくてはならないのでしょうか?」

と質問で返します。


この肉体の私が一回限りの生であれば、整合性のない不条理な出来事の原因は謎のまま「偶然」の一言
で片づけられます。

もし「偶然ふりかかった苦」を受け入れられ、一回限りの私が死ぬことで永久に原因不明のままであっても
構わないならば、それはそれで悟りなど求める必要性はないのです。

実際、そのことに疑問を持たず、苦を見て見ぬふりをするために刹那の享楽に身をまかせて一生を終える
人も多いでしょう。


しかし、見て見ぬふりをしてきた苦は意識の底に沈殿していき、やがて存在の不安は無視できないものと
なっていきます。

享楽的に生きていても、どこかで「偶発的(に見える)苦の不安」と「一回限りの生を生きる私という存在に
何の意味があるのか」という疑問が払拭できなくなる時が来るのです。

そして、この不安を直視する覚悟ができたとき、必然的にいわゆる発心が起こるのです。


【輪廻と信の定まり】

個人的な体験に基づく見解としては、過去生や輪廻やそれを経験する自己同一性というものは、一般的
な3次元の感覚からイメージされるものとは異なります。

また、輪廻を前提とした時空から見たときには「偶然」はあり得ず、100%「必然」です。

ただし、3次元の感覚では直列的時空を超えた原因と結果の対応関係が理解不能なため、必然の結果が
起こっても「不条理な偶然」に見えてしまうのです。


注意したいのは、信が定まらないうちはあくまでも暫定的に輪廻を前提とするのであって、盲信せず自分自身
で検証していく姿勢が必要ということです。

逆にいえば、暫定的にでも輪廻を絶対に認められないのであれば、苦からの解放を目的とした修行体系
に取り組んだとしても、そもそも発心が起こっていないので信はいつまでたっても定まらず、必ず途中で
投げ出すことになります。

とはいえ、心酔するマスターやグルの体験した輪廻のイメージを鵜呑みにするのではなく、自分自身の知性と
直観を極限まで研ぎ澄ませ、ひとつひとつの瞬間を精査していくことでしか、本当の意味での信は定まりません。


【生の一回性と世界の存続】

輪廻を頑なに認めない人は、皮肉なことに「この私の生の一回性」を「時系列の世界の存続」に依拠して
しまっているのです。

肉体が死ねばこの私は消えると思っていても、この世界は絶対的なものとして存続することを無意識に
前提としているため、逆に「この生の一回性」に徹しきれないのです。

そういう人ほど、その人の信念である「存続し続けるであろう世界」に、せめてこの私の存在した記憶や爪痕
を残して死にたいという無意識の野望を大なり小なり持っています。(その最たるものが遺伝子でしょう)

私の存続を認めないことによって私の存続への執着が強まるとは、なんたる皮肉でしょうか?


が、ここには深刻な誤解があります。

輪廻において存続する自己同一性の私は「この私」の思うところの私ではないのです。

「この私」の思う私の存続と「この私」の背景(と思っている)である世界の存続は、一蓮托生の前提条件に
なってしまっています。

しかし、輪廻で存続するのは「この私」ではなく「(無理やり表現するならば)わたし」なのです。

そして「わたしの存続」は「世界の存続」以前に在ります。


【輪廻の落とし穴と無我】

ここまではスピリチュアル的な話として耳にしたことがあるでしょう。

ただ、ここにもまだ落とし穴があるのです。

「わたしの存続」の「わたし」を存続させんとする「私」は、不変なる「わたし」という概念に味をしめ、新たな
「世界=背景」を構築しはじめるのです。

死後の世界しかり、スピリチュアル的階層の世界しかり、神の世界しかり…

こうして、どこまで行ってもこの私は輪廻に取り込まれてしまうのです。


個人的な見解として、私は先に「輪廻は位相によってあるともないともいえる」と述べました。

それではいったい、輪廻に取り込まれない生(注意:ここで言う生とは「輪廻などない」という人の気絶した生とは
別の生です)とはどこにあるのでしょうか?

ここではじめて、この疑問そのものを無化する「無我」という概念(これもまだ概念ですが)が登場するのです。


【輪廻に関する覚書】 ~Rubin's work ツイッター(X)より抜粋~

◆エゴ感覚が強い人は、輪廻を頑なに否定するタイプと、盲信的に肯定するタイプに分かれるね。

◆知り合いの僧侶で「輪廻を信じてない」という人がいる。
それだったら解脱という概念自体が崩れるけど、なぜか人一倍、熱心に修行している。
常にもやもやした点が残るからだろう。
輪廻は視点によってあるともないともいえるけど、信じる信じないではなく、自身の体験から検証していくべきこと。

◆ただし、なんでもかんでも輪廻に結び付ける安直なスピリチュアリズムに逃げるのではなく、
あくまでも今生きているこの私の一点において実相を見切る。

◆輪廻は3次元人がイメージするように「廻っている」わけではないが、その人の中ではイメージ通りに
「廻ってしまう」のだ。

◆全てが同時に在るところでは、回転という運動の軌跡は認識されない。
輪廻の円環もしかり。

◆輪廻は絶対的に固定されたシステムではないが、時空に囚われたこの意識形態は、アプリオリに輪廻を
「志向」してしまうのだ。
意識そのものである「この私」は、意識の志向を外すことは叶わない。
だから「この私」によるアプローチは失敗する。

◆死の瞬間に記憶が繰り越されるから、輪廻が起こる。
「死」と「生」が最期の瞬間に一致すれば、そこで完結する。

◆輪廻のトリガーは、想念のタイムラグ。

◆覚醒と輪廻は、時空の同一線上にはない。
「輪廻から脱する」という言葉は的外れ。

◆輪廻で引き継ぐのは「内容」ではなく「構造」です。
ただし内容の世界では、構造は内容に隠れています。

◆胎内記憶があったとしても「肉体としての」胎児そのものの記憶ではない。
胚発生の段階では、記憶する脳がない。
それは、生死を超えた意識の連続性において「見ているもの」の記憶だ。

◆この記憶の「再生」には、肉体として生まれ出た後、再帰的自己を自覚可能な脳が必要となる。
そしてこの「見ているもの」もまた、すでに輪廻の内に取り込まれたものなのだ。

◆輪廻は「この世界の法則において」止まらない(止まれない)。



道すがらの木
ワーク会場への道すがら


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