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#酩酊の前段階  【2/10(日)東京ワーク ~質疑応答】   

2019/02/15
先日2/10(日)、東京にてワークを開催しました。

前回の大阪ワークに引き続き、姿勢を見るワークが中心となりました。


以下、参加者の方からいただいた感想とご質問に対する回答をシェアいたします。
(一部、編集しています)

この方は初参加でしたが、あるワークのときに「これをやるとオシッコがしたくなるんですが・・・」とおっしゃったので
思わず膝を打って「いいですね~!」と感心の声が出ました。

このとき、呼吸の通り道についてかなりピンポイントな部位の使い方をお教えしていたのですが「まっさらなところで
ちゃんとやってくれているな~」と嬉しくなったのです。

実は意識するポイントとしては若干のズレがあってそのような感覚が生じたのですが、それは素直にやってくださったから
ゆえのズレから生じる現象であり、正直におっしゃってくれたことで何故それがそのように感じられるのかという説明を
お伝えすることができました。

方法についてはここでは割愛しますが、このように具体的な感覚を正しい正しくないと判断する前に自分で発見する
姿勢は非常に重要なのです。

(これを聞いたからといって次回のワークで「これをやると鼻水が出るんですが」等の二番煎じはやめてください 笑)


個々のワークはそれぞれの目的に沿って行うため、目的に近いか近くないか、という私から見た便宜上の判断はありますが、
参加者それぞれがその瞬間に体験すること自体は目的からズレていようがいまいが、常に真実です。

なぜならそのときその人において触れられた事象はその瞬間にその人を創ったまぎれもない事実だからです。

ただ、その瞬間の事象自体を見逃し、判断する思考に占有されているとき、その人はヴィヴィッドな事実としてそこに
自立して在るのではなく、思念にとり憑かれた幽霊のように現象世界の片隅にぼんやりと配置されています。

それはそれで「あるがまま」ではあるのですが、その状態の「あるがまま」は内側から自覚された「あるがまま」ではなく
外側から判断する他者を必要とする空虚な置物のような「あるがまま」なのです。

いってみれば、自己の空虚さからくる承認欲求は、空虚な自分を外側から規定してくれる他者の存在の渇望なのです。


*******************【質疑応答】*********************

意外だったのは書籍にもありました、体を使って意識の動体視力?を鍛えていく、というのが実際にそういうことまでやるんだ、という新鮮な驚きでした。
個人的にもっと意識的な認識の方法をイメージしていたためですが、違和感は全くありませんでした。
昨日の最後の背骨のワーク?ですが、本日も自宅にてやってみました。
数回行うと、後頭部(頭頂部?)と下腹全体に大きな気感(圧?)が出来、昨日もそうでしたが下腹が大きく膨らむ感じと、同時に、
後頭部と下腹とそれを結ぶ背骨が熱を持って繋がっている感覚があります。
特に、後頭部の気感は強く、ワークが終わった後もずっと残っています。
また、このワークをしている最中は、目をつぶっている目の前?が大変明るくなり、色々な影や光の動きが活発になります。
それらはただ気づいて見ている状態にしておりますが、ふと、今日はこれらの光は何かの存在?かもしれないという考えが浮かびましたが、そのままにしました。
また、気感とともに、頭頂からのバイブレーションや従来よりも強い集中しながら周りに気づいている状態になりました。
頭頂から上に引っ張られている感じです。なによりも、明晰さのレベルが更に大きく高まり、キーンという音があります。



⇒ 意識の動体視力というのは、もう少し後の段階(鮮明な気づきが自動化された段階)に立ち顕れてくるものになります。

それは夢をみているときの無意識の眼球運動のようでありながら連続性をもたず、夢の内容に入り込まずにすべての気づき
が瞬間的に分断され断続するような状態です。

先日のワークは、気づきの繊細さと集中力を養う準備段階であり、その基礎が整ってはじめて五感に触れてくるあらゆる
瞬間とそこにひっぱられる磁力とベクトルを受動的に見ていく段階に入ります。

パートナーが昔、意拳をやっていたことがあって、たまに私も遊びで站樁の形を真似したりするのですが、
内功を練ることが目的であるのと、あくまでも基本は武術ですから、相手を想定しての「前」の意識を残しているため、○○様の
おっしゃるとおり、ワークでやった姿勢よりは内側にカーブしている感じになるのですよね。

確かにその姿勢で立つと背筋~肩甲骨~上腕三頭筋のラインの強度が高まりかつ手足は即座に前へ出るフリーな状態になりますから機能的な姿勢だな~と思います。

ワークでの姿勢は前後に動こうとする意識を消すため、站樁よりも垂直になり、上下の意識のほうが強くなります。

この姿勢になれていない場合、筋肉のこわばりを感じたり頸椎をまっすぐに立てられなかったりしますが、身についてしまえば
瞑想にいきなり入れる状態になります。


気をつけていただきたいのは、背骨と頸椎のラインが整わないうちにエネルギーを意図的に上下させようとすると歪みのある部位でエネルギーが滞り、いわゆる偏差が起きてしまうことです。

上下のエネルギーは現段階では使いません。

意図的に使うというよりも、最終段階で必要な時に必要な量で勝手に供給されます。

目をつぶっているときは眼圧が前にかからないことと、サードアイの周辺を前に押し出さないように気を付けます。

眼圧がかかって前の意識が強くなると、様々な光が前のスクリーンに映ってまぶしくなったりしますが、深い瞑想において
気づきの自動化に伴ってでてくる閃光は前ではなく場所のない中心のようなところに出るものであり、そのとき目という肉体の
意識は伴っていません。

まぶしくなったときは一歩後ろに引くようなニュートラルポジションに意識を戻します。

この段階でのニュートラルポジションはあくまでも暫定的な場です。

本当の意識のポジションは気づきの自動化にともなって勝手に浮力のようなものに伴って立ち顕れてくるものであり、
自身で設定するものではないのですが、現段階では眠りにおちるときに目の奥の松果体のあたりから意識が消え入る瞬間に微妙に下方向へカーブして落ちるか落ちないかぐらいの位置ととらえていて結構です。

光が出た時それを見ようとする意志は前へのベクトルを生み出すので、常に気づいた瞬間に意識が引っ張られる前に見送るようにします。


また、このとき丹田の意識は常にうっすらと残しておき、意識が上に上りすぎるのを避けます。

うっすらというのは、2~3センチの分銅程度のものが自動的に丹田の底にすとんと収まっているような感覚です。

準備段階では丹田を意識的につくりますが、この段階では丹田は丹田自身に任せておきます。
(ちなみに丹田を意識する際に、腸の詰まりは極力ないような状態にしておきます)

いずれにしても、常に受動的であって、何かを「維持しよう」という意図は働かせません。
(意図が起こったらただそれに気づきます)


また、○○様は気の感覚がわかるためそちらに意識が引っ張られやすいと思われますが、これらのプロセスで顕れてきた現象に名前をつけることをいったん止めてみることで、慣れ親しんだ「気」という言葉に伴う概念に意識が集約することが排除され、
刻々と移り変わる現象そのものをよりヴィヴィッドに感じることができるようになり、気づきの自動化に移行しやすくなります。

ワーク中に指摘しましたように眼球が一定方向へ動いてそちらへ意識が入り込んでいく状態に気づいたら、これは意図的でよいのでまっすぐに戻してください。

キーンという音は体脱の際によく起こる現象といわれますが、この段階で体から抜けるのではなく、そのような現象が起きたときもまた、気づいてニュートラルポジションに戻ってください。

というのは、体から抜けてしまうと認識の座がピンポイントで開発できないからです。

ニュートラルポジションにあるときのヴァイブレーションはキーンと高い音で上に響くというよりはもう少し低い位置でビリビリと鼓膜が振動するような感じです。

その段階で声のようなものが聞こえてきたり何かの存在を感じることはよくありますが、それに引っ張られずに見送りつづけてください。


神秘的な体験を手放しニュートラルポジションにとどまりつづけることは最初はつまらないと感じるかもしれませんが、認識の座が開発される前の段階で体から抜けたり空間に広がったりした場合、そのときは開放感があっても、その感覚はあくまでも3次元的な身体や空間の延長にすぎず、身体感覚が戻ってきたときには再びもとの意識に戻ってしまいます。

意識だけの世界では引力のある物理的な対象物がないため、長い時間そこにはまりこんでしまうことがありますが、そこは現象世界よりは居心地がよいとはいえ、逆になんの気づきも発生せずにその世界にフォーカスし続け、抜け出ることが難しくなります。


また、ワーク中にご質問されたオーラについてですが、オーラとして個別の身体の輪郭の外側に見えるものはあくまでも3次元世界の延長にすぎません。

オーラが大きく広がっていったとしても、それは3次元の空間という入れ物ありきの感覚です。

オーラにかかわらず物質も気もあらゆる現象はすべて、3次元の目や意識では全体像をとらえられない、想像もつかないような多次元的な位相の組み合わせのほんの一部の面を見ているにすぎません。

逆にいえば、たとえオーラのようなものが見えなかったとしても、物質をポータルとして多次元的な顕れを直観することは可能なのです。

(ただし、物質にフォーカスする意識は身体や重力の感覚を伴いながら世界をトレースしているので、瞑想時には重くて遅い足枷になることがあります。この感覚は自我とも密接に結びついています。)

あえていれば、早い段階でオーラ等が見えて当たり前になり放っておけるようになっておくと、後から起こってくる様々な体験に意識が持って行かれにくいという点と、肉眼で見ている物質の輪郭はたまたま3次元にフォーカスしているからそのように見えているということが実感できる点においてはよいと思います。



ごくたまに、見ている3Dの世界の一部が陽炎のように揺らめき、たまに、軽い目眩があります。


⇒ これは本に書いた「酩酊」の前段階です。3Dの世界は止まって見えているようでいてすべてが莫大なエネルギーの引き合いで高速に動いています。

そのエネルギーの流れの一部を人間としての粗いレベルの心身で受動的にとらえて流れに巻き込まれるとき眩暈や揺らぎの感覚はよく起こることです。

集中力が高まって自我が背後に退いたときには床や壁や空間などがうねって見えることがあります。

ただ、これはあくまでもサマーディの初期段階です。

ニュートラルポジションが確立していないときは意識が点ではなく面として現象と一緒にくっついて揺らいでしまうので眩暈がしたり車酔いのような状態になることがあります。

○○様の場合、エネルギーにつられて目と意識が移動しやすいので眩暈が起こりやすいと言えます。


また、軽い変性意識とともにフォーカスのポイントがズレる(階段をふみはずして一瞬空白になるときのように)瞬間にくらっとする眩暈と頭部中心の痺れが起こることもあります。

これはアルコールに酔う状態にも一見近いですが、アルコールの場合は肉体に近い粗雑な意識のごく浅い部分で揺れているのに対し、上記の揺れはもう少し意識の深いところで現象とともに揺らいでいます。(ただし一番深いところではありません)

この揺れがおこったときにエネルギーの流れに逆らわず意識を開いて委ねきってしまうと私が本で「酩酊」と呼んでいた状態となります。

酩酊の状態でハートが同時に開かれているときはいわゆる至福状態になります。(時にこの段階でエネルギーの爆発と歓喜に触れることもあります。)

この状態は非常に甘美な感覚をともなうのですが、認識の座が開発されていないと、そのままホワイトアウトして気絶してしまうか、中途半端な集中力ゆえに現象のエネルギーに巻き込まれたまま「感覚」のレベルに遊んでいるだけの状態にとどまります。

一度、この至福状態までを体験しておくことはよいとは思いますが、この状態にとどまると先に進むことはできません。


至福状態までたどりついたらそのことに魂の核心のレベルから感謝をささげつつ(「何が」「何に」どう感謝したらいいのかはその状態になれば自然に発動するので中途半端に感謝する対象物を設定しないほうがよいと個人的には思います)、そのあとはとにかく、あらゆる現象を淡々と見送っていくことです。
(実際は淡々とどころか怒涛の展開が待っているのですが)


ただ、その瞬間、エゴの声?で、これが何なのだ?何もないじゃかいか?みたいな考えが出たりするので、それも引いた状態からやり過ごすようにしています。


⇒ ものめずらしい体験を手放してどこにもひっかかりがなく空虚でスカスカした感覚があったとしたら、現象を見切っていくときにあらゆるベクトルの磁力を微細に感じるための技術と集中力が不足しているためです。

この段階で神秘体験に遊んでしまうことは、3次元の現時点で持ち合わせている集中力の延長にすぎず、ぼんやりとした夢にひっぱられているようなものなのです。

触れてくる現象の点と点の間を波乗りしていくとき空虚さとは真逆の意識の触覚のようなものが立ち顕れてきます。

その前段階として、まずは微細に現象を見る感触と集中力の土台を意図的に養う必要はあります。


エゴは興味を引く対象を常に探すため、空虚な状態のままあることや、自己の思いのままにならない訓練を嫌がります。

エゴの不満が顕れることはむしろ正しい反応なのです。

この段階を通り過ぎると、これまでとはまったく別次元の集中力が顕れてきます。


この道のりを乗り切れるかは各自のカルマにより、時間の流れという中においてはいわゆる過去世とよばれるもののすべてが一点に集約されてくるポイントです。

とはいえ人によってはいったん、「『自分』が進化すること」の希望に伴う生き生きとした喜びがなくなるような感覚に陥り、それにひっぱられて瞑想に必要な活力自体がなくなってしまうこともあるのでエゴのタイプによってどの程度のバランスで、どの体系で導かれるのがよいのかは道が分かれるところではあります。


呼吸を口の上顎にそってその場所から背骨を通って丹田に流すのを意識していたらエネルギー?が通ってしまうみたいです。
ワークの時は、その場の影響もあったのでしょうか、強い気感が首の後ろの場所を意識するだけで流れてしまっていた感じでした。



⇒ 頸椎や頭部のバランスが整うまではエネルギーを故意には流さないようにしてください。

エネルギーそのものよりも呼吸や瞬間瞬間に触れてくる感覚のほうにフォーカスをシフトします。

エネルギーが別の通り道を通ってしまうと意識のおかしな部分に入って刺激してしまい、修正が難しくなります。


例えばドラッグなどで無理やり意識を開いてしまった場合、自己自身の核心と響きあう部位を逸れた位置でサイケデリックな体験の位相に取り込まれ、本来の位置に自ら戻れなくなってしまいます。

先ほどエネルギーは意図的に使うというよりも、最終段階で必要な時に必要な量で勝手に供給されると述べましたが、このエネルギーの発動は本に書いた「祈り」や先に述べた「感謝」の自動的な発動と、過去世のすべてが一点に集中したときにのみ正しく起こることなのです。

そのため、今はエネルギーが昇ってきたりしたときはいったん丹田に意識を戻し、昇ろうとするエネルギーを面の感覚で強くしようとしたりせず、むしろ点の微細なレベルに分解して花粉や霧のように顕れては消えて行くところを見ていくようにしたほうがよいと思います。


仙骨の部分は今までの癖(意拳や太極拳)で腰の内側に湾曲している部分を真っ直ぐにすることで仙骨を真っ直ぐにしていたので、膝を曲げることが癖になっていました。
今後は、真っ直ぐに立つ感じで練習してみます。



⇒ 先日は時間がありませんでしたが仙骨の使い方については機会があればやります。

骨盤周辺の位置を整えようとすると筋肉がその状態に慣れておらずハムストリングスを完全にストレッチして立つことは難しいので
膝を曲げてかまいません。

仙骨と仙腸関節と腸骨と恥骨と尾てい骨と股関節と腸腰筋がどのようなバランスで具体的に引き合って丹田の器となるのかは非常に重要です。


ここは自我が文字通り「落ちる」ための「母体」であり、「すべてが私の中で起こっている」というときの「母体」でもあるのです。

なぜそうなのかは体験すれば具体的にわかります。

自我はうっすらと拡散してフェードアウトしていくのではなく「落ちる」のです。


日常的な肉体のレベルでわかりやすいのは、ここがうまく引き合ってバランスがとれていると重いものが「ひょいっ」とあっけなく持ち上げられたりします。

骨盤周辺のバランスにプラスしてワークでお伝えした頸椎と頭がい骨の間の感覚を使うと武道などでも力の伝わり具合や動きの速さが目にみえて変化します。

合気あげはここが使えているかどうかがわかりやすいので試しにやってみてください。

このあたりは機会があればワークでやってみます。


覚醒側からのエネルギーを采配しているのはどういう存在?(神と呼ばれるもの?)


⇒ これは興味本位で先に知ろうとしないことです。(といいながら本に書いているのも矛盾していますが・・・まあ、書かせたのも「それ」ですから・・・)

先にも述べたように、概念的に知った「それ」はあくまでも現段階で想像しうる概念の域をでないため、概念としての対象物に向かって
祈ったり感謝を捧げることはエゴの範疇なのです。


それよりも、一歩ずつ進んでいくプロセスに顕れてくることに付随して感謝のような感覚(ハートの感覚でもよいです)が湧き起こってきたらそこに一瞬ソファに包み込まれるようにくつろぐ、ということを意識してください。
(このときその感覚にべったりと依存することのないように注意します)

それを繰り返すうちにあるときから「信頼」のようなものが芽生えてきて、(まだ心理的な感覚としてですが)今なぜここに存在しているのかという核心の手触りが顕れてきます。

そのヴァイブレーションに気づいてください。

「信頼」の源は「それ」からの慈悲(人間の言葉としてエネルギーを擬人化していうならば)のようなもので、それが最終的に私たちを運んでいってくれるのです。


眠りに落ちる瞬間を見る練習ですが、眠りに落ちた後の瞬間にハッと目が覚めるのですが、目が醒める前のイビキをかいていた状態も意識できている(わかっていた)ような状態が一晩に数回自動で繰り返されます。


⇒ 意図的に「見よう」としすぎると眠れなくなりますし、受動的に見ようとするといつのまにか吸い込まれてしまいますよね。

無理にやろうとしなくていいのでまずは寝落ちするときの感触をほんのかすかな手触りだけでよいので起きたときになんとなく思い出せるかなぐらいの感じでかまいません。

坐った姿勢での瞑想のほうが寝そうになったときの瞬間を観察しやすいです。


これは裏ワザですが、電車に揺られながら座って眠るか眠らないかぐらいのところで観察していると突如としてブラックアウトすると同時に境目の瞬間が見切れることがあるのでよかったら試してみてください 笑

認識の座を開発すると、この見切りが自動的に発動する確率が高まります。

*******************************************

【補足説明】

上記は身体感覚やエネルギーの感覚が優位な方の場合なので、必ずしも完璧な姿勢をつくってからでないと
瞑想に入れないということではありません。

「型」というのは心身と密接に結びついているため効率的に整えれば結果がはっきりと目にみえますが、ある段階以降は
型の意識は完全に手放すことになります。


今回、何度か出てきた「ヴィヴィッドにあること」というのは一見、個別の身体や感覚のレベルに逆戻りする感じがするかも
しれませんが、現象世界において日々、子供のようにあらゆる事象を鮮明に受け取る感性が鈍っていると、この世界が
「私として」響いている、という理解が明確に起こらないのです。

ギリギリまで引き絞られた弓が弾けるとき、そのことを電撃的に知ることになります。

そこに曖昧さはないのです。


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