fc2ブログ

#「慈悲の瞑想」と祈りの対象 【3/16(土) 東京ワーク ~所感と解説~ その1】 

2024/03/18

3/15(土)東京にてワーク開催しました。

ワーク会場へ
ワーク会場への道すがら


【物理次元の覚醒】

今回のワークは、「対象のない祈り」とは「自分自身が空としてある時ただそこに在るだけで全てを包括している」
ということを具体的に体得していただく回となりました。

最初に、私たちが物理的な肉体として宇宙と連動していることのデモとして、地球の自転の方向を向いて座ってもらい
秒速400mで回転していることをひとまず頭で知っていただきました。


会場の窓の外に川があるのですが、川幅が200mぐらいなので「(日本の緯度だと)0.5秒であの対岸まで移動している
んだよ」と言うと「すごい速さですね」という方と「そんなものですか」という方がいらっしゃいました。

(余談ですが、人間の認識は0.1~0.2秒のコマ割りで、その間の空白は前後の編集でフィルムのように繋いでいます。
だから、私たちはある意味0.2秒の空白の間に、空間まるごと川の真ん中だった位置まで移動した後、「今ここ」を
断続的に呼び起こしているようなものなのです)


速度の感じ方は人それぞれですが、物理的な次元の私たちは現時点で解明されているかぎりでは、銀河系の中心
(いて座A=ブラックホール?)を軸に太陽系の公転⇒地球の公転⇒地球の自転とともに回転しています。

よって、肉体としての私たちが重力に従って地球上に立っているということは、全天とともに回転していることであり、
実感があろうがなかろうがシンプルに宇宙と一体化しているのです。
(ワークではさらに具体的に物理と祈りの型がどのように関係しているかをお伝えしました⇒後述参照)


物理的な肉体の構造において、「この私」が体軸に消えているときには、ただ宇宙の運行だけがあり、物理次元の
覚醒という意味ではそれだけで完結しているのです。

体軸に消えた「私」には対象物(という認識)がありませんし「私」という認識も生まれません。

だから、ずっとそこに居さえすればただ宇宙を宇宙と知らぬまま流れていくのみです。


しかし、私たちは常に軸からズレ出し、私と相対する(宇宙という)対象物を(自ら)創り出します。


【「慈悲の瞑想」と祈りの対象】

では、上記をふまえて「対象のない祈り」について述べていきます。

今回は、ヴィパッサナー瞑想に取り組まれている方が複数いらっしゃったので「慈悲の瞑想」をモデルに取り上げ
つつ「祈り」の対象と型についてお伝えしました。


「慈悲の瞑想」はヴィパッサナー瞑想では必ず瞑想の一番はじめに行うものであり、サマタ力が高まった状態で
行えばこれだけでもエゴ感覚が劇的に抑えられ心身が微粒子のように軽くなるものです。

私の幸せと親しい人の幸せと生きとし生けるものの幸せと嫌いな人の幸せ、全てを等価に全霊で願うことはエゴ
のない状態だからです。

(本来、ヴィパッサナーでは身体は徹頭徹尾妄想との位置づけであるため、型を持ち出しての説明は方法論としては
邪道となります。私自身もどこかの宗派に属しているわけではないため、ここではあくまでもモデルとして扱っています。
とはいえ「祈り」による恩寵が発動せず行き詰っている瞑想者にとってはヒントとなるでしょう)


そこで、参加者さんに「私/親しい人/生きとし生けるもの/嫌いな人/それぞれの幸せを願う(祈る)ときの意識の
微妙な違いを感じられますか?」と質問しました。

すると「唱えているとフワ~ッと祈り(慈悲)に入りはしても明確な違いは意識していませんでした」との答えでした。

この場合の「明確な違いがない」ことは「対象が等価である」こととは異なり、対象がぼんやりとした自他未分の状態で、
意識がサマタ状態の手前で気絶してしまっているのです。


【祈りと自分の乖離】

盲点なのは、慈悲の瞑想というのは古来より受け継がれた霊脈により、瞑想者が無自覚であっても唱えていれば
マントラ的な効力が自動的に発動してしまうということです。

これは、例えば密教の「印」の型の意味を体感的に知らずとも効力が発動してしまうことにも似ています。

自身の扱えるエネルギー量を超えていることに気づかずに型を用いることは魔と契約するようなものです。


慈悲の瞑想の場合は性質上そこまで危険性はありませんが、無自覚に発動したエネルギーに浸ってしまうと、
ブラックボックスの結果としてアウトプットされた効果だけに頼り続け、祈りと自分が乖離しつづけます。

このとき、エゴは軽減したのではなく、エネルギーへの酩酊によって背後に隠されたようなものだからです。


マントラ化した言葉に酔って背後に隠れたエゴにとっては「嫌いな人」に対して祈ることにも何の抵抗もないでしょう。

ここが問題で、消えたのではなく隠れたエゴは、「嫌いな人」への抵抗感を直視し本当の意味で自分を見つめ自他
の差別を突破するチャンスを逃し続けてしまいます。


その極端な例として、才能があり素晴らしい体験を得た修行者であっても非常にエゴイスティックで自身の修行の
邪魔をする者には舌打ちをする、といったケースも見てきました。(当ワークの参加者さんにはそんな方はいません)

これでは、先に述べた「私/親しい人/生きとし生けるもの/嫌いな人/それぞれの幸せを願う(祈る)ときの意識の微妙
な違いを感じられますか?」という質問の意味すらわからないでしょう。


また、そこまで酷くなくても、例えば無自覚に「嫌いな人」に祈ろうとするとき「修行者は慈悲深くなくてはならず、
心理的に他者を嫌いであることは許されない」といった短絡的な精神論に偏ることも起こります。


【祈りの対象の距離と型の関係】

「慈悲の瞑想」には合掌のような型はありませんが、ここではそれぞれの「祈りの対象」を型と照らし合わせて
みていきます。 (ワークでは実際に型に為り、感覚を具体的にみていきました)


先にヒントをいうと「対象」によって前述の「軸に消えた(宇宙と一体化した)私」との距離が異なり、それぞれの
距離に見合う型が自然発生的に生まれます。


まず「嫌いな人」に対して祈るとき、自身のエゴを隠さず直視するならば、最初は抵抗感があるでしょう。

この抵抗感が、嫌いな人という対象を「私」から分離させ、さらに遠ざけようとします。

遠ざかった「嫌いな人」を対象として祈るとき、はじめは体が身構えて引こうとします。


このとき合掌(詳しい説明は割愛しますが、合掌の型は宇宙全天と触れているハートの源から自然に起こる
ような構造となっています)するとしたら、その手は身体のどこに置かれるかを観察しましょう。

そのまま「嫌い」という反応を直視し(気づき)祈り続けると、やがて身構えていた体が緩み、対象との距離が
少しずつ「私」に近づきます。

再び、このときの合掌の型と内部感覚がどのように変化したかを観察しましょう。


私との距離がより近づいたのが「親しい人」という対象です。

「親しい人」へ向けて祈るとき、合掌の型はどのようにあるか・頭の位置はどこにあるかを心理的・物理的に
観察しましょう。


次の「生きとし生けるもの」という対象には生物である「自分」も含まれますが、そこにはまだ主客の分離
があります。

全ての生物を対象にするとき、物理的にも心理的にも全天を抱くような意識が必要になってきますが、その感覚
から自然に起こる型はどのようなものになるか観察してみましょう。

人によっては合掌ではなく手を天に向かって開きたくなってくることもあるでしょう。
(型が先にあるのではなく、意識が型を必然で生むのです)


最後に、この私自身の幸せを祈るとき、どのような型と感覚になるでしょうか?

(実際の慈悲の瞑想ではまず最初に「私」の幸せを祈り、上記の順序とは異なります。その理由は後述します)

このときの「私」は未だ、わずかに私自身とのズレがあり対象化されています。


この私に対して祈るとき、どのようなヴァイブレーションが起こっているでしょうか?

このとき私は、合掌という型をとる必然性があるでしょうか?

合掌を組む肉体の手を「私自身」に直接向けることは可能でしょうか?


ここにおいて型の(必然の)放棄が起こったとき、私は私自身の軸に一致し「対象のない祈り」となるのです。


【祈りの難易度と自覚】

それでは、なぜ慈悲の瞑想では「私⇒親しい人⇒生きとし生けるもの⇒嫌いな人」の順番で祈るのでしょうか?

ある解説では「その順番のほうが抵抗感がなく容易だからだ」といいます。

しかし、難易度で言えば「私」への祈りが一番難しいのです。


エゴは私の幸せを利己的に祈ることはできますが、本当に難しいのは、私が私自身として祈ることです。

ある意味、それが出来ればすでに覚醒といえます。

これらすべての対象との距離に自覚的な祈りが捧げられたとき、距離のない「私」の内にはすべての対象物へ
の祈りが包括されていたことを知るでしょう。


先に「物理的な宇宙との一体化に消えているとき、それは物理次元においてはある意味覚醒である」と述べました。

ただ、その次元においての「私」は、あくまでも物理でした。

が、祈りによって全ての対象物との距離が包括されて在ることの「自覚」が生じた「私」は、物理を超えたものに
なったのです。

ここにおいてはじめて「慈悲の瞑想」の「慈悲」が私自身のものとして理解されるでしょう。


【命を差し出す祈り】

ワークではこの後、頭を垂れて祈る型と頭を天に向けて祈る型、それぞれが何を意味しているのかをお伝えしました。


対象物は神でも仏でも何でもよいですが、頭を垂れるときには人間の急所である頚椎を差し出すつもりで垂れます。
(ワークでは、実際に急所にカッターを近づけてみます。本当は真剣がいいんですが笑)

また、天に向けて祈るときには、急所である喉元を差し出すつもりで上へ仰ぎます。

なぜなら、祈りというのは古代の生贄にも通じますが、自分自身の命を差し出すことだからです。

「死んでもいい」という覚悟で祈るのです。


ここで急所の感覚を保ちつつ、頭を垂れた状態から頭をゆっくり天に向かって上げていってみましょう。

すると、どの瞬間の頭の位置にもそれぞれの祈りがあることに気づくでしょう。


命を差し出すとき、肉体があれば急所を差し出しますが、軸に消えて肉体がない状態(=死)のときには、
命が命の中心として差し出されます。

軸に消えているときの頭は構造上、頚椎が立って目は前を向いています。

3次元の肉体として直立し、全ての祈りを包括するとき、私たちはただそこに在るだけで慈悲であり祈りである
ということです。


私はよく「私自身を祈りとして体現するとき、赤ちゃんのようにポカンとして無垢であってください」と言うのですが、
「ポカン」は曖昧にぼんやり微睡んでいるのではないのです。

完全に白紙でありながら、命を差し出しているのです。


祈りは瞑想の全てに通底しています。

それは、崖っぷちギリギリのところに真っさらな白紙で立つようなものなのです。


⇒ #ハート覚醒と余剰エネルギー 【3/16(土) 東京ワーク ~所感と解説~ その2】 へ続きます。


花と手


関連記事
⇒ #ハラの見性体験 #純粋な意志 【2/24(土) 東京ワーク ~所感と解説~】


※ワーク参加ご希望の方は、メルマガ登録をお願いします。(参加条件あり)
⇒ ご登録フォームはこちら



⇒ Rubin's work 主催 AYA プロフィールはこちら

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ ワーク
#ハート覚醒と余剰エネルギー 【3/16(土) 東京ワーク ~所感と解説~ その2】 | 【3/15(金) Rubin’s work 4冊目新刊出版 / 無料キャンペーン】  

comment

コメントを送る。

URL:
Comment:
Pass:
Secret: 管理者にだけ表示を許可する