fc2ブログ

【「徳」についての覚書き ~すべての探求者へ~】  

2024/04/25

【陰徳と紋白蝶】

ワーク当日、朝起きて窓のカーテンを開けると、トング片手にゴミ拾いをする人の姿が飛び込んできた。

真っ白なトレーナーを着た20代半ばぐらいの男性が淡々とゴミを拾い集めていると、どこからともなく紋白蝶が飛んできて男性の周囲をヒラヒラと旋回しはじめた。

思わずベランダから身を乗り出し「ありがとうございます」と声を掛けようとしかけたが、男性の無心の表情にハッとして言葉を飲み込んだ。

その表情と佇まいから「この御方の陰徳を穢してはならない」と察したからだ。

周辺のゴミが綺麗になくなると、男性は無心の足取りで去っていった。

紋白蝶


【徳のポイントゲッターと天使】

20年以上前、決死の覚悟で瞑想に取り組んでいたとき「徳を積まねばここで打ち止めになる」との強迫観念から、夢遊病のように徳積みの機会を伺い彷徨っていた時期があった。

とにかく目に付くかぎり、陽徳でも陰徳でも手当たり次第に何でもやった。

当時の表情は無心とは程遠く、端から見れば鬼のような様相だっただろう。

それでも「徳のない者は徳を積めない」との言葉を痛感し、たとえ劣善といわれようが、徳の車輪を回し続ける強い意志に突き動かされていた。

ある深夜、誰もいない公園の薄暗い電灯の下で、それこそ夢遊病者のようにゴミを拾っていた。

治安のよくない地域の荒涼とした公園には、そこかしこに吸い殻や食べ残しや吐瀉物のようなものが点々と散っていた。

私はむしろそれらを「有難い」と思って拾い続けた。

汚ければ汚いほど、誰も見ていないところで拾えば自身の「徳のポイント」になると盲信していたからだ。

暗い茂みの陰にしゃがんで一心不乱に拾っていると、背後から「よぉ、姉ちゃん、何してるんだい?」と声を掛けられた。

ビクッと振り返ると、ニッカポッカ姿の初老の男性2人がワンカップ片手にニヤニヤしながらこちらを見ていた。

その瞬間、咄嗟に「私の陰徳を邪魔する奴らが現れた」と感じ、引き攣り笑いを浮かべながらその場を立ち去ろうとした。

ゴミ袋を見た男性たちは「姉ちゃん、ゴミ拾いしてたんか、感心した。えらいなあ、えらいえらい」と言いながら近寄ってきた。

私は「いえ…」と引き攣りながらも、その男性たちの屈託のない声かけにフッと心が緩むのを感じた。

すると私の気の緩みを察したのか、男性たちはいっそうニヤニヤしながら「よぉ、姉ちゃん、独りもんなのかい?若い女が深夜にご苦労さん。なんか訳ありなんだろ?」と詮索しはじめた。

そのとき私は、エゴイスティックな徳のポイントゲッターの正体を見透かされた気がして恥ずかしさでいっぱいになり、そそくさと一礼してその場を後にした。

今思えば、あの酔っ払い男性たちは天使だったのかもしれない。

菊政宗


【行者と徳の車輪】

先日、パートナーのリアル氏(⇒ リアルワールド)の講座で、とあるヴィパッサナー行者の方と出会った。

謙虚な方でご自身の体験はひけらかさないけれど、熱心に修行されタイで短期出家された経験もあるとのことだった。

ご結婚もされているが、奥様の全面的な協力の下で修行に専念できる環境にあると伺い「それは得難いカルマですねえ」と、リアル氏ともども感心していた。

帰り道が一緒になり話しながら歩いていると、駅前で数名の若い男性たちが声を荒げて取っ組み合いの喧嘩をしていた。

それを見た行者の方は一瞬、男性たちの方へ向かおうとされたが、直観的に問題ないと判断した私が呑気に「まあ、すぐ隣に交番もあるしあの感じだと大丈夫でしょう」と言うと、胸が痛んだような表情を浮かべ何度も男性たちを振り返りながらしぶしぶ私の後をついて来られた。

そして、改札前で別れ際に「これから能登へボランティアに向かいます」と一点の曇りもない笑顔で言われ、手を振り去っていった。

その後ろ姿を見送りながら「ああ、生まれながらに徳の車輪が回っている方もいらっしゃるんだなあ」としばし感じ入ったのだった。


【徳積みは可能か】

昔、とある覚者に「徳って積めるものなんでしょうか?」と質問したことがあった。

すると、それまでにこやかに話していた覚者の顔が一瞬にして強張り無言になった。

「これはまずい質問だったのか」と思っていたら、天井の方を指さしながら重い口を開き「それに関しては…どうも『上』から言うなっていわれてるんだよ…」と、それだけ応えて質疑は終了した。

その覚者はタントラの系譜から派生して独自の覚醒に到った方だったが、絶対的なバクティからなるエネルギー感覚によって『上』の言葉を読み取り全託されていた。

その頃すでに、自分なりの実体験から徳の仕組みや因果応報の感覚を知ったつもりになっていたが、その時は「ああ、系譜が異なれば徳の扱いも異なるのだな」という程度の浅い理解に留まっていた。

ところが、いざ自分が人様に教える立場になってみると、改めてその覚者が口を噤まざるを得なかったデリケートな感覚が、身に染みて理解できるようになった。

結局のところ、徳を語るためには「どの認識から」「どの時空で」「どの覚醒レベルを教え」「どのスパンで生徒のカルマを請け負うか」といったシビアかつトータルな自覚が求められるのだ。

おそらく、その覚者はパッと来たばかりの一見の私にその場のノリでペラペラと徳を語ることを『上』から止められたのだろう。

私自身も、ワークを始めるにあたり徳を語ることには慎重になっていた。

なにより、徳という言葉の抹香臭さを匂わせないように気を配っていた。

実体験からカルマと徳の理解は絶対に外せない項目ではあったが、初めての参加者さんには極力匂わせなかったし、必要がある場合にのみ準備の整ったリピーターさんにお伝えするに留めていた。

しかしワークを重ねるにつれ、どうしても徳について語らざるを得ないシーンが出てくるようになった。

自分の体験を元に語るとき、カルマと徳の話抜きには語れないからだ。

そして、ある時期から初回の参加者さんへお送りする「参加要項」の中(それまでは2回目以降の方への要項にのみ記載していた)にも、徳という言葉を慎重に避けつつも仕組みは同義の<現象世界におけるエネルギー還元について>という項目を追加するようになった。

ワークには様々なバックグラウンドの参加者さんがいらっしゃるが、この仕組みの理解はどの参加者さんにとっても重要であり、それこそが恩寵を受け取る鍵だからだ。

これは、ワーク参加者さん以外であっても、どの探求者にとっても重要であるとの考えから、以下に参加要項からの抜粋を記載したいと思う。

~以下、抜粋~

<現象世界におけるエネルギー還元について>

私自身の経験上、覚醒を志向するときにはそれに見合うエネルギーを意識的に現象世界に還元・循環させることは必須となります。

具体的には、エネルギーの象徴としての金銭や人力等を日常のあらゆる場面でできるかぎり意識的に提供していくことです。

このときのポイントは「提供してあげている」という立場ではなく、「提供させていただいている」という感謝の感覚で行うことです。

なぜならそれは、すべて再び自身に戻ってくる還元の流れを意識的に利用させていただいているからです。

覚醒は現象世界のエネルギーを無視しては起こりません。

それは、壮大な時空の流れのなかで今この瞬間、創造の源との表裏一体の協力体制のもとに起こるのです。

突発的に見える一瞥体験も実は、過去に放ったエネルギーの循環のなかでの結果です。

最初は難しく考える必要はありません。

「自分にとって大切なものを受け取ったとき(受け取りたいとき)には、それに見合うエネルギーを感謝とともに現象世界へお返しする」と考えてください。

エネルギー還元(循環)が無意識のレベルまで癖づいてくると、瞑想や気づきの深まりとともに「その先」へ進むためにはどの方向のエネルギーがどのように還元されフィードバックされているのか具体的な意識の触覚を伴ってわかってきます。

~抜粋ここまで~


人によっては、これを読んで「なんだ、その辺の引き寄せ本で言ってることと大して変わらないし、そんなにデリケートな話なのか」と思うかもしれない。

しかし、いわゆる引き寄せの類と異なるのは、そこにエゴ感覚があるかないかなのだ。

ここが厳然たる覚悟を必要とする所以であり、その覚悟を一見の参加者さんへ問うことは、ともすれば宗教的な強要ととられる可能性があるのだ。

とはいえ、これもある時期から参加条件として「なぜ覚醒したいのか」を800字以上にまとめたレポートの提出をお願いするようになったことで、参加決定された方については覚悟とはいわないまでもエネルギー還元の意味についてお伝えしてよいかどうかを迷うことはなくなった。

ここで、なぜ長々と徳について語ったかというと、先日のワーク当日の朝に自宅の前でゴミ拾いをされている方を見かけたことを発端とし、会場へ向かう電車の中では遠くのほうからす~っとこちらへ引き寄せられてきた外国人観光客に道案内する機会が生じ、ワークではなぜかかなり早い時間に会場入りされた初参加の方がいて(開始時間を間違って記憶していたとのこと)、その場の流れで上記の参加要項の【現象世界におけるエネルギー還元について】の話題となったという一連の経緯があった。

この方は修験道の行者さんなのだが、ヴィパッサナー瞑想も経験されており、もともとカルマや徳についての理解はあったが「今回の参加要項を見て、意識的に善行に取り組んでみたことでその意味を再認し、慈悲の瞑想の理解にもつながっています」と報告された。

この方にはカルマや徳や善行といった言葉がそのまますっと入っていくので、具体的な因果応報の事例を交えてお話することができ、開始時間の記憶違いから起こったこの必然の時間が与えられたことを嬉しく思った。

「善行というのは、最初は意図的な劣善から始まっても、それがその人にとって必要な道であれば、ある時から自分で意図しなくても雪崩れのように徳を積む機会が向こうからやってくるようになるんですよ。その始まりの最初のサインは、電車に乗るとなぜか妊婦さんやお年寄りやご病気の方がす~っと引き寄せられるように自分の前に立つようになることですね」と言ったら、後から来たもう一人の僧侶の方と一緒にうんうんと頷きながら笑ってくれたのだった。

電車で


【一瞥体験と徳の枯渇】

一瞥体験というのは、往々にして過去世からの徳をその瞬間使い切ってしまうのです。 だからこそ、一瞥体験者はそこで気を抜かずに改めて徳を積み直す必要があるのです。

カルマと徳の理解のない一瞥体験者は、なぜその後同じ体験が起こらないのか、なぜ無明の苦しみに引き戻されるのか、体験の仕組みが理解できないまま、体験の記憶に執着し続けます。

もちろん、時空を超えたところではカルマも徳も幻想です。

しかし、その仕組みを知らなければ幻想も解けないのです。

徳の理解と運用には、実体験に基づく検証とセンスと直観力が必要です。

「公共のトイレを素手で磨けば運がよくなる」と聞き、仕組みはわからないけどなぜか気分がいいと喜んでいるレベルでは、いつまでたっても徳積みはブラックボックスのおまじないの域を出ません。


【徳積みのセンスと現報の果】

接心に参禅する時期になると、市場で生きた魚介類を見つけるたびにバケツごと買い取って近くの川や海に放流している行者がいた。

その行者は、生きとし生けるものへの慈悲から命を救う善行をなし、徳を積んでいると信じ至福感に浸っていた。

この行為は一見すると美談に見えるが、放流するのであれば魚介それぞれの生息地を詳細に調べ、それぞれに適応した水辺を探すか、自宅に水槽を用意したうえで引き取るべきだろう。

そうでなければ、逆に生態系を乱したり、生態系外の敵に捕食される可能性があるからだ。

とはいえ、即効的な現報という意味では、この行為が100%無意味というわけでもない。

少なくとも、その行為によって一時的にでも心が軽くなるのであれば、瞑想中になんらかの果はあるかもしれないのだ。

しかし、その楽果は限定的なものに留まり、やがて想定外の因は、巡り巡って行者へ返ってくるだろう。

そのとき行者は、返って来た原因不明の苦果に悩まされたとしても、その因果を解くことができない。

それ以前に、因果の連鎖を待つまでもなく、短絡的に善を強行する自身の性質に気づけないのであれば、その性質はそっくりそのまま瞑想の質に直結し、遅かれ早かれ瞑想は打ち止めになるだろう。

だから、徳積みにはセンスと直観力が必要だというのだ。

因果は全て瞑想の微細な領域にまで直結している。

微細になればなるほど、因果のベクトルを直観的に感知しなければ、知らぬ間に見当違いの方向へ逸れていってしまうのだ。

方向が逸れているかどうかは、意識のバランスの中心を知っている必要がある。

中心の空を知っていれば、そこから逸れるベクトルを瞬時に感知できるからだ。

デリケートな話になるが、ベクトルを見切る精度が極まれば、善行は世間一般の善悪や道徳や規律によっては図れないような行為へと促され、それに全託せざるを得なくなる。

全託者の行為は、凡夫から見ればもはや何の行動原理をもって成しているか意味不明になるだろう。

因果を折り重ねて直接行為する様は、脈絡のない儀式か魔術のように見えるかもしれない。
(拙著 『Rubin ~ルビン~-覚 醒- 認識の転換のために』 では、これを「覚醒へのフィードバック」という言葉で表現した)

全託が即、行為と一致するようになれば「善行」と呼ばれていたものは、相対的な「善」が剥がれて無為の「行」となる。

そこにはすでに、行する者は存在しない。

r.jpg
⇒ Amazon 販売ページはこちら


【聖なるエゴの麻酔と学習】

前述の覚者は、覚醒間もない頃には来るもの拒まずで早朝から深夜まで毎日、ありとあらゆる相談を受け付けていたという。

真っ新なハートは疑いを知らず、他者との境界がなかったのだ。

だがしばらくすると、それを聞きつけた心の弱い者たちが次々とやって来るようになり、一晩中電話をかけてきたり自傷をほのめかして呼びつけようとしたりするので、心身がすり減り、ついにはエネルギーが枯渇してしまった。

その経験を経てはじめて全託を問い直したところ「覚醒を伝える者の心構えと、それぞれのカルマとの中庸な距離」について学習させられていたことに気づいたそうだ。

このような経験は、今世ではじめて一瞥体験しハートセンターだけが暴走した場合に起こりがちだ。

自身のハートに従っているつもりが、そこに紛れ込んだ「聖なるエゴ」に酔ってしまうのだ。

最初のうちは酔いが麻酔となり、他者の痛みや依存をどんどん受け入れてしまうが、痛みに正直な心身は悲鳴をあげ始める。

なんらかの系譜に属していたり、絶対的なバクティが発動している場合は経験の意味に気づけるが、気づかない場合は往々にして「こんなにやってあげたのにわからないのか」と怒りはじめたり「やはり人間は救いようがない」と吐き捨て隠遁してしまったりする。

私自身は、昔からそういったパターンをたびたび目にしてきたことで、人の心の弱さと依存に対するスタンスは初期の頃から一貫していた。

以下は、先日出版した拙著『Rubin ~ルビン~ -ワーク実践篇-』のまえがきからの抜粋である。

~以下、抜粋~

また、ワーク参加にあたってはいくつかの参加条件を掲げています。

条件を目にして「覚醒は誰しも平等に起こり、誰をも平等に受け入れるべきではないか」と不快に思われる方がいらっしゃるであろうことも承知です。

ただ先にも述べたとおり、3次元の私がわたしとカチッと一致しないかぎり、私と肉体は癒着し続け「いつどの瞬間でも覚醒のポータルになる」という信は定まりません。

その意味で、肉体と癒着した段階において「自分自身を信じる」ためにはまず、3次元の人生において3次元の心身に自己納得していただきたいのです。

意識的であろうが無意識的であろうが、これを無視して覚醒の道をショートカットしようとしても、無視したレベルに「正確無比に」引き戻されることになります。

とはいえ、全てが完璧に整う必要はありません。

鍵となるのは、その人その人の「自己納得」なのですから。

~抜粋ここまで~


私の中には、人を「救う」という感覚はない。

もし「救う」人がいるならば、それは私自身が救われていないからだ。

それでも、時おり救いを求める人がやってくると、私の中の未浄化なものに気づかされる。

そのときは正直に上述のスタンスをお伝えし、それぞれの生の全うを信じることしかできない。

Rubin (5)
⇒ Amazon 販売ページはこちら


【阿闍梨と餓鬼】

霊力に優れた知己の阿闍梨は、大震災直後に施餓鬼会を行ったところ、かつて見たこともないほど無数の餓鬼が押し寄せてきたと語っていた。

震災で亡くなった方々への供養に乗じて、我も我もと救いを求めてきたのだという。

それはそれは凄まじい光景だったそうだが、押しつぶされそうになりながらもそれらの想念を丁寧に浄化していったそうだ。

これができるのは専門家の中でも選ばれた者のみだが、その供養も「救う」という意識では救われようとする想念の依存に巻き込まれてしまうのであって、自己を浄化しながら想念を「解いていく」ことが、本当の意味での成仏を促すのであろう。


【徳の自転車操業と信頼】

私は20代後半でピタッと前世からの徳を使い切った自覚があった。

それまでさんざん好き勝手なことをしてきて人様に迷惑をかけてきたので「もうここまでか」とそんな自分を見限っていたのだが、せめてこの私をダメにした自意識の正体だけでも見切ってやりたいという怒りにも近い想いだけはフツフツと湧き起こり続けていた。

だが、当時はそれを見切る術を知らなかったのだ。

そんなある日、学生の頃にフラッと立ち寄った本屋のことを思い出した。

ミニシアターでのバイト帰りに高田馬場駅前にあった本屋に立ち寄り、アート崩れの若造よろしく思想コーナーの「ユリイカ」を立ち読みしていたら、ふと隣のコーナーに目がいった。

30年前は精神世界というジャンルは手薄で、たしか認知心理学かなにかの並びだったように思う。(当時毛嫌いしていた宗教コーナーであれば完全に無視していただろう)

そこにあった心理学関係の様々なワークを紹介するムック本をなんとなく手に取り、パラパラめくっていると「ヴィパッサナー瞑想」という文字が飛び込んできた。

その時は「瞑想?ヴィパッサナー?なんだ宗教か」と思って閉じようとしたが、なぜか気になってその効果効能や体験談などをひととおり斜め読みしたのだった。

だが、その時はまだ20歳そこそこで自己表現への野心と希望に満ちており、瞑想にはまったく食指が動かなかった。

それから10年の月日がたったある日、突然その時の本屋の一角の映像と「ヴィパッサナー瞑想」という言葉がフラッシュしたのだ。

すぐにネット検索で引っ掛かった団体へメールし、2週間後には瞑想会へ参加していた。

「これを絶対にやらなくてはならない、絶対に」という異様な意志に突き動かされていたのだ。

私の徳は風前の灯だったが、ギリギリ残っていた最後の徳の燃え残りが、次の世界へと進ませてくれた。

瞑想を始めてからは、ギリギリの徳を使っては積み使っては積み、自転車操業で回していた。

はじめは徳やカルマや悟りなどという言葉すら知らなかったのが、瞑想と並行していくうちにそれらの意味を痛切に理解した。

「私には徳が足りないのだ、徳を積まなければここで終わりだ」

それが、前述の「深夜の公園」の徳積みの話につながっている。

徳のポイントゲッターというエゴが外れ、無心の行為を知るようになったある時、瞑想中にバチン!と音がするように全ての徳が一点に集中し「それ」が起こった。

ここで再び一瞬にして徳を使い切ってしまったが、昔と違ってこんどは現象世界で強制的に徳を積まされるカルマ的な怒涛の展開が起こっていった。

今思えば、完全に腐っていたあの時ギリギリ残っていた徳が作動したのは、絶望しながらもどこかで「それ」への信頼があったからだ。

それは、徳が尽きる前に徳が出会わせてくれた様々な出来事や人々の無条件の愛と慈悲への信頼が記憶の彼方に残っていたからなのだ。

私はよく、行き詰ってしまったと訴える人に対して「どんなに小さなことでもいいから自分が過去に受けた善意や一瞬の至福感を思い出してください。それはなぜこの自分に起こったと思いますか?」と問う。

そういったひとつひとつの瞬間を無視して嘆いていては信頼は育たないからだ。

この辺りは内観にもつながってくるが、自分は誰からも愛されない、不幸しかない、と思い込んでいても、生まれてこのかたほんの一瞬でも気持ちが軽くなった瞬間がなかったかどうか、自分の記憶を詳細に調べてほしい。

そこに一瞬でも至福があったなら、それへの信頼を取り戻していけるのだ。

ナイロン糸


【徳についての覚書き】

~Rubin's work Xより転載~

◆徳という言葉はエゴを強化しやすいのであまり使いたくはないのですが、ことに修行においてはカルマや徳が直接作用してきて、起こってくる現象の意味を解かないかぎり先に進むことはできません。
そこに気づけるか気づけないかは徳に左右されます。

◆エネルギーとして貯まるというよりも、瞬間瞬間の反応パターンが組み変わるんですよね。
その結果、エネルギーが変化して軽くなる。
徳という考え方は一長一短で、自分が徳の貯蔵庫であると考えるとエゴが肥大しますね。

◆善行の果を今生の自分が受け取るという保証はない。
「自分が受け取る」という自分がないとき、善行は善行としての目的を果たし、善が剥がれて行となる。

◆徳という概念は誤解を生みやすいのであまり使いたくないが、あえていえば一瞬のタイミングを全カルマの果として合わせられるかどうかが徳だ。
本気ならここは常に意識する。
リトリート前は断食必須で、復食期から入る。
能動的にタイミングを合わせるのは、見かけ上とはいえこの私なのだ。

◆徳っていうのは、優劣じゃないんだ。
徳は因果であって、すなわち時間の幻想なんだけどね。

◆「徳のポイント10倍還元セール」に群がる鬼の形相。

◆徳を知る者のみが、不徳を詫びられる。

◆得しようと思えばさもしい。
徳つもうと思えばさかしい。


花と手


関連記事 
⇒ 質疑応答 【禅とヴィパッサナーの相違と方便について】


※ワーク参加ご希望の方は、メルマガ登録をお願いします。
⇒ ご登録フォームはこちら



⇒ Rubin's work 主催 AYA プロフィールはこちら

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ 覚書き
【5/18(土)18:30~22:00 「東京ワーク参加募集」】   | #水平のワンネス/垂直のワンネス 【4/20(土) 東京ワーク ~所感と解説~】  

comment

コメントを送る。

URL:
Comment:
Pass:
Secret: 管理者にだけ表示を許可する