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【8/11(日) 東京ワーク】 ~所感と解説 その1~     

2019/08/16
8/11(日)東京にてワークを開催しました。

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【今回の主なメニュー】

・基礎的なエクササイズ(丹田呼吸と意識の関係 / 盆の窪の空間と脱力)
・基本姿勢のチェック(水平の軸と垂直の軸の中心にあること / 全身のバランス調整)
・3次元の立体感覚と位置と運動(地球・太陽・銀河系の自転・公転・方向・軌跡の実感)
・ハートの具体的な位置のポイント
・ハート活性化のための身体的エクササイズ
・現象面におけるハートの運動の軌跡(3次元的立体感覚と軸とハートを意識)
・水平の祈りと垂直の祈り
・3次元における祈りと形の関係性
・対象のない無心の祈りとは


*******************
【所感と解説】

今回はハートと祈りを中心にワークを行いました。


①ハートについて:

ハートは現象のすべての事象とメビウスの輪のように表裏一体につながっていて、3次元においては
無限に連なる膜のような面としてとらえられます。

現象面に連なる以前のハートと身体感覚が出会うポイントにおいては微細な振動と響きがあります。


ハートというと感情やフィーリングとともに閉じたり開いたりするようなイメージがあるかもしれませ
んが、本来の機能としては弦のように振動してあらゆる現象と触れるためのポータルとしてあるの
であり、感情やフィーリングと結びついて認識されるのは個人としての人間の思考や身体感覚に
基づいた二次的な感覚です。

純粋なハート自体は閉じたり開いたり溢れ出たり傷ついたりするようなものではなく、相対的な
振動と響きが無限の織物のように紡ぎだされ広がっていることに直接触れています。
(ハートと名付けられた言葉にともなう甘酸っぱさのようなフィーリングの弊害があるとも
言えますが…)


また、ハート単体では個別の現象を区別して認識したり判断することはできません。

触れている面はとぎれのない無限の膜が波打ちながら全体として変化し続けているようなところ
だからです。


今回は、まず各自の感覚から自身で思うところのハートの位置を示していただいたのですが、
人によって思いのほか差異がありました。

個人的には、ハートの位置(具体的な位置については拙著参考)というのは誰しも自然に知っている
ものなのではないかと予想していたのですが、大幅にズレてはいないにしろ、深さや上下の位置の
差にバラつきがあったのです。

この差は、ふだん現象世界で様々な事象に触れたとき、人生を通してどのように認識し味わって
きたかの積み重ねの差であり、よく言えば各自の個性ということになります。


純粋なハート自体の機能に触れるためには個が落ちていることが必要になるのですが、まずは
個別の身体を通した二次的な感覚から遡っていくために、各自の経験からくるハートの感覚について
聞いていったところ、「なんとなくじわじわする」「痛みを感じる」「ふわっとあたたかくなる」といった
応えがでたものの、ボキャブラリーとしても感覚としてもあまり具体的なものではありませんでした。

今回の参加者が男性だけだったこともあるかもしれませんが、なにかハートの琴線に肉体的に
触れる事象(例えば何かに感動して胸がいっぱいになる、悲惨なものを見て胸が張り裂けそうに痛む、
愛しいものに触れて胸が爆発しそうになる、他人の優しさに触れて感謝が溢れだす、後悔の念で胸が
チクチクする、不安で胸が押しつぶされる、等)が起こったとしても、それをハートの位置にとどめて
味わうことなく、すぐさま思考と概念に転化して理性を保とうとする傾向があるのかもしれません。

(誤解しないでいただきたいのは、今回の参加者さんがハートで何も感じていないということではなく、
感じているもののそれを「ハートの経験としてハッキリとは認識していなかった」ということです。)


まずは、感情と感覚と思考を切り離し、それぞれを単体で具体的に感じ取れるようになることが必要です。

そして、感情を切り捨て「無だ空だ」と先を急ぐ前に、人間としての感情を存分に味わい経験することが
必要です。

そうしなければ、その奥に潜むハートの純粋に響く場を見つけ出すための感性と直観が養われない
からです。


何かが「わかる」ということは、具体的な衝撃を伴って核心に「響く」ことです。

これは「腕にナイフを突き刺したら痛さで飛び上がる」のと同じぐらい具体的・衝撃的なものです。

この「響く」場は、人間として何をどう経験し味わってきたかということに自覚的でなければ
形成されません。

ぼんやりとした経験からなる感性は緩んだ弦のようなもので、弾いても響かないのです。

だから、覚醒や悟りを求めても結局、人生をあらためてやり直すことになる人が多いのです。

人間としての日常を馬鹿にしてはいけないということです。

日常の一挙手一投足すべての経験の中に鋭い感性と直観を養う鍵があるからです。


ただ、人間の経験は思考・感情・欲求など様々なレベルが混線し、ひとかたまりのものとして
粗く雑に認識されています。

そのため、いったん経験し味わいつくした後に、それらの混線を解きほぐしていく必要があります。

瞑想とはいわば、この「解きほぐしていく作業」そのものです。



②祈りについて:

祈りとはある意味、何はなくとも最も大事なものです。

通常「祈り」という言葉から連想するのは崇め奉る対象物(目に見えるものや見えないもの合わせて)
へ向う宗教的な儀礼や伝統的な形式、それにともなう感覚(畏怖や崇高さや願いや依存や安堵や法悦)
といったものではないでしょうか。

それに対しここでいう「祈り」とは、それらの形式的な型や、型にともなう意図の方向性や対象物へ
対する「想い」を超えて無心に「それ」としてあることへの「定点のない無限の放棄(放下)」のような
ものです。

それは、それ自身から起こったそれ自身としてのコミットメントです。


この純粋な祈りを知る前に、ワークでは一見遠回りのようでもまずは3次元の立体感覚と位置と運動
を体感するために、はじめに部屋の中心から正確に東西南北の方向を割り出したうえ、東向きに
直立していただきました。

次に、地球の自転方向と速度(北半球の東京の緯度において反時計回りに約380m/秒)、
地軸の傾き(23.4°の傾き・ワーク時は夏のため太陽方向へ傾いている)と太陽の位置(ワーク時は
夜だったので大雑把にいうと裏側)、公転の方向と速度(北半球からみて見かけ上、夜は西から東へ、
昼は東から西に約28km/秒)、太陽系の公転方向と速度(銀河の北極から見て時計回りに
約240km/秒・一周約2億年)、天の川銀河の中心(射手座A=ブラックホール?)の方向
(北半球で夏に見える星座の蠍座と射手座の間あたり ワーク時は右手側南上方向)、
天の川銀河(直径約10万光年)における太陽系の位置(中心から約2.8万光年)、天の川銀河
と太陽系の公転面の角度(銀河の北極からみて黄道面に対して進行方手前側へ60°の傾き)、
太陽系の公転軌道の軌跡(60°に傾いた螺旋の連続)を具体的に体感・イメージしていただきました。


つまり、いま東向きに直立しているとすると宇宙から俯瞰したときに私達は地球の表面にくっついた
まま380m/秒の速さで身体の前方方向へ回転移動しつつ(もちろん電車の中に立っているのと同じく、
自分自身はその場に止まっている感覚ですが)上記すべての自転公転の軌道の軌跡を(私たちの感覚
からすれば)猛スピードで描いていっているということです。

このことは、頭では理解していたかもしれませんが、実際に自身の身体と結びついた方向感覚と
運動感覚として実感をもってとらえる経験はこれまであまりなかったのではないでしょうか。


そのイメージをもった上で、その場で寝てみたり回転してみたり逆立ちや前転や後転してみたり
していただきました。

上記の自転公転の回転の軌跡に加えて自身が全方向へランダムに動いたとき、宇宙から俯瞰
してみれば全体が回転・移動しつつ局部で複雑な軌跡を描いているということになります。

ゆえに、例えば私がいま1ミリ指を動かすことも、壮大な運動と軌道のなかで起こった軌跡の
一部であるということです。

そのことはまた、私たちの身体・思考形態・自我形態・言語構造・時空感覚・脳機能すべてが
進化の過程で宇宙の物理法則にがっちりと組み込まれていることを意味します。

そんな途方もない構造の運動の中にあって、極小な私たちが「悟りだ解脱だ」といってその軌道から
外れることなど果たして可能なのでしょうか?
(3次元の物理法則の軌道と輪廻の円環は位相的に異なるものですが、強力な力の引き合いが時空
の展開を促すという構造においてはかなりリンクする点があります。)

単純に思考や身体を「切り捨てればよい」と考えることは、それ自体が非常に三次元的な発想であり
「ある/ない」の二元的な思考だということになります。


妄想の域を出ないかもしれませんが私は個人的に、釈迦が明けの明星(金星)という惑星を見た瞬間に
悟ったとされることを必然と感じ、壮大な構造を当時の人々に語ることの途方もなさに躊躇したという話
にしばしば思いを馳せることがあります。

(まったくの余談ですが、金星は太陽系で唯一、自転が逆回りなのは面白いですね。明確な理由は
未だ解明されていないそうです)


この3次元を運動と力と位置座標の中の点の集合体ととらえるとき、「私たちがあること」というのは
この次元の物理法則と運動の軌跡と一体化してありつつ「その瞬間に観察(認識)され切り取られた点」
であるということがいえます。

(ちなみにこの点の瞬間の位置が偶然なのか必然なのかという話は量子力学の領域になりますが、
量子力学的な観察視点の位置と確率論からみれば偶然、覚醒の視点からみればすべての点の可能性
が同時にあるところにおける必然の点のうちのひとつ、ということになります。
ここで注意したいのは、とかく覚醒というと上位の次元からの俯瞰視点と考えられがちですが、
3次元の私たちが物理的な意味で上位次元と呼んでいるものはあくまでも3次元からとらえた理論的な
次元なのであり、ましてや「5次元へのアセンション」といったような曖昧な夢想的イメージの世界へ
「気絶」することではありません。
5次元自体を否定するわけではありませんが、聞き伝えられたイメージを検証することなく盲目的
に気絶することは、いってみれば数を3つまでしか数えられない原始人が4つ以上を「たくさん」と
呼んで5、6、7、8…以上すべて、理解を超えた「神秘」の領域としてひとまとめにして偶像と置き
換え崇め心酔しているようなものなのです。
ただ、気絶していても偶像やイメージが集合意識下で呪術的に作用することが起こったりするので
話がややこしいのですが…。
これに対し、実際にひとつ上の次元を直観的に知るには視点の移動が必須です。
以前ちらっと書いたように眼球が2つならんで前方方向のみに視界がひろがっていることが
3次元的な自我を形成する最大の要因なのですが、この目の使い方をシフトする必要がある
ということです。
そのためには認識の座とサードアイと頭頂のポイントの3点の機能、さらには頭頂を超えた視点
を発動させることです。
ただし「自我を落とす」プロセス自体にはこれらの視点の獲得とシフトは必ずしも必要というわけ
ではなく、3次元的身体の目の意識のベクトルを転換させるだけでも起こりえます。)


ではなぜ上記の体感を再認識することが必要かというと、祈りが「起こる」ポータルとなる私たちの
心身は「ひとつであるところ」から、この3次元の物理法則の中で上下左右前後(上=頭頂 
下=尾てい骨および足底 左右=手足の可動域と耳の意識 前=目の方向と視界領域 
後=後頭部の非視界領域)に「展開」されているという前提があるからです。
(ダヴィンチの人体図が360°立体的になって回転しているようなイメージ)


今この現象世界で認識されている連続体としての私たちの心身は
「3次元における立体的な展開図」だということがいえます。

また、3次元における展開図には可視化できる身体だけでなく、拙著に書いたように
認識・現象・存在の各センターのポータルも縦に並んでいます。
(これは進化の過程で構造的に組み込まれたものです)

この「展開」が見かけ上の距離と差異を生み出します。

ところが私たちは3次元にあって脱却を夢見ながら、実は未だ3次元的立体感覚すら
獲得していないのです。

私たちは3次元的な球体とその運動の法則とともに展開された存在でありながら、普段は
2次元球面の表面に切り取られた限られた平面の上で直線的な意識で移動しています。

私たちの身体は地球の大きさに比べあまりにも小さいため、見かけ上の直線が実は大きな
曲線の運動の一部であることを忘れています。

単純にいえば普段私たちは地球が球体であることをほとんどの時間忘れていて、常に私という
定点から何かしら直線的時間における未来の目的の点に向かって直線的に志向し移動しつづけて
いるのです。


またこのとき、知識では地動説を当然知っていながらも「太陽が昇った/沈んだ」と言うように未だに
自らの定点からの感覚が言語構造を通して染みついており、決して「地球(私)が回った」とは言いません。

たまに飛行機や船に乗ったり時差を経験したり地球儀を見たり高いところや広いところに行ったりすると
球体であったことを思い出しますが、日常の目的に埋没すればすぐに忘れてしまいます。

この平面的な意識において、一般的に私たちは自分の身体が歩いたり呼吸をしたりといった基本的な
運動さえも、3次元の空間と身体という立体の中でどのようなメカニズムと力学で起こっているのかを明確
に説明することができません。


しかしこのような平面的な見方というのはある意味、身体の構造に組み込まれたものであり仕方がない
ものであるともいえます。

例えば目の機能を見たとき、網膜では2次元として画像の点を取り込みます。
いったん取り込んだ後に左右の目の見え方の差異や物体の肌理や影の向きなどを眼球の絶え間ない
移動運動とともに経験的に計算し脳内で奥行のある3次元に再編集したうえで自分の目の前の空間
にあるものとして認識します。
(そのためしばしば個人個人の見え方の差や錯覚や思い違いが生じます)

とはいえ、実は私たちは平面的な感覚だけで生きているわけではなく、様々な次元の感覚が
その時々に混在し、自我の定点の範囲内ながらも各センターの比重の変化とともに視点の移動も
起こります。

しかしその混在を明確に意識することなく、ざっくりとこの世界を各自の主観的な意識から
「3次元」と呼んでいるのです。


*************

~所感と解説 その2~ へ続きます。



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