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【8/11(日)東京ワーク】 ~所感と解説 その2~     

2019/08/16
~所感と解説 その1~ からの続きです。


***************
さて、前提が長くなりましたがここからが祈りの本題です。

以上の3次元的な運動と軌道と一体化した心身の構造をふまえて、最初に参加者さん各自の思うところの
祈りの「型」を見せていただきました。

今回の参加者さんは「手を組んで上へ向って祈る型」「胸の前で合掌して頭を垂れる型」「跪いて肘から先
と額を地面につけて拝礼する型」に分かれましたが、日本人に刷り込まれた型として神社や寺で
お参りするときに合掌して頭を垂れる形は参加者さん全員に自然にフィットしている様子でした。


他に、古今東西の祈りの型のバリエーションとして

胸の前で手を組み頭を垂れる/ 胸の前で手を組み額を斜め上方向へ向け放心する/ 額の前で手を組む/
額の前で合掌する/ 頭の上で合掌する/ 手を水平に広げる/ 手を広げて上を見る/ 両手を上にあげて
上を見る/ 手を広げて回転する/ 額を床につけて土下座する/ 五体投地/ 聖地の方向へ向って土下座し
手と額を床につける/ 敬礼する/ 

等があげられました。


次に、先の宇宙の運動と軌道の意識を保ったまま直立して水平方向・垂直方向それぞれに向かって
平泳ぎのような手の動きをしていただきました。

このとき、下方の重力と足底から頭頂へと貫く垂直方向の軸と左右の耳から広げた手の先端へと
つながる水平方向の広がりを意識しつつハートの中心から解き放つように平泳ぎの腕の動きを
繰り出していきました。


この垂直方向と水平方向の腕の動きを繰り返しているとき気づくのは、動きの軌跡の中に参加者さん
の型と上記の祈りのバリエーションの型のほとんどすべての形の原型が含まれているということです。
(実際にやってみればすぐにわかります)

型というのは意識がどこにあるか(どの対象物に向かってどのような位置から祈っているか)を
顕します。

伝統的に固有の型で祈るというのは、その型であるための必然があるということです。

型のひとつひとつにカチっとはまってみると、その型にともなう固有の生理機能の感覚や自分という
定点の位置や祈りの対象の位置と関係性や気の動きといったものがわかります。


例えばキリスト教の組手と神道の合掌の手を比べたとき、自身の内部の空間と定点の違いが
感じられます。

また様々な祈りにおいて、頭の位置がどこにあるかというのも生理機能の具体的な差として
顕れます。

(例えば、単純にグーチョキパーのグーの形で握るときに親指を下にするか上にするかで気の
通りが変わり、下にしたときは暖かく感じ、上にしたときは涼しく感じるのは型と生理機能の関係
のわかりやすい例です)


もちろん伝統的な宗教においては単純に型だけを取り出してすべてを理解できるわけではなく、
その背後の儀礼や歴史や集合意識の形態場のようなものも含んだ厳かなものであるのですが、
今、宇宙という大きな運動と軌跡の中で型を感じとったとき、それぞれの成り立ちの必然(なぜ
その位置に手があるか、なぜ頭がその角度なのか、など)が見えてきます。

それらはすべてつながった一連の動きの軌跡の中の意識と身体のバリエーションなのです。


これをふまえたうえで、先の平泳ぎの軌道がハートの中心まできたときに動きを止めてもらい
(この段階では胸の前で合掌の形で頭が自然に下に垂れています)その意識を保ったまま座って
壁にもたれかかり、手を脱力して顎をあげて盆の窪をゆるめて口をぽかんと開けて型を忘れた放心
状態を体験していただきました。

このとき、頑張って自立して立っていようとしたり型を保とうとしたり何かの対象へ向おうとする意識
をすべて捨ててひたすら脱力・放心します。
(この状態で意識がホワイトアウトしてもかまいません)

壁に寄り掛かっているというわずかな依存はありますが、この状態が対象物をもたない無心の
祈りの「(形のない)原型」となります。


これは、やみくもに脱力・放心して止まっていればよいというものではなく、あくまでも大きな軌跡の
中のなかで起こることであり、ハートの中心で意図を手放し続けている状態です。

この「原型」が起こることが、それ自体からのコミットメントであるということです。


その先の微細な瞑想においては、型にはまりつつ型を忘れ、どこにも寄りかからずに自立してあること
の中で瞑想と祈りが自動的に発動している状態となります。

拙著に書いたとおり、この「祈り」が最終的にストッパーを外しその先へ連れていってくれる鍵
となるのです。


ワークの最後に、この無心の祈りの状態のまま自然に立っていただき、胸の前で手をパンっと打って
みていただきました。

神社でお祈りするときにはご神体の鏡に向かって響くように柏手を打ちますが、このときは対象へ
向って打つのではなく、自分自身の中心に響かせてもらったのです。

この響きは「それ」自身だからです。


以上の解説で地球や宇宙といった話がでてきましたが、これはマザーアースをイメージしたりガイア
理論のようなものや物理的な宇宙と一体化しようといった話ではなく、純粋に今の意識がフォーカス
している3次元モデル内で運動と力の実感をまずは自分自身の心身として取戻し、3次元的な
立体感覚を獲得したうえで自身を俯瞰し、あらためて瞑想に取りかかろうということです。

なぜなら壮大な宇宙とどの次元で合一したとしてもそれは一瞬に切り取られ観察された点に
すぎないからです。

体験されたものは対象化されたものであり、それはその次元における一瞬の夢です。


******************

以下、参加者様よりいただいた感想と質疑応答をシェアさせていただきます。


エネルギー的にはどのような状態であっても、丹田の感覚(定点)を常に意識していることが実際に
実感できました。姿勢のワークの際に、いつもながらエネルギーが上下通って意識が一旦そちらに
持っていかれた際に、丹田に意識を戻すことでエネルギーの感覚(いつも頭で見て、全身で感じて
いたもの)が一旦無くなりましたが、それでも丹田意識とともにエネルギーの微妙な感覚がうっすら
残っている状態を実感しました。
なかなか日常の中では丹田やエネルギーのことも忘れ気絶している状態が長く継続したりしますが、
ふと思い出す頻度が増えてきたように感じます。



エネルギー感覚は「あってもなくてもよい」と完全に割り切ることが重要です。

エネルギー感覚を残しておきたい、心地よさに浸りたい、という欲求(意図)が生じる瞬間に
気づいてください。

丹田に意識を置いておくというのは「置いておくこと」が自動化するまでは意図的に行う
必要があります。

自動化した後は、エネルギーが昇っても「自分」が移動せずにただ見ていることができるよう
になります。

そのときはじめて、「中心のない集中と拡散」という意識状態ですべてを見ることができるのです。

「中心のない集中と拡散」の状態は、自我のあるまま表面的な意識で3次元的空間にエネルギー
が拡がっていくことにふわっと気絶することとは違います。

ふと思い出す頻度が増えてきたら、そのたびに軸と丹田の意識を一瞬でよいので確認し、
そこに意識を収めます。


ハートのワークと祈りの部分については正直、よく分かりませんでした。
ハートの位置はわかったと思いますが、いつもエネルギー感覚を通じての認識がほとんど
だったので、背中側のハートの部分に「これだ」という感覚がなかったことが理由だと思います。
祈りの姿勢で自然とハート部分が盛り上がる?(後ろに引っ張られる感覚)は理解しました。



現象面(水平感覚)を無視したまま先に進もうとすると、必ず後々、現象に足をひっぱられて
引き戻されます。

水平と垂直の中心に自己を放棄し無心にあろうとすることは「それ」における純粋な帰依と祈りです。

なぜなら、それはすべての運動と力とエネルギーと法則に逆らわずに何が起きても「それ」としてある、
という宣誓だからです。

ワーク(惑星の動きと身体の動きの関係)で行ったように、3次元としての物理法則の中で「この私」
が今こうして在ることのダイナミックな感覚を具体的に呼び起こし、日常の平面的に埋没した意識を
抜け出して立体的な意識にシフトしなければ次の次元のことはわかりません。

日常で何らかの出来事がハートに触れることがあったら、胸の表面の感覚は感じられるとのこと
でしたので、その感覚を「置いておく」ように感じつつ、もう一歩奥につながっている(吸い込まれている)
場所がないかどうか観察してみてください。

この場所に意識がフォーカスされるときには、丹田が内側から膨らんで骨盤が押し出されるときと
似ていて、胸の中心から肋骨が押し広げられるようにストレッチされる感覚がするはずです。
(何かに感動して胸がいっぱいになるときの感覚にも近いですが、それよりも背骨側の後ろ斜め
上方向へひっぱられている感覚です)

○○さんの場合、ワークで指摘しましたように、ハートの位置の後ろ側の背骨の数本がへこんで
「抜けている」ような感じで活性化されていなかったので、次の機会にそちらを具体的に意識できる
ように指示できればと思います。

ハートが肉体と連動して現象面で機能するときには、3次元の人間としては自己や感情や思考と
結びついた後に認識されることがほとんどです。

それは純粋な機能から見ると、別々の機能が曖昧に混線している状態のように感じられます。

まずは感情やフィーリングと結びついたレベルでよいので、日常で具体的に様々な現象がどのよう
にハートに「触れて」いてどのような感覚がどのように響いているのかをつぶさに観察し、無意識化
されていた感性を取り戻すことが必要です。

これも常に、エネルギー感覚に気絶するのではなく、具体的に現象の次元で起こることとして
(内側を見る目で)観察します。

ハートの観察に加えて、ワークで行った無心の祈り(壁に寄り掛かったときの)に日常で思い出すたびに
一瞬でよいのでカチっと収まる瞬間を増やしていっていただければと思います。




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